日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

朝鮮人BC級戦犯の記録 内海愛子=조선인 BC 급 전범의 기록/Casier judiciaire de la classe BC coréenne/Korean BC Class Criminal Records③

BC급 전범(BC級戦犯)은 연합국에 의해 선포된 국제 군사재판소 조례 및 극동 국제 군사재판 조례의 전쟁 범죄 유형B 항 ‘보통의 전쟁 범죄’ 또는 C항 ‘반인륜 범죄’에 해당하는 전쟁 범죄 또는 전쟁 범죄가 되는 죄목을 추궁 받은 개인의 총칭이다. 일본의 BC급 전범은 연합군 최고사령부(GHQ)에 의해 요코하마와 마닐라 등 세계 49곳의 군사 법정에서 심판을 받았다. 이후 감형된 사람도 포함하여 약 1,000명이 사형 판결을 받은 것으로 알려졌다. 또한 극동 국제 군사 재판(도쿄 재판)에서도 A항목의 소추 사유로 무죄가 되었지만, 마쓰이 이와네와 같이 B항목, C항목의 기소 이유로 유죄가 된 사람도 있었다.[1] 또한 일본에 대해서는 대부분 B항에만 적용되지 않았다.[2]
乙級戰犯指犯有「戰爭罪行」,一般指控包括「下令、准許或容許虐待戰俘或平民」或「故意或魯莽疏忽責任,未有阻止暴行」。部份甲級戰犯同時有被控以此「戰爭罪行」。
敗戦そして逮捕
―ジャワ俘虜収容所派遣第3分所は、4つの分遣所から構成されていた。李さんのいたハルク島は第3分遣所と呼ばれていた。アンボン島のリアン、セラム島のアマハイ、フロレス島のマウメレで、各々飛行場の建設にあたっていた俘虜の状況も、ハルク島とほとんど同じだった。飢えに苦しみ、病気にさいなまれ、炎天下の苛酷な労働に使われた俘虜たちは、 の歯がこぼれるように、ボロボロと、生者の仲間の間から消えていった。派遣第3分所に選び出され、スラバヤから送り出された俘虜は、いずれも強健な体を誇る者たちばかりだった。だが、アンボン島、ハルク島から、生きてジャワの地を踏んだ者は、全体の半数近くに減少していた。その生き残った者もまた、死との境を彷徨している。ヴァン・デル・ポストは、その姿を次のように描写している。
「帰還してきたときの彼らの姿は、さながら幽鬼か、旱に悩む家畜のように見えた。すり切れた軍服の上着から、肩甲骨や肋骨が透けて見えていた。ひじょうに弱りきっていたので、たいていの者は、乗せられてきた家畜輸送用トラックから助けおろして、担架で運ばねばならなかった。はなはだしい飢餓状態のため、気力が急速に衰えてゆき、五体には、あるかないかの生命のかすかな脈搏が残っているばかりだった。あまつさせ、全員が赤痢か悪性マラリヤにかかっており、あるものはその両方にさえかかっていたのだ。生き残ったのは、わずかに5分の1だけで、あとの者たちは死んでしまっていた。ヒックスリ=エリスは、日本人の将校たちや下士官たちや、彼らの手下の朝鮮人たちや、とりわけハラが、彼らに加えた恐るべき仕打ちについて話した。」(「影の獄にて」)。
―ハラが李義吉さんの上官バンブー・モリを指していることはすでに述べた通りである。「ハラとその手下の朝鮮人たち」が、俘虜にむごい仕打ちを加えたという。朝鮮人衛兵「カシアマ」が、1人の俘虜が海中に落ちたことから、監督不行届の見せしめとして、将校を全員整列させ、ロープの端で強打したことが、ブラックウッド大尉の宣誓口述書にのべられている。この「カシアマ」は、李義吉さんの日本名「カサヤマ」をさしていると思われる。こうしたことが、何度もあったのだろう。ブラックウッド大尉は、クリシマ大尉(倉島大尉のこと)、バンブー・モリ(森軍曹)、通訳のカシアマ、炊事場係のカノイカ(朝鮮人軍属金岡をさすと思われる)、および残りの朝鮮人衛兵を、こうした事態に責任ある者として告発している。李さんを除く3人は、敗戦後、戦犯裁判で死刑の宣告を受け、チャンギ刑務所で絞首刑となったのである。戦犯裁判では、顔のうれた者、名前を知られた者が、決定的に損をしたといわれている。ブラックウッド大尉の告発に、名ざしで登場した李義吉さんの場合、皮一枚残して首がつながったといってもよいだろう。

ー通訳、それも殴ることで恐れられた下士官の通訳など、名前と顔を覚えられ、下士官の分まで憎まれる最も損な役まわりだったのではないのか。「カシアマは、1日1回俘虜を殴らなければ、消化できない男だ」こんな告発状を書いた俘虜もいた。それでも首がつながったのは、自分が殴ったことを、率直に認め、改悛の情を示したからだと李さんは言う。小さな悪は認め、大きな悪は知りませんでした、で通した法廷戦術が成功したのかもしれないとも言う。いずれにしても、李さんは、たとえ、それが上官の命令であっても自分が殴ったことを認め、悪かったことを認めたのである。自分たちの力で、どうにか出来ることではなかったにしろ、自分の監督下にあった俘虜の3分の1は死亡した。死臭、腐臭のなかで仕事をし、命からがらジャワ島に辿りついたのである。そんな李さんにとって、食糧が多少、窮屈になっていたとはいえ、ハルク島に比べてジャワ島は天国のようだった。
ー李さんは、ハルク島から戻ると、バンドンの俘虜収容所に勤務を命じられた。天国と地獄、このあまりの落差のなかで、ハルク帰りの李さんは、荒れた。「もう、怖いものがなくなった」と言う。外出日には、日本人下士官とケンカ、夜な夜な脱柵して遊びに出る。将校たちが会食しようとしている時に、机の上にあがって、食いものを蹴っとばしたこともある。営倉に入れようとすると、銃をぶっぱなしたという。アンバラワで朝鮮人軍属が叛乱を起こしたことを聞いたのはこの頃である。箝口令が敷かれていたようだが、口コミで朝鮮人の間に広がっていった。日頃の日本人に対する反感が、この叛乱を心理的に支持させた(この事件の詳細は、拙著「赤道下の朝鮮人叛乱」を参照)。朝鮮人軍属たちの屈折した思いを知ってか知らずか、日本人は朝鮮人に対し、かなりはっきりした差別意識をもっていた。「朝鮮人はよく物を盗む」「かっぱらいをする」「殴る蹴る」「規律は悪い」「命令に対しビシッとしない」「国家を守ろうとの気概が少ない」「顔つきがピリッとしない」等々。もともと「何だ軍属のくせに」「徴用できたくせに」と思っていた日本人下士官たちは、蔑みの目をもって軍隊を見ていたという。日本の兵隊と同じ服は着ているものの階級章はつけていない。帯剣や鉄はオランダのものを支給していたので、その服装はちぐはぐだった。
ーこうした日本人の視線を朝鮮人が感じないはずはない。初めは軍属ということもあって我慢していた。「上官は朕の命令」だからである。それに2年が過ぎても帰してくれそうにもない。階級があがるわけでもない。今まで我慢してきた軍属たちの怒りが、あちこちで爆発した。外出の時などは日本人下士官と華々しくケンカをしたり、李さんのように公然と反抗したりする者が多くなった。アンバラワの叛乱は、こうした朝鮮人軍属たちの忿懣やるかたない気持を、祖国の独立へと向けて組織していった。「高麗独立青年党」のおこした事件の一つであった。民族独立のための抗日運動というはっきりした目的を持てない軍属たちも、日本への、具体的には自分たちの上官の日本人への反感をつのらせ、何かにつけてはつっかかっていた。李義吉さんの場合もそうだった。ハルク島で地獄を見てしまったことから、真面目に勤務する気になどなれなくなっていた。日本人に反抗する。忿懣のはけ口が俘虜に向けられることもあった。花の町バンドンは、日本人の冷ややかな視線と明らさまな差別さえなければ、天国のようなところであった。しかし、朝鮮人軍属にとって、バンドンは必ずしも「天国」ではなかった。こうした生活が半年も続いただろうか。李さんはバンドンで、8月15日を迎えた。
ー英語のできる李さんは、日本の敗戦を1年も前から予期していたので、8・15は何の感動もなく迎えたという。当然だと思っていたのである。俘虜たちが、隠しもっていた短波受信機は、日本の戦局がいかに不利かを伝えていた。生産力の劣る日本が、英米を敵にまわして勝てるはずもないことをある将校が、李さんに教えてくれたという。補給が途絶え、食うものすらないハルク島での生活、沈没船を引揚げての帰路、どれをとっても、その将校の話は説得力があった。だが、日本の敗戦を予想はしていたものの、李さんが何か、特別な活動をしたわけではない。8月15日、敗戦をごくあたりまえのこととして受け入れた。敗戦後、バンドンに残って、俘虜の名簿作成に従事していた李さんは、11月4日、新たに進駐してきた連合軍に名簿等一切の事務を引きついで、バンドンの「高麗人民会」に結集した。だが、4日目に、突然、逮捕され、そのままシンガポールに護送された。予想もしなかったことだった。人を殴ってはいても、殺したこともなければ、首をはねたこともない。まして、自分は朝鮮人だ。よもや日本の戦犯になるとは思わなかった。捕まることがわかっていれば、いくらでも逃げられる状況にあった。トラックもあり、ガソリンも十分だった。現に、危いといわれた人たちは逃亡していたのだが、そんなことを考えてもみなかった李義吉さんは、”のんびり”と名簿の整理をやり、それを引き渡して、労役に従事していたのである。逮捕は、突然やってきた。

조선인, 대만인 전범조선인 BC급 전범 문서를 참고하십시오.
연합국은 일본의 전쟁 범죄 중에서도 포로 학대를 특히 중시하고 있었다.(포츠담 선언 제10항) 일본군이 동남아시아 각지에 설치한 포로수용소의 감시원에 조선인, 대만인 군속으로 일한 것에 대해 연합국 각국이 조선인, 대만인을 ‘적국에 부역한 신민’으로 간주하고 일본인으로서 재판한 것이다. 상관의 명령에 따른 행위에 대해서도 책임을 면제받지 않는다는 것이 많은 조선인, 대만인의 전범을 만들어 낸 요인이 되었다. 버마 철도(태면철도 泰面鐵道) 건설의 예에서 볼 수 있듯이, 일본 정부가 〈제네바 조약〉을 지키겠다고 연합국 각국에 약속하면서 그에 따른 적절한 처우를 하지 않았기 때문에 협약에 반하는 명령, 처우, 실행 책임을 말단 군속에게도 물은 것이다.BC급 전범 중에는 당시 합병해 있던 조선의 조선인과 구 식민지였던 대만인도 있었다. 그 숫자는 조선인이 148명, 대만인은 173명이었다. 조선인 전범은 148명 중 군인은 3명이었다. 1명은 홍사익 중장(사형)이었으며, 두 사람은 지원병이었다. 이 밖에 통역병도 있었던 조선인 16명이 중화민국의 국민당 정부에 의해 심판을 받았고, 그 중 8명은 사형을 당했다. 3,016명의 한국인 포로감시원 중 129명이 유죄판결을 받았고, 이들 129명 전원이 포로수용소의 감시원으로 징용되어 타이, 자와섬, 머레이의 포로수용소에 배속된 군속이었다. 이들 중 았으며, 14명은 교수형에 처해졌다. 또한, 적국의 부녀자를 비롯한 민간인을 억류한 자바군 억류 장소의 감시에도 조선인 군속이 맡았기 때문에 네덜란드 법정에서도 전범이 되었다. 대만인 군속은 보르네오 포로수용소에 배속되었다. 호주 법정에서 많은 대만인이 전범으로 재판을 받고 그 중 7명이 사형, 84명이 유기금고형을 받았다. 조선인, 대만인의 전범은 일본인이 ‘내지 송환’이 될 때 함께 일본으로 송환되어 스가모 구치소에 수용되었다. 〈샌프란시스코 강화 조약〉에서 일본인 전범은 형집행을 지속하도록 했지만, 조선인 전범 등의 국적이 이미 일본이 아니었기 때문에 한국인과 대만인은 예외로 했다. 따라서 일본 정부에 석방을 요구했지만, 일본의 최고재판소(대법원)는 구금 당시 일본 국민이었기 때문에 형기를 마쳐야 한다며 요구를 받아들이지 않았다. 이후 가석방된 조선인 전범은 외국인으로 취급되어 아무런 생활 지원도 받지 못해 극심한 빈곤에 시달렸다. 가석방 상태라 고향으로 돌아갈 수도 없었고, 의지할 기반조차 없어서 온갖 차별에 시달리며 막노동으로 하루하루를 살았고, 생활고와 비관으로 자살한 이들도 있었다.[7] 한국인 BC급 전범 기소자들은 1955년 4월 동진회(同進會)를 결성하고 명예회복과 일본 정부에 사죄와 보상 입법을 요구하는 활동을 펼쳐왔으며, 60주년이 된 2015년 4월 1일 현재 생존자는 이학래(90세, 일본 동진회 회장) 씨등 5명에 지나지 않는다.

II 朝鮮人軍属と俘虜収容所
1 なぜ朝鮮人が監視要員になったのか
戦陣訓
「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」、戦後の民主主義教育のなかで育った私は、教育勅語も、軍人勅論も知らないが、なぜかこの文句だけは、心に残っていた。虜囚になることが、なぜ、辱めなのか理解できなかったからだ。しかし、この戦陣訓のために、多くの人が、あたら命を無駄にしたことに、何ともやりきれない気がしたのである。
「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思イ、イヨイヨ奮励シテソノ期待ニ答ウベシ、生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」"살아 포로의 굴욕을받지 않고 죽어서 죄 재난의 오명을 남길 아까워 져서"Esperantoエスペラント語→"Ne vivu kaj estu punita de malliberuloj, mortu kaj forlasu la stigmon de peko" Deutschドイツ語→"Lebe nicht und lass dich von Gefangenen bestrafen, sterbe und verlasse das Stigma der Sünde"
ーこれが「戦陣訓」(注)の「名ヲ惜シム」の項である。この訓令は、陸軍、海軍の軍人には鉄則として徹底的にたたきこまれていた。たとえ最後の1人となるとも決して捕虜にならないこと。万一、捕虜の恐れのある時は自決しろ、兵はそう教えられていた。”玉砕”は、こうした戦陣訓の現実的な姿であった。南方の島々では、置き去りにされた兵士たちが、自爆のため手榴弾を手渡され、また、病気で動けなくなった兵を薬殺することも行なわれた。捕虜になった後、生還した将校が自決させられる、下士官は、死ぬまで最前線で戦わせる、または、殺される場合もあった。
(注)戦陣훈 (선인 군)은戦陣 의 훈계 것 [1] . 일본에서는 무로마치 시대 와 전국 시대 에 많이 발표되고, 가훈 등 모두 읽힌 [1] . 또한 특히 1941 년 1 월 8 일 에 육군 대신 도조 히데키 가 시달 한 훈령 (陸訓1 호)을 가리킨다. 陸訓1 호도 군인으로서 취해야 할 행동 규범을 나타낸 문서로이 가운데의 "살아 포로 (포로)의 욕 (부끄러움)을받지 않고"라는 구절이 유명하며 옥쇄 과 자결 등 군인 · 민간인 사망의 원인이되었다 여부가 논의되고있다. 
Españolスペイン語→Las Instrucciones para el Campo de Batalla (Kyūjitai: 戰陣訓; Shinjitai: 戦陣訓 Senjinkun, pronunciación japonesa: [se̞nʑiŋkũ͍ɴ]) era un código militar de bolsillo entregado a los soldados del Ejército Imperial Japonés el 8 de enero de 1941 de parte del Ministro de Guerra Hideki Tojo.1​ Ya era usado para cuando estalló la Guerra del Pacífico.
ー捕虜になった兵を銃殺しておいて、遺骨の入った箱を荒縄でしばって、両親の前に放り出したことすらあったという。千田夏光の「あの戦争は終ったか」には、捕虜になったため、今日もなお軍人恩給の支給額、年金の額で差別され続けている事例が記録されている。私たちにとっては、軍国主義の亡霊のようにしか思われない「戦陣訓」は、今もなお生き続け、天皇のため戦ったものと捕虜になってしまった者とを厳然と区別している。捕虜ーそれは命をかけても拒まなければならない。軍人だけでなく小学生にすら、それは教えられた。この「戦陣訓」をたたきこんだ側の最高責任者東条英機(A級戦犯=1948年12月23日、東京巣鴨拘置所で絞首刑)は、敗戦後、自決に失敗し、自ら捕虜となって、生きて虜囚の辱しめを受けたが、訊問のなかで、捕虜について次のように述べている。
「俘虜にされるということに対する日本人の考えは、欧米におけるのと異なっています。日本においては、それは恥辱だと考えられています。日本の刑法では、未だ抵抗し得る内に俘虜になった者は誰でも刑事上の罪を犯したことになるのでありまして、それに対する最高刑は死刑であります。欧米においてはそうではありません。俘虜にされた者はその任務を遂行せぬ故を以て名誉になるのですが、日本では大変な違いです。」(「速記録」147号)
ー恥辱だと考えられていたのではなく、東条英機ら軍首脳部が、そうたたきこんだのではなかったのか。虜囚の辱しめを受けずとの考え方は、それ以前からあったとしても、それを鉄則として権力をもって上からたたきこんでいったことに、東条英機は責任がないとでもいうのだろうか。「戦陣訓」は1941(昭16)年1月、東条英機が陸軍大臣の時に<示達>されたのである。死んでも捕虜になるな、捕虜になるなど軍人の風上にもおけぬ奴、捕虜になるなら自決しろ、こんな考え方を軍隊のなかで徹底的にたたきこんでいった日本軍は、南方作戦で、大量の連合軍捕虜が出たことに当惑したようだ。その数はバターン・コレヒドール作戦で5万2000人、マレー作戦で9万7000余人、ジャワ作戦で9万3000余人、香港その他の地域で1万9000名、合計26万1000余名にものぼったという(42年5月17日「朝日新聞」)。
ー日本の軍隊では、捕虜というのは存在しないはずのものだ。それは必ず自決して、<名誉の戦死>となっていなければならないからだ。ところが、26万1000余名もの捕虜が生まれたのである。そればかりではなく、1941(昭16)年12月27日、交戦国であるアメリカは、俘虜の取扱に関する「ジュネーブ条約」を、日本人の俘虜と抑留者の両方に適用する意図があること、日本もアメリカ人俘虜と抑留者に同条約を適用することを希望する旨が伝えられた。翌42(昭17)年1月3日には、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドもまた、同じような意向を伝えてきた。これらの照会に対して、42年1月29日、東郷外務大臣(東郷茂徳・A級戦犯=20年の禁固刑。1950年7月23日、米陸軍第361病院(現同愛記念病院)にて動脈硬化性心疾患、及び急性胆嚢炎の併発により死去)は、陸軍省の意向を得て次のように回答した。
「日本帝国政府ハ俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年ノ国際条約ヲ批准セス、従ッテ何等同条約ノ拘束ヲ受ケザル次第ナルモ日本ノ権内ニアル「アメリカ」人タル俘虜ニ対シテハ、同条約ノ規則ヲ準用スヘシ」(「俘虜ニ関スル諸法規類集」。)
-1929年の条約を批准はしないが、準用するというのである。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにも同じ趣旨の回答がなされている。日本が「準用」を約束した1929年の条約とは、どのようなものだったのか。
【批准】(ひじゅん):条約に対する国家の最終的な確認、確定的な同意(の手続き)。
【準用】(じゅんよう):《名・ス他》適用対象として明文化されていないが、類似するものに対して、(法律などを)類推適用すること。
「博愛の心をもって取扱うべし」
-1929(昭和4)年7月27日、日本は「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」に署名した。この条約は97条から成っており、俘虜の取扱いに関して細部にわたって言及されている。まず、俘虜取扱いの基本精神は、「俘虜は常に博愛の心をもって取扱はれるべし、かつ暴行、侮辱および公衆の好奇心に対して特に保護されるべし、俘虜に対する報復手段は禁止す」(第2条)とあり、「人格および名誉を尊重されるべき権利を有す」(第3条)と述べられている。捕虜になるなら自決せよとの日本とは雲泥の差である。
ー移動の時、徒歩の場合1日20キロ、戦火に曝される地域に移送してはならない。収容所の設備は、衛生および保健について、出来る限り保護のある建物に宿泊されなければならない。宿泊所は、湿気を避け、保温と照明がなさなければならない。食糧は、量および質において、補充部隊のもとのと同一でなければならない。被服、下着および靴は捕獲国が支給する。衛生の点では、伝染病予防のため必要な一切の措置をとる義務をもつ。労働は、将校を除いた健康な俘虜を、使役することを認めているが、その場合も、何人といえども、肉体的に不適当な労働に使役してはならない。作戦行動に、直接関係ない労働のこと、不健康、危険な労働に使ってはならないことが決められている。罰則については、まず、一切の体刑、日光のあたらない場所での監禁、一切の残酷な罰を禁止している。日本軍で日常的に行なわれている殴打などは、この禁止されている体刑に含まれるだろう。俘虜が罰を受ける場所も、衛生上の要求に十分みあうような場所、毎日運動をし、または少なくとも2時間、屋外に出ることができるようにすること。
ー戦争開始後、ただちに、その領域内にある俘虜に関する官立情報局を設置することも定められている。こうした細い規則が97条まである。このどれ一つをとってみても、朝鮮人軍属が勤務していた収容所の状態とは大きく違っている。日本政府が、この条約に署名したことは、ジュネーブ条約の定めるところに従う意志があったことを示している。だが、日本軍はその「戦陣訓」の精神からいっても、捕虜は存在しないはずのものである。最後の一兵まで戦うか、自決するか、2つに1つの道しか、兵隊には残されていない。生きてオメオメと生き恥をさらすことは、まかりならんと教育されている。「ジュネーブ条約」のように、博愛の心をもって俘虜を取扱うこと、俘虜の人格を尊重し、名誉を重んじることは「戦陣訓」の精神と矛盾することになるだろう。署名はしたものの批准には至らなかった。
-1941年12月のアメリカの照会を皮切りに、連合国から、「ジュネーブ条約」に則った俘虜の取扱いを要請された時、日本は「ジュネーブ条約」の"準用”を回答している。批准はしないが、準用するとのこの回答によって、日本政府は、「ジュネーブ条約」に実質的に拘束されることになったのではないのか。しかし、日本側に、この条約の精神を遵守する気などまったくなかったことは、「危険な労働」「作戦行動」に俘虜を使っただけでなく、「公衆の好奇心」に俘虜をさらして、日本の威力を植民地民衆の前に顕示したことからもあきらかである。
 Korean and Taiwanese war criminals
Among the BC class war criminals were Koreans and Taiwanese from Korea / Taiwan who were under Japanese rule at the time. There were 148 Koreans and 173 Taiwanese.  The Allies had given particular importance to POW abuse among Japanese war crimes ( Potsdam Declaration No. 10), and Koreans and Taiwanese were observing the POW camps established by the Japanese military in Southeast Asia. That the Allied countries regarded the Koreans and Taiwanese as "subjects used by the enemy" and judged them as Japanese, and that they were not exempt from liability for acts based on the orders of their superiors. However, it became a factor that caused many Korean and Taiwanese war criminals.  As seen in the example of construction of the Tai-Burma railway , the Japanese government promised that the " Geneva Convention " would apply mutatis mutandis to the countries of the Allied Powers, but did not properly treat it based on the order. Responsibility for execution was also questioned by the military departments at the end (strictly speaking, “mutual application” has more room for execution side discretion than “compliance”, but such a claim was not acceptable).  Of the 148 Korean war criminals, three were military personnel. One was Lieutenant General Hong Si and two were volunteers. In addition, 16 Koreans who were interpreters were judged by the national government of the Republic of China , and 8 of them were sentenced to death . All the remaining 129 are military officers who were recruited as wardens at the POW camps and were assigned to the POW camps in Thailand , Java, and Murray .  Incidentally, due to the Korean military affiliation to monitor the Java military detention centers that detained civilians, including women and girls in the enemy country, they were war criminals in a Dutch court [9] .  The Taiwanese military camp was assigned to the Borneo POW camp. Many Taiwanese were sentenced to war crimes in Australian courts, seven of them sentenced to death and 84 imprisoned for a limited time.  Korean and Taiwanese war criminal inmates were repatriated to Japan when the Japanese inmates were "repatriated inland", and the execution of the sentence continued at Sugamo Prison .

思想的効果をねらって
-1942(昭17)年2月28日、陸軍次官木村兵太郎(大将・A級戦犯=1948年12月23日、巣鴨拘置所において絞首刑)あてに、井原潤次郎(中将)朝鮮軍参謀長から一通の電報が発信された。
일본 제국 조선군(朝鮮軍) 또는 조선 주둔 일본군(朝鮮 駐屯 日本軍)은 일제 강점기에 일본인이 조선 지역을 수비하기 위한 일환으로 주둔군이었다.朝鮮軍為大日本帝國陸軍之一軍,過去為管轄及駐紮在朝鮮之軍隊。Русскийロシア語→Корейская армия (яп. 朝鮮軍 Тё:сэн-гун) — группировка японских войск, размещённая в генерал-губернаторстве Тёсэн.
「半島人の英米崇敬観念を一掃して必勝の信念を確立せしむる為、すこぶる有効なにして総督府および軍共に熱望あるにつき、英米俘虜各1000名を朝鮮に収容せされたく、特に配慮をこう。追って収容所に充当すべき建物は京城(現ソウル)府の神学校2校、平壌府外人学校および神学校各1を充当し得べし、詳細は収容に関する中央の意向承りたる上具体的に申報すべき。」(「速記録」46号)
ーこの申し入れに対し、陸軍次官は、白人俘虜1000人を送ること、時期その他の詳細は後に知らせる。ただし、朝鮮軍が収容を予定している建物は、俘虜を優遇しすぎているのではないのか、別の場所を研究して知らせるよう返電している。3月23日、朝鮮軍司令官板垣征四郎(大将・A級戦犯=1948年12月23日、巣鴨拘置所において絞首刑)の名で、陸軍大臣東条英機あてに、「朝鮮俘虜収容計画」が報告されている。そこには、白人俘虜を朝鮮へ移送する目的が明確に述べられている。
「朝鮮軍俘虜収容計画
1、目的、米英人俘虜を鮮内に収容して朝鮮人に対し、帝国の実力を現実に認識せしむると共に、依然朝鮮人大部の内心抱懐せる欧米崇拝観念を払拭する為の思想宣伝工作の資に供せんとするに在り。
2、位置及収容人員 京城収容所。仁川収容所。臨時編成要領、第1収容所、位置京城府(元岩村製糸倉庫を増改築す)収容人員約500人 第2収容所、位置仁川府(厭舎)収容人員約500人 右収容の施設計画は別に提出す。
3、管理 朝鮮にある俘虜収容所は朝鮮軍司令官、之を管理す。収容の為の機関は別に定められる所に依る。
4、収容期間 俘虜到着より大東亜戦争完了迄とす。
5、実施要領 1、一の目的を達成する為め、俘虜(准士官以下を除)をして鮮内主要都市、特に人心不良地に於て各種作業に服せしむ、2、収容所の諸施設は一般の起居に差支へなき最小限の程度に設備す、3、給養は日本軍隊に準するも1部慣用食を支給することあり、4、俘虜の収容、取締及警戒に関しては万遺憾なきを期す。
前記収容所諸施設整備前、俘虜到着したる場合には一時釜山厭舎に収容す。」(「速記録」146号)
ー俘虜を思想宣伝の材料に使うというのである。このこと自体、すでに「ジュネーブ条約」の精神に違反することだが、当時の日本軍はそんなことなど、まったく意に介していない。朝鮮のなかでも反日的な地域に白人の俘虜を投入し、日本の威力を示そうというわけである。そのため収容所の施設も起居に差しつかえない最小限のものにするよう申し添えられている。俘虜を利用しようとしたのは、朝鮮軍だけではなかった。台湾軍参謀長樋口敬七郎(中将=戦後、戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、1947年6月に不起訴となり釈放された。71年まで存命)もまた、4月2日俘虜情報局長に、次のような電報を送っている。
「主として台湾に於ける農業生産上の労働力とし、一面本島人の訓育指揮上の資料として利用致した度に付、英米人俘虜約2,3千を取扱へず希望す。台湾総督府も同意見なり。」(「速記録」148号)
ー農業生産に俘虜を利用しようとの台湾軍参謀長の希望は、4月7日、さらに土木建築、鉱山労働者としても使用したいと拡大し、人員もあわせ7000人を台湾に移送してくれるよう電報を送っている。白人の俘虜を使って、朝鮮人や台湾人の抱いている欧米崇拝の観念を除去し、植民地下の人々の皇国臣民化に一層役立てようとの植民地統治者の意図を、これらの電文からはっきり読みとることができる。朝鮮軍、台湾軍の要請を受けて、陸軍省は、5月5日俘虜処理要領を明らかにし、台湾軍参謀長に、依命通牒している。
「俘虜処理要領 方針 
1、白人俘虜ハ之ヲ我生産拡充並ニ軍事上ノ労務ニ利用スル如ク逐次朝鮮、台湾、満州、支那ニ収容シ当分ノ間其ノ目途立タサルモノハ現地ニ於テ速ニ俘虜収容所ヲ開設シ之ニ収容ス
2、白人以外ノ俘虜ニシテ抑留ノ要ナキ者ハ速ニ宣誓解放シタル後成ルへク現地ニ於テ之ヲ活用ス要領
3、先ツ本年8月末迄ニ朝鮮台湾等ニ在ス白人俘虜ノ1部ヲ収容ス之カ人員ハ別ニ定ム台湾ニ収容スル俘虜ニハ現地ニ於テ必要トスル以外ノ優秀技術者及上級将校(大佐以下)ヲ含マシム
4、残余ハ速ニ現地二収容所ヲ編成開設シ之ニ収容ス
5、俘虜収容所編成ニ方リ之カ警戒取締ノ為朝鮮人及台湾人ヲ以テ編成スル特種部隊ノ充当ヲ予定ス又俘虜収容所ハ各軍毎エ一括編成シ之ヲ各軍ニ於テ適宣分割シ得ル如ク考慮ス」(「俘虜ニ関スル諸法規類集」)
ー軍事上の労務に俘虜を利用しようとの陸軍省の意図は、「ジュネーブ条約」に抵触しないのだろうか。この「要領」にも、はっきり示されているように、日本にとって意味をもつのは白人であることが条件である。色の黄色や黒い者は、逃亡しないように宣誓させて、なるべく現地で使う。日本や朝鮮、台湾に移送するのは、白人でなくてはならないことが明記されている。白人でなくては、思想的効果があがらないというのが理由である。また、収容所の開設にあたり、その警戒取締りに朝鮮人と台湾人をあてる方針が打ち出されている。これも、さきの思想的効果を狙った、朝鮮軍と台湾軍の意向にそった陸軍省の方針と考えてよいだろう。シンガポールで捕虜となった白人を、5月から8月の間に、台湾へ約2400名、朝鮮へ約1100名を移送するよう陸軍次官木村兵太郎が、南方軍総司令官へ命じたのは、5月16日である。 
”歓喜する群集”
ー8月、朝鮮に約1000名の白人が到着した。この白人俘虜の与えた影響を、朝鮮軍参謀長が、詳細に報告している。以下は「速記録」146号に収録されたその報告である。
「「英人俘虜収容に伴ふ一般民衆の反響」提出の件 昭和17年10月13日 朝鮮軍参謀長 井原潤次郎 
陸軍次官木村兵太郎殿 首題の件別紙の通提出す 提出先 参謀本部 陸軍省(各2部)
英人俘虜収容ニ伴ふ一般民衆の反響
1、概観 馬来半島に於ける俘虜998名の到着は、一般民衆特に朝鮮人に及せる影響、極めて大にして、俘虜輸送の道中に於ける釜山、京城、仁川地方の観衆人員も、鮮人約12万、向地人約5万7千名の多数を算したり。俘虜を通じ、目前に見る彼等の醜悪と 然たる態度を嘲笑し、斯かる国家観念に乏しき軍隊が、皇軍に敗るは当然なりと、皇軍戦勝の事実を再確認し、米英崇拝思想を一掃させるべからずと洩らす者、或は、皇国臣民たるの幸福感と大東亜戦争完遂の決意を洩す者多く、特に、朝鮮人の監視員を通して、直接、大東亜戦争に参画しつつあることを、明確に認識するに至りたるは、特記すへく、一般に米英崇拝思想の一掃と、時局認識の透徹を期する上に於て、多大の効果を収めたるか如く、斯の主なる言動左の如くにして、将来俘虜の労役其の他を通して行はれる宣伝効果の、逐次渗透するに従ひ、其の成果益々大なる思はしめ、朝鮮統治に 益する処、極めて大なるものと認めらる。 註 当分の間中央部の方針に従ひ俘虜に関する新聞発表等は行はす 
2、主なる言動 
1、鮮人側 
A,半島青年が、皇軍の一員として俘虜の監視をしているのを見たとき、涙が出る程嬉しかった。之を知らない人々に「見ろ、半島の青年が英国人俘虜を監視しているではないか」と、大声を挙げて知らしてやりたい衝動に駆られた。
B,基督教関係者は、英米人より指導を受けた関係上、排外思想が抜け切らなかったが、俘虜を見た時日本人の誇りと日本基督教の確立せねばならぬと ふ強い示唆を受けた。
C、戦争には水を吞んでも敗けてはならぬ、俘虜を見て日本人の有難さと誇りとを自覚した。
D,我等を下等人として馬鹿にしていた英米人を、俘虜として見るのは夢の様だ。半島人も日本人としての誇りを感じ之で気持も一変した。
E,口笛なんか吹いて平気でいるのを見ても、国家観念に乏しい事が分る。全く、だらしがないものだ。
F、あの力のないひょろひょろした様子を見れば、日本軍に敗れるのは無理もない。
G、俘虜を目前に見て、戦争には必ず勝たねばならぬと感じた。彼等を嘲る前に我々はもっと頑張らねばならぬ。
H,今迄、新聞や映画で皇軍の戦果を見聞きしながら、多少の疑惑を抱いたが、俘虜を見て、報道の嘘でないことが解った。
I,日本人たる幸福を痛感せしむる為、朝鮮人全部に俘虜を見せてやりたい。
J、奴等の為に戦争が長びくのだから、死ぬ程働かせてやれ。
K,俘虜が憐れな有様に較べて、我々が呑気に暮して行けるのも、全く兵隊さんのお陰だ。
2、内地人側
A、見世物になり乍ら、平気で歩いている彼等の心情は憐れなものだ。恥を知らない国民程惨めなものはない。
B,俘虜の醜態を見ると日本国民たるの有難さと戦争には必ず勝たねばならぬということが痛感せられ、物資不足位に、不平を云ふ事は出来ぬ。
C、彼等の態度には矢張り驕慢な所が窺われる。我らは戦勝国民として毅然たる態度を以て彼等に対せねばならぬ。
D、朝鮮人の1部には帝国の実力と戦果に疑念を抱くものもあったが、目前に敗惨の俘虜を見ては信ぜざるを得ないであろう。
E、戦争には決して敗けてはならない。何処迄も勝抜かなければならぬ最後迄頑張るぞ。
3、中国人
A、日本人の偉大なる実力を現実に見て一層信頼の念を深めた。自分達は日本の御蔭で安居楽業することが出来、感謝に堪へない。
B,見窄らしい俘虜の姿こそ、没落しつつある英国の姿だ。中国人は日本を信頼し一層新東亜の建設に努力したい。
4、仏国人
A,俘虜の来鮮は同じ西洋人のこととて恥ずかしいことだ。日本の実力は驚くの外はない。
B、俘虜中の英本国兵がいれば恥かしいだろう、気の毒なことだ。
5、独逸人 
A、英米の非人道振りには、吾々も非人道を以て報ひていた。うんと虐待して貰いたい。
6、白系露人
A、俘虜は口笛を吹いて呑気なものだ。不名誉とは思わぬらしい。服装も区々で貧弱だ。之だがら戦争に負ける。
3、俘虜の言動
俘虜は何れも諦観しあるものの如く、一般に従順にして、規則を守り、日本軍の公正なる取扱に感謝し、或は、皇軍の優秀なるを讃美しありて、到着直後に行へる宣誓は、全員之を実施し得たるも、其の反面、尚、驕慢なる態度を察知せられ、我国を劣等視して、最後の勝利は、我等英国にありと公言する者、或は、俘虜たるは祖国に対する国民の名誉なりと虚勢を張る者等ありて、何れも、英国は米国の支援に依りて、最後の勝利を得ると為し、米国の物質力を妄信し、未だ皇軍大捷の事実を知らず、只管祖国の勝利に絶大の期待を掛けある状況なり。」(「速記録」146号)
ー朝鮮人の反応が、ここに列挙されたものばかりでないことはもちろんだが、朝鮮軍が白人俘虜の移送によって何を意図したのか、この反応の列挙のなかにも読みとることが出来る。「大東亜戦争」へ朝鮮人を心情的に動員しようとの軍の意図は、この報告に依る限り、成功を収めたということになる。皇国臣民の誓いを言わせ、一視同人のイデオロギーをたたきこんだ上、敗戦の将のヨレヨレの姿を見せて皇軍の威力を宣伝する。映画や新聞での戦果に疑いを抱いていた朝鮮人が、俘虜の姿を見て、戦果の報道が嘘でないことがわかったと反応したとの場合は、まさに朝鮮軍の意図が的中したことを物語るものである。
ー朝鮮と台湾に白人の俘虜を移送して、思想的効果を狙った陸軍省は、同時にこれらの俘虜の監視を、朝鮮人、台湾人の手に委ねることによる効果も計算に入れていたようだ。5月5日の「俘虜処理要領」では、朝鮮人、台湾人をもって特殊部隊を編成する計画があることが明らかにされている。この計画に基づいて、朝鮮と台湾でそれぞれ俘虜収容所の監視要員の募集が開始されたのは5月15日。1カ月の間に威鏡北道、平安南北道の4道を除く朝鮮全土から青年3000人が集められた。ある者は、半ば強制的に、またある者は給与50円の魅力に引かれて、すでに始まっていた日本への強制連行を避けるために応募した者もいた。その動機は3000人がそれぞれ1人ずつ違ってはいたが、朝鮮軍そして陸軍省の意図は、不足する力を補填しようとしただけでなく、植民地の青年を白人俘虜の監視につかせることによって、内鮮一体、一視同仁の実をあげることにあった。8月、釜山、「京城」、仁川で白人俘虜の監視にあたった「半島青年」は、この3000人の青年の仲間であった。
2 俘虜収容所の機構と実態
情報局の設置
ー俘虜情報局の設置が発令されたのは1941(昭16)念12月27日、「ジュネーブ条約」の遵守について、アメリカ、イギリスなどからの問い合わせを受けた後である。この俘虜情報局は、陸軍大臣の管理の下におかれ、情報局の長官は、陸軍大臣の指揮監督をうけて局務を掌握することが定められている。情報局であるので、具体的な仕事は、俘虜に関する情報の収集と記録が中心となっている。俘虜となった者の留置、移動、宣誓解放、交換、入院および死亡に関する状況を調査し、1人1人の俘虜の銘々票と呼ばれるカードをつくり、その記述を訂正すること。俘虜に関する状況の通信に関する事項の取扱い。宣誓解放され、交換され、逃亡し、または病院、 帯所もしくは俘虜収容所において、死亡した俘虜の遺留品および遺言書の保管ならびに遺族その他の関係者に対し、これを送ること。俘虜に対する寄贈および俘虜が発送する金銭や物品の取扱いに関すること。このほか、敵国で俘虜となった者に関して、その状況を調査し、俘虜となった者の日本国内に住む家族その他関係者を助けることなども、この情報局の事務のなかに含まれている。
ー日本が批准した「ハーグ条約」(陸戦の法規慣例に関する条約 1911(明44)年批准)と日本が準用を約した「ジュネーブ条約」は、戦争開始後、ただちに俘虜に関する情報局を設置するよう定めていた。1941(昭16)年12月8日、米・英・仏など連合国に宣戦布告した日本は、条約にのっとって、情報局を設置したのである。陸軍省兵務課長であった田中隆吉(少将・戦後の46年、東京裁判において証言。49年、短刀自殺を図ったが。72年まで存命)の証言によれば、これは日本における特殊な存在として、陸軍大臣の管轄下にあって、しかも陸軍省の外局となっている臨時の官衛(官庁)であったという。情報局は設置したものの、これはあくまで「ハーグ条約」と「ジュネーブ条約」に基づく情報の交換や情報の収集のための組織であり、具体的に えた捕虜の処遇は担当していなかった。占領地の捕虜は、臨時に野戦俘虜収容所に収容されており、捕虜の扱いが、具体的に検討されるのは「南方作戦」が一段落した1942(昭17)年3月まで、待たなければならなかった。
俘虜管理部の設置
―陸軍省の俘虜管理部が設置されたのは、1942(昭17)年3月31日、「俘虜取扱に関する規定」による。さきに触れたように、予想を上まわる捕虜の数のため、陸軍省軍務局の内に俘虜取扱の事務をとりまとめる部署の設置が必要となり、俘虜管理部が置かれたのである。情報局とは、まったく別に設置されたこの部は、俘虜および戦地における抑留者の取扱に関する一切の事務を行なうことを目的としていた。情報収集は情報局で、その取扱いは管理部というように、その掌握する任務は分割されていたが、共に、陸軍大臣の管理下におかれ、その長は情報局長の上村中将(上村幹男・1945年3月、第4軍司令官となり、ソ連軍と交戦。ハルピンで敗戦を迎え捕虜となった。1946年3月23日、シベリア抑留中にハバロフスクの収容所で自決)が兼任していた。陸軍省における任務の分掌は、このように決められ、機構の整備は行なわれていったが、1942年に入っても捕虜は占領地に設けられた収容所に収容されたまま、具体的な処遇の方針も出されない状態であった。「南方作戦」の遂行に専念していた軍は、捕虜の処理どころではなかったというのが実情だったのではないだろうか。俘虜の取り扱いが、陸軍内の各部局の局長会同で、はじめて論議されたのは、42年4月26日か28日であったという。さきの田中隆吉の証言(「速記録」144号)によれば、この日、次の2点を上村情報局長の申し出によって、東条英機陸軍大臣が裁決した。
第1点は、当時の国内情勢に鑑みて、労働力の不足を補うために、また当時の働かざるもの食うべからずという日本国内の状況に際して、捕虜の全部を強制労働に服させること。なお、この決定に対して、上村情報局長は、准士官以上を労働に服さすことは、「ジュネーブ条約」に違反していることが、申しのべられたが、日本は「ジュネーブ条約」を批准していないため、その精神は尊重するが、国内情勢上、労働に服させる旨、大臣より採決が与えられた。
第2は、捕虜の収容所を南方各地だけでなく、日本国内、台湾、朝鮮、「満州」、「支那」などに設けて、多年、白色人種には、絶対かなわないと諦めていた東亜各種の民族に、日本に対する信頼感を起こさせるという意味で、その俘虜収容所を設ける場所がきめられた。

ー将校には、自ら希望するほかは、労働をさせてはならないというのが、条約の規定であった。しかし、労働をしない俘虜を大量にかかえこんでおく余裕は、当時の日本にはすでになかったのだろうか、東条英機陸軍大臣は、この会同ばかりでなく、5月30日にも俘虜を活用することを強調している。将校は労働をさせてはならないことになっていたが、自ら希望するように強要したのである。労働を希望する旨、書類にサインするまで食事の量を減らしたり、屋内に閉じこめたりしたという。陸軍大臣のこうした強い要請に基づき、俘虜管理部の上村中将が、関係部隊へ次の通牒を出したのは6月3日である。
「俘虜タル将校及准士官、労務ニ関シテハ俘虜労役規則(明37・9・10 陸速139)第1条エ禁セラレアル処ナルモ1人ト雖モ無為徒食ヲ許サセル我国現下ノ実状ト俘虜ノ健康保持等トニ鑑ミ之等ニ対シテモ其ノ身分、職能、体力等ニ応シ自発的ニ労務ニ就カシメ度キ中央ノ方針ナルモ付可然指導相成度」(「俘虜ニ関スル諸法規類集」)

―将校といえども俘虜を労働力として活用するとの陸軍のこの方針のもとに、泰緬鉄道の建設、南方各地の飛行場建設に俘虜がかり出されたのである。朝鮮人軍属が、これら俘虜の監視に使われたことは、第I章の軍属たちの記録で述べた通りである。第2の白人俘虜を、日本の威信を高めるために利用しようとの決定は、すでに朝鮮軍参謀長、台湾軍参謀長から出されていた要請であった。この局長会同の直後、5月5日に「俘虜処理要領」が出され、処遇の方針が明らかにされたことも、既述の通りである。「要領」では、俘虜の監視を朝鮮人、台湾人で行なうことが予定されていると明記されているが、局長会同で、この点についてどのような議論が行なわれたのかは明らかではない。
ーだが、朝鮮で監視要員の募集が始まったのは、5月15日、「要領」が出てから10日目である。「要領」とともに、朝鮮と台湾での監視要員募集の件につき、朝鮮軍、台湾軍へ何らかの命令が伝達されたと考えられる。「陸亜普令」2号だったと記憶している朝鮮人軍属もいるが、その全文を未だ手に入れることが出来ない。4月下旬の局長会同で、俘虜処遇の方針が決定し、「俘虜処理要領」が発表された。日本国内ばかりでなく、「朝鮮、台湾、「満州」に設置される俘虜収容所、日本軍が新たに占領したマレー半島、ボルネオ、シンガポール、ジャワ、スマトラ等の南方につくられる収容所は、この「要領」のもとに運営されたことになる。
収容所の設置
監視要員として集められた朝鮮人青年3000人が、釜山の野口部隊で血を吐くような激しい教育と訓練を受けている間に、収容所の機構も着々と整えられていた。6月25日、朝鮮、「満州」、台湾、日本国内に設けられる収容所長が集められて、東条陸軍大臣の訓示を受けた。7月7日には、朝鮮人、台湾人が勤務することになるタイ、マレー、フィリピン、ジャワ、ボルネオの俘虜収容所所長が陸軍省に集められて、東条大臣の訓示を受けている。

「新任俘虜収容所長に与ふる陸軍大臣訓示(昭和17年7月7日於陸軍省)諸官比の度任を俘虜収容所長に受け近く夫々現地に赴かんとするは予の最も欣快とする所なり。抑々我国は俘虜に対する観念上其の取扱に於ても欧米各国と自ら相異なるものあり諸官は俘虜の処理に方りては固より諸規に適由し之か適正を期し厳重に之を取締り且1日とも無為徒労食せしむることなく其の労力、特技を我か生産拡充に活用する等総力を挙げて大東亜戦争遂行に資せん事を努むべし尚比の際諸官は任地の特性に鑑み特に俘虜の処置を通して現地民衆に対し大和民族の優秀性を体得せしむると共に皇軍と相携へて大東亜共栄圏建設に努力し得るは真に無上の光栄なる所以を自覚せしむべし。諸官宜しく敍上の趣旨に鑑み責務の重大なるを自覚し部下の監督を厳正に粉骨砕身以て其の任を完うせんことを期すべし  昭和17年7月7日 陸軍大臣 東条英機」(「速記録」146号)
―俘虜に対する観念が違っていることに言及しながらも、1日といえども無為徒食をさせないことが強調されている。そして俘虜の処遇を通して、それぞれの地域の民衆に日本人の優秀なことを教え、「大東亜共栄圏」の建設に努力することが、無上の光栄であることを自覚させよという。「ジュネーブ条約」との関係で収容所長がいかなる点に留意するのか、その細い点には触れないとしても、その精神を俘虜の処遇のなかにどう反映させていくのか、東条の訓示にはそれすらまったく言及されていない。厳正に俘虜を取締ることが強調されている。東条陸軍大臣の訓示(代読)のあと、俘虜処理要領、俘虜に関する国際諸法規、俘虜の一般状況など、俘虜収容所の管理運営に必要な事項が説明され、必要書類の配布が行なわれた。集合教育の中心は、日本の俘虜取扱いの法規を周知徹底させることに重点がおかれている。ここで、収容所長ははじめて、「ジュネーブ条約」について説明を受けているが、「戦陣訓」の精神が浸透していた収容所長たちにどれだけ理解できたのか、疑問だ。
ー現にジャワ俘虜収容所長に任命された斉藤正鋭陸軍少将は次のように述べている。
「1942年(昭17)年6月私が満州に居ります時、ジャバへの任命を電報で受けました。当時私は牡丹江に居りました。其の電報には私の任命と同時に東京に於ける会議に出席すべき命令もありました此の会議は東京の陸軍省で1942(昭17)年7月7、8日の2日ありました。」この会議において彼は「戦場から出て来たばかりで捕虜に関する国際規約は何も知りませんでしたから、質問をしたことは憶ひ出せません」という。(「速記録」137号)

―収容所長が、国際規約をまったく知らなかったのだ。配布書類のなかに条約文全文が載っていたとしても、それが重視されることはほとんどなかったのではないのか。俘虜収容所長は、当初から「戦陣訓」と「ジュネーブ条約」の間をぬって生れた。日本の軍隊にとって歓迎されざる組織だったともいえるだろう。この“継子”的な存在の俘虜収容所、実戦部隊から、ややもすれば軽視されたことは、たとえ人間であれ“不要なもの、邪魔なものは処分しろ”との考えが支配的だった。当時の日本の軍隊で、俘虜収容所軽視は、当然ありうることだった。日本軍にとって捕虜は本来、処分すべきものであったのだ。だが、国際条約の手前、それも出来ないから収容所をつくってそこに入れておこう。しかし、無駄メシを食わせるわけにはいかない、こき使え、というのが本音だったのではないのか。栄養失調で、俘虜が次々と死んでいくのを目にして、可哀そうだと思う一方、1人でも多くの俘虜が死んでくれたらよいと思った、とある日本人下士官が語っていた。この二律背反の感情こそ、当時、俘虜収容所に勤務した日本人将校や下士官に共通した心境ではなかったのか。
ー鬼畜米英が叫ばれ、生きて虜囚の辱しめを受けずが、たたきこまれたとはいえ、収容所の下士官たちは、毎日俘虜と接して暮す。そこに、人間的な感情がかよいあうことがあっても不思議ではないだろう。時には、収容所が俘虜の側に立って、苛酷な作業から彼らを保護しようとしたこともあった。タイ俘虜収容所第2分所長だった柳田正一中佐の手記によれば、収容所と鉄道隊とは折りあいが悪かった。それは収容所創立の時からだった。収容所が出来る前は、陸上勤務隊が3000人の俘虜を管理していたが、「ジュネーブ条約」など少しも知らなかった中尉の下で、俘虜は自由勝手に使うことが出来た。収容所が出来てからは、これが出来なくなり、やっかいな機関が出来たと思ったらしい。収容所長だった佐々少将はもちろん収容所職員は、鉄道連隊から冷遇されて不愉快でならなかったと書いている。
ー鉄道隊参謀長として泰緬鉄道の建設にあたった広池俊雄中佐は、俘虜収容所の存在をはじめて耳にしたと書いている。鉄道隊と収容所との間には、俘虜の使役をめぐって、はじめからいざこざが絶えなかったのである。タイ俘虜収容所は、1942(昭17)年8月15日、バンコクのタイランドホテルで編成を行っている。本所長には佐々誠少将、高級所員に柳田正一中佐ら4名の将校が配属された。編成終了後、将校一同の休憩茶話会において、某高級参謀は、泰緬鉄道の建設が終れば、「俘虜は全部倒れてもかまわん」と言ったという。収容所の職員であった柳田中佐は、この発言に「あっけなく感じました」と書いている。何のための収容所の創設なのか、当初からその設立の趣旨は理解されていなかったともいえるだろう。
ー李さんたち朝鮮人軍属800名がバンコクに到着したのは9月中旬である。すでに編成が終了していた収容所の各分所に130名ずつの軍属が配属された。記録によれば、ここで朝鮮人軍属たちに、初年兵教育の補充が行なわれ、俘虜取扱いに関する教育が行われたというが、李鶴来さんの記憶には残っていない。李さんたちが、各分所に配属されて、俘虜監視業務についたのは10月1日からである。この時、すでに俘虜の多くは病気だったという。柳田中佐の手記によれば、1800名のうち約1000名は病人で、健康な者は800人にすぎなかった。着るものもすでにボロボロになりかけた服が1着のみで、洗濯の時は、裸になって行なわざるをえなかった。また、靴もはなはだしく不良で、キャンプのなかでは、ほとんどの者が裸足だったと報告されている。
ー引き継ぎの時の状態がこんなだったのである。初期が始まり、建設作業が本格化すればどのような事態が起こりうるのか、かなり予想できただろう。だが、予想される事態に対して、食糧や医薬品の補給の体制も整わないうちに、俘虜の管理が収容所の手に移り、李さんたちの管理下に組みこまれることになったのである。マレー俘虜収容所はシンガポールで、ジャワ俘虜収容所はジャカルタで、8月15日編成を完了している。朝鮮人軍属の到着をまって、各収容所とも業務を開始したのである。
3 志願か徴用か
紛失した書類
人はそれと気づかず、人生を決定する大きな選択をすることがある。戦犯となった朝鮮人監視要員129名にとって、俘虜収容所の監視要員の募集に応じたことは、その大きな選択であった。3000人の青年が、募集に応じた動機はさまざまであった。タイ俘虜収容所に配属になった李鶴来さんの場合、一通の現金書留の紛失が、人生を変える大きな契機となった。軍属の募集が始まった1942(昭17)年5月中旬、郵便局をやめたばかりの李さんは職もなくブラブラしていた。1年間の郵便局の勤務で、ようやく見い出した人生に対する設計が、現金書留の紛失事件で御破算になったばかりの頃である。そんな時、友人から、監視要員募集の話を聞いた。

ー-1942(昭17)年5月といえば、朝鮮に徴兵制が実施されることが決った時である。このままブラブラしていれば兵隊にとられるか、炭鉱にとられる。その頃は炭鉱の募集もちょこちょこあった。面事務所(朝鮮は行政上、道、府、島、 邑、面にわけられていた(이 문서는 일제 강점기의 행정 구역에 대해서 다룬다. 朝鮮日治時期的行政區劃,將朝鮮半島以十三道制區分,共有道 - 府・郡・島 - 邑・面 - 洞・里等行政階層)。面事務所は村役場のようなところ)から、どこどこの炭鉱から募集があるから行くようにいわれる。面長の命令だからことわるわけにいかない。それでも李さんは一度、逃げてしまった。かわりに隣りの青年が炭鉱へひっぱられていった。誰でもいい、とにかく誰かが行かなければならない時だったのである。
―このままいけば、兵隊にひっぱられるか炭鉱へ連れていかれる。どちらにしても李さんには嫌な仕事だった。だが、李さんの年齢の若者が、家で農業の手伝いをしながら暮していける時代ではなくなっていた。いずれ戦争にひっぱられる、そんななかで、俘虜収容所監視要員の募集は、銃をもたない、戦場に出ない、軍隊にとられない、しかも2年ということで、当時の青年たちにとっては、かなり魅力あるものだった。郵便局の勤務が順調にいっていれば、李さんの人生も今と大きく違っていただろう。郵便学校へ通い、モールス信号を覚えて同じ軍属にとられるにしろ通信業務に携わっていただろう。そうすれば、戦犯などになることもなかった。
―李さんにとって、紛失の責任をとらされた現金書留は、北海道の炭鉱へ出かけている人からの送金だった。わずか1年足らずの郵便局勤務、しかも特殊郵便と呼ばれる現金書留を扱うようになってから何ヶ月もたたない間に、北海道から送られてくる現金書留をたびたび扱ったことがある。はっきりした金額は記憶にないが、何十円という金で、当時としてはかなりの大金である。宝城郡の郵便局だったが、そうした大金の送金が、そうしばしばあるわけではないので、北海道からの送金は目立ったのである。炭鉱への出稼ぎが金になることは、現金書留を扱っていたからわかっていたが、自分では行きたいと思わなかった。小学校を卒業したプライドがあった。それに、もっと勉強したかった。だが、山村の自小作であった李さんの家の事情では、子供を中学校へやることはむずかしかった。そこで、勉強できるような仕事を探そうと考えたのである。
ー初めは麗水にある造船所で奉公した。だが、あの時の麗水の港の不潔さといったらなかった。人が通ると蝿がブーンと一斉に舞いあがる。魚の腐った臭いがあたり一面にただよう。山育ちの李さんには、港の潮風と魚の生臭さ、腐臭がたえきれず、すぐにやめてしまった。ついで製材所で働いたが、そこも李さんの希望をかなえる職場ではなかった。何ヶ月かでやめてしまった。すこし長くいたのが、日本人の家での書生勤めである。漁船を1隻もっていたその家での仕事は、競り売りの前の魚を盗まれないように見張りすることだった。朝まだ薄暗いうちに起きて、港へ行く。昼は、雑用にこき使われ、日本式の廊下を雑巾がけしたり、掃除することも仕事だった。書生といえば聞こえはよいが、要するに小間使いである。娘は「京城」の学校へ行っていたが、李さんが勉強する機会はなかった。それでも半年ぐらい我慢した。正月に家に戻ると里心がついたこともあって、どうしても日本人の家へ戻る気になれず、やめてしまった。
-紹介してくれる人があって宝城郡の郵便局へ勤務したのはそのあとである。局長は日本人だったが、庶務長は「うちの国の人」だった。初めはスタンプ押しから始まった。間違って指を打ったりしたこともあった。内勤だった李さんは郵便の区分けはしていたが、そんなある日、特殊郵便と呼ばれる現金書留などを扱う係の人がやめてしまい、かわってやってみないかと言われた。大変な仕事である。帳簿と現金書留を一つ一つチェックして、行先別に分類した赤い行のうに収め、汽車の時間にあわせて駅までもっていく。神経の疲れる仕事ではあるが、元来、几帳面な李さんには、向いていたのかもしれない。郵便局の近くに下宿しながら勤務していた。早稲田講議録をとりよせて勉強しようと思ったのもこの頃である。通信教育を受けてみたり、モールス信号に興味をおぼえて、少しずつ勉強したりしていた。局長から郵便学校に行かないかと言われたことも将来への明るい希望となっていた。ようやく、満足できる職場が見つかったと思った矢先、局長に呼ばれた。1942(昭17)年の2月のことである。
―現金書留が一通、紛失したという。帳簿を調べたら、確かに李さんがチェックして、行のうに収めた書留である。他の人はいじれないことになっているので、李さんに責任が被ってきた。弁償しなければ横領の罪でつかまると言われて、李さんは仰天してしまった。どこでどう紛失したのか調べる余裕もなく、家へ戻って父親に事情を話した。せっかく小学校まで出した長男に着せられたこの嫌疑に、父親も驚いてしまった。紛失した書留は北海道からの送金で、かなりの金額にのぼっていた。弁償といわれても、山村の自小作農が何十円もの金を、右から左へと動かせるものではない。その時、お母さんが、タンスの一番奥から反物を出してきてくれた。何か物入りの時と思って、自分で織った反物である。息子にかけられた嫌疑をはらすために、大事な反物を売り払った。その金で紛失した書留を弁償したのである。今度は反物があったから何とか苦境を切り抜けることが出来たが、今後、こんなことが起きたらと思うと、不安で勤務を続けることもできなかった。郵便学校の夢もあきらめて、李さんは郵便局をやめた。4月の、春まだ浅い頃だった。
うれしかった合格通知
―山里に遅い春がやってきた頃、李さんのところへ俘虜収容所監視要員募集の話が伝わってきた。3食付き、住居もあり、被服も貸与、それで月給が50円(戦地勤務者)、2年契約だという。面長の親戚にあたる友人が一緒に応募しようとさそってくれた。ブラブラしており、特に仕事のあてもなかった時なので、炭鉱にとられるよりはと思って、軽い気持で応募した。詳しいことは分らなかったが、監視という言葉から、道路工事の監督のようなものを勝手に想像していた。高い所に立って何かを指図をする。そんな仕事だと考えていた。それなら時間もたっぷりあるし勉強もできる。しかも、月給50円で、2年契約というのが魅力だった。戦地勤務者50円の意味を、特に考えてもみなかった。勤務地については何の指示もなかったので、当然、朝鮮のなかだと考えていた。父親も2年、しかも徴兵されなくてすむならと思って許してくれた。

-1981(昭56)年6月、78歳という高齢をおして、日本に住む李さんを訪ねてきたお父さんにお目にかかる機会があった。日帝下を生き抜いて来た父親は、日本帝国主義が朝鮮でどんなことをしてきたのか、つぶさに目撃していた。日本人を心底、憎悪し警戒している。日本人と同席することも嫌だというお父さんが、滞在日数も少なくなった頃、特別に会って下さった。李さんたちのことを考えてくれる珍しい日本人だということで、心を開いて下さったという。だが、日本人に対する口調は厳しかった。白髪に、李さんによく似た目差しがやさしくしばたくが、日帝下のことに話がふれると語調がきつくなる。監視員への応募をなぜ許したのか尋ねた私に、「あの頃は、どっちにしても、若者が家にいることはできなかった。兵隊にいくよりましだと思ったからね」と言って口をつぐんだ。
「こうして生きて会え、少しの間でも一緒に暮らすことができたので、多くを言いたくないが、言い出せばうらみつらみは山ほどある。日帝が何をしたのか私が言えば、日本人は利口だから今度は別の方法を考えるだろう。だから、私は何も言いたくない。」
―山深い村で土と共に生きてきた李さんのお父さんが、日帝に対する不信と憎悪を骨の髄まで浸透させている。その姿を見て、日本の朝鮮植民地統治が、いかに民衆を苦しめたのか、改めて教えられた思いがして、私は言葉もなかった。「他に方法がなかった」と語る李さんのお父さんにとって、2年たてば帰れることが唯一の慰めのようだった。南方へ行くなど知らなかったからだ。父親の許可を得て応募したものの、さそった友人は来ていなかった。事情はわからなかったが、面から2名が応募していた。募集の条件は20歳から35歳までだったが、この時の李さんは17歳、しかも戸籍上は、さらに2歳若くなっていた。面長も若すぎると言ったが、応募者が少いこともあって特別に許可してくれた。宝城郡の郡庁で試験があった。簡単な日本語のテストと面接。シンガポールはいつ陥落したか、朝鮮総督は誰かといったようなことが質問された。
-都庁に集まった青年は何百人もいた。17歳だった李さんは、20歳から35歳までという応募者のなかでは最年少である。ほかの受験者が皆、立派に見えた。体格はいいし、着るものも立派だし、すでに世の中に出て働いている人も沢山いた。青年会の活動をやっている人もいた。このなかから40~50名が合格した。もちろん、李さんも合格者に入っていたが、今もって、なぜ、自分が合格したのか、不思議に思われるほど、立派な人たちがたくさん応募していたという。合格通知を受けとった時は、やはりうれしかったという。並いる人々のなかから選ばれたとの思いがあったからだ。お父さんもうれしかったのではなかったのか。苦労して小学校を出した効があったと思ったのではないかと李さんは語る。
―安っぽいカーキ色の国民服を新調して、宝城郡の郡庁に赴いたのが6月中旬。心配だったのだろう。お父さんも一緒について来た。郡庁には合格者が集まっていた。おそらく40~50人はいたと思われる。気をつけ、人員点呼、8人行進など簡単な演習があった。その夜はお父さんと一緒の宿に泊った。別に何を話すわけではなかったが、2年間とはいえやはり、永い別離の思いがお父さんにはあったのではないのか。李さんは、明日からの釜山の生活がどんなものか、皆目見当がつかなかったものの、皆に遅れをとられないよう頑張らなければと思って、多少興奮していたようだ。翌朝、お父さんは田舎へ戻っていった。李さんたちは釜山へむけて出発した。2年のつもりが、永の別れとなるとは考えてもいなかった。北へ東へ、李さん父子は別々の人生へ向かって、新たに歩み出したのである。
軍人勅論と戦陣訓
-6月15日、釜山の「釜山西面臨時軍属教育隊」に3000人の朝鮮の屈強な青年が集合した。兵舎はオンボロのバラック作りで、水道も満足にないようなところだった。隊長には、朝鮮軍司令部の野口譲中佐が任命されていた。3000人は、30人ずつ分隊に分けられ、そこに日本人の軍曹か伍長が1人とその助手の上等兵が配属されていた。3分隊で1個小隊となり、小隊長には大尉か中尉が任命されていた。これらの将校や下士官は、朝鮮全域の部隊から軍属教育のために集められてきたのである。宣誓式には、隊長の野口譲中佐が話し、朝鮮総督府の田中政務総監が訓示をしたが、李さんの記憶には、その内容は何も残っていない。野口隊長の言によれば、各人は軍属読法(特に軍律に服すべきこと)を厳しく遵守すべきことを誓う旨の署名捺印をしたというが、李さんの記憶には署名したことだけが残っている。

―カーキ色の軍服一式が支給され、担任上等兵が一緒の宿舎に寝泊りするいわゆる内務班生活が始まった。おかしい、裏切られた、話が違う、ほとんどの者がそう感じていた。軍属がなぜ軍事訓練を受けるのか、銃をもっての射撃練習、小隊ごとの戦闘訓練は軍人教育と同じではないか。しかし、脱走すれば軍法会議へまわすとおどかされて、逃亡する者は少なかった。日本語がまず軍隊用語に直された。もちろん、私語であっても朝鮮語は禁止され、日本語だけの生活の毎日である。とにかくよく殴られた。整列して、理由もなく向いにいる者を殴る対抗ビンタ、担任上等兵は虫のいどころが悪いとわけもなく殴る。とにかく記憶に残るのは、殴られたこととその激しい訓練である。軍隊のメシを1週間も食えば、目つきが変わる。動作がキビキビしてくるなどとよく云われるが、2ヶ月の訓練を受けた3000人の軍属は、果して日本の軍隊が考えたような効果をあげたのだろうか。心のなかに“裏切られた”との思いがあり、“お前ら天皇陛下の赤子だ”などと言われても、フンと思っていた朝鮮人青年に、思ったような効果を期待できなかったのではないのか。
ー釜山での訓練にあたったある日本人下士官の言によれば、訓練には予備役の下士官があたっていたので、あまり乱暴はしていないはずという。おそらく、日本人の初年兵教育に比べれば、ずいぶんゆるやかな訓練だったのだろう。ところが軍隊は初めて、しかも軍属で応募した青年にとって、ゆるやかな訓練であっても、訓練は訓練である。驚いたとしても無理はない。1ヶ月で300人が脱落した。病気、精神障害、逃亡などである。この欠員を、募集していなかった朝鮮北部の4道から急拠、補塡して訓練が続けられた。精神教育は、軍人と同じように「軍人勅論」と「戦陣訓」を軸にして行なわれたという。「軍人勅論」とは「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」で始まる勅論である。軍隊のメシを食った者ならば、必ず暗唱させられた勅論であり、「明治15年1月4日、明治天皇御下賜」とある。このなかに、軍人たるものは一時もゆるがせに出来ない5カ条の教えがある。
1、軍人は忠節を 盡すを本分とすへし・・・2、軍人は礼儀を正くすへし・・・3、軍人は武勇を尚ふへし・・・4、軍人は信義を重んすへし・・・5、軍人は質素を旨とすへし・・・
" 군인勅諭 "(군인 비유)은 1882 년 (메이지 15 년) 1 월 4 일 에 메이지 천황 이 육 해군 군인에게 하사 한 勅諭 이다. 공식적으로는 " 육 해군 군인에 은사 역시 한인敕諭 "고 말했다.
《军人敕谕》是1882年(明治15年)1月4日明治天皇親自向陸軍卿頒授的軍人訓誡,正式名称为『 陸海軍軍人に賜はりたる敕諭 』,要求军人誓死效忠天皇,由此把武士道中效忠对象由大名与幕府将军置换为天皇。[1]
ーこれら5カ条は「天地の公道人倫の常経なり行ひ易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を 盡さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕1人の懌のみならんや 御名御璽」と結ばれている。この勅論はもっと長文のものであり毎日毎日、この勅論を暗唱させられ、暴力をもってたたきこまれた。理解し、その精神を体得するというのではなく、とにかく鸚鵡返しにスラスラ暗唱できなければ、ビンタが飛び、げんこつが飛んでくる。「戦陣訓」は「生きて虜囚の辱しめを受けず」のあの訓である。俘虜の監視にあたるものに、なぜ「戦陣訓」なのか、これでは俘虜になる奴が悪いという俘虜を軽んずる考えを植えつけるだけでないのか。
-軍隊教育は、この2つを柱にしていた。2ヶ月とはいえ、初年兵教育にのっとった軍属の教育のなかで、俘虜を監視する任務についてはほとんど教えられていない。簡単な「ジュネーブ条約」についての説明があったかもしれない。俘虜取扱い規定の趣旨大要を教えたとの日本人の発言もあるが、教えられた側の記憶に残ったのは、「軍人勅論」と「戦陣訓」、そして殴られた、とにかく無茶苦茶に殴られたとの思いだけであった。こうした記憶は、李さん1人ではない。私が会うことのできた20人近くの元軍属だった人に共通した記憶である。教育する時は、殴る、上に立つ者は下の者を殴ってよい、軍律に違反した時は、軍法会議にまわすなど面倒なことをせずに、殴ってそれで見逃してやることが、親切というものだ、死んでも捕虜になるな、捕虜になる前に自決しろ、捕虜になるなど卑怯者だ・・・仰々しく、俘虜取扱い規定が教えなくとも、軍属たちは、2ヶ月の教育のなかで、俘虜に接する自分たちの態度を体得したといってもよいだろう。
朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人
BC級戦犯の中には、当時日本統治下にあった朝鮮・台湾出身の朝鮮人と台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。連合国が、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われた(厳密には「準用」は「遵守」に比べて実行側の裁量の余地が大きいが、そうした主張が通る状況ではなかった)。朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている[9]。台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれ、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。朝鮮人・台湾人の戦犯受刑者は、日本人受刑者が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンで刑の執行が継続された。

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