日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Des principaux politologues et théoriciens politiques japonais/ Il a contribué notamment à l'histoire de la pensée politique au Japon ⇒無責任体系と現代日本・参考までに☆丸山真男氏と戦後日本

フランス語→Masao Maruyama (丸山 眞男, Maruyama Masao?), 22 mars 1914 - 15 août 1996, est un des principaux politologues et théoriciens politiques japonais du xxe siècle. Il a contribué notamment à l'histoire de la pensée politique au Japon. Biographie Maruyama Masao est né à Ôsaka et est le deuxième fils du journaliste Kanji Maruyama. Il a été influencé par les amis de son père comme Hasegawa Nyozekan, un cercle d'intellectuels liés au courant libéral de la période de Taishô. Sorti diplômé du lycée Hibiya de Tôkyô, il entra à l'Université de Tôkyô et fut diplômé en droit en 1937. Il reçut un prix pour sa thèse sur 'Le concept de l'État-nation en science politique' et devint assistant dans le département de droit. Il fut au début attiré par la pensée politique en Europe mais il se concentra par la suite sur la pensée politique au Japon.
丸山真男(1914年3月22日-1996年8月15日),日本政治學家、思想史家,東京大學法學部政治思想講座教授,專攻政治思想史,被認為是第二次世界大戰後日本影響力最大的政治學者。
2014-11-08http://d.hatena.ne.jp/takamm/20141108/1415458295  http://members.jcom.home.ne.jp/rieux2/responsibility.htm
丸山真男と邦男‐「無責任の体系」をめぐってCommentsAdd StarA0153A0153miyakawa_taku
23:51 | 丸山真男と邦男‐「無責任の体系」をめぐってを含むブックマーク  丸山真男と邦男‐「無責任の体系」をめぐってのブックマークコメントむかし誰かが「丸山真男より弟の邦男の方がいい」と話しているのを聞き、さっそく丸山邦男の「天皇観の戦後史」を買って読んだ。戦前、「神」だったはずの天皇が「人間宣言」し、もとから平和主義者であったかのような態度をとる欺瞞を批判した著作だった。兄の丸山真男のほうは岩波新書の「日本の思想」を読んだが、何が言いたいのかよく分からなかった。後年、読んだ「現代政治の思想と行動」ほうがまだ分かりやすかった。その著書の中に「軍国支配者の精神形態」という論文がある。ニュルンベルグ裁判で悪びれずに侵略の意思を語るナチス幹部と、責任逃れのような曖昧な発言を続けた東京裁判の日本軍人を対比した論文だ。たとえば、ナチ親衛隊長ヒムラーが「ロシア人やチェコ人がどうなろうと関心はない。関心を惹くのは、われわれがその民族を奴隷として必要とする限りにおいてのみだ」とナチズム全開で語るのに対し、元朝鮮総督の南次郎は極東軍事裁判で検察官から「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」(!)と答えている。丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的な外力にひきまわされる日本軍国主義の『精神』」とたとえ、「日本ファシズムの『無責任の体系』の素描である」と書いている。この「無責任の体系」という言葉は戦後、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われてきたのでよく知られている。自分が属する組織で責任の押しつけ合いが始まると、自ずと浮かぶ言葉でもある。 丸山真男は「無責任の体系」の基本的類型として、最上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つを措定し、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまるとする。だが、この論文を一読してただちに疑問が浮かぶのは「昭和天皇の戦争責任についてはなぜ書かないのだろうか」ということだ(注)。哀しいかな、素人は「学問とはそういうものか」「丸山真男だからな」(?)で疑問に封印してしまうものだが、そうした安易なスルーの結果が現代の「丸山真男崇拝」というものだろう。アマゾンのブックレビューなどを見れば、それがよく分かる。だが実は、比較的早い時期に丸山真男ははっきりと批判を受けている。ほかでもない弟・丸山邦男の冒頭の著書で。丸山邦男は、天皇が対米戦を決断するにあたり、3ヶ月でカタをつけると上奏する杉山参謀長に対し、「支那事変は1ヶ月で片付けると言ったくせに4年かかって片づかない。支那は広いが、太平洋はもっと広い。3ヶ月で片づけられるという根拠を言え」と迫った話を引き、こう書く。「天皇をロボットであるとし、軍部にあやつられた”恍惚人間”として軽視し、そのような天皇の権限を至上絶対のものとした戦前の〈絶対天皇制〉に対し、あれは『無責任の体系』だったという定義を下した近代デモクラシーの復権者たちの思想は、まことに犯罪的であり、戦争裁判を通じて、国民大衆の天皇呪詛の感情をそらし、さらに、天皇個人の責任を免罪することによって、より無責任な『象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系』をなし崩しに容認し、国民の中から戦犯追及のホコ先が天皇に向けられるのを巧妙にそらす役割を果たしたことになる。真男の論文を読んで「腹」や「背中」、「手足」は飽きるぐらい見せられて消化不良な思いでいたところに、ようやく肝心の「顔」が姿を現した感じがすると言ったらおおげさだろうか。「なぜ『無責任の体系」が成立してしまったのか」と考えた時、個人が負うべき責任を「絶対君主」に委ねられるがゆえに「無責任の体系」だったというのは一定の説得力を持とう。さらにその後の歴史を見れば、「責任」を問われた君主は「自分は絶対君主ではなかった。軍部のロボットだった。悪いのは東條」と責任回避につとめ、断罪から逃げおおせた。邦男が書くとおり「象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系」がなし崩しで敷かれてしまったのである。「ようするにお前は肝心なことを述べていない丸山真男はあかんと言いたいのか」と聞かれたら、一義的にはそうだと答える。特に歴史の彼方に埋もれようとしている弟・邦男と比べたとき、「戦後政治学の神様」(?)のように祭りあげられている姿には疑問を感じる。今こそ、弟の思想が復権されなければならないと思う。
だが、弟の的を射た批判をくぐった上であらためて兄の「無責任の体系」論を読むと、別の意味で迫ってくるものがある。たとえば東条内閣の外相だった東郷茂徳は日独伊三国同盟結成について問われ、「個人的には反対だったが、すべて物事にはなり行きがあります」と答えている。あるいは東條の辞任のあと首相についた小磯國昭も裁判でこんなことを話している。「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、その国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり・・・」。現代のこの社会においてこのような弁明ははたして絶滅したかというと、そんなことはないだろう。自分自身をふり返っても、こうした心境は克服し切れてはいないと感じる。戦後70年経とうが天皇が代替わりしようが、この社会は「無責任の体系」を乗り越えた経験を持たないのだから当然のことだろう。
だとするならば、「象徴天皇」とははたして何かという疑問がわく。もはや「下々」から責任を委譲される「君主」ではない。だが、決して私たちと同じでもないのだ。
彼を「今上天皇」と呼んで人々が無上の尊敬を示すのを見るとき、象徴天皇を頂点に、別種の「無責任の体系」が形成されているのではないかと疑いたくなる。特に、尊敬に値するリベラル、左翼の人々が明仁、美智子に手放しの尊敬を表す姿に接すると、その感は深い(注2)。思考停止、判断停止。イコール「無責任」ということだ。
(注)天皇についてまったく記述がないわけではない。が、その書きぶりは、天皇の重臣たちは天皇や自分たちに政治的責任が帰するのを恐れて天皇の絶対主義的側面を除去し、軍部や右翼は天皇の権威をふり回して立憲君主としての国民的親近性を薄めたとし、「天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった」とあるのみ。天皇の戦争責任を論じるつもりがないことがうがえる文章である。
(注2)具体的には「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の著者・矢部宏治氏をさす。矢部氏はあとがきで、自分はリベラル派と目されるが、「明仁天皇、美智子皇后のおふたりに対しては、大きな尊敬の念をもっています」と書いている。
『<自己責任>とは何か』(桜井哲夫、講談社現代新書、1998.5)
【読んだ時期】 2005年3月    【作成日】2005年5月14日
◆最近、「自己責任」という名の妖怪が日本社会をさまよい歩いている、と著者は感じている。ここでいう「最近」とは、本書の書かれた時期から考えれば1997年前後であろう。住専問題に端を発する不良債権問題と金融危機。そして、流行語のように言葉の定義も無く無責任に使われる「自己責任」という言葉。この本はこうした状況への著者の義憤から書かれたという。そして、「自己責任」という言葉を手がかりに、住専問題をはじめとする身近な問題を通じて「責任とは何か」を明らかにしつつ近代の諸原理について考察しようというのが著者の意図である。ちなみに、私の場合はイラクの人質バッシングへの義憤から本書を読んだ。
<無責任の体系>
本書の最後「結びにかえて」で著者自らがこの本の論点を整理している。ただ、それを述べる前に前段の議論に少し触れておく必要があると思える。そこで、以下にそのキーとなるいくつかの考え方を整理しておきたい。
まず、「無責任の体系」についてである。著者によれば、日本における責任問題を考えるとき、丸山真男の「無責任の体系」という考え方は現在においても極めて有効であると言う。以下、原文に当たらない愚は承知の上で著者に従いこれをみていく。
ヨーロッパにおける近代国家は、真理とか道徳といった内容的価値には中立的立場をとり、あくまでも形式的な法機構のうえに成り立っている「中性国家」である。だが近代日本の国家は、そうにはならなかった。
 「明治維新後の政府は、江戸期の精神的権威(ミカド=天皇)と政治的実権者(大君=将軍)の二重統治から、天皇の「権威」と「権力」とを一元化=一体化する制度を作りだした。日本には、精神的世界の支配を強調するキリスト教会勢力は存在せず、日本国家そのものが、道徳ないし倫理という個人の内面を独占的に支配することに」なった(p61-62)。


「自分の行動を倫理的に制御する規範が内面になく、あくまでも外部の国家によって正当化されなければならないという論理は、逆に言えば、国家の活動と私的な活動の区別がなされず、境界があいまいなまま、私的利害が無制限に国家の活動のなかに侵入するという結果をもたらした。
 精神的権威と政治的権力とを国家が合わせ持つという事態は、国家の絶対的正しさという意識を生み、国家は悪をなさぬ、という立場に至る。
こうして、この国では、人々は、倫理を内面化することを行わないから、自分の行為を正当化するためには、常に権力によって正当化されることを望むことになる(上がどのように言っているのか、上の許可がおりたのか、上はどう言うだろうか、という懸念の広がりと、上が言ったことだからいいのだ、上の命令だからいいのだ、という納得のメカニズムを考えてみてください)。」(p63-64)


戦前の官僚や軍人たちの意識を支配していたのは合法性ではない。法律は、天皇を中心とする位階秩序を維持するための手段に過ぎず、すべては「天皇への距離」によって決定される。近代社会の組織原則である社会的分業(横のつながり)の立場によって職務を遂行するのではなく、タテの究極的価値(天皇)に直接つながっているという自覚によって行われる。
こうした社会では、独裁者が恣意的に権力をふるうという図式は生まれない。すべての人間や組織が互いを拘束し、牽制しあうという形となっているからだ。だから、誰か一人が独裁的権力をふるっているとか、どこかの組織が権力をふるっているという意識は生まれなかった。日本には、これだけの戦争を起こしていて、自分こそがこの戦争を起こしたのだという意識が誰にも見いだせない。権力を握っていた集団そのものが、おのれが権力を握って事を起こしたのだという意識を持たなかった。つまり主体的な責任意識が成り立ちようがなかったのである。(p64-66、要約)

「自らの良心に従って行動するのではなく、あくまでもより上級者(天皇により近い者)の存在によって行動が規定されているから、独裁ではなく、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」とでもいうべき現象が生まれる。上からの圧力を下の者へ威張り散らすことで解消しようという衝動である。」(p66、下線・太字は引用者)
この事(=抑圧の移譲)は旧日本軍を考えるとよく分かるが、最近ではアメリカ軍のイラク人捕虜虐待も同様に
説明出来るのではないか。
◇「既成事実への屈服」と「権限への逃避」
丸山は、東京裁判の被告たちの発言を分析するなかで、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」という二つの要素を見いだす。
「すでに始まってしまったのだから仕方がない。個人的には反対だったが、なりゆきで始まってしまった以上従うほかない。」(p68)
我々も日常的に使っていそうな言葉である。我々が「現実的に行動するということは、過去に縛りつけられて行動するということであり、過去から流れてきた盲目的な力によって流されてしまうものとなる。正しいかどうかではなく、何よりも既成事実こそが力を持ってしまう」(前掲頁)。これが「既成事実への屈服」である。

では、「権限への逃避」とはどのような事か。
 「「法規上の権限はありません」、「法規上困難でした」という発言のなかに、職務権限に従って行動する「専門官僚」になりすませる官僚精神が存在する。丸山は、こうした官僚機構に支えられた絶対君主について、ウェーバーの指摘を引く。

「絶対君主こそ官僚の専門知識に対して無力」であるのであって、帝政ロシアの皇帝は、官僚の賛成しないことや彼らの利害とぶつかるようなことは実現できなかった。こうした官僚の責任なき支配を免れるような君主制の場合は、君主がカリスマ性を持った存在であるか、民主主義国と同様な強力な議会を持つかのいずれかであった。カリスマ性のある明治天皇と伊藤博文ら革命のしぶきを浴びた「政治家」たちは、それなりの責任意識を持ち得ていた。だが、権限への逃避に走る官僚上がりの政治家、さらには意識が官僚のままの政治家、カリスマ性のない三代目の天皇が日本を支配するようになった。そこにはついに「責任意識」は、はぐくまれぬまま不在となったのである。」(p68-69)
恐ろしいことに、現在の我々の責任意識もこの時点からの延長線上にある。
<「公」と「私」>
著者が引くイギリスの日本研究者ロナルド・ドーアの論文(「橋本『行革』と新自由主義への疑問」、中央公論、一九九七年十一月号)は、小泉内閣の民営化論議が何であるかも理解させてくれる。
 公は私。儒者が「公を私するものが国を亡ぼす」と唱えたとき、インチキな業者に香港旅行を接待してもらったりする大蔵省の某局長のようなケースを念頭においていた。いまの日本の「公を私する」風潮はちょっと違う。それは、公益を私益に分解する制度的変化になったのだ。
 国民の共有財産を個人に払い下げたり、公営の事業を私的な営利事業に変えたりするばかりではなく、同じく人生のもろもろの危険にさらされている国民共有の保健・保険制度を、弱者への隠れた再分配作用の要素が多すぎるという理由で、自立自助と称してなるべく営利事業化し、よって小政府・弱政府の実現をはかる――というのが今様の「公を私する」発想である。
もっとも、そういう動きをする人たちは「公と私」と言わずに、「官と民」と言う。そして、天皇制の悪しき時代への批判であった格言をひっくり返して、「民尊官卑」を基本原理とする。「民尊官卑」は、すなわち「私尊公卑」ということになるのだが、自分たちの主張の土台をなすのが利己心であることを認めようとはしない。
天皇制時代の「官」と、民主主義時代の「官」は違うはずだ。公益は打ち捨てるべき概念ではない。その公益の認識を支える社会の連帯意識も、きわめて大切だ。貧富の差が拡大していく社会では、その連帯意識は蒸発してしまう。市場主義者の唯一の善――経済効率――より重要な価値もあるはずだ。(p76-77、前掲論文の孫引き、下線・太字は引用者(私))

◇日本における「公」の重層性
日本では「公」を「おほやけ(オホヤケ)」と呼ぶが、オホヤケとは大きなヤケ(漢字では「宅」「家」と表記)のことを指し、敷地と建物からなる大きな一つの区画を意味する。つまり、「オホヤケ」とはヲヤケ(少宅)に対する「大家」「大宅」であり、共同体の中核部分であったと考えられる(吉田孝一『律令国家と古代の社会』、岩波書店、一九八三年)。オホヤケは、①共同的、公共的であること、②首長であること、という二つの性格を持つ、「ヲヤケ」に対する相対的な語であったので、複数の段階に存在する可能性があった(田原嗣郎、「日本の『公・私』」「文学」一九八八年九・十月号)。
平安時代に「天皇」が「おほやけ」と呼ばれているのは、天皇が日本(国)という最大の共同体の首長であって、朝廷がその共同体の機能を担う中枢であったからだとすれば、もっと下位の共同体にも「おほやけ」はあったはずである。すると「公(おほやけ)」というものは、一つではないことになる。
 小さな村の村長にとっては、その村のことを優先的に考えることが「公」であるが、彼が県知事に当選したとき、それまでの彼にとっての「公(村という公)」は「公」として成り立たない。村のことを優先的に考えては「公」的とは言えなくなる。つまり、上級の「公」の前では下級の「公」は、「私」とみなされてしまう。幕府=将軍という「公」に対しては、各藩=大名は「私」であるが、その藩内では、藩主=大名は、家臣と領民に対しては「公」となる。

田原によれば、日本の場合、「私」とは「公にあらず」とみたほうが正確であるという。そして、前述したような重層的な「公」と「私」の関係は幕末まで続き、この「公私」概念が明治以後の近代化のなかで継承された結果、日本的とみなされる現象が生まれたという[*1]。
ところで、幕末(文久二年、1862)に幕府の政治総裁職についた松平春嶽は、「天下万人が同意して決まったことは、「天下公共の理」として「公」なのだが、それが「公」として通用するのは、あくまでも「日本国内」のなかだけである」といったという。つまり、世界という場においては、日本は「私」に過ぎないというわけである。「自衛隊の海外派遣という憲法上の規定に反する国家の行為を決するのに、日本国憲法という「公」よりも大きな「公」たる、「全世界(国連)」を持ってきて、憲法という「公」を「私」の位置におとしめて決着をはかろうとした」(p95)政府の対応はまさにこの春嶽の理屈そのものである。先の「国際貢献」をうたったイラク派兵も同様である。
<全体への献身>
本書の中で極めて重要な指摘だと思われるのは、「無責任の体系」の背景をなすこの「全体への献身」、別の言い方をすれば「全体への同一化」という考えである。
著者は、まずルイ・デュモン(フランス、文化人類学者)のドイツにおける「集団的アイデンティティ」についての分析に着目する。その中でデュモンはエルンスト・トレルチ(1865-1923、ドイツ、プロテスタント神学者・哲学者)を取り上げ、彼の次のような言葉を引く。
組織の上での自由という考え方は、全体への参加という(ことから引き出される)全体への規律ある感覚と名誉の感情のおかげで、大企業、小企業、そして国営、民営企業のなかの序列化され、調和のとれた共同作業(コオペラシオン)のなかにそそぎ込まれている。
即ち、ドイツ的自由とは、「全体のなかで全体のためにある」ものであって、諸個人は、まとまって全体を構成するのではなく、全体に同一化するのだ、とトレルチは説く。そして、この発想が、トレルチだけにとどまらず、ドイツの思想家たち(ヘルダー、フィヒテ、へーゲルなど)の根底にありるとデュモンは考える。さらにこの自由概念と一体となっているのが、プロテスタンティズムの色彩の濃い「ドイツ的個人主義」である。
著者は、このドイツ的「自由」概念、ドイツ的「個人主義」こそが、今日、日本的特殊性として論じられる「集団主義」の元になったのではないかと考える。その理由を以下のように述べる。
 「……明治以降の日本社会の「全体への奉仕」という理念は、江戸期に存在した地方分権と民衆自治の文化とはあまりにも異質なのです。全体への奉仕、過酷な禁欲的文化(自己の陶冶)、江戸期の洒落本や物語とは異質な自己懲罰と自己告白でしかない「私小説」という文学、これらは近代日本の特質であって、日本社会の伝統的な文化などではありえません。
 明治期日本の知識層にドイツの観念論哲学が与えた影響は、圧倒的なものです。その影響は、学校のみならず、軍隊、病院、企業、ジャーナリズムなどあらゆる領域に広がったとみたほうがいいでしょう。」(p110)

同じドイツ観念論の下近代を涵養し、敗戦した両国には、戦後同じような事が起きた。
 「昨日のナチが、あっという間に今日の民主主義者になっていた。急に皆が、ナチスのことはもともと嫌いだった、といい始めたのだ。(中略)ドイツの国土からナチスが一人もいなくなってしまった。いや、誰ももともと本気でナチスではなかったという不思議なことが起きた。」(三島憲一、『戦後ドイツその知的歴史』、岩波新書、一九九一年)

これは、我々が戦時世代からよく聞く話と全く同じである。
ところで、普通の人々がなぜユダヤ人虐殺を行い得たのだろうか。この問題を調査したアメリカの研究者クリストファー・ブラウニングの分析を検証した上で、著者は以下のように言う。
 「近代社会のなかで、集団への服従(全体への同一化)を強制され、競争原理によって支配されるために、自分が追い落とされないためには、集団の行動や規範に従わざるを得ない。むろん、そこには自己欺瞞があります。殺戮に参加しない、という決意をした者もいたからです。横並びで競争を強いられているうちに、私たちは、いつしか物事を決断し、実行する際の個人的責任の感覚を見失ってゆくのです。」(p115、下線は引用者)

最後の指摘は、我々の日常の中に現れる様々な事件を説明している。
◇行為全体の責任を負う者がいないという状況
ドイツや日本に現れた「全体への献身」「全体への同一化」は、決してこの両国だけの例外的なものではない。著者はそのことを示す例として、心理学者スタンレー・ミルグラムがアメリカ市民を被験者として行った有名な実験[*2]を上げる。そして、ミルグラムは実験結果から次のように述べる。
「自分が邪悪な行為の連鎖の途中の一環に過ぎず、行為の最終結果から遠く離れているときには、心理的に責任を無視しやすい。アイヒマンですら、強制収容所をひとめぐりしたときには、吐き気を催したが、大量殺人に参加するためには、机の前にすわり、書類をめくっているだけでよかったのだ。同じように、実際にサイクロンBをガス室に送った男は、上からの命令に従っただけであるとの理由で自分の行動を正当化することができた。人間によるこの行為全体が細分化されており、一人の人間が、邪悪な行為を遂行する決断を下し、その結果に直面するわけではない。その行為全体の責任を負う者は蒸発してしまっている。たぶん、これが、近代社会の社会的に組織された悪のもっとも一般的な特徴であろう。(『権威への服従』、一九七四年、邦訳『服従の心理――アイヒマン実験』、岸田秀訳、河出書房新社、一九七五年、下線は著者)」(p117-118)
こうしたことを受け著者は、「戦後あらわれたデヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』(一九五〇年)が指摘した、大衆社会における「他人志向」という横並びへの志向(仲間からはずれることへの恐怖、決して突出しない)は、「無責任の体系」というものが、横並びで競争を強いられる近代社会の持つ原理的な問題であることを物語って」いると述べる(p119、下線は引用者)。
<著者による論点整理>
本書の最後で、著者は以下のような論点の整理と提言を行なっている(多少私なりの読み替えが入ってはいるが)。
①責任について
すべての出来事には必ず原因がある。失敗の原因をその出来事のルーツにさかのぼって検証し、都度責任者の存在を明確にしてゆくことが必要である。直接責任のない者に対して共同責任や連帯責任をとらせるのは、失政をごまかす権力者の常套手段である。「自己責任」という言葉も、責任概念を曖昧化する方向でしかないことは、明らかだと言える。「責任」の本来の意味は、語源を辿れば、「ある約束に対する応答」である[*3]。また、責任を論ずるならば、ジョン・ロールズ(アメリカを代表する法哲学者・倫理学者)が、米国の日本への原爆投下に対する責任を論じた際に用いたような段階的手続きを踏む必要がある(この点については[*4]に示す)。 
②アメリカの影について
規制緩和騒ぎの背後には米国の存在がある。なぜなら、日本社会の「公私」観からいえば、戦後の日本において、米国は、もっとも強い「公」だからである。湾岸戦争の時の拠出金、在日米軍に対する「思いやり予算」、米兵の少女暴行事件など沖縄米軍基地にからむ問題、等にみられるように米国という「公」に対しては、日本の行政機関も日本人もすべて「私」とされてしまっている。誰もが不満で、特に沖縄の人々は納得していないのに、そのままズルズルと進展してしまうのは、「抑圧移譲の原理」によって、もっとも弱い部分たる「沖縄」が犠牲にされているからである。
しかし、米国側の便宜が、日本社会に対して「公」として押しつけられるような状態は、もはや解消すべき時にきている。受け入れられないことは拒否し、検討すべきことは検討するという明確な態度をとる必要がある(それにしても、何故こんな当たり前な事を書かねばならないのか、この稿を書きながら不思議でならない)。米国側は、当然のことながら日本側の公私観には理解が及ばない。従って、要求したことが受け入れられれば同意したのだろうと考えるのは当然である。日本(人)の内面的屈折まで理解するはずはない。明確な意思表示が無ければ誤った理解を相手に与えることになる。
③公共性について
公共性に関しても、認識の転換が必要である。
ハンナ・アレントンは、権力とは他の人々と力を合わせて協調して行動できる能力から生まれるものだとし、これを「コミュニケーション的権力」とよぶ。我々が通常考える人々を服従させる権力とは「暴力」であるとし区別される。侵入してきた外国の戦車の前に素手で立ちはだかる住民たち、既存の法律の正当性など無視して市民的不服従に訴える人々、この人たちがふるったものこそ「権力」だとアレントは考える。
このアレントンの主張に着目したハーバーマスは、強制のないコミュニケーションの自由を最大限に活用し、その輪をひろげることで、行政サイドさえ振り回す「権力」の発生装置が生み出せるのだと述べた(中岡成文『ハーバーマス――コミュニケーション行為』、講談社、一九九六年、参照)。
たとえば、阪神・淡路大震災の後、神戸で行政の許可を受けずに自主的にラジオ放送を始め、今日まで多くの人々の共感と支援とによって放送を継続している人々(神戸市長田区のFMわぃわぃ)がふるっているのが、「コミュニケーション的権力」なのである。
 行政の「公共性」という錦の御旗を超えて、「住む人の公共性」を打ち出そうという動きこそ、新たな可能性である。官僚統制の枠の解体――規制緩和――は、行政の側から与えられるものではなく、自ら動くことで輪を広げて勝ち取ってゆかねばならないものである。

④アジール(避難所)の確保について
 バラバラの状態に置かれた個人のほうが管理し易い故に、資本は無家族を理想とする[*5]。そして、今この資本の論理が規制緩和という名目でも浸透し始め、家は次第に解体の方向へ仕向けられているように思える。しかし、人が生きていくためには逃げ込める安住の地――即ち「家」――が必ず必要なのである。子どもをめぐる事件は、家が資本の論理の前に危機に瀕していることを物語っている。そのことを強く意識し、外部の価値観(競争倫理)から家のメンバーを守る必要がある。

⑤戦後体制をどのように考えるか
戦後の体制は、戦時中の統制体制と戦後改革とによって生み出されてきたものである。従って、テクノクラートによる「計画」を基盤とした統制だけに目をむければ、「国家社会主義」ないし「全体主義」的側面をもった社会とみなすことが出来る。しかし、二度の世界大戦中の戦時統制を経てきた先進国は、程度の差はあれ概ね同じような国家による統制を旨としてきた。その意味で、第二次犬戦後は、社会主義的な統制(計画体制)を含みこんだ「混合体制」の時代だったと言える。
しかし、統制(規制)をすべて解除すれば、問題が解決してすばらしい社会になるというのは、単なる幻想である。我々は今、サーチャー改革とは何だったかを検証できる立場にある。規制がすべて悪であるわけではないし、すべてを市場原理にまかせればいいというミルトン・フリードマン的市場主義はきわめて危険である。農業が非効率だからという理由で食糧をすべて輸入に頼るなどという事は、誰にでもわかる愚かな政策である。しかし、アメリカの農業戦略の下で、日本の農政はこうした愚をおかしてきた[*6]。
我々に必要なことは、規制緩和を主張する人々の背後に何があるのか、どのような利害関係があるのか、政治的駆け引きがあるのか、ということを冷静に見きわめる姿勢である。
[*1] 「たとえば、日本という国も「公」だが、会社も「公」です。ところが、国という「公」に対しては、会社は「私」にすぎません。ところが会社員にとっては、会社は「公」ですから、会社の利益のために国の法律を犯すことは「義」とされますが、国の「公」の立場からは犯罪ですから当然処罰されます。ですから、このジレンマの中に置かれた会社の社員としては、国という「公」の行政執行基準がどこにあるのかをさぐろうと、行政執行者の意向をさぐることに大きな労力を注ぐことになります。企業の「接待文化」が生まれてくる背景には、こうした「公私」関係があるのではないでしょうか。」(p95)
[*2] 「被験者を教師役、生徒役にわけ、学習に対する処罰の効果を測定すると説明されます。電極を手首につけられ椅子にしばりつけられた生徒役(このほうが実験者と共謀して演技をします)が誤りを犯せば、教師役が電気ショックを与え、誤りを犯すたびに電気ショックの程度を上げなければなりません。実際は電流は流されないのですが、生徒役が演技をして苦しみます。実験の目的は、このような命令に対して、教師役を与えられた被験者がいつ権威に対して反抗するかを測定することでした。
ところが実験は予想外の結果をもたらしたのです。ショックを与えられている人が嘆願しようが、苦しんでいようが、教師役の人々は実験の続行を命ずる実験者の命令に服従したのです。普通の市民生活をいとなんでいる人々の多くが、実験を行っている組織の一員となり、「やることになっているから」と自分を納得させて実験を続行したのでした。」(p116-117)
[*3] 漢字文化圏において「責任」という言葉は、その字義から「権力者から一方的に何か重荷を押しつけられる」というつらいイメージを伴ったものになる。一方、現在の我々が使う「責任」は明治期に輸入されたresponsibilityの訳語としての「責任」である。著者によれば、responsibilityという言葉は、語源的にみれば、「ある約束に対する応答、保証」という、人と人との約束事を意味する言葉であるという。
[*4] 米国による日本への原爆投下に対するロールズの検証
 (以下は、川本隆史『ロールズ――正義』、講談社、一九九七年、からの著者による引用)。

「彼は、民主的な制度と精神を持った民衆が戦争を遂行する場合、そのルールとして、以下のものを含む六つの原則をあげました。
相手は、民主的ではない国である。
 戦争相手国の指導者、兵士、非戦闘員を区別し、兵士、非戦闘員の人権を尊重せねばならない。
 自分たちの平和がいかなるものであるか、明示しなければならない。
 相手は民主的ではない国なのだから、民間人および(上級将校を除く)兵士の戦争責任は問わない。

以上の原則からすれば、原爆投下と無差別爆撃は、すさまじい道徳的な悪行であり、避けねばならぬ悪だった。だから米国人は、自己反省の作業に取り組むべきである。
どうでしょうか。この原則にたてば、東京裁判のBC級戦犯裁判の問題も再検討すべきことになります。むろん、ロールズの立場は、米国では必ずしも多数派に受け入れられるものではありません。あるいは、何をもって「民主的」と判断するのか、という問題もあるでしょう。しかし、私は、このような段階的な手続きを踏んでこそ、責任問題は論じられるべきだと思います。」(p195)
ところで、加藤尚武が『戦争倫理学』(2003、ちくま新書)の中でロールズの戦争論を検証している。そして、アメリカのイラクに対する先制攻撃が許されるか否かという問題にこれを当てはめた場合、「ロールズの戦争論からは、イエスともノーとも、どちらの答えも出てきそうな気がする」(前掲書、p69)と述べている。であれば、私にしてみればロルーズの議論は余り有効ではないように思われる。勿論、ここで著者が言っているのは方法論であって、それ以上のものではないはずだが。
[*5] 賃労働者としての夫には「シャドーワーク(=家事)」を担当する妻が必要である、という意味では家族を必要としている。しかし、それは資本からみれば賃労働者の影に過ぎないのかもしれない。
[*6] 「日本の農業で、古米・古々米の多さに驚いた食糧庁が、初めて減反休耕を強行したのは、一九七一年(昭和四十六年)のことですが、この前年、食糧庁は、米国から一億ブッシェル(二百七十二万トン)のアメリカ小麦を購入しています。以後、ふくれあがる古米の処理と減反政策は、農政の主要課題となりました。
しかし、その背後に、戦後、米国で過剰農産物の処理のための農業貿易促進援助法(一九五四年、通称PL四八〇)が制定され、小麦の対日輸出が戦略的に行われ、圧倒的な成功を収めたという事情があることをどれだけの人が知っているでしょうか。
 一日一食は小麦食品を食べましょう、と、米国の資金を受け、全国農村をキャンペーンしたキッチン・カー(栄養指導車)の存在など忘れている人のほうがおおいでしょう。昭和三十年代になると、「米を食べるとバカになる」「米食は短命」などという宣伝もなされたのです。昭和三十年代後半(一九六〇年代前半)には日本人は、一人当たり百十七キロの米を食べていましたが、一九七〇年代後半には八十五キロにまで低下してしまいます(以上は、NHKのドキュメンタリーをもとにした、高嶋光雪『日本侵攻アメリカ小麦戦略』、家の光協会、一九七九年、による。九〇年代では、米の消費は一人当たり七十キロ前後)。」(p202-203)

「米を食べるとバカになる」という事が盛んに言われたのは私にも記憶がある。こうして、我々は、日々の食生活の中で伝統的民族食の比率が他に比べて圧倒的に少ない世界でも稀な民族となった。
2011-04-15
無責任の体系と「神輿・役人・無法者」
 
福島第一原発をめぐる混乱はますます拡大し、もはやこれは敗戦であるという論調が目立ってくる。時代は反原発、そもそも原発をこんなに大量に設置するにいたった責任を誰が負うのかという問題意識から政府や東電に対する批判は強まる一方だ。確かに事態は敗戦後の様相を呈し、丸山眞男の「無責任の体系」が頭をかすめるばかりである。ちょうどよい機会だから、この理論とは一体何だったのかということをおさらいしておこう。
丸山眞男。1914年生まれ、1996年没。戦後最大の政治学者と言って差し支えないだろう。1946年、「超国家主義の論理と心理」を新刊雑誌「世界」に発表。一躍名を広める。専攻は日本思想史だが、日本ファシズムを論じた著作群もまた有名である。さて、「無責任の体系」ということばは実のところ「論理と心理」には登場しない。そこで論じられているのはあくまで超国家主義における体系、すなわち中心に存する天皇からの距離において決定される臣民の歴史性と、天皇自身が一体化している「無限の古に遡る伝統の権威」から染み出す無限の価値、これであり、時空間理解を含む世界像こそが問題となっているのである。ここでは無責任の体系論の萌芽は見えれども明確な定式化は未だ無い。「無責任の体系」という概念がヨリ意識的に定式化されるのは「軍国支配者の精神形態」においてである。この論文は、東京裁判における東條ら指導者層の供述から、「日本の戦争機構に内在したエトスを抽出しよう」とするものであり、ナチスとの比較において日本ファシズムの「矮小性」を指摘する構図となっている。
そこに登場する政治的人間像は三種類。第一は「神輿」。第二は「役人」。第三は「無法者」である。全引用する。神輿は「権威」を、役人は「権力」を、浪人は「暴力」をそれぞれ代表する。国家秩序における地位と合法的権力から言えば「神輿」は最上に位し、「無法者」は最下位に位置する。しかしこの体系の行動の端緒は最下位の「無法者」から発して漸次上昇する。「神輿」はしばしば単なるロボットであり、「無為にして化する」。「神輿」を直接「擁」して実権をふるうのは文武の役人であり、彼らは「神輿」から下降する正統性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこかしっぽを捕まえられていて引き回される。しかし無法者ものべつに本気で「権力への意志」を持っているのではない。彼らはただ下にいて無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫べば満足するのである。だから彼の政治的熱情は容易く待合的享楽のなかに溶け込んでしまう。むろんこの三つの類型は固定的なものでないし、具体的には一人の人間の中にこのうちの二つ乃至三つが混在している場合が多い。だから嘗ての無法者も「出世」すればヨリ小役人的にしたがってヨリ「穏健」になり、さらに出世すれば神輿的存在として逆に担がれるようになる。しかもある人間は上に対しては無法者として振る舞うが下に対しては「役人」として臨み、他の人間は下からは「神輿」として担がれているが上に対してはまた忠実小心な役人として使えるという風に、いわばアリストテレスの質量と形相のような相関関係を示して全体のヒエラルヒーを構成している。ただここで大事なことは、神輿─役人─無法者という形式的価値序列そのものは極めて強固であり、したがって、無法者は自らをヨリ「役人」的に、ないしは「神輿」的に変容することなくしては決して上位に昇進出来ないということであって、そこに無法者が無法者として国家権力を掌握したハーケンクロイツの王国との顕著な対象が存するのである。
これは昔々ある国に起こったお伽噺ではない。
ナチ指導者とは対照的に、日本の軍国指導者はみな口を揃えたように自らの無責任を主張した。彼らは無法者が先導して生成した「既成事実」へ「役人」として屈服し、「私の意見はどうあれども、いやしくも決定されたことに逆らうことはできぬ」として既定路線を突き進んだ上で、その官僚精神をもって「権限への逃避」を行い、「行われたことはすべて私の権限の管轄外である」としたのである。その矮小性は確かに明らかである。「土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」。
はてさて、我々は65年前の話をしていたはずであったが。
丸山眞男と日本社会:「現代における人間と政治」を中心に
杉田 敦(法政大学)

丸山眞男は同時代の日本社会をどう認識していたのか。そして、彼の言説を今読むことはどのような意味をもつのか。ここでは1961年の彼の評論「現代における人間と政治」を中心に、他の文章にも若干ふれながら考えてみたい。私見では、「現代における人間と政治」は、丸山の残した著作の中でも、独特の重要性をもつ。第二次大戦の終結後、丸山は、「超国家主義の論理と心理」(1946)や「軍国支配者の精神形態」(1949)で、戦後日本のプロジェクトを指し示した。すなわち、戦前・戦中の日本社会のいわば「宿痾」であった問題点を摘出し、それに対する処方箋を暗示した。しかるに丸山は、60年代に入ると、問題が再来しつつあることを意識しなければならなかった。そうした中で書かれたのが、「現代における人間と政治」なのである。
 筆者は、2011年3月11日の大震災とそれに続く原発事故が起こるまでは、丸山の分析や対策論は、さすがに古びたのではないかと思っていた。戦後日本がそれなりに蓄積してきたものを信じたからである。しかしながら、そうした考えは、震災と事故の経験の中で一気に吹き飛ばされた。日本社会においては、依然として丸山のテキストが圧倒的な有効性をもっている。そのことの意味を考えるのも本稿の課題である。

1 「無責任の体系」と「権力の統合」
丸山は「軍国支配者の精神形態」(『丸山眞男セレクション』131-)で、戦前の日本に見られたような、誰が決定しているかわからず誰も責任を負わない決定過程の問題を指摘し、これを「無責任の体系」と呼んで批判した。ナチス・ドイツの幹部が自ら決定したと認めたのに対し、日本の幹部たちは、自分は決めようとは思わなかったが、場の雰囲気が抗しがたかったなどと主張したのである。
戦後日本は、軍事的な伸長をひとまず封印したことによって、「無責任の体系」からは遠ざかったかのようにも見えた。しかしながら、福島第一原発事故の政府事故調査委員会と民間事故調査委員会は、異口同音に、戦後日本のエネルギー源を供給した「原子力体制」が一種の「無責任の体系」であったことを指摘した(1)。すなわち、政・官・財・学を横断する形で、誰も責任を負わないようなシステムがつくられた。そこでは、政治家に加えて民間会社としての電力会社と官僚、学者などが、違いに責任をなすりつけ合う形で、不徹底な安全対策を承認してしまったのである。津波対策が不十分ではないかと思った人もいたが、言い出せなかった。それは、日本の開戦に不安をもちながらも言い出せなかった政治家らと同じであった。
丸山自身は、こうした「無責任の体系」に「権力の統合」によって対抗すべきだという方向性を示した。明治以来、日本は「多頭一身の怪物」ともいうべき過度に多元的な統治構造をもち、それが「無責任の体系」を生み出したというのが丸山の見立てであった。このような彼の認識は、近代国家の理念型を、彼がカール・シュミットの主権論的な国家論を通じて確立していたことと深くかかわる(2)。シュミットは、政治的な単位とは決定をする単位であり、一元的な決定がないところに政治はないと考えた。丸山は、公私二分論の重要性や、それと関係する「中立国家」の理念、すなわち国家は人の精神的領域にまでは介入しないという理念と共に、安定した政治決定を国家の必要条件と見なした。ちなみに彼は、政治を「友」と「敵」の対立関係に還元するシュミットの対立重視の政治論までは導入していないが、近代国家観においては強い影響を受けたのである。
「権力の統合」を重視する政治観は、その後の日本の政治学において主流の位置を占めてきた。近年でいえば、佐々木毅は丸山を引用するにあたり、ほとんどつねに「権力の統合」に言及する(3)。丸山には実は多元主義的な契機もあり、アレクシ・ド・トクヴィルらを参照しながら、日本史に多元的な権力構成を求め、中世日本社会においては、主君への忠誠心ゆえに、かえって臣下が主君を諫めることがあったと指摘したこともある(『忠誠と反逆』)。しかし、丸山のこうした側面はあまり参照されず、とりわけ90年代以来の「政治改革」論議において、日本の政党政治はあまりに多元的である点に問題があり、二大政党制的に二者択一にし、任期中は政権与党による「期限付きの独裁」を認めるべきであるといった考え方が強調された。
しかしながら筆者は、丸山の「権力の統合」論については、それが仮に戦後初期においては有効性をもっていたとしても、現代においてそのまま通じるものではないと考える。「期限付きの独裁」はいくら期限付きであったとしても、取り返しのつかないような決定をなしうるのであり、その危険を弱めるためには、重要な決定にあたっては、多様な意見を聞きながら、熟議を深めることが不可欠である。現在、日本では、海外における武力の行使といった重大な問題について、憲法上の制約を弱め、時の政府の裁量的な判断の余地を大きく広げるような方向性が示されている。また、「原子力体制」についていえば、事故発生からしばらくは、批判的な言説が強かったが、元のままの体制を「再起動」しようとする動きが見られる。
決定過程を一元化すればいいという考え方からすれば、このほど新設された国家安全保障会議のように、戦争を管轄する政府機関をつくり、あるいは原発を国有化し、担当大臣の権力を強めれば、問題は解決するということになろう。しかし、国家的なリスクと裏腹の、軍事的な武力行使や巨大なエネルギー生産様式自体が問題であり、権限を集中したところでリスクを十分に低下させられないとすれば、そうしたやり方そのものを断念すべきだと論じることもできる。

2 「現実主義」とは何か
もっとも、丸山の「権力の統合」論を、彼が政治の唯一の方向性と見なしていたとするのは誤りであろう。それは、丸山自身が、「現実主義」という概念についての従来の見方を批判する議論を展開したこと(「「現実」主義の陥穽」『丸山眞男セレクション』245-)と深くかかわる。
丸山によれば、人びとは一般に、「現実」というものが所与であり、変えられないと見なしがちである。つまり「既成事実に屈服」することを現実的とする。こうして人びとは、戦前の日本において積み重ねられた既成事実の数々に対して、それを受け容れ、どうにもならないところに導かれて行った。そこでは「現実」は、所与であるだけでなく、一つの方向しかもたないものとされる。実際には、よく見れば、ある状況の中には多数の方向性が同時に存在している。ところが、そのうちの一つだけを絶対視し、ほかの方向性については、根拠なく、無視してしまうのである。
 その場合、日本の人びとが何よりも重視するのは「その時々の支配権力が選択する方向」である。政府が言っていることは「現実的」であり、それと違う議論は「非現実的」・「観念的」だとされる。しかるに丸山は、
イギリスなどのヨーロッパ諸国が、多様な戦略をとっているのに対し、日本では対米追随だけが「現実的」とされていることを批判する。
 実際には、さまざまな「可能性の束」があり、私たちはその中から選ぶことができるのである。現状追認しかない、などと決めつけず、より良いと思われる方向に向けて、現実を少しずつ動かして行くこともできる。現実とは固定的なものではなく、時間軸をもった過程なのであるから、というのである。
 ただし、ここで問題となりうるのは、より良い方向性とは何かである。歴史には固定的な方向性が存在するのか否か。丸山はその初期の論文(「近世日本政治思想における「自然」と「作為」」等)以来、思想の内在的な崩壊過程として歴史を描いた。朱子学的な思考様式の自壊が徳川体制の崩壊をもたらしたといった説明は、経済的な「下部構造」の変化による必然的な歴史発展という、マルクス主義的な発展段階説や唯物史観への批判という意味をもっていた。しかし、それなら歴史には方向性がないとされるかといえばそうではない。
 政府の動向が「現実的」であり、民衆が求める方向は「観念的」にすぎないといった固定観念があるが、丸山によれば、それはむしろ「太く短い」、すなわち短期的には強力だが歴史の長い方向性とは一致しないような現実性と、「細く長い」現実性、すなわち一見力がなくても、次第に実現して行く方向性との対比なのである。


民衆の間の動向は権力者の側ほど組織化されていず、また必ずしもマス・コミュニケーションの軌道に乗りませんから、いつでも表面的にはそれほど派手に見えませんが、少し長い目で見れば、むしろ現実を動かしている最終の力がそこにあることは歴史の常識です(『セレクション』252-3)。
短期的には逆向きの動きをはらみ、いわば蛇行しつつも、それでも歴史には一定の不可逆性があるのではないかという丸山の考え方、ヘーゲルの「理性の狡知」を思わせるこうした認識をどうとらえるか。筆者自身、「権力者」よりも「民衆」がつねに長い目で物事を見られるといった発想、民衆の側に究極的な理があるといった発想は、必ずしも根拠がなく、丸山自身の政治的立場からする希望的な観測ではないかという印象をかつて持っていた。しかしながら、たとえば今日、世界中でさまざまな差別がなお厳然として存在するが、差別を露骨に正当化するような言説は不可能になりつつあることも事実である。レイシストも、自らがレイシストであるとは決して認めようとしない。このことは、「レイシズムは悪い」という認識そのものは定着していることを示している。こうした事実を見るかぎり、歴史というものに一定の不可逆性があることはやはり否定できないのではないかと思うようになった。そうした観点からすれば、さまざまな可能性の束からの選択にあたって参照すべき基準を、私たちが全く持っていないわけではないであろう。
 むしろ、「権力者」の結論に「民衆」の結論を対置するという単純な図式では機能しないというところにこそ、本当の困難はある。丸山は、60年安保闘争などを経験する中で、そのことを改めて強く認識することとなった。

3 「逆さの時代」における内外の境界
「超国家主義」の崩壊によって、一度は顔をのぞかせた青空が、再び暗雲におおわれて行く。そうした不安感が「現代における人間と政治」の基調をなしている。現代が「逆さの時代」、すなわち効率性などが極度に追求された結果として、日常性そのものが失われ、本来の価値観が転倒した社会の中に人びとは生きている。こうした指摘自体は、疎外論や、フランクフルト学派の「道具的理性」批判と通じ合うものであると言えよう。
 注目されるのは、こうした「逆さの時代」にあって、それが「逆さ」であることを人びとが意識しなくなる点に最大の問題があるという丸山の指摘である。
(チャップリンの映画「モダン・タイムス」の場面が暗示するのは)「逆さの世界」の住人にとっては、逆さの世界が逆さとして意識されないという点なのだ。倒錯した世界に知性と感覚を封じ込められ、逆さのイメージが日常化した人間にとっては、正常なイメージがかえって倒錯と映る。ここでは非常識が常識として通用し、正気は反対に狂気として扱われる(『セレクション』397)。
自らが、これはおかしいと思って発言しても、周りはそれを全く受け容れず、強く主張すれば狂人とされかねない。こうした恐怖は、ナチスによる思想統制(グライヒシャルトゥング)との関係で主として描かれ、スターリニズム下のロシアや東欧、そして「暗い谷間」の日本帝国などが例示される(『セレクション』413)。しかしながら、そうした極端な事例は、極端であるがゆえに、現代の問題へはつながって来ない。例外であり普遍性をもたないと見なされてしまうからである。これに対し、丸山の同時代分析の中で大きな位置を占めているのは、何よりもまずマッカーシズムであると考えられる。戦後日本にとって、その民主化の方向性を大きく規定したアメリカが、早くも50年代には馬脚を現したことは、丸山にとっても、きわめて重大な意味をもっていたであろう。それは、「逆さの時代」が過去ではなく現在であるということを意味していたからである。
 それでは、私たちは「逆さの時代」に対して、どのように対応すべきなのか。「グライヒシャルトゥング」を経験したドイツの聖職者マルチン・ニーメラーの述懐を、丸山は引用する。

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。(中略)それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。されそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」(『セレクション』411)。
ニーメラー自身は、この経験から「端初に抵抗せよ」という教訓を得た。実際、今日まで、ニーメラーの警句が引用される場合には、ほぼ例外なく、私たちは政治弾圧に対してはどんなに敏感であっても敏感すぎることはなく、反対派への権力行使と見えるものにはすべて反対すべきであり、それを怠ればナチスのような事態を招いてしまう、という趣旨で言及される。目的のためには手段を選ばず、暴力的な闘争を行う(あるいは行った)ような、いわゆる「過激派」に対してさえ、それと連帯しないことは、権力の犬に成り下がることを意味する、といった批判が、体制批判派の内部から寄せられる。
 しかしながら、丸山は、そのような単純なことを言っているわけではない。権力は、権力中心に近い「内側」と反体制的な「外側」とを区分し、「外側」すなわち異端を排斥する。ここまではよくある議論である。社会が体制側と反体制側とに二分されるだけなら、反体制側が一丸となって体制側に対抗するということが可能になろう。ところが丸山によれば、そうはなっていない。「内側」に「正統」としての中心がある一方で、「外側」にも中心がつくられて行く。そして、「内側」と「外側」のそれぞれが中心に凝縮することによって、「内側」と「外側」との間の壁は高くなり、両者の間の距離は開き、媒介不能なものになって行く。すなわち、社会は分断されてしまうのである。
 このように、反体制的な「外側」にも中心と周縁とがつくられることの深刻さを指摘したところに、丸山の非凡さがある。「外側」の内部での中心と周縁との対立とは、日本近代史に即していえば、日本共産党などが反体制派内の「正統」の位置を占めたのに対し、それ以外の部分が周縁に追いやられたという経緯を示している。
 「外側」の中の分断はどのようにしてなされて行くのか。ニーメラーは、最過激派、つまり反体制の中の中心が弾圧された段階で、政府批判に向かえと主張する。しかし、社会の大多数の人びとは、可能なかぎり、今の体制の中で生きて行きたいと思っている。そうした人びとにとって、最過激派など、自分たちにとって無縁なものとしか思えない。そのため、誰かが最過激派に連帯せよと主張しても、拒否反応を起こすだけである。極端な過激派の存在が、社会の中で反体制派が幅広い連帯をつくり出すのを阻むのである。こうした力学は、日本に限らず、世界のさまざまな場所で目撃されてきた。
 丸山によれば、知識人というものは、境界線あたりで両者をつなぎ、社会の再組織化を果たすべき立場にある。そうした知識人が、ニーメラーの忠告通りに、鋭敏に権力の臭いを嗅ぎつけて、過激派と連帯しようとしたとして、人びとは付いてくるだろうか。来ない、というのが丸山の見立てである。彼らは単なる「おどかし屋」(『セレクション』414)と見なされ、孤立してしまう。他方で、彼らがどのように慎重にふるまったとしても、体制側の「内側」から見れば、彼らも所詮は「外側」であり、排除されるべき存在である。このようにして、境界線あたりにいる知識人は、両側から裏切り者として攻撃され、無力化されがちだということを、丸山は述べているのである。そして、こうした知識人の孤立によって、社会変革は困難になって行く。

4 丸山と現代
このような文脈は、最近の日本政治でも見てとれる。安倍政権は、特定秘密保護法の制定過程や、集団的自衛権行使容認の閣議決定過程で、きわめて粗雑な権力運用の仕方を示した。そうした、人びとが権力への警戒心を持つのが当然であるような案件については、国民の不安を減らすため、恣意的な運用を妨げるさまざまな制度的な手立てをしたり、丁寧な説明をしたりするのが当然である。しかし、政権はそのような配慮をしなかった。
 この結果として何が起こったか。政府への不信感はいよいよ強まり、権力のあらゆる作用に対して基本的に批判的に臨むような、旧来型の左派が再生産されたのである。つまり、丸山の図式でいえば、「外側」の中心が強まり、「内側」と「外側」との分断が進んだ。このことは、日本政治にとってマイナスの効果をもたらすように思われる。権力を警戒するという自由主義はつねに必要であるが、同時に、権力の生産的な側面を認めないかぎり、福祉国家などを実現することはできない。福祉国家は強力な徴税機構と、権力的な再配分を要するからである。こうした側面への認識を欠いていたことが、戦後日本における左派が、ヨーロッパ型の社会民主主義勢力に脱皮できなかった根本的な理由である。
 そして、「外側」の左派がその中心にこり固まることによって、社会の大多数の人びとから見てごく例外的な、取るに足らない部分と見なされるようになれば、「内側」への求心化は際限なく進んで行く。
 こうした危険を避けるには何が必要か。丸山は、内外の境界にある知識人が「内側の住人の実感から遊離」することなく、しかも「内側を通じて内側をこえる展望を示す」ことに可能性を見出す。もっとも、それは容易なことではない。安倍政権の「内側」から暴力的な攻撃がなされている以上、本来、境界にいたはずの知識人も最も「外側」の部分と連帯せざるをえないという考えを持ちがちになる。しかし、完全にそうなってしまえば、かえって「内側」を利することになる。そこで、知識人は両側に目配りしながら、何とかつないで行く役割を果たさなければならない。両側からの疑惑の目を堪え忍びながら。
 丸山が、生涯を通じて、あるべき知識人の姿として最も注目したのは福沢諭吉であった(「福沢諭吉の哲学」『セレクション』81-など)。福沢には時事的な発言が多く、時によって、一見したところ矛盾した発言もしている。しかし、丸山によればそれは単なる一貫性のなさではなく、それぞれの状況に応じる形で「議論の本位を定る」(『セレクション』87)こと、つまり「問題を具体的状況に定着させること」により、柔軟な対応をしたにすぎないのである。こうした福沢の姿に、丸山は明らかに、戦後知識人としての自らの姿を重ね合わせる。そして、それは今日の私たちにとっても無縁なものではない。日本政治が大きく転回し、再び「超国家主義」の影が具体的な輪郭をもって迫りつつある現在、そして、福島の原発事故が終熄しないにもかかわらず、戦後の「原子力体制」の「再起動」が試みられつつある現在、半世紀前に丸山が感じた危機は、私たち自身のそれであるかのように迫ってくるのである。


*引用は、杉田敦編『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー、2010年 より
(1) 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会『政府事故調 中間・最終報告書』メディアランド、2012年。福島原発事故独立検証委員会『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2012年。
(2) 権左武志「丸山眞男の政治思想とカール・シュミット」『思想』903号、904号。
(3) 佐々木毅『政治の精神』岩波書店、2009年。
戦争責任を取らない日本の「無責任システム」を痛烈批判(1)http://japanese.joins.com/article/238/188238.html
2014年07月28日13時34分
[ⓒ 中央SUNDAY/中央日報日本語版]  comment33 share    mixi  .

今年で誕生100周年を迎えた日本の思想家、丸山真男教授。1996年に他界した丸山氏は第2次世界大戦後の日本最高の知性に挙げられる。
   第2次世界大戦で敗れた後、日本には2人の天皇がいたといわれる。裕仁(1901-1989)と思想家の丸山真男(1914-1996)だ。当時、東京大教授であった丸山氏は「学界の天皇」「丸山天皇」と呼ばれるほど、戦後の日本社会で占める比重が大きかった。
  今年は丸山氏の誕生100周年。日本では丸山氏を記念する学術行事が開かれている。ソウルの峨山政策研究院でも24日から2日間、韓国と日本の学者が出席して国際学術会議が開かれた。テーマは「丸山真男と東アジア思想:近代性、民主主義、そして儒教」。今回の学術会議では丸山氏が研究した思想と哲学が集中的に議論された。 日本を代表する知識人だった丸山氏は、日本が近代化のために門戸を開放した時から、軍国主義と超国家主義を通じて第2次世界大戦を起こした過程を綿密に省察した。特に丸山氏は日本が敗戦するしかなかった理由を冷静に分析した。 丸山氏は天皇を頂点とした「大アジア主義」が、日本が第2次世界大戦を起こした名分だと指摘した。大アジア主義とは、天皇が追求する正義を日本のほかのアジアと世界へ伝播しなければならないという論理だ。こうした概念が日本のナショナリズム・軍国主義とかみ合い、韓国・中国・東南アジア国家に対する侵略を正当化させたということだ。   ソウルでの国際学術会議には丸山氏の弟子と呼ばれる渡辺浩東京大名誉教授をはじめ、苅部直東京大教授、キム・ヨンジャク国民大名誉教授、パク・ホンギュ高麗大教授など、両国から約20人の学者が参加した。李洪九(イ・ホング)元首相は祝辞で、「韓日両国が現在と未来の歴史をどう作っていくかに対する方向の設定を助けるため、今回の学術会議が開かれた」と述べた。


東京大で丸山氏に師事した朴忠錫(パク・チュンソク)梨花女子大名誉教授も出席した。朴教授は1962年に日本に留学し、72年に丸山氏を指導教授として法学博士学位を取得した。朴教授に、丸山氏の思想と最近の日本の右傾化による北東アジア情勢の変化について尋ねた。
--日本の学者の誕生100周年を記念する学術会議を韓国で開催するのは珍しい。
それだけ日本の近現代史において丸山の研究業績が優れていることを示している。丸山は日本の天皇制や軍国主義など第2次世界戦直後、知識人があえて触れなかった部分を優れた洞察力で分析した学者だ。彼は敗戦後、誰も責任を取らない日本の指導者と社会を痛烈に批判した。戦争のため大勢の人々が死亡し、社会・経済的にも大きな被害があったからだ。しかしどの知識人も天皇などの戦争責任者を非難しなかった。丸山は当時、日本のこうした状況を『無責任の体系』と規定した。『こういう文化を持つ国があり得るのか』と嘆いた。こうした社会の雰囲気を正すため、丸山は『日本は天皇を求心点として軍国主義を通じて望ましくない方向に進み、これによってアジア諸国を願わない状況に陥らせた』と主張した」
  --では、国家はどのように運営されるべきだと考えたのか。
「丸山は国家の方向が国民の自律意志に基づいて決定されるべきだという考えを持っていた。国民の判断と主体的思考を基礎に、時間がかかっても民主主義を実現させなければいけないということだ。これが丸山の『永久革命論』だ。彼は徹底的に合理主義的な知識を基盤とする近代主義者だ。彼の哲学には、他のアジアの国々の固有の民族主義を害する行為を日本がしてはいけないという内容もある。敗戦後の日本の混乱した状況で、彼の主張は当時の日本社会で大きな反響を起こした」
戦争責任を取らない日本の「無責任システム」を痛烈批判(2)2014-10-06 18:43:30 http://ameblo.jp/uedaken-ichi/entry-11798854406.html
「無責任の体系」論の有効性(上) 原発をめぐる問題状況から
テーマ:社会評論
 3月の今中哲二さん(熊取六人衆のお一人)の講演会の話の内容で、個人的に強い印象を持ったのは、「原子力ムラに村長はどうもいないらしい」というくだりだった。昔は田中角栄さんとか中曽根康弘さんとか、村長らしき人物がいたのだけど、今はいないという。これは、僕の観測と一致していたのだが、原子力ムラに近いところにいて、原子力ムラから排除されてきた今中さんもやはりそう見ているのか、ということが興味深かった。
ここに関心を持つというのは、政治学徒ならではだと自分で思う。
こういう状況を説明する「無責任の体系」論という古典的な理論がある。
丸山真男が「超国家主義の論理と心理」(1946年)や「軍国支配者の精神型態」(1949年)で展開した理論である。(丸山真男『現代政治の思想と行動』[未来社]、『丸山真男セレクション』[平凡社]などに収録)丸山が対象としたのは、戦前・戦中の日本政治であったが、そのシステムは、生きていると言えることが、僕の眼前には展開している。特に原発事故をめぐるいろいろは、「無責任の体系」論の有効だという僕の認識を深めた。
丸山は言う。
ナチス・ドイツにおいては、責任の所在を権力者たちが自覚をしていた。ナチス幹部は、文字通りの無法者であり無頼漢であり、彼らは自分たちがなしたことの意義をよく承知しており、自らの所業こそ正義だと確信をしていた。(後年、アイヒマン裁判において「凡庸な悪」がクローズアップされるが、それは「無責任の体系」論の問題意識に近いと思う)
戦時日本はそうではない。パワーエリートは学歴エリートで占められ、みな、温厚な紳士たちであった。彼らは、自らは戦争を望んでいなかったとし、アジア太平洋戦争の各局面を、自然現象であるかのように語り、意に反してやむを得ず、戦争をしたのだという。
丸山はヨーロッパ流の責任主体のあり方と、日本の責任主体の不在を対比してみせた。それは、新憲法の国民主権と議会制民主主義の規定を支持し(「超国家主義の心理と論理」は、

「無責任の体系」論について、ちょっと説明すると
それぞれの利害関係や思惑で、政治の担い手(政治学ではアクターという用語を使う)それぞれが秩序を重んじながら言動し、その合力としてなんとなく重要事項の方針が出る。取りまとめ役や責任者や実力者はいるが、彼らが責任をもったり、責任があることを自覚していたりして、意思決定がされているわけではない。当事者たちは、自分たちが決めて実行したことであるにもかかわらず、その決定や行為があたかも自然現象であるかのように認識する。
これが、「無責任の体系」論の概略である。前述のように、もともと政治学者・丸山真男が提出した政治システムのモデルの後、元ネタも示されないまま流布するジャーナリスティックな常識的な用語として現在に伝わる、文字通り「伝説的」な議論だ。
丸山は戦時日本の意思決定や責任の所在を分析して、「無責任の体系」モデルを析出した。その文脈では、それぞれの責任のありようは天皇との距離ではかられ、このシステムでは真の主体者たりえるのは、最高責任者の天皇だけだったが、その天皇は「天壌無窮の皇運」に制約されて主体者たりえなかった、とし、結局、責任の主体はあいまいに体系が閉じられていることも指摘した。この天皇の責任主体性の問題は、長らく意味不明だったが、昭和天皇の死後、次々と戦時の天皇をめぐる史料が発掘され研究も進展すると、昭和天皇は皇祖なかんずく明治天皇以来の皇室と天皇制国家の維持に、祖先崇拝的な意識で腐心することに制約されて、自由な責任主体たりえなかったことが明らかになってきた。丸山真男の戦時の状況には不案内だが、東大助教授だった丸山の周囲には、昭和天皇に直接に接する立場の者もいるので、丸山は戦時の昭和天皇の言動を知りえる立場だったのではないか、と思う。
昭和天皇の言動は、当時は未公開情報であった。丸山が分析の素材に用いたのは、東京裁判での被告人たちの証言であった。これについては、多くの史料の発掘が進んだ現在の時点からは事実認識の点でいろいろと検証がなされていて、丸山の認識には訂正が必要なものもあるようだが、その政治システムの分析としての「無責任の体系」論の理論枠組みは有効だと僕は考える。

「無責任の体系」論を、現在の原発再稼働をめぐる原子力ムラと政治権力システムの状況に即して応用してみる。原子力ムラはペンタゴン(五角形)になぞらえられるように、企業群、政界、官界、学界、マスメディアのそれぞれの原子力関係者で構成されている。アクターたちは、それぞれの専門や利害関係の範囲内で言動をとり、少なくとも自己認識としては、その専門や利害関係にその活動を限定している。その全体をたばねるのは、形式的には原子力規制委員会と内閣(なかんずく首相)だし、原発を動かすことに直接に責任を負うのは電力会社なのだが、彼らはその責任の形式性によりかかって、自らに真の責任があるとは思っていない。自らの領域外の事項は、自らの責任が及ばない、という態度をとる。制度設計がそうなっているのだが、民主党政権時代の前例によれば、やはり決定的な最高責任者は首相である。
菅直人氏が首相在任時に、強い要請を中部電力に行うことで稼働中の浜岡原発を止め、野田佳彦氏が首相在任中に、大飯原発の再稼動の決断を行い、「私が責任をとります」と断言した。民主党政権の首相は、自らが最高責任者として対応せねばならないという認識があった、と言っていいかもしれない。
現在の自公政権の安倍晋三首相は、「原子力規制委員会が各原発を審査して、安全が確認されたものを再稼動する」と言い、規制委は「原子力規制基準に適合するかどうかだけが権限だが、基準に適合するからといって、安全かどうかを保
証するものではない」と言う。じゃあ、安全性に責任をもって自らの判断をするのか、というと誰もそれをしない、という意味だ。
あれ?
ここはやはり、安全性について自らで判断するのは政治すなわち内閣とりわけ首相ということになる。原規委が川内原発再稼動審査書をまとめたとき、茂木敏充経産相は記者会見で「原発再稼動の責任は法の規定通り」と、電力事業者すなわち九州電力の主要な責任の下に再稼働を行う、発言して批判を浴び、菅義偉官房長官が「国の責任で」と訂正に及んだ。内閣とりわけ首相が原発再稼働の責任者であることを確認したことになる。
原発周辺市町村が策定した避難計画も現実的・実行可能なものになっていない、という批判を浴びている。机上の空論の積み重ねが問題となっているし、要介護者の避難をどうするのか、10km圏外は計画は必要ないのだと鹿児島県知事が放言してまた批判を浴びている。
避難計画の実効性の確保は制度の谷間であった。九電は「避難計画は地方自治体が決めること」と言い、当初、国も同様の態度をとった。原子力規制基準には原子力災害避難計画の項目がないので、原規委は審査をしていない。市町村は「原発事故をめぐる安全確保は国の責任で」と主張した。専門家をそろえることも困難な地方自治体には財政力や実務能力も含めて、実効性ある避難計画策定の主体たることには無理があった。それで批判が高まると、内閣はばたばたと原子力防災会議で実質審議もろくにないまま市町村避難計画を「確認」するということにした。
九州電力は、川内原発再稼働の法的な責任者であるにもかかわらず、反対運動から技術的な問題点を指摘されると、基本的にその指摘を認める正直さをかなり示すようになっているが、同時にそれは政治マターであるから、政治判断の領域の課題で、民間企業である自分のあずかり知らぬところだと、言わんばかりの対応をとることがある。彼らは彼らで安全性についての政治的責任は国にあるのだという認識のもとで、自らに中心的責任があるとは考えてはいないようだ。
ここに、学界や世論の批判を受けて、実質的な責任の所在が内閣とりわけ首相にあることは明確にされてきているが、どうもこれらの機関やそれを担う人びとにその自覚がないようにしか見えない。「私が責任をとります」と見得を切って非難をあびた、野田政権がましに見えてくる。実際の原発再稼働の場面では野田氏と同様に「私が責任をとります」と安倍氏は言わねばならないのだろうが、おいおい大丈夫か、という感じである。
安倍氏が、自分は原子力の専門的なことはわからないという自覚のもとで、政府部内や原子力ムラの何となくの「空気」に従っているだけだとしたら、かつての大日本帝国指導者がはまった「無責任の体系」と同じ轍を踏んでいることになる。原発維持ないし推進の政策的合理性を、日本社会全体(国際情勢を含めてもいいかもしれない)を見渡して責任を持って判断しようとする主体が、どこにも存在しない。
恐ろしいことを進めているのに、その推進者たちがいずれもその責任の自覚があいまいなままでいる、という不思議な事態である。
丸山が「無責任の体系」論を提出するにいたった最大の動機は、戦争への悔恨であった。
今の日本に希望があるとすれば、自らの責任で原発を廃止に追い込もうとする勢力がかなりの強さで存在するということである。

丸山真男の思想史(10) 現代政治の思想と行動 未来社
丸山先生自身は“夜店”の屋台として メイン商品では無いことを断っておられましたが、世間では先生の著作の第一に挙げられる物です。
 中でも巻頭論文“超国家主義の論文”超国家主義の論理と心理“は戦前・戦中の日本超国家主義の病理に鋭いメスを入れ、”日本が何故あのように馬鹿げた戦争を行ったか?“を問い、今日に至るもその新鮮な輝きを失っていません。
超国家主義の理論と真理)
そもそも近代国家はナショナリズムを本質的属性とする。各国とも帝国主義的膨張主義で拮抗していた時代である。そのような環境下で何故日本の国家主義がウルトラ級と言われるのか?その由縁が欧米の国家主義と比較することで
明らかにされる。
 宗教改革、市民革命を経由した欧米の国家は“中性国家”で有る事に大きな特色がある。
 欧米に於いて国家は“真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした選択と判断は専ら他の社会的集団(例えば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである”公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収される。
しかるに日本の国家は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。
 例えば“教育勅語”で日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることを宣言するのである。国家が“国体”において真善美の内容的価値を占有、全てが“国家”に寄りかかる。
“国家のため”の学問・芸術・国民。
ここでは私的なものが私的なものとして承認される事はない。私的なものは悪か悪に近い何か後ろめたい物になった。
ここまでは周知の事実かも知れない。さて そこから素晴らしい驚くべき論理展開がなされる。
“私事の倫理性が自らの内部に存せずして国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に進入する結果になる”

“国家神話”が殆ど崩壊しかかっているかに見える?現代、解りやすい例で“会社”を取ってみよう。
“会社のため、株主のため”と声高に喧伝する者に限って、自らの私利私欲の為に、その情報独占の立場を利用する事が多いこと、村上世彰氏を持ち出すまでもないだろう。“国家”や“会社”と言う理念の曖昧さがつけ込まれるのだ。但しこれは単に私の慨嘆である。

“国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内在的正当性の規準を自らのうちに持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を越えた一つの道義的規準には服しない“
 “それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである”

“真善美”の価値体系は天皇を長とする権威のヒエラルキーが決定する、法はヒエラルキーに於ける具体的支配の手段となる。
 支配層の日常的モラルを規定するのは抽象的法意識でも内面的罪の意識でも民衆の公僕観念でもない。天皇への感覚的親近感のみとなる。結果自己の利益を天皇の利益と同一化、自己の反対者は直ちに天皇に対する侵害者と見なされる。支配者は天皇の御名を唱える事で自らの行動を全面的に正当化する事が出来るのである。“統帥権”、王に直属し王の名を取れば全てが許される。
 誰が天皇に近いか、各分野がそれぞれ
究極的権威(天皇)への直結によって価値付けられる結果、活動的・侵略的なまでに自己を究極的実体に合一化しようとする衝動から生ずるセクショナリズム。
 究極的権威への親近性による得々たる優越意識と、権威の精神的重みをひしひしと感る臣下としての小心さ。そこには“独裁”観念すら生ずる隙間がない、独裁のもつ個人的責任の自覚は生じない。
 独裁観念にかわって、上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行くことによって全体のバランスを維持する“抑圧の委譲による精神的均衡の保持”
絶対的権威である天皇すら無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負うことで、その責任を免れる。
 全てが王の御名を唱え国家に寄りかかる事で自らの急進的行動を正当化する無責任の体系。
“「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強める循環過程”

(日本ファシズムの思想と運動)
 準備期  第1次世界大戦の終わった頃から満州事変頃に至る時期“民間における右翼運動の時代”
     反共・反資本主義的民間右翼団体“猶存社”“建国会”“経綸学盟”“大化会”
     血盟団事件・三月事件
 成熟期  満州事変頃(昭和6年)から二.二六事件(昭和11年)に至る時期
            “急進ファシズム全盛期”
            軍部特に青年将校と結びついた“下からの運動”
            又 無産政党内部や在郷軍人や官僚を中心とする政治勢力も結成された
完成期  二.二六事件以後粛軍の時代から終戦まで“日本ファシズム完成期”
     二.二六事件を契機に“下からの運動”に終止符
            官僚・重臣等半封建勢力と独占資本及びブルジョア政党間が不安ながらも連合支配体制

イデオロギー的特質
① 家族主義的傾向
    家長として国民の“総本家”としての皇室とその“赤子”によって構成された家族国家
② 農本主義的思想
    プロレトリアート軽視
③ 大亜細亜主義に基づくアジア諸民族の解放
  運動形態の特質
① 軍部及び官僚という既存の国家機構内部に於ける政治力を主たる推進力
       大衆組織運動として発展せず少数者の“志士”の運動
② 少数者の観念的理想主義の運動として展開されたため
   空想性・観念性・非計画性
③ 破壊主義“我々は破壊すればよい、あとは何とかなる”

社会的担い手における特徴
ファシズムは一般的に小ブルジョア層を地盤とする特質
 中間層の2つの類型
     ①小工場主・商店店主・小地主・小学校教員・下級官吏など“親方”“主人”層
     ②都市サラリーマン・文化人・自由知識職業者・学生などの知識人
    に分けるなら
       ① の疑似インテリ層である地方の小宇宙主人公を基盤とし
n       ② の知識人層は文化的に孤立していた
      (このインテリゲンチャへの過大な期待と絶望は丸山先生が煙たがられた所かも知れない)

 歴史的発展の特異性
 大衆的組織をもったファシズム運動が外から国家機構を占領するようなことはなく
下からの急進ファッショ運動のけいれん的激発を契機としその度毎に
軍部・官僚・政党など既存の政治力が国家機構の内部から
上からのファッショ体制を促進・成熟させていった
下からのファシズム運動は上からのファッショ化に吸収される
“皇道派”の急進的運動を契機に
“統制派”はもっと合理的に天皇を利用しながら自分のプランを上から実現した
 かくて二・二六事件での急進ファシズム弾圧後
 本来的に国民的基盤を持たない官僚
 自らは革新の推進力と称しながら決して政治的責任を引き受けない軍部
ファッショ勢力と一戦を試みる闘志を失った政党
 三者が挙国一致の名の下に鼎立競合する
更に 財界と軍部・官僚の利害が接近し独占資本と軍部の抱合体制が完成していく
日本のファシズムは“下からの運動”として成立せず国民的基盤を持ち得なかったのは何故か?
  ブルジョア民主主義の欠如していたが為
“近代的人間類型”からほど遠い封建的浪人あるいはヤクザの親分的人間が右翼運動を起こす事になり、明治時代の絶対主義的=寡頭的体制がそのままファシズム体制に移行したのである。

軍国支配者の精神形態)
ナチ指導者と日本戦犯の比較
ナチ指導者に比べ日本戦犯に無法者や精神異常者は少なく
最高学府・出世街道を経て日本の最高地位を占めた顕官が殆どである。
 先に述べた如く“無法者”タイプも日本ファシズムに重要な役割を果たしたが
彼らは権力的に就かず権力者に癒着していたところに特色がある
日本戦犯はこれら“無法者”に感染し引き回された哀れなロボットであったと言えよう
自己の行動の意味と結果をどこまでも自覚しつつ行動するナチ指導者と
自己の現実の行動が絶えず主観的意図を裏切っていく我が軍国指導者
 一方はヨリ強い精神であり一方はヨリ弱い精神である
弱い精神が強い精神に感染する
弱い精神には無計画性と指導力の欠如が随伴する
 ナチ戦犯裁判に見る“ヨーロッパの伝統的精神に自覚的に挑戦するニヒリストの明快さ、悪に敢えて居座ろうとする無法者の啖呵”
対し東京裁判被告の答弁はうなぎのようにぬらくらし霞のように曖昧である
 そして見よ、被告を含めた支配層一般の戦争に対する主体的責任意識の稀薄。

 日本ファシズムの矮小性
① 既成事実への屈服・権限への逃避
 現実はつねに未来への主体的形成としてでなく過去から流れてきた盲目的必然性として捉えられる。
“無法者”の陰謀が次々とヒエラルキーの上級者によって既成事実として追認され最高国策にまで上昇する。
そしてもっともらしく責任が回避される“それでは部内が収まらない”“それでは英霊が収まらない”
 “もっぱら上からの権威によって統治されている社会では、統治者が矮小化した場合、むしろ兢々として部下のあるいはその他被治者の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人意向に実質的に引きずられる結果となる”
上からの絶対的権威によって支えられた社会こそ“下克上”(無責任な力の非合理的爆発)を呼び起こし易いプロセスが解明されています。
 更に“抑圧委譲の原理”によって ヒエラルキー最下位に位置する民衆の不満のはけ口が排外主義と戦争待望気分に注ぎ込まれる。支配層が不満の逆流を防止するため、そうした傾向を煽るのである、そしていよいよ危機的段階に於いて支配層は、逆にそうした無責任な“世論”に屈従して政策決定の自主性を失うのである。無責任・無計画・無指導性の循環が完結する。
② “訴追されている事項は官制上の形式的権限の範囲に属さない”と言う責任回避
 東京裁判で述べられた責任回避の理屈である。
 被告の大部分は帝国官吏であった。M・ウェーバーの“官僚精神”が遺憾なく発揮される。
 彼らの仕事は政治的事務なるが故政治に容喙しうるのであり、政治的事務なるが故政治的責任を解除されたのである。自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏を装うことが可能なのである。
 天皇の権威を“擁し”て自己の恣意を貫こうとした軍部・右翼勢力はただひたすらに天皇の“神権”を実現すべく“地位”に定められた事務を実行したと言う、しかしカリスマ性を自ら抑圧した立憲君主たる天皇は“聖断”を実行して自ら責任を取ることを避ける。かくて人格のない無責任な匿名の力だけが乱舞する。

 日本ファシズム支配の“無責任の体系”
神輿=権威
 役人=権力
 無法者=暴力
 神輿は単なるロボットであり“無為にして化する”
役人は神輿を直接擁する正当性を権力基礎として人民を支配するが、最下位にある無法者に尻尾を掴まれ引き回される。
 一方無法者には“権力への意志”はなく無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫ぶのみである。
 3つの類型は固定的ではなく一人の人間がこれらの類型を混在させる事もある。
しかし無法者がより役人的、神輿的に変容することで上位に昇進する事があっても、無法者が無法者としてそのままに国家権力を掌握することはなかった。
(続く)


ドイツ語→Maruyama Masao (jap. 丸山 眞男; * 22. März 1914; † 15. August 1996) war ein japanischer Politikwissenschaftler und Historiker.Leben Maruyama hat an der Juristischen Fakultät der Universität Tokyo studiert. 1940 wurde er dort Assistenzprofessor. Während des Zweiten Weltkrieges war er in Hiroshima stationiert, wo er auch den Abwurf der Atombombe miterlebte. Bei Kriegsende war er 31 Jahre alt. In den folgenden Jahren trat er mit einer Reihe von Aufsätzen an die Öffentlichkeit, in denen er die Mentalitätsgeschichte Japans hinsichtlich ihrer Wirkung im 20. Jahrhundert einer tiefgreifenden Analyse unterzog.Die große Wirkung seiner Schriften machte ihn zu einem der führenden Intellektuellen seines Landes, deren Ziel es war, die Demokratisierung Japans mit einer Aufarbeitung der Vergangenheit zu verbinden. Seinem Selbstverständnis nach waren seine Arbeiten „im Widerstand gegen eine Tendenz geschrieben, jene in den dreißiger und vierziger Jahren für jeden sichtbaren krankhaften Phänome als ‚Unfall’ oder Ausnahmeerscheinungen im Grab der Vergangenheit zu verschütten“[1].Seine Arbeiten richteten sich vornehmlich gegen ein „Verdrängen“ der jüngsten japanischen Geschichte und ihrer ideologischen Wurzeln. Das kulturelle Erbe Japans war ihm kein Reservoir des wahren, unverdorbenen Japans, sondern selbst tief verstrickt in die ideologischen Ursachen der als Fehlentwicklung verurteilten Ereignisse im zwanzigsten Jahrhundert.1971 wurde Masao in die American Academy of Arts and Sciences gewählt. 1977 erhielt er für Senchū to sengo no aida (戦中と戦後の間) den Osaragi-Jirō-Preis, 1985 den Asahi-Preis. 

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