日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

טרורدہشت گردیテロリズム★日本の極左過激派★Red Army Faction in Japan「赤軍派」(よど号)Japanische Rote Armee 「日本赤軍」(テルアビブ事件)Armée rouge unifiée「連合赤軍」(浅間山荘事件)とは?☆カナダでの秘話☆(2016/09)『徐霊』Trouble de la personnalité antisociale반사회성 인격장애反社會性人格障礙

若い世代の方々は(わたしのアブク世代すら)ほとんどなじみがないはず。いわゆるたんなる「暴力集団」。これについては警視庁公安部の「政治(思想)犯ではない刑事犯だ」が正しい。2016年9月某日
 テルアビブ空港乱射事件(テルアビブくうこうらんしゃじけん)は、1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)で発生した、後に「日本赤軍」を名乗る日本人極左過激派組織。別名はロッド空港乱射事件+英語⇒The Lod Airport massacre was a terrorist attack that occurred on May 30, 1972, in which three members of the Japanese Red Army recruited by the Palestinian group called the Popular Front for the Liberation of Palestine-External Operations (PFLP-EO), attacked Lod airport (now Ben Gurion International Airport) near Tel Aviv, killing 26 people and injuring 80 others. Two of the attackers were killed, while a third, Kōzō Okamoto, was captured after being woundedPS:到着した日本人三人が自動小銃を乱射。赤軍派(日本赤軍)をなのった。26人死亡・73人負傷。岡本公三(イスラエル軍事法廷で終身刑(政府は死刑を要求していた)ラムロ刑務所服役・85年にイスラエルとパレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-GC)の捕虜交換により釈放→レバノンに入り、赤軍メンバーたちに合流・英雄としてレバノンで永久亡命と政府保護下にある(歓呼の群集に迎えられ、胴上げ・イスラエルとアメリカがどれほどひどいことをしているかの証明でしょう)以外の2人は当局側との銃撃戦で射殺された(その1人、奥平剛士(重信房子の戸籍上の夫)の弟奥平純三(ヨルダンで逮捕され、強制送還=)も岡本より前に東京拘置所からハイジャックによる超法規的措置で赤軍が奪還。国際指名手配犯・まだ逃亡中*)
この一連の「赤軍」どうこうは「社会主義」だの「共産主義」云々は現在の自称「右翼」文藝春秋や産経新聞そのもの=さかさま=悪質暴力「極左」無差別テロ集団。自称「共産主義」人間に過ぎない(特に永田洋子を筆頭とする「連合赤軍」がひどい+明確な目的と主旨がいまだにはっきりしていない・重信や和光なども自己批判ばっかり)。
最適例:カンボジアのポルポト(75年の「仏印同時革命」3年9ヶ月で約300万の’自国民’を虐殺した「クメールルージュ」(赤色クメール)政府・派ににている(ポルポト(1998年に死亡)はじめみんな「フランス留学組」である(ちょうどベトナムの指導者たちホーチミンやザップ将軍(ともにフランス語に堪能)たちと対極に位置する・ベトナム人を虐殺し頻繁に国境侵犯をくりかえし挑発・中ソ対立のあおりで中国が後ろだて=最低)・(元首相・本名サロット・サル・義弟イエン・サリ(副首相兼外相・1978年来日・日本政府(園田外相(三木内閣)と会談)はポルポト派を支持(アメリカにならい・反ベトナムだからだけ)ポルポト正妻の妹が奥さん・2013年に死亡)・キュー・サムファン(国家幹部会議長(ソ連の最高会議幹部会議長=名誉’大統領’(国家元首)といっしょ・副首相兼国防相・存命中)もともとはポルポト派ではない。理論家で質素だった=ポルポトたちが「ベンツ」・サムファンだけ「自転車」)91年の和平会議でタイの本拠地からプノンペンに現れた(猛り狂う民衆の投石などにあい頭部から出血。中国大使館に避難)たちの「無思想・無目的の叛旗」(ヒトラー・ナチスも同類)をひるがえした「殺人集団」(「毛沢東思想」(文革当時)どころか「共産主義」「社会主義」も2年後はじめてぬかした寝言(77年)。民主カンプチア(カンプチア社会主義)なんてのも後からつけた国名。
*1980年代前半。モントリオールのさる「小料理屋」(というより「赤提灯」の北米日系版みたいなていど)にあらわれたのは「岡本」だと噂されたそう。「いか納豆」だの「煮込み」などもでる小さな日本食料理屋(ラーメン頼んだら「出前いっちょう」だったのにはまいったけど(苦笑)。私が詳しく話を聞いた感じではこの奥平(を髣髴させたけどこれはどうもなりません)みたいな気がした(岡本は理論もヘッタくれもない単なる小男。無鉄砲な「一兵卒」に過ぎない「(日本に)帰りたい・・・あと4~5年したら大丈夫」(2017年のインタビューで)などといってましたよ。拷問とリンチでややおかしくなってる。また日本語しかしゃべれない+2017年4月下旬、ベイルートで毎日新聞の取材に応じ、「一度は(日本に)帰りたいが、普通には暮らせないだろうから帰国にこだわりはない」と語った)。「岡本公三というのはケンカはあまり強くないんですよ。(強く)ないのに、強い連中に突っかかって行くんですよ。負けると分っている強いやつにケンカしかけていくんですよ。無鉄砲な性格」(熊本の高校友人談話)。次兄武(依然として指名手配中→落盤事故により、すでに死亡(岡本談))は「よど号」から平壌入りした赤軍派のひとり(すでに現地で結婚した日本人妻たちなどのほとんどが死亡・子どもたちはほとんど日本に帰国)。他のは77年「ダッカ事件」の奥平(1998年(平成10年(偽造旅券で日本に入国していたことが判明・むかしのただならぬ狂気殺人者の目つきからただのオッサン表情(現在の指名手配写真もこれにかえられた)はじめ。真の「組織者・実行者」(理論面も担当)。ちょうど相次ぐめだった連中の逮捕と自殺や射殺などで空白となった「指導層」あなうめのためこの奥平の奪還が主目的(まだ逃亡中の仁平映(一般刑事・殺人犯として服役していた)や東アジア反日武装戦線の大道寺あや子(北海道出身・逮捕時、青酸カリで自殺を図ったが失敗。夫は大道寺将司(北海道出身・75年に逮捕され、87年に死刑判決。2017年、執行されないまま東京拘置所で多発性骨髄腫により死亡)元爆弾テロ犯人・共犯者の桐島聡(広島県出身)は(75年から)依然逃亡中(全国指名手配=この写真(長髪で眼鏡、笑顔=ひとりだけ異様で目立ってた)はどこでも頻繁に拝んだので(我々の世代以上の方ならみれば、「ああ」って思い出す人も少なくないはず)よく覚えている)、生死及び行方とも一切不明。警察も全く手がかりが摑めていないらしい)はおまけ指名に過ぎない+PS:さっき調べて啞然としたのは坂東國男(滋賀県出身・1972年2月19日に警察の手から逃れるために仲間4人とともにあさま山荘事件を起こすが、2月28日に逮捕される。1975年に日本赤軍によるクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放・国外脱出し日本赤軍に参加)が以下⇒その重信が2001年に日本赤軍の解散を宣言した直後に大道寺あや子とともに「日本赤軍解散宣言無効宣言」を表明したみんな冷戦終了とともに岡本以外本国送還(刑務所で服役中)。「新聞記事」に4人(岡本・和光・戸平・足立)がベイルートで拘束後「日本に送還されるなら自殺する」(みんな並んで勇ましいガッツポーズ=「反故」にしましたねあんたら)と宣言した写真をみた(「公約」はまもったほうがいいような・・・最低でも「釈明」)。
(ベトナム・ラオス(パテト・ラオ・カイソン主席(カイソーン・ポムウィハーン(ラーオ語: ໄກສອນ ພົມວິຫານ,Kaysone Phomvihane, 1920年12月13日 - 1992年11月21日)はラオスの政治家、革命家。初代ラオス人民革命党中央委員会書記長・議長、初代ラオス人民民主共和国首相、第2代ラオス人民民主共和国主席などの要職を務め、同国の最高指導者の地位にあった+フランス語→Kaysone Phomvihane (13 décembre 1920 - 21 novembre 1992), est un homme politique laotien. Il fut le dirigeant du Pathet Lao, puis du Parti révolutionnaire populaire lao de 1955 à sa mort, bien que son fondateur, le prince Souphanouvong, fût beaucoup plus connu sur la scène internationale.)・まだ同じ社会主義体制=北朝鮮よりは「開放的」で、むしろ「中国」(社会主義市場経済)や「ベトナム」(ドイモイ(刷新)87年当時のグエン・バン・リン書記長(グエン・ヴァン・リン(ベトナム語: Nguyễn Văn Linh, 漢字: 阮文霊, 1915年7月1日 - 1998年4月27日)は、ベトナムの政治家。ベトナム戦争時のベトコン政治指導者で、1986年-1991年、ベトナム共産党書記長。在任中、リンは、ベトナム経済の市場経済化をめざした経済計画「ドイモイ」(刷新)の強力な支持者であった。そのため、リンはしばしば、ペレストロイカを始めたソ連指導者になぞらえ、「ベトナムのゴルバチョフ」と称えられた一方で政治的には民主化を嫌う保守派であったドイツ語→Nguyễn Văn Linh (* 1. Juli 1915; † 27. April 1998) war ein vietnamesischer Revolutionär und Politiker, während des Vietnamkrieges ein Guerillakämpfer der Nationalen Front für die Befreiung Südvietnams. Von 1986 bis 1991 war er Generalsekretär der Kommunistischen Partei Vietnams.Nguyen war ähnlich wie sein Nachfolger Đỗ Mười Vertreter von marktwirtschaftlichen Reformen ohne politische Liberalisierung und wurde 1991 angeblich aus gesundheitlichen Gründen abgelöst)後任ドー・ムオイ氏(ドー・ムオイ(ベトナム語: Đỗ Mười, 漢字: 杜𨒒, 1917年2月2日 -)は、ベトナムの政治家。第3代ベトナム社会主義共和国首相や第4代ベトナム共産党中央委員会書記長を務めた ロシア語→До Mыой (вьетн. Đỗ Mười, 2 февраля 1917 года, Ханой, Французский Индокитай), настоящее имя Нгуен Зуи Конг (вьетн. Nguyễn Duy Cống) — государственный и политический деятель Вьетнама, генеральный секретарь Коммунистической партии Вьетнама с 1991 по 1997 годы, премьер-министр Вьетнама с 1988 по 1991 годы.)’が引きつぎ現実化)が声明)=でも、2000年代?元モームスの矢口真理嬢が写真集を・時代の流れを感じました(笑)ポルポトはフランスだけでなく欧米諸国。全世界にいるカンボジア人に「祖国再建の協力」のため帰国を求めた。もどってきた人間を全員殺してしまう。ひどい凶悪集団・・・日本軍の憲兵隊や特高警察に共通する残酷きわまりない拷問と人権侵害に狂奔)。元教会は「ブタ小屋」・高校を「拷問室・監禁室」刑務所にかえた。200万人口だったプノンペンの住民は全員退去命令。1977年の時点でポルポト軍警備隊が数万いるだけの「月世界」となる。
【参考文献】①本多勝一『カンボジアはどうなっているのか?』1978年・ すずさわ書店②本多勝一、高橋実、吉田元夫著 井川一久編『このインドシナー虐殺・難民・戦争』1980年・連合出版社③ウィルフレッド バーチェットWilfred Burchett(著), 土生長穂訳『カンボジア現代史』1983年・連合出版
日本赤軍(にほんせきぐん)は、中東など海外に拠点を置いて活動を行っていた日本の新左翼系団体。国際テロ組織。1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子らが結成し、1970年代から1980年代にかけて多数の無差別テロ事件(日本赤軍事件)を起こした。2001年に解散。アメリカ合衆国国務省の国際テロリズム対策室は日本赤軍を「国際テロ組織」と認定していたが、解散したために認定を解除した。
テルアビブ空港乱射事件1972年5月30日、奥平剛士、安田安之、岡本公三らがイスラエルのテルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製の自動小銃Vz 58と手榴弾で攻撃。ターミナルに居合わせた民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)し、民間人を狙った無慈悲な無差別テロ事件として国際的な非難を呼んだ。当時はパレスチナ人によるテロ行為への警戒が厳しく、そのためPFLPは日本人による攻撃なら警戒されないだろうと考えて日本赤軍に攻撃を依頼したとされる。岡本公三が逮捕され、残りの2人は死亡した(自殺説と射殺説がある)。なお、この事件の首謀者たちは「日本赤軍」とは名乗っておらず、日本赤軍としての意識もないので、厳密には日本赤軍の起こした事件ではなく、日本赤軍の前史に属する事件ともいえる。
ドバイ日航機ハイジャック事件
1973年7月20日、丸岡修と4人のPFLPメンバーが、パリ発アムステルダム経由東京行きの日本航空のボーイング747型機をアムステルダム離陸後ハイジャックした。ハイジャック直後に2階のラウンジ付近で手榴弾が爆発し犯人グループ1人が死亡、客室乗務員1人が軽傷を負った。
その後、アラブ首長国連邦のドバイ国際空港、シリアのダマスカス国際空港等を経由し、リビアのベンガジ国際空港へ向かった。乗員乗客141人の解放後機体をベンガジ空港で爆破し、リビア当局に投降した後、リビア政府の庇護の元逃亡した。
シンガポール事件
1974年1月31日、和光晴生と山田義昭とPFLPメンバー2人の計4名が、シンガポールのブクム島にあるロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設を襲撃し、移動用ボート「ラジュー号」を乗っ取り、乗員5人を人質に取り、国外への移送を要求した。しかしシンガポール政府はこの要求を拒否し、膠着状態に陥ったものの、その後2月6日に下記の在クウェート日本大使館占拠事件が起きたことで、日本政府の要請を受けて急遽シンガポールに派遣された日本航空の特別機で、2月8日に4人は武装したままクウェートに向かった。
在クウェート日本大使館占拠事件
上記のシンガポール・シージャック事件が膠着状態に陥ったため、これを打開するために日本赤軍とPFLPのメンバー5人がクウェート市内にある在クウェート日本大使館を2月6日に占拠し、大使以下の大使館員ら12人を人質に取り、シンガポール・シージャック事件の犯人の武装したままでの国外逃亡を要求した。これに日本政府とシンガポール政府が応じ、2月8日に日本政府が用意した日本航空の特別機で犯人4人をクウェートに移送した。
さらに同機はクウェートで大使館占拠事件の犯人らを同行し南イエメンのアデンへ向かい、現地で投降した。なお投降した両事件の犯人グループは、その後南イエメン政府の黙認の元逃亡した。

ハーグ事件
1974年9月13日、奥平純三、和光晴生、西川純の3人が、拘束されたメンバーの釈放を目的にオランダのハーグにあるフランス大使館を占拠した。フランス政府は超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。
クアラルンプール事件
1975年8月4日、拘束されているメンバー及び、仲間に引き入れようと目をつけた新左翼活動家の釈放を目的に、マレーシアの首都クアラルンプールにある、アメリカとスウェーデンの大使館を占拠し、アメリカの総領事らを人質に取った。日本政府(首相:三木武夫)は要求に応じ、超法規的措置として日本赤軍への参加を拒否した2人を除く5人釈放した。
ダッカ日航機ハイジャック事件
1977年9月28日に、インドのボンベイ国際空港を離陸直後の日本航空のダグラスDC-8型機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させた。福田赳夫首相は要求(クアラルンプール事件と同じような内容)に応じ、「超法規的措置」として拘束中のメンバーら6人(日本赤軍・奥平純三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博と仁平映)を解放し、600万ドルの身代金を支払った。釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した。日本政府がSATを設置する要因となった事件。
ジャカルタ事件
1986年5月14日に、ジャカルタのアメリカ大使館にロケット弾が発射された。その後の現場検証で発射元のホテルの部屋から城崎勉の指紋を採取したため、日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定された。
三井物産マニラ支店長誘拐事件
1986年11月15日午後3時頃、三井物産マニラ支店長である若王子信行が、ゴルフ帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍(NPA)のメンバー5人に誘拐された。1987年1月16日、三井物産本社や報道各社に脅迫状や写真、テープが届いた。写真は、誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱々しい声が吹き込まれていた。
その後、数回脅迫状が届き、同年3月31日の夜にケソン内の教会脇で解放された。解放された被害者に怪我はなく、写真やテープは犯人の偽装であることが解った。このことから、この事件は身代金目的の誘拐事件と見られている(NPA中央の声明によると、末端のメンバーが勝手に行ったことで、人質と引き換えに1000万ドルの身代金が支払われたとのこと)。
1991年に逮捕された犯人達は、「日本赤軍の協力があった」旨の供述をしている。(主にフィリピン国外で行われたとみられる身代金の受け取りに協力したと考えられている)。
ローマ事件
1987年6月9日。ベネチア・サミット開催中、ローマのアメリカとイギリス大使館にロケット弾が発射された他、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」名で声明が出される。レンタカーから奥平純三の指紋が検出され、イタリア公安当局から奥平純三の犯行と断定された。ナポリ事件
1988年4月、イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人とアメリカ空軍兵士ら5人が死亡した。日本赤軍自身はこの事件の犯行を否定している。
当初はレバノンのベカー高原を主な根拠地に活動し、1970年代から1980年代にかけてパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、主に日本のフラッグキャリアである日本航空機を対象とした国内外における一連のハイジャック、反イスラエル闘争としての空港襲撃に伴う一般人を対象にした乱射事件、大使館などの外国公館への武装攻撃、身代金や同志奪還を目的としたハイジャックなどの事件を繰り返した。PFLF及びパレスチナ解放機構を支援していたシリアのハーフィズ・アル=アサド[1]やリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーらからの援助を受けていたといわれている。
1972年5月30日にイスラエルのベン・グリオン国際空港で起こした「テルアビブ空港乱射事件」では、搭乗客や駐機中の旅客機を対象にした無差別乱射を行い、一般市民を中心に100人以上の死傷者を出した。この事件はPFLPの要請によって行われたものである。この自称「リッダ闘争」により、反イスラエル感情が強いアラブ諸国で日本赤軍は「英雄視」され、過激派が日本赤軍の自爆テロを模倣するようになったという意見がある(ただし、「リッダ闘争」を行ったのは奥平剛士らの出身母体である「京都パルチザン」(銀閣寺アジト・グループ)であり、「リッダ闘争をやったのは日本赤軍である」というのはウソであるという主張もある)。
初期の活動はKGBのエージェントでもあったワディ・ハダド(アブ・ハニの変名で知られる)率いるPFLPの分派組織「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部」(PFLP-EO)に指導される形であったが、1974年以降はその指導下を離れ、重信房子と丸岡修を中心として、独自の闘いを模索していった。この頃、「アラブ赤軍」などの通称で知られたこの組織が正式に「日本赤軍」を名乗るようになったとされる。末期
その後も1980年代中盤にかけて、いくつかの武装ゲリラ活動をアジア諸国やヨーロッパ諸国を舞台に引き起こした他、「三井物産マニラ支店長誘拐事件」などにおいて他の武装組織への協力を行ったが、欧米各国、イスラエル、日本などの西側諸国化の対テロ対策や資金規正の厳重化、アラブ諸国政府からの支援減少などにより、活動は先細りとなっていった。さらにソビエト連邦が崩壊により冷戦が終結した1990年代以降には、その思想が完全に時代遅れとなったことから新規の支持者や支援者の獲得が更に困難となり、またイスラエルや西側諸国と対立していた政府や各国の反政府組織からの資金協力や活動提携がほぼ完全に途絶えたこともあり、1990年代に入ると「日本赤軍」としての活動はほとんど行えない状況となった。
壊滅 さらに1980年代後半から1990年代後半にかけて、逃亡を続けていた丸岡修や和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は完全に壊滅状態に追い込まれた。
1987年11月:東京都内で潜伏していた丸岡修が逮捕された。
1995年3月:ルーマニアに潜伏中の浴田由紀子が発見され、国外退去処分となり逮捕された。 日系ペルー人を装い
ペルーの偽造旅券を所持していた。
1996年6月:ペルーに潜伏中の吉村和江が発見され、国外退去処分となり逮捕された。
1996年9月:ネパールに潜伏中の城崎勉が発見され拘束された。
1997年2月:レバノンに潜伏中の和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三が発見され拘束された。戸平が所持していたのは北朝鮮とよど号グループによって拉致されたとされる石岡亨名義の偽造旅券であった。岡本を除く4人は日本へと送還された。
1997年11月:ボリビアに潜伏中の西川純が発見され逮捕された。その上に2000年11月には、「最高指導者」の重信房子も潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で大阪府警警備部公安第三課によって逮捕された。その際に、押収された資料により1991年から日本での武力革命を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立していたこと、またそれを足がかりとして社会民主党(旧日本社会党)との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。「希望の21世紀」は同事件に関連し警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。社会民主党区議自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」として関係があったことを否定した。

「解散」:上記のように、1980年代後半以降の主要メンバー逮捕、既存シンパの高齢化、活動の根拠、思想が時代遅れとなったこと、そして新規の支持者や資金などの獲得が困難になった事により、1990年代後半には事実上の解散状態となった。これを受けて2001年4月に重信は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行ない、正式に解散した。後継組織として「ムーブメント連帯」が設立され、現在も設立当時からの支持者などを中心に少数の支持者がいるとみられているが、その多くは上述のように高齢化が進み、さらにこれを受け継ぐ支持者も少ないために年々その数は減少しているとされる。
解散後: 重信房子は「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と自己批判している。但し、テルアビブ空港乱射事件などへの見解は変えていない。ハーグ事件等に関与し1979年に日本赤軍を脱退した和光晴生は2005年に元メンバーの山本万里子が万引きして逮捕されたニュースを受けて、「この件は日本赤軍の実態・実状を示したものであり、かつてヨーロッパで商社員誘拐未遂だとか、大使館占拠や飛行機乗っ取り等を実行してきた組織には、反社会的・反人民的性格があった」と述懐、自己の過去を含め批判した。その後も日本赤軍の過去の内情に批判的な著作を出している。毎年、5月30日には「リッダ闘争」(テルアビブ空港乱射事件の日本赤軍、パレスチナ側の呼称)を記念する会合が日本とレバノンで行われており、重信房子も賛同メッセージ及びイスラエルなどへの徹底抗戦の檄文を送っている。
Shigenobu had been a leading member of the Red Army Faction (Sekigun-ha) in Japan, whose roots lay in the militant new-left Communist League. Advocating imminent revolution, they set up their own group, declaring war on the state in September 1969. The police quickly arrested many of them, including founder and intellectual leader Takaya Shiomi, who was in jail by 1970. The Sekigun lost about 200 members, and the remnants merged with a Maoist group to form the Rengo Sekigun or United Red Army in July, 1971. This group became notable during the Asama-Sanso incident, when it purged twelve of its members in a training camp hideout on Mount Haruna, before a week-long siege involving hundreds of police. Fusako Shigenobu had left Japan with only a handful of dedicated people, but her group is said to have had about 40 members at its height and was from the Lod airport massacre on one of the best-known armed leftist groups in the world. The Japanese Red Army, Nihon Sekigun from 1971 had very close ties to the Popular Front for the Liberation of Palestine (PFLP). By 1972 the United Red Army in Japan was finished and the Shigenobu group dependent on the PFLP for financing, training and weaponry.In April 2001, Shigenobu issued a statement from detention declaring the Japanese Red Army had disbanded.A 2011 NPR reported Tsutomi Shirosaki, a member of this group was imprisoned in a highly restrictive Communication Management Unit in the American Midwest.The National Police Agency publicly stated that a successor group to the JRA was founded called Movement Rentai.Known members
Fusako Shigenobu, founder and leader, arrested in Osaka, Japan, November 2000. Shigenobu is accused of orchestrating attacks, kidnappings and hijackings. At one time labeled by critics as "the most feared female terrorist in the world"[citation needed], she helped plan the 1972 attack at Lod Airport. A court in Tokyo sentenced her in February 2006 to serve 20 years in prison.
Haruo Wakō, former leader, arrested February 1997.
Osamu Maruoka, former leader and hijacker of two aircraft, was arrested in November 1987 in Tokyo after entering Japan on a forged passport. Given a life sentence, he died in prison on May 29, 2011.
Yū Kikumura was arrested with explosives on the New Jersey Turnpike in 1988 and served over 18 years of a 30‑year prison sentence in the United States. In April 2007, Kikumura was released from US incarceration and immediately arrested upon his return to Japan. He was released in October 2007.
Yoshimi Tanaka was sentenced
to 12 years for the Yodo-go hijacking that ended in North Korea.
Yukiko Ekida, former member of East Asia Anti-Japan Armed Front and a long-time JRA leader, was arrested in March 1995 in Romania and subsequently deported to Japan. She received a sentence of 20 years for attempted murder and violating the explosives law in a series of bombings targeting large companies in 1974 and 1975. The trial of Ekida was originally started in 1975 but was suspended when she was released from prison in 1977. Her release was part of a deal with the Japanese Red Army during the hijacking of a Japanese airliner to Bangladesh.[8]Kōzō Okamoto is the only survivor of the group of three Guerrillas attacking the Israeli Lod airport in 1972, now called Ben Gurion International Airport. He was jailed in Israel, but in May 1985, Okamoto was set free in an exchange of prisoners between Israeli and Palestinian forces. Subsequently, he was imprisoned in Lebanon for three years for forging visas and passports. The Lebanese authorities granted Okamoto asylum in 1999 because he was alleged to have been tortured in prison in Israel.
Masao Adachi, Kazuo Tohira, Haruo Wakō, and Mariko Yamamoto were also imprisoned in Lebanon on charges of forgery yet were sent to Jordan. As the Jordanian authorities refused to allow them into Jordan, they were handed over to Japan.Kuniya Akagi, a collaborator of the JRA, was arrested after returning to Osaka from Pyongyang via Beijing in order to be questioned over the kidnapping of three Japanese nationals in Europe by North Korean spies in the 1980s. He is linked to Shirō Akagi, who took part in the Yodo-go hijacking (See also: Japan Airlines Flight 351).Hiroshi Sensui, a JRA militant living in the Philippines, was arrested by the Integrated National Police as part of anti-terrorist measures to prevent terrorist incidents from taking place in the Seoul Olympic games after being tipped off by the Japanese National Police Agency.
Kunio Bando was a key member and is still on Interpol's wanted list. He may have taken refuge in the Philippines in the year 2000.

Activities 
During the 1970s and 1980s, JRA carried out a series of attacks in Japan and around the world, including:
March 31, 1970: nine members of the JRA's predecessor, the Red Army Faction (whose leaders had been a part of the Communist League before they were thrown out), conducted Japan's most infamous hijacking, that of Japan Airlines Flight 351, a domestic Japan Airlines Boeing 727 carrying 129 people at Tokyo International Airport. Wielding katanas and a bomb, they forced the crew to fly the airliner to Fukuoka and later Gimpo Airport in Seoul, where all the passengers were freed. The aircraft then flew to North Korea, where the hijackers abandoned it and the crewmembers were released. Tanaka was the only one to be convicted. Three of Tanaka's alleged accomplices later died in North Korea and five remain there.




↑「超法規的措置」により東京拘置所から羽田空港へ移送された奥平を筆頭に仁平、城崎さらに大道寺が出て来る。そして飛行機に乗り込む映像。
ルーマニア語→Armata Roșie Japoneză (日本赤軍 Nihon Sekigun, JRA) a fost o organizație teroristă de extremă stângă din Japonia, a cărei țel declarat a fost răsturnarea guvernului și a sistemului imperial japonez și declanșarea unei revoluțiii globale armate.フランス語→Armée rouge unifiée連合赤軍=L'Armée rouge unifiée (連合赤軍, Rengō Sekigun) est un groupe armé révolutionnaire japonais du début des années 1970. Fondé le 15 juillet 1971, ce groupe est surtout connu pour sa dérive sectaire qui a conduit ses membres à s'entretuer, les chefs exécutant une partie des militants au cours de séances d'« autocritiques » internes. Ce qui reste de l'organisation est ensuite démantelé par la police japonaise en 1972. 'Armée rouge unifiée compta 29 membres dont 14 furent exécutés par le groupe en moins d'un an. En août 1971, deux déserteurs sont lynchés et leurs corps enterrés dans le marais d'Inba dans la préfecture de Chiba. Durant l'hiver 1971–1972, l'Armée rouge unifiée se cache dans les montagnes de la préfecture de Gunma. Ils établissent des camps et s'entraînent à des fins militaires. Leurs chefs encouragent les combattants à examiner leurs faiblesses en critiquant et s'auto-critiquant, et ces sessions tournent en lynchage. Le groupe purge lui-même un par un les membres jugés insuffisamment « révolutionnaires ». La plupart des douze victimes sont attachées à des poteaux et laissées dans le froid, mais certaines sont battues à mort ou égorgées avec des couteaux. Le premier meurt le 31 décembre et le dernier le 12 février. Les chefs de l'Armée rouge unifiée n'admettront plus tard pas les tueries, mais nomment cela « mort par défaitisme » (敗北死, Haiboku shi). À la mi-février, deux hommes s'échappent, et les autres décident d'abandonner leur base en montagne, mais la police se rapproche d'eux. Fin du groupe Le 17 février 1972, la police, qui a découvert, non loin du mont Haruna, l’une des plus récentes caches de l’ARU, arrête ses deux leaders à Myōgi3 puis, le 19, quelques autres membres du groupuscule à la gare de Karuizawa (préfecture de Nagano)4. Les cinq derniers militants échappant encore à la police prennent une femme en otage et résistent durant neuf jours dans une auberge de montagne lors de l'affaire du chalet Asama. À la fin du siège, deux policiers et un civil sont morts. Tsuneo Mori se suicide en prison le 1er janvier 1973. Hiroko Nagata et Hiroshi Sakaguchi sont condamnés à mort. Nagata meurt le 5 février 2011 d'un cancer du cerveau en prison.
ロシア語⇒Фусако Сигэнобу (яп. 重信 房子 (日本赤軍(海外拠点)最高指導者) родилась 28 сентября 1945 года, Токио) основательница и руководительница милитаризированной коммунистической группы «Красная армия Японии». Дочь профессора, с отличием окончившая университет Мэйдзи, ставшая идеологом и лидером японской Красной Армии. Затем бежала в Ливан, где создала «интернациональную» группировку в содействии с Народным фронтом освобождения Палестины.Haruo Wakō (和光 晴生, born 1949 in Shiogama in Miyage prefecture) was a member of the armed militant group, the Japanese Red Army. He studied in Keio University and dropped out in 1970. He worked for a time as an assistant to the producer of leftist movies.  Haruo Wakō and two other members of the JRA were involved in the seizure of the French Embassy in The Hague in 1974. The ambassador and ten other people were taken hostage and a Dutch policewoman, Hanke Remmerswaal, was shot in the back, puncturing a lung. After lengthy negotiations, the hostages were freed in exchange for the release of a jailed Red Army member (Yatsuka Furuya), $300,000 and the use of a plane. The plane flew the hostage-takers first to Aden, South Yemen, where they were not accepted and then to Syria. Syria did not consider hostage taking for money revolutionary, and forced them to give up their ransom.  In 1975, Wakō and other members of the JRA seized the U.S. Embassy in Kuala Lumpur. Both seizures resulted in the successful demand for release of six fellow members (among others fellow French embassy hostage taker Jun Nishikawa) of the JRA from imprisonment in Japan. In May 1997, he was imprisoned in Lebanon on charges of forgery yet was sent to Jordan. As the Jordanian authorities refused to allow him into Jordan, he was handed over to Japan. On 23 March 2005 a Japanese court, presided by Judge Kunihiko Koma, sentenced Haruo Wakō to life in prison, after he and three fellow Japanese Red Army members were extradited to Japan from Jordan in March 2000. In Wako's case, the court dismissed prosecutors' arguments over the conspiracy charge.オランダ語⇒Japan Airlines-vlucht 351 werd uitgevoerd met een vliegtuig van Japan Airlines, dat op 30 maart 1970 tijdens een vlucht van Tokio naar Fukuoka werd gekaapt door negen leden van het latere Japanse Rode Leger. Het was een van de eerste aanslagen gepleegd door deze groep. In het Japans staat het incident bekend als de Yodogo-kaping (よど号ハイジャック事件, Yodogō Haijakku Jiken)インドネシア語→Kōzō Okamoto (岡本 公三 , lahir di Kumamoto, Jepang, 7 Desember 1947; umur 70 tahun) adalah seorang mantan militan komunis asal Jepang dan anggota Tentara Merah Jepang. Okamoto adalah seorang murid botani berusia 24 tahun dari keluarga kelas menengah saat ia direkrut pada Tentara Merah Jepang. Ia kemudian dibawa ke Libanon. Saat singgah di Libanon, Okamoto menjadi mualaf. Ia dicari pemerintah Jepang atas kegiatannya dalam Tentara Merah, dan ditahan Israel karena keterlibatannya dalam pembantaian Bandar Udara Lod.








PS:中学2年の夏休み、はじめて北海道に家族で旅行(*)。最後の日、札幌のビジネス・ホテルに宿泊。駅前の交番に貼ってあった重信を筆頭とする日本赤軍メンバーたちの「指名手配写真」(むろん、それまで東京はじめ方々で何度も目に入っていたけど、「赤軍」と個別に意識したのははじめてだった気がする)。何故か頭から離れず、1人でホテルから出て、再びそこへ戻り。重信、髭ずら長髪の和光、一番おそろしかった奥平さらに岡本(不気味な風采及び表情だった)ずっと結構な時間見入っていたのを鮮明に覚えている(自分でもつくづく「へんな奴」だったと今さらながら考える)。2020年10月26日、カナダ
*こちらは「思春期」「反抗期」真っ盛り(ご一緒に「旅行」どころか、顔もみたくなかった+そんなことが視野に入るような人たちではない)、ほとんど車の中で寝ていただけ(後々までネチネチとなじられた)←例によって「ご長男サマ」(常に優先、尊重される「お坊ちゃん」(中学生になっても(夜は怖くて)親と同じ部屋で寝ていた)丁重に扱われる「お殿さま」)が埒もない(いつでもどこでもいっしょ)、無節操な「おしゃべり」(漫才ブーム→B&B「なんちゃら名物’モミジ’まんじゅうぅっ~!(●_●」「おっさん、おっさん、そこの’ウシ’動かしてぇっ!(●_●」いつもの超音量’大声’)ツービート北野武流「残酷ギャク」(鎌田慧氏言)おおうけ話?(これはもっと前ながら)その時は「高校」「野球部」のよろず話、悪口+グチ)に延々と興じていたのを苦々しく回想する→「’俺は’冷たい人間なんだよぉっ」臆面もなく繰り返してた→「おまえ(’俺’)は’冷血動物’だ」(大好きな「北の国」白板お兄さん+’渡辺哉一(29歳?)’言→まさしく(本性は「連合赤軍」みたいな輩に限りなく近い))誰もいない「個人隔離病室」(「よく動く口」(を取ったら何も残らない=唯一のご自慢&’駄’特技、宝物?~♪女神がくれた最高の贈り物生まれつき~♪)に永遠チャック)ででも余生を送ってほしいもんだ「神妙にかしこまり」「オドオドとした無力な存在」にな’れよぉっ’!)~♪きみが’笑えば’まわりの人だっていつのまにか’不幸’せになる~♪(憤懣)~♪どうたら云々ク’ソ’マティー(^○^~♪(敬愛’師匠’「大東亜青年塾」’名誉’塾長流?Warren Livingston Cromartieウォーレン・クロマティ (né le 29 septembre 1953 à Miami Beach Floride, États-Unis) est un voltigeur de baseball. . . Expos de Montréal pendant 9 saisons)+「めくるめく不幸を呼び寄よせる男」(自称”暴力デブ太郎”⇒同質)そんなに死にたいならさっさと’1人’で勝手に死んだ「ほうがいい’ぜえ~’!」(’独善’「救世主」(「そう思いこんでるパラノイア」(ルパン3世)「そうだ、’私だ’!マモー(魔毛狂介?)!」)どころか「疫病神」に過ぎない(「ぃいいぃかぁげぇんにぃしたまえぇっっ!!(激怒)」(故西村晃(水戸黄門)氏)「あら、やだ、見てたのマモ~?
(^_^まぁもう~いやっ(笑)」(故山田康雄氏))~♪’俺(サマ→大好物のマンガ「はじめの退歩」鷹村氏式キャラ?)が’死ぬ時 ハンカチふって友よ彼女よネさようなら ダンチョネ ’俺が’死んだら 三途の川で鬼を集めて相撲とる ダンチョネ~♪(これみよがしにイチイチ(また大声で)歌いながらふんぞりかえる(外でやれっ!)なんでも’俺は’”俺の’’俺が’’俺たち’(「’俺たちっ’?!て(*_*;、ねえ、ちょっとそれどういうことっ?!(怒)」「金田ですっ!(^_^」「あのう、ちょっと、おじさんっ!」「おぉじぃさぁんんっっ??(怒筋)」「誰が’おじさん’だとこのやろおぉ~💢」アニメ映画『アキラ』)’俺も’(よしりん企画社長ご自慢の「わしズム」?Tōdai Icchokusenあの「体重測定日」’ク○まみれ’大爆発話も「これ、’おまえ’読めよぉっ!(●_●すっげえ’おもしれえ’からぁっ!(^○^」1ページ1ページ’師走’ご大層な’解説’(●_●までつけ’強制’《Trouble de la personnalité narcissique(Vulgar下品Crude)Génie anormal》→似たもの同士(嘲笑)~♪大人より素直にその全部’憎らしい’~♪「’俺(サマ)も’いま、頭が冴え’まくってる’からよぉ~!!(●_●」~♪Before the flame burns out!Until the flame burns out!~♪(『The Flame』(邦題『狂気の炎』)W.A.S.P. 1984)Psycho II サイコ2「は、やっぱ’おもしれえ’よぉっ!(怒)」Bates Motel?型「Oh~! That’s beautiful Go on Psycho! Pick it up! Come on! Pick it up!!」⇔Untreated Mental Illness 「Come on!! Wakco~!! Hey!! You suckin' shit!! Hey!! Psycho~!!」 =他人にとっては不吉な兆候なだけ)=’尊敬’しとる’偉人親友’(わけのわからん個人的なもの(自作’造語’やムラ内’流行語’も含め)を無関係の人間にまで押しつけて怖じない厚かましさ「(重病の人間に向かって会うなり)××ぜぇぇんゆうせぃい(全郵政=自分の「職場」関連)なんとか’だぜぇっ’!(●_●」(←他同様、むろん憶えてすらいない→)「××こぉぉれやろう’ぜえ~’!(●_●」~♪もう 鈍感ヤロー!パカーッ~♪(愛しの☆大島麻衣ちゃん☆笑)’名前’(もトラウマ(1)This guy goes by the name of Victor(Sammy?). His real name is Theodore Allen. Mr. Allen had a long history of serious mental illness(Sloth『Seven』1995)(2)My government name is Kevin Ketchum. My real name is 'Supreme Allah' 'Supreme Allah'(*_*; What kind of name is that?(『Oz』1997-2003)⇔こいつらがよみがえる怨)をつけるな!~♪熱くブレイクするギラギラに飾り立てた 男ぶり?スピード上げたあなたのテンションに 誘惑のスリル期待(したくない)するけど~♪」)云々の「墓の前」で死ぬんじゃなかったっけ?(次の日平然と帰ってきて。また、デカイ顔していばりちらし~♪わがままな 心なら booby trap 勇気もないくせに~♪(まさしく=嘲笑))やれ「線路に横たわる」だ「手首を切った」「大酒&ベンゾ大量摂取」「首をつった」「何年何月何日’死亡’」どうこう’遺書’(全部別のとき)までみたけど(はじめからそんな気なし⇔にべもなく反古にする「行動に対する責任が全く取れない」これだけ周囲に厄介を振りまいておきながら悪びれもせず全部忘れ「罪悪感が皆無」(当然のこと(十分でないとすら)ぐらいに片付けている+最適実例:(1)病院から’毒父’といっしょに帰ってきた途端(喜々とした顔面で)「云々’温泉’行こう’ぜえ~’!(●_●」ぶーたらと’いい年父子’仲良く元気溌剌(今でも殴り殺してやりたい怨)はしゃぎまわって(まさに’憧れ’の白板親子?)大騒ぎしてる(どうぞ’2人’で行って「来いよぉっ(冷淡)」)(2)「(大迷惑(中年男)常軌逸脱行動の直後)いやあ~昨日’酒’飲んで’俺も’鬱があっという間に去ったよぉっ!(●_●」なぞと目を輝かせて~♪国を出てから幾月ぞ~♪(とか口笛吹きながら(^○^大声で嬉しそうに歌ってる有様(おまえはその’昨日’まで(これで何度目だよ呆)一体何をやらかしてたばかり?💢)『愛馬進軍歌』でもねえだろてめえ憤激「3歳の童児」(ベンダサン氏言)そして(またすべて(永続スネかじり?)「親のカネ」で)精神病院へ逆戻り→この世の終わり?号泣)=「ニッポン一の無責任男」?)「自尊心が過大で自己中心的」反省もしなければ改めるなど論外、覚えてすらいない)「調子こかせてんじゃねえよ!調子をよォ!世の中ナメてんとこうなるんだっ!💢」(矢島正雄(原作)弘兼憲史(作画)青年漫画『人間交差点』第26巻(芸能プロダクション)「イナバ・コーポレーション」社長)甘ったれるな!)遠慮なく「青木ヶ原樹海」にでも入ってもう2度と出て来る「なよぉっ!(冷淡)」~♪Don't say I didn't warn ya I'mma make you read these Nikes~♪(「Homie don't play that!」Geto Boys,1991) 同質の「毒親」(おまえらもそうだこの野郎(怨)二言めには「’ご長男サマの’」「’ご長男サマは’」「すぐ’ご長男サマに’話して」「’おぉまえ’や’ご長男サマ’が’」「’ご長男サマは’’おまえなんて’もんじゃないよっ」「’おぉまえ’は’ご長男サマより’」(一緒にするな!)「’ご長男サマも’ねえ~、’ええ~ご’がどうこう」「’ご長男サマも’感心してるのは’ジャパンタイムズ’を毎日持っていってる(’持っていく’のは誰でもできる=笑)」「’ご長男サマも’ねえ~週末以外はほとんど飲まないでねえ~「’俺は’もう飲まないっ」て’いって’ねぇっ!(●_●」(「フフフ、バカ声を出さんと気力が充実せんとみえる」(マンガ『カムイ伝』第1巻)’興奮’し過ぎて’訛ってる’ほど’世紀の一大事自慢話?’「おにいちゅん?(松居女史)」「お、バカ師匠(43歳’神’無職&実家暮らし)。久しぶりやんか(今田隊長)」「いや、大丈夫やって(笑)!ばぁ~か師匠、引退しなぁさいっ(呆)!」「心のやさしさだけや、バカ師匠(^_^」)「(初老男)’ご長男サマも’たまごが大好きで2つ食べるから・・・大型シュークリームを毎日食べてるから(糖尿病が心配?)」(群ようこ『無印結婚物語』の一幕?)「You left the cap off the toothpaste again(怒De Niro)」「(長嘆息)What is that the best you can come up with? 」(Leonardo DiCaprio氏『This Boy’s Life』1993)「いま、ゴハン食べ’ち’きたっ!(●_●」「ぜぇぇんぶ食べ’ち’ったっ!(●_●」「’膝が’どうこう」「’お○りの穴が’かゆくてねえ~」My a×shole hurts. . . My di×k burns(?John Belushi『Salvador』1986)「あのな、(海外)子ども電話相談室じゃねえぞ💢」(All Under the Moon月はどっちに出ている)まさに~♪神さまどこにいるの~Help Me!涙~♪年中考えてるのはそんなことだけ→ひとことNone Of My Business!!-Cher Lloyd 2018 ~♪wasted too much time, Now I'm here a'cryin'~♪(『All Woman』Lisa Stansfield, 1991 )「’日本も’」「’云々も’」「(側のドブ)川に花が咲いてた」「北海道で大雪」「’こっちも’ねえ~」(相槌を打って聞かなければ腹を立てるAh~Mr. Vahue, Are you listening to me? Sure 'Soybeans'(リック・フォックスRick Foxカナダのオンタリオ州トロント生まれToronto, Ontarioの元バスケットボール選手、俳優Canadian / Bahamian)(時差もわきまえずに(先方の都合なんてどうでもいい)気ままにかけてくる「国際電話」だから参ってしまう(加えてしょっちゅう~♪留守電には不機嫌な声が~♪「たぁまぁにぃは電話ぐらい’しなさいよぉ~’!(怒)」堪忍袋破裂~♪邪魔すんなよ電話すんなよ~♪と懇願(2017)すればたちまち)「手紙の方が’いいだろうと思って’手紙にしました(おんなじ内容+まるで’幼稚園児’のごとくすねた’(毒)薬味’つき?’詰問調’「長(駄)文」攻撃)老化現象でしょうか。’膝が’云々グダグダグダ。’ご長男サマも’’ウンタラは’」とくるSorry butch(Bruno Goergen) Butch!(*_*;Yo!!(Augustus Hill)→無視してると、しばらくしてまた(自己愛憤懣、欲求不満の焦燥感ありあり)「メールも電話も来ないので心配してます(怒)’ご長男サマは’”どうこうも’(ドブ)川に花が咲いてました。今、見てきました」と続く2018(ゴミ箱行き)電話番号メアドすべて変えたI changed all my phone number and email(実はそのあともActually even after that(2020,2021’絶縁状’も効果がなかった血涙'Insulated' has no effect)’卑劣’な方法を用い、諦めなかったんですshe used the 'sneaky' method and didn't give up)いまは住所も違うI have a different address now)'I' been dancin' with ??She's been knockin' They won't leave me alone No, no, no~♪(『Mr. Brownstone 』Guns N' Roses 1887)Perpetual(~♪Torture~♪?The Jacksons 1984)Emotional Abuse寂寥)I don't take the shit from you guys today(怒)All you guys are doing is complaining man(呆)I’m not your fu*kin’ wife!!(涙) (John Turturro 『Jungle Fever』 1991) (^_^Jefferson Keane~♪ Ancient history Babe. . . Simon Adebisi(アドウェール・アキノエ=アグバエAdewale Akinnuoye-Agbaje)I'm done with you💢「Oz」Imam Kareem Saïd~♪さようならその時がきたのです~♪He( Donald Groves ) ate his parents(^_^ Get out of here. . .(*_*; Nino Schibetta ) That’s sick fu×k. . . I don’t know what the hell is matter with this country.いいたい放題(もりたくさんの指示・訓令・忠告・説教・講釈・意見・嘲笑・嫌味・皮肉込み(てめえらよお~気安く’おまえ’だの’あいつ’とかいってんじゃねえぞ!怨)自分たち自身の’素行’は常に「棚上げ」+たまに直接聞いた’日本語’(とりわけ過去10年)はこの人間たちの’寝言’’御託’がほとんど=耳障りな’声’’不快な’語調’とも余計頭に染みついて、離れてくれない号泣)まさに’延々’としゃべって満足したら(特に定年退職して’ヒマ’(より’本性’’素顔’があからさま)になってからがひどかった)ウソをついて切ってしまう「他人に対する思いやりに全く欠けており」「自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う」)Hey 'Beach ball'(^_^'Livestock'(^_^ That’s what you are(I am?) 'My Livestock' Hey! Skilinger!(Seamus O'Reily) Schillinger💢 Hey Come on Skilinger!! Schillinger!!💢「壁に」でもむかって、思う存分’1人’でしゃべってろ!!=吐気))入れて「3人組」(ostracismムラハチalienation疎外loneliness孤独→’窮死’候補?何でも’知ったかぶり’「ああいえば’上祐’」そのもの)以外、他の人に迷惑をかけるな!人生ではじめて(下の)人間が言うことを「真摯」に聞き、気持ちを「深刻」に受けとめてみろ!血涙(そんな良心がある人格じゃないのはわかってるけど)いつまでも思いあがるな!号泣こういう救いがたい傾向を(極めて遺憾ながら)自身が多分に受け継いでしまった面も(自分勝手(他者を尊重しない)非常識(尊敬の心を欠いた)及び不誠実な行動と態度(礼儀なき、無作法でわきまえのない)方々で顰蹙を買い(お詫びしたいです)様々な人たちに迷惑をかけてしまいました)認めざるを得ないので余計に気が滅入る(涙)こんな’密室’内’なんでもあり’式「自分が規準」めいたナルシシスト’破廉恥’共依存がまかりとおるのは「3人組」の中だけ→非常に’ずるい’人間たちVery 'unfair/cheating' people、逃げ道がなくなれば最後は開き直り(’逆ギレ’+’泣き落とし’)決まって「家族」「血肉の情」(’恩着せ’)を盾に(ご主人たちの’尺度’外には出れない’所有物’にとどめ)いつまでも’支配’’束縛’しようとするWhen there is no way out, they will eventually become defiant('Gyakugire' + 'Crying off'), and will always try to 'dominate' and 'bind' me, using their 'family' and 'flesh and blood' ('appropriation') as shields(Keep it in the master's 'scale' and 'possession' that can't go outside)要するに結論は自分たちの’利益’を優先し、’悪用’を継続するのが第一目的In short, the conclusion is to prioritize their own 'profit' and to continue 'abusing' me as the primary purpose.特に過去に負い目を持っているので、その’大義名分’?に負けて’屈服’を強いられてきましたEspecially since I have a debt to the past, I have been forced to give in to that 'great name'?(NO MORE GAMES!!)The reality of life, sometimes, can be very painful(Late Edmond Yu: the clash of schizophrenia and homelessness | Apr 17, 1997) He some to me. . . a relative(Danny Glover) What the fu×k do you mean he relative you full of shit💢(Ving Rhames). He my son. He White!(+_+(The Saint of Fort Washington 1993)いつもながら幼少の頃から「何十年」に渡って言えずに溜め込み、蓄積されたもの(「独り言ブログ」ということで、ご容赦いただければ) Dear Sister Peter Marie et Father Mukada, I've been thinking about you often lately(;_; I wanna make a confession(;_;Penance泪God tells me(Bob Rebadow)?~♪Hopeless situation Endless price I have to pay. . . Manic depression befriends me Sanity now it's beyond me~♪(『Diary of a Madman』Ozzy Osbourne 1981)①「悪魔よ、出て行け!」-鬼形少年のからだはきさまの棲家ではない、ただちに出て行け!-②「ふうむ、憑いておるな。はっきり坊やの後ろには恐ろしい憑依霊が」(「鬼形礼、徐霊に失敗」ー禁を破って堂外へ飛び出すー)③「いけない、これはすぐ徐霊をしなければ。あなたは死ぬわよ。もうすぐそこまで死の影が」(「鬼形、風前の灯」-無謀!再度徐霊を決心、鬼形の死は確定的ー)「気をしっかり持って!まだ、負けたわけじゃない!」「こっちが苦しいときは向こうも苦しがっているのよっ!」「鬼形くん!負けないで!」(「だめだ、そういわれても」?マンガ『恐怖新聞』)~♪I pledge no allegiance and I bet They're gonna drive me crazy yet I'm dying here and trying to get free~♪(『School Daze』 W.A.S.P. 1984)。

Психопатия (синдром)/사이코패스(Psychopath)/Psychopathie/心理病态或精神病态,人格障礙/Antisocial personality disorder (ASPD or infrequently APD)/Диссоциальное расстройство личности/Trouble de la personnalité antisociale/반사회성 인격장애(反社會性人格障礙)
中でも、最大の特徴は「良心の欠如」であり、他人の痛みに対する共感が全く無く、自己中心的な行動をして相手を苦しめても快楽は感じるが、罪悪感は微塵も感じない。「人の心や人権、尊厳を平気で踏みにじる行動をしながら、そのことに心が動かない」という特徴があり、良心の呵責なく他者を傷つけることができる。精神病質者の大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者(=マイルド・サイコパス)であるとされている。このようなマイルド・サイコパスは、社会的成功を収めることも多いとされている。「良心の欠如」「表面的な愛想の良さ」「言葉の巧みさ」「節操のなさ」「長期的な人間関係の欠如」という特徴がある。ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。外見は魅力的で社交的。トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。だが、関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。長期的なビジョンを持つことが困難なので、発言に責任を取ることができない。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。経歴を詐称する。残虐な殺人や悪辣な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。ネット上で「荒らし」行為をよくする。愛情の細やかな人の良心をくすぐり、餌食にしていく。自己犠牲を美徳としている人ほどサイコパスに目をつけられやすい。脳の一部の領域の活動・反応が著しく低く「不安や恐怖を感じにくい」「モラルを感じない」「痛々しい画像を見ても反応しない」などの特徴がある。脅威への自動検出と対応に問題があるにもかかわらず、恐れを感じることがある。他者への共感は欠如しているが、国語の試験問題を解くかのように、相手の目から感情を読み取るのは得意である。しかし他人の恐怖や悲しみを察する能力には欠ける。都会を好む、都会と相性がいい。
①表面上はOn the surface口達者Eloquent             https://keiji-pro.com/magazine/10/
サイコパスは、表面上口達者な人が多いですMany psychopaths are superficially talkative. 初対面の人とも会話が弾み、社交的で、魅力的な人に見えますConversation is lively with people they meet for the first time, and they look sociable and attractive. サイコパスの人は状況を把握する能力が高く、自分がどのように振るまうべきかを理解しており、相手が求めるような会話をいとも簡単にできるのですPsychopaths have great situational awareness, know how to behave, and can easily engage in the kind of conversation people want.

②利己的・自己中心的Self-interested, Self-centered
サイコパスは、非常に利己的で、自分のことしか考えませんPsychopaths are very selfish and only think of themselves. これは、他人に対する共感力が欠如していることが原因ですThis is due to a lack of empathy for others. そのため、自分の振る舞いによって他人がどのように感じようが一切気になりませんTherefore, they don't really care how other people feel about their behavior.

③自慢話をするThey brag
サイコパスは利己的・自己中心的であるため、自分が世界の中心であると思っていますBecause psychopaths are selfish and self-centered, they think they are the center of the world. そのため、自分を優秀であると思っていたり、他人を見下したりする傾向にありますAs a result, they tend to think of themselves as superior or look down on others.そのため、自分に対して自信があり、当然のように自慢話をしますTherefore, they are confident in themselves and naturally brag about themselves.
④自分の非を認めないNot admit one's fault
利己的であることや、自分を優秀であると考えていることから、サイコパスは自分の非を認めるようなことはしませんBecause of their selfishness and self-belief, psychopaths never admit their faults. 何か問題が発生したとしても、それは他人のせいであるか、運が悪かったなどと解釈しており、決して自分の行動を反省することはないのですEven if a problem occurs, they interpret it as someone else's fault or bad luck, and never reflect on their own actions.
⑤結果至上主義Outcomeism
サイコパスは結果至上主義者ですPsychopaths are result supremacists. 成果を手に入れるためであればどのような手段をも用いますThey will use any means to obtain results. よりよい成果を出すためなら、他人を踏み台にすることも、他人を騙すことも躊躇しませんIn order to achieve better results, they will not hesitate to use others as a stepping stone or deceive others.
⑥平然と嘘をつくThey blatantly lie
平然と嘘をつくのもサイコパスの大きな特徴ですLying without hesitation is also a major characteristic of psychopaths. 自慢のため、他人を利用するため、自分の目的を達成するために、人を騙しても何ら良心の呵責を感じることはありませんThere is no qualms about deceiving people for bragging, to take advantage of others, or to achieve your own goals.
⑦共感ができないThey can't empathize
他人が悲しんでいたり、反対に嬉しがったりしても、まったく共感ができませんEven if others are sad or happy, they cannot empathize at all. ただし、『悲しい』『嬉しい』という概念自体は理解しているため、共感していなくとも、相手がどういう状態にあるかは理解することができますHowever, since they understand the concept of "sad" and "happy" themselves, they can understand what kind of situation the other person is in even if they do not sympathize.
⑧他人を操ろうとするThey try to manipulate others
他人に対する共感ができないため、結果を出す、自分の目的を達成するためでならば、平気で他人を操りますBecause they lack empathy for others, they are willing to manipulate others to produce results or achieve their own goals. そして口達者であることや、平然と嘘をつけることから、実際に他人を操る能力が高いのも、サイコパスの特徴の一つですAnd one of the characteristics of psychopaths is that they have a high ability to actually manipulate others, from being a talker and flattering a lie.
⑨良心の欠如Lack of conscience
サイコパスには良心が欠如している人も多いですMany psychopaths lack a conscience. そのため自分の行動によって他人に迷惑をかけようとも一切気にしませんTherefore, they don't care if they cause trouble to others by their actions. 特に良心が著しく欠如している場合には、猟奇的な殺人者になるケースが見受けられますThere are cases of bizarre murderers, especially if their conscience is severely lacking.
⑩刺激を求めるThey seek stimulation
サイコパスの人は、刺激がない状態には耐えられませんPsychopaths cannot tolerate the absence of stimulation. 常に自分を満たすために、スリルを追い求めたり、リスクをとって危険な行動に出たりしますThey seek thrills, take risks, and engage in dangerous behaviors to constantly satisfy themselves. そのため、常に同じことをするなどの面倒でつまらない作業には耐えられないケースが多いといわれていますTherefore, it is said that there are many cases where psychopaths cannot endure troublesome and boring work such as always doing the same thing.

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