日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Route vers la démocratisation de la Corée/Road to Democratization of Korea/한국 민주화의 길/韓国民主化への道・Di-Myonkuwan지명관池 明観④


女工たちの戦い
1970年代は韓国の労働運動が盛り上がった時期であった。やがてそれは民主化運動と連帯して行った。70年代後半において労働運動の「神話」をつくり上げたといわれるものは、主に女子労働者たちの戦いであった。東一紡織工場、YH貿易における労働運動は、民主化運動に決定的な影響を与えた。
東一紡織仁川工場では、76年7月、組合支部長が反組織の会社側の男たちによって暴行を加えられた。間髪置かず、警察は被害を受けた支部長を連行し、男たちによって組織された御用組合を認定した。これに抵抗する女子労働者200余名が寮のなかに閉じこめられた。しかし窓を押し破って出てきた彼女たちは労働事務所で籠城した。300名から500名が交替で24時間戦い続けた。
7月25日の午後のことであった。警察が籠城中の400名余の女子労働者を包囲して5分以内に投降するようにと命じた。そこで女子労働者たちは裸になるから近寄るなと抵抗した。しかし警察は突入してきた。このもようをある週刊誌はつぎのように伝えた。
連行現場は目を開いて見ることができないほど凄惨なものであった。女工たちは裸で男たちに抵抗していた。警察が突入してきた。・・・ある工場幹部は狭い労組事務室に入り、混乱している女工たちを指さしながら<こいつが代議員だ。あのあまも代議員だ。つかまえてくれ>と警察に知らせた。裸の女工たちは1人、2人警察の車にのせられた。<なんの罪を犯したというのか><つかまえていくなら殺せ>このように叫んだ。1人の女工は警察の手を押し払いブラジャーもパンティーもみんな投げ出して、強く抵抗した・・・
この戦いによって124名の女子労働者たちが解雇された。彼女たちの名前はブラック・リストにのせられ、全国の工場に配られた。彼女たちはどん底の生活を強いられ、キリスト教会の民主化の集会などに参加しながら戦い続けた。
1979年8月9日の早朝6時頃であった。工場の閉鎖に反対して、寮に閉じこもって抵抗していたYH貿易の女子労働者200余名は野党の新民党に押しかけて、シット・インに入った。新民党の共闘を促すためであった。
8月11日の午前2時、警察は党舎の正門を打ち破って突進してきた。警察は国家議員であろうとい、取材の記者であろうと、女子労働者であろうと乱打し、連行していった。この騒ぎの中で1000余名が負傷し、女子労働者1人が死亡した。
労働者はもっと戦わなければ ああ、どれほど生きていけるのか われらみな、今まで 団結して戦ったのに ああ、現実は悲しい 今まで蹴られてきたのに 続けて踏みにじられるなら 労働者は石ころであるというのか 叫ぶべきことがあまりにも多い 怒りに燃える目に浮かぶ 明日の燦然たる光が (1970年代に歌われた『労働運動歌』から)


*박정희 암살 사건(朴正煕暗殺事件), 박정희 피격 사건(朴正煕被擊事件), 궁정동 사건(宮井洞事件)은 1979년 10월 26일에 대한민국의 중앙정보부 부장 김재규가 박선호, 박흥주 등과 함께 박정희 대통령과 차지철 경호실장을 암살한 사건이다. 일공이륙 사건 또는 십이륙 사건이라고 부른다.[1]
*김재규(金載圭, 1926년 3월 6일 - 1980년 5월 24일)는 대한민국의 군인, 정치인이다.

第4章 民主化への道

朴正煕の暗殺
軍部政権と激しく戦ってきたのは、未来に対する夢があったからであった。「明日の燦然たる光」を夢見ていた1970年代は、知識人、学生、労働者、新旧キリスト者などと野党が、ほとんど心を一つにして民主化のために戦った時期である。戦いの時はいつもそうであるように、国民は現体制に安住しようとする勢力と、それを打ち砕こうとする勢力に両分された。国民全体がちりじりに分裂していたともいえるかもしれない。そのような状況は、朴正煕政権とその後も12年間も続いた軍部政権の時代をへながら長く韓国の社会を支配した。いまもその後遺症によって政治的混乱が醸しだされている。

民主化への戦いは、1945年以後韓国の現代史を貫いている。1960年の4・19革命によって民主化が達成されたかと思うと、61年の軍事クーデターという反革命によってそれは水泡に帰してしまった。新しく朴正煕軍部勢力との戦いがくり広げられた。これを4・19革命までの戦いにつぐ民主化運動の第二段階ということができよう。そしてそれは朴正煕の終焉とともに終わるのである。
1978年にも全国至る所で大規模のデモが起こった。12月12日という寒い日を選んで実施された第10代国会議員選挙では、軍部政権の可能なすべての手段を動員した不正行為にもかかわらず、野党の新民党が得票率からすれば与党の共和党よりも1・1パーセント上廻った。79年の秋になると民主化運動はいっそう広まった。10月16日の午前、釜山大学のデモはたちまち5000名にふくれ上がって街頭にくり出した。夕方になっても釜山大学と東亜大学の学生3000名が町の中心を占拠するという勢いであった。警察は催涙弾の無差別発射を始め、学生たちに暴行を加えた。これを見かねて市民たちが参加し始め、派出所、新聞社などに投石し、警察の車に火をつけた。
10月17日の夜9時頃、KBS釜山放送局、西区区役所、釜山税務署、西大新三洞事務所が破壊された。その晩の零時を期して釜山地域に非常戒厳令が布かれた。それでも、釜山市民の暴力・破壊も辞さないデモは夜半の1時過ぎまで続いた。
夜が明けてもデモは続いた。この決死的な抵抗はすぐ近隣の都市馬山市の動きに火をつけた。こうして「釜馬事態」といわれた状況が時間ごとに悪化して行った。それが全国に拡散するのは時間の問題であるように見えた。もはや朴正煕政権はこの事態に対処する方策を持ち合わせていなかった。軍を動員して大虐殺をくり広げるにしても、それは事態を最悪の状態におとしいえるほかなんら収拾策になりえない状態であった。この「釜馬事態」というのは朴正煕の出身地域、彼の庇護政策の下に置かれた地域が離反し火を噴いたということであった。
この2日間のデモで警察の車6台が全焼し、12台が破損、21ヶ所の派出所が破壊または放火された。学生・市民1058名が連行され、戒厳令下であるので、このうち66名が軍事裁判にかけられた。それにもかかわらず朴正煕は民主化を求める国民の声に屈服しようとしなかった。そこで10月26日、酒宴の最中、状況を誰よりも明確に察知していた中央情報部長金載圭が時局の転換を図ろうとして、朴正煕を殺害した。皮肉にも、独裁者はもっとも信頼していた部下の銃弾にたおれたのであった。61年の5月16日の軍事クーデター以来18年も続いた朴正煕の軍部独裁がここに幕を降ろした。こうしてソウルの春がきたかに見えた。
*부마민주항쟁(釜馬民主抗爭, 영어: Bu-Ma Democratic Protests)은 1979년 10월 16일부터 10월 20일까지 대한민국의 부산직할시(현 부산광역시)와 경상남도 마산시(현 창원시)에서 유신 체제에 대항한 항쟁이 일어난 것을 말한다. 10월 16일에 부산대학교 학생들이 "유신철폐"의 구호와 함께 시위를 시작했다. 다음날인 17일부터 시민 계층으로 확산된 것을 시작으로 해서, 18일과 19일에는 마산 지역으로 시위가 확산됐다.[1]

*전두환(全斗煥, 1931년 3월 6일[2] - )은 군사쿠데타으로 정권을 잡은 대한민국 제 11·12대 대통령이다. 본관은 완산(完山)이다. 노태우와는 사적으로는 친구지간이다.
全斗煥の登場と光州事件
しかし民主化の道はまだまだ険しいものであった。朴正煕の死とともに戒厳令が布かれたが、当時陸軍保安司令官であった全斗煥が、金載圭を取り調べるという立場から急上昇してきた。彼は戒厳司令部合同捜査本部長にのし上った。全斗煥を正面に立てた、陸軍のきわめて政治的な少壮将軍グループは金載圭を非公開で裁いて政治権力を掌握することに腹を決めていた。ところが当時の戒厳軍司令官であった鄭昇和陸軍参謀総長は、金載圭の公開裁判を主張した。
そこで全斗煥勢力は12月12日、鄭昇和にも朴正煕暗殺事件に関与したという嫌疑をかけて彼を逮捕し、排除してしまった。これはもう一つのクーデターであった。1980年5月24日、金載圭を処刑した。これは光州事件のために全国が不気味な沈黙に凍てついていたときのことであった。
*정승화(한국 한자: 鄭昇和, 1929년 2월 27일 ~ 2002년 6월 12일)는 대한민국의 군인, 정치인이다. 한국 전쟁 무렵 백골부대의 대대장으로 활동했고 제22대 육군참모총장을 역임했다. 호(號)는 송산(松山), 벽옹(碧翁)이다.
全斗煥勢力は、軍部を掌握して政治権力を奪取しようと機会をねらっていた。街頭では、今こそ民主回復を果たし、大統領を直接選挙で選ぼうと若い人びとの大々的なデモが連日くり広げられていた。政治舞台に返り咲いた金大中、金泳三両人ともに、朴正煕とクーデターを起こしそれまで政治的に浮沈をくり返していた金鍾泌もまた朴正煕の残留勢力と手を握って、軍部の動きに注目しながら、政権掌握を狙った。こうして「三金の時代」といわれる構図ができた。

*5·18 광주 민주화 운동(五一八光州民主化運動) 혹은 광주민중항쟁(光州民衆抗爭)은 1980년 5월 18일부터 5월 27일까지 광주시민과 전라남도민이 중심이 되어, 조속한 민주 정부 수립, 전두환 보안사령관을 비롯한 신군부 세력의 퇴진 및 계엄령 철폐 등을 요구하며 전개한 대한민국의 민주화 운동이다.
*Gim Yeongsam vel litteris Coreanis 김영삼 金泳三(in Geoje natus die 20 Decembris 1927; mortuus die 22 Novembris 2015), alumnus universitatis nationalis Seulensis, fuit praeses rei publicae Coreanae a die 25 Februarii 1993 ad eundem diem 1998.
*김종필(金鍾泌, 1926년 1월 7일 ~ 2018년 6월 23일)은 대한민국의 정치인이다.
三金氏はその時ソウルの春をあまりにも安易に考えていた。彼らはまだ雪の降り続く日々を春と錯覚していた。全斗煥は保安司令官として中央情報部長を兼ねていた。何よりも彼は、金大中に国民の支持が集まることを恐れた。金大中の大衆的人気は、たとえば4月18日、彼が東国大学で「4・19精神と南北統一」という講演をした時には、10万の市民が集い「金大中大統領、金大中大統領」を連呼するほどであった。
全斗煥勢力はこのような民主化勢力を粉砕する計略を練っていた。学生たちのデモの規模がふくれ上がるのを待って、5月17日の深夜、ついに戒厳令を宣布した。そして金大中を始め、民主化運動の指導者たちを逮捕した。彼らは学生たちを扇動して時局を混乱させ、その背後には北朝鮮から送りこまれた工作員の影響が及んでいるいうのであった。それまで軍部政権が反体制運動を弾圧するために、何度もくり返したことばである。
短いソウルの春は終りを告げた。1980年5月18日から10日間近く、南の全羅南道光州市で多数の市民が虐殺された光州事件が起こった。全斗煥の軍部勢力が学生・市民の、民主化を要求する平和的なデモを、空挺部隊を投入して鎮圧したのである。多くの市民をほとんど手当り次第虐殺した。激高した全市民が一つになって立ち上がり、武器を取って戦う寸前までに至った。5月27日の早朝、軍隊によって光州市は鎮圧されたが、この時も軍隊はまるで敵地に進軍するように戦車まで動員して作戦を展開し、多くの死傷者を出した。そして数知れない多くの市民が軍に連行された。
7月3日、戒厳司令部は1146名をすでに釈放したが、間もなく679名をまた釈放し、375名は取り調べを続けると発表した。10月25日の軍事法廷では死刑7名、無期7名など255名に有罪が宣布された。しかし事件から2年7ヶ月後、1982年12月25日には、このような「重罪人」全員を釈放した。それではこの事件は一体なんであったのか。
事件の詳細はいまだに明らかになっていない。死亡者や行方不明は数百名に上るが、その一部が光州市郊外の望月洞墓地に限っているだけである。この事件は、韓国の現代史に決定的な影響を与えた。それによって軍部政権の正体が余すことなくさらけ出された。さらにそのような軍の動きを黙認ないし放置したアメリカの政策に対する反感が高まり、国民のあいだに反米感情が広がった。韓国軍はアメリカ軍司令部の指揮権の下にあるからであった。

多くの人びとはこの光州事件は多分に、全斗煥をかしらとするいわゆる新軍部勢力が政権を握る口実をつくるために仕組んだものであると信じている。彼らは光州におけるこの市民蜂起を金大中の指令によるものであると、デッチ上げて、その後軍事法廷で彼に死刑を宣告した。
この事件のさなか、軍に包囲された光州市内にまかれた、決起を促すチラシには、つぎのように記されていた。
道民のみなさん!この悲惨な血に染まった光州市民の憤怒を知っているのか。3千万愛国同胞よ!恨みに満ちた死の声を聞いたのか。民主軍隊よ、答えよ!あの吸血鬼、殺人魔全斗煥と維新残党の奴隷らを殺すべきか。でなければ民主化を叫ぶ淳朴な愛国市民たちを殺すべきなのか。
かつて東学農民軍の古里であった全羅道は、再び反乱の地になったといえるかもしれない。その傷跡は長いあいだいやされることがなく、大きな政治的課題として残るであろう。この戦いのなかで、光州の詩人金俊泰は「ああ光州よ、わが国の十字架よ」と詩った。その最初と最後をここに引用してみることにしよう。
ああ光州よ、無等山よ 死と死のはざまで 血涙を流している われらの永遠なる青春の都市よ われらの父はどこに行ったのか われらの母はどこで倒れたか われらの子はどこで死にどこに埋められたか われらのかわいい娘は またどこに口を開けたまま横になっているか われらの魂魄はまたどこで引き裂かれて、ちりじりになったか (中略)光州よ、無等山よ ああ、われらの永遠の旗よ 夢よ、十字架よ、歳月が流れれば流れるほど いっそう若くなるはずの青春の都市よ いまわれらは確実に 固く結ばれている(*無等山は光州をかかえている山)
光州事件の真相解明を求める声は今でも高いが、その声は抑えられている。光州市民はこの1980年の5月を決して忘れえないであろう。それをいっつも敬虔な思いで追想するであろう。彼らはそれを忘却すれば頽廃する。彼らの良心と青春を保つためにその日々を決して忘れてはならない。そしてそれに対するレクイエムを歌い続けなければなるまい。それはつねに韓国の現実を告発する詩となるであろう。


金大中の乱陰謀事件
全斗煥勢力は光州事件を金大中と関連づけようと、あらゆる策謀をめぐらした。朴正煕にとって最大の政敵であった金大中は、全斗煥にとってもまたそうであった。光州事件が起こるとともに、全斗煥は金大中内乱陰謀事件をデッチ上げ、金大中も含めた24人を逮捕して起訴した。
5月22日、すなわち金大中を逮捕して4日後に、戒厳司令部は早くも「金大中捜査中間報告」というものを発表した。その内容は、金大中はもともと共産主義者であって、政府転覆をはかり、すでに蔭で政府転覆後の過渡政府まで組織して、光州事件を背後で操作したというのであった。
「金大中は大衆扇動→民衆蜂起→政府転覆を具体的に実践するために復職教授と復学生(朴政権下で追放され、朴正煕の死後大学にもどった教授や学生)を私組織に編入して・・・学園騒擾事態を民衆蜂起へと誘導発展させようと企んだ。」
全斗煥は9月1日、自ら大統領の座につき民主主義の土着化、福祉国家の建設、正義社会の具現、国民精神の改造などを謳った。しかしそれはただのスローガンであって、実質的には軍部による弾圧体制をいっそう強化するものに過ぎなかった。彼ら軍人にとっては、ことばはただ敵を欺くためのものであって、彼らの実践とはなんら関係がなかった。だがすでに大学のキャンパスでは抵抗ののろしがあがり始めた。「殺人魔全斗煥を民族の名で処断しよう」というチラシがまかれた。これは、光州事件における市民虐殺に生命をかけて抗議することであった。
こういったなかで9月17日、軍事法廷である陸軍戒厳軍法会議は金大中に死刑、その他の民主化運動の指導者23人には20年までの重刑を宣告した。韓国国内は重い沈黙に包まれていた。国外で、金大中救命運動が展開された。何よりも73年に東京から金大中が拉致されたとき、なすすべを失っていた日本で、その声は高まった。それは韓国における民主化運動に強く連帯しようとした動きであった。
日本政府も金大中の処刑には反対し、日本のたいていのマスコミもこれに同調した。こういうなかで翌年の81年1月、金大中の死刑は無期に減刑され、世界中の世論がようやく鎮まった。金大中釈放を求める国内外の圧力は続いた。そのために全斗煥政権は1982年12月23日、彼の刑執行を停止し、直ちに夫人同伴でアメリカに向かって出国させた。1年7ヶ月ぶりの出獄であった。こうして始まったアメリカにおける亡命生活と海外における政治活動は、彼が1985年2月、全斗煥政権の阻止にもかかわらず、強行帰国するまで2年あまり続いた。
1994年5月、光州事件の被害者600余名が全斗煥、盧泰愚2人の前大統領を含めて光州事件関連者58名を告訴した。検察は95年7月18日、光州事件が、政権の掌握を目ざした全斗煥らの陰謀であったこと、そして数多くの無実の市民を虐殺したことを認め、金大中内乱陰謀事件も、まったくのデッチ上げであったと発表した。しかし検察は、成功したクーデターに対しては、公訴権を持たないと決定した。これは金泳三政権の民主化の限界として、国民の抵抗にぶつかっている。光州事件は未解決の章として今後もくすぶり続けるであろう。何よりもこのように過去を葬り去ることによって、国民の挫折感と精神的頽廃を免れえない。


*6월 민주 항쟁은 1987년 6월 10일부터 6월 29일까지 대한민국에서 전국적으로 벌어진 반정부 시위이다.
1987年の6月抗争
全斗煥軍部政権の執権は7年余りに及ぶものであった。そのあいだ大学やキリスト教会、また労働団体などの抵抗は絶えることなく続き、日を追ってエスカレートするばかりであった。光州事件後においてはその運動は反米的傾向をおび、南北統一を叫ぶ民族主義的傾向あるいは社会主義的傾向をいっそう強めた。労働者が詠んだつぎのような詩が共感を呼ぶような時代であった。
長い長い1週間の労働の末に こごえた胸を縮めながら 凍てつく夜明けの道をたどって 部屋に入れば 妻は工場に行った後 この1週間の労働 長い別れにため息をつき 苦い煙草の煙うつろに吐きだし せわしく脱ぎ捨てられた妻の寝巻を手にとれば 独りで夜々を過ごした孤独な妻の匂いに 涙が溢れ出る。
暴力を前にした戦いのなかで万策尽きて、からだに石油を降りかけて火をつける焼身自殺。それは暴力的支配を告発しながら、戦う同志たちを励ますためであった。このような事件があいついだ。群をなして若い人たちが牢獄へと引きずられていった。拷問、それに抵抗して獄中においてもハンスト。ついに1986年には、逮捕された女子学生が裸にされて拷問されるといういわゆる「性拷問」事件が起こった。翌年の87年1月には、朴鍾哲というソウル大の学生が拷問によって息を引き取った。このような暴力は単に捜査のために使われたのではなかった。そのような暴力に恐怖心を抱かせて、運動を諦めさせようとする組織的な計略の一環であった。
全斗煥政権が末期症状を呈していることが、誰の目にも明らかであった。いままでの学生と教授、キリスト教教会の教職者や労働者、そして野党を中心とした戦いから、国民的抵抗へと拡大して行った。何かのきっかけが与えられれば全国的に燃えあがるような勢いであった。新聞記者たちも声明を発表して、もう一度民主化と言論の自由を要求した。『東亜日報』の「民主化のためのわれらの主張」(1987年5月25日)から、一節を引用してみたい。
われらは漸次虚無的な態度を見せている国民的雰囲気がこれ以上敗北主義に流れたり、最悪の場合、冒険的な傾向に傾くのを防止するためにも改憲議論の早急な再開と完了、そしに基づいた民主化措置がとられなければならないと判断する。こうして軍人のあいだでの政権のたらい回しをやめて、大統領直接選挙によって民意を問い民主化措置をとるための憲法改正を行なわないと、重大な国家的危機が訪れてくるであろうと警告したのであった。6月に入ると、全国的デモはますます激烈になった。1人の市民が催涙弾に打たれて死亡する事件が起こった。多くの市民がガス弾を撃つなと叫んだ。
示威隊が高速道路を封鎖した。交番、与党の党舎、国営放送局などが火炎に包まれた。戦闘警察にも負傷者が増え始め、彼らがデモ隊によって武装解除される事件まで起こった。6月24日には、延世大学に数万名の学生が集まって「国民平和大行進」を始めた。この行進が全国の都市に広がり、27日には130万にふくれあがった。
ここでやむなく6月29日、与党の盧泰愚代表委員長が大統領に代わって「直選制年内改憲」、すなわち年内に憲法を改正して大統領直選制に復帰すると発表した。これが韓国の民主化を宣言した「6・29宣言」というものである。この6月の戦いを「6月抗争」と呼んでいる。この宣言で金大中の政界復帰、投獄された政治犯の釈放、直接選挙による新しい大統領の就任、言論の自由などが約束された。それは革命の勝利であった。6月9日、延世大学のデモで催涙弾の直撃にあった李韓烈が7月5日に息を引き取り、9日その民主国民葬の行列がソウル市庁前に到着すると、100万名の市民が雲集するほどであった。李韓烈が残した詩の一節をここに引用してみよう。
だだって広い広場、その熱気の下に チラシがばらまかれ 催涙弾が落ち ファッショ打倒を叫ぶ 青カバ(戦 )に同行される 米帝を学習し討論の夜を明かす 民主のために、自主のために この他の人間解放のために 暁の冷たい露に若さを飲む (中略)空の下、入って行ったわれらの森の中で 愛を感ずる 胸いっぱいの愛を感ずる 一さじでおなかを満たし 美しい巨木の身ぶりを見る 新しく生きて行く君の身ぶりを 愛する 生きる
改正された憲法により、16年ぶりに復活した大統領直接選挙制によって、5年単任制の大統領の座を争う選挙の日は、12月16日であった。軍部政権は盧泰愚将軍を立て、野党側では金大中と金泳三両人が立候補した。国民は両金氏の合意による大統領候補一本化を強く要望したが、それは実を結ばなかった。結果は両金氏が54パーセントの票を集めながらも、35・9パーセントの票を集めた与党候補に勝利を譲ってしまった。軍部政権が延命をはかり多くの不正を働き暴力を動員したが、決定的な敗因は野党の両金氏が共同戦線を張ることはできなかったことにあった。
両金氏は彼らの政治的野望を調節することができなかった。その欲望に目隠しされて、政治的リアリティを見誤った。このことによって民主化を支えてきた国民は両氏に失望しただけではなく、反体制勢力、ひいては政治そのものに対する不信感をつのらせた。翌88年の2月25日、盧泰愚は大統領に就任した。このことは民主改革を少なくとも彼の在任期間、5年間遅らせることを意味した。

*이한열(李韓烈, 1966년 8월 29일 ~ 1987년 7월 5일, 전남 화순 출생)은 대한민국의 학생운동가이다. 연세대학교 경영학과 재학 당시 동아리 '만화사랑' 회원으로 활동하였다. 반독재투쟁에 가담, 1987년 박종철 고문치사 사건의 진상규명을 요구하며 6월 9일 민주헌법쟁취국민운동본부가 개최하기로 한 ‘박종철군 고문살인 은폐조작 규탄 및 민주헌법쟁취 국민대회’를 하루 앞두고 열린 ‘6·10 대회 출정을 위한 연세인 결의대회’에서 전경이 쏜 최루탄을 맞고 사망하였다. 그의 죽음은 6월 항쟁과 6·29 선언의 도화선이 되었다.

*노태우(盧泰愚, 1932년 12월 4일[1] ~)는 17년만에 치뤄진 대통령 직선제선거에서 대통령에 당선되어 취임한 대한민국의 제13대 대통령이다. 본관은 교하(交河)이다. 전두환과는 사적으로 친구지간이다.
盧泰愚時代
盧泰愚政権下でまず注目すべきことは1988年4月26日の総選挙で、与党の民生党が過半数の議席を獲得することに失敗したことである。このために軍部政権の延長線上にあった盧泰愚政権はいっそう弱体化した。
それにかなりの言論の自由が与えられたので、政権は常に激しい批判にさらされざるをえなかった。この時期は民主化の段階としては、表現の自由をようやくかちえた時期であったといえる。そこで全斗焕前大統領も国会に呼び出され、光州事件などの証人として議員の厳しい訊問に答えなければならなかった。
盧泰愚政権下における最大のイベントはなんといっても、1988年9月17日から16日間開催されたソウル・オリンピックであった。国民は政治的対立や軍部支配の後遺症があっても、一致してこの国際的な催しを盛り上げた。韓国選手の成績もよく、金メダル数で4位を占めた。
この成功が韓国国民に誇りと自信を与えたことは否めない。北朝鮮はボイコットした。韓国国民の多くは、南北体制間の競争において南の韓国が国際的に優位を占めるようになったと感じた。オリンピックにソ連や中国など共産圏の国々が参加することによって、韓国とそれらの国々のあいだで、交流が始まった。経済交流から1990年には韓ソ修好、1992年8月には韓中修好と、正式の外交関係へと進んだ。こうして同じ民族である北朝鮮との交流のみを残すのみとなった。
*1988년 하계 올림픽(영어: 1988 Summer Olympics, Games of the XXIV Olympiad)은 1988년 9월 17일부터 10월 2일의 16일 동안 대한민국의 서울에서 개최된 하계 올림픽이다. 12년 만에 IOC 회원국 가운데 대부분인 160개국이 참가한 역대 최대 규모의 올림픽이다.
このような外交的成功とはうらはらに、国内政治における葛藤は、簡単にいやされそうには見えなかった。国会におけるいわゆる「与小野大」の政治状況のために、盧泰愚政権はしばしば身動きが取れなかった。事ごとに野党と衝突し、社会は混乱した。ここにおいて現われたのが、与党と野党の統合、いわゆる「三党統合」という事件であった。
このようなことは、韓国の現代政治史上かつてなかったことであった。与党と野党の対立といえば、独裁と民主主義の対立であった。1961年からは軍部独裁と市民的民主主義の対立であり、野党は反独裁の市民勢力と力を合わせて独裁を打倒すべきであると考えてきた。この戦いが、盧泰愚政権下で最終段階を迎えていた。
それにもかかわらず1990年1月22日、与党の民正党を代表した盧泰愚大統領と民主党の金泳三総裁、共和党の金鍾泌総裁がついに公式に「三党統合」を発表した。こうして民自党が成立したのであった。これは三省が最大の野党、金大中総裁が率いる平民党(87年、大統領選挙を前にして金大中勢力は新たに平民党を組織して同じ野党の金泳三の民主党と対決した)を排除しようとして連合戦線を形成したことを意味した。金泳三は、金大中との対立のために政権獲得が不可能だと見ると、虎穴に入らずんば虎子を得ずという覚悟で、軍部政権と合流したのであった。やがて金大中の平民党は三党統合に反対して民主党に残留したグループを受け入れ、平民党というそれまでの党名を放棄して、新たに民主党を名乗るようになった。

軍部勢力は国民の抵抗によって後退を余儀なくされると、金泳三を迎え入れて、延命を図った。彼らは何よりも金大中が政権を獲得して、軍部勢力を排除することを恐れたのであった。しかしもう一方で考えれば、冷戦体制が崩壊し、韓国でも軍部勢力が後退し始めた状況では、与野党のあいだに極端な対立は消えつつあったといわねばなるまい。92年の12月18日、与党は金泳三大統領候補に推し、金大中を迎えて勝利した。金泳三が第14代大統領に就任したのは、1993年2月25日であった。1979年、朴正煕の死と全斗焕の登場とともに始まった民主化運動の第三段階が、ここに終りを告げたわけである。歴史には飛躍とか奇蹟はないのかもしれない。韓国の民主主義という木はなんと多くの犠牲によって育っていくのであろうか。

金泳三文民政府の登場
93年の選挙において、金泳三は有効票の41・4パーセント、997万7332票を獲得し、金大中は33・4パーセントの804万1284票を獲得した。その票差は193万6048票であった。投票率は81・9パーセント、総有権者2942万2658名中2409万5170が投票に参加したのであった。
この勝利は金泳三個人にとっては、1961年以来の軍部政権との長い戦いにおいて勝利したことを意味し、韓国国民にとっても、ようやく軍部統治を終結せしめたことを意味した。韓国の地において、軍部がクーデターによって政権を奪取し独裁権力を振うことはもうあるまい。国民は文民政府が出現し本格的な民主政治が実現するものと喜んだ。
ここにおいて金大中が敗北した理由について多少言及しておくことは、その後も流動してやまない韓国の政治を考えるにおいて必要であるかもしれない。彼は軍部統治によってもっとも多くの犠牲を強要され、また実際においてもっとも勇敢にそれと戦った。しかしより多数の国民が、彼を選ぶよりは、軍部勢力と妥協した、より穏健だと見られる金泳三を選んだ。金大中は政界からの引退を宣言した。
この背景にはまだ隠然と力を温存している軍部勢力、特権階層そして官僚勢力などの影響が多分に作用したこともある。しかし何よりも、軍部政権下にあって近代化による経済的な豊かさにあずかり、多くの国民の意識が保守化してきたことをあげねばなるまい。現状の根本的な変革に恐れをなしている。冷戦構造が崩壊したとはいっても、まだ北朝鮮に対する恐怖心と敵意から醒めていなかった。そこで大統領選の終盤戦に入って、金泳三陣営が金大中はあまりにも革新的であり、左傾の憂いがあるといういわゆるアカ路線論争を持ち出したことで、金大中はかなりの痛手をこうむった。
金泳三は再選を許容しない「5年単任制」の大統領に就任するとともに、かなり大胆な改革政治を打ち出した。それまで民主化闘争に参加してきたリベラルな人材を登用し、軍部支配に参加した腐敗した勢力を排除しようとした。聖域といわれた軍部に対しても、人事異動などで粛軍を行った。それは金大中を支持する、より積極的な改革を求める国民を意識したからであった。金泳三を支持した国民の多くも、急激な変化でなくとも、改革を強く望んでいた。
しかしこの改革の熱気は、それほど長く続いたとはいえない。軍部政権32年のあいだにできあがった体制はかなり強固なものであった。官僚は「伏地不動」であるといわれた。黙って機会をうかがいながらも、動こうとしないからであった。マスコミは改革によって社会不安に陥るかもしれないと、ひそかに警告を送ろうとした。財閥企業を中心とした産業界は、改革がそれまでの旧悪のすべてを明るみに出すことを恐れた。

これらの保守または反動の勢力がいつしか手を握りあうように見えた。国民、特に中産層も社会不安を感じ始めていた。このすきを狙って、軍部政権下で特権的地位を占めていた勢力が頭をもたげてきた。閣僚などのあいだでリベラルまたは民主化運動に関連した人びとが、1人去り2人去りほとんどその姿を見ることができないようになった。
金泳三政権1年ですでにこのような状況に立ち至った。そして金泳三個人の統治スタイルというものが閉鎖的で、いわば「家臣」グループすなわち野党として戦っていたときの側近の勢力以外には信頼を置かず、広く人材を求めることをしなくなった。実際、金泳三は1990年にいわゆる3党統合を実現して、彼自身の政党民主党を引き連れて与党入りを果たしたときから軍部政権への抵抗よりは、その力への依存を決めていたといえよう。
こうして彼の改革憲法は後退し、彼は広範な政治勢力また国民の支持勢力を結集することができなくなった。金大中を支持して、強く改革を求めた勢力、民主化運動を大きく支えた人びとも、金泳三が大統領に就任した直後、改革の大なたを振い始めると、意外だと思いながらも、拍手を送ったものだった。しかし1年足らずしてこの勢力がまっ先に離反して疎外感を深くした。そして選挙で金泳三を支えた勢力のあいだでも徐々に離反があいついで起こった。彼が改革を放棄して保守回帰を始めたことに対する不満もあるが、彼の統治スタイルがあまりにも権威主義的であることにも原因があった。
金泳三が国民のあいだから支持を失いつつある最大の理由は、彼の人材登用にしても、政策決定にしても、国民の目には、恣意的であり過ぎると映っていることであろう。政策に一貫性がなく国民の世論を収斂できずにいる。そのために文民独裁とまでいわれた。長い野党生活のなかで、しかも軍部の情報政治のもとで、彼はあまりにも秘密主義に慣れている。すべてを利那的に決定して、行動しなければならなかったせいかもしれない。いずれにしてもこのような金泳三政権に対する批判的なムードが、つぎの地方選挙において具体的な形となって、表面に現われるようになった。


6・27地方選挙
この95年6月の選挙は金泳三政権の2年4ヶ月間の統治に、韓国国民が強くノーを叫んだ選挙として特筆されるべきであろう。新聞は「民自完敗」と与党の敗北を大きく見出しに掲げた。この選挙は広域団体長すなわちソウル市長や直轄市と呼ばれる大都市の市長と道知事を選ぶ選挙と、基礎団体長即ち小都市の市長、郡守、ソウルの区庁長などを選ぶ選挙、広域議会議員と基礎会議員を選ぶ選挙の四つを同時に行った統一選挙であった。この地方選挙において民自党は惨敗した。たとえば広域団体長の場合、民自党は15のうち四つを占めたに過ぎなかった。ソウル特別市の場合は、市長も金大中の息のかかった民主党候補趙淳が当選しただけではなく区庁長は25人のうち民主党が23を占め、与党の民自党はわずか二つを占めたに過ぎない。ソウル市議会も民主党122名に民自党11名である。
*조순(趙淳, 1928년 2월 1일 ~ )은 대한민국의 정치인이다.[1] 서울특별시장, 한국은행 총재 등을 지냈다.
この地方選挙で、1993年の金泳三の大統領就任で民主主義を勝ちえた韓国国民は、その勝利を大きく前進させた。もう一つの民主革命の勝利ともいえた。選挙そのものは韓国の民主主義が急速に成熟してきたことを示した。これまでに比べてもっとも公正で清潔な選挙であるといわれた。この点においては金泳三政権が民主主義のルールを守る決意を示したといえるとともに、この国民が不正な選挙を許さないほど大きく成長したことを意味した。この選挙で、全羅道地域は金大中の民主党、中部の忠清道は金鍾泌の自民連、慶尚南道は金泳三の民自党などと、地域対立構造があらわになった。1979年の朴正熙の死後現われた3金氏による分裂構造が15年後に再現したかに見える。それはそのあいだに、韓国の政治がこの3人の政治的人脈を克服していないことを示しているように見える。これを超克するのには長い時間を要するであろう。
しかし地方政府というのはそのような地域性を基礎とせざるをえない。とりわけ独裁対民主主義のような国家的イシューのないときにはそうであろう。何よりも与党の敗北、「与小野大」のような地殻変動が起こっても、韓国社会、特に経済界などほとんど動揺を示していない。政権打倒を叫びながら、大統領を任期以前に辞任を迫るような動きはもうない。政治が圧倒的にこの社会に影響した時代は、終りつつあると見なければなるまい。
このような現われとして、比較的些少なことがらであるかもしれないが、選挙運動期間中にあった一つのエピソードを記しておく必要があるように思える。与党の民自党は、金大中が積極的にソウル市長候補趙淳を応援すると、趙淳に対しても思想的に左傾した時代があると攻撃し始めた。このようないわゆる思想論争が1992年の大統領選挙戦では金大中にかなり不利に働いたが、95年の地方選挙ではほとんどそういった効果を生み出すことができなかった。
それは冷戦体制が崩壊して時間がたつにつれて、韓国国民が冷戦下の反共意識から徐々にではあるが、抜け出しつつあることを意味するであろう。実質的に北朝鮮が韓国に対する脅威としては感じられなくなってきたといわねばならない。
金泳三政権はこのような新しい政治的局面に対応することができるであろうか。実質的に2年半ぶりに政界に復帰して、新しい政党づくりを始める金大中は、今後どのように動くことができるであろうか。政治勢力が地方選挙後、全国的に見れば「与小野大」になった時代に、大統領中心の体制のなかで、中央政府と地方政府のあいだが円滑に行くとは簡単に考えられない。
しかも96年は総選挙、97年には大統領選挙である。金泳三政権は強力な指導力を発揮できず混迷の度を深めるであろうともいわれている。その合間には旧軍部統治下の勢力がもっとのし上がって来て、それが金鍾泌の勢力と力を合わせるかもしれない。一方、このような政治的未来に対する不確実性こそ、韓国の社会が多くの不安な要素をはらみながらも、民主社会になったことを物語っているともいえよう。軍部独裁体制下では政治的選択はつねに事前に確実に決められていたからである。


北朝鮮とアメリカの接近
金泳三政権下における最大の問題の一つは北朝鮮の核問題であった。この問題は1991年の後半に、アメリカの情報機関が北朝鮮の寧辺にある核団地未確認施設の問題を提起したことから始まった。それは核廃棄物貯蔵所であるかもしれないが、その核廃棄物を再処理すれば、核兵器の燃料になるプルトニウムを抽出できるというのであった。
アメリカが北朝鮮の核問題に具体的に深く介入し始めたのは1993年3月、北朝鮮が政府声明を通して、核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言したときからであった。93年の6月には北朝鮮とアメリカ高位会談が始まった。94年7月8日、金日成の死亡によって、会談は一時中断されたが、8月には再開され、外交代表部を置くために連絡事務所を開設することにし、北朝鮮は再処理施設を封印して国際原子力機関(IAEA)の下におき、核拡散防止条約の会員国としてとどまることに合意した。その代りアメリカは北朝鮮に200万キロワット容量の軽水炉発電所の建設を支援し、それができ上がるまで代替燃料を提供することを約束した。

この8月の合意に沿って北朝鮮とアメリカの関係はかなり急進展したが、韓国で軽水炉を韓国型とすることを主張して、会談は難航した。95年6月には、韓国側の主張を多く取り入れた形で両国は合意に達したと伝えられている。そこ両国側の連絡事務所の開設も遠からず出現するものと期待されるようになった。
こういうところに95年の6月下旬、北朝鮮の食糧難を助けるために米を送るという問題が持ちあがった。南北間におけるこの会談は6月21日に急にまとまり、韓国は15万トンを無償提供することを約束した。27日の地方選挙が終わると、直ちに北に向けて食糧運搬船が出航した。韓国はこれによって、南北間の直接対話が再開されることを期待したが、北朝鮮の立場は米日との関係は進めても、南の韓国との関係を急進展させるつもりはないようである。南北のあいだで相互不信がそれだけ強いともいえるが、韓国は対話に積極的であり、北朝鮮はこれを警戒しているといえよう。このように朝鮮半島の政治状況には、まだ不確実な要素があまりにも多い。南北朝鮮の問題、統一の問題が解決しない限り、韓国の安定、朝鮮半島の安定ひいては東アジアの安定は望めないであろう。
しかし韓国だけの状況からすればいくたの希望的な兆候が現われている。韓国は再び軍部支配に戻ることはなく、その政治は民主化のルールによって進められざるをえない。95年の地方選挙において「与小野大」の現象が現われ、金大中が政界に復帰して新しい政党づくりを始めるといっても、そのような政治的変動が、従来とは違って少しも社会的変動とか不安を引き起こすことがない。そして経済界もまったく動揺しないというのは、韓国はそれほど社会的安定度を高めたからである。政治が社会全体を揺り動かすことができないほど社会が成熟してきたのである。
韓国では南北統一に対して具体的な政治的展望はもっていないが、心情的にはその可能性があまり遅くないであろうと思っている。しかも多くの人びとが、南北がともに経済的に発展して、自然に政治的統合がもたらされることを願っている。これは数年前まで南北統一は絶対不可能と見ていた心情とは大きく違う。統一はまだだといっても、南北間に戦争が起こることはもうあるまいと思うのである。経済はますます南北の敷居を超えていくであろう。こうして韓国が1945年以来植えつけられてきた北朝鮮に対する恐怖からの解放を味わっているとすれば、それは反共意識の上に打ち立てられていた。韓国の社会体制を変化させずにはおかないであろう。こういう時代に向かって韓国の政治はこれからどのような舵取りをするだろうか。軍部統治の下では、そのような政治的リーダーシップまたは政治文化は育たなかった。このような軍部統治の後遺症に苦しみながら、韓国の民主主義は育っていくであろう。95年6月の地方選挙で示された国民の民主的なエネルギーは、金泳三政権下ではもちろん、その後も続くものといわねばならない。

*한강의 기적(漢江의 奇蹟)은 대한민국에서 한국 전쟁 이후부터 아시아 금융 위기 시기까지 나타난 반세기에 이르는 급격한 경제 성장을 나타내는 상징적인 용어이다. 대한민국은 경제적으로 빠르게 성장하여 아시아의 네 마리 용 중 하나로 꼽히게 되었다.
第5章 漢江の奇蹟
漢江流域
漢江はソウルの中心をゆったりと流れて西の黄海に注ぐ。その源を北朝鮮にある金剛山の付近にもつ北漢江と韓国の大徳山に発する南漢江とがソウル近く京畿道に入って合流する。金剛山も大徳山もともに東部の東海(日本海)沿いの江原道にあるが、江原道は第二次大戦後、38度線、朝鮮戦争後は休戦ラインによって南北に分けられている。漢江は南漢江を本流として、全長405・5キロ、南漢江を中心とした流域の面積は2万6018平方キロである。漢江の流れにはいくつもの皮が流れこみ、その上には湖とダムが築かれて上水道源になったり、水力発電所になったりしている。1000万人口のソウル市民そして2000万を超える首都圏人口はこの川にたよっている。川の上にはソウル市内だけでも人道橋が17、鉄橋を含めれば20の大橋がかけられている。その一つ麻海大橋は全長1389メートルである。漢江はソウル市民の心をなごませてくれる。パリのセーヌ川に慣れたあるフランス人は、漢江を、都市のなかの海のようだと表現した。

漢江は韓国を象徴する川である。戦後、多くの困難にもかかわらず急成長した韓国の経済はドイツのライン川の奇蹟ということばになぞらえて、「漢江の奇蹟」といわれた。しかしこの急成長がもたらしたあまりにも多くのひずみゆえに、韓国人としては、この言葉に対する実感はあまりもてないのだが。
韓国経済の始発点
1945年、日本の植民地からの解放とともに出発した韓国経済は、すでにのべたように、多くの矛盾をかかえていた。穀倉といわれた西南部全羅道地域の土地の多くは、日本人の大農場によって占められていた。小作農は高率の現物小作料を支払い、大部分が1年契約で、いつでも農地を奪われ追放される身分であった。人口の75パーセントを占めていた農民の多くは零細小作農であり、原始農法にとどまり、その所得は飢餓所得水準を超えなかった。国富の80パーセント以上を日本人が占めていた。植民地下における朝鮮の工業は、日本国内工業の下請工場的性格を持っていた。機械が故障すれば、日本から部品を仕入れるか、機械そのものを日本に送って修理してもらわなければならなかった。小規模の中小企業と若干の繊維工業を除いては、大部分が日本人の資本と技術に依存していた。そのために、解放後日本人が朝鮮半島から撤収すると、韓国の産業は全面的に麻痺状態に陥った。しかも朝鮮半島は南北に分断されたのであった。
産業構造において見ると、北は重工業、南は農業と軽工業、1945年当時、電力の92パーセント、石炭生産の79パーセント、金属工業生産の90パーセント、化学工業生産の83パーセントが北朝鮮にあった。南北分断による経済的損失は、実に計り知れないものであった。たとえば解放直後韓国においては、北朝鮮との関係が少しでもこじれると、送電中断にあって暗い夜を経験しなければならなかった。
今日の韓国経済はこのような植民地経済の遺産をせおい、1950年から3年間の朝鮮戦争による壊滅状態をへて成長してきたものである。しかも戦後50年間、南北対立による軍事費の支出など、多くの負担をせおい、喘ぎながら発展してきたわけである。1962年以降1993年まで南北の軍事費の累計は1000億ドルに近い、南北とも長いあいだ国家総予算の30パーセントほどを、国防費につぎこんだのであった。
1945年直後の経済的混乱についてもう少し説明を加えなければならない。戦後の経済は植民地下の統制経済、生活必需品の配給制という体制が1日にして崩壊したところから出発したものであった。それに植民地支配当局は敗戦を前にして、多くの財貨を日本に持ち出すために、紙幣を濫発した。1945年3月には約36億円であった朝鮮銀行発行高が、7月末には47億円、8月末には約80億円に増加した。日本が降服してから、9月8日アメリカ軍が進駐するまでのあいだに37億円を発行し続けた。
これによって戦争直後の韓国経済のインフレを加速化したのはいうまでもない。その後北朝鮮が共産化されると、難民が南にはだれ込んだ。朝鮮戦争後までその難民、いわゆる「越南同胞」と中国や日本などからの帰還同胞の数は、500万を数えたであろうといわれている。

アメリカの援助経済
アメリカ軍が進駐し軍政が始まってまず問題になったのは、韓国の総財産の80パーセント以上といわれた日本人財産すなわち帰属財産の処理のことであった。それは新政府の大きな財源であった。その払い下げにおいて腐敗が生まれた。そのような払い下げのための資金、事業運営の能力またはコネを持っている人は、日本統治下においてかなり特権的な地位を占めていた人びとであった。ここで親日派の再台頭ということが、当然問題になった。
アメリカ軍政庁は何よりも経済的に左翼化していく小作農の対策に苦慮した。それでまず1945年10月には、小作料31制を公布した。今まで収穫の2分の1またはそれ以上を徴収していた小作料を3分の1と、その上限を決めたのであった。そして地主がかってに小作権を取り上げることを禁じた。しかしこの程度の改革をもってしては、農民の増産意欲を高めて食糧問題を解決するにもおぼつかなくなった。農民のあいだには「反民族的な地主と大地主の土地を没収して、農民に分配せよ」という声が高まる一方であった。
韓国はアメリカの援助によって食糧の危機を克服し、インフレを収束し、膨大な軍事費をまかなうことができた。韓国は戦後17年間においてアメリカの対外援助にもっともあやかった国といえるが、その内容は「1945年、日本からの光復6・25動乱(朝鮮戦争)までの贈与式経済援助、そのつぎの50年代の防衛援助、60年代以後の借款方式による開発援助」(趙東粥『現代韓国経済成長史』)に分けられる。
第一の援助は「救護援助」というべきもので、アメリカの軍政下で衣類、食料品、医薬品などの無償援助を受けた。朝鮮戦争が起こると、アメリカの対韓援助は第二の「防衛援助」の形を取るようになった。それは1950年から始まり毎年4億ドル以上の額に達した。戦後17年間に及ぶアメリカの経済援助の総額は約31億ドルであるが、その30パーセントは食糧援助であった。そのために国内農業の発展が遅れたとも批判されるが、一面においてはその販売代金で財政赤字を補っていかねばならない事情があった。
1948年8月15日、大韓民国樹立を宣布してから、経済的には土地改革の問題が最大課題の一つであった。アメリカの軍政下における小作制の多少の緩和程度では問題の解決にならなかった。北朝鮮では1946年3月、北朝鮮臨時人民委員会の名において土地改革を実施した。日本人所有の土地と五町歩以上を所有している地主の土地を無償没収して無償分配したのであった。これが親生韓国における土地改革を、いっそう避けられないものにした。
しかし韓国では、土地改革はいくたの抵抗に遭遇して、農地改革法施行規則が公布されたのは、ようやく1950年4月のことであった。それは有償分配であったが、その後朝鮮戦争の勃発によってその実施は実質的に延期されざるをえなかった。しかも解放後5年間のあいだに、地主はいろいろな形で多くの土地を処分することができた。そのために韓国における土地改革は実質的に成果をあげることができなかった。

近代化への出発
1960年頃の韓国の産業構造は、生産高で一次産業35・2パーセント、二次産業19・2パーセント、三次産業45・6パーセントという比率を示していた。4割未満の農業を主とした一次産業に従事している人口は全就業人口のおよそ8割を占めていた。
このような状況のなかで第一次経済開発五ヵ年計画が成立したのは、軍事クーデターの翌年1962年1月であった。この計画の基本的な目標は「すべての社会・経済的な悪循環を是正して自立経済達成のための基盤を構築すること」にあった。その具体的な内容はつぎのようなものであった。
1 農業生産力の拡大による農業所得の上昇と国民経済の構造的不均衡の是正 2 電力・石炭などのエネルギー源の確保 3 基幹産業の拡充と社会間資本の充足 4 遊休資源の活用特に雇用の増大と国土の保全および開発 5 輸出増大を主軸とする国際収支の改善 6 技術の振興(趙東粥前掲書)
ここに本格的な近代化の作業が始まったのであった。この第一次五ヵ年計画では年平均8・5パーセントの生長を記録した。こうして1967年には第二次五ヵ年計画、1972年には第三次五ヵ年計画、1977年には第四次五ヵ年計画と強力に近代化をおしすすめた(表2)。これはいわば先進工業国の後を追ってキャッチング・アップ型開発を試みたことを意味する。
ここにおいて韓国は民族自主経済の樹立のために、北朝鮮のように資本主義の世界市場から離脱する道を択ぶよりは、世界市場に統合する道を択ぶことにしたわけである。それは短縮成長の道のりであった。約20年間、四つの五カ年計画を推進しながら、大体において第一次には「輸入代替工業化計画」、第二次には「自立工業構造の確立」、第三次には「輸出主導型重化学工業化」、第四次には「自立成長構造の確立」をスローガンとして掲げた。こうして71年までの第二次計画では年平均9・7パーセント、76年までの第三次計画ではオイル・ショックに見舞われ多少成長が鈍ったにもかかわらず、10・1パーセントを記録した。
この第三次計画のあいだ、人口増加率を1970年の1・8パーセントから、73年以降には1・5パーセントに抑えることができた。81年までの第四次計画では77年には10・3パーセント、78年には11・6パーセントの成長を果たし、77年には輸出において、総額100億ドルを超えた。1980年には第二次オイル・ショックのためにマイナス6・2パーセントと落ちこんだが、翌年の81年には6・4パーセントの成長に回復した。
これは韓国経済がキャッチング・アップすなわち短縮成長という、開発経済の道を大筋でそのままへてきたことを意味する。まず輸入代替工業化を図って輸入をできるだけ抑え、その一方で輸出指向に努める。低賃金を盾にして輸出をおしすすめ外貨の獲得に励む。そうしているあいだに国内市場が成長して輸出と国内市場双方に向けての生産が活発になるわけである。
このような経済開発五ヵ年計画は、第七次1996年までを新経済計画期間として策定した。これによって先進経済圏に進入し、南北統一のための経済基盤を構築することを目標とした。その後は取り立てて五ヵ年開発計画を立てるよりは、10年から20年の長期的な展望を立てようとしている。

経済的危機を超えて
実はこのような過程はいばらの道であった。韓国経済「破産」の危機が何度も伝えられたのであった。たとえば75年7月、世界銀行主催で開かれた対韓援助協議グループの会議では「75年以降数年にわたり、年間20億ドル程度の、中・長期借款が必要」であるとの認識を共にした。しかもそのような「巨額の外貨が投資に振りむけられるのではなく、むしろ貿易の赤字をうめ、借款の元利支払に充当されるであろう」と見られたのであった(隅谷三喜男『韓国の経済』)。
そのような危機を何度も乗り越えることができたのは、対外的に外国からの借款や外国の投資などによって助けられたからであるのは、いうまでもない。そして在外韓国人の送金にもまた大きく助けられた。1970年代において韓国のアメリカ移民は急増し、今は100万人を超えている。もちろん在日韓国人の送金も韓国の近代化作業の初期において大きな役割を果たした。
しかし韓国経済の高度成長にとって何よりも重要な貢献をした要素としては、つぎの三つをあげねばなるまい。第一は日韓関係であり、つぎはベトナム戦争による特需であり、もう一つは中東における建設工事への参加である。ここでは日韓関係のことは後回しにしてベトナム特需から考えてみたい。1965年2月、工兵隊や輸送部隊が先発隊としてベトナムに派遣されて、66年には合計5万5000人の兵力がベトナムに駐留することになった。1973年に撤収するまでこの状態が続いた。
このようなベトナム派兵は、韓国の経済にとって大きな意味をもっていた。この派兵によってアメリカから軍事援助の削減を中止してもらっただけではなく、1億5000ドルの長期借款を提供された。そしてベトナムに年間6000万ドルの輸出が可能になり、技術者、労働者など約1万6000名の民間人を送りこむことができた。これは「人力輸出」といわれた。派遣された軍人や技術者の多くはアメリカ軍によって給料を支払われた。
こうしてベトナムは1968年には韓国にとってアメリカ、日本につぐ輸出相手国となった。それより重要なことはベトナム特需における貿易外収入であったことはいうまでもない。軍人や労働者そして軍納業者からの送金があった。軍納業者は軍の生活用品の御用達として働いたばかりではなく、建設工事や輸送なども請け負った。1968年には貿易外収入だけでも2億9669万ドルに達した。対ベトナム輸出額も1億6556万ドルに上り、その年の韓国の輸出総額の36パーセントを占めたのであった。
1973年、第四次中東戦争を契機として起こったオイル・ショックに、韓国経済も大きく揺さぶられたが、一方ではオイル・マネーによる中東建設ブームにあやかることになった。このブームは上昇を続け、その受法額は77年には12億ドル、81年には22億ドルに増加した。
このような中東ブームはベトナム特需の場合と同じように企業の海外進出を促し、「人力輸出」のみではなく、商品輸出の急成長をもたらした。このような状況のなかで77年には30億ドルであった運輸収入が、81年には66億ドルに伸びたこともつけ加えるべきであろう。

日韓条約反対論
1965年における日韓条約締結と戦後20年ぶりの国交正常化は、日韓両国における批判と抵抗を押し切って実施されたことはすでにのべた。このことを今日において振り返って見れば、歴史は人間の思惑を超えて進んでいくものと感じざるをえない。
日本における革新勢力が日韓条約に反対した理由は、おおよそつぎの3点にまとめ上げられるものであった。
1 日韓条約は朝鮮の南北分断を固定化して、朝鮮の南北統一を阻害する。2 日韓条約は本質的にアメリカの庇護の下における日韓軍事同盟であって、日本、韓国、台湾を結ぶ北東アジアの軍事同盟に発展するおそれがある。3 日韓条約は日本の独占資本による対韓経済侵略を企てる機会を与え、韓国を経済的に奴隷化するおそれがある。
日本国内における、条約に対するこのような反対論のなかでも、韓国または朝鮮全体に対する日本の戦後清算の問題はほとんど脱落していた。それは多分にイデオロギー的であり、全面否定的なものであった。
これに比べると、韓国における反対論は非常に具体的であったことは、すでにのべた。しかしそれもまた日韓条約が持つ冷戦的性格に対する認識を欠いていたという意味では、たとえそれが日本の革新側とは反対側にあったとしても、実はイデオロギー的であった。ただ日本に向かって門戸を開くことは、日本の経済的侵略を招き入れるという点では、それは日本国内における革新側の反対論と一脈通じていたといっていいであろう。
しかしその後に展開された日韓関係はそれほど単純なものではなかった。特に経済的な関係においてはそうであった。
日韓癒着の暗い時代
日韓条約が韓国国民の反対にもかかわらず、強行採決されたことは不幸なことであった。植民地支配の歴史を清算して、新しい決意の下で日韓関係を打ち立てるには、それはあまりにも暗い出発であった。こうして日韓関係の摩擦または日韓癒着に対する絶えざる批判と抵抗は、いつもその後の歴史について回るようになった。
日韓条約後は日韓癒着に対する戦いが、韓国民主化運動におけるもっとも重要な主張の一つとなった。日韓条約締結以前、すでに日本の資本は朴正煕政権といろいろな形で結ばれつつあったが、65年の日韓条約締結後は、日本の資本がそれこそ堰を切ったように流れこんだ。条約で決められた経済協力無償3億ドル、有償2億ドル、そして3億ドル以上の商業借款をめぐって、日本の財界はしのぎを削ったのである。

商業借款においてはブランドの輸入が多く、日韓の合弁会社も続々と設立された。商業借款の場合は有償援助2億ドルが年利3・5パーセント、据置期間7年を含めて20年で償還というのに比べて、金利6―8パーセントに期間は10年前後というきびしいものであった。しかもこのような借款をめぐっては、政権や個人に対するリベートのうわさが絶えることなく、不安定な国内情勢の下でその一部が政治資金となったり、権力側の個人資産に変って国内外に蓄積された。
日韓条約の日韓関係というのは、韓国国民の目には、韓国を日本商品の市場に化し政治的、社会的腐敗を生み出し、軍部独裁政権を支えるものとして映った。国内の中小企業は倒産の危機に落とし込まれ、いわば民族自主経済は崩壊していくように見えた。徐々に政権と結んだ大企業が起こり、それが巨大な財閥企業への道を歩き始めた。
朴正煕軍部政権と日本の資本そしてその背後にある日本政府との利害は一致しており、その癒着は深まる一方であると見られた。朴政権による近代化は親日政権である朴政権を隠れみのにして、日本が韓国を新植民地にしようとするものであり、その意味でそれは日本化に過ぎないとさえ思われた。そこで韓国で台頭しはじめた新興資本は、批判勢力によって、買弁資本と決めつけられた。

韓国政府は外資導入のために輸出の増大、先進技術の導入、雇用の増大そして国内資源の活用を目標として掲げた。ここで日本の企業は低廉で良質な労働力を目ざして、大挙進出するのであるが、これらの企業は規制の優遇などだけでは満足しなかった。韓国が労働組合の活動を強く制約していることを争いに、韓国労働者に対する収奪の度を強めた。このことは韓国の民衆レベルにおいて、日常的経験のなかで新たに日本に対するマイナスイメージを再生産し、いっそう反日感情をあおることになった。戦後の韓国において60年代と70年代は、戦前の対日ナショナリズムをいっそう拡大した時代として、ほとんどそのピークをなしたといえよう。
女工哀史
この時期は女工哀史の時代であった。確かに日本資本の大量進出によって、韓国の輸出は伸びたが、原材料も機械も製品の部品も日本から輸入しなければならなかったし、輸出入のためには多くの場合、進出してきた三井物産、丸紅、伊藤忠など日本の商社の手を借りなければならなかった。経済の日本依存度は高まるばかりであり、日本からの輸入は増え続けた。
日本資本の導入が、韓国工業の発展、国民の生活向上に果たしてどれだけの効果があるのかと疑わざるをえなかった。それは政権と買弁資本に連なる少数を潤すだけで国民はもっぱら収奪されるだけであると批判されたのであった。

日本資本の直接投資は主に労働集約的な工業に限られた。1970年には南海岸の馬山に輸出自由地域、73年には朴正煕大統領の出身地、慶尚北道の亀尾に電子工業中心の工業団地が造成された。ここに進出した日本の企業といえば、繊維産業とか電機メーカーなど、日本国内で賃金上昇のために競争力を失いかけた中小企業であった。なかには公害産業もあった。
馬山の例で見られるように従業員には女子労働者が圧倒的に多かった。74年6月現在、男子5908名に女子1万8667名で、その比率は1対3強であった(隅谷前掲書)。ここで女工哀史が伝えられるのは、ほとんど避けられないことであった。一例としてここに1974年当時の新聞投書を一つあげてみることにしたい。
私は光州・・・という紡績会社で働いている月給1万2千ウォン(日賃約9千円)を受けとっている女工です。私の会社に新しく赴任してきた次長の職位をもつ人があまりにもいじめるので会社に通うなんてやり切れないし、くやしくってたまりません。彼は課長、係長、現場監督などを悪意に満ちた人に代えました。赴任早々、毎日油と塵と湿気で濡れている作業靴を白い運動靴にかえさせました。勤勉な習性をつけるためだそうです。それでなくても時間が足りなくて睡眠不足なのに仕事が一つ増えたのです。彼は暴言を吐きながら作業場を荒し廻って不安に戦かせます。少しでも間違ったら、その暴言は話にならないほどです。女工たちの不満が爆発しそうです。雑役人夫をなくしてわれらは掃除のために1時間早く出勤しなければならなくなりました。もちろん手当はありません。朝5時出勤で仕事が終っても1時間清掃に1時間教育です。私は注油工として以前は3,40台を担当していましたが、今は百台を担当するようにといわれ、いやなら出てゆけというのです。わが会社の3千名の無力な女工と労働者をかえりみてくれるところはないでしょうか。(T・K生『韓国からの通信』)
これに続いてこの通信にはつぎのようなコメントがつけ加えられている。
韓国の縮図をみるような気がしてならない。最近は政府が労働者の問題、とくに日本企業にいる労働者の問題も権力維持に脅威を与えるのではないかと恐れる気配がある。そこで労働庁も馬山輸出自由地域に対する調査をして中間報告を発表した。新聞は「零点下の作業環境―外国人業体」というタイトルで報道した。これは勿論、馬山にある日本企業のことである。「振動、騒音、ガスの噴出、鉛粉摩、照明、幅射熱、湿度等の産業災害」によって毎日40名内外が病院をたずねるという。2月の1ヶ月中に述1千名以上が病院通いをした。日本企業の中には摂氏400度以上の熱い鉄水を扱う人々に防熱服や靴を支給していないところもあるといわれている。早く日本から公害調査団がくるか、日本の労働組合が何かの対策をとるかしてもらいたいと話し合われている。
たとえそのような過程をへて、韓国経済が今日「漢江の奇蹟」を達成しえたといっても、女工哀史の時代に犯した非人間的な罪悪は償い切れないのではあるまいか。そのつけは支払われねばならない。たとえばそのような時代における日韓関係は、1945年以前の日本の朝鮮植民地時代の辛い経験と同じように、韓国人の心のなかに対日批判意識として今も沈澱しているということを忘れてはなるまい。

従属理論の台頭
労働問題を提起したり、日系企業の問題を取り上げたり、対日批判を行なったり、民族自主経済を唱えたりすることは、朴正煕政権によって極度に抑えられた。それは朴正煕政権自体に対する挑戦と見なされた。そのために朴政権は買弁政権として批判され、このような政治的、経済的な支配の下では、経済発展などありえないといわれた。批判勢力はこういう状況では開発途上国というよりは半永久に低開発国家にとどめられるだけだと主張したのであった。
このような従属理論が1970年代を中心に韓国のおいても多くの知識人と若い人たちを魅了したように見えた。暗い時代であったから、それは当然であった。その理論においては日本が明治維新以降近代化に成功しえたのは、日本が大国に非従属でありえたからであると説明された。
従属理論の立場からいわゆる反外勢、すなわち来日に対する抵抗のナショナリズムが台頭した。それとともに朝鮮半島の統一なしにはこの外勢との戦いに勝利しえないというので、南北統一論が盛んに唱えられた。軍部政権はこれを左翼思想として弾圧した。
こういうなかで若い人たちは北朝鮮とその経済を高く評価しようとした。北朝鮮が世界の資本主義に対して閉鎖的であるのは民族自主経済を打ち立てるためである、と讃えることをはばからなくなった。韓国の知識人や若い人たちが1950年の朝鮮戦争以降、北朝鮮をもっとも高く評価した時代として、1970年代と80年代初半は、多分に異常であった、とさえいえるかもしれない。
1980年代の光州事件によってこのような歴史認識はいっそうかき立てられた。そのときから1987年、全斗換政権が退陣するまでが、韓国において反米感情のもっとも高まった時期であるといえるであろう。しかしそのような状況のなかでも韓国経済は発展し続けた。やがて韓国経済が世界市場に統合され、短縮成長の道を択んだことが、少なくとも経済成長の面では正しかったといわれた。何よりも韓国経済が北朝鮮の経済に対して圧倒的な優位に立っていることが、世界的に認められるようになったからであった。
こうして従属理論は実証的に退場を余儀なくされたといえよう。それは近代化の初期段階における民衆の絶望的心情の反映に過ぎなかったといわれるかもしれない。従属理論の退場とともに反米、反日そして北朝鮮へ傾倒した南北統一論や民族自主経済論も、影が薄くなってきた。そこに世界史的には東欧圏の崩壊が伝えられるようになった。

高度成長への背伸び
70年代、80年代の高度成長期のなかでも、輸出高が200億ドル台を大はばに超えて206億7080万ドルを記録した1981年は特筆されるべきなのかもしれない。政治的には光州事件後、混迷を深めたのにもかかわらず、経済は高度成長を続けた。1986年には輸出が339億1320万ドルを記録して、輸入297億730万ドルに対して、42億ドル以上の黒字を出した。88年の経営黒字は142億6000余万に達した。輸入代替工業化をへて輸出指向の工業化にかなり成功し、それに従って幅広い国内市場も成立するに至った。韓国は「漢江の奇蹟」を成しとげたわけである。南北朝鮮のあいだの恐ろしい軍事的対立、国内政治の弾圧と混乱、そして社会の精神的頽廃にもかかわらずである。
このような経済発展に1965年の日韓条約とその後の日韓関係も、少なからず寄与したとはいっても、長いこと日韓癒着という暗い面がつきまとっていた。日韓貿易においては韓国側の赤字がますます増大した。1994年度の対日入超は118億ドルである。韓国は輸出産業が発展すれば発展するほど、日本からの資本財や部品の輸入を増やしていかねばならない。対日輸出は伸び悩んでいるのに貿易自由化とともに、日本からの質の高い商品の輸入は増え続けている。韓国は世界市場で稼いだ分をそっくり日本に渡しているとさえいわれている。韓国の1993年の国民総生産は5・8パーセントの成長を示し、1人当り国民所得は7670ドルに達して、世界32番目である。第3位の日本の3万1450ドルに比べればその4分の1にも満たないが、1953年に比べれば111倍に増加したと推計されている。国民総生産は1970年に世界において33位を占めたが、いまは12位になっている。韓国銀行は、94年度には国民所得が8483ドルに上ったと発表した。




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