日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

The Nanking Massacre/Masakra nankińska/Σφαγή της Ναντσίνγκ=昭和天皇・三笠宮殿下・右翼と軍人、行政機関の証言集=「知らぬは日本臣民(国民)ばかり」

『岡村寧次大将資料』より


 「第四編 武漢攻略前後」


 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟


 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、 大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。


 それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、 それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、 それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。


 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。


一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。


 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。


一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。


一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、 十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。
わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。

 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。


 (『岡村寧次大将資料』(上) P290~P291)


『真崎甚三郎日記』より


(一九三八年)一月二十八日 金 晴


九時より約一時間散歩。


 十一時江藤君来訪、北支及上海方面の視察談を聞く。同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、今回も主なる責任者の談を交 へて研究せり。従て同君の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。


(『真崎甚三郎日記 昭和十一年七月~昭和十三年十二月』 P263)


四月一日 金 晴


 塚原君四時半に来訪、予を伴ひ共に築地四丁目藍亭に至る。上海毎日新聞社長深町君を主賓として其の談を聞けり。会する者小寺、米田、森及勝次なり。 別に耳新しきことあらざるも軍の不統一、掠奪強姦の例、支那が降伏せざること等に関する談話なりし。十一時に米田、森等と共に帰宅す。十二時まで語る。
 (同 P291~P292)


『陸軍大将 畑俊六日誌』より


 昭和十三年二月十四日 中支那派遣軍司令官


一月二十九日


 本日より二月六日まで第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察の為北海道、弘前地方に出張。


 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。


 此意見を大臣に進言致しをきたるが、出張前大臣に面会、西尾、梅津両中将を南北軍司令官たらしむるを可とする意見を申述べ出張したる処、意外にも二月五日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、 それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、とにかく帰京の上とし六日朝上野に帰着したる処、 中島参本総務部長駅にて待合せ本部長の来信の如き意味を伝へ、次で大臣より面会したしとのことにその足にて官邸に至り大臣に面会したるに、大臣より上述の如き申出あり。


 上海は方面軍と二軍司令部との折合兎角面白からず、此際現役者を以て交代せしむるを適当とすべく、又海軍の長谷川中将には古荘より先任なれば大将を以てしたり。


 小磯は大臣が推薦したる処外へ出すことは参謀本部側にて到底承諾せず、中村は病気なり。又あまり細かすぎ適任ならず。結局余の外なければ行て貰ひたしとのことに考慮を約して辞去したり。


 (みすず書房『続・現代史資料4 陸軍(畑俊六日誌)』 P120-P121)



児玉誉士夫随想・対談「われ かく戦えり」より


 満州でも蒙古でも日本人の進出するところ必ず派閥が伴ない、お互いがいがみ合っていた。戦乱の北支と内蒙を旅して感じたことは、日支事変にたいする本質的な矛盾と疑問だった。ことに驚かされたのはいたるところの戦場に奮戦する中国軍の頑強さと抗日思想の激しさであった。


 それに比較して日本軍幹部の堕落と、兵の素質の低下は全く意外であった。もちろん、まだ全般的にはそうではなかったが、特務機関とか謀略参謀の職責にある人々の日常は、皇軍の崇高な精神をまったく忘却したものであった。機密費の乱費、酒と女、こうした暗い影が占領地都市のいたるところにみられた。


 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。

 そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。


  当時、大同では「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁には「何年何月何部隊占領」などと落書してあった。


 人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。


 満州事変以来、国防国家の確立に名をかりて政治権力を獲得することに狂奔してきた軍の首脳部は、部下にたいする統御力をしだいに失ってきていた。陸軍大臣が中央にあったロボット化されていたと同様に、軍首脳部もまた現地軍を統御できなかった。そして現地軍の幹部は将校、兵士の非行を取締まるには、あまりにもその行いは威厳を失墜するものがあった。


 要するに軍部内に革新派が生まれ、首脳部がそれを政治的に利用し、政治的に進出するにつれて下剋上の思想は軍全体に漲ってきたのだった。いわば当初国内政治を革新することを目的とした、少数の下級将校の行動は知らぬ間に軍自体の規律を破壊し、日本軍を思想的に崩壊される結果となった。軍部内の下剋上のこの思想が結局日支事変を誘発し、そして現地における不規律を助長するようになったといえる。


 要するに戦線の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかも知れぬ。自分は戦場を旅し、大陸における実情を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。


 しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得たとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。


 そして、この軍国主義の怒涛は、昭和四、五年以来、政党不信をスローガンに、国民大衆が挙げた革新の叫びとその雰囲気のなかから生まれでているとすれば、そして自分もまたその革新勢力のなかの一つの勢力であった右翼派の一つとして行動してきたことを思うと、支那大陸に野火のように拡がって行く軍国主義日本の現実をみて、自らも悔いねばならぬもののあることを知った。


 (「われ かく戦えり」 P78~P80)



矢吹一夫『政変昭和秘史』(上)より


 事実、当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だがお目にかけよう、と言って分厚い数冊の写真帳を貸してくれたので、開いて見たら、暴行の限りを尽くした写真が一杯である。


 ストリップ写真に食傷している現代人が見ても、ぎょっとするようなエロ・グロ写真、そして、血刀を差し上げている一兵士の周囲に、数十個の中国兵の首級が並べられているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で、切断した男根を口に挿し込んだものとか、いまやまさにエイッと中国兵の首を打ち落とそうとしている瞬間のものだとか、筆紙に尽くしがたい残虐写真が満載されていた。


 私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午に開かれる国策研究会常任理事会に持ち込んで、皆さん、食事が済んだら大変な写真をお目にかける、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、珍しいものなら、食前でもよいから見せろ、といって聞かない。


 私が、食事が不味くなる、と言うのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、と言うので、では、と言って写真帳を開いた。一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううん、と唸ったきり、しばらくは一言も発するものもない。


 これらの写真は、小野次官の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇(?)を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。


 日本民族に潜在する残虐性が、戦場という異常状態に触発されて暴発したものであるにせよ、あまりにも無惨であり、ひどすぎるという慨嘆の声である。(P398)


 かつて外国人によって書かれた「奉天二十年」に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたのと同じ日本人、しかも私共の父祖の時代との対比であるだけに、驚きは大きく、とくに下村海南は、日露戦争当時、逓信省郵政局長として活躍した人物だけに、痛恨の情はひとしおだったようだ。


 終戦後のこと、この問題に関連するのだが、支那派遣軍最高司令官だった岡村寧次陸軍大将は、引き揚げて帰国後、戦時中日本軍兵士が中国大陸で犯した残虐事件について、数多くの資料を持っていること、 日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が誤っていたのではなかろうか、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造というか、人格の練り直しをはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、と大きな袋をかつぎ込んで相談にやって来たことがある。


  私ももちろん同感であったのだが、この頃の私は、いわゆる「追放中」の身分であるのみならず、米ソ両国の検事団によって、厳しい取調べを受けていたので、どうすることも出来ぬ立場であった。(P398-399)



徳川義寛「侍従長の遺言」より


 昭和十二年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・。私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。


 それに、南京攻略の総大将松井石根さんは名古屋の人で、私の母(徳川寛子)が松井さんの奥さんをよく知っていましたし、私の父(義恕)は名古屋の軍人の会の会長をしていましたから。


 松井さんは中国の勤務が長く、南京攻略後、「相手の死者も浮かばれまい」と、現地で日中両方の死者の慰霊祭をやろうとした。ところが、下の師団長クラスの連中に笑われ反対されたということでした。みな、「戦争なんだからそういうこともあっても・・・」といった感じだったそうです。


 松井さんは日露戦争も経験していたから、日本の捕虜の扱いが日露の頃は丁重だったことをよく知っていた。しかし、南京では、上の言うことを下が聞かず、軍紀の抑えがきかなくなっていた。それで松井さんは後に熱海に興亜観音を造った。松井さんは立派だったと思いますね。


 南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが折に触れて「日露戦争の時の軍と違うということはおっしゃっていました。明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたから。


 (「侍従長の遺言」 P38~P39)


「最後の殿様―徳川義親自伝」より


 十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。


(中略)


 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかというようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。


 藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。


 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、


「人を殺すのはこうするんじゃ」


と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。


 長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、


「長、その話だけはだれにもするなよ」


と厳重に口どめしたという。


 (「最後の殿様」P170~P173)



三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 


 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。


三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。


 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう


 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。


 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。


 (「THIS IS 読売」1994年8月号 P54~P56)


どうでしょう?これら。全部「でっちあげ」「インチキ」「中国共産帝国主義の偽造・陰謀」「コミンテルン・アメリカも丸め込んだ諜報・反日かく乱」(田神母だっけ?「自衛隊最高指揮官?」アメリカ作成のドキュメンタリーで堂々と語ってました=何とか’賞’獲得=推薦者渡部昇一「博士?」「教授?」(-_-;


畏れ多くも陛下及び「宮さま」の発言ですよ・・・さぞ「病床」で「マロを侮辱しおって」と激怒なさることでしょう~♪Maybe Maybe そんな勇気はない~♪(^_-☆ 2016/10

















Tiếng Việtベトナム語→Thảm sát Nam Kinh, cũng thường được gọi là vụ "Cưỡng hiếp Nam Kinh", là một tội ác chiến tranh do quân đội Nhật Bản tiến hành bên trong và xung quanh Nam Kinh, Trung Quốc sau khi thành phố này rơi vào tay Quân đội Thiên hoàng Nhật Bản ngày 13 tháng 12 năm 1937. Thời gian diễn ra cuộc thảm sát vẫn chưa được biết rõ, dù bạo lực đã kết thúc trong vòng sáu tuần, cho tới đầu tháng 2 năm 1938. Trong khi chiếm đóng Nam Kinh, quân đội Nhật Bản đã thực hiện nhiều hành động tàn ác như hãm hiếp, cướp bóc, đốt phá và hành quyết tù binh chiến tranh cũng như thường dân. Tuy những vụ hành quyết diễn ra trong bối cảnh nhiều binh lính Trung Quốc giả dạng làm thường dân, một số lớn dân thường vô tội đã bị quy là các chiến binh địch và bị giết hại, hay đơn giản bị giết ở bất kỳ hoàn cảnh nào có thể. Một số lớn phụ nữ và trẻ em cũng bị giết hại, khi những vụ hãm hiếp và giết người ngày càng lan rộng ở cả những vùng ngoại ô Nam Kinh. Con số thương vong cụ thể là một chủ đề được bàn cãi hết sức gay gắt giữa các nhà nghiên cứu. Các ước tính từ 40.000 lên đến 300.000 người. Con số 300.000 người lần đầu tiên được Harold Timperly, một nhà báo tại Trung Hoa trong thời gian này đưa ra vào tháng 1 năm 1938. Con số này có lẽ bao gồm cả những người bị thảm sát ở những vùng xung quanh thành phố Nam Kinh trong thời gian chiếm đóng của Nhật Bản. Các ước tính khác đến từ tuyên bố của Quân đội Thiên hoàng Nhật Bản tại Tòa án Quân sự Quốc tế vùng Viễn Đông rằng số người chết đều là binh sĩ và rằng những hành động hung bạo như vậy không hề xảy ra, cho tới lời kể của những nhân chứng phương Tây tại Tòa án Quân sự Quốc tế vùng Viễn Đông, những người đã tận mắt chứng kiến những thường dân bị giết hại và những phụ nữ bị hãm hiếp bởi binh sĩ Nhật Bản, cho tới tuyên bố của Trung Quốc cho rằng số lượng người không phải là binh lính thiệt mạng lên tới 300.000. Nhiều người thiên về tin con số thương vong cao một phần bởi vì có nhiều bằng chứng phim ảnh về những thân thể phụ nữ, trẻ em bị chém giết, cũng như thành công thương mại của cuốn sách vụ Cưỡng hiếp Nam Kinh của Iris Chang, một lần nữa thu hút sự chú ý của mọi người tới sự kiện. Ngoài số lượng nạn nhân, một số nhà phê bình Nhật Bản thậm chí đã tranh luận về việc liệu vụ thảm sát có thực sự xảy ra. Trong khi Chính phủ Nhật Bản đã thừa nhận vụ việc thật sự đã xảy ra, những người cực đoan đã trưng ra lý lẽ của mình bắt đầu bằng những tuyên bố của Quân đội Thiên hoàng tại Toà án Quân sự Quốc tế vùng Viễn Đông rằng số người chết đều thuộc quân đội và những hành động thù địch với dân thường không hề xảy ra. Tuy nhiên, một số lượng khổng lồ các bằng chứng đã chống lại luận điểm đó. Sự tồn tại của vụ việc đã nhiều lần được khẳng định thông qua những lời tuyên bố của các chứng nhân phương Tây tại Toà án Quân sự Quốc tế vùng Viễn Đông cũng như của những người đã tận mắt chứng kiến các thường dân bị thảm sát và phụ nữ bị binh lính Nhật hãm hiếp. Nhiều bộ sưu tập ảnh về các xác chết phụ nữ và trẻ em Trung Quốc hiện cũng đang tồn tại. Những tìm kiếm khảo cổ học gần đây càng ủng hộ lý lẽ về sự thực của vụ thảm sát. Việc lên án vụ thảm sát là một vấn đề trọng tâm của chủ nghĩa Quốc gia Trung Quốc đang bắt đầu phát triển. Tuy nhiên, tại Nhật Bản ý kiến công chúng về sự thảm khốc của cuộc thảm sát vẫn còn chia rẽ – điều này được minh chứng qua sự thực rằng trong khi một số nhà bình luận Nhật Bản gọi nó là vụ 'Tàn sát Nam Kinh' (南京大虐殺, Nankin daigyakusatsu), những người khác lại sử dụng một thuật ngữ mềm mại hơn vụ 'Sự kiện Nam Kinh' (南京事件, Nankin jiken). Sự kiện tiếp tục là một trong tâm chú ý và ranh cãi trong quan hệ Trung Quốc – Nhật Bản.
Afrikaansアフリカーンス⇒Die Bloedbad van Nanjing of Nanjing-bloedbad (Vereenvoudigde Chinees: 南京 大 屠杀; Tradisionele Chinees: 南京 大 屠殺; Pinyin: Nánjīng dà túshā) is 'n grootskaalse massamoord wat die Japannese Imperiale Leër tydens die Tweede Sino-Japannese Oorlog gepleeg het. Die massamoord het begin nadat die Japannese die destydse Chinese hoofstad Nanjing (voorheen ook bekend as Nanking) oorgeneem het op 13 Desember 1937, na 'n beleg. Die gebeurtenis staan ook bekend as die "verkragting van Nanjing". Dit is moeilik om 'n einde aan te dui, maar die slagting is ten minste tot die begin Februarie 1938 voortgesit. Tydens die besetting van Nanjing het die Japannese keiserlike leër talle misdade gepleeg soos verkragtings, plundering, brandstigting en moord op gevangenes en burgerlikes. Alhoewel die teregstellings begin het met die verskoning om Chinese soldate wat as burgerlikes geklee was, uit te skakel, was daar baie slagoffers onder die burgerlikebevolking. Baie mans is doelbewus verkeerd geïdentifiseer as soldate, en sodra die moorde begin het, is mense lukraak doodgemaak. As gevolg daarvan het talle vroue en kinders slagoffers geword. Die onderwerp self en die skaal waarop die moorde plaasgevind het, is steeds die onderwerp van 'n hewige debat tussen Japan en die Volksrepubliek van China. In China word die aantal burgerlike slagoffers geskat op 300 000.[1] Japannese ramings wissel van 100 000 tot 200 000.[2] Party ekstremiste beweer selfs dat slegs 'n paar honderd burgerlikes vermoor is of dat geen bloedbad plaasgevind het nie.[3] Oor die algemeen erken die Westerse lande die skatting van 300 000 sterftes.[4] Dit is deels te wyte aan ooggetuie verslae en bewaarde fotos en argeologiese navorsing. Op grond hiervan het die Tokio-proses die massamoord as bewys beskou. Die sukses van Iris Chang se "Rape of Nanking" het die bewussyn van die bloedbad in die Weste versterk en die skatting van 300 000 sterftes. Besprekings oor die massamoord veroorsaak steeds spanning in die verhouding tussen Japan en China.
Ελληνικάギリシャ語→Η Σφαγή της Ναντσίνγκ, επίσης γνωστή ως Βιασμός της Νανκίνγκ, ήταν μια μαζική δολοφονία, γενοκτονία και πολεμικοί βιασμοί που έλαβαν χώρα κατά την περίοδο των έξι εβδομάδων μετά την ιαπωνική άλωση της πόλης της Ναντσίνγκ, την πρώην πρωτεύουσα της Δημοκρατίας της Κίνας, στις 13 Δεκεμβρίου 1937 κατά τη διάρκεια του δεύτερου Σινοιαπωνικού πόλεμου. Κατά την περίοδο αυτή εκατοντάδες χιλιάδες Κινέζοι πολίτες και αφοπλισμένοι στρατιώτες δολοφονήθηκαν και 20.000-80.000 άνδρες, γυναίκες και παιδιά βιάστηκαν[2] από στρατιώτες του Αυτοκρατορικού Ιαπωνικού Στρατού.[3][4][5]
Το γεγονός παραμένει ένα αμφιλεγόμενο πολιτικό ζήτημα, καθώς οι διάφορες πτυχές του έχουν αμφισβητηθεί από κάποιους ιστορικούς ρεβιζιονιστές και Ιάπωνες εθνικιστές,[4] οι οποίοι έχουν ισχυριστεί ότι η σφαγή είτε μεγαλοποιήθηκε είτε έχει εξ ολοκλήρου παραχθεί για λόγους προπαγάνδας. Ως αποτέλεσμα των εθνικιστικών προσπαθειών για άρνηση ή εξορθολογισμό των εγκλημάτων πολέμου, η διαμάχη γύρω από τη σφαγή παραμένει ένα εμπόδιο στις σινο-ιαπωνικές σχέσεις, καθώς και τις ιαπωνικές σχέσεις με τα άλλα κράτη στην Ασία και τον Ειρηνικό, όπως τη Νότια Κορέα και τις Φιλιππίνες. Μια ακριβής εκτίμηση για τον αριθμό των νεκρών στη σφαγή δεν επιτεύχθηκε, επειδή τα περισσότερα από τα ιαπωνικά στρατιωτικά αρχεία σχετικά με τις δολοφονίες έχουν σκόπιμα καταστραφεί ή παρέμειναν απόρρητα λίγο μετά την παράδοση της Ιαπωνίας το 1945. Το Διεθνές Στρατιωτικό Δικαστήριο της Άπω Ανατολής εκτιμά πάνω από 200.000 θύματα στο συμβάν[6], η επίσημη εκτίμηση της Κίνας είναι περίπου 300.000 θύματα, με βάση την αξιολόγηση του Δικαστηρίου Εγκλημάτων Πολέμου στην Ναντσίγκ. Οι εκτιμήσεις από Ιάπωνες ιστορικούς διαφέρουν σε μεγάλο βαθμό, στην περιοχή της 40.000-200.000. Μερικοί ιστορικοί ρεβιζιονιστές αρνούνται ακόμη και ότι συνέβη μια εκτεταμένη και συστηματική σφαγή, υποστηρίζοντας ότι οποιοιδήποτε θάνατοι είτε ήταν δικαιολογημένοι στρατιωτικά ατυχήματα είτε ήταν μεμονωμένα περιστατικά μη εξουσιοδοτημένης αγριότητας. Αυτοί οι αρνητές ισχυρίζονται ότι ο χαρακτηρισμός του συμβάντος ως μια μεγάλης κλίμακας συστηματική σφαγή ήταν κατασκευασμένη για το σκοπό της πολιτικής προπαγάνδας.[7][8] Αν και η ιαπωνική κυβέρνηση έχει παραδεχθεί τις πράξεις της θανάτωσης ενός μεγάλου αριθμού αμάχων, λεηλασίες και άλλες βίαιες πράξεις που διαπράχθηκαν από τον Αυτοκρατορικό Ιαπωνικό Στρατό μετά την πτώση της Ναντσίνγκ,[9][10] ορισμένοι Ιάπωνες αξιωματούχοι έχουν υποστηρίξει ότι ο αριθμός των νεκρών ήταν στρατιωτικός στη φύση του και ότι κανένα τέτοιο έγκλημα δεν συνέβη ποτέ. Η άρνηση της σφαγής (και μια διαφορετική σειρά από ρεβιζιονιστικούς λογαριασμούς θανάτων) έχει γίνει μια βάση του ιαπωνικού εθνικισμού.[11] Στην Ιαπωνία, η κοινή γνώμη από τις σφαγές ποικίλλει, και λίγοι αρνούνται εντελώς την ύπαρξη της σφαγής .[11] Παρ' όλα αυτά, επαναλαμβανόμενες απόπειρες αρνητών να προωθήσουν μια αναθεωρητική ιστορία του συμβάντος έχουν δημιουργήσει διαμάχη που περιοδικά αντηχεί στα διεθνή μέσα ενημέρωσης, ιδίως στην Κίνα, τη Νότια Κορέα και άλλες χώρες της Ανατολικής Ασίας.[12]

Polskiポーランド語⇒Masakra nankińska (chiń. 南京大屠杀), znana także jako gwałt nankiński (ang. Nanking rape) – masakra ludności chińskiej w Nankinie (ówczesnej stolicy Republiki Chińskiej, rządzonej przez Kuomintang) w grudniu 1937 i styczniu 1938. Masakry dopuściła się Cesarska Armia Japońska, pod dowództwem generała Iwane Matsui. Była to jedna z największych zbrodni ludobójstwa, dokonanych przez wojska japońskie. Przypuszcza się, że śmierć poniosło wówczas od 50 tys.[1] do 400 tys. osób[2].












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