フランス語→1日前(2019年4月28日)Shinzo Abe et Justin Trudeau se félicitent du PTPGP(安部サン、ジャスティン・トルドー、L'Accord de Partenariat transpacifique global et progressis... 続きをみる
2024年11月のブログ記事
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8月15日に高市総務相と丸川五輪担当相が靖国を参拝――「追悼」も「反省」もない安倍首相 2016年8月29日11:18AM|カテゴリー:社会|admin 新党を立ち上げると宣言した桜井誠氏。政治活動のツールはSNSだ。(撮影/野中大樹) 8月15日の敗戦記念日。東京都千代田区にある靖国神社には、安... 続きをみる
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PS:「天皇陛下万歳!?」→ひとこと=「くだらん」。「有害無益」「百害あって一利なし」みんな「人類平等」。また「神格の座」からおりていただき「再人間宣言」。そして一般人として新たな人生を、そうしてる方も少なからずではないか=例、ドイツ(ホーエンツォレルン王朝)帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世は191... 続きをみる
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「学者」について学者たちに問う 本多勝一(『潮』1987年9月号~11月号) たとえば、ノトルニスとかダチョウとかいう鳥は飛ぶことができないから、従って「鳥は一般に飛ばない」と結論したり(注1)、ドイツにスリやカッパライなどが少ないことの原因を、ナチ政権下での「劣悪な遺伝子」所有者の虐殺と結びつけ... 続きをみる
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スターリンとリッベントロップの間の打ちとけた話し合いはまさにこんなものであった。リッベントロップはいう。イギリスはトルコの政治家を買収するため500万ポンド使った。スターリンが口をはさむ。いや、それ以上使ったことを保証する。話は反コミンテルン協定に移る。スターリンは憤然という。これを騒ぎ立てたのは... 続きをみる
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危機のさなかに、スターリンはリトヴィノフに命じてチェコに対し、フランスもまた義務を遂行するならばロシアはチェコ防衛のため戦う用意があると通告させた。ポーランドに対しては、チェコを侵略するならばロシアに対する敵対行為を犯すことになるだろうとの警告が発せられた。だが、フランスが信義を破って義務を果たさ... 続きをみる
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11 外交政策とコミンテルンII(1934-41年) ヒトラー政権初期におけるスターリンの慎重な沈黙―“集団保障”確保への努力(1934-8年)-スターリン、イーデン、ラヴァル、ベネシュと応待(1935念)-ロシア、国際連盟に加入、コミンテルン、人民戦線政策を宣言―世界革命―“悲喜劇的誤解”-スペ... 続きをみる
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スターリンの“アジア的”粉飾にはより深い動機があった。彼の抵抗にもかかわらず、ドイツがバルカンの支配者となり、もはやヨーロッパには、尺寸の土地といえども、ロシアが勢力を拡大し得る余地は残されていなかった。そして彼はこの事実から彼自身の結論を引き出したばかりであった。彼は逆境に堪え忍んでゆかねばなら... 続きをみる
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↑1924年1月、馬上から部隊を閲兵する黄埔軍官学校校長蔣介石。 ↑1945年8月29日から10月10日まで戦時首都重慶で行われた国共首脳会談(重慶談判Chongqing Negotiations)における蔣介石と毛沢東(延安(共産党の根拠地)から飛来)。宴席において蔣と毛は抗日戦争勝利を祝し、笑... 続きをみる
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10 外交政策とコミンテルン I (1923-33年) スターリン、外交政策の厳格な方針を提示せずー詩的サイドライト、アレクサンドル・ブロークの長誌“スキタイ人”-革命、帝国主義と絶縁す-ヴェルサイユ平和に反対するボリシェヴィズム-独ソ間のラパッロ条約(1922年)-1923年のドイツ共産主義の... 続きをみる
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岡村昭彦の人生 序文:(本多勝一『貧困なる精神K集』、86年・朝日新聞社) たとえば私の郷里の村は、戦後の町村合併までの人口は数千人だった。合併して人口がふえた現在も、広さに対する密度としては大差がないが、自動車の普及などによる生活圏の拡大によって、合併前よりもムラの独立性が薄れている。数千人とい... 続きをみる
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[2022/04/17]ひろゆき氏、ウクライナへ「平和の折り鶴」送る運動に疑問「良い事をした気分になるのは…」Hiroyuki questioned the movement to send "Peace paper cranes" to Ukraine "I feel like I've don... 続きをみる
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[2021/02/07]Universitaire autodidacte invincible auteur Hiroyuki Les "personnes avec de gros maux de tête" sont interdites ! Sous le thème de "l'auto... 続きをみる
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*August 12, 2021ーDaiGo「僕は個人的に思うので、そう言っただけなのでI personally think that I just said that、別に謝罪するべきことではないと思いますよso I don't think I should apologizeみんなも言うでしょ... 続きをみる
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Denny Tamaki (玉城 デニー, Tamaki Denī, born 13 October 1959) is a Japanese politician and the current Governor of Okinawa Prefecture since August 2018.Ta... 続きをみる
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[2022/04/30]①北野武監督、イタリアのファンに「次回作を持って必ず戻って来ます」と約束Il regista Takeshi Kitano promette ai fan italiani che tornerà sicuramente con il suo prossimo film .... 続きをみる
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未決囚だった期間のうち半年ほど、私は6~7名の窃盗犯たちと窮屈な監房で一緒に起居した。このとき私は、この世の中というのは、乗り越えるのが絶望的に難しい垣根、目に見えない垣根を間にした二つの<人権>から成っていることを実感した。私は彼らとは確実に別の<人種>だった。平穏で教育的な環境で成長できなかっ... 続きをみる
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*마르크스주의(문화어: 맑스주의, 독일어: Marxismus, 러시아어: Марксизм) 또는 마르크시즘(영어: Marxism) 혹은 엥겔스식 표현으로 과학적 사회주의는 사회 계급의 관계와 사회적 충돌에 초점을 둔 사회적 분석의 방법이자 세계관인데, 역사전개를 유물... 続きをみる
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日帝治下、解放空間で、彼らなりの信念とやり方で努力した結果、「スパイ」の烙印を捺されて監獄で老いていく彼らの姿こそは、悲惨な我が民族の自画像なのかもしれない。分断体制と反共イデオロギーは、明らかに、万国共通のスパイ概念を歪曲して「韓国的」スパイ概念を作り出した。われわれが経験してきた現代史の痛みに... 続きをみる
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国政監査が真っ盛りのときだった。「きょうの人権だより」は調子良く号を重ねており、国会議員たちは、国政監査の場で爆弾発表するための「事件」を血眼になって探していた。一部の野党議員たちが監査場に「きょうの人権だより」のファイルをもって現れて質疑をする姿を見て、記者たちは不思議がり、いくつかの政治機関か... 続きをみる
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花のようなミョンジ(明知)大新入生カン・ギョンデ(姜慶大)がデモ中にペッコル[白骨]団に殴り殺された事件は、途方もない衝撃だった。この事件につづいて、全民連における私直属の実務者であるキム・ギソルが焼身自殺し、そして、いわゆる「遺書代筆事件」が起こったことによって、私は鎮めようのない嵐のなかに投げ... 続きをみる
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서준식(徐俊植, 1948년 ~ )은 일본 출생의 대한민국 진보 인권운동가이자 사회주의자이다. 1971년 소위 유학생 형제 간첩단 사건으로 투옥되어 7년을 복역하고 사상과 양심의 자유를 지키기 위해 전향을 거부한 이유로, 10년을 더 복역하고 1988년에 출감하였다. ... 続きをみる
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最終的断絶は回避された。だが、国家をめぐる彼らの論争の思いがけぬ結末は、この後にやってきた。レーニンのブハーリン批判は二点にわたっていた。一つは、この後にやってきた。レーニンのブハーリン批判は二点にわたっていた。一つは、マルクスとエンゲルスの見解を、文脈に沿わない引用によって歪曲しているという点で... 続きをみる
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*帝国主義(ていこくしゅぎ、英: imperialism[1])またはインペリアリズムとは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して[2][1][3]、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し[1][3]、強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策である[2][... 続きをみる
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戦争はボリシェヴィズムの歴史を深部から転換させた。もちろん、最終的には戦争はツァーリ専制を崩壊させ、1917年10月のボリシェヴィキ党の勝利の基礎をおいた。もっと直接的な影響としては、戦争は、反戦の立場をとるボリシェヴィキを、社会民主諸政党のゆるやかな連合体―第二インターナショナルとして知られてい... 続きをみる
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ブハーリンの逮捕は、ロシア全土にわたる社会民主党の退潮の中の、ほんの一こまにすぎない。社会民主労働党の全党員数は、1907年にはおそらく10万人に達していたのだが、2年のうちに1万人以下へと減少していた。ロシアで活動しているボリシェヴィキの委員会は五つか六つくらいのものであり、モスクワ組織は190... 続きをみる
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スティーヴン・コーエン(Stephen Frand Cohen、1938年 - 2020年9月18日[1])は、アメリカの歴史学者。ロシア現代史専攻。ケンタッキー州生まれ。インディアナ大学で修士号、コロンビア大学で博士号取得。1968年から1998年までプリンストン大学で教鞭をとった後、ニューヨー... 続きをみる
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2015.09.09ーHitoshi Matsumoto s'interroge sur les manifestations contre la législation sur la sécurité : "La guerre vient de Chine. Cela ne sert à rie... 続きをみる
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Climate change includes both global warming driven by human-induced emissions of greenhouse gases and the resulting large-scale shifts in weather pat... 続きをみる
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トロツキーの個性や考え方の影響力は、その当時、ソビエトや社会主義諸党の範囲をこえた彼方にまで、感じとられていた。革命がすでに衰退期にはいっていた1906年に、ミリューコフは右派からの攻撃に対して次のような自己弁護をしている。「わが党[立憲民主党]が当時・・・トロツキズムの革命的幻想に抗議しなかった... 続きをみる