日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

朝鮮人BC級戦犯の記録 内海愛子=조선인 BC 급 전범의 기록/Casier judiciaire de la classe BC coréenne/Korean BC Class Criminal Records④


Русскийロシア語→Корея с 1910 по 1945 годы была японской колонией. В это время она не обладала суверенитетом, власть на полуострове принадлежала японскому генерал-губернатору.
Polskiポーランド語⇒Korea była pod okupacją japońską przez 35 lat, od 22 sierpnia 1910 do 15 sierpnia 1945 roku, jako Generalne Gubernatorstwo Korei.
―だが、こうした訓練もそれを受ける軍属のこれまでの社会的経験や民族意識のもち方によって、かなり受けとめ方が違っていた。20歳から35歳までという年令の幅が、こうした違いに拍車をかけていたとも言える。「天皇陛下の赤子」「一視同仁義」「内鮮一体」などのスローガンが、くり返しこう呼ばれても、それが、いかに虚偽のイデオロギーか見抜いていた者もいる。クリスチャン、民族主義者、マルクス主義者とまではいかないにしても、多少そうした思想に触れたことのある者、そして、どうせ引っぱられるならばと思って観念して応募した者も、熱心な「天皇主義者」にはなれなかった。  感を心のうちに秘めながら、とにかく連日の激しい訓練に耐えることのみに専念した軍属もいた。そうした中で、李さんは「軍人勅論」に何の抵抗感も抱かなかったという。それどころか、とにかく頑張らなければいけないとの気持で、心身共に訓練のなかで鍛えられたのである。1925(大14)年生まれの李さんは、「皇国臣民の誓い」を暗唱し、朝鮮語の使用を禁止された学校教育のなかで成長してきた。

皇国臣民への道
ー1925(大14)年生まれの李さんが、当時の普通学校と呼ばれた朝鮮人の小学校に入学したのは、9歳の時である。それまでは書堂(漢文を中心にした寺小屋教育)に通って漢文を学び、中国の歴史を勉強していた。パジをはき、長くのばした髪を束ねて、きれいな布切れで結んで、書堂に通っていた。小学校へ入学する朝、その束ねた髪を切りおとした。多分、お父さんが切ったと思うが、鋏でチョキチョキ切ったことは、書堂での勉強を捨て、さらに朝鮮の歴史や文化から自らを切り離して、「近代的」な日本の教育への転進を象徴するかのようだった。山深い山村で普通学校へ通う子供は、いまだ少なかった。晴れがましい入学式の朝、長髪を切り落した李さんは、6キロの道のりを喜びいさんで登校した。だが、その道が、「皇国臣民」への道であったことを知るようになったのは、戦後になってからである。李さんが、「国語を常用せざる者」のために普通学校へ入学した1934年頃、在学生徒数53万4585人、学校数2015校で、一面に一校のわりで普通学校が設置されるまでには至っていなかった(『文部省推進派遣教育家の見たる鮮満事情』)。だが、第2次朝鮮教育令のこの時期は、「一視同仁」の名のもとに、「内鮮共学」という名の同化教育を実施するために、学校の増設に力が注がれていた。李さんの通った普通学校では、4年制、校長は日本人だったが、教師は全部で3人、皆「うちの国の人」だった。
ー普通学校の授業時間数は、1年の時に、修身2、国語(日本語のこと)10、朝鮮語および漢文6、算術6、唱歌体操3となっている。2年生は、修身の時間が1時間減るほかは、1年の時と同じである。3年、4年になると朝鮮語および漢文の時間も1時間減って、かわりに理科が2時間となる。授業時間数で、国語と称する日本語の時間が一番多い。これは4年生になるまで毎週10時間の時間数をとっている。全時間数の3分の1を日本語教育に当てた日本語普及、これが「一視同仁」の名のもとにおける教育の現状であった。1934(昭9)年5月、こうした朝鮮の普通学校を視察した。日本人小学校長は、その実情を次のように報告している。
(1)国語を通じて魂の純化
国語が如何に国民性陶治に大きな力をもってゐるかは今更 に論ずるまでもない。朝鮮の初等教育に於て最も力瘤を入れてゐるのは国語教育である。普通学校には朝鮮人である教員も漸次増してゐるが、教室に於ける教授用語は絶対に国語を使用し、朝鮮語を話す事を許されない。初等1年の如き小さな子供も「ココニ本ガアリマス」「人ガキマス」などと、アクセントに変なぎこちなさはあるが、非常に熱心に学習してゐる。高等級では児童同士相互に自学的に、かつて内地の1部の学校で盛に試みられた討論式学習を 々とやってゐる。唱歌なども我々の耳訓れた、我々の生活を歌ったようなものを朗かに歌って居る様子などを見ると、当然といえば当然だが、目頭が熱くなるまでに、いじらしさと嬉しさを感じたのである。
「此の普通学校で国語のテストをやったが、内地一流の学校に比して何等遜色がない。」などの気 もきかされたが、実に結構である。吾々が校門を入ると校庭で遊んでいる子供が走り寄って挨拶をする。「君は何年生かね」と問へば、僕は4年などと愛くるしく答える。語を通じてすぐ魂と魂とが触れあう。ほんとに嬉しいものだ。恐らく朝鮮の何処へ行っても吾々1人で用を弁ずるであろう程に国語が普及した。どの学校でも殆ど例外なしに国旗掲揚台を持ってゐる。同じ語で話し合ひ、そして同じ日の丸を打仰ぐ、もう是だけで初等教育の目的の大半は盡きてゐるのではなかろうか。」(前掲『鮮満事情』)
ー昭和9年といえば、李さんが普通学校に入学した年である。李さんもまた、「ココニ本ガアリマス」「人ガキマス」と勉強しながら、日の丸を仰ぎ見ていたのだろうか。この報告書によると教授用語は日本語を使っていたというが、この時期には、学校における朝鮮語の使用は、正式には禁止されていないはずである。李さんの学校は山村にある。日本語の使用といっても教室のなかだけのことであり、家に帰れば、父親の仕事を手伝い、友達とは朝鮮語で遊んでいた。こうした子供たちの2重言語生活を当局は早くから見抜き、子供たちの世界を日本語一色に統一しようとしたのである。李さんが4年生になった1938(昭13)年、第三次の朝鮮教育令が出された(3月3日)。これは前年の日中戦争の開始とともに、大陸兵站基地としての朝鮮の再編に伴う教育改革であった。「一視同仁」に「内鮮融和」をさらにすすめて、朝鮮人を「皇国臣民」としてひたすら天皇に奉仕する人間に育成するための改編である。
조선교육령(朝鮮敎育令)은 조선을 병합한 일본 제국의 식민지 교육정책이다. 제1차 조선교육령: 1911년 공포 제2차 조선교육령: 1922년 공포 제3차 조선교육령: 1938년 공포 제4차 조선교육령: 1943년 공포
朝鮮教育令(ちょうせんきょういくれい)は、日本統治時代の朝鮮において同地の教育を包括的に規定した勅令である。朝鮮総督府が教育を実施・監督するにあたり、その特殊な環境条件を考慮して制定・公布された。
小学校規程にはその目的をはっきり謳っている。
「第1条 小学校ハ児童身体ノ健全ナル発達ニ留意シテ国民道徳ヲ涵養シ国民生活ニ必須ナル普通ノ知能ヲ得シメ以テ忠良ナル皇国臣民ヲ育成スルニ力ムベキモノトス」
ー忠良なる皇国臣民を育成するといっても、具体的には何をしようというのだろうか。公州女子師範学校附属小学校が、実習生用の手引書として書いた「新令教育の実践」と題する本のなかには、「忠良なる皇国臣民の育成」とはいかなることか、次のように解説している。
「万世一系の天皇の治しめす国を皇国といふ。万邦ひとり我が国あるのみ。義は君臣情は父子の間柄にあって義忠奉公の誠を致す地位を臣民といふ。権義の国にこの事実はない。皇国臣民とは大御寶と宣はせ給ふ、われ等臣民である。璽臣民と宣はせ給ふ、われ等臣民である。この尊き臣民をば「海行かば水漬屍山行かば草むす屍」と希う皇国の人柱として、おほし立つることが教育である」
ーすべて天皇に捧げ、天皇のため喜んで死ぬ人間をつくること、これが教育というのである。解説それ自体が抽象的でその理念は一向にはっきりしないが、とにかく天皇帰一の思考の形成をめざしていることだけは、はっきりしている。李さんの学校生活も変化してきた。まず一番大きな変化は、朝鮮語の授業がなくなったことである。授業がなくなっただけでなく、学校で朝鮮語をつかうことも禁止されていた。校庭で遊んでいる時、朝鮮語を使っておこられたことは、今でも忘れないと言う。毎朝、朝礼の時は、皇居の方向にむかって恭しく遥拝をし、「皇国臣民の誓い」を斉唱することも、37(昭12)年よりはじまっていた。
1、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス 2、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲ盡シマス 3、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民ニナリマス
ー毎朝この誓いを大声で斉唱するのである。それだけでなく、「学校家庭連絡票」には、神棚の有無、家族の神社参拝の有無、国旗の有無の記入の項目があり、子供が「神社参拝ハ喜ンデナスヤ」の記入もある」(前掲『新令教育の実践』)。こうした日課のほかに、教科のなかでもまた皇国臣民の道が教えこまれた。李さんの使った「初等国史」第6学年用には、第25課「東亜のため」のなかに次のような記述があった。
「朝鮮の政治は、代々の総督が、ひたすら一視同仁のおぼしめしをひろめることに力をつくしたので、わづか30年ほどの間に、たいそう進みました。したがって、世の中はおだやかになって、産業は開発され、中でも、農業や、鉱業の進みが著しく、近年は工業の発達もめざましく、海陸の交通機関はそなはり、商業がにぎはひ、貿易は年ごとに発展してゆきました。また教育がひろまり、文化が進むにつれて、風俗やならはしなども、しだいに内地とかはりないやうになり、制度もつぎつぎに進むにつれて、風俗やならはしなども、しだいに内地とかはりないやうになり、制度もつぎつぎに改められて、内鮮一体のすがたがそなはってゆきます。地方の政治には自治がひろまり、教育も内地と同じきまりになりました。とりわけ、陸軍では、特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防のつとめをになひ、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ、靖国神社にまつられて、護国の神となったものもあり、氏を称へることがゆるされて、内地と同じに家の名前をつけるやうになりました。今日では朝鮮地方2千百万の住民は、国民総力朝鮮聯盟を組織し、一斉に皇国臣民の誓詞をとなへて信愛協力し、内鮮一体のまごころをあらはし、忠君愛国の士気にもえて、みなひとすぢに皇国の目あてに向かって進んでゐます。とりわけ、支那事変がおこってからは、朝鮮地方の地位はきはめて重くなり、大陸前進の基地として、東亜共栄圏を建設するもとゐになり、わが国発展の上に大きな役割をになって、内鮮一体のまごころは、ますますみがきあげられて、日に月に光をそへてゆきます。」(朝鮮総督府『初等国史 第5学年第6学年』)
ー教科書の一言一句が記憶に残っているなどありえないが、こうした国史を勉強させられた李さんが、朝鮮史を正しく見る眼を持てなかったとしても仕方がなかったのではないのか。学校では志願兵李仁錫が山西省の戦闘で戦死し、第17回功行賞で功7級勲8等を授けられたことも、もちろん先生から聞いている。教室にあった大きな絵めくりに描かれていた李仁錫のことも覚えている。だが、何より李さんの印象に残っているのは、卒業前後、村で急に目につきだした志願兵のことである。小学校の先輩に志願兵がいた。彼が面に戻ってきた時の歓待ぶりはすさまじく、"ムラをあげて”の形容がピッタリするほどだったという。1人、山に登ってラッパをふく志願兵の姿を見て、憧れたのもこの頃である。社会全体が志願兵を持ちあげる雰囲気があり、配給も最優先、役場でも特別扱い、警察も一目おくといった具合で、志願兵は、ムラの英雄のような存在だった。皇国臣民の教育を受けてきた李さんには、そうした志願兵を批判する思考の軸が形成されていなかった。日本の支配者層は全力をあげて、朝鮮人の子供たちを「忠良なる皇国臣民」として育成しようとしていたのである。李さん1人が違った考え方を持つなど不可能だった。
ーだが、李さんが「皇国臣民」として立派に育っていないことは、卒業後の歩みをみればはっきりしている。「お国のため」といわれても兵隊には行きたくない。志願兵もいや、まして炭鉱はもっといやだというのだから、当局の思惑どおりには、子供たちに天皇帰一の思想が定着していない。しかし、李さんが軍属に志願して『軍人勅論』を暗唱させられると、何の抵抗感もなく受け入れることが出来たのには、小学校の皇民化教育の影響を考えることが出来るだろう。最年少の李さんは、第3次教育改革にかかったが、3歳以上も年上だった他の軍属たちは、普通学校における皇民化教育を受けずにすんでいる。この時代の3歳という年齢の差は、今日では考えられないほど大きな意味をもっていたのではないのか。キリスト教徒のある軍属は、軍人勅論を一通り暗唱はしていても信じていたわけではない。「満州」を放浪してきた人には五族協和の実態が見えていた。世の中に出て1人前の仕事をしてきた人には、世の中を上手にわたる知恵が身についている。
ー3000人が一斉に『軍人勅論』を暗唱したとしても、その許容の仕方にはからにの差があったと思われる。だが李さんは、そんなことを考える余裕すらなかったようだ。年齢のハンディを克服して、何とか脱落しないように、それだけを考えての毎日だった。2ヶ月の訓練が終わった頃には、立派な体格の堂々とした軍属に変身していた。俘虜収容所の監視要員の募集は、大々的に宣伝された。その条件を見て自ら応募したのだから、かれらは志願してきたのだと日本政府は主張する。確かに形式は志願である。だが、当時の朝鮮の青年にとって、自由な人生の選択はなかった。兵隊に行くか、炭鉱か、それが厭で、応募した人もいた。50円という月給に魅力を感じた人、2年という契約に魅力を感じた人、おそらく応募の動機は3000人が1人1人異なるだろう。
ーしかし、時代はまったくの閉塞状況にあった。自らの人生を選択できない青年たちが、よりよいと思って選択したのが監視要員という仕事だった。これを志願と呼ぶにはあまりにも時代は厳しかった。物理的に強制されて連れて行かれたわけではなかったが、心理的には強制されていた。李さんたちは志願という言葉は使わない。それは、形式は志願ではあったが、志願するように追い込まれた心理的強制を問題にしたいからである。俘虜収容所の監視要員募集は、志願という名の強制徴用だった、それが李さんたち軍属の今日もなお共通した思いとなっている。


광복절(光復節)은 한반도가 일본제국으로부터 독립한 것을 기념하는 날로, 대한민국에서는 이를 국경일로 법제화함으로써 매년 양력 8월 15일에 기념하고 있다. '광복'에서의 '광'은 '빛'을 의미하는 명사적 표현이 아니라 "영예롭게(光) 되찾음(復)”이라는 부사적 해석으로 쓰인다. 즉, 영예롭게 주권을 되찾았다는 뜻으로 쓰인다. 해방년도인 1945년을 광복절 원년으로 계산한다. 해방 직후 미국과 소련을 통해 전개된 한국의 군정기에 따라 구 대한제국 지역은 대한민국과 조선민주주의인민공화국으로 분단되었으며, 이후 양측 모두 이 날을 기념하지만 구체적인 의미가 다르다. 대한민국에서는 1945년 8월 15일에 해방되고 1948년 8월 15일에 대한민국 정부를 수립한 과정을 아울러 광복으로 명명하여 기념하고 있으나, 조선민주주의인민공화국에서는 1945년의 민족 해방만을 기념하며 정권 수립은 다른 날짜에 이루어졌으므로 인민정권 창건일로 따로 기념한다.
Portuguêsポルトガル語→O Dia de libertação da Coreia 광복절 (Gwangbokjeol) comemora a libertação da Coreia do domínio colonial japonês, após a vitória dos Aliados sobre o Japão, que levou ao fim da II Guerra Mundial. Como tal todos os anos no dia 15 de agosto é feriado na Coreia do Sul e Coreia do Norte.
III 戦争犯罪裁判と朝鮮人軍属
1、戦争犯罪とは何か
さまざまな8・15
ー8月15日、日本の侵略戦争は、無条件降伏という形で終わりをつげた。朝鮮人軍属たちの故国朝鮮では、この日、大極旗がひらめき、「万歳(マンセ)!」の声が大地にこだました。祖国解放を喜ぶ人々の行列がいくつも生まれ、長い長い冬の時代が終った喜びが町に村に、全土にあふれていた。祖国から遠く離れた南の地で、敗戦ー解放を迎えた朝鮮人軍属たちは、日本の混乱した戦局をそのままに、さまざま8月15日を迎えていた。パレンバンにいた鄭さんは、敗戦を知らずに従来と同じように俘虜を監視する仕事を続けていた。日本人上官と何かにつけてトラブルが絶えなかった同じパレンバンにいた兪さんにとっては、8月15日は解放そのものだった。上官に反抗して、「軍法会議にまわす」といわれたこともあった。2ヶ月の謹慎処分をくらったこともあった。みんな上官に口答えしたためである。日本の敗戦を聞いて、彼は、船1隻何とか調達して、それに食糧、水を積み、機関銃を何挺かもって、島づたいに帰ることを計画した。
ー兪さんが、この計画を中断したのは、同じ軍属だった松原さんの忠告に従ったからだ。松原と当時名乗っていたこの人は、兪さんより10歳以上も年上だった。俘虜にも大変よくしていた人で、敗戦後、戦犯リストをもってパレンバンにやってきた英軍の中佐が、いの一番に探したのが松原さんだったという。戦犯ではなく、世話になった彼の身を心配してのことである。パレンバン市内の”トキウ・ホテル”に陣どっていた中佐を、松原さんと共に兪さんは訪ねている。単刀直入に兪さんは言った。
「オレは朝鮮人である。自分の国は解放され、これから国づくりに力を注がねばならない。むこうには人材も少ないことだから、1日も早く帰りたい。ついては、自分は船を調達して自力で帰ろうと思っているがあなたのお考えを伺いたい。もし、あなたたちが早く帰す意志があれば、この計画を断念してもよい」
ー中佐は、こうした質問に、戦争も終ったことだし、そういう無謀なことはやめるように、何ヶ月かはかかるだろうが、あなたたちを掴まえることはないからと答えたという。通訳は、兪さんの仲間の軍属平山さんがやっていた。この回答を得て、兪さんはあまり成功の見込みがない、船による自力帰国の道を断念したのである。中佐の言葉を信用して、パレンバンに待機していた彼を待っていたのが、俘虜虐待による戦犯裁判だった。
ー敗戦後、パレンバンの俘虜収容所に配属された山内秀敏主計曹長の話しによると、8月15日から4~5ヶ月間、朝鮮人軍属64人と日本人10人が、オランダなど連合国の生き残った俘虜500人の食糧調達にあたっていた。ところが、ある日「われわれは戦勝国民である。よって、日本軍の指揮下には入らない」といって出ていったという。この64人のなかには鄭さんや兪さんが入っていたはずだが、お互い記憶にない。いずれにしてもパレンバンの町では、かつて収容所に勤務していた朝鮮人軍属だけが集って自活を始めたのである。日本軍のゆくところどこでも慰安所がついてまわる。パレンバン市内も例外ではなかった。敗戦で、かつての軍隊の階級が崩壊しかかっていた時、軍の慰安所もまた性のフリーマーケットのような状態だった。「女」の値段が民族によって決められていた。


위안부 (일본어: 慰安婦, いあんふ 이안후[*])는 제2차 세계대전 동안 일본군의 성적 욕구를 해소하기 위한 목적으로 강제적이거나 집단적, 일본군의 기만에 의해 징용 또는 인신매매범, 매춘업자 등에게 납치, 매수 등 다양한 방법으로 일본군을 대상으로 성적인 행위를 강요받은 여성을 말한다.[3] 일본에서는 종군 위안부(일본어: 從軍慰安婦, じゅうぐんいあんふ 주군이안후[*])라고도 일컫는다. 위안부 피해 여성들은 징용 또는 납치, 매매 등 다양하게 인권을 유린 당했다.   
Esperanto語→Konsolvirinoj aŭ ianfu (japane: 慰安婦 [ianfu]) estas la nomo de virinoj, kiujn la japana imperio uzis dum la Dua Mondmilito por konsoli siajn soldatojn, t.e. ili laboris kiel seksaj rilatantoj kun soldatoj. Ianfu estas eŭfemismo por shōfu (娼婦 [ŝofu]), kies signifo estas prostituino(j). Ili ankaŭ estas nomataj jūgun-ianfu (従軍慰安婦 [ĝugun-ianfu], militistaj konsolvirinoj) ekde la 1970aj jaroj, kaj komencis esti nomataj seksaj sklavoj (angle sex slave) en la 1990aj jaroj. Da ili estis inter 50.000 kaj 200.000 laŭ diversaj fontoj. Ili devenis ĉefe el Japanio (Honŝuo), sed ankaŭ el Koreio (konataj kiel wianbu), Ĉinio, Filipinoj, kaj Indonezio.[1][2][3]
インドネシア人の慰安婦 1円 中国人の慰安婦 10円 朝鮮人の慰安婦 100円 日本人の慰安婦 1000円
ー現実にはこの値段のようになっていたかどうかは疑わしい。ところが、兵隊の間では、「女」の値段がこのように伝えられていたという。「大東亜共栄圏」の民族差別の重層構造が、慰安婦の値段のなかにも、はっきり映し出されていたのである。自活を始めた朝鮮人軍属の中には、かねてなじみの慰安婦のところへころがり込んだ者もいた。結婚した者もいたと山内曹長は語っている。しかし45(昭20)年12月31日、帰国乗船命令が出た。帰国を前に、男と女の間に潜在していた亀裂がはっきりしはじめた。男は、朝鮮へ帰るという。女はとても朝鮮へ帰れないから日本へ行きたいという。こうして、幾組かの朝鮮人軍属と朝鮮人慰安婦の結びつきもあっけなくこわれた。結婚の意志をもっていた者もまた、俘虜収容所に勤務していた軍属が、全員、連合軍に捕らえられたことによって、実質的には離別せざるをえなかった。1946(昭21)年1月1日、朝鮮人軍属を残して、帰還する日本人、朝鮮人を乗せた駆逐艦が、パレンバンの船つき場を離れていった。残された軍属たちは別途に収容されて、シンガポールへと護送されていった。
ーシンガポールには、タイのバンコクで解放を迎えた泰緬鉄道建設に従事していた李鶴来さんも送られてきた。1946(昭21)年4月下旬の頃である。メダンのマレー俘虜収容所第1分所に勤務していた軍属もシンガポールに送られてきた。ハルク島で飛行場建設にあたっていた李義吉さんは、重大犯罪人であるかのように、分所長の阿南三蘇夫中佐、バンブー・モリの名で俘虜の間でおそれられていた森曹長と一緒に、飛行機でチャンギへ送られてきた。彼もまた、戦争裁判にかかるなど夢にも思っていなかったので、バンドンで俘虜の名簿の整理をし、連合国にそれを引き渡したのである。その4日後に逮捕されて、シンガポール送りとなった。こうして、シンガポールのチャンギ刑務所には、一時、7200名にものぼる戦犯容疑者が収容されたのである。このうち朝鮮人軍属の数は600名にのぼったという。誰もが戦犯になるなど考えてもいなかった。この戦争は日本の侵略戦争である。植民地の人間として強制的に徴用されてはいたが、今や朝鮮は解放された。自分たちは人を殺した覚えも、個人的なうらみで虐待した覚えもない。日本人ではない、まして軍人でもない自分たちが、日本の戦争責任を裁く裁判とかかわりがあろうはずがないと考えていたのである。帰国の日を心待ちにしていたこれら朝鮮人軍属を待っていたのは、全員収容という名の無差別逮捕だった。罪状は収容後に、首実検と告発によって決定していくというやり方である。
ージャワの第16軍拘禁所で8・15を迎えた軍属たちもいた。日本軍政下のジャワで抗日独立組織「高麗独立青年党」を組織して、軍法会議で懲役刑を言い渡された人たちである。湿気と栄養失調にさいなまれ、自力では歩行も困難となっていた彼らが、日本の敗戦を知ったのは、8月も下旬になってからである。日本帝国主義を打倒し、祖国朝鮮の解放をかちとろうとして、ジャワで、抗日秘密結社を組織したのだが、自分たちは日本に一矢報いることが出来ないまま獄につながれてしまった。無念の思いを抱いて獄中生活を送っていたこれらの党員を迎えたのが、「在ジャワ朝鮮人民会」に結集した軍属たちだった。敗戦の年の9月4日である。ジャワ島にいた朝鮮人は、ジャカルタ、スマランの朝鮮人会へ結集するよう放送されていた。ジャカルタの人民会へは、軍属だけでなく、民間人、慰安婦として連行されてきた女性も集結していた。ジャワの大空に大極旗がひるがえり、この旗の下に、朝鮮人は規律ある生活を送りながら帰国の日を待っていたのである。サイゴン、バンコク、シンガポール、メダン、パレンバン、ジャカルタ、バンドン、スラバヤ、朝鮮人軍属たちは、その地域においても朝鮮人だけで集結している。それは朝鮮人の側が、われわれは戦勝国民である、もはや日本軍の命令を受ける理由はないと主張したこと、また、戦争中より頻繁にあった日本人下士官とのいざこざから、自分たちを守るために自然発生的にまとまったのも事実だ。
ーだが、高麗人会、朝鮮人民会、韓国人会と名前こそまちまちだが、各地でこのような足並みそろえて自治組織をつくり、そこへ集結していることは、単に朝鮮人側だけの要求とは思われない。敗戦後、日本人の上官から、各自、人民会へ集結するよう言われている人もいる。朝鮮人のみの集結は日本軍の方針だったのではないのか。厚生省の「続々・引揚援護の記録」によれば、「外地」にあっては、武装解除の直後、連合国側の要求によって、朝鮮人、台湾人は日本人から分離して収容され、直接その本籍地に送還されたとある。たとえば、支那派遣軍に所属していた朝鮮人の軍人軍属は、上海に樹立されていた韓国臨時政府がその身柄を受けとったというし、イギリス軍の管轄下にあった者も、日本軍隊から分離して収容され、直接、本籍地へ送還されたという。日本人と朝鮮人、台湾人の分離集結は、連合軍の要求として、日本軍へ伝達され、日本軍の指示によって行われたと考えるのが妥当なようだ。そして、この分離集結は、朝鮮人の側の要求でもあったので、混乱なく実施されたのである。日本軍の命令による集結であったからこそ、ジャカルタの貨物 はトラック9台分もの生活物資をよこしたのであろう。各地とも朝鮮人の自治組織には、食糧、衣服、軍票などが何のトラブルもなく大量に支給されている。

대한민국 임시 정부(大韓民國臨時府,문화어: 상해림시정부 [1], 영어: Provisional Government of the Republic of Korea, 1919년 4월 11일 ~ 1948년 8월 15일)는 1919년 3월 1일 경성(京城)에서 선포된 3·1 독립선언에 기초하여 일본 제국의 대한제국 침탈과 식민 통치를 부인하고 한반도 내외의 항일 독립운동을 주도하기 위한 목적으로 설립된 대한민국의 망명 정부이다. 1919년 4월 11일 중국 상하이[2]에서 설립되었으며,[3] 같은 해 9월 11일에는 경성(서울)과 러시아 연해주 등 각지의 임시 정부들을 통합하여 상하이에서 단일 정부를 수립하였다.
大韩民国临时政府(朝鮮語:대한민국임시정부/大韓民國臨時政府),朝鮮民主主義人民共和國方面称為上海臨時政府(朝鮮語:상해림시정부/上海臨時政府[1]),简称临政(朝鮮語:임정/臨政)、臨時政府(朝鮮語:임시정부/臨時政府)是朝鲜半岛在日韩并合后,于1919年在上海法租界成立,后搬迁至中華民國重庆的一个流亡政府。该政府未曾受到任何國家的承认,而国民政府当时虽也未正式承认,但给予了其极大的援助,如协助训练地下武装及情报人员,并为其在国际范围扩大影响[2],1948年,大韩民国临时政府随着大韩民国(该年8月15日成立)和朝鲜人民民主主义共和国(该年9月9日成立)先后建国而消失。不过在中国的大韩民国临时政府的旧址仍然存在,而其中上海的旧址,被称为“韩民族独立运动的圣殿”。
戦争犯罪とは何か
ー日本軍の最末端で、俘虜の監視をしていた朝鮮人軍属たちには知らされなかったが、日本が受諾したポツダム宣言の第10項には「吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし」との文言があった。俘虜虐待に対する戦犯追及は、連合国の当初よりの方針だったのである。ドイツ、イタリアの俘虜となったアメリカおよび連合国軍23万5473名のうち、収容中に死亡した者は9648人であったという。これに対し日本の俘虜となった米をはじめとする連合軍俘虜13万2134人をとってみると3万5757人も死亡している。死亡率はなんと27%にも達する(『判決速記録』)。こうした驚くべき俘虜の死亡に対して、連合国は俘虜虐待について、厳しい姿勢で臨んだ。米、英、豪、蘭、比、中国(国民政府)の7カ国による戦争犯罪裁判の結果、俘虜収容所関係者は、全起訴件数の16パーセントを占めている。起訴された全体の17パーセント、有罪者は全数の27パーセント、死刑は全数の11パーセントとなっている(法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』)。
ー有罪者の4人に1人が収容所関係者であったことは、連合国によるBC級戦犯記録の大きな特徴ともいえるだろう。この関係者のなかに朝鮮人、台湾人軍属がいたことは、すでに述べた通りである。なお、参考までに憲兵について記せば、全件数の27%、全有罪者の36%そして死刑の30%を占めている(前掲『概史要』)。1041年12月、アメリカは、日本政府へ「ジュネーブ条約」の遵守を申し入れたが、爾来3年半にわたり、連合国は、日本の俘虜取扱いに対し何回となく抗議を申し入れている。スイス公使を通じてなされた俘虜収容所訪問の要請だけでも134回もおこなわれている。また、ラジオを通じて日本の軍隊によって犯されている残虐行為と、その他の戦争法規違反が述べられ、こうした行為が、日本政府の戦争責任を問うことになるとの警告もなされていた。俘虜虐待に対する連合国の公式抗議とラジオを通じての抗議と警告は、詳細かつ具体的であった。この公式抗議はもちろん、ラジオでなされた抗議も日本の外務省はすべて記録し、各省に配布していた。たとえば、1942(昭17)年9月15日、スイス公使より次のような抗議が届いている。
「総理大臣閣下 英国政府より左記抗議を日本政府に提出なすやう要請ありたる事を閣下に御通告致すの光栄を有す。確実な筋よりの報道に依れば蘭貢刑務所に収容され居る俘虜は次の如き取扱を受く。
(1) 糧食は1日2回にして「パン」塩、水に限られ時折野菜の発給あり。(2)俘虜は床の上に粗麻布又は板のみを敷き睡眠しあり。(3)紙巻煙草又は煙草は支給されず。(4)俘虜の靴は没収され跣足にて重労働を強制さる。
英国政府は陸軍現地当局が遠隔の作戦地区にて行ひ居る野蛮的行為を日本政府が知らざるものと思惟す。前述の(1)(2)(3)に対しては如何なる申訳あるとも俘虜の靴を没収せる事に対しては申訳ある筈なし。英国政府は斯かる条約違背行為に対して強硬に抗議し、連なる 正を要求するものなり。」日本政府は応答を小官宛御知らせ下さらば幸甚なり。此の機会に更めて深甚なる敬意を表す。 瑞西公使  
東京 総理大臣兼外務大臣 東条英機閣下」(『速記録』148号)

ーこうした内容の抗議文が頻繁に外務省のもとに届いた。これはすべて各省に配布され、日本政府当局は、連合国が何に最も神経をとがらせていたか、よく知っていたことになる。そして、これらの抗議を無視したことによる戦争責任の追及があることも当然、予期していただろう。1945年8月20日、俘虜収容所長の名において次の緊急電報が発信された。
「俘虜及抑留者を虐待し甚だしく俘虜より悪感情を懐かれある職員は、此の際速かに他の転属或は行動を一斉に晦す如く処理する可とす、又敵に任するを不利とする書類も秘密書類同様用済の後は必ず廃業のこと」(『速記録』148号)
あて先は、台湾軍、朝鮮軍、関東軍、北支方面軍等、参考としてマライ、ボルネオ、ジャワの各俘虜収容所長等にも送られている。

ー危ないと思う奴は逃げろ、また都合の悪い書類は焼却しろとの指令である。この指令が忠実に実行されたか否かはっきりしない。だが、この指令が出された頃は、バンコクでもメダン、パレンバン、ジャカルタ、どの地でも連合国軍の進駐は行われておらず、逃げようと思えば逃亡できる状態にあった。しかし、軍属たちは逃げようとしなかった。自分の行為が、他と比べて特別に残酷だとか問題あるとは考えなかったからである。さらに「ジュネーブ条約」の存在すらはっきり教えられなかった軍属たちは、連合国からこうした抗議が届いていることも、知らされていなかった。また、この指令についても知らされていない。俘虜虐待が戦争責任追及の重要な位置を占めることなど、予想もしていなかったのである。
英国の戦犯定義
―ところが、連合国の側は、日本軍の武装解除と同時に、“戦犯狩り”を始めたという。詳細な戦犯リストをもっていたのである。シンガポールでの“戦犯狩り”について、篠崎譲は、その著「シンガポール占領秘録」のなかで、戦犯調査班長デービス大佐のリストには、4000人の容疑者の名前が記入されていたと書いている。英軍は上陸すると直ちに活動を開始、一斉に“戦犯狩り”が始まり、容疑者はオートラム刑務所とチャンギ刑務所に収容され、被害者からの証言を集めて、連日の取調べが始まった。この時の英軍の方針は「目には目、歯には歯」というもので、報復的に、まず俘虜収容所関係と泰緬鉄道関係が、次に憲兵隊と住民虐殺関係が起訴されていったという。バンコクの李鶴来さん、パレンバンの兪東祚さん、鄭殷錫さん、ジャワの李義吉さんたちが、次々とシンガポールへ護送され、取調べを受けたのは、デービス大佐のリストに、その名前が掲載されていたからなのだろう。そして、彼らが俘虜収容所の監視要員として勤務中、その名前と顔を俘虜に覚えられていたことが、リストに名前を連ねる原因となったのではないのか。労務や食糧の担当として、3年半も勤務していれば、俘虜との間のいざこざから、殴ることはもちろん、無理に労働に出すこともある。殴られた本人はもちろん、強制的に労働に出された者は、その加害者の名前を脳裏に焼きつけている。日本の敗戦によって彼我の力関係が逆転すると、監視要員が忘れているような些細とも思われるようなことまでも告発される場合もあった。その告発は時には不当と思われることもあるが、自分が被害者、抑圧される側にまわって、初めて事態の深刻さに気づくこともある。

―食糧問題はその典型であろう。1日400グラムで重労働をしいられていた俘虜は、骨と皮ばかりにやせ細った。100キロ以上の巨体だったあるオランダ人が50キロをきっていたというが、チャンギ刑務所で英軍がやったことは、まさに、こうした飢餓への報復だった。鄭さんの記憶によれば、食事は1日2回、朝7時にビスケットが3枚と3分の1、これが途中でなくなって、時には2枚と5分の1とか4分の1、それにお茶が1パイ。午後2時に、皆が“ドロンコ”と呼んでいたトウモロコシの粉かタピオカの粉を水でといたようなドロドロとしたものを、飯盒の底に5センチほど、箸もスプーンも使う必要がなかった。その液状のものを一気に飲みほす、これで1日の食事が終わる。もちろん毎日が同じでなく、科学的に殺さぬようカロリーが計算されていて、毎日ビスケットの量が少しずつ増やされたかと思うと、今度は毎日減少していく。最後には2枚と5分の1になるというような精神的拷問もあった。常に飢餓感にさいなまれるように英国は管理したという。今度は収容されている日本人と朝鮮人が骨と皮ばかりになり、骨がカタカタと音をたてはじめた。チャンギ刑務所のこうした暮しと平行して、裁判が進行していったのである。この措置といい、憲兵隊と共に、俘虜収容所関係者が優先された裁判といい、英国のBC級裁判が俘虜虐待を重く見ていたあらわれだと考えられる。この点は、ジャカルタでのオランダ(蘭印)法廷にも共通していた。東南アジア連合地上軍戦争犯罪訓令第1号によると、マイナーな戦争犯罪人(BC級)を、次のような特定の戦争犯罪を犯した者と定義している。
(a)正当な理由なく行われた銃殺及びその他の方法による殺害(b)俘虜が逃走していたという虚偽の口実による銃殺及びその他の方法による殺害(c)暴行による致死及びその他の形態の謀殺又は銃殺(d)射撃、銃剣による傷害、拷問及び正当事由によらない暴力の行使(e)その他の形態の虐待で、重大な肉体的傷害を与えるもの(f)金銭及び財物の窃取(g)正当な事由によらない拘禁(h)食物、飲料水及び衣料の不十分な給与(i)医療的配慮の欠如(j)病院における不当な待遇(k)作戦の遂行に直接の関係ある作業又は不健康若しくは危険な作業への使用(l)連合国人を戦闘地域の砲火にさらされた区域に抑留する行為(m)俘虜又は一般市民を砲火の遮蔽に利用すること、病院又は生存者に救助の措置を講じないで商船を攻撃するような事件(n)「拷問」又はその他の強制的方法による尋問(法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判資料第1号 戦争犯罪裁判関係法令第1巻』)
ー収容所に勤務していた者なら、誰でも(b)や(i)に該当する。(d)や(e)は殴打が日常茶飯事であった日本の軍隊のなかでは、常に起りうるものである(k)は泰緬鉄道に関わりをもった者なら誰もが該当する特に鉄道隊はもろにその容疑を受けることになる。(f)は「窃取」の解釈がむずかしい。俘虜はいつも腹をすかしていた。自分の持っていた時計や万年筆、ライターなどを、食べるものと交換しようとした。交換が正当に行われていれば「窃取」にはならない。ところが、ものがほしくて無理に交渉させる、交換を強要する監視要員もいた。当時は、今のように物が氾濫していなかった。最近では、ダンヒルのライターもオメガの腕時計、パーカーやモンブランの万年筆も珍しくはなくなったが、1960年頃までは、舶来品と呼ばれて貴重がられていた。まして、1945年以前では、こうした品物は、庶民にとって高嶺の花である。当時、まだ電気もなかった山深い村から徴用されてきた李さんにとって、ダンヒルもパーカーも名前すら聞いたことのない「文明の品」だった。オメガぐらいの名前は聞いたような気がするというほど、日本とヨーロッパ、なかでも日本の植民地朝鮮の民衆とヨーロッパの人々の間の「生活水準」の差は大きいものだった。自分の管理している俘虜が、これら未だ見たこともない立派なものをもっている。欲しくなる。それが高じれば、監視要員という立場を利用して、俘虜から半ば強制的に物をとることだってあっただろう。交流をしぶる俘虜がいると、「このヤロウー」と嚇かしながら、殴ったりした監視要員もいたようだ。腕に5つも6つも時計をはめていた監視要員もいたと李鶴来さんは教えてくれた。李さんも腕時計1個と懐中時計1個を買ったことがあるが、敗戦と戦犯容疑での収容というゴタゴタのなかで、みんな無くしてしまった。
―初めて見る文明の利器に欲望が刺激されるのは、今も昔も変わりない。第三世界の民衆が、ラジオやテレビから流されるコマーシャルで、冷蔵庫を、テレビを、車をほしくなるように、自分の立場を利用すれば手の届くところに、腕時計やライターや万年筆がある。何とか理由をつけてそれを巻あげる。腕に5つも6つも時計をはめてみたところで、何の役にたつわけではないが、そうやって欲望を満たしたかったのだろう。日本人、朝鮮人を問わずおそらく誰もが、この文明の道具を欲したのではないのだろうか。日本の敗戦後、立場が逆転した連合軍の監視員が、今度はこれらの品物を奪取したことも、しばしば証言されている。46(昭21)年1月21日、シンガポールにおける英軍裁判が開始された。さきの篠崎氏の言によれば初期においては、日本人の弁護士も通訳も、本職は不在だった。形式だけ英軍将校が臨時に弁護人となり、通訳はほとんどが日本で生れた英人女性とかその他の臨時の者であり、まず言葉の点で被告ははなはだ不利だった。そのために、抗弁したくても、抗弁できないことが多かったという。そして、裁判は、目を移す暇もないぐらいのスピード裁判で、一審即決、簡単に死刑の判決が下された。上告審がなかったので、死刑判決の1週間後か長くて2ヶ月以内に処刑されたという。タイ俘虜収容所、ジャワ俘虜収容所、マレー俘虜収容所の監視要員として、朝鮮人軍属が法廷に立たされる時がやってきた。
ー連合国は、朝鮮人、台湾人を日本人と別に集結させ、直接、本国に送還しようとしていた。それにもかかわらず、戦争裁判に関して、日本人と朝鮮人を別個に取扱おうとしなかったのは何故なのか。その経緯についての詳細は今のところはっきりしない。明らかなのは、1945(昭20)年12月11日と13日に、シンガポールで開かれた蘭領印度検事総長と英国当局との会談において、次のことが確認されたことである。
「戦争犯罪に関する限り、朝鮮人は日本人として取り扱われる」
―朝鮮人はまさか戦犯に関してのみ、日本人なみになるとは、想像もしていなかった。自分たちの運命にかかわる重大な問題が常に頭越しに決定されていく。知らないところで、自分の運命が変えられていくのは、何もこの時ばかりではなかった。しかし、戦犯追及だけは「まさか」と思っていた。誰もが予想しなかった戦争犯罪人としての追及が始まったのである。東南アジア連合地上軍最高司令部などは、新聞に対し、裁判の進行および行われようとする裁判に関して「新聞発表」を行なうことにしていた。公衆の関心を維持し、かつ証拠をたずさえて人々が出頭するようにさせるために、新聞に戦争犯罪裁判を周知させるようにしていた。

ー被害者の家族が生存している華僑虐殺裁判には、ヴィクトリア・メモリアル・ホールが使用されたが、シンガポール全市は凄まじいばかりの反日気運がみなぎっていた。その中での裁判である。法廷を埋めつくした遺族のなかから憤懣の声があふれていたことをであろう。だが、収容所関係の裁判の多くは、市内につくられた10ヶ所の、傍聴人もほとんどいない法廷で開かれたのである。暑さのため時には眠気をさそうような閑散とした法廷のなかで、判事と弁護士、通訳、検事そして被告人だけの裁判が進められていった。
2 李鶴来さんの場合
―シンガポールのオーストラリア法廷―
却下された起訴状
―泰緬鉄道の建設にあたる俘虜を監視していた李鶴来さんが、バンコクのパンワン刑務所から、シンガポールのチャンギ刑務所に送られてきたのは、1946(昭21)年4月下旬である。9月中旬、たった1回の取調べを受けただけである。取調べにあたった係官とのやりとりは李さんの記憶によれば次のようなものだった。
調査官―俘虜の患者が多く死亡したというが、そのことを知っているか。
李―知らない
調査官―鉄道隊の兵隊が俘虜を殴打して死んだというが知っているか。
李―そんなことはない。
調査官―正直にいわないと君のためにならないぞ。日本軍宿舎と鉄道隊の距離はどのくらいか。
李―4500メートルで柵で境界になっている。
調査官―臼杵中尉との関係は。
李―分遣所長であり、私の上官である。
―こんな内容の取調べを受けたあと、李さんは特別監視のため独房に監禁された。起訴されたのである。取調べから1週間たった9月25日、連絡将校が起訴状をもってきた。それにはオーストラリア人俘虜4名が名をつらねていた。いずれも李さんの知らない名前だった。その内容は次の3点にわたっている。

1、ヒラムラは、ヒントク収容所長であった。所内の設備は不備、給養、被服、医療は不足していた。2、部下の統制が悪く、部下の暴行を阻止しなかった。3、患者を就労させた。
ーいずれも、1943年3月から8月にいたるヒントク分駐所での出来事のみが対象となっていた。ヒラムラとは李さんの日本名ヒロムラをなまって発音したものである。李さんが将校だったことはない。李さんは、自分は軍属傭人で、将校という身分でもなければ、そういう権限もなかったとして起訴状の内容を否認した。連絡将校は、その日は起訴状をもって帰ったが、3日後ふたたび同じ起訴状をもってやってきた。「お前がこの起訴状を受けても受けなくても、この起訴状によって裁判をする」。裁判はいつ始まるか分らない。弁護士も1回会っただけで、何の打合せもなかった。独房のなかの孤独な毎日は、見捨てられたような不安と寂寥感に襲われる。毎晩のように監視兵の暴行が続く。昼は照っても降っても10坪ばかりの空地に出される。20歳になったばかりの若い李さんにとって、肉体的拷問よりは、精神的動揺の方が大きかったのではないだろうか。そんな時、分遣所長の臼杵大尉が、証人を引きうけてくれるとの申出があった。「広村には何の責任もない、分遣所の責任は私にある。広村は心配するな。しっかり頑張ってくれ。」との伝言が伝えられてきた。誰からも見捨てられたような、不安な独房生活のなかで聞いた大尉の言葉に、李さんは思わず涙をこぼしたという。
ー忘れもしない10月24日、事務所から呼び出しがあった。弁護士がきたのだろうか、それとも、すでに1ヶ月もたっているので、明日から裁判があるのかもしれない。あれこれ思いめぐらせながら、番兵にせかされるように事務所についた。「起訴状が却下された」との言渡し。思いがけない事態に驚いた。だが、単純に却下を喜ぶ気持になれない。なぜ却下されたのだろうか。却下した理由がはっきりしないだけに、新たな不安がつきまとった。独房から雑居房に移され、釈放の日を待った。その年のクリスマス・イブに、李さんは釈放された。ひとまず、チャンギ刑務所と反対側のシンガポール島の西端ジュロン・キャンプに落着いた。ジュロン・キャンプは、日本人引揚げの船待ち場としてつくられ、一時は8000人の日本人がここで帰国の日を待っていた。李さんがジュロン・キャンプに入った頃は、日本人の引揚げは、ほとんど完了しており、キャンプには、李さんのような釈放された者やマレー半島、スマトラ、ジャワから移動してきた日本人が集まっていた。朝鮮人のキャンプが、市の中心地から西北のブキティマの西側のゴム園内にあったが、李さんが釈放された時は、すでに全員が引揚げてしまったあとか、李さんはこの朝鮮人キャンプについては何も知らされていない。
―シンガポール日本人社会の歩みをまとめた『南十字星』のなかにわずかに朝鮮人キャンプについて触れた頁がある。それによると朝鮮人はゴム園の中のインド国民軍のバラックに集結した。その数約600人、そのなかには慰安婦として朝鮮から連行されてきた300人以上の若い女性がいたという。彼女たちの多くはシンガポールのケーン・ヒル一帯に設けられた慰安所で働かされていたのである。キャンプ内では、朝鮮が日本の統治から解放されたこともあって、意気盛んだったようだ。キャンプの長には、日本の陸軍士官学校を卒業した白少佐があたっていたという。朝鮮人キャンプの西側に、台湾人のキャンプもあった。李さんがジュロン・キャンプに移った頃は、キャンプの設備は悪く、天幕を張って、そこに7~8人が同居した。食糧状態も悪かった。しかし、チャンギ刑務所から釈放されてきた者は、栄養失調でやせ細っていたためだろう。特別に の羊かんを配給してくれたという。刑務所からは解放されたものの、いつまた捕まるかもわからないという不安は消えなかった。ジュロン・キャンプには、毎日ジープがやってきて収容者を連行していったからである。サイゴンで逮捕された李さんの親友呉在浩さんも一たん釈放されてジュロン・キャンプで帰国を待っていた時に、再逮捕されている。
ーいつ、自分の番がくるのか、不安に満ちたキャンプ生活に終止符をうったのは1947(昭22)年1月7日、1日千秋の思いで待った引揚船に乗船できた。幸いなことにチャンギからの迎えはなかった。石炭船を改造した引揚船は、通風は悪く、乗客は“モヤシ”のようにきっちりつめこまれたという。食糧は飢えをしのぐ程度、水浴びどころかお茶もろくに飲めなかったが、“目玉の青い奴”がいないこととあと少しで家に帰れるとの思いが、皆を明るくしていた。狭い船内では思い思いに麻雀、囲碁、トランプに熱中し、日本へとはやる心を何とか抑えようとしているようだった。サイゴン沖合のサンジャック岬をすぎると、船内にも少し冷気が戻ってきた。1月19日、船は燃料の石炭と水や食糧を積むために香港に寄った。船上から眺める香港の夜景は青い灯、赤い灯が海上に映り、実に美しいものだったという。のんびりと潮風にふかれて香港の風景を見ていた李さんのもとに、不吉な話が伝わってきた。英軍将校が3人の召喚状をもってきたというのである。そのなかに、コーリアン・ガードのヒラムラという名前があるという。「やっぱり」と思ったが、ここまで辿りついたのに、と思うと何とも無念だった。連絡係がやってきて、李さんに実に気の毒そうに伝えた。
―「指揮官は、ヒラムラという名前の者はこの船には乗っていないと頑張ったのだが、それでは、その名前に一番近い名前の者を出せ。もし、人違いであれば、出航までに帰してやるというので・・・。」2度と見たくないと思ったあの地獄のようなチャンギにまた舞い戻らねばならないとは・・・、投身自殺がチラッと頭をかすめた。自分が持っていたものを、すべて友人に分けて、着のみ着のままで出頭した。引揚者に見送られた3人を乗せた水上艇が埠頭に接岸すると、今度はトラックが待っていた。くねくねと曲がった道路を30分ばかり走って、港から山一つ越したところにある刑務所にぶちこまれてしまった。そこが大英帝国の香港統治の牙城ともいうべきスタンレー刑務所だった。三方は奇岩怪石に囲まれ、一方は紺砦の静かな海に面して景色がよい。山をくり抜いて頑丈な鉄の正門がある。周囲は高さ10メートルにも達するコンクリートの塀、そのてっぺんにはガラスの破片をこまかく植えこんでいる。その内側は鉄網と垣根で二重に柵がこしらえてあり、四隅には機関銃座と探照灯を取りつけた堂々たる望楼がある。広大な地域に鉄筋化粧レンガ張りの3階建がいくつか並んでいた。大英帝国の威力を誇示するかのようなスタンレー刑務所といい、東洋一をほこるチャンギ刑務所といい、大英帝国は巨大な刑務所に植民地民衆の声を閉じこめて、万年統治を狙ったのではないのか。刑務所はどこも立派につくられている。
―李さんがぶちこまれた頃は、スタンレー刑務所の一画に100人近くの日本人戦犯が収容されていた。李さんは独房だった。問口1間半ぐらいのコンクリートの部屋に、寝台代わりの板と便器、毛布が一枚あった。扉のない鉄網の高窓から沖を航行する船が見える。今頃は・・・と考えるとよけい望郷の思いがつのり悲しみも深い。一度釈放されて、香港まで辿りついて、やれやれと思っていた矢先の、不意の逮捕だけに、衝撃も大きかった。3週間もスタンレーで暮しただろうか。天気の悪い日は刑務所は昼でも霧の中に閉ざされてしまう。扉のない高窓から容赦なく冷気が入りこんでくる。夜など毛布1枚では寒くて眠れないこともあった。食事は日に3回、朝はビスケット4枚か5枚とキャベツの浮いたスープ1パイ、昼と夜にお粥の固い程度のメシがコップ1パイとスープ、そのほかコップ1パイの水を甘くするのにも事欠く量の砂糖とごく少量の脂肪類が支給された。作業は所内の掃除の他は特になかったが、強制体操や真ちゅう磨きはやらされていた。2月18日、日本から連行されてきた今村均大将らと共に、再びシンガポールの地を踏んだ。2度と戻りたくないと思っていたチャンギ刑務所に舞い戻った。チャンギもまたスタンレー刑務所と同じように、10メートル近くもあるコンクリート塀に囲まれている。以前にもまして、この塀は、李さんの心に重くのしかかるような重圧感を与えた。
再び起訴されて
―取調べもなく独房に監禁された。3月10日起訴状を受けとったが、思った通り、以前、却下されたものとほとんど同じだった。ただ、告訴人が4人から9人に増えていたことと、患者を就労させたため多くの者が死亡したことがつけ加えられていた。新たな告発人のなかには、タンノック中佐というキャンプ・コマンダーが名をつらねていたが、それとても李さんは名前と顔が一致しなかった。李さんにとっては、オーストラリア兵から告発状が出たことの方が驚きだった。個人的にはオーストラリア兵に親しみを抱いており、自分の金で患者に卵を買い与えたりしていた。オランダ兵のなかには、つげ口をする者、卑怯なまねをする者も多く、李さん個人としては、オランダ兵によりきびしくあたっていたので、彼らから告発状がでるものばかりと思っていた。天幕を破いたことでビンタをとったのもオランダ兵からだった。食事の時に、残りをもらおうと競って大さわぎをするオランダ兵を、厳しくとがめたこともある。だが、オランダ兵からの告発状はなかった。証言をしてもらえるはずの臼杵大尉は、46年12月22日、絞首刑となっている。本来、李さんの裁判は第4分所の合同裁判になるはずのものだったが、一度起訴状が却下されたりしたため、1人取り残された形となってしまった。知田外松分所長はすでに懲役10年の刑が決り、オートラム刑務所に服役していた。しかし、相手は少佐である。軍属の李さんが気軽に証人を頼める相手ではなかった。途方にくれた李さんに、同じ分遣所にいた岡田清一衛生曹長がジョホールバルで服役していることを耳にした。彼も懲役10年の刑が決定していた。

―エライ人には卑屈だが、自分より下だと思う人には、尊大で、横柄になる人などどこにでもいるものだ。李さんの弁護にあたったS弁護士は、まさにそういう人間だった。S弁護士を通じて、岡田曹長を証人に申請したが、彼の返事は「いない」とのことだった。後に、一命をとりとめた李さんが岡田曹長と再会した時に、弁護士からの依頼の件を話したところ、彼は「ずっと、ジョホールバルにいたが、何の連絡もなかった。広村の裁判が行われているのも知らなかった」と語ったという。李さんは、S弁護士が連絡をしなかったのだと思っている。それに確証はないが、追いつめられた李さんの研ぎすまされた直感だった。仕方ないので、初代の第4分所長石井民恵大佐を証人に申請した。大佐は、すでに死刑の判決を受け、死刑囚房Pホールに移っていた。裁判についての打合せのため、大佐との面談を要求したが、弁護士は取りあわなかった。弁護士が単独で石井大佐に面会したが、その時、どんな話をしたのか李さんには教えようとしなかった。弁護士との打合せの時も双方の意志疎通はできていない。李さんが収容所の組織や命令系統を説明しようとしたのに対し、弁護士は事件に直接関係ないといって聞こうともしなかった。また、李さんは「人員」と言ったつもりだったが、弁護士は「賃金」と聞いて話がくい違ったことがあった。S弁護士は、「君の日本語は非常にへただね」と怒ったという。おそらく、李さんは涙の出るほど悔しかったのではないのか、日本語は母語ではない。だがそんな抗議をしても始まらないし、弁護士に自分の感情を爆発させて、弁護をおりられることも怖い。感情をぐっと抑える李さんに、弁護士はさらに追いうちをかけた。
ー「この起訴状はアブナイ(死刑の意)」「私は君の弁護はできないね」さすがに感情を抑えかねて、ムッとしたが抗議はできなかった。そんな弁護士にでも、とにかく、誰かにすがって裁判に臨むよりほかはなかったのである。裁判の前に、李さんの心は深く傷つけられており、裁判をのりきる力を失いかけていた。1947(昭22)年3月18日、公判が開かれた。シンガポール市内の小さな建物だった。オーストラリア人の判事1人、陪席判事2人、検事1人(オーストラリア人)、S弁護士、日本人通訳2人、そして李さんが出席して開廷した。すでに、裁判に対する市民の関心は薄れてきたのか、傍聴人はいなかった。李さんは、バイブルをもって宣誓した。裁判官の人定尋問、検事の訊問とすすんでいった。李さんの記憶に従って、その訊問を追ってみよう。
ー検事「ヒントクの分駐所には、赤痢患者や下痢患者が多くいたというが知らないか」李「知りません」検事「見たことはないか」李「見たこともありません」検事「俘虜人員の割出しは誰がやるのか」李「所長が俘虜の労務係と協議の上でやる。私はその配当表に従って、人員を配当します」検事「もし400名の時、380人しか作業に出なかった場合は、どうするのか」李「過不足はなかったと記憶しています」検事「もし、あった時はどうするか」李「所長に報告します」検事「作業人員は鉄道隊の要求によるのか収容所の就役人員の通告によるのか」李「収容所の通告によります」検事「天幕に火事があったというが知っているか」李「知りません」検事「鉄道隊の兵隊が俘虜を殴って2名死亡したというが知っているか」李「そういうことはありません」検事「鉄道隊とどれぐらい距離があるか」李「約4500メートルです」検事「日本軍は何人いたか」李「兵隊が5名、軍属が10数名いました」裁判官「兵隊と軍属の服装は違っていたか」李「私が現在着ている服装と同じで、兵隊も軍属も同じです。ただ、階級章が違っていました」検事「俘虜が多く死亡したというが知らないか」李「知りません」
―40分ほどで、第1日目の被告に対する訊問は終った。判事の心証についてはわからないが、李さんとしては精一杯、頑張ったつもりだった。翌々日、石井民恵大佐が証人として出廷した。

検事「被告を知っているか」石井「私の部下で、非常に真面目に勤務しておりました」検事「赤痢や下痢患者が多くいたというが知っているか」石井「はい、知っておりました」検事」大本営からこの工事は急を要するから急ぐようにとの命令の伝達を受けたことはないか」石井「ほかの所長は受けたかもしれないが私は受けておりません」検事「作業の人員の配当表は誰が出すのか」石井「日本軍が出します」検事「それでは診断は俘虜の軍医がやって作業人員の配当表を日本軍が出すのはおかしいじゃないか」石井「それでも日本軍が出します」検事「作業人員は鉄道隊の要求によるものか。収容所の通告によるのか」石井「鉄道隊の要求によります」検事「要求人員より作業に出る人員が足りなかったときは、どうするのか」石井「それだけで間に合わせます・・・(後は、つっかえる)検事「120余人も死亡したというが、その原因はどこにあると思うか」石井「労働が激しかったからだと思います」
-30分で石井大佐の訊問も終った。この裁判に関する一問一答は、李さんが巣鴨・プリズンに収容されている時に記録したものである。自分の命がかかった裁判である。こまかい文言に多少のくい違いはあるが、訊問の経緯と答えは違っていないと李さんは自信をもって語っている。李さんの裁判の最も重要なポイントは、患者を強制的に作業に出したので、そのために多くの俘虜が死亡した。その責任はヒラムラにあるという点である。この点では石井大佐と李さんの証言は、明らかにくい違っていた。石井大佐は、李さんの証言を終った6日後、絞首台にのぼっている。李さんを告訴した9人のオーストラリア兵は、誰1人として出廷しなかった。S弁護士が「重刑を科することは云々」と弁護したようだが、石井大佐との証言のくい違いにガッカリした李さんは、そのまったく意味のない弁護を覚えてはいない。もちろん、証人と李さんのくい違いについて、弁護士は何の説明もしなかった。ついで、検事の弁論があったが、英語なので、李さんにはちっとも分らなかった。こうして、裁判はひと通り終った。数分後、判決が下った。「デス・バイ・ハンギング」絞首刑である。ボーッとして、頭の中にポッカリ穴があいたような気分だ。はりつめていた緊張感がゆるんだせいか、何が何だかわからない。頭のなかで考えがちっともまとまらない。遠くで「デス・バイ・ハンギング」の声が耳鳴りのように聞えてくる。ぼんやり立っている李さんは、冷たい手紙の感触に、ようやく現実にたち戻った。

死刑囚として
―李さんが収監されたのはPホールと呼ばれる死刑房だった。Pホールは他の房とへだててコンクリートの塀に囲まれており、ちょうど三重の塀に囲まれたかたちとなっている。Pホールのすぐ北側4~5メートルもないところに、絞首台があった。絞首刑の様子は見えなくとも、その一部始終は手にとるようにわかる。絞首台にのぼって叫ぶ「天皇陛下万歳」の声、「万歳!万歳!」と絶叫する声、すべてがPホールで手にとるように聞こえる。万歳に続く、ガチャーンというものすごい音、そのあとの静寂・・・。房のなかで同じ死刑を待つ者がそれを聞かされることになる。合掌し、南無阿弥陀仏を唱えながら死刑にたちあうのである。死刑執行後の2,3日は全員が頭が痛く、耳鳴りがしたという。とても、1人で房のなかにいることに耐えられず、中庭に出してもらうが、気が抜け、虚脱感で全員がボーッとしている。食事も喉を通らないが、麻雀とか囲碁とか何かの娯楽をやって気を紛らそうとする。そうでもしなければ辛くて耐えられないからである。「自分の番はこの次だろうか」「自分はあのように取り乱さずにいけるだろうか」「あの瞬間はどんな気持なのだろうか」「痛いのだろうか」「苦しむのだろうか」「あの世はどんなところなのか」考えまいとしても、同じ死刑囚として自分の運命を思えば、つい今しがた聞いた友人の絶叫とガチャーンという音が思い起こされる。

―李さんはPホール入りをした当初は、自分でも思いがけないほど平静だった。むしろ一種の安堵感さえ感じた。もう思い悩むことはない。これ以上悪いことはないのだ。何だか肩の荷をおろしたような身軽ささえ感じだという。しかし、こうした感情も日がたつにつれて、次々と襲ってくる不安と入れかわった。なかでも、宝城まで見送りに来てくれた父親、タンスの底からそっと反物を取り出してきてくれた母親の姿を思い起こすと、夜もねむれなかった。この知らせを聞いて両親はどんなに驚くだろうか。日帝協力者ということで周囲の人たちから白眼視されないだろうか。弟は、妹は・・・。家族に何か不幸なことが起こらなければいいが・・・、心をかき乱すのは、今は解放された朝鮮に住む家族のことばかりだった。あの時、募集に応じなければよかった。今さら後悔してもはじまらないが、日本の戦争なのに、なぜ自分たちが戦争犯罪人として殺されなければならないのか。この疑問はいくら考えても解けなかった。日本人の死刑囚のように「天皇陛下万歳」と言っては死ねない。朝鮮人死刑囚の心を悩ませたのは、「なぜ、朝鮮人である自分が」との思いだった。自分の死に、何の意味も慰めも見出せないことはつらい。特に、祖国が独立した今、日帝協力者として死刑を待つ身に、どんな慰めがあるというのだろう。
ー李さんは、Pホールで多くの人の死にたちあった。なかでも、同じ軍属だった林永俊さんの死は寂しいものだった。最後の別れの握手の時に、「ヒロムラさん、減刑になることを祈ります。そして減刑になって出たら、ハヤシという人間が、そんなに悪い人でなかったことを知らせて下さい」と言いのこした。遺書もなく辞世の句もない林さんの最後の言葉だった。林さんは死を共にする仲間もいない1人ぼっちの旅立ちだった。死刑前夜の送別のための晩さん会には、Pホールに残る李さんとM中佐それに教晦師が出席した。次々と死刑が執行された。Pホールに残るのは3人だけとなっていた。収容者が多かった時の賑やかな晩さんと違い、林さんは食事もとらず、元来、寡黙な彼は、黙々として、ただ晩さん会の終るのを待っていた。歌も笑いもない寂しい晩さん会だった。林さんは「天皇陛下万歳」「大韓独立万歳」を絶叫して死んでいった。「皇国臣民」となるべき教育を受けて来た林さんにとって、祖国の独立と天皇が、頭のなかにないまぜになっていたのである。これは林さんだけではなかった。日本人もおよばぬ程、「皇国主義者」だったと日本軍人が賞賛してやまないある朝鮮人軍属は獄中で次のような歌をつくっている。
血涙の詩 1、満獄寂然声もなく 血涙滂沱尽きるなし 怨魂凄烈鬼風を呼び 復讐の念鬼たらん 2、嗚呼壮烈我が友よ 身は刑台に裂くるとも 正義の鉄則誰ぞ断つ 忠魂永く義に生きん 3、暴虐英鬼米犬が 物の力に勢借りて たとへばし栄ゆとも 断じて滅せんその邪悪 4、嗚呼我は今ぞ逝く 忠臣楠公住む処 桜よ富士よ永へに 日出ずる国に栄へあれ (『嗚呼戦犯泰俘虜収容所』)
―彼は死刑前夜も、この自作の歌を歌っていたという。朝鮮人4人が同時に死刑の執行を受けるという前夜の晩さん会で、ある者は「アリラン」を歌い、ある者は「トラジ」を歌い、4人そろって「愛国歌」を歌った。そのあとで、日本人と朝鮮人が一緒に合唱したのは「君が代」と「海ゆかば」だった。天皇が介在しない、日本人と朝鮮人が一緒に歌える、自分たちの歌を作っていなかったのである。それは、軍隊だけの特別な現象でなく、すべてが天皇に帰一する当時の日本人と朝鮮人の関係を象徴するかのようだった。敗戦によって「大東亜共栄圏」の虚構がくずれ、「一視同仁」「内鮮融和」の価値観が崩壊したにもかかわらず、朝鮮人軍属たちは「君が代」を歌い「天皇陛下万歳」を絶叫して死んでいく。祖国が日本の植民地支配の軛から解放されたにもかかわらず、自分たちは日帝協力者として死を迎えなければならない。自分にその死をどう納得させることが出来るのか。朝鮮人死刑囚の苦渋は日本人にははかりしれないものがあった。納得しかねる死だからこそ、かえって立派な「皇国主義者」の仮面をかぶり通さなければならないこともあったのではないだろうか。
ーそれは解放された祖国へしがみつきたくとも、それが許されない彼らの切ないほどの思いを内に密めた「皇国主義者」としての行為だったのかもしれない。同じPホールのなかに暮しても、その葛藤に気づいた日本人はほとんどいない。李さんもまた同じだった。李さんもまた同じだった。錯綜した思いにうつうつとしながらも、自分のこうした考え方を変えることが出来たのは、巣鴨プリズンのなかでだった。Pホールに2人が残された。今度は間違いなく自分の番だ。この8ヶ月、次は自分ではとの不安におぼえながら過してきたが、2人になってしまえば、どうあがいても、自分が次にあの絞首台にのぼることになる。中庭の花壇をながめては、次にこの花が咲くものを見ることが出来るだろうかと思ってきたが、死ははっきりしている。気を紛らわすものもなく、坐してじっと死刑の執行を待つのは、22歳の李さんには耐えられない思いだ。自殺したいとも思った。しかし、どうせ殺されるなら1日でも長く生きたいとも思う。生と死の間で思いが乱れるが、神にその救いを求めることもしなかった。
-1942(昭22)年11月7日、夕食後、刑務所の監視兵に呼び出された。「ああ、いよいよ来たか。私の人生も明日の朝までか。」きっと顔が青ざめていただろう。動揺をかくし、監視兵に追われるように歩いて事務所についた。そこにオーストラリア人の将校がいた。不自由な日本語で、その将校は告げた。「20年に減刑します」と。予想もしていなかった。てっきり「明日の朝、死刑を執行する」と宣告されるとばかり考えていたからだ。茫然と立っている李さんを監視兵がせきたてた。Pホールへではなく既決囚を収容しているDホールへと。死刑房Pホールには日本人がたった1人残された。チャンギ刑務所のPホール、そこに暮した朝鮮人は11人、そのうち生きてPホールを出たのは李さん1人である。あとの10人は、ガチャーンという音と共に絞首台の上に若き命を絶っている。10人の9人までが、泰緬鉄道建設に従事する俘虜を監視していた。李さんとほとんど同じような立場で仕事をしていた軍属たちである。趙文相のように英語が上手で通訳をやっていたことが、仇となっていることもある。あとの1人も同じく軍属だった。パレンバンの飛行場建設にあたる俘虜を監視していた張永業、キング・コングとあだ名されていた巨貫の彼もまた、チャンギの絞首台で命を絶った。李さんが直接見送った仲間は、林さん1人だった。寂しい1人の旅立ちを見送った李さんは、林さんの祈りが通じたのか、奇跡的に死をまぬがれたのである。
3 兪東祚さん・鄭殷錫さんの場合
―シンガポールの英国法廷―
日本人との確執
「入れかわりたちかわり何度も首実検されたさ。何度か覚えていないぐらいよ。大体、1度はシンガポールへ送られたが、またメダンに送り返され、そこからもといたパレンバンへ連れていかれて、そして、シンガポールに舞い戻ったわけさ。その間、ずっと首実検なわけ。いれかわりたちかわり俘虜がやってきて、自分を殴ったり虐待したりした者を探すのよ。こうやって、手錠をかけられてメダン、パレンバンと、ぐるぐる引っぱりまわされて、やっとシンガポールのチャンギ刑務所に戻ってきたら、翌日検事がやってきて、起訴状を読みあげたさ。そして、これにサインしろというけど、起訴状って何かわからないし、どうしてサインするのかわからないから黙っていたさ。そしたら、検事が「これを認めろ」と言う。「何を認めろというのか、われわれは何もやっていないのに、サインなんか出来ない」と言ったさ。検事の奴、怒って拳銃を引き抜いて、「ぶち殺してやる」と言った。オレ、笑ったさ。どうせ戦争に負けた方に加担したんだから、死んでもどうということはないと言って、サインしなかったさ。結局、オレの起訴状は、サインしないまま裁判が始まったのよ。」

-1946(昭21)年7月20日、兪東祚さんたちの裁判が始まった。パレンバンの俘虜収容所に勤務していた26人が一緒に起訴された。分所長の蜂須賀少佐、山川主計中尉、仲井軍医、日本人下士官3人、そして兪さんや鄭さんら朝鮮人軍属20人である。パレンバンでは3000人の俘虜のうち1割の300人近くも死亡している。この死亡の原因が問われることになったのである。蜂須賀少佐は、裁判が始まる前は立派だった。「皆心配するな。過去において、諸君は、私の命令で働いたのであるから、全責任は私にある。私が全責任を負いましょう。」蜂須賀少佐の立派な態度に兪さんたちは感服した。そこで、「私たちの個人的なこともあるはずだ。自分でやったことは自分で始末しなければならないはずだ。個人的虐待は個人が責任を負いましょう」と述べた。だが、いかにも日本の武士らしく振舞う蜂須賀少佐は「いやそうではない」と答えたという。分所長が全責任を負おうというのである。これまでの裁判の経過を見ても、上に立つものが責任を負う姿勢を貫いている場合は、下の者に累が及ぶことは少ない。パレンバン俘虜収容所関係の判決の前に、刑が確定したジャワ俘虜収容所関係がそうだった。阿南中佐が全責任をとる覚悟でいたので、派遣した俘虜の3分の2が死亡するというパレンバンと比較にならない犠牲者を出しながら、死刑は、分所長、分遣所長そして下士官2人の計5人。バンブー・モリの通訳をしていた李義吉さんは、俘虜にひどく恐れられ、時には憎悪されていたが、死刑をまぬがれている。
―パレンバンでも、裁判が始まる前までは、調子がよかった。蜂須賀少佐が日本の武士らしく立派に責任をとるというのだ。戦争中、彼を嫌悪し何かにつけてぶつかっていた兪さんも、この時ばかりは、「わが殿」が立派に見えた。しかし、裁判が始まると事態は予想もしない展開となった。蜂須賀少佐が前言をひるがえしたのだ。「過去、部下がやった一切のことは、私に何ら関係ありません。ただ、私は軍の命令に従って、その命令を伝達しただけです。あとのことは、部下が勝手にやったことで、私には一切関係ありません」兪さんは仰天してしまった。「俘虜の食糧を400グラムと決め、病人の食糧を180グラムと決めたのは、私たちが勝手にやったというのか」「病気の俘虜を殺すと言ったことを証言してやろうか」「私らがやったことが、あんたの命令でないというのか。勝手にやったというのか」法廷は、命令した、しないでケンカになってしまった。戦争中も分所長が部下を統率できなかったことが、法廷の場でも露呈してしまったのである。蜂須賀少佐は、日本人は日本人だけ、朝鮮人は朝鮮人だけでやりたいと言い出した。朝鮮人軍属の側も同じだった。朝鮮人だけでやることに賛成だった。同じ事件で起訴されているのに被告が仲間割れしてしまったのである。死刑の判決を受けたあと、減刑されて一命をとりとめた仲井軍医が、両者の間をとりもった。


×

非ログインユーザーとして返信する