日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Patriotic Heros=Republika sa Pilipinas☆The Republic of the Philippines ☆比国!!=フィリピンの一般的知識・7000の島からなる・Republika ng Pilipinas・Filipinas

スペイン語⇒フィリピン=Filipinas —oficialmente la República de Filipinas (en filipino: Repúblika ng Pilipinas; en inglés: Republic of the Philippines)— es un país insular situado en el Sudeste Asiático, sobre el océano Pacífico. Su capital es Manila.5​6​ Al norte se encuentra separado de la isla de Taiwán por el estrecho de Luzón; al oeste se halla el mar de la China Meridional y Vietnam; al suroeste, la isla de Borneo, al sur el mar de Célebes lo separa de otras islas de Indonesia y al este limita con el mar de Filipinas.7​6​ Su ubicación en el cinturón de fuego del Pacífico y su clima tropical lo convierten en un lugar propenso a terremotos y tifones.8​9​5​ El país es rico en recursos naturales y se encuentra en una de las zonas con mayor biodiversidad del mundo.10​11​12​ El archipiélago está formado por 7107 islas, que se clasifican geográficamente en tres grupos: la isla de Luzón, el grupo de las Bisayas y la isla de Mindanao.7​ エスペラント語⇒フィリピン=Filipinoj (filipine: Pilipinas [ˌpɪlɪˈpinɐs]), oficiale Respubliko Filipinoj, estas suverena lando en sud-orienta Azio, konsistanta el malaja arkipelago da 7 107 insuloj en okcidenta Pacifiko. La landnomo devenas de la hispana reĝo Filipo la 2-a. La sudĉina maro disigas la insularon de Vjetnamio en okcidento, Celebes-maro de Indonezio en sudo. Respubliko Filipinoj estas la kvine plej granda insula ŝtato de la mondo.





こんな言葉があります。
「スペイン人はよくなかった。アメリカ人も悪かった。日本人は一層悪かった。しかし最低なのは二度目に来たアメリカ人だ」。ここトロントもおよそ「70万」のフィリピン系の人々がいます。中国系フィリピン人も多い。私も友人、同僚、患者さん、たくさんいる。みんな敬虔な「カソリック」でまじめ。一生懸命働いて生活しています。また日本で働く「女性」(夜の商売)たちのひどい有様にも接した(マンションの一室(6畳間2つくらい)に大勢(8~9人)住んでいる(これは他のどこでも似たようなもの=勤務先は錦糸町はじめ都内各地)=毎朝5時に「マネージャー」が全員いるかどうか、点呼に現われる)。これはフィリピン人に限らず「中国人」「旧ソ連」「東欧」などもいっしょ。古くは侵略者「マゼラン」を殺したマクタン島の首長ラプラプ(注)それからボニファシオ、ホセ・リサールにアギナルド・・・それなりの「重い」歴史があるフィリピンです。日本とアメリカの侵略のため「100万人」のフィリピン人が犠牲になりました。そして60万の日本兵が放り込まれた(50万は生きて帰れず)。そんなとこです。サム
(注)ラプ=ラプ(Lapu-Lapu、1491年? - 1542年)[要出典]は16世紀、フィリピンのマクタン島(セブ島の東沖合い)の領主であり、イスラム教徒の部族長。世界一周航海の途上でフィリピンへ来航し、キリスト教への改宗と服従を要求するフェルディナンド・マゼランらをマクタン島の戦いで破り、マゼランを討ち取った。フィリピンでは民族の誇りを守った国民的英雄とみなされているタガログ語⇒ラプラプ=Si Lapu-Lapu (nakilala noong 1521) ay isang Datu sa pulo ng Mactan, isang pulo sa Cebu, Pilipinas, na nakilala bilang pinakaunang katutubo ng kapuluan na lumaban sa pananakop ng mga Kastila. Siya rin ang dahilan ng pagkamatay ng manlalakbay na si Fernando Magallanes.[1] Itinuturing siya bilang pinakaunang bayaning Pilipino.[2][3] Kilala rin siya sa mga pangalang Çilapulapu,[4] Si Lapu-Lapu,[5] Salip Pulaka,[6][note 1] at Khalifa Lapu o Caliph Lapu (ibinabaybay din bilang Cali Pulaco),[7] subalit pinagtatalunan ang pinagmulan ng mga pangalan nito.



フィリピン共和国
(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英語: Republic of the Philippines)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家である。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。


スペイン統治時代:

西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したが、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。
ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。
支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされる

ホセ・リサール
の活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国は
エミリオ・アギナルド
[6]らの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。
1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。
なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時すでに日本人がミンドロ島やルソン島へ毎年交易に来ていたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている[7]。


The Philippines
(Listeni/ˈfɪlᵻpiːnz/; Filipino: Pilipinas [ˌpɪlɪˈpinɐs]), officially the Republic of the Philippines (Filipino: Republika ng Pilipinas), is a sovereign island country in Southeast Asia situated in the western Pacific Ocean. It consists of about 7,641 islands[16] that are categorized broadly under three main geographical divisions from north to south: Luzon, Visayas, and Mindanao. The capital city of the Philippines is Manila and the most populous city is Quezon City, both part of Metro Manila.[17] Bounded by the South China Sea on the west, the Philippine Sea on the east and the Celebes Sea on the southwest, the Philippines shares maritime border with Taiwan to the north, Palau to the east and Malaysia and Indonesia to the south.
The Philippines' location on the Pacific Ring of Fire and close to the equator makes the Philippines prone to earthquakes and typhoons, but also endows it with abundant natural resources and some of the world's greatest biodiversity. The Philippines has an area of 300,000 square kilometers (115,831 sq mi),[18] and a population of approximately 100 million.[19][20] It is the seventh-most populated country in Asia and the 12th most populated country in the world. An additional 10 million Filipinos live overseas, comprising one of the world's largest diasporas. Multiple ethnicities and cultures are found throughout the islands. In prehistoric times, Negritos were some of the archipelago's earliest inhabitants. They were followed by successive waves of Austronesian peoples.[21] Exchanges with Chinese, Malay, Indian, and Islamic states occurred. Then, various nations were established under the rule of Datus, Rajahs, Sultans or Lakans.
The arrival of Ferdinand Magellan in Homonhon, Eastern Samar in 1521 marked the beginning of Hispanic colonization. In 1543, Spanish explorer Ruy López de Villalobos named the archipelago Las Islas Filipinas in honor of Philip II of Spain. With the arrival of Miguel López de Legazpi from Mexico City, in 1565, the first Hispanic settlement in the archipelago was established.[22] The Philippines became part of the Spanish Empire for more than 300 years. This resulted in Roman Catholicism becoming the dominant religion. During this time, Manila became the western hub of the trans-Pacific trade connecting Asia with Acapulco in the Americas using Manila galleons.[23]
As the 19th century gave way to the 20th, there followed in quick succession the Philippine Revolution, which spawned the short-lived First Philippine Republic, followed by the bloody Philippine–American War of conquest by US military force.[24] Aside from the period of Japanese occupation, the United States retained sovereignty over the islands until after World War II, when the Philippines was recognized as an independent nation. Since then, the Philippines has often had a tumultuous experience with democracy, which included the overthrow of a dictatorship by a non-violent revolution.[25]
The nation's large population and economic potential have led it to be classified as a middle power. It is a founding member of the United Nations, World Trade Organization, Association of Southeast Asian Nations, the Asia-Pacific Economic Cooperation forum, and the East Asia Summit. It also hosts the headquarters of the Asian Development Bank.[26] The Philippines is considered to be an emerging market and a newly industrialized country,[27] which has an economy transitioning from being one based on agriculture to one based more on services and manufacturing.[28]

第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代[編集]

詳細は「フィリピン独立革命」、「米比戦争」、「アメリカ合衆国旧陸軍省」、「島嶼局(英語版)」、および「島嶼政府(英語版)」を参照
米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』
米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。
フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[8]。
その後フィリピン議会議員

マニュエル・ケソン
の尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1934年アメリカ議会はタイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンに膨大な利権を確保し続けた[要出典]。

第二次世界大戦と独立[編集]

マニラに向けて進撃する日本軍戦車隊(1942年1月)
詳細は「フィリピンの戦い (1941-1942年)」および「フィリピンの戦い (1944-1945年)」を参照
第二次世界大戦中の1941年12月に、アメリカ合衆国軍との間に開戦した大日本帝国軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸した。敗走を続けるアメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡し、大日本帝国陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。
アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、大日本帝国も1943年5月に御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会(英語版))とビルマを独立させた[9]。1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立したが、軍の統帥権は大日本帝国軍が握る傀儡政権であった[10]。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。しかし、ラウレル政権は必ずしも日本の言うことを全て聞き入れた訳ではなく、地主支配の維持を図ったために、アルテミオ・リカルテのようなフィリピン親日派からも離反が相次ぎ、新たなる親日組織マカピリが設立された[要出典]。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系の

フクバラハップ
が各地で抗日ゲリラ戦争を行った。 その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[11]、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。
再独立[編集]
1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約(英語版)で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国(英語版)が再独立した。
冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。

マルコス独裁[編集]

フェルディナンド・マルコスとイメルダ夫人(1984年10月20日)
1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。アメリカ合衆国のからの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍 (NPA) による武装蜂起が発生した[要出典]。

エドゥサ革命[編集]

1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みを行った。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に放映した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は銃を発砲出来無かった[12]。
マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した[13]。新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。
第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。

フィリピン紛争[編集]

詳細は「フィリピン紛争」および「:en:Moro insurgency in the Philippines」を参照
フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍 (NPA New Peoples Army) を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年現在、武力行使は継続中である。
ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、現在はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[14]。
モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る[15]。
アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group) は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年現在、武力闘争を継続中である。

アジア通貨危機以降[編集]

フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年にアジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、IMFの管理下になることを免れた。
フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師はフィリピンの有力な産業と言ってもよい[16]。主要な貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は距離的にも近い中華人民共和国や中華民国(台湾)や大韓民国との貿易も増えている。
東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の一つに含まれている。
また、長年の懸案であった、ミンダナオ島を活動拠点とする、南部武装ムスリム勢力(MILF・モロ・イスラム解放戦線)との和解交渉成立後、ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。


アメリカとの関係[編集]

詳細は「米比関係(英語版)」を参照
基本的にフィリピンは親米的であり[要出典]、日本と同じく軍事的、経済的、政治的にアメリカとの関係が深い。フィリピンは植民地から独立したが、アメリカが介入した朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦し、現在行われている対テロ戦争にも参戦、反対世論が多かったイラク戦争(武装勢力によるフィリピン人拉致事件でフィリピン軍はイラクから全面撤退した)に同調し、東南アジア条約機構や米比相互防衛条約を結んでいる。 一方で、かつてクラーク基地にあった在比米軍の軍人による市民レイプ事件(英語版)では、米兵容疑者に対し、最高裁判所で最高刑となる終身刑を確定し、容疑者の身柄の引渡しにおいて米国と外交問題になった。他にスービック基地でのレイプ事件(英語版)も問題になった。
クラーク空軍基地は1991年4月に近くのピナトゥボ火山が噴火し、火山灰の降灰により基地の大部分が使用不可能となり、アメリカ政府は同基地の放棄を決定した。また、スービック海軍基地は米海軍のアジア最大の国外基地だったため維持を希望したが、フィリピン政府により拒否されたため両基地とも1991年11月26日にフィリピンへ返還された。
2013年1月7日、米軍無人機が漂流されているのが発見され、続いてフィリピン南西部のパラワン島近くの世界遺産に登録されているトゥバタハ岩礁のサンゴ礁で、米海軍の掃海艦ガーディアンが座礁し、修復不可能な損傷を与えた。無人機の事故では、主権侵害との批判は一部に留まっていたが、ガーディアンの座礁事故では、環境保護団体や地元政治家、市民にまで非難の声が広がっている[25]。
英語教育が進んでいるため、フィリピンは英語圏での出稼ぎに大いに役立っている。
第二次世界大戦において、米軍に協力したフィリピン軍人に対しアメリカ合衆国での労働が許可され、多くのフィリピン人がアメリカ合衆国へ渡ろうとしたものの、1924年のアメリカの移民法によって、フィリピンからは年100人がアメリカに渡れるに過ぎなかった。1965年のアメリカの移民法(英語版)によって、国別人数制限が改正されて撤廃されたことにより、多くのフィリピン人がアメリカに入国できるようになった。この時期の出稼ぎは、主として医師、看護師、技術者、歯科技工士など、高度な専門職に就く者が多く、また1960年代には、ホテルのボーイやメイド、看護師、家政婦などの職を得て、ヨーロッパに渡航する者も出始めている。近年、旬な職業は「看護師」と「IT技術者」と言われており、特に看護婦不足のアメリカでは、看護師資格で永住権が確保されるため、家族も呼び寄せて、そのまま移民となるケースもある程である[26]。
しかしフィリピン人の富裕層やエリート層や知識人が、アメリカ合衆国などの英語圏に移住してしまうケースが多く、優秀な人材が海外へ頭脳流出してしまうケースがとても多いため、これがフィリピン経済の発展を妨げている。
現在ではフィリピン系アメリカ人はアメリカで2番目に多いアジア系で、移住や高い出生率で年々増加し、現在400万人存在する[27]。
2000年代になり、米軍がフィリピン国内の基地から撤退したことを機に、中華人民共和国による南シナ海の島嶼部への領有権主張・南シナ海全域の領海主張、中国人民解放軍の台頭による、東南アジアのパワーバランスが悪化することに対応するため、フィリピン政府内でも米軍の再駐留を望む声も出てきている[28]。

周辺諸国関係[編集]

2000年代に入り、中華人民共和国がスカボロー礁やスプラトリー諸島の領有権の主張を活発するようになり、実効支配を巡り、2012年4月に両国の公船が出動し、この事件はその後、暫く貿易や観光などでしこりを残しており、以降該当海域などではお互いに睨み合う状況が多発している。2013年1月にはフィリピンが「平和的解決に向けたほぼ全ての政治・外交手段を尽くしてしまった」として、国連海洋法条約に基づく国際仲裁裁判を請求し、同年4月に国際海洋法裁判所は仲裁裁判に必要な仲裁人5人を選定したと発表したが、中華人民共和国は仲裁自体に応じない姿勢である。この係争に関して、フィリピンは自国だけでは解決に辿り着けないとして、同じ領有権で中国と争っているベトナムや日本などと協力し、日本からは海上保安庁が巡視船を提供したり、フィリピン海岸警備隊との合同訓練を行ったりしている。更に、以前基地ごと軍隊を駐留をしていたアメリカ合衆国にも圧力をかけてもらうために、近年はアメリカ合衆国軍とフィリピン軍の合同演習を行ったりしているが、アメリカ合衆国連邦政府としては、この件に関し中立的な立場を維持することを表明している[29][30]。
2013年5月9日、フィリピン公船が台湾との排他的経済水域で係争する海域にて、警告のない上、作業中の台湾籍漁船団に乱射し、銃弾は一人の台湾人漁師に当たりこの漁師は死亡した。台湾当局はフィリピン政府に正式な謝罪と賠償を求め、フィリピン政府は後日この件に関し正式な謝罪は受け入れられないとする一方、「乗組員の遺族にお悔やみを申し上げたい」と述べ、賠償などを行うか検討する方針を表明[31]。
海上自衛隊が保有するP-3Cをフィリピン政府が調達したいとの意向を示している件について、P-3Cは高性能な反面、海上で取得した情報の処理などの高度な運用能力が必要なことから、代わりとしてTC-90を貸与した。 [32]。


国民[編集]民族[編集]

州ごとの民族分布
詳細は「フィリピンの人口統計(英語版)」を参照
人口が一億人を超えたフィリピンはマレー系を始めとする多民族国家である。タガログ族(英語版)・ビサヤ族(英語版)(セブアノ族(英語版)・ヒリガイノン族(英語版)・ワライ族(英語版))・イロカノ族(英語版)・ビコラノ族(英語版)・カパンパンガ族(英語版)・パンガシナン族(英語版)・モロ族(マギンダナオ族(英語版)・バジャウ族(英語版)・ヤカン人(英語版)・タウスグ人(英語版)・サマル人(英語版)・en:Bangsamoro[要曖昧さ回避])・イヴァタン人(英語版)(台湾原住民)・華人・サンボアンゲーニョ(英語版)・メスティーソ・ネグリト(アエタ族・アティ族・バタク族・ママンワ族(英語版))・ボントック・イゴロッテ族(英語版)(イフガオ族)・ティルライ族(英語版)など。

フィリピン人[編集]

詳細は「サンボアンゲーニョ(英語版)」を参照
現在ではフィリピン人とは、当たり前のことであるが、フィリピンに生まれ育った土着の人々の名称である。このような考え方は19世紀半ば以降に意識され始め現在に至っている。かつては、スペイン本国生まれのスペイン人と区別して、フィリピン諸島生まれのスペイン人を指して用いられた。そして、土着の人々をインディオといった。また、スペイン人や中国人の移住者の男性と現地の女性との間に生まれた子どもはメスティーソと呼ばれた。この背景には、インディオやメスティーノのなかの富裕層の子弟たちが、スペインの圧政に耐え兼ね、改革や自治を求めた様々な運動があったことが考えられる[57]。

タガログ族[編集]

フィリピンの主要民族はタガログ族であり、ルソン島のリサール州、ラグナ州、タルラック州、ブラカン州、バターン州などに住む、タガログ語は他のフィリピン諸語と同じく、オーストロネシア語に属する。これを母語とする者は2500万人以上と推計される。16世紀後半から約300年にわたるスペイン人の支配により、タガログ族の80%以上がカトリック教徒となっている。大半が木やニッパヤシでつくった小さな高床式の家屋に住み、水稲耕作を主とする農業を営んでいるが、主要な換金作物はサトウキビとココナッツである。19世紀から20世紀初頭にかけて起こった白人(スペイン人、アメリカ人)と日本人の植民地支配に対する革命運動で、最も重要な役割を演じた民族でもある。そのため、フィリピン国民の主要な英雄や、独立後の政府の指導者多く輩出している。ルソン島にはその他にもイロカノ族(人口約810万人)、ビコラノ族(人口約540万人。ビゴール語を話す)、カパンパンガ族(約人口300万人)、パンガシナン族(約人口110万人。但し、イロカノ族との混血が進んでいる)など、他にも多数の中小部族を抱えている。

ビサヤ族[編集]

続く主要民族はビサヤ諸島(セブ島、パナイ島、レイテ島、サマール島)を中心として、ルソン島からミンダナオ北部にかけて居住する新マレー系住民のビサヤ族である。オーストロネシア語族に属するビサヤ諸語を話し、人口は2000万を超えると推定されるが、政治的に、社会的地位は、タガログ族が圧倒的優位を占めている。但し、一言にビサヤ族と言えど、実際には多数の部族が存在している。ビサヤ族の最大の部族はセブアノ族であり、セブアノ語を話し、セブ、シキホール、ボホール島などの各島に居住し、1200万人の人口を誇る。2番目の人口を有するヒリガイノン族の人口は約700万人であり、ヒリガイノン語を話し、パナイ、西ネグロス、南ミンドロなどの各島に居住している。3番目にはワライ族であり、人口は約310万人。ワライワライ語を使用し、サマール、東レイテ、ビリランの各島に居住し、おもな生業は水田耕作による水稲栽培であるが、一部は漁労や商業にも従事している。主食は米、魚、野菜、果物である。双系親族、儀礼的親族を有する。かつてはラオンと呼ぶ至上神を信仰し、アニミズム信仰も盛んであったが、現在はほとんどキリスト教に改宗している。他にも多数の中小部族が存在している。そのため、マニラ中心の中央政府と協調関係を取りながらも、独自の文化、習慣、言語、民族性を保持している州政府が多い。

モロ族[編集]

ミンダナオ島などの南部にはイスラム教徒のモロ族(バジャウ族・ヤカン人・タウスグ人・サマル人など)が存在する。

華人[編集]

フィリピン華人の大部分は中国福建省南部の出身である。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫である。現在でも中国語(福建語)を話し、中国の習慣になれている者は100万人程度と推定される。苦力出身者がほとんどおらず、商業移民が中心となっている[58]。
フィリピンの華人は、現地社会との融合度が高く、現地人との通婚が進んでおり、仏教を捨ててカトリック教会への改宗者も多い[58]。また、フィリピンが反共を掲げた経緯から、同じく反共を掲げ、西側陣営に属した台湾(中華民国)との関係が深い。フィリピンの華人社会で使われる漢字は、台湾と同じ繁体字である[58]。

メスティーソ[編集]

過去数百年で中国系(華人)やスペイン人(サンボアンゲーニョ(英語版))との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。外国へ出稼ぎに行く国民が10人に1人はいる出稼ぎ国家で、外国で働く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人・アメリカ人とフィリピン人のハーフが多い。

少数民族[編集]

山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地の山岳地帯や南部のミンダナオ島、スールー諸島、パラワン島の住民は中北部の低地住民とは文化や生活様式を異にしてきた人々を少数民族という。これらの人々は全人口の10%前後であるといわれている。南部に住むムスリム(モロ族)と各地の山岳地帯に住む住民の二つに分けられる。アメリカは、少数民族を「非キリスト教徒部族民」と名付け、後進的な野蛮人と見なした(モロの反乱(英語版))。これらの少数民族からも国会議員や地方議員が出ているが、彼らは地域の「ボス」であることが多く、少数民族の利害や権利は政治に反映されなかった。差別の原因を宗教の違いにされたり、無知からくる偏見にさらされた[59]。

人口[編集]

2005年の人口は、87,857,473人。2010年の人口は92,337,852人と人口爆発が続いている[1]。2014年7月27日に、公式に1億人を突破したと発表した[60]。国連等の推計では、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。

言語[編集]

詳細は「フィリピンの言語(英語版)」を参照
国語はフィリピン語 (Filipino)、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にも、ほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語には、スペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)、中国語(北京語やビン南語)、イスラム教徒の間で使われるアラビア語がある。
フィリピン語 (Filipino) は、1987年に成立したフィリピン共和国憲法において、初めて国語を言い表すのに正式に採用された人工言語である。実質的にはマニラ首都圏を中心として話されている地方語のひとつである『タガログ語 (Tagalog) 』を基にして採用された言語である。そもそもフィリピン国内では、ルソン島やミンダナオ島、セブ島を含む7100以上の島々からなる地域において、タガログ語をはじめ、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語)、ボホラノ語(英語版)、ワライ語、ビコール語、ヒリガイノン語、イロカノ語、パンパンガ語の8大言語[61]を含む100近い言語集団があると言われている。
アメリカ合衆国の植民地であったこともあり、アメリカ英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。1934年のタイディングス・マクダフィ法を受けて、同年に開かれた憲法制定委員会で、公用語や国語の問題が話し合われ大論争となった。最終は、固有の一言語を基礎として国語の確立をすることで収まった。これを受けて、1937年、ケソン大統領がタガログ語を国語の基礎として選択するという宣言を行った[62]。
また、タガログ語と英語が合わさった「タグリッシュ」がある。

人名[編集]

フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある。スペインによる長い植民地支配時代の間に、地元民はスペイン人の姓から選んで名乗ってきたため、フィリピンではスペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。
婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓をミドルネームとして相手の姓を用いるか、相手の姓のみを用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続ける(夫婦別姓)ことも可能、との判断を下した[63]。

宗教[編集]

詳細は「フィリピンの宗教(英語版)」を参照
フィリピンは、東ティモールを除けば東南アジア唯一のキリスト教国である。キリスト教は、スペイン植民地時代に広まった。スペインが16世紀に伝えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者である。キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。2000年のセンサスでは、カトリックが82.9%(ローマ・カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占める[64]。
2000年のセンサスでのキリスト教の他の宗教は、スペイン人到来以前にもたらされたイスラム教が南部ミンダナオ島を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%である[64]。イスラム教やキリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始的な宗教(フィリピン神話)があった。(フィリピンの神話上の生き物も参照されたい)
カトリック教会の影響下が強く、政教分離規定がフィリピン憲法にあるが、フィリピン司教協会は離婚法や人工妊娠中絶や避妊に対して反対し、政治家に対して政治介入している。結婚があっても離婚自体が法律上無い国として有名であり、法的離婚制度が無いのは、バチカン市国とフィリピンのみである[65]。

教育[編集]

2008年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%(男性:95%、女性:95.8%)である[64]。2009年の教育支出はGDPの2.9%だった[64]。
教育政策として高等教育を重視しているのが特徴である。これはスペイン植民地時代から引き継いでいる。高等教育の就学率は27.4%(1995年)で、アジアの中でも高い方であり、高等教育機関は、国公立・私立合わせて1489(2003年)もの大学が存在する。その中でも聖トマス大学は、アジアでも最古で、1611年の創設であり、在フィリピンのスペイン人に聖職者教育を施すことを目的とした。1908年に設置されたフィリピン大学は、アメリカ統治時代のもので、英語でアメリカ式の教育を行い、現地調達の行政官や大学教員を育てることが目的であった[66]。






セブアノ(ビサヤ)語⇒フィリピン=Ang Republika sa Pilipinas (Tinagalog: Republika ng Pilipinas; Iningles: Republic of the Philippines o the Philippines; Kinatsila/Inespanyol: República de Filipinas) o Pilipinas, nailhan usab isip "Perlas sa Sidlakang Kadagatan", mao'y usa ka gawasnong, soberanhong nasod sa habagatang-sidlakang Asya. Naa siya sa 1,210 km (750 mi) gikan sa dakong Asya ug may 7,107 ka isla nga nagporma sa usa ka parte sa Kapupud-ang Malayo. Ang Kapupud-an sa Pilipinas, nakit-an sa mga Portuges ug mga Espanyol nga kuyog ni Kapitan Hernando de Magallanes niadtong 16 sa Marso, 1521. Pagka 27 sa Abril, 1565, ang mga mamumuntog sa liderato ni Miguel Lopez de Legaspi nahiabot sa Sugbo, gikan sa Nueva Espanya, (Mexico). Pagkahuman sa pagmugna og gobyernong espanyol sa Manila adtong tuig 1571, ang kapupud-an gihimo nga kolonya sulod sa kapin og 300 ka tuig, sugod sa (1521 hangtod sa 1898).インターリングア語⇒フィリピン=Le Republica del Philippinas es un nation insular formate de un archipelago de 7.107 insulas al sud-est de Asia, apud le costa occidental del Oceano Pacific. Le capital es Manila. Le linguas official es anglese e philippino. Le majoritate del philippinos es catholic apud 83 % de population. Le pais esseva nominate in honor al rege Felipe II de Espania. Le archipelago del Philippinas consiste de tres partes: le prime es Luzon, le secunde Visaya, e le tertie Mindanao. Le presidente hodie es Rodrigo Duterte.Juxta al est apud Mar Philippino, al west apud le Mar de la China Meridional, e al sud le Mar de Celebes. Ex sud on specta le Molucas e Célebes in Indonesia, al sudwest ex parte specta malaya de Borneo e directamente al nord es Taiwán. Le insulas de Philippinas es intre 116° 40' e 126° e 34' E. longitud, e 4° 40' e 21° 10' N. latitud.前史=Prehistoria Le insulas deveniva populate per homines in le ancian evo de petra. In le evo classic illos esseva un parte del commercio naval de China e del Arabes. Le archipelago filipino esseva habitate por grupos paleolitico desde alcuna decenas de miles de annos. Le cultura neolithic comenciava in le islas circa de 9000 annos A.D. e usque le seculo XV A.D., le homines laborava con metal. Le burgos forsan autoctonos, como le aeta, subsisteva sin assimilarse con le altera ethnias que immigrava post al islas. In le seculos II e XV, migrationes sequente veniva de Indonesia e Malaysia populava le islas e se aggruppava in clanes. Contraramente al resto del mundo malayo, practicamente non esseva influenciate por le cultura classica india.


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