朝鮮人BC級戦犯の記録 内海愛子=조선인 BC 급 전범의 기록/Casier judiciaire de la classe BC coréenne/Korean BC Class Criminal Records⑤
ー蜂須賀少佐は当時、まだ、56歳だったが、戦犯として起訴されたあとは、ボーッとしてしまって、まったくダメだったと仲井さんも語っている。ボーッとしただけならまだ影響は少ない。責任を部下になすりつけようというのだから軍属たちが怒るのも無理はない。命令の実行者は軍属たちだけだったのだから。仲井軍医のとりなしで裁判が再開された。弁護士はAという元の司政官2人。弁護士は日本人のところへは出向いたが、朝鮮人軍属のところへは1度も足をはこんでいない。少なくとも鄭殷錫さんは、1度の面会もなかったと語っている。死ぬか生きるかの瀬戸際の時まで、差別されていることが骨身にこたえた。使う時は「天皇陛下の赤子」とおだて、いらなくなれば「伝書鳩以下」とけなされる。そうした軽んじられる自分達の姿をつくづく感じたという。以前から日本人とケンカをしていた兪さんとて同じ思いだった。裁判は46日間、毎日続いた。被告たちは手錠をかけられ、トラックで、市内の公会堂のようなところにつくられた臨時法廷に毎日通った。責任能力を失なった蜂須賀少佐は「あることないことを喋った」という。英軍の側の戦術も上手かった。軍属を証人として活用したのである。検事が軍属たちに、こういうことを言えば早く帰してやるとか、管理がわるかったのだから死刑にはしないとか甘言を弄して、検事側の証人に使ったりしたのである。日本人と朝鮮人の間の感情的縺れをうまく利用したやり方である。
ーたとえば、仲井軍医の場合も次のようなことがあった。パレンバンの収容所では、自活用に俘虜たちに食べるものや薬草の栽培をやらせていた。仲井軍医は労働時間以外、働かせてはいけないと指示したのに、山川中尉が無理に労働させようとしたことがあった。仲井さんに有利な証言をしようとしてこのことを語った軍医がいた。だが、これは山川中尉には不利な証言になった。ある軍属がこうした証言をすると、検事は他の軍医に対してこれが事実か否かの確認をしようとする。イエスかノーか問いつめられれば、軍属も答えざるをえない。こうしたやり方が一つ一つのケースで行なわれた。「蜂須賀のハチに刺されるといたい。われわれに対しても、つらくあたったのだから、まして俘虜に対してどれだけハリで刺したことか」ある軍属はこう語っていた。その気持の齟齬が、裁判のなかですべて被告に不利を抱いている。軍属は弁護士にさえ不信感を抱き、法廷戦術としては最悪な状態で臨んだことになる。判決は苛酷なものだった。日本人は将校・下士官6人全員に死刑、朝鮮人軍属の判決は死刑3人、終身刑3人、有期刑10人となった。1946(昭21)年9月6日である。のちに減刑されて結果的には、蜂須賀少佐、山川中尉、下士官2人、軍属張水業の5人が死刑の執行を受けている。終身刑は3人、のこる14人が有期刑となった。
―「人間はおかしなものだ」と兪さんは言う。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、いざ判決となると、ボーッとしてしまって何が何だかわからなかったという。法廷を出て初めて20年を知ったのである。手錠をはめられ、警備兵の自動小銃に追いたてられて、トラックに乗せられた。車は海岸沿いの広いアスファルト道路を東に向って走った。湾のなかには、貨物船がたくさん碇泊していた。往き交う自動車の数も多い。シンガポールはすっかり落着きをとり戻し、平和なたたずまいを見せていた。トラックの上から沿道の人々の姿を見ているとつい先刻の「デス・バイ・ハンギング」が遠い世界の出来事のように思えてくる。蜂須賀少佐は町の平和な風景を見て泣いた。それを見て兪さんは、また蜂須賀少佐に悪態をついてしまった。「蜂須賀さん、あんた昔、われわれに何といったか、女みたいにメソメソ泣いて!」そんなことを言うことがどんなに残酷なことか、兪さんも知っていた。しかし、「生きていたら、私がただじゃおかないさ」と35年たった今なお、兪さんは激しい口調で語る。植民地の人間として、侮られ蔑まれた悔しさが、その激しい口調にこめられている。おそらく蜂須賀少佐には、兪さんのこうした態度が理解できなかったのではないのか。華族の家に生まれ、陸軍幼年学校を卒業し、順調に人生を送ってきた彼にとって、植民地の人間として生きてきた兪さんの屈折した思いは、考えも及ばないものだったのだろう。なお、彼は遺書のなかで「一番俘虜に理解が深かった私が此の運命に陥るとは全く理非が通らぬ」「個人トシテハ俘虜ニ常ニ鷹揚ニ目ヲカケテヤッテ居ツタノデ、宣告ヲ受ケタ後ノ今日デモ頭ニ一寸本当ノ様ニ響イテキマセン」とその判決に対する態度を述べている(「世紀の遺書」)。
アジア人の血を吸って生きる
―植民地の人間として差別に鋭敏な感性を持っていた兪さんは、イギリス人やオランダ人に対しても批判的である。「私らは、植民地に生まれ、植民地に育って植民地の教育を受けて、奴隷のような扱いを受けてきたさ。だから、オランダ人がインドネシア人を、イギリス人がインド人やシンガポールの人間を、人間扱いしていないのがよくわかる。イギリス人は、紳士的だとか上品だとか言う奴がいるけど、やっていることは紳士じゃない。アジア人の血を吸って生きているのさ。人の血を吸って、やることがないからスープの飲み方が、ああだ、こうだと言っているのさ。毎日の生活に追われて忙しく働いている人間はスープの飲み方なんかいってられない。人間が人間の血を吸って生きているのが紳士なのか。同じように働いて、同じように苦しんで、同じように楽しんで社会を築いていくのが人間か。どっちが本当に人間らしいのかとオレは言いたい。」
식민주의(植民主義)는 국가 주권을 국경 외의 영역이나 사람들에 대해서 확대하는 정책 활동과 그것을 정당화하는 사고 체계를 말한다. 엄밀히 말하자면, 영향력이나 지배력, 곧 패권의 확대를 뜻하는 제국주의와는 달리, 식민주의는 영역, 곧 국가의 강역의 확대를 꾀한다
.Latinaラテン語→Colonialismus est exstructio conservatioque coloniarum in terra ab hominibus externis,[1] ratio qua maiestas coloniae a capite vel metropole vindicatur, dum coloniae structura socialis, administratio, oeconomia, capitale, mercatus et cultura a colonis, hominibus ex metropole, mutantur. Colonialismus ergo est copia coniunctionum imparum: inter metropolem et coloniam, et adeo inter colonos et indigenas.
―兪さんは、イギリス人やオランダ人俘虜と接触するなかで、彼らの支配者としての、どうにもやりきれない傲慢さを感じとっていた。それは時には、日本の植民地の人間である兪さんにも向けられた視線だったのではないのか。兪さんには、イギリス帝国主義、オランダ帝国主義の抑圧の下に呻吟するアジアの人々の姿が見えていた。それは日本帝国主義の下で呻吟する自分の姿でもあったからだ。判決を受けた兪さんや鄭さんたちは、既決囚の房へ移された。死刑判決のあった9人はそのまま死刑房Pホールへと収監されてしまった。あれほど蜂須賀少佐に楯ついた兪さんだったが、Pホールへと送られた9人を思うと心痛むものがあったという。
刑務所のなかで
ー朝鮮人と日本人の感情的な縺れは、チャンギ刑務所のなかで、多くのトラブルを生み出していた。戦争中の恨みもある。裁判で責任のがれをする上官への腹いせもある。「上官の命令は朕の命令だ」と散々いばっておいて、裁判になると自分だけ助かろうとした上官は、どう考えても許せない。自分たちが、こんなところに閉じこめられているのも、もとはといえば、あいつのせいだとの無念な思いもある。戦争中、抑圧されっぱなしだった朝鮮人軍属たちにとって、軍隊の階級が崩壊した今、その忿懣を殴るということで晴らそうとしたのである。朝鮮人の日本人への暴行事件が頻発したのち、刑務所側は日本人を階下に、朝鮮人を2階にと分離収容した。しかし、それでも暴行事件はおさまらなかった。ある時、日本人のS大尉が、12~13人の朝鮮人に暴行を受けた。原因は炊事当番に朝鮮人を1人加えるよう要求したところ、ことわられたからだという。ビスケット2枚とか3枚に”ドロンコ”と呼んでいたドロドロの粉をいれたような汁で、1日を過さなければならない時だった。空腹のあまり豚のエサだった腐ったコンビーフを食べる者、溝に流れるメシつぶを拾って口に入れる者、誰もが飢えに苦しんでいた。炊事当番になれば何らかの余禄もある。少し、くすねて仲間で食べることだって出来る。しかし、炊事は日本人だけで独占されていた。朝鮮人の収容者は600人もいたという。1人ぐらい炊事班に入ってもおかしくないはずなのに、なぜか1人も入れようとしない。われわれを侮っているのではないか、カッときて殴ってしまったのである。
ー収容されていた朝鮮人が、全員こうした暴行に加わったわけではない。李鶴来さんは1人1人に恨みを晴らしても仕方ないと思って、1人の日本人も殴っていない。こういう軍属も多かったはずだ。しかし、もともと偏見を抱いている日本人の側は、1部の人たちのこうした暴行を目にして、その心情を理解するのでなく、朝鮮人に絶望し、朝鮮人をさけるようになった。下手にさからって殴られてもつまらない、怒らせて不利な証言をされてはこまる、こうした打算もあっただろう。朝鮮人を遠ざけては、日本人同士でささやきあう。「朝鮮人を軍属に使ったのは、最大の誤りだった」と。日本人が朝鮮人軍属に何をしてきたのか、朝鮮人に対してどんな仕打ちをしたのかを考えれば、こうした暴行も、朝鮮人のうっ積した感情の一時的爆発として理解できたはずだ。殴られた恨みは、何も日本人だけが専有する感情ではない。朝鮮人は何倍も何十倍も殴られ続けてきたのだ。また、朝鮮人が不利な証言をしたため、検察側の証人に立ったため、死刑になったとして朝鮮人を唾棄する日本人もいる。しかし、戦争中の自分たちの行為を棚上げして朝鮮人が検察側の証人に立ったことだけをせめるのもおかしい。戦争中の行為は、はたして戦争責任と無関係といえるのだろうか。
ー戦犯になったのは、朝鮮人のせいなのか。イギリスの、オーストラリアの、オランダの戦争裁判のやり方に問題はなかったのか。日本の大本営の方針に問題はなかったのか。進行する戦争裁判の渦中にあった人たちが、事態を冷静に判断することはむずかしい。朝鮮人の証言を「裏切り」と感じた人もいるだろうし、暴行に「手のひらを返したような忘恩の輩」と感じた人もいるだろう。同じ釜の飯を食っていても日本人には、朝鮮人のことがまったくわかっていなかったのだ。朝鮮人の側も、それを暴力という形でしか表現しえなかった。チャンギでそしてその後、オートラム刑務所へ移ったのちも、日本人と朝鮮人の間に顕在化した溝は、少しもうめられることがなかった。日本人は、触らぬ神にたたりなしとばかりに近づこうとしない。心を開こうとしないどころか、屈折した思いが内向し、より陰湿な差別へと向かう。朝鮮人の側も、解放国民とは言っても、日本人として刑務所に閉じこめられている。手紙といっても英語か日本語しか使わせてくれないので、十分書けない。屈折した思いが爆発する。同じ刑務所に暮らしながら、戦後もなお両者の間には、深く鋭い亀裂が走っていた。この溝は、今なお深い傷跡となって、朝鮮人戦犯をとりまく冷淡な視線と差別の厚い壁をつくる要員の一つとなっている。
4 崔善燁さんの場合
―バタビアオランダ(蘭印)法廷―
全員が戦犯に!
―1981(昭56)年5月、光州から一通の部厚い封筒が届いた。かつて、ジャワで「高麗独立青年党」を組織したことにより、治安維持法違反の罪に問われた李相汶からである。なかには、バタビア(ジャカルタ)法廷で裁かれた朝鮮人軍属たちの起訴状の写し5通と弁論5通が入っていた。コピーに添えた手紙には、当時の戦争裁判が、今考えても一方的で、いかに報復感情に満ちたものであったのかと書かれている。そのような裁判を受けている仲間に対して、李相汶氏は、何らの手もさしのべることが出来なかったことを無念に思い、戦犯となった軍属たちに心からの同情をよせている。ジャワ島を離れるにあたって、李相汶氏は当時、バタビアにあった戦犯弁護団を訪ね、“同胞”の起訴状を書き写したのである。こうしたことをした軍属は、おそらく、他にいないだろう。誰もが、明日の我が身がどうなるかわからない時だった。敗戦後、オランダ軍が俘虜収容所・軍抑留所に勤務していた者を全員勾留した。この時、李相汶氏も勾留されてしまった。昔から名前と勤務地を書いたカードをぶらさげて、前から、横から写真をとられた。人目の多いところに貼り出された写真には、「この者に虐待された者は名乗り出るように」と書かれていたという。幸いなことに李相汶氏に対する告発状は1通もなかった。無罪放免になって47(昭22)年3月、朝鮮に送りかえされたのである。
―裁判にかからなかった李さんですら国に帰るまでに、1年半もかかっている。ジャワに限らず南方の俘虜収容所の監視要員として送られた朝鮮人軍属は、首実検をくぐりぬけ、「指名手配写真」による被害者探しをくぐりぬけないと帰国できなかったのである。それに要する時間が1年半、朝鮮が独立した後もなお、軍属たちは、全員、戦犯容疑者として南方にとどめ置かれていたわけだ。自分は釈放されたが、1件でも告発状が舞い込めば、今度は起訴されるかどうか未決のまま勾留される。起訴が決定すれば、裁判にまわされ、有罪になればそのまま刑務所へと放り込まれる。全員の勾留から、告発→起訴→有罪判決→刑務所へと辿る道は、紙一重の差で朝鮮人軍属たちの誰もが共有していたものである。李相汶氏には、幸い告発状は届かなかったので釈放された。後髪を引かれる思いでジャワの地を離れた彼は、いつか、朝鮮人戦犯たちの恨みと、日帝協力者との汚名を晴らしたいと思い続けてきたという。30年も手もとに温め続けたその起訴状のコピーを送ってくれたのである。それは、日本の侵略戦争の責任を朝鮮人軍属へ転嫁したまま、戦後の繁栄に酔いしれている日本人への告発とも私には受けとれた。1981年5月、光州市民の蜂起からちょうど1年たった時に届いたこの起訴状は、35年の幾月を貫いて、国家が民衆に何をしてきたのか、その歴史を照射しているように思われた。この5通の起訴状のなかにはジャワのスマランにある抑留所に勤務していた崔善燁さんの起訴状もあった。崔さんの起訴状の全文を次に見ておこう。
「起訴状 被告人山本善燁 被告人は戦時中なる1944年6月16日頃より1945年8月15日頃までの間「スマラン」において、敵国日本の臣民として「ランベルサリー」市民抑留所の看守たりしものなるところ、其の間、右抑留所に抑留せられありし市民たる婦女子に対し、戦争の法規および慣例に反して、彼等を虐待しかつ彼等に組織的暴行を行い、もって戦争犯罪を犯し又は犯さしめたるものにして、即ち、故意に彼等を手、げんこつ、棒、竹、鞭その他をもって、何回も烈しく殴打しまたはせしめ、土足にて蹴り、膝の折目に竹を挟んで坐らしめ、または終日太陽の下に立たしめ、かくして実に彼等を、少なくとも彼等の多くを何回も不必要に、ともかくも、懲戒の通常の執行の限界を遥かに遺脱したる方法をもって虐待し又は虐待せしめるものにして、被告人により又はその命令により行われたる以上の虐待及び暴虐は当該抑留者を死に至らしめ、少なくとも重大なる肉体的並に精神的苦痛を与へたるものなり。以上の事実は蘭印官報1946年第45号戦争犯罪処罰条例第4条以下の規定に該当しかつ之により処罰せらるべきものとす」。
―これが、1人の人間の生死を決定する起訴状である。44年6月から45年8月まで勤務していたことは事実である。この点は私も崔さんから聞いている。抑留者を虐待したというが、5000人もの抑留者のうち、誰をいつどこで虐待したのだろうか。死に至らしめたという被害者すら名前も記されていない。被害者と犯罪の特定がまったくない起訴状である。しかし、こうした起訴状のあり方は他の5人もほとんど同じである。死刑の判決を受け、銃殺された朴成根の起訴状も「故意に彼等をげんこつ、革帯、棍棒等を似て、長時間にわたり、順次に継続して、何回も烈しく殴打し又は 打せしめ彼等を土足にて蹴り・・・」と書いている。懲役5年の判決を受けた申明休の場合は「手、げんこつ、棍棒又は鉄管を以て殴打し、婦女子をして重労働に服せしめ・・・」とある。10年の刑を受けた韓昌範は「被抑留者をげんこつ又は棒を以て、何回も連続して殴打し又は殴打せしめ、鋭き木片を膝の折目に当てかつ両腕を高く上げたる姿勢にて彼等を灼熱せる太陽の下に鋭き砂利の上に長時間坐らしめたる上、此の姿勢に耐え得ざる犠牲者を殴打し又は殴打せしめて・・・」との理由である。
-10年の刑を受けた金基同もまた「故意にげんこつ、鞭、竹棒の他を以て彼等を何回も烈しく殴打して又は殴打せしめ」とある。ただ、彼の場合は被害者3名の名が特定されていることが、他の人との大きな違いとなっている。3人の夫人を「後手に縛って吊し上げ、少なくとも此の虐待行為が自己の面前に於て行はるることを阻止せざりしことによって・・・」起訴されている。これらの抑留所関係の起訴状には、時と場所と被害者の特定がほとんど書かれていない。ヒナ型があるのではないかとすら思われる。軍抑留所に勤務したこと自体が戦争犯罪として告発されているともいえるだろう。抑留所の状態がきわめて悪かったことはI章で述べた通りである。個別に殴った殴らないより、食糧事情が悪く医薬品は不足し、衛生状態の悪い抑留所に勤めたこと、そこで、日本軍の慣習ともなっていた殴打をしたことが戦争犯罪にあたる、そう言ってもよいのではないだろうか。崔さんも殴打があったことは認めている。5000人が全員、よく規則に従い、命令に忠実なことはありえない。従わない者に“力”、具体的には日本軍の権力を背景にした暴力によって、従わせることをやったのである。崔さんも告発がすべて嘘とは言っていない。しかし、3分の1は嘘だったと言う。
―朝鮮人軍属の人たちがよく言うのは、同じ殴ったと起訴されても、どの人を殴ったかによって刑が違っていたということである。植民地の高級官僚の奥さんや子供を殴ったりしていれば、首がいくつあっても足りない。銃殺された朴成根は、運の悪いことにそのエライさんの子供を殴ってしまった。彼は運が悪かったのだと彼の友人は語った。俘虜の場合も同じだった。告発状も将校と兵隊ではその扱いが違ったというのである。抑留所に勤務したことにより戦犯となった者は44人、うち26人(1人は銃殺刑)は朝鮮人軍属である。10人のうち6人までの朝鮮人軍属だったのは、日本人将校の下に、下士官がわりに朝鮮人軍属が配属され、その下でインドネシア人兵補が勤務したからである。オランダ(蘭印)法廷は、インドネシア人を「敵国に使用された臣民」とはみなしていない。戦犯の対象にならなかったのである。残る日本人と朝鮮人が責任をとらされる結果になった。日本人1人、軍属1人で勤務している抑留所で、2人とも戦犯になったところもある。バンドンのある抑留所では、日本人曹長1人、軍属3人が戦犯となっている。おそらくここも全員が戦犯となったのだろう。崔さんの勤務した抑留所でも、所長、警部そして、崔さん、さきの金基同、金玉銅、朴丙讃が戦犯となっている。勤務していた日本人、朝鮮人が全員戦犯という、考えられないようなことが、抑留所関係の裁判にはあった。
43人のうち19人が朝鮮人
―俘虜収容所に勤務した軍属は、敗戦後、連合国によって全員勾留されている。告発、起訴ののちに、どこの国の裁判を受けるかは、誰が告発したかによる。オランダ人が告発した場合には、オランダ(蘭印)法廷で、イギリス人の場合は、シンガポールの英国法廷というように、告発した俘虜や抑留者の国籍によって、裁判国が決定する。泰緬鉄道の建設にあたった李鶴来さんは、オランダ人とオーストラリア人の俘虜を監督していたが、告発をしたのがオーストラリア兵9人だったので、シンガポールの豪州法廷で裁かれた。パレンバンにいた兪東祚や鄭殷錫は、イギリスの兵隊が告発したので、シンガポールの英国法廷で裁判を受けている。イギリス人、オランダ人の両方から告発状が出ているときは、両方で裁判を受けることもある。ジャワで敗戦を迎えた金喆洙さんは、初めに、シンガポールのチャンギ刑務所に放りこまれ、3ヶ月にわたってイギリス人俘虜に対する虐待が調べられた。3ヶ月たってようやく釈放されて、チャンギの門を出たら、今度は、オランダが待ちかまえていて、そこから、ジャワに逆戻りである。ジャワのバタビア法廷で裁判を受けた彼は、オランダ人俘虜虐待の理由で18年の刑を受けた。イギリスとオランダ双方の戦争犯罪追及を受けたわけである。バタビア法廷で裁判を受けた彼は、オランダ人俘虜虐待の理由で18年の刑を受けた。イギリスとオランダ双方の戦争犯罪追及を受けたわけである。バラビア法廷の裁判が始まる前に、金喆洙さんは、ボルネオ(今のカリマンタン)島、セレベス島、ジャワ島のスラバヤと船で1ヶ月ほどひきまわされている。首実検という名目だが、金さんには、晒しものにするのが目的のように思われた。当時は、インドネシアの各地で、独立運動が展開されており、「日本人」のみじめな姿を見せることで、オランダの力を誇示しようとしたのではないかという。ちょうど、白人俘虜のみじめな姿を見せることで、朝鮮人、台湾人に、日本軍の威力を示し、もって「大東亜共栄圏」の建設に、彼らを思想的に動員しようとした大本営の発想と同じである。
―この船旅は実につらかったという。7人が夜も昼も手錠に繋がれたままだった。トイレに行く時もはずしてくれないので、1人がトイレに行きたければ、全員で行くことになる。蚊にさされても、自分勝手にかくわけにはいかない。夜中にトイレにでも行きたくなったら、全員を起こさなければならないのである。自殺したくても、海にも投びこめない、こんな姿のまま3ヶ所か4ヶ所で、首実検を受けた。彼が繋がれていた仲間は憲兵だった。金喆洙さんに限らず、多くの軍属が、時代劇によく登場する囚人の市中引きまわしよろしく、「この者に心当りはありませんか」と各地をひきまわされて、首実検を受けたのだ。屈辱などという生易しいものではなく、緊張と恐怖で命も縮む思いだったと言う。一度、指をさされれば、ほとんど事実関係の間違いを立証できる手段を持たない。弁護士が1人1人の被告について証拠を集める金も時間もなかったのが実情だったからである。ジャワ俘虜収容所に配属され、ハルク島で飛行場建設にあたっていた李義吉さんの場合、イギリス人俘虜からの告発で、シンガポールへと送られている。彼は初めからイギリス人俘虜から告発されていたので、各地を引きまわされることはなかった。オランダによる蘭印法廷は、12ヶ所で開かれているが、そのうち、朝鮮人軍属の勤務する俘虜収容所関係者が裁かれたのは、バタビア法廷とメダン法廷の2ヶ所。バタビア法廷では収容所関係者43人が有罪となっているが、そのうちの19人が朝鮮人軍属である。
フローレス島
―なかでも、フローレス島のマウメレで飛行場建設にあたったジャワ俘虜収容所派遣第3分所第2分遣所は、多くの戦犯を生んでいる。分遣所長の芦田大尉は、美校を出たてのまだ若い軍人だった。この分遣所長の芦田大尉と朝鮮人軍属3名が、バタビア法廷で死刑の判決を受けている。1947年9月5日、バタビアのグロドック刑務所で4人が一緒に銃殺された。芦田大尉はこの時33歳、3人の軍属、崔昌善32歳、朴俊植31歳、卞鐘尹29歳と4人とともに、この世に未練多き少壮の身であった。特に卞鐘尹さんには、まだ見ぬ息子が、故郷の忠清北道清州で彼の帰る日を待っていた。有期刑は日本人下士官と朝鮮人軍属9人となっている。14人の戦犯のうち12人が朝鮮人軍属で占められている。これは、第2分遣所の人員構成に大きな原因があった。日本人分遣所長と下士官4人それに通訳1人、朝鮮人軍属は約70人である。この人数で2000人のオランダ人俘虜を監視していた。オランダ人といっても多くはオランダ統治の「手先」として利用されたアンボン人とメナド人、およびオランダ人とインドネシア人の混血だった。分遣所長は死刑、下士官のうち1人は有期刑、2人は戦後逃亡して、オランダとの独立闘争を闘っているインドネシア軍に身を投じたが、ゲリラ活動のなかでオランダにより逮捕され銃殺された。現在、インドネシア独立の英雄として、西ジャワのガルート英雄墓地に埋葬されている(くわしくは拙著「赤道下の朝鮮人叛乱」参照)。朝鮮人軍属は70人のうち3人が死刑、9人が有期刑となっている。7人に1人が戦犯となったことになる。フローレス島に派遣された軍属の仕事は、ハルク島やパレンバンと同じように、飛行場建設にあたる俘虜の監視だった。李義吉さんや鄭さんたちが、食糧と医薬品の不足で苦しんだように、フローレス島でも食糧と医薬品の不足で、多くの俘虜が犬コロのように死んだ。
―赤茶けた大地に偵察用滑走路2つと爆撃用滑走路を1つ建設するのが仕事だったが、厳しい熱帯の自然のなかで栄養失調と伝染病で多くの俘虜が死亡したのである。フローレス島自体、地味の豊かなところではない。そこへ2000人からの人間がやってきたのである。米や穀類はジャワ島から持参することは出来ても、野菜や肉は補給できない。制空権と制海権が奪われて補給網が絶たれてしまったことは、ハルク島の場合と同じである。211名の俘虜が死亡した責任を問われて、分遣所長が死刑の判決を受けたのは理解できるとしても、軍属3名の死刑の理由は何か。おそらく俘虜虐待が理由と思われるが、その虐待の内容も起訴状も明らかではない。俘虜がどのような状態におかれていたのか。「速記録」(140名)の証言は、フローレス島もまた、俘虜にとって“地獄”だったことを明らかにしている。
「西部チモールのフローレス島においても、状態は恐ろしくひどいものでありました。最初の何ヶ月かは何の居住も与えられず、俘虜も病気の者も戸外で休まねばなりませんでした。衛生施設、医療設備はぞっとするような劣悪なものでした。重症患者の室でも便器を用いる事が出来ませんでしたので、各寝床の横に小さな穴を掘り、患者はそこに転がって行かねばならなかったのであります。1日に40ないし60回の便通も珍しくなかったので、しばしば新しく患者の寝床を見つけねばならないという有様でありました。患者が非常に身体が弱っていて、その寝床の隣の穴に転がって行けない場合は、敷錠に穴をあけすぐその下に穴を掘ったのであります。食事は悪いものでした。その結果健康が衰え半分以上の者は病人でありました。しかもなお、患者は労働を強いられました。これらオランダ人俘虜2079名の中211名が1年の間に病死しました。懲罰は苛酷なものでありました。肉体刑罰はしばしば行われ、その結果傷つけられたり、またそれが原因となって死亡する者さえありました。俘虜に対して防空設備は何もありませんでした。」
―戦犯にならずに、無事、韓国に戻ったある軍属は、当時の様子を次のように語ってくれた。
「1日の仕事の目標をたてるのは飛行場の設営隊だが、それを実際に監視してやらせるのが監視員の仕事になっていた。出来なければその責任は監視員がとらなければならないので、どうしても無理して仕事をやらせることになる。若い分遣所長は、どこかの名家の出だといっていたが、朝鮮人にまったく理解のない人で、朝鮮人だといって、随分、馬鹿にされました。ちょっとしくじる、酒を飲んで帰隊の時間に遅れる。すべて「朝鮮人は仕方ない」といわれてきました。「朝鮮人だから」といわれ続けて、それが心のなかにいつも、わだかまっていました。だから、よけい命令を実行しようとしたのではないでしょうか。」
―朝鮮人3人の死刑と9人の有期刑の背後には、フローレス島の孤島のなかで繰りひろげられていた、陰険な民族差別の影が見えかくれしている。スマトラのメダン法廷では、マレー俘虜収容所関係者34人が有罪判決、うち23人が朝鮮人軍属である。シンガポールに比べて絶対数は少ないものの、俘虜収容所関係戦犯に占める朝鮮人の比率はきわめて高くなっているシンガポール地区の英国法廷で有罪となった俘虜収容所関係者114人のうち、朝鮮人軍属は61名であった。どこの法廷でも、俘虜収容所関係の戦犯追及において、朝鮮人軍属の占める比率は大きい。その主な原因は、日本軍の俘虜収容所の編成、連合国の命令者と共に命令実行者をも裁く裁判のあり方、そして、米・英・蘭らの帝国主義国家によって実施されたBC級戦犯裁判において、植民地支配の視点が欠落していたことにあった。
―日本軍は俘虜収容所の編成にあって、将来起こりうるかもしれない責任追及を考慮して、監視要員として植民地の人間を使ったと考えるのは、うがちすぎだろうか。サイゴンにあったタイ俘虜収容所第1分遣所に勤務していた呉在浩さんは、重大な文書を目にしている。
「確か昭和18年頃でした。機密文書類が送られてきたので、庶務で開封したんです。そのなかに“俘虜を虐待しているのは、朝鮮人軍属であって、日本人ではない”という海外放送をやったことが書かれていました。このことは誰も知らないと思います。そういう放送を聞いた人がいればいいのですが、私は文書を見ただけです。これを見てから、私の物の考え方は、がらっと変りました。そして、なぜ、朝鮮人と台湾人を監視員にしたのか、その時わかったような気がしたんです」
―俘虜虐待に対する連合国側からの抗議に、虐待しているのは朝鮮人であって、日本人ではないと回答する日本軍。朝鮮人監視要員は、初めから、俘虜虐待の責任追及に対する弾よけとしての役割を担わされていたのではないかとすら考えられる。
인도네시아 독립 전쟁(인도네시아어: Revolusi Nasional Indonesia)은 일본이 제2차 세계 대전에서 연합국에 항복한 후 이전 네덜란드령 동인도에서 독립을 선언한 인도네시아를 인정하지 않고 다시 식민지화에 나선 네덜란드 사이 발생한 전쟁이다. 1945년에서 1949년까지 4년 5개월에 걸친 전쟁에서 80만 명이 사망했다.
Bahasa Indonesiaインドネシア語→Revolusi Nasional Indonesiaadalah sebuah konflik bersenjata dan pertentangan diplomasi antara Republik Indonesia yang baru lahir melawan Kerajaan Belanda yang dibantu oleh pihak Sekutu, diwakili oleh Inggris. Rangkaian peristiwa ini terjadi mulai dari proklamasi kemerdekaan Indonesia pada tanggal 17 Agustus 1945 hingga pengakuan kemerdekaan Indonesia oleh Kerajaan Belanda pada 29 Desember 1949.
反植民地闘争と戦争裁判
―日本のポツダム宣言受諾が明らかになった8月15日、インドネシアには独立へと向かう大きなうねりが渦まいていた。青年たちの突きあげによって、スカルノとハッタが全世界へ向けて独立を宣言したのは8月17日午前10時、独立に熱狂するインドネシア民衆は、あいさつ代りに右のこぶしを高く振りあげて「ムルデカ(独立)!」と叫び、町には、紅白のインドネシア国旗がいたるところにひるがえっていた。350年におよぶオランダの統治、3年半の日本軍政の後に、ようやく手にした独立である。熱狂する民衆のエネルギーは、今や日本軍の手でも押しとどめることはできなかった。スカルノの演説をきこうと、ガンビル広場へ出かけたある朝鮮人は、暴動が起きたと聞いてひき返している。バタビアの町は、独立(ムルデカ)で殺気だっていて、恐ろしくて1人で外に出られないぐらいだった。1人で外出して帰ってこない仲間もいたし、身ぐるみはがれて、パンツ1枚になった仲間もいた。2,3人でたまに外へ出るほかは、在ジャワ朝鮮人民会の組織の下で、朝鮮語の学習や朝鮮史の勉強をしながら、帰国にそなえていた朝鮮人軍属も多かった。異国の独立の熱気に触れた朝鮮人たちの帰心は、矢の如きものがあっただろう。戦闘行為もなくほとんど無傷で残った第16軍の武器は、休戦協定によって、連合国に引きわたされることになっていた。日本軍はこうしたインドネシア民衆の動きに対しても兵力を温存したまま、手を下すことなく傍観していた。民族独立のへの熱狂は、9月に入って英印軍が上陸すると、武力によって弾圧されていった。オランダは、日本帝国主義が敗れたあとの、権力の空白を縫って宣言されたインドネシアの独立を、認めようとしなかったである。再び、自分たちがジャワの地を踏めば、インドネシア人は膝を屈して歓迎するだろうと考えていたのではなかったか。
―しかし、一度、独立に熱狂した民衆は膝を屈するかわりに、銃を、竹槍をとったのである。「あのおとなしいインドネシア人」が、まったく変貌してしまった。人民治安軍、民衆部隊が結成され、日本軍に武器の供与を求めた。求めに応じない部隊には実力で奪取した。こうして、単なる宣言を読みあげることから、実質的に独立をわが手に獲得する本質的な戦闘が開始した。1949(昭24)年12月27日の政権委譲までの、5年にもなんなんとする長い長い独立への歩みをインドネシア民衆は踏み出したのである。インドネシア政府が、かつて日本軍政下で軍事訓練を受けた義勇軍将兵や兵補たちに、民族軍への参加を呼びかけたのは10月7日、11月12日には、ジャクジャカルタで第1回人民治安軍司令官が一同に会し、スディルマン大佐を軍の最高司令官として選出している。おそらく、朝鮮人軍属たちが教育した兵補たちも、この民衆軍に参加し、熱い血を流したのであろう。人民治安軍を中心としたインドネシアの組織的な闘いが始まった。しかし、近代兵器で武装したオランダ軍の前で、インドネシア人民治安軍は敗北を重ね、首都ジャカルタ(オランダが占領して、バタビアと称す)を、西部ジャワの州都バンドンを追われ、次第に中部ジャワのジャクジャカルタへと追いつめられていった。
ーオランダ軍が再び占領した首都ジャカルタで、BC級戦犯裁判が開始された1946(昭21)年8月には、180キロほど離れたバンドンでは、未だ反オランダゲリラ活動が続いていた。これには市来竜夫ら日本人で編成した特別偵察隊も加わっていた。朝鮮人軍属もまた、インドネシア独立軍に身を投じている。その正確な数をつかむことは出来ないが、1976(昭51)年に、インドネシア共和国独立英雄となった梁七星はそのうちの1人である。バンドンで脱走した日本兵が、間違って朝鮮人部隊に入ってしまったとの証言もある。フローレスの俘虜収容所に勤務していた崔昌善さんは、死刑になるぐらいならと2度もチビナン刑務所を脱走しようとして失敗、さらに腹をかっ切って自殺をはかったがこれも失敗し、刑死している。アンボン島の俘虜収容所に勤務していた金喆洙さんは、戦犯追及の手をのがれて、インドネシア独立軍に参加しようとした。ジャカルタ郊外の日本人収容キャンプにやってくるインドネシア人の物売りが、熱心に独立軍への参加を勧誘したのである。大尉の階級で迎えるという。当時は、インドネシア軍は劣勢で、誰もこのまま独立ができるなどと考えていなかった。朝鮮へ帰りたかったが、戦犯で死刑になるよりはと思って、金さんは独立軍に入る決心をした。1週間後に逃亡する手はずをつけたのに、その3日前に逮捕されてしまった。
―無事、逃亡してインドネシア軍に加わった朝鮮人も何人かいるが、その1人は崔貴南、西ジャワで反オランダゲリラ戦争に参加し、密林のなかで人知れず斃れた朝鮮人ゲリラ兵3名シロヤマ、アカキ、マツモトもいる。彼らもまた軍属だった。インドネシア独立軍のなかで活動した朝鮮人軍属は、おそらく10人を下ることはないだろう。しかし、彼らの活動の軌跡が、わずかでも判っているのは梁七星1人である。あとの軍属は、故郷の家族にもその思いを伝える術もなく、ジャワの土に還っていった。
オランダの戦犯定義
―人民治安軍、反オランダゲリラの掃討を続ける一方、再占領した地域で、オランダのBC級戦犯法廷が次々と開かれた。これらの法廷には3人の裁判官がおかれ、裁判長は佐官級、陪審判事は移管級の将校であった。その多くは俘虜収容所に抑留されていた軍人であったことから「日本人に対する復讐感情、憎悪感情の熾烈な人々であった」という(「戦犯裁判の実相」)。1946年(昭21)年6月1日、蘭領印度副総督(ハー・イェ・モーク)は、「蘭領法令公報」第44号で戦争犯罪の概念規定を明らかにした。その第1条は次のような文章ではじまっている。
「戦争犯罪とは、戦争中敵国の臣民及び敵に使用されている外国人によって、戦争の法規及び慣例に違反して犯された事実をいう。すなわち、1、殺人及び殺人集団、2、組織的暴虐行為・・・」
―このように、戦争犯罪第39項目が列記されている。このなかには「9、非人道的状態の下における市民の抑留」「31、許容されない方法で俘虜を就労させること」「35、抑留市民又は被拘禁者の虐待」などと共に「39、停戦条件に反して、敵対行為を行ない、又は第三者にこれを教唆し、若しくはその目的のために情報、機会若しくは手段を供与すること」の1項目がある。インドネシア独立戦争を念願においた戦犯規定である。(「戦争犯罪裁判関係法令」)。第1条で注目されるのは、「敵に使用されている外国人」との表現である。この外国人とは「その者が、継続的に敵に使われているという意味だけに解すべきである」と限定されており、朝鮮人、台湾人がこの概念に含まれている。兵補、義勇軍として、日本軍に徴用されたインドネシア人は、このなかには含まれていない。その理由は明らかではないが、おそらく、インドネシア人は自国の植民地人であり、「外国人」としては考えられていなかったためであろう。また、朝鮮人に限って言えば、「戦争犯罪に限って言えば、「戦争犯罪に関する限り、朝鮮人は日本人として取り扱われる」との方針が、蘭領印度検事総長と英国との間で了解されていたことは、すでに述べた通りである。
―この結果、朝鮮人も台湾人も日本人として裁かれた。オランダによるBC級戦犯裁判で有罪となった朝鮮人は68人、このうち4人が銃殺刑だった。台湾人は7人が有期刑となっている。朝鮮人軍属が収容されたチビナン刑務所には、インドネシア独立軍の人たちが沢山いた。かつての第16軍司令官今村均大将が入獄した1948(昭23)年5月頃には、約2300人のインドネシア人と華僑、約2000人の白人囚、約700人の日本人戦犯が収容されていた。この700人のなかには70人の朝鮮人が含まれていた(今村均「幽囚回顧録」)。蘭印当局者は、インドネシア人のことを単なる泥棒だと言っていたが、インドネシア人の意気はすこぶる軒昂だったと朝鮮人戦犯は語っている。今村大将の「回顧録」にも、インドネシア民族の気迫が、獄中に浸潤していて、毎夜ムルデカ(独立)の歌の合唱があったとある。看守の助手の半数が独立政府側の関係者だったというから、チビナン刑務所には、民族独立の熱い思いがみなぎっていたことだろう。刑務所内の作業で、この独立軍と称するインドネシア人と朝鮮人軍属が一緒になることもあった。だが、日本の戦犯となったとの屈折した思いを抱く朝鮮人が、インドネシア独立軍とつかの間であれ“連帯”をつくり出すことはむずかしくなかったようだ。同じく植民地支配の下に呻吟し、同じオランダ軍の囚われの身となっても、朝鮮人軍属の意識のなかには、インドネシア人を「原住民」として見下す気持も潜んでいたのではなかったのか。そうした考え方は、「一視同仁」の皇国臣民教育のなかで、たたきこまれたものではあったかもしれない。だが、日本が負けたからといって、「皇国臣民」としての物の考え方をすぐに変えることはできない。
ー同じように、植民地支配に苦しんだ民族同士が、連帯できるにはまだまだ時間がかかる。インドネシア共和国は、名実ともに独立を獲ちとるため、さらに多くの人々が血を流していった。だが、朝鮮人戦犯たちは、こうした独立闘争とその闘いのなかで捕われになったインドネシア人を横目でみながら、「日本人」としてチビナン刑務所に拘禁されていた。戦犯が自民族の独立のために闘った結果でなかったことが、ジャワの輝く太陽の下で、彼らの心のなかに黒い影をおとしていたのではないだろうか。オランダによる戦犯裁判のうち、ボンティアナック、クーバン、メナド、アンボンなど、いわゆる「外島」における裁判で「原住民虐待」「抗日謀略団の検挙処刑」などのケースが多いことが注目される。アンボン島付近では、オーストラリアの飛行機によるビラまきがしばしばあり、「住民の動揺をおさえるための厳しい取調べがあったことは事実だった」と、ある憲兵曹長が証言している。また、アンボンは「香料群島」の中心地であり、オランダが植民地統治上、最も力を入れていた地域だけに、アンボン人の「親オランダ」感情は根強いものがあった。ある日本人戦犯はアンボン人を「黒色オランダ人」とすら称していた。こうした地域の抗日運動が、抗日独立運動だったのか。反日親蘭運動だったのか、判断がむずかしい。モロタイの法廷で、「謀報インドネシア人を命により処刑」したとの理由で8年の刑をうけた元ハルマヘラ憲兵隊長平野幸治は、1947(昭22)年3月14日自殺したと記録されているが、証言によれば、インドネシア独立運動と関連があったために、オランダに虐殺されたという。こうしたケースは他にも数多くあったと思われるが、今のところ明らかにされていない(「われ死ぬべしやーBC級戦犯者の手記」)。
극동국제군사재판(極東國際軍事裁判, 영어: International Military Tribunal for the Far East, IMTFE)은 제2차 세계 대전과 관련된 동아시아의 전쟁 범죄인을 1946년 5월 3일부터 1948년 11월 12일까지 약 2년 반에 걸쳐 심판한 재판이다. 도쿄 전범재판(東京戰犯裁判, 영어: Tokyo Trials, Tokyo War Crimes Tribunal, 일본어: 東京裁判)이라고도 한다. 60여 명 이상의 전쟁 범죄 용의자로 지명된 사람 중 28명이 기소되어, 판결 이전에 병사한 사람 2명과 소추가 면제된 1명을 제외한 25명이 실형을 선고받았다.
―オランダによるBC級戦犯は、日本軍の侵略戦争の責任を裁いたと同時に、インドネシア独立運動との関連をも厳しく裁いている。植民地問題が視野に入っていない点では、オランダも日本も同じだった。蘭領印度12ヶ所で開かれたBC級戦犯裁判が、一体何を裁いたのか。朝鮮人、インドネシア人にとってオランダによる裁判は何だったのだろうか。そして、「鉄鎖の民を解放」せんとした「大東亜戦争」がアジアの民衆に何をもたらしたのか、「原住民の虐待、処刑」の判決の内容の検討が今後アジアの民衆の側からなされねばならないと思う。1946(昭21)年8月5日、インドネシア独立軍を、武力で排除したバタビア(ジャカルタ)でオランダは戦争裁判を開始した。そして、1949(昭24)年12月24日、インドネシア政府への政権委譲(12・27)を前に、バダビア法廷の幕を閉じた。最後に裁かれた今村均陸軍大将は無罪。判決は、インドネシアの完全独立を前にした1949年12月24日であった。
IV 戦争責任と戦後責任
1 サンフランシスコ平和条約と朝鮮人戦犯
初めての日本
「ああ、これが畳なのか!」
01951(昭26)年8月、巣鴨プリズンの房の一隅で、李鶴来さんは、つくづくと畳の手ざわりと坐り心地を楽しんでいた。初めて坐る畳、いや正確にいえば2度目といってよい。最初の畳の上の生活、それは、釜山で初年兵教育にも匹敵する厳しい訓練を受けたあのバラック建ての臨時兵舎での2ヶ月の暮らしだった。あの時の兵舎にも、畳が敷いてあった。だが、あのコチコチの畳は、厳しかった訓練の思い出と共に心にざらっとした冷たい感触を残していた。巣鴨プリズンの一隅にどっかり胡坐をかいた李鶴来さんにとって、畳の柔らかい感触は、生きていることへの実感を呼びおこしてくれた。「よく、生きて帰れたものだ」シンガポールのチャンギ刑務所の、冷たい石の床の独房に8ヶ月、死刑囚としての身を横たえてきた李さんにとっては、たとえ粗末なものであっても、畳のぬくもりはそのまま生きていることへの実感にも繋がるのだろう。30年たった今もなお、李さんはあの時の感触を忘れずにいるという。1951(昭26)年8月27日、20年に減刑された李さんは、他の英国戦犯裁判を受けた231人のBC級戦犯と共に、横浜に送られてきた。このなかには朝鮮人31人、台湾人7人が含まれていた。皆、はじめての日本だった。
한국 전쟁(韓國戰爭, 표준어: 6·25 전쟁, 한국 전쟁[18], 문화어: 조선 전쟁/조국해방전쟁[19], 영어: Korean War, 중국어 정체: 韓戰/朝鮮戰爭, 러시아어: Корейская война)은 1950년 6월 25일 오전 4시에 조선민주주의인민공화국이 기습적으로 대한민국을 침공하여 발발한 전쟁이다. 유엔군과 중국인민지원군 등이 참전하여 세계적인 대규모 전쟁으로 비화될 뻔 하였으나, 1953년 7월 27일 22시에 체결된 한국휴전협정에 따라 일단락되었다.
-1951年3月27日、シンガポール、チャンギ刑務所のベイリ所長は、収容中の戦犯に次のように語った。
「近いうちに、日本人戦犯を送還させるから、準備を整えておくよう。本日、軍からの指令があった。乗船日は、仮収容所か判決次第、追って通知する。」
―夢にまで見た「内地送還」の日が近づいて来た。浮き足だつ日本人戦犯にまじって、李さんは、この日の気持を、次のように書き記している。
「内地送還実現の私の喜びと日本人のそれとはかなりの差があると思う。それは彼等と私の立場が違う点もあるが、民族同士の惨事(朝鮮戦争)が行なわれている点である。だが直接祖国に足を踏み入れないにしても祖国に近いところにいるということは嬉しい。足かけ10年間の長い熱帯地の生活も遠からず終わると思えば、感無量である。」
―「内地送還」は、日本へ送られることではあっても、自分の国へ帰れることではない。だが、祖国へ一歩でも近いところへ行けるのはうれしいという。その祖国は、朝鮮戦争の真只中にあった。李さんが朝鮮戦争の勃発を聞いたのは、このチャンギ刑務所のなかであった。「何でまた」とやりきれない気持だったという。自分たちは、日本の戦争責任を負わされて、戦後5年たってもなお、檻のなかで暮さなければならない。もう、戦争だけは2度とごめんだと思っていたのに、今度はこともあろうに自分の国で戦争がはじまってしまった。遠くシンガポールの地にとらわれている李さんには、くわしい戦争の状況もわからず、焦躁の日が続いた。檻のなかで、イライラするばかりで何も出来ずにいる自分もまた苛立つ。こうしたイライラが原因なのか、胃痛をおこして2週間も入院してしまった。
-8月14日、いよいよタイレア号(8000トン)に乗船、ベイリ所長からの知らせを受けてから5ヶ月もたっていた。この間、朝鮮休戦会議が開城(ケソン)で開かれた(7月10日)が、戦闘は継続されており、家族の安否もつかめなかった。8月27日、李さんは「日本人戦犯」の一員として、初めて日本の地を踏んだ。横浜は、「何だか陰気な港」だと、その印象を記している。231人がようやく生きて帰れたとの安堵感にひたっていた時、彼らを迎えた巣鴨プリズンは何か重苦しい空気を漂わせていた。巣鴨プリズンには、オランダ(蘭印)法廷で戦犯となった693人もいた。彼らは、オランダがインドネシア政府へ主権を移譲するに先立って、日本へ送り還されてきたのである。1950(昭25)年1月26日、横浜に上陸している。このなかには朝鮮人65人もおり、釜山以来のなつかしい顔も見えた。生きて会うことの出来た喜びを語りあう朝鮮人の心の底に澱むしこりは、安否の知れない家族のこと、目と鼻の先にある祖国で今なお続く激しい戦闘のこと、そして、そのなかにあって手をこまねいていなければならない囚われのわが身のことであった。
公職追放→The Purge in Japan was the prohibition of designated Japanese people from engaging in public service, by order of the General Headquarters of the Allied Forces (GHQ) after Japan's defeat in World War II. It ended upon the end of the occupation of Japan in 1952.
赤色清洗(英語:Red Purge,日语:レッドパージ),又译赤色整肃,指的是盟军占领日本时期驻日盟军总司令部发动的一场对日本共产党进行清洗的运动。
샌프란시스코 강화 조약(영어: Treaty of San Francisco, Treaty of Peace with Japan, San Francisco Peace Treaty, 일본어: 日本国との平和条約 니혼코쿠토노헤이와조야쿠[*]→일본국과의 평화 조약)은 1951년 9월 8일 미국 샌프란시스코 전쟁기념 공연예술 센터에서 맺어진 일본과 연합국 사이의 평화 조약이다. 1951년 9월 8일 미국 샌프란시스코에서 48개국이 참가하여 서명하여 1952년 4월 28일에 발효되었다.
A級戦犯釈放と再軍備のなかで
―釈放の望みのない檻のなかの暮らし、そんな生活のなかで、戦犯たちは、平和条約の成立に伴う戦犯釈放に望みをかけていた。岸信介元商工大臣(後の首相、87年まで存命)、青木一夫元東亜大臣(後の参議院議員、82年まで存命)、安倍源基元内務大臣(89年まで存命)、児玉誉士夫元児玉機関長(後、日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人となる。ロッキード事件に連座、84年まで存命)笹川良一元国粋大衆党党首(後の参議院議員、日本船舶振興協会・会長及び国際勝共連合名誉会長を兼任。国際平和賞さらにマハトマ・ガンディー世界賞受賞、95年まで存命)などA級戦犯容疑者は、1948(昭23)年12月24日に、早々と釈放されていた。A級戦犯7人の絞首刑が執行された翌日である。50(昭25)年12月21日には、A級戦犯として7年の刑をうけた重光葵元外相(後の参議院議員、改進党総裁・日本民主党副総裁を歴任。57年まで存命)も釈放されている。これらの政治家は、侵略戦争を指導した責任があるはずだが、なぜか、戦犯の釈放は、これら戦争指導者からおこなわれている。抗命権のない日本の軍隊で、命令の実行者として戦犯に問われた人々が、こうした釈放のあり方に厳しい憤怒を覚えたのも、けだし当然であろう。その上、レッド・パージが始まり、警察予備隊が発足すると、戦争指導者、協力者への追放解除が次々と発表された。特に、マッカーサーが、日本の再軍備の必要性を強調した1951(昭26)年には、旧政財界人、軍人等の大量の追放解除がおこなわれる一方、平和条約の交渉も大詰に入った。敗戦後の米ソ冷戦構造のなかで、日本再軍備のための戦犯釈放、追放解除と日米安保条約、平和条約の草案作成とが並行して準備されていったのである。
―6月20日、第一次追放解除により、石橋湛山(이시바시 단잔(일본어: 石橋 湛山, 1884년 9월 25일 ~ 1973년 4월 25일)은 일본의 언론인이자 정치가로, 제55대 내각총리대신을 지냈다)や三木武吉(Bukichi Miki (三木 武吉, Miki Bukichi, 15 August 1884 – 4 July 1956) was a Japanese politician. He was a close friend and ally of Ichiro Hatoyama, and was the key figure in carrying out the "conservative merger" that resulted in the formation of the Liberal Democratic Party)などの政財界人2958人の追放が解除、8月6日には第二次追放解除により鳩山一郎(鳩山一郎(はとやま いちろう,1883年1月1日-1959年3月7日),日本東京府牛込區東五軒町(今東京都新宿區東五軒町)人,內閣總理大臣、自由民主黨總裁)ら1万3904人が追放を解除されている。対日平和条約の最終案が発表された8月16日には、旧陸・海軍正規将校1万1185人が追放を解除されている。この正規将校たちが、発足まもない警察予備隊の強化に利用され、日本再軍備に大きな役割を担ったのである。すでに、この年の3月1日、警察予備隊は旧軍人に対する特別募集を開始していた。
경찰예비대(일본어: 警察予備隊 케이사츠 요비타이[*], National Police Reserve, NPR)는 일본 육상자위대의 전신 조직이다. 한국전쟁 폭발 후 일본열도의 군사적 공백과 함께[2] 1950년 8월 10일 일본 정부하고 연합군 최고사령부(GHQ)가 75,000명의 경무장 병력으로 경찰예비대를 창설하였다.[3][2] 경찰예비대령 제3조의 규정에 의하여 경찰예비대가 치안유지를 위해 특별한 필요가 있을 경우에는 일본 총리의 명령을 받아 행동한다.[4][5]
Bahasa Indonesiaインドネシア語→Polisi Nasional Cadangan (警察予備隊 Keisatsu Yobitai), atau PNC, merupakan pasukan polisi nasional bersenjata ringan yang dibentuk pada tahun 1950 selama Pendudukan Sekutu atas Jepang.[2]
―BC級戦犯の上官であった陸・海軍将校の追放が解除されているにもかかわらず、下級者が戦犯として、巣鴨プリズンに拘禁されている。日本再軍備に貢献できない下級者が、連合国に無視されたかのように取りのこされてしまったのである。再軍備の進行のなかで自分たちの存在が忘れられたような状況を見つめながら、BC級戦犯たちの苛立つ日々が続いた。巣鴨プリズンに収容されているBC級戦犯の手で書かれていた「すがも新聞」は、その気持を次のように書き記している。
「公職追放がポツダム宣言の第6条であるならば、戦犯もポツダム宣言の第10条である。公職追放が解除されつつある今日、戦犯にも亦何らかの処置が課せられるだろうとい云うことは我々の希望的観測ばかりではあるまい。追放解除が戦争協力への責任の軽いものから解除されていると云はれているが故に、戦犯者も戦争責任の大物は別としてBC級の雑魚に対しては何等の考慮が払われるであろうことが期待される。」(「すがも新聞」1950年11月18日付)
-51(昭26)年8月16日、平和条約の最終条文の全文が発表された。その内容は、BC級戦犯たちの釈放の夢をみじんに砕く冷酷な内容であった。
戦犯は釈放せず
―平和条約の草案第11条には、条約が発効した後も、戦犯が引き続き刑に服さなければならないことが明記されていた。
日本国との平和条約
「第11条、日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者についてはこの権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することが出来ない。」(傍点の引用者)
―この条文によると、「日本国に拘禁されている日本国民」に、刑を執行するとなっている。敗戦後からこの時まで、朝鮮人戦犯は「日本国民」として刑の執行を受けてきた。はたして、第11条に規定する「日本国民」のなかに、朝鮮人、台湾人が含まれるのか否か、微妙な問題であった。しかし、草案作成の過程で、朝鮮人戦犯の問題が議論された形跡は見られない。李さんたちの問題は宙に浮いたまま、草案が作成されていったようだ。10月に入ると引揚援護庁の法務関係者が、第11条に基づく日本政府の勧告について研究し、その成案を関係方面に送ったという。この成案のなかに、次のような記述がある。
「(ハ)非日本人に対しては、日本政府としては講和条約発効後はこれを拘置する根拠に疑義を生ずるをもって、処刑国の処置に委ねるよう措置することが適当と考えられる」(厚生省「続・引揚援護の記録」)。
―平和条約発効後、朝鮮人戦犯を拘留することに、問題があると認識はしているが、その釈放については裁判所に措置をまかせた方がいいとの勧告である。この引揚援護庁は、のちに厚生省引揚援護局となるが、その前身は、陸軍省法務局である。のちに第一復員省―復員庁―厚生省第一復員局―厚生省復員局とかわり、48(昭23)5月30日に引揚援護庁復員局となっている。陸軍関係が第一復員局、海軍関係が第二復員局を構成している。この第一復員局と第二復員局を中心に、すでに条約の希望事項に「台湾・朝鮮籍受刑者に関する釈放の懇願」があげられていた。このように日本政府にとって、台湾人・朝鮮人戦犯の問題は、「頭の痛い問題」として早くから認識されていたようだが、具体的には何の手段も講ずることがなかったのである。
―だが、平和条約の発効に先立って、早くから第一、第二復員局が戦犯釈放に関する研究をすすめていたのには理由があった。在日米・軍事顧問団初代幕僚長として、日本の再武装を担当したF・コウルスキー陸軍大佐によると、復員局は、マッカーサーが「わが愛すべきファシスト」と呼んだウィロビー少将が組織したという。この復員局の表向きの目的は日本軍隊の解体と復員に携わり、元帝国陸海軍将校全員の名簿を保持して、GHQを補佐することにあった。しかし、1951年頃には、いつか日本軍隊を再建するためのウィロビーの個人機関になっており、戦犯処刑が終わったのちに残っていた旧陸海軍将官、佐官組のうちの最も有能と思われる人々が集められていた。そして、ここの集められた旧軍人は、ウィロビー少将の密偵として、政治集会や労働組合の大会に出席しては、その情報をアメリカ側に提供し、占領軍の考え方に重要な影響を与えていたという。戦犯となってもおかしくないような服部卓四郎大佐(大本営陸軍作戦課長。のち東条首相の軍事秘書+Takushiro Hattori (服部 卓四郎, Hattori Takushirō, January 2, 1901 – April 30, 1960) was an Imperial Japanese Army officer and government official. During World War II, he alternately served as the chief of the Army General Staff's Operations Section and secretary to Prime Minister Hideki Tojo. Following the war's end, he served as an adviser on military matters to the postwar Japanese government.)も、この復員局に配属されていたのである(「日本再軍備」)。
ーこのように、日本再軍備のために有能な軍人の力を温存するかくれみのとして機能していた復員局は、朝鮮人、台湾人戦犯問題が、日本にとって「やっかいな問題」であることを誰よりもよく知っていたであろう。植民地支配の責任を鋭く問う朝鮮人戦犯、台湾人戦犯の存在は、出来るだけ早いうちに、かたをつけたかったのではないだろうか。1951(昭26)年9月8日、「日本国の平和条約」が、サンフランシスコで調印された(「日米安全保障条約」も同じ日に調印されている)。平和条約は「和解と信頼」の文書だと吉田茂全権大使は演説しているが、戦犯に関する限り、少しの和解もなく、拘留が日本の独立後も続くこどだけが確認されていた。吉田の演説も、巣鴨プリズンの人々にとっては、空々しく響いた。
「吉田全権がアチソン議長と固い握手をしたとラジオが告げている頃すがもには冷たい愁雨が伸び切ったヒマラヤ杉を濡らしていた。▲ひそやかに静かに降る雨の中に沈澱したように人々の心は競技を見物したり或は演芸を楽しんで別に講和が全く自らの運命に関わりないことを語り合おうともしなかったようだ。」(「すがも新聞」1951年9月15日付)