日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

天皇制と「皇道派・統制派」2・26事件・Shōwa Restoration・侵略戦争と大日本帝国

はじめに
「日本現代史」とりわけ「大東亜戦争史」関連の紹介が、人気が高いのは本当に嬉しい。いつもありがとうございます。感謝しております。
ー久しぶりの「比較・対照」になりますが。ドイツの場合は「現代史」(特に第一次大戦からナチス政権の12年)に「2冊」の「歴史教科書」を義務教育で使っています。子供たちの関心も高い。日本はどうでしょう?おまけに被害国のフランス、ポーランドそして旧ソ連と’共同’で作成している(何度も強調してきました)。日本は例えば「3月・10月事件」「血盟団事件」「5・15」「2・26」「昭和維新」「ノモンハン事件」そして「日中戦争」などなど・・・何か特別の’意図’でもない限り、「1~2行」出ればいいほうでしょう。おそらくこのブログを読んではじめて知った方々も少なくないと推察します(いかがでしょう?)。説教臭くてすみません。果たして日本はいつの日にか。ドイツに習ってせめて「1冊」’現代史’に費やし、中国・韓国・北朝鮮・アジア諸国などといっしょに出版したりなんてことは恐らくないでしょうね・・・残念ながら。
ーこの家永三郎氏(戦中は中学の教師だった)は人生の後半を、ほとんど「文部省」「国」との法廷対決に費やしました(「教科書裁判」)。氏の「日本の歴史」はちょうど一般的「歴史教科書」とさかさま。「明治維新」までの’近代’は「4巻」に過ぎず。「7巻」(15年戦争)の終わりが「降伏」「敗戦」となり最後の「8巻」が「戦後」となっている。「つくる会」などはとりあえず置いても、とりわけ「古代史」。「縄文式土器」「竪穴式住居」そして実在しない「神話」めいた「仁徳天皇陵」だの「前方後円墳」だのってのに延々と時間を費やす必要は認めがたいと考える。「国民」「我国」というなら「自分の国」の歴史は知っておいても損はないはず。また私自身、「日本史」は専攻ではありません(まだまだ「コッパ学徒」に過ぎず)。そんなこんなで少しでもお役に立てれば本望であります。サム 12・3・2016
雪の日の反乱・2・26事件:(家永三郎「日本の歴史」)
ー1936(昭和11)年2月26日、土曜日、その夜明け前の午前3時30分頃から、午前6時頃にかけてのことである。重機関銃25挺・軽機関銃20挺以上・小銃1000挺以上・拳銃100挺以上・機銃弾2万6000発以上・小銃弾6万2000発以上を持った1490人あまりの陸軍部隊は、3日前に降った54年ぶりという大雪を踏みしめながら、それぞれの兵営を出発した。オーバーを着て背嚢を背負い、防毒マスクをたずさえた、この完全武装の兵士たちが、兵営の門を出た時から、日本の軍隊史における最大の反乱がはじまったのである。反乱軍は首都東京を防衛する任務についていた第1師団の歩兵第1連隊(歩1)・歩兵第3連隊(歩3)と、皇居を守る近衛師団の歩兵第3連隊(近歩3)に属していた。
ー先に午前零時40分頃、神奈川県湯河原町に向けて出発していた1隊とともに、その襲撃と占領の行動開始は2月26日午前5時と決められていた。そして主要な地点での襲撃と占領は、約10分の誤差があったのみで、ほとんど予定通り実行された。夜が明け放たれた後、また雪が降りはじめた。一般国民(特に東京市民)にとって、ただ1つのニュースのみなものである東京中央放送局(JOAK)はこの日、朝から放送を行わず僅かに「東京・大阪の各取引所臨時休業。日本銀行・三井・三菱その他各銀行は平常どおり」とだけ放送され、間接的に変事の起ったことを伝えたのみであった。そして不安な1日が暮れたその日の夜、午後7時から8時にかけて、はじめて陸軍省の発表によって事件の一部を知らされた。
反乱の背景:
ー反乱軍を指揮したのは、17人の陸軍将校であった。彼らはみな若く、その軍人としての階級が、少尉から大尉までであったのでよく青年将校と呼ばれている。5・15事件から2・26事件にいたる流血の道は、彼ら青年将校の政治運動といわなければならない。青年将校たちは先に記した幕僚層が、デスク=ワークを担当する管理職(普通の会社であれば課長・部長)であるのに対して、直接に隊長として部下の兵士の指揮にあたる「隊付将校」(現場の工場で直接に労働者を監督して生産にあたる現場監督)であった。だから彼らは、幕僚層に対して批判的であった。彼ら隊付将校は政党内閣や財閥の支配に対して、激しい反感を抱いていた。そればかりではなく、そういう勢力と結合した将軍たちや幕僚層にも反感を抱き、彼らを軍閥と呼んで非難した。
ーそしてこれらの政党内閣・財閥・軍閥は、先にふれた元老・重臣とともに天皇の正しい政治を妨げていると考えられていた。また彼らは「奸物(悪者)」であるから、除かなければいけないと信じていた。そういう信念に結ばれた隊付将校はその頃、皇道派とよばれていた。
皇道派と統制派の争い:
ー皇道派は3月事件・満州事変・10月事件の後に生まれた。青年将校たちは、犬養内閣(1931-昭和6-12月13日成立)の陸相であった荒木貞夫大将や陸軍の文部大臣ともいうべき、教育総監の地位にある真崎甚三郎大将(A級戦犯容疑者)をリーダーとして仰いでいた。荒木陸相は人事権を握る大臣になると皇道派よりの人物で陸軍をかため、かなり一方的な人事を行った。そのためにこれに反対する幕僚層は1934(昭和9)年1月、斉藤内閣のもとで留任していた荒木陸相が病気でやめると早速、後任の陸相に林銃十郎をロボットとして送り込み、皇道派を重要なポストから追い始めた。
ーこの反皇道派の軍人たちを統制派と呼ぶことがある。そのリーダーは林陸相のもとで陸軍省軍務局長の椅子に座り、本来の陸相・首相と騒がれていた永田鉄山少将であった。1935(昭和10)年7月15日、林陸相は時の参謀総長であった閑院宮載仁親王大将の強い希望もあって、教育総監の真崎をその地位から追放した。このため真崎を信頼し指導者と仰いでいた皇道派の青年将校は、強く反発した。彼らはすでにその皇道派的な政治活動のために、将校の官を免ぜられた村中孝次(元大尉)・磯部浅一(元1等主計)らとともに激しい内容のパンフレットを配って、2派の争いの火に油を注いだ。
相沢事件:
ー1935年8月12日、相沢三郎中佐は軍務局長永田鉄山を刺殺した。相沢は、真崎総監の首をきった林陸相の後にいる黒幕が永田とみていた。相沢を裁く陸軍軍法会議は1936年1月から開廷された。この法廷では特別弁護人になった陸大教官の満井佐吉中佐らは、皇道派青年将校らとともに、猛烈な公判闘争を繰り広げた。しかし2月中旬に裁判が非公開になると、裁判のやり方が変わり皇道派に不利な様子が見えはじめ、青年将校の間に焦りを生んでいた。皇道派が相沢裁判の作戦を練っていた1935年11月か12月頃(後の「2・26判決文」では12月)、多くの青年将校が属していた東京の第1師団が日露戦争以来はじめて、翌年の3月に満州に移されるという情報が伝えられた。
ー1936年3月以前にやらなければチャンスはなくなる。2・26事件のいう「時限爆弾」は、こうして仕掛けられたのである。
決起部隊から反乱部隊へ:
ー襲撃と占領がほぼ終わった後、三宅坂の陸相官邸に陣取った反乱軍の幹部は、やっと官邸応接間に現れた川島義之陸相に対して「陸軍歩兵大尉野中四郎他同志一同」の名による「決起趣意書」を読みあげた。ついで、およそ次のような要望を提出した。
1、この事態を「昭和維新」の方向へ導くこと。われわれの決起の趣意を「天聴」(天皇の耳)」に届けること。
2、「皇軍相撃」(軍同士の射あい)を避けること。
3、宇垣一成陸軍大将をはじめ、統制派軍人の軍部を捕らえるか辞めさせること。
4、ソ連威圧のために、荒木貞夫大将を関東軍司令官に任命すること。
5、決起部隊を現在の占領地より移動させないこと。
ーおそらくここで反乱軍幹部は、皇道派の将軍(例えば真崎大将)を首相とする「昭和維新」内閣・「国家改造」内閣を実現し、一挙に彼らの理想を現実のものにしようとしたのであろう。しかし彼らは将軍たちに任せるだけで具体的な国家改造の計画は持たず、JOAKを占領して「国民」に呼びかけるといった行動さえまったく取らなかった。これに対して26日、陸相官邸に来た山下奉文少将(B級戦犯・絞首刑)は宮中において作成された陸軍大臣告示を反乱軍幹部に伝えた。その告示の朗読を聞いた反乱軍幹部は、自分たちの行動が認められたと判断した。しかしその背後では、反乱鎮圧への努力が急速に進められていた。
ーその努力の第1の中心は天皇であった。天皇は26日の夜明け前に事件を知った時から青年将校を「暴徒」と呼び、4日間を通じて終始強硬な鎮圧の姿勢を変えなかった。さらに第2にうろたえた川島陸相と違い、幕僚層のメッカである参謀本部は、参謀次長の杉山元中将と作戦課長の石原莞爾大佐に率いられ鎮圧の中心として、天皇の意志の忠実な実行者となった。ついで第3の中心には海軍があった。海軍では事件発生と同時に、東京湾を防衛する横須賀鎮守府が司令官米内光政大将と参謀長井上成美少将を中心に、鎮圧の準備を進めた。やがて第1艦隊の軍艦は東京湾の芝浦岸壁に着岸して、艦砲の狙いを反乱軍の占領する国会議事堂に定め、はっきりと対決の姿勢をとった。
ーそうしたなかで2月27日午前3時30分、戒厳令が東京市に施行された。青年将校らはこれをみて戒厳令の施行、そして国家改造内閣の成立という昭和維新のプログラムが着々と進んでいると思い、成功を信じていた。しかし天皇と参謀本部にとって、この戒厳令は反乱鎮圧のためのものであった。その証拠に戒厳令の施行から約5時間後、戒厳軍司令官で香椎浩平中将に対し、「反乱軍がその行動をやめて、元の師団に帰らないときは、武力討伐を行う」という意味の天皇の命令が出されている。
ー2月28日、情勢は明らかに一変した。この日の午前5時、天皇の命令は正式に発令された。また皇道派よりの軍人たちからも、占領地から兵を引くようにとの勧めがしきりに行われはじめた。これに対し反乱軍幹部のなかでも強硬派である磯辺浅一は、「1歩でも引けば、反乱勢力がどっとばかり押しよせる」として、占領地の死守を主張した。しかし反乱軍の将校のなかでは、撤兵論や自決論が出て動揺がはじまった。この間、鎮圧の準備態勢は参謀本部の指揮のもとほとんど整った。宇都宮と甲府から召集された軍を含めて、2万4000人の陸軍部隊を中心に、爆撃機・戦車・重砲までが、反乱軍を包囲した。
ーこれに海軍の艦砲を入れれば、最大の武器が機関銃に過ぎない反乱軍はどうしようもない。2月29日、それは鎮圧軍の攻撃開始の予定日であった。その日の朝になると圧倒的な優位に立った鎮圧軍は、ビラ・アドバルーン・ラジオ放送という「マスコミの武器」(それは反乱軍がまったく利用しなかったものであった)を十分生かし、青年将校ではなく彼らに率いられた下士官や兵に呼びかけた。その効果もあってその日の昼前後までに、反乱軍は中隊ごとに占領地から引き揚げ、武装を解除された。午後2時、すべては終わった。反乱軍の幹部はそのときまでに、自決した野中四郎・河野寿の両大尉を除いて22人が憲兵隊に捕らえられた。
ー軍刀も階級章もとられた彼らのある者は、次の舞台である公判闘争を信じて、またある者は天皇の裁きを受けようと志して・・・。
勝利者と敗北者:
ー岡田首相は生きていたが岡田内閣は、この大事件の責任をとって総辞職した。その後の首相にこれも助かったうちのひとりであった元老の西園寺公望は、密かに自分の跡継ぎと決めていた貴族院議長である公爵の近衛文麿を押したが、近衛はこれを断った。そこで岡田内閣の外相であり、前駐ソ大使であった広田弘毅が外交官としては異例の新首相になった。広田内閣の誕生の時、陸相におされた統制派の寺内寿一大将は「軍部大臣現役武官制」を24年ぶりに復活させた。このとき寺内は2・26ショックを武器として利用し、幕僚層に支えられながら大臣メンバーと交渉して、内閣スタートの条件にこれを持ち出して認めさせた。
ーまた馬場英一蔵相とともに、ここ数年と同じく10億円台の陸海軍予算を成立させた。このことも手伝って、1937(昭和12)年度予算は、殺された高橋蔵相の作った1936年予算に比べ、5億円増の28億円に跳ね上がった。一方逮捕された反乱軍幹部は民間人で責任を問われた北一輝・西田税とともに、戦場で裁判をするときに作られる特設軍法会議にかけられた。この裁判では弁護人なし・非公開・一審制というもので、被告に不利なものであり、公判闘争などは、思いもよらなかった。
-1936年7月5日と1937年8月14日を中心に、特設軍法会議は判決を下した。元将校13人と北一輝・磯部浅一らの民間人6人と死刑(銃殺刑)が宣告された。
PS:このとき青年将校たちが「解任」を要求したのは小磯国昭大将(A級戦犯・終身刑)・武藤章中将(A級戦犯・絞首刑)・土肥原賢二大将(A級戦犯・絞首刑)でした。
「昭和維新」軍・右翼の共謀と政治家たち:(家永三郎「戦争責任」)
ー当時国家意思の決定に干与した政府・軍の最高首脳者たちの責任について、改めて一筆しておかなければならぬことがある。5・15事件、2・26事件、8・15(宮城)事件といった軍隊・軍人の反乱、その他未然に終わったいくつかの軍を中心とするクーデター計画の存在にかんがみれば、あくまで軍の横暴・独走を阻止したり、開戦を拒み終戦を早めようとしたりするならば、反乱の勃発や、テロによる生命の危険が生じたりしなかったとは言えず、その危険を冒して断固たる態度をとることができなかったのも無理はないとの考えがあるかもしれない。
ー反乱の恐れはたしかに大きかったであろうが、「海軍戦争検討会議記録」に記載されている井上成美大将の意見にあるとおり、反乱を鎮圧するのは軍の義務であって、反乱の恐れがあるということは、なすべからざる戦争を開始したり継続したりすることの弁解としては通用しない。また国家の破滅や自他国人民の絶大な犠牲を未然に食い止めまたはできるだけ小範囲にとどめるためには、国家の最高責任者たちは、平素から栄誉の面でも物質面でも、一般国民とは隔絶した高い待遇を受けている。強制的に兵役に就かされ酷薄きわまる待遇のもとにおかれていた兵士たちには「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」(「軍人勅論」)と命じているではないか。
ー最高権力者層に属する人々が反乱やテロに対して同様の覚悟を持つことを要求されても、これを酷と感ずる理由はないであろう。要するに、15年戦争下の日本国家の最高責任者たちの戦争責任は、その地位・職責・言動の相違による軽重の差、情状の別はあるにせよ、免責の余地のないことだけは疑いを容れず、中級下級の官使・兵士などでも、積極的・自主的な非人道的措置を他国人・同胞に加えている場合には、その責任を免れないのである。
ー陸軍大臣の任命は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいわゆる陸軍3長官の会議による推薦を経る慣習があって、その推薦ない人物を任命できず、推薦を拒まれれば内閣を組織することもできなかったが、国務大臣の任命について権限を有しない参謀総長・教育総監に陸軍大臣任命につき同意権・拒否権を行使させた3省会議なるものは、国務大臣の専管輔弼事項に属する憲法10条の任官大権を侵す違憲の慣習であったとの評価を免れない。-天皇が戦争に関しどのような言動を示したか、戦後公刊された文献により明らかになったところがきわめて多い。井上清「天皇の戦争責任」は、この種の史料をもっとも網羅的に収集しており、個々の史料の解釈や論旨の進め方に必ずしも賛成できないとしても、史料の総合的紹介として有用なことには異論がなかろう。また、範囲は第一次上海事変に限定されているけれど、天皇の平和愛好意識とその限界を指摘した黒羽清隆「1933年における天皇の歌一首」(「15年戦争史序説」所収)は、卓越した研究として必読に値すると思う。
「マレーの虎」山下奉文大将と天皇、東条との確執:(大岡昇平「レイテ戦記」(上))
・・・山下大将は大本営を嘲笑する黒田中将に替って、満州牡丹江から転補され10月7日マニラに着いたばかりであった。彼は周知のよう緒戦のマレー作戦に成功を収め、「マレーの虎」として国民的英雄になったが、帝都に凱旋の機会も与えられず、満州の第1方面軍司令官として2年半を過していた。彼の不遇は東条首相の嫉妬のためともいわれ、大正年間「宇垣軍縮案」を起草したためともいわれ、2・26事件に際して、反乱部隊に同情的であったので、天皇に忌まれたためともいわれる。
ー出身は高知県で、海軍の山本五十六(新潟県出身)と同じく、藩閥と関係なく出世した知能的世代に属していた。大佐になるまでは主として陸軍省の事務将校の経歴をたどり、昭和15年には航空総監、6ヶ月ヨーロッパ戦のドイツ軍陣地を視察した。日本陸軍が速やかに空軍と機械化部隊に徹底的改善を加えなければ、現代戦を戦うことは出来ないと報告して、東条に不快の念を与えたといわれる。山下大将はその巨大な体躯、「マレーの虎」の異名から、勇猛猪突型の将軍と想像されがちだが、その経歴、戦歴から見れば、むしろ慎重合理的な知将型であったことがわかる。
ー緒戦のマレーの急進撃はすでに大本営で建ててあった作戦計画を忠実に実行したものに過ぎない。進撃中の日記は部下将校の無能と堕落に対する不満ばかりである(彼はそれを士官学校の教育の頽廃のせいにしている)。結局、彼のマレーにおける功績は、休戦会談の席上、自軍の弾薬兵力の不足を隠して「イエスかノーか」という衝撃的な発言をして、パーシヴァル将軍を屈伏させたことだけであろう。彼はヨーロッパ戦線を視察し、西欧世界の軍事技術の進歩を見たばかりであった。
PS:この「イエスかノーか」については近年、研究が進み実は「通訳」の不手際が本当のところだったそうです。山下将軍いわく「敗軍の将を恫喝するようなことができるか」と否定していた。「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」といったのが間違って伝わってしまったそう(サム)
ノモンハン事件の序曲・「ロシア恐るべし」・反共主義とソ連の脅威:
ーここに1冊の大きな本がある。「犯罪科学」という雑誌の特集号で「ロシヤ恐るべし」というテーマによって週刊誌大で336ページが埋め尽くされている。奥付を見ると満州国の問題で日本が国際連盟を脱退した後の、1932(昭和7)年9月号であることがわかる。
ーこの「ロシヤ恐るべし」は、「暴風雨的存在のロシヤ。注意せよ、ロシヤの嵐!極東赤化!共産主義!反宗教運動!」という考え方から編集されているが、そこに収められている文章の中には、ソ連の成長に大きな期待を寄せているものがある一方、ソ連の軍隊である赤軍の恐ろしさについて強調したものが目立っている。
ー例えばソ連研究の専門家である陸軍参謀本部第2部ロシア班長の笠原幸雄中佐は、「赤軍の戦車・飛行機が優秀でありまた、数も多く赤軍兵士の素質は中国兵などと比べて優れており、それにソ連は国民に貧しい生活を我慢させて近代兵器の生産に国力を集中出来るから、油断がならない。日本はソ連のシベリア経営に注意と監視の目を向けるべきである」といった意味のことを論じている。

関東軍の危険な方針:
ー1939(昭和14)年4月、時の関東軍司令官植田謙吉大将は部下に対して、「満ソ国境紛争処理要網」という方針を示した。これによると「(関東」軍ハ侵サズ侵サシメザルヲ満州防衛根本ノ基調トス」と定めながら(こういう根本方針は、ソ連のスターリンも持っていたという)細かい「要領」では
1、ソ連軍の越境があったならソ連領土に進入していい。
2、国境線が不明確なときは現地の司令官が自主的に国境を決めていい。
3、紛争が起きたら現地の軍隊は徹底的にやれ。
ーその責任は関東軍司令部が持つと決められていた(防衛庁戦史室編「関東軍」)。それは紛争処理方針というより、紛争挑発方針であって、日ソ間の平和な関係を作り出そうという熱意は全く欠けていた(洞富雄「近代戦史の謎」)。
大草原の戦い・日ソ戦争の危機、国境紛争:
ー満州事変から支那事変へと戦火が中国大陸に拡大しているあいだ、日本の指導者、特に陸軍の軍人の中に流れていたのは「ロシア恐るべし」という考え方であった。日本は満州を占領した。しかしその真の目的は、ソ連を攻撃するための前進基地を作ることだ、そして次に日本は中国大陸に攻め込んだ、しかしその真の目的はソ連の極東赤化の力から中国を守ることだーそれは、こういう考え方であった。
ーこうした考え方からすると満州事変と支那事変は、共産主義への予防戦争であった。日本の真の敵はソ連とその赤軍であり日本が行うべき本当の戦いは、日ソ戦争ということになる。後の歴史から分かるとおり実際には1945(昭和20)年8月9日まで、日ソ間の全面的戦争は起きなかった。しかしその可能性は15年戦争中、常に存在し日本の指導者、特に陸軍軍人はチャンスがあれば、ソ連に不意打ちしようと狙っていた。
ノモンハン事件ーハルハ河の宣戦布告なき戦争:
ー日本の作った満州国とソ連の友好国のモンゴル人民共和国(外蒙古)間は、大きく緩やかな波打つ大草原と砂漠である。ところどころに砂丘や背の低い木々が見えるだけの不毛の地であった。こういう土地は、国境紛争の起こりやすいところである。日本と満州は、国境をボイル湖に注ぐハルハ河だと主張した。これに対してモンゴルとソ連はハルハ河の東方約13キロのところにある、ノモンハンの草原が国境だとしていた。
ー1939(昭和14)年5月11日、関東軍と満州国軍の200人の1隊はノモンハンの国境を越えて、馬に牧草を食わせに来たモンゴルの国境警備隊を西方に追った。これに対して翌12日、モンゴル軍の700人の1隊が反撃し、ハルハ河の「国境」を越えて進んできた。どちらも騎兵隊によって行われたこの2つの「国境侵犯」はたちまち、先の危険な方針を発動させた。現地を守る第23師団(師団長は小松原道太郎中将)は、モンゴル軍・ソ連軍に対する攻撃を開始した。これに対してソ連軍はハルハ河の死守を決め、中心になる第57兵団(兵団長はジューコフ中将(元帥・将来の国防相))をもって反撃に当たらさせた。
ー戦いは正式の宣戦布告のないまま、この年の5月から9月まで続いた。40度を越える昼の暑さと、10度台の夜の寒さと、物凄い蚊の大群に苦しみながら日・満軍5万8925人と、ソ連・モンゴル軍10万人とが激しく衝突した。
近代兵器の「洗礼」-隠されていた戦死者数:
ー7月のはじめ関東軍は、戦車隊(戦車80台)・自動車隊(自動車400台)・砲兵隊を含む戦力をもって、一気にハルハ河を越え、西岸のソ連軍に奇襲攻撃をかけた。当時、第23師団ではソ連軍の退却を予想し信じていたので、それを追って包囲し全滅させようという計画であった。ところが河を渡った関東軍の前には、300台を越える戦車隊が現れ、ソ連戦車に自由に走りまわられ、踏みにじられた。仕方なく携帯地雷を抱いた兵士が戦車に飛び込んだり、サイダー瓶にガソリンを詰めて戦車に投げたりして抵抗した。この頃のソ連戦車は軽戦車で、フルスピードで走ってエンジンが焼けていたので、この戦術はかなりの効果をあげた。
ーしかし総攻撃は失敗した。第一線部隊は関東軍の1日1万発に対し、1日3万発を射つソ連重砲の追撃の中で多くの死傷者を出しながら、やっと撤退することが出来た。この戦いの問題点は武器・弾薬の輸送であった。近代戦では、輸送力の大小が勝敗を分ける大きな力である。日本軍の司令部があったハイラル駅から200キロのところがノモンハンであった。これに対しソ連は、シベリア鉄道支線のボルジャ駅から約750キロの輸送を必要とした。その点ではソ連軍に不利であった。そのためソ連は7月から8月にかけて、トラック3000台・油槽トラック1300台を動員し、合計5万5000トンの武器弾薬と食料を運んだ。トラックは往復5日の暑さと戦いながら、その目的を果たした。
ージューコフの回想によるとその頃、ソ連軍部はしきりにニセ情報を流した。そして擬音を出す音響装置で軍隊の移動をごまかしながら、兵団を関東軍の正面と左右両側に密かに集結することに成功したという。8月20日午前5時45分、ソ連軍は正面と両側面の3方向から関東軍の3倍の兵力で、攻勢をかけてきた。飛行機・重火器・装甲自動車などの近代機械化部隊の全力を注いだ総攻撃は物凄かった。関東軍の陣地は猛烈な砲煙に包まれ、火柱が次々に立った。ソ連戦車は1ヶ月前の軽戦車とは違う、中型快速戦車であった。戦場左側のノロ高地では、1列横隊に並んだ戦車隊が、一斉に火炎放射器を発射した。たちまちごまを撒き散らしたように、日本兵の死体が大草原に散乱した。
ー関東軍はそれでも抵抗を続けたが、至るところで部隊はばらばらにされ、包囲され、そこへ鉄そのもので押し潰すような砲弾の落下を浴びて死傷者が続出した。その悲惨な敗戦の最中に、多くの部隊長が自ら責任を取ったり、あるいは強要されたりして自殺した。その死傷者数は一般に1万7300人(戦死7700人・戦傷8600人・行方不明1000人)とされていたが、1966(昭和41)年になってその戦死者数が1万8000人であると公表され、靖国神社にはじめてその慰霊祭を行った。
ー1939(昭和14)年9月15日、モスクワでソ連のモロトフ外相(スターリン死後の56年に反党グループとして追放・84年モスクワで死去)と日本の東郷茂徳大使(A級戦犯・20年の禁錮刑)との間に、日ソ停戦協定が結ばれた。そして翌9月16日、現地のノモンハンでは戦闘が停止された。肝心の国境問題については1940(昭和15)年6月9日になって、ソ連・モンゴルの主張にほぼ近い線が確定された。しかしこのことはあの悲惨な敗北の事実とともに、国民には知らされなかった。そして一方では、近代兵器から受けた大損害を十分に反省せず、この敗戦の責任者である関東軍司令部の参謀たち(服部卓四郎中佐・辻政信少佐)は、やがて東京に返り咲いた。そのうえ彼らは、今度はアメリカとの戦いに、日本を巻き込むための有力な開戦論者となった。
ノモンハンの日本兵・水と兵隊:
ー第一線の将兵が最も苦しんだのは、飲料水の欠乏である。応急的に掘った井戸水をトラックで配給しようとしても、敵機の目を掠めるは容易ではない。真夏の昼は気温が上昇して口はカラカラになる。軍服は体内から発散する汗の塩分が乾いて、真っ白になってしまう。馬も喘いで動けなくなる。敵弾に傷ついた傷兵は「水、水、水」と叫びながら、息を引きとってゆく。水筒1本の水で1日、どうかすれば2日我慢しなければならぬ。中には辛抱しきれずに夜、密かに敵陣を突破してハルハ河にたどり着き、腹一杯、水は飲んだが敵に発見されてそのまま殺されるものもある。
ーそれでも水を飲めた者はまだ幸福だった。河に到着する前に発見されて、あの世へ送られた者も多い。戦友の屍を発見して、まず手に触れるのは水筒である。中に水のあるかないかが最大の関心事であり、どうにも辛抱できないと、自ら銃を口中に含んで、自殺する者も出る(高宮大平「ノモンハンの敗戦」)。
ノモンハンでの戦闘について・某中尉:(大岡昇平「俘虜記」)。
・・・中隊長は毎朝各分隊の小屋を見舞った。彼は小屋に充満している病人を眺め、黙って戸口に立ちつくした。私の分隊長は米軍上陸直後まだ退路の開いていた間に、遮二無二北上してルソン島に渡らなかったことにつき、中隊長の決意を非難する口吻を洩らした。彼によれば、こんな山の中にいつまでもまごまごしているから、大隊本部から面倒な偵察の命令を受け、結局こうして病人が増えて動きがとれなくなったのである。下士官のエゴイズムである。しかしこの判断にはルソン島を不落の安全地帯と見做す近視眼的前提が含まれていた。
ーかつてノモンハンの戦闘を見た中隊長が、比島派遣軍の運命についてかかる楽観的予測を抱懐し得たはずはない。彼は幹部候補生上りの若い中尉で、27歳であったが、無口で陰気で、30歳より下には見えなかった。彼がノモンハンで何をなし何を見たか、彼は一度も語らなかったが、その眼その顔には現れていた。私は彼の体にその僚友の死臭を嗅ぐようにさえ思った。「警備隊はその警備地区をもってその墓場と心得ねばならぬ」と彼はいつもいっていたが、私は彼が通り一遍の訓示を行っていたとは思わない。彼は我々の現在地を特に米軍から秘匿しようとはしなかった。サンホセから道案内した土民には、慣習に反して食糧を与え放ち帰らしめた。彼の言動には常に一種の諦めがあり、彼の動作はいわば過度に緩慢であって、時々歯の間から押し出すように弱く笑った。
ー犠牲者の笑いである。彼は幾分進んで死を求めたようである。サンホセ駐屯中に行った討伐戦において、彼は常に先頭に立って戦い、決して自分を遮蔽しなかった。彼は自分では戦争の要請を至上命令として自らに課すことを許しながら、それを部下に課するについては自己のの責任を感ぜずにはいられないあの心の優しい指揮者のひとりであった。彼等は一般にただ自己の死によってしか、その部下に対する要求を正当化する手段を持っていない。山中で最後に米軍の襲撃を受けた時、彼は火点観測のため単身前進し、迫撃砲の直撃弾を受けて真先に戦死した。恐らく本望だったろう。
日本資本主義の急転回・軽工業から重工業へ:
ー満州事変にはじまる10年の歳月は、日本の資本主義をすっかり変えてしまった。満州事変からちょうど10年後に日米戦争がはじまったがもし、この10年の中国との戦争がなかったら、日本はアメリカと戦争をするような軍事力を持てなかったという人もいる。そのような巨大な軍事力は満州事変以前とは、比べものにならない予算が重工業に注ぎ込まれた結果、はじめて形成されたものだからである。
ー1930年代(昭和5~14)に入って国家財政の中の軍事費の比率は、驚くべきテンポで増大した。その軍事費を中心として、巨額の国家資金が軍事工業に投入された。陸海軍の注文を受けた重工業会社には前渡しの金の形で、原料・半製品・預金・現金が集中した。やがてその額は、その会社の株主資本金を上回るようになった。例えば鋼材は多く陸海軍に握られ、その「傘の下」にある軍事工場に流された。会社では、余ったものを闇値で売ることが出来た。造船の計画は海軍が支配しているので、普通の貨物船だけを造る会社には、鋼材の割当が少なかった。このため後で輸送船が足りなくなって、海軍自身が慌て出すことになったのだがー。
ーこうして日本の資本主義工業は長い間の伝統である軽工業中心、ことに繊維工業中心の資本主義から急テンポで転回し重化学工業中心の資本主義になりかわった。中国と戦った10年間の戦争は重化学工業と軽工業の生産額の比率を、ちょうど逆にしてしまった。日本資本主義の「18番」ともいうべき繊維工業の生産額の比率は、10年間で2分の1に減った。
石油を買いあさる日本:
ー1940年の夏、日本の石油と屑鉄に対する買いあさりはまるで、鉄と油を食べる怪獣のようであった。ことに三国同盟に反対していた米内内閣が倒れた直後に、石油50万トン・屑鉄100万トンという大量注文がアメリカに行ったことは、日本への不信感を煽った。ここ2,3年の間、日本は「ガソリンその他の機械油」の買い付量を滅茶苦茶に増やし、1930年代の後半に1年・8万トンほどだったのが、1940年には1年・30万トンを越えさらに、1940年7月からの1年には60万トンを買い付ける予定だったといわれる(田村幸策「太平洋戦争外交史」)。
ーそればかりではない。日中戦争開始後、日本には原油の輸入量を増大させ続けて日米戦争のはじまる4ヶ月前までに約940万トンという全石油貯蔵量を持っていた。国内消費量は1年・550万トン(平和な年では1年・350万トン)であり、これから国内産油・40万トンと人造石油・30万トンを引いて480万トンになるから、ちょうど2年間で近代戦争の血液ともいうべき石油がなくなる計算になる(服部卓四郎「大東亜戦争史」)。この計算は、日米戦争の開始の歴史を解くカギのひとつである。
天皇機関説事件・「統帥権」と「憲法」:
1、1935(昭和10)年2月25日、その頃の日本の代表的な憲法学者であった貴族院議員の美濃部達吉法学博士は貴族院本会議において、「一身上の弁明」をした。このとき美濃部博士は62歳、前年に東京帝国大学教授を定年退官したばかりだったが、その研究や著作活動はなお旺盛であった。博士は近衛文麿議長の許可の後、こう話はじめた。「去る2月19日の本会議におきまして、菊池男爵その他から私の著書のことにつきましてご発言がありましたにつきここに一言、一身上の弁明を試みるのやむを得ざるにいたりましたことは、私の深く遺憾とするところであります。菊池男爵は反逆的思想であるといわれ、謀反人であるともいわれ、学匪であるとまで断言せられたのであります。日本臣民にとりまして反逆者である、謀反人であるといわれまするのは、侮辱この上もないことと存ずるのであります。また学問を専攻しております者にとって、学匪といわれますことは、等しく耐えがたい屈辱であると存ずるのであります。
2、さて菊池議員は何を理由として、美濃部を謀反人・学匪として罵ったのだろうか。その非難の理由は、およそこんなことになる。-すなわち美濃部博士が唱えてきた「天皇機関説」という憲法学説は、「憲法上、統治の主体が天皇にあらずして国家にあるとか民にあるとかいうドイツの学問の輸入」であり、「議会は天皇の命に何も服するものじゃない」とか「大臣方は天皇の上を審査する権」があるとか、「恐ろしいことが書いてある」。「世界の憲法の上でどういう理論が出来ておろうと、それはちっともかまわぬ」が、「日本憲法は明らかに機関説じゃない」のだから、そういう「天皇機関説」と説いていることは謀反であり、明らかなる叛逆になる。
ーそれを特に美濃部博士は「支那にも土匪(抗日ゲリラ)は沢山ございますが、日本の学匪でございます」。この頃、右翼的な活動家として日本のジャーナリズムで大きな地位を占めていた徳富蘇峰は「東京日日新聞」の「日日だより」にこう記した。「その解釈はしばらく置き第1に、天皇機関などというその言葉さえも、記者(私)にはこれを口にすることを日本臣民として、謹慎すべきものと信じている」と。
3、これに対して美濃部博士は、無論かんで含めるように自らの説をといた。その演説の要点をまとめてみるとこうなる。
(1)、天皇が国家を統治する権限は、天皇の一身に属する権利ではない。
(2)、「統治の権利主体」は、「法人」としての「国家」である。明治憲法の条文に、国務・国庫・国償・国家の歳出歳入という言葉があることは「国家自身が公償をおこし、歳出歳入をなし、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体」である。いいかえれば、「国家それ自身を1つの生命体、それ自身に目的を有する恒久的な国体」、つまり「法人」と見るべきことを示している。
(3)、天皇は「国家の元首たる地位」にあり、国家の代表として国家の一切の権利を総攬するものであり法律上、「法人を代表して法人の権利を行う者」を「法人の機関」というので、天皇は「国の最高機関」である。
(4)、天皇の統治の大権は万能無制限なる権力ではなく、あくまで憲法の規定に従って行われなければならない。
(5)、議会の質問・審議・可否決は、独立の意見によって行うもので勅令に従ってこれを行うのではない。議会は旧制度の元老院や今日の枢密院と法律上の地位はちがうもので、天皇が任命する官府ではなく、従って「天皇の機関」ではない。
ーそれは明治憲法をぎりぎりのところまで、民主主義の立場で解釈しようとする法律学であった。そしてこの考え方こそほぼ30年に渡って、学会の定説(代表的な理論)として生き続けてきたのである。
4、それではなぜ、そういう美濃部理論が1936年頃になって、急に問題になったのだろうか。その背景にはさまざまの人間のさまざまな思惑や願望があったが、そこを貫いている一筋の太い糸は、日本を軍国主義・国家主義の方向へ引っぱって行こうとする勢力の政治的運動であった。この勢力が真に狙っていたのは「天皇機関説」という学説ではなく、その学説を唱えているという理由で時の、枢密院議長の一木喜徳郎男爵や法制局長官の金森徳次郎らの人々をその地位から追うことであった。この勢力にとってこれらの人々は、天皇に強い影響力を持ち、日本の政治を急速に軍国主義・国家主義の方向に引きずって行くのを妨害している者とみなされた。
ーこの勢力とは、荒木貞夫・真崎甚三郎の両陸軍大将を指導者とする「皇道派」であり、枢密院議長の平沼騏一郎男爵を枢密院議長あるいは首相の座につけようとする「右翼」であった。その点では「天皇機関説」の問題は、5・15事件から2・26事件にいたる血なまぐさい出来事と根にあるものはひとつであった。
(5)、3月20日、貴族院本会議は満場一致で、政府は「国体の本義」を明らかにせよという決議を行った。その決議は抽象的なものだったが、まぎれもなく「天皇機関説」排撃の決議だった。ついで3月23日、今度は衆議院本会議がやはり満場一致で可決した。そこには「政府は崇高無比なるわが国体と相容れざる言説に対しただちに断固たる措置をとれ」とあった。衆議院が議会の独立性と議会政治の法律的地位を確立させた美濃部学説を葬る決議をしたことは、自らの墓穴を掘る悲しい出来事という以外にない。
ーさらに4月9日、内務省は美濃部博士の著書である「逐条憲法精義」「憲法撮要」「日本憲法の基本主義」の3点の発売と頒布を禁止した。さらに司法省(検察当局)は美濃部博士を出版法違反で起訴する方針で取り調べを続けたが、博士が司法大臣宛上申書で貴族院議員を辞任したいと述べたことと引きかえに9月18日、起訴猶予とした。美濃部博士は貴族院議員の辞表を提出した。
日中戦争概論・「暴支膺懲」・戦争の目的と発端:(古屋哲夫「日中戦争」)
ー日中戦争が日本の側からみてわかりにくいのはこの戦争の目的が、戦争指導者によって具体的な形で示されることがなかった、ということと関連しているように思われる。当時日本側は中国を「支那」と呼んでいたが、盧溝橋事件後、軍事行動を華北から上海へと拡大した段階で、日本政府は1937(昭和12)年8月15日、その目的を「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為」と声明した。そこから「暴支膺懲」というスローガンがつくられたが、暴戻の「戻」は「まがる、もとる、そむく」などの意であり、「膺」は元来「胸」をさすが、ここでは転じて「うつ」の意に使われている。
ー従ってそれは「広辞苑」の表現を借りれば「あらあらしく道理にもとる」支那軍を「うちこらし」て、南京の国民政府を反省させるための武力行使だということになる。しかし、では中国側の行動がどのような「道理」にもとるのか、また「反省」させるとは具体的に何をさせようとするのか、という点になるとさっぱり明らかでない。ところが翌年秋、38年11月3日になると日本政府はーこのときはまだ盧溝橋事件前からの第一次近衛内閣が続いているのであるがー改めて「東亜新秩序」なるスローガンを打ち出している。とすると、これはそれまでの「暴支膺懲」とどう関連しているであろうか。
ーこの問題が当時でも明確にとらえられなかったことは1940(昭和15)年2月2日の衆議院本会議で、斉藤隆夫代議士が、言論弾圧に抗して行った、いわゆる「反軍演説」のなかにうかがうことができる。この演説は現在では「反軍演説」として歴史辞典にもとりあげられるようになっているが、その内容は軍部と対決するというよりも「東亜新秩序」のイデオロギーによって、日中戦争の実相を覆い隠すことを批判することに主眼をおき、戦争の解決と新秩序建設がどうつながるのか、と政府に迫ったものであった。それは「東亜新秩序」批判として興味あるものであるが、戦争目的の問題に関しても、当時の批判的とらえ方を示すものとして、注目しておかなければならない。
ーすなわち斉藤はこの点についてまず、「此の戦争の目的である所の東亜新秩序建設が、事変以来約1年半の後に於て初めて現れ、更に1年の後に於て特に委員会までも設けて の原理、原則、精神的基盤を研究しなくてはならぬと云うことは、私共に於てはどうも受取れないのであります」と批判する。つまり戦争が始まって1年半もたってから戦争目的をかかげ、さらにその1年後になって、興亜院が特に委員会まで設けて、改めてその内容を検討しなければならないとは何事であるか、というわけである。そしてこのような有様だから、国民精神総動員運動などに巨額の費用をつぎ込んでみても
「此の事変の目的は何処にあるかと云うことすらまだ普く国民の間には徹底して居ないようである。聞く所に拠れば、何時ぞや或る有名な老政治家が、演説会場に於て聴衆に向って、今度の戦争の目的は分からない。何の為に戦争をして居るのであるか自分には分からない、諸君は分かって居るか、分かっているならば聴かして呉れと言うた所が、満場の聴衆ひとりとして答える者がなかったと云うのである」という形で、批判を投げかけたのであった。
「大本営」の設置・「事変」と「現地解決」の問題:
・・・まず「事変」の問題についてみると1937年7月7日盧溝橋事件がおこるその直後の7月11日、政府は華北派兵を準備する旨の声明を発するとともに、この事態を「北支事変」と呼ぶこととしさらに戦火の上海方面への拡大に伴って9月2日に「支那事変」と改称することを決定、ついで11月18日に「戦時」のみでなく「事変」に際しても適用しうることとした新たな「大本営令」を公布すると同時に、これに基づく大本営を設置し、「宣戦布告」なしに「事変」の名目で押し通す体制が確立されたのであった。もっともこの間全く「宣戦布告」の問題がかえりみられなかったわけではなく、9月段階で風見章内閣書記官長を中心に検討されたことがあるが、宣戦布告をすると、戦時国際法が適用されて、アメリカなどの第三国からの軍需物資獲得が困難になるとする軍側の反対で沙汰やみになったと伝えられる。
ーしかし宣戦布告は少数の人々によってとりあげられただけであり、従って理論上の問題として検討されただけに止まっていた。当時の政府においても軍部においても、中国に対する宣戦布告が実際に必要だという考え方が主流になったことは一度もないといってよい。そしてそれは当時の日本の戦争指導部の意識においては、中国に全面戦争を仕掛けなくても日本の目標は達成できる、従って宣戦布告は不必要であり、望ましくないものととらえられていたことを示すものであった。例えば盧溝橋事件当時における陸軍の最強硬派ですらも、中国に対する「一撃」を加えることを主張していたのであって、全面戦争を予想していたわけではなかった。つまり「支那事変」との呼称が決定された当時には、全面戦争に至らない軍事的一撃で達成されるはずの戦争目的が考えれられていたに違いないのである。
・・・要するに日中戦争がとらえにくいのは、現実には全面戦争へと向う戦争の拡大にあたって、これまでの現地政権の分離と傀儡化をめざす「現地解決」の成果を確保し、なし崩し的侵略方式を継続するという、いわば全面戦争を回避する形での戦争目的が立てられていたからであった。そしてこの問題が日中戦争を盧溝橋付近での日本軍への発砲事件に始まると考えたのでは、全く見えなくなることはもう、繰り返すまでもないであろう。そして日本側が全面化した戦争を「事変」として扱おうとしたのも、この「現地解決」的発想に基づくものであったし、後の「東亜新秩序声明」も、さきの斉藤演説での把握とはちがって、その延長線上でとらえねばならぬように思われるのである。
南京大虐殺と日本軍の本質的矛盾・天皇制ファシズム:
ー上海戦線を突破した中支那方面軍は勢いに乗じて追撃し、南京を占領することを強く望んだ。中国軍の崩壊状況が明らかになると参謀本部もこれに同調しはじめ結局、1937年12月1日には「敵首都南京を攻略すべし」との命令を発するに至った。これにより上海派遣軍(12月2日松井大将は中支那方面軍司令長官専任となり、朝香宮鳩彦王中将が司令官に任命された)では、第13師団の1部、第16師団、第9師団を揚子江から太湖北側に展開する形で南京に向わせ、第10軍は太湖の南側を西進し、南から包囲する形をとって第114、第6師団を南京攻略に参加させた。
ー攻撃軍は12月8日には各方面で中国側防衛線を突破し、12日に城壁の一部を占領した。そして13日には中国軍が退却したあとの南京城内を完全に制圧したのであった。南京攻略は上海戦線で総退却を開始してからの中国軍が、規律を失って潰走を続けたため予想外の早さで実現したが、そこへなだれ込んだ日本軍は、さまざまな形での虐殺事件を引き起こすことになった・・・(「南京大虐殺」については、これまで他で十分過ぎるほど載せてきた。ですので、ここでは凶行に至った「日本軍の本質」についての著者の分析を紹介します)。
この大虐殺事件は単なる偶発的事件ではなく日本の軍隊のあり方、戦争のやり方そのものに関係していると考えられるので、その点に少し触れておかなくてはなるまい。
(1)、日本軍が補給の不十分な、というよりむしろ、意図的に補給力を節約して現地での物資調達に依存する軍隊だったということであり、この調達が掠奪となり、そこから一般人への暴行・殺人が日常的経験として蓄積され、その軍隊の基本的性格を形成する、という事態を指摘しておかなくてはならない。特に上海から南京への急進撃は、例えば第9師団参謀部の記録が「上海付近より南京に至る約百里の間、殆ど現地物資のみに依り追撃を敢行せり」と述べているような有様であり、おそらく虐殺はこの間から始まり、南京事件へと拡大していったと思われるのである。
(2)、これは補給の問題にも関係するが、投降者を簡単に殺害してしまうという点である。例えば第16師団第30旅団佐々木到一少将は、城内に入った12月13日の状況として「午後2時ごろ概して掃蕩をおわって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜ぞくぞく投降し来り、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛酸をかえりみれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」といいたくなる。白米はもはや1粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我軍には無いはずだった」と記している。
ーまたさきの第9師団の報告は、「城内の掃蕩に当り7千余の敗残兵を殲滅せり」と述べ、南京攻撃戦における損害を、友軍の死者460名、傷者1156名に対して敵軍の死体4500、他に城内掃蕩約7000と数えているのであり、戦闘における4500名よりもはるかに多い7000名を敗残兵として殺害していることがわかる。
(3)、これも前項の問題とも関連するが武器を捨てたものでも、反抗的態度のみえる者は殺すという問題である。つまり心から日本軍に服従しないものは殺すべき敵だという、精神まで支配しないと収まらない態度が日本軍に一般的だったと考えられることである。これは日本軍の軍隊教育、さらには国民一般に天皇に対する「絶対随順」「没我帰一」(37年5月刊の文部省編「国体の本義」の用語)を要求するという、日本ファシズムの支配形態とも結びつく問題であろう。この形態の虐殺について、佐々木の記録は占領の第14日のこととして、次のように書いているが、文中に「従順の態度を失する者」とあるように、それが処刑の実態の規準であったと思われるのである。
「12月14日、両連隊全部隷下に掌握、城内外の掃蕩を実施す。いたるところ潜伏している敗残兵をひきずり出す。が武器はほとんど全部放棄又は隠匿していた。五百、千という大量の俘虜がぞくぞく連れられてくる。・・・敗残兵といえども尚、部落・山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって、抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。大平門の大きな外濠が死骸でうずめられてゆく」。
ーこのほか以後の戦争の過程では、情報獲得やみせしめのための拷問・虐殺、訓練のための虐殺などがあらわれてきたと思えるが、ともかくも、このような質を持つ日本軍が、占領地を安定的に支配することなど不可能であったにちがいない。しかし日本軍ではすでに述べたように占領地に地方政権をつくり、それを蒋介石政権に代る新しい中央政権に育てようとする構想が、実際に着手されていたのであった。
泥沼の日中全面戦争・知られざる四川省・重慶無差別爆撃の継続:(青木茂「第二次世界大戦全戦線ガイド」)
ー1940年5月13日、日本陸軍と海軍は、中国の臨時首都となっている重慶を主たる目標として協同で戦略爆撃作戦を実施することに合意した。中心となって指揮をとったのは海軍の井上成美提督であった。この作戦は「101号作戦」と呼ばれ爆撃機180機、戦闘機80数機など(海軍と陸軍の比率は3対1)が集結し、5月18日に開始された。6月後半には重慶に対する6日連続爆撃が行われ、街の2割が全焼し、8割が被害を受けた。しかしその頃になると日本軍側も疲労の色が濃くなり、海軍、陸軍おのおの6機が撃墜された。
ー中国軍の迎撃体制も整い、日本軍爆撃機の損失が増大し始めていた。そこで日本海軍は新鋭戦闘機「零戦」を投入する。8月19日には15機が展開した。航続距離3500キロメートルを誇る零戦は中国奥地の上空を長時間制圧する能力があった。このとき中国軍はソ連のI-15とアメリカの「ホーク」を使用していたが零戦は空戦性能でも圧倒的に有利で、日本軍はたちまち制空権を掌握した。「101号作戦」は9月4日に通算約3000トンの爆弾を投下して終了するが、重慶に対する空襲はその後も続けられた。日本軍の損害は16機、撃墜された中国機は約100機と見積もられた。
ー日本軍は重慶をはじめとする中国奥地の都市に大きな被害を与えたが、その士気を打ち砕くという目的はまったく達成されなかった。その後も10月末まで爆撃を続けた。その10月25日、重慶に停泊していたアメリカ砲艦「ツツイラ」に至近弾があり、日本とアメリカとの間の緊張はさらに高まった。明けて1941年、日本海軍は蒋介石政府を屈服させるため、5月3日から7月中旬まで22回にわたる爆撃を繰り返していた。空襲下の重慶では、蒋介石が共産党弾圧をじわじわ進めていた。それは同年1月の「共産党四川軍攻撃事件」のような大規模なものから、特務機関によるテロまであらゆる方法がとられていた。5月以来アメリカの支援が蒋介石政権に向けられるようになり、これらの事件も蒋介石が政権安定への自信を深めたことに影響されていた。
ー蒋介石政権のこうした気の緩みは6月5日、重慶の防空壕での大事故につながった。重慶にはすでに45万近い収用能力をもつ一大地下壕ができていたが、施設・管理の手抜きから、そのひとつの中で逃げ込んだ住民の多くが窒息死する事件が起きたのである。日本軍は日米開戦が近いことを自覚し、後願の憂いを絶つため、さらに徹底した四川省奥地に対する連続爆撃「102号作戦」を計画、実施した。期間は7月27日から8月31日までと「101号作戦」よりも短いが、密度は一段と濃くなっていた。部隊は新編成の第11航空艦隊(爆撃機135機、戦闘機72機)があてられた。
ーこの爆撃作戦では、海軍の「零戦」のおかげで制空権は完全に日本軍のものであった。陸軍の「隼」も登場したが、そのときはすでに中国軍機の姿はなく、その機械的信頼性の低いことが判明しただけだった。また爆撃機では、海軍の1式陸上攻撃機が新鋭機として初登場している。日本海軍は「102号作戦」の中で、日中戦争に一挙にけりをつけるチャンスを手にした。蒋介石司令部の位置をつかんだのである。この情報に基づき8月30日、蒋介石司令部を狙った爆撃が行われた。しかしこの攻撃は対空砲火を避けた高度5500メートルの水平爆撃で行われ、1発が司令部に命中はしたものの、蒋介石を亡き者にすることはできなかった。日本とアメリカとの関係も悪化の一途をたどっていった。7月30日、重慶に停泊していたアメリカの砲艦「ツツイラ号」に再び至近弾が落下したのである。
尾崎・ゾルゲ事件ーあるたたかいの記録:
(1)、日本がひたすら戦勝の道を歩んでいた1942(昭和17)年のある日、日本の新聞は一斉に、「国際諜報団事件)と呼ばれた「スパイ」組織の摘発を報じた。これが、尾崎・ゾルゲ事件が国民の眼前に姿をあらわした最初である。
ーこの日の新聞記事は、司法省(今の法務省)の発表に基づき、この「諜報団」が「コミンテルン」(国際共産党)の「指令」によって形成された「赤色諜報組織」であり、5人の「内外人共産主義者」がその「中心分子」であるとして、その氏名を明らかにした。
リヒアルト・ゾルゲ(47歳)・ブランコードー・ヴーケーリッチ(38歳)・宮城与徳(40歳・沖縄出身の画家・逮捕直後獄死)・尾崎秀実(42歳)、マックス・クラウゼン(44歳)ー多くの国民は「聖戦」下の日本に「赤のスパイ」が活動していたことに驚き、衝撃を受けた。ソ連の「魔手」が動いていたことは、長い間のソ連敵視の感情に火をそそぐ役割を果たした。
(2)、この「国際諜報団」のリーダーはドイツ人のリヒアルト・ゾルゲであり、彼がドイツの新聞記者(そしてナチス党員)として東京に送ったのはコミンテルンではなく、赤軍(ソ連軍)であった。それでは、何が彼らに与えられた任務であったか?それは一言でいうならば、「満州事変以後における日本の対ソ政策の詳細を観察し、日本がソ連攻撃を計画しているかどうかの問題について、綿密な研究を行なうこと」(ゾルゲ・獄中手記)であった。
ーそして日本人の尾崎秀実はこれに対して、「軍部のめざすところは、対ソ政策においては、ドイツとの緊密なる提携であり、その当然の帰結として、ソ連または英米との戦争を惹起せんとするものであると信じ、日本を駆って破局世界戦争に投ずるものであると痛憤したのであります」(「上申書」)という立場から、その結束として訪れる「悲しむべき破綻」から日本を救うのは「プロレタリアート」(労働者)と「ソ連及び支那のプロレタリアート」の協力であり、「ソ連の存在」は破局の後、「新状態を決定するに重要な地歩を占めるであろう」と信じて、これに協力することを誓ったのであった。
(3)、1936(昭和1)年12月、東北軍閥の首領・張学良が国民政府総裁の蒋介石を監禁するという事件がおこった。西安事件である。この突発的なニュースは翌13日には日本の新聞社が入電し、中国政界の第1人者である蒋介石の生命が危ないという見方も流された。このとき尾崎秀実は、雑誌「中央公論」
(1937年新年号)とグラフ雑誌「グラフィック」にこの事件の分析を
1、この事件の深い原因には、国民政府軍の共産軍に対する「討伐」戦争をやめさせ「国共合作」による「抗日救国戦線」を作ろうとする動きがある。
2、張学良はその動きに押し上げられた
3、蒋介石は結局、「抗日救国戦線」に同意し、南京に帰れるだろう、
と論じた。そしてその後、事件は彼の予言のとおりに展開した。
ーそして1937年7月7日に盧溝橋事件が起ったとき、尾崎秀実はただちに、「北支問題の新段階」を書き、その中で、
1、この事件は「世界史的意義をもつ事件」となる
2、「北支問題は今必ずや全支那問題」となっている
3、「国民政府の持つ武力は恐らく大した問題でないであろう。しかしながら支那の民族戦線の全面的抗日戦との衝突は、はるかに重大な意義を持っている」
と論じた。
(4)、尾崎秀実は彼にとってなじみ深い雑誌であるー尾崎秀実はこう論じていた。「この日中戦争が本当の「聖戦」になるためには、戦争の中から「東亜」の終局的な平和をもたらすべき「東亜新秩序」がつくられなくてはならない。戦死した兵士たちはそのための「人柱」となるのだ。そしてその「新秩序」をつくるためにはまず、「支那のいわゆる「先憂後楽」の士の協力」が必要であり、ついで「日本国内の改善が実行せられて「協同体論」への理解・支持が国民によって与えられる」ことが必要である。
ー尾崎秀実はゾルゲから託された任務のために、また中国問題の渦のなかにある日本に間違った道をとらせないために、今は絶対に検挙されてはならなかった。だから彼の文章は警察官が読んでも彼の本当にいいたいことが分からず、しかも彼と同じ願いを抱いている人々なら分かるという、「綱わたり」をしていたのである。
(5)、1937(昭和12)年の春から尾崎秀実は、日本の取るべき政策についての学者・知識人の研究団体である昭和研究会に加わり、さらに1938(昭和13)年7月から翌年1月まで、第一次近衛内閣の嘱託となった。そして、近衛首相を助ける学者・知識人の集まりである「朝飯会」のメンバーとなり、内閣書記官長の風見章とも親しくなった。これらの会合から得た情報はそれだけ、日本政府の進路をめぐるゾルゲ情報を正確なものにした。この間、尾崎秀実の努力は、もっぱら日ソ戦争の問題にそそがれた。彼は多くの人々に日ソ戦争の難しさを説き、日ソ戦争の可能性を示すニュースを、次々とゾルゲに送った。
ー1941(昭和16)年9月6日、第二次近衛内閣の御前会議は「北守南進」の大方針(差し当たり日ソ戦争は諦める)を決めた。そしてこの大方針もまた、尾崎秀実の知るところなり、ゾルゲに伝えられた。しかしこの決定的なニュースだけは無電技師クラウゼンがなまけて、ついに打電されなかった。ーそしてその同じ年の4月頃から、警視庁は、尾崎秀実らに目をつけ尾行がはじまっていた。
(6)、1943(昭和18)年4月5日東京地方裁判所は、2年前にできたばかりの国防保安法に基づき、国家の機密を外国にもらした罪により、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実に、死刑の判決を下した。
ーさらに1944(昭和19)年4月5日、大審院(今日の最高裁判所にあたる)は尾崎秀実の上告を退け、死刑の判決は確定した。R・ゾルゲと尾崎秀実の絞首刑は、この年の11月7日の午前、東京拘置所において執行された。ロシア革命の記念日を選んだのである。
中国戦線の栄養失調死・世紀の大遠征:(藤原彰「餓死にした英霊たち」)
ー太平洋の孤島や南方の密林とは違って、人口周密で物資の豊富な中国戦線では、餓死者など生じなかったと思われやすい。しかし、敗戦前2年間の中国戦線では病死者は戦死者を上回っており、その死因は栄養失調と不可分の関係にあるマラリア、赤痢、脚気などだった。直接または間接に補給困難による飢餓と栄養失調が体力を消耗させ、多数の病死者を発生させたのである。1994年に、長尾五一軍医中佐の遺書「戦争と栄養」が刊行された。この本は、軍医として戦争栄養失調症の研究に携わっていた患者が、戦後に「戦場の悲惨な事実を記録に残しておく」ために、55年にガリ版刷りでまとめて、各地の図書館や大学に送ったものである。その中の一冊が、長崎大学の図書館に残っていたのを原本として、戦後50年を前にあらためて刊行されたのである。
ー長尾軍医は、陸軍軍医学校で戦争栄養失調症の調査研究に当っていたが、44年5月に支那派遣軍総司令部付となり、著者のいう「華中大作戦」の中の「SK作戦」を調査した結果をまとめた。SK作戦というのは、1号作戦と名付けられたいわゆる大陸打通作戦の中の湖桂作戦のことである。
著者によれば、「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は予定の如く行われず、敵味方の大軍により現地物資は消費尽くされ、将兵の疲労言語に絶するものがあった」とし、44年5月下旬から11月下旬までの6ヶ月で、戦死1万1742名、戦傷2万2764名にたいし、戦病による死亡率は著ましく高いという特徴があったとしている。
ー例えば戦争栄養失調症と診断したものの死亡率は、98%に達している。その上で具体的な桧兵団(第68師団)の場合をとって、野戦病院の入院患者6164名中死亡者2281名で、死亡率37%だとし、入院患者の主要死亡状況やその比率を調査している。それによれば、死亡率の多い順に赤痢724名(41・8%)、戦争栄養失調症378名(22%)、戦傷240名(13・9%)、マラリア142名(8・2%)、脚気118名(6・8%)だとしている。そして赤痢、マラリア、脚気による死者も、栄養失調による衰弱が加わって死に至ったものだとしている。
ー野戦病院で死亡率が高いのは、病院での給養が悪いからであった。戦傷者の場合も栄養状態が悪いため治癒率がきわめて不良であった。その一方で、入院させないで在隊のまま死亡する戦傷者も多かった。同書では、「極兵団(第27師団)は5月26日より9月30日まで在隊死亡者262名で、総戦病者2856名の9・2%に相当している(平常では入院もせしめず死なすことは軍医の不名誉であった)。この原因は、戦争栄養失調症の増加と、行動中においては長途を担送せねばならぬので衰弱するのと、衛生材料が不足していたので、脚気衝心様患者を救い得なかった場合が少なくなかった」と記述されている。
ー長尾軍医は、華中大作戦で、戦死者以上の戦病死者を出したことを繰り返し述べている。特にその大部分が戦争栄養失調症であること、「指揮官幕僚の頭は第一戦兵力に注がれて、後方を顧る余裕がなかった」ことを嘆いている。そして、「以上のような戦争栄養失調症発生環境の悲劇を充分味わっていた軍医たちは、本病で死亡した兵の家族に思いを致すと、この病名を付けるのは忍びないと洩らしていた。なお食を求めんとして求め得ず、餓鬼道に陥って死亡した者も少なくない、某病院で数名の栄養失調症患者が臥床していた所、食餌として与えられた一椀の粥を隣の患者より奪わんとし、仮眠中を絞殺しようと喉を絞めかけた所、相手に気付かれ、逆に反抗を受けて却って加害者が頓死した実例がある」という事例まで取り上げている。
ー長尾軍医の「戦争と栄養」が対象とした1号作戦は、大陸打通作戦とも大陸縦断作戦とも呼ばれる大作戦である。「今日静かに地図を展いて追想するとき、大東亜戦争のひとこまにすぎぬ1号作戦も、またまことに世紀の一大遠征たるの感が深い」と大本営陸軍部の作戦課長としてこの作戦を計画し、最後は自らも第一線の聯隊長として作戦に参加した服部卓四郎は書いている。黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400キロ、さらに奥漢線、湖桂線を打通して仏印まで1400キロに及ぶ 長大な区間を、16個師団、50万の大軍を動かした。日本陸軍始まって以来の大作戦であった。
大陸打通作戦と戦局悪化・対米英戦:
ーだが太平洋方面の戦局が危機的状況に陥っている段階で、これだけの大兵力と軍需資材を使い、莫大な犠牲を払ったこの作戦は、一体何を目的として企てられたのだろうか。作戦目的自体が、計画の段階から二転三転している。はじめは中国軍に徹底的に打撃を与え、その本拠地重慶を攻略すること、中国大陸を縦断打通し、海上交通の不安に代って、シンガポールに至る陸路連絡を確保すること、中国奥地にある米軍航空基地を占領して本土空襲の危険を避けることなど、数多くの目的が掲げられていた。それが最終的には、補給の困難、資材の不足、その他の諸事情から航空基地覆滅の一目的に絞られた。しかし44年6月のサイパン陥落以後、マリアナ諸島の基地が整備されると、この作戦目的の意義は完全に失われた。
ー実際に桂林、衝陽、柳州などの飛行場群に、日本の歩兵が数百キロを踏破して到達したときは、B29はマリアナに移駐した後のもぬけの殻で、使い残りの爆弾と食べ残りの食糧が倉庫に転がっているだけだったのである。もともと太平洋方面に絶対国防圏を設置して来攻する米軍に決戦を求めようとしているときに、莫大な兵力、資材を注ぎこむ大陸打通作戦を計画することは無理だったのである。そして最後に残った唯一の作戦目的が米空軍基地攻撃となっていたのに、それがまったく無意味となっても、まだ湖桂作戦を中止せずに実行したのである。
ー44年9月の陸軍中央部では、陸軍省の全部、参謀本部の第1部を除き、総長、次長を含めて全部が、桂林柳州攻略が補給の点からインパールの二の舞となることを憂慮し反対なのに、第一部長真田少将、作戦課長服部大佐が初志を変えずに断固として実行したのだと「戦史叢書」は書いている。作戦担当者は、全般戦局との関係を無視し、自ら立案した壮大な作戦計画に酔っていたとしか考えられない。補給の困難が作戦の支障になることを考えなかったのでああろうか、そして長尾軍医の言葉を借りれば、「かくて将棋でいう歩となった者が、無駄に犠牲に共されねばならなかった」のである。
ーまた、この大作戦の立案者でありかつ推進者である服部卓四郎は、大兵力を運用できる中国大陸での大作戦に対して、かねてからの構想を練っていた。42年春に南方攻略作戦の見通しがついた段階で、大本営の作戦課長としての服部は、大規模な重慶進攻作戦を実行して国民政府にとどめを刺し、日中戦争を終わらせようという構想を立て、北支那方面軍を黄河を渡って西安に進攻させ、さらに同軍を泰嶺山脈を越えて四川省にすすめ、派遣軍の主力は長江沿いに四川省を目指すという、重慶進攻作戦の構想を思いつき、これを総軍に示して研究を命じたのである。
ー戦争全体の局面からみれば無理な作戦だが、党の派遣軍や北支那方面軍は色めき立って研究に着手した。結局この重慶作戦は、太平洋方面での米軍の反攻が急なのと、ガダルカナルの敗戦で服部が作戦課長を罷めたので立ち消えとなっていた。それが服部が作戦課長に返り咲くと、太平洋の戦線が危急を告げているにもかかわらず、再び大陸での大作戦構想が頭をもたげてくる。
ー43年12月末、服部新作戦課長の統裁の下に、陸軍の全般作戦指導に関する兵棋演習(虎号兵棋)が実施された。これは43年度を東守西攻の年とし、太平洋方面で持久をはかるとともに、大陸打通作戦を完遂するというものであった。加登川はその著の中で、「奇怪な、「虎号兵棋」という筋を立てて、対米決戦を控えて重点を分散させる服部の中国戦線への執念を批判している。だがこの作戦課長の執念が「世紀の大遠征」を実施させることになったのである。
架空の兵站線:
ー人員約50万、馬約10万、自動車1・5万をもってする大陸打通作戦では、この部隊を支える兵站補給の支隊が確保されることが不可欠の条件である。だがその計画は余りにも安易で独善的であった。この時期、中国戦場でも制空権はすでに在中国米軍にあり、河川や湖沼での舟艇の運航は妨害を受けた。すでに自動車用のガソリンはきわめて不足しており、しかも道路は中国側によって徹底的に破壊されていた。鉄道の破壊はさらに徹底しており、これを復旧する資材も不足し、占領地域内の支線の線路をはがして持っていくしかないというありさまだった。
ー湖桂作戦に当って、第11軍が立てた兵站補給の方針は以下の通りである。衝陽攻略までの第1期作戦では、湖江の水路、および岳州ー長沙ー衝陽道を甲兵站線とし、別に東方山中の崇陽ー通城ー平江ー衝陽ー桂林道を乙兵站線とし、甲乙平坦線を自動車道として構築する。衝陽から桂林、柳州攻略までの第2期作戦では、自動車道を利用するとともに、衝陽までの重列車輸送を開通させ、それ以降もなるべく鉄道を無傷で占領し軽列車を開通させるというものであった。第1期作戦の地域、とくに新 河から長沙に至る地域は、たびたび日本軍の進攻作戦に晒されており、鉄道、道路の破壊は徹底していた。路盤までが撤去されて水田に化しているところが多く、ここに短期間に自動車道を構築するなど不可能に近い仕事だった。
ー甲兵站線の設定には第1工兵司令部、独立工兵第39、同41聯隊、独立工兵61大隊などが当ったが、乙兵站線は戦略兵団の第27師団が担当させられた。水田の中で道路構築に従事している工事中の部隊も、開通した地点を先頭にして数球つなぎになっている輸送部隊の自動車も、空襲の格好の目標になって損害を出した。工事は遅々としてますます、部隊の疲労は増すばかりだった。第27師団の1カ月の悪戦苦闘にもかかわらず、6月25日、師団が軍命令で工事を中止して平江を出発したとき、兵站部隊の1200輌の自動車は、先頭がようやく平江東北24キロの梅仙に達しただけで停滞していた。結局軍は、6月末に乙兵站線の撤去を決定し、道路構築は無駄に終わったのである。
中隊長としての著者:
ー実をいうと私は、第27師団の支那駐屯歩兵第3聯隊第3中隊長としてこの作戦に参加したので、その体験を付け加えておく。せっかく満州からの遠路をたどりついた大作戦での任務が、道路補修と知ったときはがっかりした。だがこれも命令であり、しかも各部隊ごとにノルマを割り当てられるので、必死に取り組むほかはない。ところが歩兵部隊なので、工事の器材としては、各兵が背嚢につけている円匙か十字鍬、つまり小型のスコップか鍬しかない。徴発したスコップやつるはしが少々渡されただけで農民が使っている天秤棒や籠を探して土を運ぶのがやっとだった。
ーしかも図上で補修することになっている道路の現状は、原形をまったくとどめないほどにズタズタに切断されており、水田に化してしまっているところさえ少なくなかった。もちろん川の部分では橋は跡形もなく破壊されている。雨が降れば一帯は泥沼と化し、しかも昼間は制空権がないため、頻繁に空襲を受けるので、いくら人力の限りを尽くしても、作業は遅々として進まなかった。この間に作業に従事した兵の体力の消耗は甚だしかった。兵站線の先頭の近くだからといって、やっとわずかな主食が補給されるだけで、その他の食糧は徴発によらばければならない。だがこの地域は、戦場慣れをした第一線の第3、第13師団が散々に荒らして通った後で、どの部落もまったくの廃墟と化して何ひとつ残っていなかった。この期間の肉体的疲労が、後に多数の栄養失調死者を出す原因となっている。
ーこのような無謀な計画を、どうして上級司令部が立てたのであろうか、地図の上に道路の線を引いてあっても、現状はどうなっているか確かめたであろうか。また部隊が泥まみれで苦闘しているとき、ひとりの参謀も現場を視察には来なかった。実は私は後で知ったことだが、支那派遣軍が大本営の命を受けてこの大作戦の計画を立てたとき、総軍の参謀部第3課長(兵站課長)は辻政信であった。地図の上に兵站線の経路を引いたとき、現地の実状はどうなっているか確かめただろうか。架空の兵站線計画にふりまわされて、大きな苦労を味わされた「歩」のひとりとし、疑問を禁じ得ないのである。結局この乙兵站線構築は大きな犠牲を払いながら、まったくの無駄働きに終わったのであった。
良識と証言・志願兵として:(野田正彰「戦争と罪責」)
ー軍医、将校、特務、憲兵だった人々、それぞれの戦争体験と罪の意識を分析してきたので、軍人の最後に、戦時は昇進への道を避け、戦後は軍人恩給を拒否してきた元兵士の生き方を述べよう、この2つの選択は、彼の日本社会に対する消極的抵抗として連続している。
ー飛騨高山の隣、古川町に暮す尾下大造さん(76歳)は、志願した軍隊が強盗、追剥のたぐいでしかないと知った。彼は、大隊長に命令されてひとりのフィリピン人捕虜を射殺した以外、虐殺にも強姦にも加わっていない。だが部落に入れば、鶏や豚を捕まえ、牛を殺して食べてきた。部隊から食糧補給がないための行為と弁明しても、強盗であることに変わりない。極悪非道を止めることもできなかった。恩給受給の年数に達しているとは、それだけ悪党の一味であった期間が永いということだ。こう考えて、軍人恩給を拒否してきた。何故、このような正常な考えを持つ人がいるのだろうか。ほとんどの人々が異常で緊張しているとき、どうして良識を保ち得る人がいるのだろうか。尾下さんの語りには、常に相手の顔があり、相手の人間性が伝わってもくる。それは、他の人との大きな違いである。
ー尾下大造さんは1922(大正11)年、奥飛騨の盆地、古川町に生まれた。7人兄弟の次男として育っている。山国にあって、父は林業に携わっており、尋常小学校高等科を卒業後、彼も林業を手伝った。土屋さんが行った青年訓練所にも通っている。素直な山里の軍国少年だったようだ。4歳年長の兄はすでに近衛兵に出ており、40年12月、18歳で陸軍に志願し富山東部48部隊に入営した。当時は、「いずれ軍隊に入らなければならない。早く行けば早く帰れる」ぐらいの思いだった。中国戦線は膠着し、周りの多くの青年が召集され、林業の仕事はしづらくなっていた。
ー補充要員として2ヶ月たらずの訓練を受け、41年末、中国の塘沽をへて徐州に行き、中原作戦に組み込まれて山西省南部の山間部の警備についた。日本にいる時は、中原の都市を順々に陥落させ周囲は占領地になっていると思っていたが、実際は城外に一歩出ると危険であった。4人しかいない分所が全滅とか、連絡に出た3人がそのまま行方不明といった、惨憺たる状態だった。だが戦死者の殊勲を申請しなければ、金鵄勲章の対象にならない、そのため放置されて年月のたったトラックを、「戦利品、運行不能につき焼却」と記録していた。半年後の6月、尾下さんは2等兵から1等兵になったが、部隊では最下位の初年兵、伍長以上5、6名の上等兵と共に班を構成し、「討伐」に出かける日々が続いた。
ー報酬が出るため、中国人協力者からどこそこの集落に敵が入ったといった曖昧な情報がもたらされる。出掛けていっても、敵がいるはずはない。出動した以上、そのまま帰るわけにはいかないので、部落ごとに火をつけて焼くのが常だった。こんな時、敵がいないと分かった上で、個々の家を調べに入る。中国の中流以上の家は、囲いがある。もっと富裕になると高い土塀になっている。普通の家でも、門があって入口はひとつしかない。そこで初年兵で最も若い尾下さんを入口に立たせ、古参兵の2人組が家のなかに入っていく。もったいぶって「なかがどうもおかしい。俺がもういっぺん徹底的に調べる。お前は外をしっかり守っておれ」と告げて、
「ある時、17,8と20歳くらいの女の子が、姉妹だったと思いますが、割合大柄な娘が出てきたんです。おばあちゃんが土下座して頼んでいるのを、横にいた兵隊がいきなり殴りつけて転がし、古参兵が2人を連れ出したんです。部落に火を放って帰路につき、1里ほど行ったところで休み、「好きなことをしてこい」ということになった。順々に「お前、行ってこい」と言われ、女の子を隠した物陰に消えていくんです。「お前も行け」と何度も言われたけれど、とんでもないと思った。最後に姉妹は「行け」と言われて、急いで逃げて行きました。命だけは奪わなかったのわけです」。
ー尾下さんら 弾筒をあつかう班は、分隊長を入れて10人、そのうち、2人の3年兵がとりわけ悪質だった。「ある晩、そのひとり、富山県出身の上等兵が、12歳ほどの頭髪を束ねた丸顔の女の子を見つけ、家のなかに連れて行った。その後すぐ、悲鳴が聞こえた。しばらくして出て来た女の子は、なんともいえない苦痛な顔をしてしゃがみこんでいたのを、今も憶えています」。この2人は常習犯だった。しかも彼らは、終わった後に強姦のありさまについて自慢話をする。こんなことを何度となく目撃するうちに、「戦争とは鉄砲を持ったもの同志の撃ち合いのはずだった。これは戦争ではない。せめて自分だけは、そんなことはしたくない」と固く思うようになっていった。
ー無差別殺人行為も見た。やはり討伐に出たとき、河のなかの葦原に20人ほどの婦女子が避難しているのが見えた。富山出身の1年上の上等兵が、いきなり機関銃を撃ち込んだ。たちまち撃ち倒され「アイヤアイヤ・・・」と叫び、地獄絵図となった。尾下さんは後輩の1等兵、とても叱責できる立場ではなかったが、「何をするんだ」とうめいた。「ムカムカしたでや」これが彼の答えだった。20人の殺傷の理由が「ムカムカしたでや」。おそらく班内の人間関係の不満であろう。その男は今、故郷に帰り、平凡な老人として暮している。
略奪を前提にした軍隊:
ーもちろん、糧秣の強奪は当たり前だった。山のなかに入ると、10日間も2週間も米がない生活となった。食糧の補給なしに戦線を拡大するのは、略奪を前提としてのこと。牛を見つけると、所有者のいることも考えずに殺して食べる。鶏は捕り放題だった。兄が近衛兵・・・宮城の禁衝に当る天皇の親兵であり、出自の家族について調査の上で選ばれ志願するような家庭に生まれ、山里ですくすくと育った大造さんは、「戦争とは日本の軍隊と中国の軍隊が華々しく戦い、勝った方がいろいろな要求をし、自分の権益を守る確約をさせて終戦になるもの」とばかり思っていた。学校でもそう教えられ、村の大人たちもそういい、新聞・ラジオもそう伝えていた。
ーしかし従事した現実の戦争は、まともに食糧を持たず、部落から部落を襲って歩く強盗、火つけ、強姦集団でしかなかった。しかも、3年たっても兵長になれない上等兵たちが憂さ晴らしに殺人を行い、部落では駐屯地と違って只で女が得られると考えるような、堕落した群れだった。集団の性格は強盗であったが、なかには決して悪業に染まらない人もいた。高山の隣の丹生川村から来た僧侶、荒川さんは、決して奪ったり暴行したりすることのない人だった。徴兵猶予となっていたので、遅れて26歳で入隊してきた彼は指揮班にいたが、若い尾下さんと気が合った。後日、フィリピンの戦線で頭を撃たれて死んだとき、尾下さんが埋葬したのだった。
社会観の戦場:
ー尾下さんは1年近く中原の警備に当った後、青島に戻された。12月1日、上等兵に昇格。12月8日、太平洋戦争へ突入。「中国にも勝てないのに、アメリカなんかと戦ってどうするんじゃ。馬鹿なことを始めおって」と、兵隊たちが話していたことを憶えている。青島で、ガスマスクをつけて毒ガス戦の訓練やアンパン地雷をもって戦車に肉迫する練習をつんだ後、42年2月末、台湾経由でフィリピン・ルソン島のリンガエンに上陸。バターン、コレヒドール島の激戦に参加。生き延びてネグロス島に上陸、7月には兵長を命じられている。同年11月末、マニラを経てベトナムのサイゴン港に入り、ハノイの警備につき、45年3月、フランス軍を攻撃、その後はハノイの北、中国国境地帯で抗日戦線べトミン(越南軍)と戦った。
ーこの間、43年12月、伍長。45年3月、軍曹に進級している。45年9月1日、北ベトナムの奥地で敗戦を知り、ベトミン(ベトナム独立同盟、インドシナ共産党を中心とする民族統一戦線)に許されてハイフォンに出、46年4月に帰国したのだった。5年5ヶ月にわたる軍歴を先に述べた上で、フィリピンの戦場に戻ろう。日本軍がネグロス島の米軍を降伏させ、上陸したのが42年5月22日、2ヶ月間、解放軍とみなされた日本軍に対する住民の抵抗はまったくなかった。ところが、食糧を持たない日本軍が各地で収奪を繰り返した結果、全島にゲリラ戦が広がっていた。待ち伏せをして、狙撃されるのである。それに対して日本軍は、疑わしい男を捕まえてきては暴行や水責めの拷問を加え、最後には穴を掘って突き殺した。中国占領で行った野蛮はそのまま、フィリピンに移入された。
ー尾下さんはこの時、ひとりの婦人の発言を通じて、日本軍の敗北を確信している。20歳になったばかりの青年は、国際情勢やアメリカの工業力について知っていたわけではない。ただ、自分と同じ普通の主婦が、「日本軍は必ず敗ける」と語った論理が納得いくものだったからだ。その婦人は良家に生まれた日本人であり、日本に留学してきていたネグロス島の農園地主の息子と結婚し、フィリピン国籍となって島に住んでいた。家を借りるために、彼女の屋敷を訪ねたことがある。こうして知り合い、好感を持たれた尾下さんは食事に招かれたり、娘に日本語を教えてほしいと頼まれるようになった。
ー彼女から、「日本軍は略奪はする、火は放つ、私はそんなことをするはずがないと弁護してきたが、私の家も同じ目にあった。連隊長に抗議しても、まったく無駄。住んでいる人を全部敵に変えていくような戦争をしていては、必ず敗けます」と言われた。彼女の判断は、中国の戦場を経験してきた彼の思いをそのまま言葉にしたものだった。ルソン島のバターン、コレヒドールの激戦を戦い、アメリカ軍の砲弾の力を骨の髄まで知る尾下さんだが、軍備力よりも軍隊と住民との関係の方が、長期戦の勝敗を決すると思われた。これは良識である。現実を直視し、明快で単純な論理によって作られた良識である。彼は、戦争を知らずに暮していたフィリピン在住の日本人女性に同じ判断を伝えられ、自分の良識を確信したのだった。
ー日本人は先の戦争で、2つの戦場を持った。ひとつは、軍備力に基づく合理的思考に対して、自死を前提にすればいかなることも可能になると煽る非合理精神主義の戦場。他のひとつは、民衆に受け入れられ民衆に支持されて戦おうとするか、民衆を支配の対象とみなし、結局は敵に変えていくか、社会観の戦場である。20歳の青年は前者の戦場においてはそれほど透徹した意見を持たなかったが、後者の戦場において日本人の敗北をはっきりと見ている。
北部ベトナムと敗戦:
・・・若い大造さんも、ベトナムに上陸したときはすでに兵長、初年兵を教育し、多くの兵隊を掌握しなければならない地位になっていた。常日頃から彼は、将校が古参の下士官らを連れて外へ女遊びに行ったり、また営外居住する上級将校が現地妻を囲ったりしているのを、苦々しく思っていた。衛兵司令に当った夜、連隊の衛兵14、5人に向って、「どんなに厳しい規則を掲げていても、都合よく曲げてしまう。主計中尉が兵隊を使って米を女のところに運ばせたとか、裏の話が多すぎる。これで戦に勝てるはずがない」と喋ることもあった。ある夜、その会話を週番司令の将校に立ち聞きされ、初年兵の教育係をはずされたこともあった。
ー北ベトナムでは、45年3月、仏軍を降伏させた後、フランス人の捕虜を使役したが、彼は捕虜に暴力をふるったことはない。7,8人の捕虜を連れて陣地構築に行く。彼らは1度も「煙草をくれ」と言わなかった。だが日本兵が捨てた吸いさしをこっそり拾い、巻き直して吸っていた。尾下さんは敵に「くれ」と決して頼まないフランス人の誇りに感心し、それまで兵隊にやっていた配給の煙草を、フランス兵に渡すことに変えた。「メルシー」と心から喜んでくれた。「腹がすいてしょうがない」と兵隊に伝え、飯盒一杯に飯を詰めさせ、汁しか口にしていない彼らに食べさせることもあった。
ー北ベトナムの飢餓はすさまじかった。ハノイでは毎朝、大八車で餓死者を積み重ね、紅河にかかる鉄橋のたもとから投げていた。300人をこえる屍体が運ばれる日もあったという。尾下さんは、もらったおにぎりを手にしたまま、微笑むように死んでいった男の子の姿をいつも思い出す。4,5歳ほどのその男の子は、日本兵が借りている家の前に数日前から来ていた。痩せ、腹はふくれ、皮膚は土色に乾いていた。10歳以上の子は芋を掘ったり、盗んだりして、なんとか食物を探す。幼児は母親に連れられている。4,5歳の子供たちは頼る親も、食物を得る当てもなかった。この日、尾下さんはその男の子に気付き、おにぎりを渡した。その子はもはや食べる力もなく、握ったまま安らかな顔で死んでいった。尾下さんには、死顔に喜びがあるように思えたし、そう思いたかった。

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