日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

田母神俊雄論文「日本は侵略国家であったのか」(「我国」式’博学’=’勉強家+有文才?’⇔有識者?)→全文転載 /Stabschef der Luftselbstverteidigungsstreitkräfte →「日本真正保守黨」日本右翼團體「加油日本!全国行动委员会」的代表

ドイツ語→Toshio Tamogami (jap. 田母神 俊雄, Tamogami Toshio; * Juli 1948 in der Präfektur Fukushima[1]) war ein japanischer Luftwaffengeneral und von März 2007 bis Oktober 2008 der 29. Stabschef der Luftselbstverteidigungsstreitkräfte (航空幕僚長, kōkū bakuryōchō).[2]
다모가미 도시오(일본어: 田母神 俊雄 たもがみ としお, 1948년 7월 22일~)는 항공자위대 제29대 항공막료장 출신의 출신으로 군사평론가겸 일본보수 인사이다.


「田母神俊雄」論文http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50734794.html
「日本は侵略国家であったのか」 全文転載


☆アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。
☆実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。
☆また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
☆時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。
☆しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
☆ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。
☆東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポーで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
☆日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみであるPS:どうでしょう?こんなんが「有識者」ズラしてデカイ顔・・・ザ「我が国」→「自滅希望」としか思えん(もう愛想も尽きたよ(失笑) インドネシア語→Jenderal Toshio Tamogami (田母神 俊雄 Tamogami Toshio?, kelahiran 22 Juli 1948)[1] adalah seorang pemimpin militer Angkatan Udara Bela Diri Jepang. Ia menjabat sebagai Ketua Staf Angkatan Udara Bela Diri Jepang dari Maret 2007 sampai Oktober 2008.[2]
田母神俊雄(1948年7月-),日本航空自衛隊退役將領、第29任航空幕僚長(參謀長、相當於空軍上將),後來因言論不當而被日本防衛省革職。田母神目前為右翼團體加油日本!全国行动委员会和日本真正保守黨的代表。 2007年3月28日,田母神俊雄升為航空自卫队第29屆航空幕僚长(相当于上將空軍參謀長)。[1]
2008年10月31日,田母神俊雄在一次APA集团發起的第1回「真實的近現代史觀」懸賞論文中,以主題「日本是侵略國家嗎」(日本は侵略国家であったのか)投稿;但論文內容引發爭議,指蔣介石為造成第二次世界大戰的元兇、珍珠港事件是個陷阱、
日本是第二次世界大戰最大受害國……等言論;撰文否認侵略歷史、美化日本侵略他國的行為,導致日本防卫大臣滨田靖一於10月31日晚間決定解除其航空幕僚長一職[2][3]。因普通空将的退休年龄为60岁,田母神俊雄于2008年11月3日以空将的军阶退休[4]。2008年11月11日,日本参议院外交防卫委员会举行听证会,田母神俊雄在听证会上接受质询,并为其言论辩解[4]。2009年2月,田母神俊雄成立「株式会社田母神事務所」,自任代表取締役。 2010年2月2日,田母神俊雄成為日本右翼團體「加油日本!全国行动委员会」的代表,發起反華、反民主黨政權的遊行活動。2014年1月7日,田母神俊雄正式宣布參選2月9日舉辦之東京都知事選舉。田母神俊雄在東京召開記者會時稱「願為東京市民的安心和安全鞠躬盡瘁」,正式宣佈將以無黨派身份參選東京都知事;原東京都知事石原慎太郎亦表達其個人對田母神俊雄的支持。其競選宣言包括,提出以自衛隊為主體應對首都地震等災害、設立能通過網路授課的國際大學、為迎接2020年東京奧運會完善城市設施等構想。他在投票中得票第四,落選[5]。2014年1月16日,田母神俊雄批評NHK新聞播放太多有關日本職業足球員本田圭佑在AC米蘭首次進球的新聞,稱本月13日NHK晨間頭條新聞用12分鐘報道此事「會令國民變笨」[6]。他的言論受到不少批評,有網民質疑「否定運動的人還想當主辦2020年奧運會的東京都知事嗎?」,也有人直言「世界盃足球賽創50%的收視率,這樣的國民運動耶!想吵架嗎?這個人真是笨蛋!」[7] 2014年5月20日,田母神俊雄在朝日電視台節目北野武的TV擒抱》上,與日本共產黨副委員長小池晃就靖國神社爭議辯論時稱首相安倍晉三「應該每月參拜一次靖國神社」,令傾向支持參拜靖國神社的東國原英夫也表示震驚[8]。节目播出后,支持安倍参拜的人也认为这一观点有些激进;反对参拜者更认为,这种言论极不负责任,对日本原來已經“冷淡的邻里关系”来说是雪上加霜[9]。
2014年6月2日,田母神俊雄宣布將建立新政黨「日本真正保守黨」,支持解禁集體自衛權和整備軍力,又叫安倍晉三「加油」[10]。
ロシア語→Тосио Тамогами (яп. 田母神 俊雄 Тамогами Тосио, род. 22 июля 1948 года[1]) — офицер японских ВВС. С марта 2007 года занимал должность начальника штаба Воздушных сил самообороны Японии, в октябре 2008 года был снят с должности за публичное оправдание японской агрессии в Азии[2]. Биография[править | править вики-текст] В 1971 году окончил Национальную академию обороны Японии (англ.)русск.. В 1986 году получил должность подполковника, полковника в 1990, генерал-майора — в 1996 году. 28 марта 2007 года был повышен до должности генерала и назначен начальником штаба Воздушных сил самообороны Японии[3].










코민테른(Communist International), 공산주의 인터내셔널, 제3인터내셔널 혹은 국제공산당은 1919년 3월 러시아 공산당의 주도 인물들이 설립하여 1943년 해체된 조직이다. 이 조직의 목표는 "모든 가능한 수단을 동원해 무장군대를 포함하여 세계의 부르주아의 타도와 완전한 국가 철폐의 과도기적인 단계로서의 세계 소비에트 공화국의 창립을 위해" 싸우는 것이다.[1 ]共产国际(俄语:共産国際→ロシア語=Коммунистический интернационал,缩写为Коминтерн;英语:Communiste International(国際共産主義,缩写为Comintern(コミンテルン),通称第三国际(第3インターナショナル・ロシア語→Третий интернационал;Third International),是一个共产党和共产主义组织的国际联合组织,1919年3月在列宁领导下成立,总部设于蘇聯莫斯科。1943年5月15日,共产国际执行委员会主席团作出《关于提议解散共产国际的决定》;并于5月25日公开宣布《解散共产国际的决议》,声言这是为了适应世界反法西斯战争的发展,便于各国共产党独立处理问题
コミンテルン(第3インターナショナル)→The Communist International(共産国際主義者), abbreviated as Comintern(省略(短縮)されコミンテルン) and also known as the Third International (1919–1943), was an international communist organization(国際的共産主義者組織(団体) that advocated world communism(世界共産主義を弁護(支持)する). The International intended to fight(インターは戦う傾向として→) "by all available means(全ての入手可能な意味で?), including armed force(軍事力も含む), for the overthrow of the international bourgeoisie(国際的ブルジョアジーを廃止(顛覆)打倒するため) and for the creation of an international Soviet republic(さらに国際ソビエト共和国を創造するため) as a transition stage to the complete abolition of the State"(’国家の完全な撤廃(廃滅)’の過渡期段階として).[1]The Comintern was founded after the 1915 Zimmerwald Conference in which Vladimir Lenin(コミンテルンは1915年のツィンマーヴァルト会議後、ウラジミール・レーニンによって発足された) had organized the "Zimmerwald Left"(’ ツィンマーヴァルト左派)として組織)against those who refused to approve any statement explicitly endorsing socialist revolutionary action(公然といかなる社会主義革命運動に関する声明(宣言)を是認(推奨)するのを拒む(反対)勢力に対して), and after the 1916 dissolution of the Second International(1916年、第2インターナショナルの解散後). The Comintern held seven World Congresses in Moscow between 1919 and 1935(1919年から1935年までの間に、コミンテルンはモスクワで7回にわたって世界大会を開催). During that period it also conducted thirteen "Enlarged Plenums"(この期間に同じく13回の”拡大総会”を主宰) of its governing Executive Committee(統治(運営)管理(支配)する中央委員会), which had much the same function as(ほぼ同じ機能を持つ) the somewhat larger and more grandiose Congresses(大きくそしてより壮大な議会). The Comintern was officially dissolved by Joseph Stalin in 1943(1943年、スターリンが公式に解散させた).フランス語→ボルシェヴィキとコミンテルン=La bolchévisation des parti(党のボルシェヴィキ化)s communistes(共産主義者)[modifier | modifier le code]Pour adhére(党員(支持(信奉)r à la IIIe Internationale(国際主義), les partis membres (党の発足者たち)doivent à partir de juillet 1920 accepter les « 21 conditions »(1920年7月、’21箇条’を受諾), draconiennes(ドラコ二アン(古代アテネ(ギリシャ)の執行官ドラコンのような)過酷(厳格), qui alignent leurs structures(彼らの構成(機構) et leurs méthodes (方法(筋道)sur le modèle bolchevik(ボルシェヴィキが模範(原型), jusque-là inconnu hors de Russie(ロシアに広まる(達する)まで). Même(同じく) dans les démocraties capitalistes(民主資本主義者の間で), les partis communistes(共産党) doivent (必要)se prémunir(??) contre(対してENG=against) une éventuelle exclusion de la sphère politique(結果(最終的に)として、政治からの除外(排除)追放) en prévoyant des locaux, imprimeries clandestines. Le Parti fonctionne (党の機能)selon le centralisme démocratique(中央集権的民主主義). Ils doivent(ENG=must)t aussi(同じく) obéir impérativement aux ordres du centre. Après 1921(1921年の後), ils doivent aussi interdire les tendances en leur sein et exclure(除外(排除), surtout après 1924(1924年(レーニン死亡)の後), ceux qui ne suivent(次に(続いて) pas strictement la ligne imposée(厳格に路線?が課された) depuis(以来) Moscou(モスクワ). Beaucoup de communistes(多くの共産主義者), mais (しかし)aussi(同じく) de militants(闘士(好戦的な) venus de l'anarcho-syndicalisme(無政府主義者ー組合) ou de la gauche républicaine radicale(左派共和主義過激派), ont adhéré(固着(支持)付着(信奉) en pensant qu'ils pourraient toujours garder une certaine autonomie(いつも一定の自治を保護(守備) — c'était le cas de bien des participants français du congrès de Tours (1920=1920年フランス人(議員(集会)が参加?), où(もしくは) les 21 conditions(21箇条) ne furent d’ailleurs pas adoptées(採用(選択)採択された). Mais Moscou (しかしモスクワは)entend(延ばす(広げる) aligner(提携(適合)整列) fermement(大騒ぎ(興奮)動乱) les part(党)is sur le modèle russe(ロシアを原型(模擬)見本にして). Elle les encadre et les soumet de plus en plus étroitement par le biais d'agents délégués(機関代表) par le centre (中央)Jules Humbert-Droz ou Eugen Fried en France). Dès 1921, Trotski (1921年、トロツキー)se plaint qu'il reste des francs-maçons au Parti communiste français(フランス共産党), et exige leur exclusion(除外(排除), une première en France (はじめにフランス)dans(間に) un parti de gauche(党左派). En 1924, le président du Komintern, Grigori Zinoviev(1924年、グレゴリー・ジノヴィエフ・コミンテルン議長), réputé et critiqué pour son autoritarisme(権威主義者の批判を論破), lance le mot d'ordre(指令) de bolchévisation des PC au Ve Congrès du Komintern(コミンテルン議会). C'est un durcissement autoritaire(権威(権力) qui provoque(挑発(刺激) une crise et des exclusions(除名) dans la plupart des partis-membres(党員). Au même moment(同時期), de surcroît, Staline, Zinoviev et Kamenev lancent une violente campagne pour mettre sur la touche les « trotskistes » (スターリン、ジノーヴィエフ、カーメネフ’トロイカ’(反トロツキーの三頭制政治支配)en URSS(ソ連邦) comme à l'étranger(外務). ルーマニア語→スターリン主義とスターリン化  De la ultimul congres la dizolvare[modificare | modificare sursă] Ultimul congres al Comiternului a fost ținut în 1935 și a sprijinit în mod oficial Frontul Popular Antifascist(1935年、公式に反ファシスト人民戦線). Această politică cerea ca partidele comuniste (共産党)să caute să formeze Fronturi Populare(人民戦線(大衆路線) cu toate partidele care se opuneau fascismului(ファシズム) și să nu(Eng=not) se limiteze(制限(範囲) să formeze Fronturi Unite(統一戦線の組織(形成) doar cu partidele muncitorești. Nu a existat vreo opoziție(反対派は存在しない) semnificativă la această nouă orientare politică(政治指導) în vreuna dintre secțiunile naționale(国家(民族) ale Cominternului(コミンテルン). În Franța și Spania (スペイン(内戦)în mod special, consecințele au fost spectaculoase(特別(特に)、連続した見世物(目をみはる)予想外に大きい(壮観な). Cum congresul al șaptelea al Cominternului a renunțat (コミンテルン会議は断念(放棄)自制(克己)la țelul revoluționar(革命) al răsturnării capitalismului(資本主義), Troțki (トロツキー)a ajuns la concluzia (結論)că este necesară(必要) apariția unei noi Internaționale(国際主義), de timp ce Cominternul(コミンテルン) a murit ca Internațională revoluționară(国際革命). Troțki(トロツキー) a susținut, de asemenea, că partidele staliniste(スターリン主義者) nu(Eng=not) pot fi considerat(考慮)e partide revoluționare, (革命の党)ele jucau totuși un rol de apărători ai statului Rus(ロシアの地位(身分?)), la fel neputând fi considerate(考慮) partide revoluționare(革命党) nici partidele social-democrate(社会民主主義者). Ca urmare, în 1938 s-a format Internaționala(国際主義の計画(構成) a IV-a în opoziție(反対(低抗)対立(妨害) cu Internaționala Comunistă(コミンテルン). Comuniștii (共産主義者(支持者+党員?)celei de-a patra Internaționale considerau(国際的に検討(よく考える)熟慮(考察する) că cea de-a treia Internațională devenise profund(重要な(深い) birocratizată și stalinizată(スターリン化) și nu mai era capabilă să renască pentru a deveni o organizație revoluționară(革命の組織(機構)編成(準備) propriu-zisă. În mod particular(特別), ei considerau prăbușirea catastrofală(大惨事(不幸)大異変(破局)大災害(田母神+よしりん企画社長=我国?=自滅(失笑)を考慮して) a mișcării comuniste(共産主義の流産(失敗) și ascensiunea nazismului(ナチズム(秋元教授兼副学長?(嘆息)の台頭(上昇)昇進(勃興) în Germania(ドイツ人) ca pe o dovadă că Internaționala Comunistă(国際的共産主義) era sub controlul total și nefast al lui Stalin(スターリンがほとんど管理(統制)自身(スターリン)のため). La începutul celui de-al doilea război mondial(世界), Cominternul a sprijinit o politică pacifistă(コミンテルンは政治的平和(不戦)主義者と分裂?) și de neintervenție, considerând că este vorba de un război imperialist între diferitele clase conducătoare naționale, aproape la fel ca în primul război mondial. Când Uniunea Sovietică a fost invadată pe 22 iunie 1941(1941年6月22日(ドイツ軍のソ連侵攻)、 Cominternul și-a schimbat (コミンテルンの計画)poziția diametral opus, sprijinind activ Aliații. Într-un document datat 11 iulie 1941(41年7月11日の記録(書類), care făcea o evaluare strategică(戦略の見積もり) pentru Departamentul de Război al SUA, se aprecia: Cominternul, prin regimul sovietic, luptă pentru revoluția mondială în interesul Comunismului.[1] Stalin a desființat în mod oficial Cominternul 15 mai 1943(1943年5月11日、スターリンによる公式な解散命令), ca un gest împăciuitor față de Puterile Aliate. NKVD(国家保安省=秘密警察)-ul din Moscova(モスクワ) a trimis un mesaj către toate agenturile sale pe 12 septembrie 1943(43年9月12日). Acest mesaj scotea în mod clar la lumină legătura dintre NKDV, pe de-o parte, și Comintern și partidele comuniste, pe de alta. Acest mesaj dădea instrucțiuni detaliate despre folosirea surselor de informații din interiorul partidelor comuniste după desființarea Cominternului.アストゥリアス語→歴史=Antecedentes históricos[editar | editar la fonte] Como ya recordaba'l entamu de los primeros Estatutos de la Internacional Comunista, los antecedentes d'esta remóntense a l'Asociación Internacional (国際組織)de los Trabajadores fundada por Karl Marx(カール・マルクス) y Friedrich Engels(フレデリック・エンゲルス), en Londres, en 1864(1864年に起源(最初) y que por primera vez na historia(歴史) amestaba a los trabayadores d'estremaos países(賞賛) Depués de la desaparición d'esta Primera Internacional en 1876(1876年の第一インター崩壊?以来), Friedrich Engels(エンゲルス) afaló la creación d'una Segunda Internacional(第二インターの創設), creada en París, en 1889(1889年、パリで発足された), qu'amestó a los partíos socialistes(社会党), socialdemócrates(社会民主党) y llaboristes. Col entamu de la Primera Guerra Mundial fráncese (第一次世界大戦とフランス)la Segunda Internacional(第二インター) ente los socialistes reformistes(社会主義的改革派) y los revolucionarios(革命家), al sofitar los primeros a los sos respectivos gobiernos nacionales(国家主義政府) al declarar la guerra(宣戦布告), y la total oposición de los segundos a la mesma. Los grupos socialistes revolucionarios celebraron(社会主義者団体による革命の祝賀) la Conferencia de Zimmerwald en setiembre de 1915(1915年9月のツィンマーヴァルト会議(トロツキーも出席)) y la Conferencia de Kienthal n'abril de 1916(1916年4月の会議(協議会), convirtiéndose estes organizaciones na base de la Tercera Internacional creada en marzo de 1919, en Petrográu, (1919年3月、ペトログラードにおいて組織は第三インターとなった)para romper definitivamente colos elementos reformistes, qu'a xuiciu de los socialistes revolucionarios, traicionare a la clase trabayadora y provocado la "bancarrota" de la Segunda Internacional. A partir de 1926 la Tercera Internacional tuvo dirixida por Stalin(1926年から、第三インターはスターリンが支配), que sentó les bases d'una nueva ideoloxía(思想(観念形態)イデオロギー), conocida como marxismu-leninismu(マルクスーレーニン主義) y basada na teoría del socialismu(社会主義) namás que nun país. Tres de la so esclusión(排除(除外)追放) del Partíu Comunista d〔共産党)e la Unión Soviética(ソ連邦), Leon Trotsky fundó en 1938 la Cuarta Internacional(1938年、レオン・トロツキーが第四インターを樹立). El Comintern disolvióse durante la Segunda Guerra Mundial(コミンテルンは第二次世界大戦中(1943年)解散した), y volvió a reconstituíse en 1947 cola creación del Cominform(1947年のコミンフォルム発足によって再構成(確立). Tres la muerte d'Stalin, que tuvo llugar en 1953(1953年、スターリンが死んだ), la XRSS rompió oficialmente col marxismu-leninismu en 1956(1956年の第20回党大会(フルシチョフの秘密演説=スターリン批判の開始)公式にマルクス・レーニン主義). Nos años sesenta la República Popular China de Mao Zedong(中華人民共和国の毛沢東) tomó'l relevu(重要) del marxismu-leninismu(マルクス・レーニン主義), y la historia (歴史)d'esta ideoloxía(思想(観念形態) confúndese(儒教(孔子) cola del maoismu(毛沢東主義(儒教とマルクス主義の結合). 国民党(蒋介石)とコミンテルンの関係→和中國國民黨的關係[编辑] 中国国民党在1926年和1927年两次申请加入共产国际都被拒绝,但共产国际决议通过承认国民党为准共产党。蔣介石列名共產國際中央執行委員會名譽常委中國人在共產國際中最高地位。在1926年2月13日,中國國民黨中央執行委員會全权代表胡漢民請求共產國際接納國民黨加入共產國際[4]。1926年2月17日,共產國際執行委員會第六次全會的聯共(布)代表團核心小組在會議中讨论議決「關於接納國民黨(按照共產國際章程第17條)作為同情黨加入共產國際的問題提交政治局討論」[5]。1926年2月18日,聯共(布)中央政治局會議中對國民黨加入共產國際問題进行讨论表决。最终會議決定:「鑒於廣州國民政府的國際環境和中國革命運動的未来發展前景,認為有必要提前同國民黨代表舉行的非正式會議上說服國民黨代表不要提出國民黨加入共產國際的問題」。 1926年2月25日,共產國際執行委员會主席團在給國民黨中央委員會的信,寫道:「國民黨作為同情黨正式加入共產國際自然不會遇到甚麼反對意見」共產國際執行委員會第六次擴大全會(1926年2月17日-3月15日),決議通过了吸收中國國民黨為共產國際的同情黨,並選舉蔣介石為共產國際執委主席團名譽委員。國民黨代表胡漢民也在2月下旬列席了第六次擴大全會。中華民國政府退守台灣後,蔣介石於蘇俄在中國一書中指出蘇聯解散共產國際是為了切斷與各國共產黨的正式、附屬關係,從而減低蘇聯的政治責任。但蘇聯仍對各國共產黨(包括中國共產黨)有很大影響力。












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