日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕⑤


*ルネ・レヴェック(René Lévesque フランス語発音: [ʁœne leˈvaɪ̯k]、1922年8月24日 - 1987年11月1日)Рене Левекは、カナダの政治家、ジャーナリスト。第23代ケベック州首相(在任:1976年11月25日- 1985年10月3日)を務めた。所属政党は自ら創設したケベック党。カナダ建国後、初めてケベック独立を住民投票にかけた政治家となった。
政治・行政面では、経済の州有化にともない、官公庁や公共事業団で働くフランス系カナダ人たちが急増した(前者43%増、後者二倍)ことが、まず目につく、州内にあって彼らは、政治・行政の分野でも、実際、「わが家の主人」になりつつあった。
さらにケベック州政府は、連邦政府が第二次大戦後ますます統合=集権的傾向を強め、本来州政府の管轄に属していたはずの教育、保健、福祉面にもその支出を増大しているとし、その分は州政府に返還されるべきであると主張した。このような論旨にもとづいてルサージュ政権は所得税の25%、法人税の12・5%、相続税の100%還元を連邦政府に迫った。
このレトリックは、その背後に、州の近代化を促進するためには、豊富な財源の確保を必要とする理由があったのであり、財政的自治の拡大とともに、一石二鳥を狙ったものであった。ともあれこの要求は、ケベック州の外交自主権拡大の要求(後述)とともに、ケベック州政府が、連邦国家の主権そのものに真っ向から挑戦するという重大な問題を提起するに至った。
ところで、「静かな革命」の運動主体は誰であったか。それは最初、ルサージュ自由党政府、官僚エリート、それにフランス系小ブルジョアジーであった。ちなみに、1966年には、州政府や公共事業団に勤める官僚は約6万人にのぼっていた。すでに見たように、彼らは高度の近代教育と技術能力を身につけ、意識革命を遂げた。まったく新しい型のフランス系カナダ人たちであった。これら政府・官僚・小ブルジョアジーが描いた未来像は、経済的に高度に発達し、教育・技術その他の面で近代化した新しいケベック社会であった。彼らはそれこそがケベックの唯一の救済策であると信じたのである。
この意識改革は、やがて中産階級へ、そして60年代の後半ルサージュ政権の「静かな革命」が終る頃には、もっと広範囲の一般民衆(労働者、学生、若者、その他の都市生活者)へと急速に浸透していった。社会の底辺で、貧困と疎外の中にうごめいていたフランス系カナダ人たちが、「わが家の主人」として社会のあらゆる側面へ進出していくにしたがって、ケベック州は大転換を始めたのである。絶対に指導者にはなれない、一生抑圧されたままだと諦めていた人たちが、「出口のない閉塞情況」の中から、急に解放された状態を想像してもらいたい。それはあたかも、一つの天の啓示のようであった。
おまけに政府は、新しい事業や企画を実施するにあたって、しばしばテレビを通じて直接民衆に呼びかける方法をとった。なかでもレベック資源相が、水力発電を州有化するという大事業を訴えて、州民の支持をかちとったことは有名である(ついでながらルネ・レベックは、50年代後半、テレビのニュース解説者として人気を博した人物であり、彼のカリスマ的指導力はテレビを通じての大衆動員に負うところが大きい)。

こうして、共通の目的達成のために、コミュニケーションの輪は幾重にも広がり、新社会の創建へとどしどし大衆が動員されていった。しかもそこには、言語と文化と民族と歴史が彼らの共通の基盤として横たわっていた。ハンス・コーンが指摘するように、もしネイションの表徴が「過去における共通の栄光、現在における共通の利益、未来に対する共通の使命」にあるとするならば、ケベックには事実、一つの新しい民族国家ー少なくともそうした意識連帯ーが出来上がりつつあった。
*Češtinaチェコ語→Hans Kohnהַנְס כֹּהן, or קוהן, někdy též Hanuš Kohn (15. září 1891, Praha[1], Rakousko-Uhersko – 16. března 1971, Filadelfie, USA) byl americký historik, filosof, teoretik nacionalismu, vysokoškolský pedagog a sionista, který pocházel z pražské německo-židovské rodiny.

*Françaisフランス語→Daniel JohnsonДанієль Джонсон , né le 9 avril 1915 à Danville et mort le 26 septembre 1968 à Manic-5, est un homme politique québécois. Il est le 20e premier ministre du Québec, fonction qu'il occupe de 1966 à 1968.
(2)「ケベック共和国」建設へのあこがれ
1966年春、連邦の枠内でケベック州の「特殊地位」を維持しようとしたルサージュ自由党政府が瓦解し、「ケベックを国家として認めよ」と連邦政府に迫ったダニエル・ジョンソン率いるユニオン・ナシオナル党が州政権を握った鍵は、ここにあった。その頃から、馭者と馬車は入れ替った。それまで政府や官僚が馭者の役割をし、民衆を率いて近代化の改革を行ってきたが、いまや民衆が馭者となり、「民族自決」を叫びながら政府という馬車をより大きな自治の獲得へ、そして遂には独立へと駆り立てていくことになる。

*Françaisフランス語→Jean-Jacques Bertrand, né le 20 juin 1916 à Sainte-Agathe-des-Monts et mort le 22 février 1973 à Montréal, est un homme politique québécois.
民衆に突きあげられて、ジョンソン→ベルトラン率いるユニオン・ナシオナル党政府(1966-70年)は、とくに、ケベック州の外交権の拡大に努めた。ケベック州は、すでに1965年11月24日、フランスと独自の「文化協定」を締結し、同国との特殊的関係を樹立するとともに、州内のフランス文化の高揚を目指していた。ユニオン・ナシオナル党政権は、この路線をさらに発展させ、フランス語系アフリカ諸国にも積極的に接近していった。こうした経緯の中で発生したのが、いわゆる「ガボン事件」(1968年2月)である。
*ガボン共和国(ガボンきょうわこくRépublique GabonaiseГабо́нская Респу́блика、通称ガボンは、中部アフリカに位置する共和制国家。北西に赤道ギニア、北にカメルーン、南と東にコンゴ共和国と国境を接し、西は大西洋のギニア湾に面している。首都はリーブルヴィルLibrevilleである。
ガボン政府は、リーブルビルで開催予定のアフリカ・マダガスカル教育相会議に、オタワ(連邦政府)ではなくケベックの参加を正式に要請し、しかもカナダ連邦政府にはそのことに関するなんの通告もしなかった。オタワは即刻ガポンとの外交関係を停止したが(カナダのガボン大使は、ガポン政府が謝罪するまで信任状提出を拒否した)。それにもかかわらず、ケベック代表団はその会議に出席し、あたかも独立国の代表のように振舞ったのである。ケベック州は、すでに1967年4月、国の外務省にも相当する「政府間問題担当省」を設立していた。
*マダガスカル共和国(Repoblikan'i MadagasikaraマダガスカルきょうわこくRépublique de Madagascar)、通称マダガスカルは、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にあるマダガスカル島および周辺の島々からなる島国。首都はアンタナナリボAntanànarìvoである。
1967年夏、ドゴール大統領がケベック市やモントリオールで「自由ケベック万歳」を連呼してフランス文化・民族主義を宣揚して以来、”ケベック人”(この頃からケベック州のフランス系カナダ人は、自分たちをそう呼称するようになっていた)のナショナリズムはいやがうえにもかきたてられていた。さらに、おりからの不況にともなう労働争議や失業ーことに新設された専門学校・短大(CEGEP)卒業生の大量失業ーが、社会不安を醸成していた。
民族主義的饗宴の中での超階級的蜜月時代は過ぎ去り、短い階級意識がかなりの労働者や学生の間に見られるようにもなっていた。彼らにとっては、ルサージュ自由党政府もユニオン・ナシオナル党政府も所詮はブルジョア的改革を目指しているにすぎず、真の民族解放はプロレタリア革命による以外には考えられなかった。ケベック解放戦線の指導者たちは、マルクスKarl MarxMao Zedong毛沢東Mao Tse-Tung、チェ・ゲバラErnesto Che Guevara等の思想を彼らの思想的バック・ボーンと考えていた。
そうした状況の下で、「人民による人民のための革命」をスローガンに運動を繰り広げてきたケベック解放戦線は、1969年頃には、活動家だけでも3000人を越す勢力に成長していた。彼らは「民族自決」と「プロレタリア革命」を叫びながら、あちこちでテロ活動を続けてきたが、1970年10月、遂にジェームス・R・クロス英国商務官を誘拐し、ピエール・ラポルト・ケベック州労働大臣を誘拐し、殺害するに至った。
①James Richard Cross CMG (29 September 1921 – 6 January 2021) was an Irish-born British diplomat who served in India, Malaysia and Canada.

②Françaisフランス語→Pierre Laporte, né le 25 février 1921 à Montréal et retrouvé mort le 17 octobre 1970, est un avocat, journaliste et homme politique québécois.

この危機に瀕して、いままで対峙していた連邦政府とケベック州政府は急遽相提携し、トルドー首相はカナダ全土にわたって「戦時措置法」を発動して、騒動を鎮圧した。この「10月危機」は過激派の期待を裏切って、大衆蜂起の促進剤とはならなかったのである。
これは一つには、フランス系をも含めて、カナダ人は、隣のアメリカ合衆国とは異なり、暴力による目的実現(たとえば独立戦争やAmerican Civil War北戦争Guerre de Sécession ou guerre civile américaine/Гражданская война в США)を歴史的に否定してきたことにもよる。カナダ人の間に伝統的に培われてきたこの歴史意識と国民性は、ケベック州のその後の動向を洞察するにあたって、一つの意義深い示唆を与えている。
ユニオン・ナシオナル党政権は、主に外交面でオタワに挑戦することでケベックのナショナリズムを満足させていた。だが同党は元来保守的で、州内の改革を自由党ほどには推進しなかったため、1970年春、若いロベール・ブーラサを党首とする自由党に再び州政権の座がまわってきた。ブーラサ政権は、ジェームズ湾開発という大事業はじめ多くの経済的・政治的近代化の計画に精力的に取り組んだが、ケベック民族主義者たちの最大の関心事は、なんといっても、ブーラサが「フランス語を仕事の上での唯一の通用語とする」という選挙公約を果たすか否かであった。実際この公約は、1974年の州議会(ケベック人は「国会」と呼ぶ)が「第22法案」を通過させるtこによって実現した。自由党は伝統的に連邦主義的立場をとってきたが、その自由党ですら、もはやフランス系民族と文化「開花」を前面に打ち出さざるを得ない情勢にさしかかっていた。

①ロベール・ブラッサ(Robert Bourassa、本名:Jean-Robert Bourassa、1933年7月14日 - 1996年10月2日)Робер Бурассаは、カナダの政治家、第22代ケベック州首相を2期通算15年弱(在任:1970年5月12日- 1976年11月25日および、1985年12月12日 - 1994年1月11日)歴任した②ジェームズ湾Baie James(James Bay)Джеймс (затока)は、ハドソン湾の南方にある南北に細長い湾 (南北400km・東西230km)。カナダのケベック州とオンタリオ州に挟まれており、北のハドソン湾に向けて湾口を開いている。
ケベック人が「第22法案」を掌中に収めて気がついたことは、フランス語を仕事上の通用語にすることを含めて、真の文化的支配は政治的・経済的支配を前提条件とするということであった。たとえば、州内ではまだまだイギリス系や外国系の民間資本がのざばっており、これらの企業の雇主たちは皆あいも変わらずケベック人を使い、彼らに英語で命令していた。
またケベック州には続々と移民が流入していたが、彼らの子供たちは経済的・政治的に優勢なイギリス系社会に好んで同化する傾向にあった。これでは「フランス的事実」は、やがて、「開花」はおろか残存すら内部から崩壊してしまうことになる。そこでケベック政府は、なんとかして移民に対する支配権を確立したいのだが、現行憲法ではそれが連邦政府の管轄に属しているといったありさまであった。
以上のような次第で、真の意味でのケベック人の解放は「民族自決」しかあり得ない、とケベック・ナショナリストたちは信じるようになった。フリードリッヒ・マイネッケの「(国民であろうとする)あこがれは、みたすことのできるすべてのもののなかに流れこみ、一般に国民化されうるすべてのものが国民化されるまでは満足しない。一つの洪水に似ている」という言葉は、まさにその心情を射貫いているといえよう。
1977年秋、筆者がインタビューしたケベック人たちも「この運動は行きつくところまで行かないと(独立を達成するまでは)おさまりませんよ」と主張していた。州民投票によって、平和裡に、ケベックの独立をかちとることを宣言したルネ・レベック率いるケベック党は、ここに凱歌をあげることになったのである(1976年秋)。
レベック政権は、ほぼ次のような内容の綱領を発表した。
ケベック人は自らの文化・民族の存在を保障するために、民主的な手段により、ケベックの政治的主権(独立)を確立する。その方法は、ケベック党の最初の任期(五年)内の、適切と判断されるときに州民投票によって決定する。独立した暁には、世界諸国の承認を獲得し、国連への加盟を要請する。ケベック独自の憲法を制定する。その中で、思想・言論・信教の自由のほか個人の諸権利を幅広く認めた人権宣言を行う。政体は共和制とし、大統領は国民の普通選挙により選出する。議会は国民の直接普通選挙により選出された議員によって構成され、立法権・予算審査権・大統領の罷免権等を有する。行政府は大統領を長とし、外務省、内務省、大蔵省、その他各省を設ける。民主的原則を尊重し、政党活動の自由を認める。独立した際には、ケベックに居住する全てのカナダ市民およびネオ・カナディアンをケベック人として認める。
経済・社会・文化に関しては、以下のような立案がなされた。
現在、ケベックはその全経済活動の50%、基幹部門の80%をイギリス系カナダ人を含む外国人に支配されているので、これを漸次公的機関(国有企業・協同組合等)が掌握するようにし、金融制度。財政管理・経済発展計画、外国からの投資等に関しては、それらの機関により政策を決定し、規制する。経済の民主化を図り、労働者の決定への参加を保障し、労働者に対するあらゆる種類の疎外を排除する。社会主義に基づいて、公正な富の再分配を行う。中央集権を改め、行政をできるだけ分権化し、地方自治体の重要性を再興する。一つの国民の進歩の度合は、その少数民族および最も弱い立場にある社会層の扱い方によって測られるので、ケベック国家は少数民族集団を公正に待遇する。特に、インディアンやイヌイットを「二級市民」とする伝統には終止符を打ち、彼らが固有の文化的・社会的・経済的地位を獲得するよう、政治的・財政的援助を与える。文化は個人を解放するための人間としての資質の第一条件であり、社会的進歩の決定的要因でもある。ケベック人は生活を共にし、自らの固有の文化を保持する堅個なる意志を表明する。したがってケベックでは、フランス語を人間活動の全ての分野における常用語とし、国家の全ての公共機関で使用される唯一の公用語とする。この原則は、仕業、教育、移民、広告、コミュニケーション等の分野においてもできるだけ守ることにし、外国語の使用は、雇用者らの関係者がその必要性を明確に証明したときに限り許されるものとする。


1977年の時点での「ケベック共和国」の構想は、要約すると以上のようなものであった。1980年5月20日、いよいよ州民投票が実施された。だが結果は「ノン」と出た。なぜそうなったのか。それは連邦政府が二言語主義を採用したことに大きくあずかっている。そこで次に、ケベック州の挑戦へのオタワの対応とその社会的影響を考察することにしよう。

3 二言語主義・多文化主義の達成
(1) オタワの反撃
ケベック州における危険な兆侯に逸早く気づいたのは、野党の自由党党首レスター・B・ピアソンであった。彼は、すでに1962年12月の連邦議会で、カナダが「国家崩壊の危機」に直面していることを警告し、もし彼が首相になれば、「二言語・二文化の状況を検討する委員会」を設立することを公約した。
翌年4月の選挙で、ピアソンはディーフェンベーカー率いる進歩保守党を破り、首相となった。その結果、1963年7月、「二言語・二文化政府委員会」が正式に発足した。同委員会は数年間にわたる綿密な調査の後、六分冊からなる膨大な報告書を提出した。
委員会は、フランス系カナダ人の不満(差別・抑圧・所得格差=二級市民等)はみな正当な根拠に裏付けられており、カナダは国家解体という「史上最大の危機」にみまわれているとし、それを回避するための150にものぼる勧告をなした。
その骨子は、コンフェデレーションを維持・発展させていくためには、無理な国家統一や統合を画策するのではなく、コンフェデレーションを成立させた「盟約」にもとづき、イギリス系とフランス系二民族の「イコール・パートナーシップ」を確立することにある。そしてそのためには、両民族のアイデンティティの「核」である英語とフランス語を同等の地位を有する公用語とすべきであり、さらに中央の官公庁職員の採用や企業管理に関して機会均等の原則を認めること、等を指摘した(後述するように、これらの諸点は重要な意味を持つことになる)。
こうした勧告にもとづき、ピアソンの後継者となったピエール・E・トルドー首相は、1969年7月に「公用語法」を制定し、多くのフランス系カナダ人も連邦政府の公務員に採用した。「1982年憲法」には、「カナダの公用語」という項目があるが、それは前述の「公用語法」の趣旨を第16-22条の規定として挿入したものである。
その最初の第16条は、
英語及びフランス語はカナダの公用語であり、連邦議会及び連邦政府のすべての機関における使用に関し、同等の地位と同等の権利及び特権を有するものとする。
と定めている。また、二文化主義→多文化主義については、同憲法第27条で、
本憲章は、カナダ人の多文化的伝統の維持及び促進に合致するように解釈されなければならない。
と規定している。
当初、二文化主義であったのが多文化主義に転換したのは、次のような経緯による。
とにかくケベック州が分離・独立に走る傾向を防がねばならない、フランス系の不満や鬱情を解消しなければならないと、「二言語・二文化政府委員会」を急遽設立したとき、その名称が示すとおり、政府は他の少数民族や先住民のことなどは、ほとんど考慮に入れていなかった。すると当然のことながら他の少数民族が騒ぎだし、トルドー首相は1971年10月8日の議会で、政府は多文化主義の政策でのぞむと宣言することを余儀なくされた。そして翌年には多文化主義相が閣僚内に設けられ、つぎつぎに多文化主義の政策を実施していった。その10年間の実績にもとづいて、多文化主義推進の方針が「1982年憲法」で確認されることになったのである。
けれども連邦政府は、英・仏二言語のみを公用語とする点に関しては、譲歩しなかった。その論拠とするところは、(1)「1982年憲法」は、コンフェデレーションが依拠した「英領北アメリカ法」の不備な点を是正したものであり、コンフェデレーションは実際イギリス系とフランス系の二民族が協力して創設したこと、(2)現実に他の少数民族の98%までが、英語またはフランス語を話せること、(3)多文化主義政策の中には、他の諸民族の言語の活性化も含まれていること、である。このようにして、連邦政府は二言語主義・多文化主義を「国是」として憲法に謳うことにしたのである。
ただし二言語主義に関しては注意していただきたいのは、まず第一に、その原則は公的な問題であって、私的(個人的)な問題ではないということである。具体的にいえば、すべてのカナダ人が二言語を駆使しなければならないということでは決してない。個人は何語で話そうが一向にかまわないし、政府もそこまでは干渉しない。そればかりか、同じ「1982年憲法」の第二条では、「表現の自由」を保障している。
第二に、二言語主義はあくまで連邦レベルの問題であって、州レベルの問題ではない。州レベルで二言語主義を制度として採り入れているのは、ニューブランズウィック州(住民の約三分の一がフランス系)だけである。逆に、ケベック州では、レベック政権が1977年に制定した「フランス語憲章(第101法令)」により、フランス語のみを同州の公用語としている。
①2022/04/04 — New Brunswick is the only officially bilingual province in Canada, with French and English as official languages

②フランス語憲章(仏:Charte de la langue française、英:Charter of the French LanguageХартія французької мовиは、1977年、カナダのケベック州で定められた、州内の公用語をフランス語のみとする法律である。
カナダという国はわれわれから見ると実に不思議な国家で、連邦政府が「公用語法」や憲法で二言語主義を定めたからといって、それが全州政府に拘束力を持つわけではない。これがまたコンフェデレーションなる体制の妙味でもある。カナダの地方自治は真の地方自治であり、日本のいわゆる”三割自活”とは対照的である。
憲法が連邦政府と州政府間の「盟約」である限り、憲法は州政府の承認を確かに必要とするが、それは「かなりの程度(substantial degree)」同意すればよいのであって、全条文を承認する必要すらないのである。これはいかにもカナダ的「決定方式」であり、そこには「妥協と協調」を歴史的にモットーとしてきた国民性が躍動している。ただし昔は、全州の承諾を必要とする「盟約論」が支配的であったことを、要注意として付記しておく(第三章参照)。

(2)二言語主義・多文化主義の効用
では、言語主義とはばかりで、を伴っていないのか、というとそうではない。1969年に「公用語法」が制定されて以来、連邦政府のあらゆる刊行物は英・仏二言語で出版されるようになり、多くの省庁や部局も二言語併用となった。それから海外にある連邦政府のすべての機関も二言語主義を採用するようになった。すなわち、それらのポストで働こうとすれば、二言語ができないと勤まらなくなったのである。
それに市民の側は連邦政府のサービスを英語でもフランス語でも平等に受けられるようになった。つまりフランス系の人たちは、かつてのように連邦政府から英語の書類を受け取る必要はなく、逆に連邦政府に書類を提出するときは堂々とフランス語で書いてよいことになったのである。
このように連邦政府の各レベルで二言語主義が促進されるにつれ、そこで働く官僚はーフランス語の書類が回ってきたりするのでー二言語を併用できないと、実質的にはやっていけない状況に追い込まれてきた。
しかもカナダの行政組織は、日本のように”タテ割り”になっていない。たとえばある人が大蔵省に勤めれば、その人は一生大蔵省にいるということはないわけで、むしろいろいろなポストを”たらい回し”される仕組みになっている。
そうした場合、イギリス系の官僚たちにとって一番恐ろしいのは、ボスの座にフランス系の人が就いたときである。彼は当然フランス語で話しかけるので、部下は皆フランス語がわからないと駄目ということになる。したがって、連邦政府は官僚たちに公費で言語教育を施しており、省庁によっては英・仏二言語の語学試験に合格しないと、採用しないところもある。
議会の討論もすべて二言語併用となった。それ以前は、フランス系の議員は無理して英語で話し、どうしても英語のできない議員や「英領北アメリカ法」で認められたフランス語の権利に固執する議員だけがフランス語で弁論していた。しかしそうしたときは、英語系の議員の多くは、議場から外へ出て行ってしまうのが通例であった。
ところがそれはもう許されなくなった。フランス語は「公用語法」と「1982年憲法」で、英語と同等の地位と権利と特権を与えられているので、フランス語系の議員は堂々とフランス語で意見を発表し、英語系の議員はそれを聞く義務を有するようになったのである。
さらに連邦政府関連の企業、公社、産業も全部二言語主義を採用するようになった。また、1974年3月から法令により、すべての商品名は英・仏二言語で記されなければならなくなった。
問題の教育は、憲法上、州の管轄に属しているが、連邦政府はフランス語教育に力を入れるよう、多額の奨励金や援助金を各州に供与している。連邦政府が二言語主義を推進していくために、さまざまなプログラムに支出している金額は、年間一人当り平均二百数十ドルにも達する。
1969年から連邦政府が二言語主義を実施して以来、そうした言語教育でたいへん流行しているのがイマーション・スクール(Immersion school)という語学学校で、一時はその申し込みに長蛇の列ができるほどであった。
この学校は、英語系の生徒に低学年の頃は全部フランス語で教育を施し、高学年になるにしたがって徐々に英語も採り入れていき、高等学校を卒業するときには、生徒は完全に英・仏両言語をマスターできる仕組になっている。この学校には州立と私立があるが、連邦政府はどちらにも助成金を提供している。
①Françaisフランス語→L'immersion en français est une forme d'éducation bilingue dans laquelle un(e) enfant, dont la langue maternelle n'est pas le français, reçoit une scolarité dans cette langue. Dans la plupart des écoles d'immersion, les élèves suivent l'essentiel de leurs cours (histoire, musique, géographie, mathématiques, art, éducation physique, sciences) en français.French immersion in CanadaФранцузское погружениеФранцузьке занурення

②2018/07/26 — Francisation : Les COFI seraient une importante part de la solution ... et de Canadiens de langue maternelle anglaise en Amérique du Nord③Learn French in Montreal, for FREE! Part-time French Immersion program from the Quebec government (Ministry of Immigration)
また、多文化主義の政策に関して、連邦政府は以下の七つのプログラムに援助金を醸出している。(1)少数民族に関する研究。(2)学外での少数民族の言語教育の奨励。(3)少数民族芸能の育成と発展。(4)少数民族団体の文化的集会(カーニバルその他)。(5)移民・難民・亡命者の社会化及び定住に関するサービス。(6)少数民族の歴史や文学の原語による出版及び公用語による翻訳出版。(7)諸文化団体間のコミュニケーションや共同企画。
現実に多文化主義がどの程度まで進行しているのか、ちなみに図書館のサービス状況を覗いてみると、トロントのメトロポリタン・ライブラリー(Toronto Public Library/Toronto Metropolitan University Libraries)には、130言語の学習用教材が完全に揃えてあり、新聞は42言語のものが収集してある。そしてどの図書館にも「多言語図書手引き(Guide to the Multilanguage Collections)」が備えてあり、どの言語の民族文献でも送料は連邦政府の負担で、全国どの図書館からでも借用できるようになっている。

①Katsuhiko Tanaka ( born June 3, 1934 ) is a Japanese linguist. His specialty is sociolinguistics. He also studies Mongolia. He studies the relationship between language and nation. He is a professor emeritus at Hitotsubashi University②Монголモンゴル語→Танака Кацүхико (Япон: 田中 克彦, たなか かつひこ, 1934 оны 6 сарын 3-нд төрсөн) нь Японы монголч эрдэмтэн юм. Хёого мужийн Ябү-гүн, Ёока-чо (одоогийн Ябү хот)-д төрсөн.
4 言語は国家を創れるか
言語学者として著名な田中克彦は、「国家がことばを作る」という。確かに田中が指摘するように、「『国語』の誕生は近代日本国家の誕生と切りはなせない」(『Words and the Nationことばと国家Mots et Nation』)し、カナダ連邦政府も1969年の「公用語法」と「1982年憲法」で英語とフランス語を公用語と規定した。いずれの場合も、主体は国家で客体は言葉である。
だが、その逆はどうだろうか。具体的には、本章の中心課題である二言語主義は、ケベック州の分離・独立運動を塞ぎ止めるのに、どの程度役立ったか。カナダが「国家崩壊の危機」を脱却して新しい国家像を建設するのに、どのような貢献をなしたであろうか。
まず、二言語主義の根幹をなす「哲学」が勧告にもあるように、フランス系民族はコンフェデレーションを維持・発展させていくうえで、イギリス系と「イコール・パートナー」であると認められたことである。この考え方は、従来”被征服民族”だとか”二級市民”だと自らを蔑んできたフランス系の人たちのプライドを大いに高めたのみならず、”異邦人”と思っていた彼らにコンフェデレーションに対する共属意識を注入した。
さらに前述の「哲学」にもとづいて、「公用語法」や「1982年憲法」がフランス語は英語と同等の地位と権利と特権を有すると宣言したことは、フランス語がフランス系民族のアイデンティティとなっている以上、彼らに大きな満足感を与えることにもなった。また実質的にも、フランス系の人たちの経済的・社会的地位は二言語主義を実施して以来、著しく向上した。
それまでは、経済的上層部はイギリス系が独占し、中間層をドイツ系、ユダヤ系、イタリア系の少数民族が占め、フランス系は最下層に位置していた。つまり彼らは二級市民ならぬ三級市民であった。ところが、フランス系の八割は仏・英両語をこなすことができるのに対し、イギリス系で二言語を駆使できる者は一割にも満たない。そうすると二言語主義を「国是」とするようになったカナダでは、当然のことながら雇用機会や昇進はフランス系の方が有利になってくる。おまけに、連邦政府関連の公社や産業はもちろんのこと、民間企業ですら、連邦政府との関係で、トップ・クラスの地位につくには二言語ができなければ望みうすといった状況に変ってきた。
政治・行政面でも同じことがいえる。かつてフランス系カナダ人は、「オタワでは皆英語を話す」といって、連邦政府に寄りつこうとはしなかった。彼らがたまに連邦政府に雇われたとしても、大抵は掃除夫とかガードマンあるいは配達夫としてであった。
しかし二言語主義になってからは、フランス系が官僚として、どんどんオタワへ進出してくるようになった。政治家になるにしても、連邦政府レベルでは、二言語の能力を兼ね備えている者の方がはるかに優勢になってきた。フランス系カナダ人は、もはや一地方で孤塁を守ったり、そこだけで「わが家の主人」になろうとする必要はなく、国家の大道を闊歩できるようになってきたのである。
こうした社会変革は逸早く、1980年5月20日のケベック州民投票の結果として表われた。この投票は、ケベック州が主権国家となり、しかし同時に経済的にはオタワと連合していくーいわゆる「主権=連合」の構想を実現するー交渉権をレベック政権に委ねるか否かを州民に問うたものであったが、賛成票は40・5%(反対59・5%)しか得られなかった。すなわち「公用語法」実施以来、約10年の間に、連邦主義者の方がケベック・ナショナリストを凌駕するようになっていたのである。

①Le référendum québécois de 1980, qui a lieu le 20 mai 1980Референдум о независимости Квебека (1980), est le premier référendum portant sur le projet de souveraineté du Québec. Le référendum est organisé à l'initiative du gouvernement du Parti québécois (PQ) de René Lévesque, arrivé au pouvoir en 1976. Il s'agit de l'un des événements les plus importants de l'histoire du Québec contemporain

②The 1980 Quebec independence referendumРеферендум щодо суверенітету Квебеку 1980 was the first referendum in Quebec on the place of Quebec within Canada and whether Quebec should pursue a path toward sovereignty. The referendum was called by Quebec's Parti Québécois (PQ) government, which advocated secession from Canada.
もっともこの投票結果は、二言語主義の効用だけによってもたらされたのではない。連邦政府は、一方で主権(独立)を主張しておきながら、他方で経済的には連邦政府と連合したいというレベック提案を”むしのよすぎる話”として、きっぱり拒絶していた。
この回答を受けてケベック州の多くの住民は、英語系民族の大海の中の孤島のような”ケベックが経済的にやっていける自信がなかった。それに、れっきとしたフランス系でケベック州出身のトルドーー多くのケベック人にとっては”英雄”-が連邦政府の長であったことも、大きな影響力を持った(もしイギリス系の首相が連邦政府に君臨していれば、結果は違ったかもしれない)。しかもトルドー首相は、フランス系カナダ人の地位を向上させるため、憲法を改正することを早くから示唆していた。
これらの他にもまだいくつかの理由はあるが、ともあれケベックの州民投票以後、独立を標榜していたケベック党は急速に衰退し、1985年の州選挙では惨敗した(総議席数122中、獲得議席数はケベック党23、連邦派の自由党99)。これで「ケベック共和国」創造の夢は、ほとんど完全についえ去ったといっても過言ではない。
二言語主義がカナダに定着してきた証左は、1984年の連邦議会選挙の結果にも見られる。この選挙に進歩保守党は両言語を自由自在にあやつるM・ブライアン・マルルーニー候補を立てたのに対し、自由党は英語系のジョン・N・ターナー党首(彼は当初片言のフランス語しかできなかった)でのぞんだが、前者が凱歌をあげた。マルルーニーの勝因の一つは、伝統的に自由党の地盤であったケベック州で大量の議席を得たことである(58対18議席)。
なお、この選挙にあたって、進歩保守党の党首選の過程で、フランス語ができなくても党首になれるのだと豪語していた党内の長老J・クロスビーが、「あなたはフランス語を勉強して来なさい」と党員や世論から手厳しく批判され、退散したことも、二言語主義が政治の必須条件になったのを示すエピソードとして興味深い。
*John Carnell Crosbie, PC OC ONL QC (January 30, 1931 – January 10, 2020) was a Canadian provincial and federal politician who served as the 12th lieutenant governor of Newfoundland and Labrador, Canada.
二言語主義はフランス系カナダ人の地位を向上し、彼らの前途に明るい見通しを与えることによって、ケベック州の分離・独立を阻止しただけではない。多文化主義の採用ともあいまって、カナダの新しいアイデンティティを創出することにも成功した。ピーター・デスバラッツがCanada Lost/Canada Foundと題する著書でいみじくも指摘しているように、従来のカナダは主権を有し、経済水準、社会施設、政治機構等に照らして、確かに立派な近代国家であった。

*Françaisフランス語→Peter Hullett Desbarats (né le 2 juillet 1933 à Montréal et mort le 11 février 2014 à London en Ontario) est un journaliste, écrivain et dramaturge canadien.
しかしそれは、決して統合された「国民国家」と呼べるようなものではなかった。内部では二大民族がいがみ合い、対立し、さらに両者の間には種々様々なエスニック集団が介在し、しかもイギリス系が圧倒的に他民族より優位に立ち、彼らを抑圧し、そうした状況の中で、いろいろなエスニック集団がバラバラに、ただカナダという領土に存在していたに過ぎなかった。加えてこの国は、イギリスとアメリカの強烈な影響下にあった。
そこには、「国家共同体」というような感覚はさらさらなかった。確かに、ディーフェンベーカーの「カナダ主義」は一時的にそうしたものを形成したかに見えたが、その後、フランス系をはじめ諸民族が覚醒し、それぞれのアイデンティティを追求するようになり、国家自体は崩壊寸前まで追い込まれるようになってしまった。まさにCanada Lostである。
ところが、カナダはそうした大きな試練を乗り越えて、二言語主義・多文化主義を定着させることにより、カナダ独自の一つの文化的基盤を敷くことに成功した。デバラッツがいうように、Canada Found (Its Own Identity)である。ピアソンが「二言語・二文化政府委員会」を設立したおり、夢にまで描いたコンフェデレーション(Lester Pierson and the Dream of Unity)の創立民族間に、「イコール・パートナーシップEqual Partnership」の考え方が芽生えはじめたのである。
また多文化主義の諸々の政策は、少数民族といえどもその存在価値を無視せず、むしろ彼らの文化的伝統やアイデンティティを発展させることを奨励することにより、かえって逆説的に、そうした保障を与えてくれるカナダに対する彼らの"所属意識”を高めることになった。このことは、そうした少数民族の多くが難民であり、亡命者であり、カナダへ移住する以前は抑圧された少数民族であったことをおもんばかるとき、なおさら意味深長である。
現在のカナダは、一つの文化と一つの言語によって統一もしくは結合された、伝統的かつ典型的な「国民国家」ではない。現にカナダでは、もはや、「ナショナル・ユニティNational Unity」という言葉はほとんど使用されなくなった。それにもかかわらず、二言語主義・多文化主義に基礎を置く、新しくてしかもきわめてユニークUniqueな国家像の樹立は成就したのである。
これでカナダはもうアメリカ合衆国の”ミニ・ステート(Microstate)Ministate”と間違われたり、合衆国の”51番目の州”と揶揄されることはあるまい。カナダは新しい「型」の国家であり、世界の国々が全般的に国家変容を模索する中で、「21世紀の国家」を目指す最先端にあるといえよう。
だが、問題がないわけではない。言語が文化の母体である限り、二言語主義と多文化主義との間には厳然とした矛盾が存在する。また、いま強まってきている先住民の諸権利の主張に、いかに連邦政府や州政府が対応するかも課題である。しかしなんといっても一番の難問は、依然として突出した地方主義を固持しているケベック州を、どのようにしてコンフェデレーションの枠内に引きずり込むかである。
ピアソン→トルドー自由党政府は、文化的手段を用いて、ケベックの独立を一応は食い止めることに成功した。だが、ケベック問題は第I章で示唆したように、歴史的な連邦政府州政府あるいは中央集権対地方分権の抗争がからんでいる。しかもこの抗争には他の諸州も容喙している。マルルーニー進歩保守党政権が、どうこの機構問題(コンフェデレーションの構造改革)を処理するかが、いま注目の的になっている。そこで次章ではこのテーマを取り扱うことにしよう。

Knowing Canada - Another America  – February 1, 1985 by Kensei Yoshida/Apprenez à connaître le Canada - Une autre Amérique
第3章 多極共存型連邦制への道ー中央集権と地方分権のダイナミズムー
1 カナダで「政治」とは
カナダで「政治」といえば、まず第一に、連邦政府対州政府の”かけひき”を意味する。
ちなみにカナダの新聞を一瞥していただきたい。在日カナダ大使館に勤務している吉田健正が指摘しているように、そこには「大体いつでも、石油の値段とか、エネルギー輸出、病院の増設、ケベック独立〔運動〕、少数者の言語権、輸送料金、〔憲法問題〕などをめぐって、連邦・州関係ゲーム」の記事がデカデカと掲載されている。テレビやラジオのニュース番組でも、この「連邦・州関係ゲーム」が報道の中心である(『カナダを知る』)。
*Françaisフランス語→Kensei Yoshida吉田健正 ( 1941- ) est un journaliste international japonais . Né à Itoman City, préfecture d'Okinawa .
こうした連邦政府と州政府の権限をめぐる絶え間ない”かけひき”を、リチャード・シメオンRichard Simeonは「外交diplomacyディプロマシー」と呼んでいる。彼の観点に立脚すれば、カナダの連邦・州関係および州・州関係はあたかも主権国家間関係のようにみなされる。それほど現代では、各州の自治権が強大なのである。また、地域主義が極度に発達しているともいえる。そこでカナダには一国内に11の政府(一つの連邦政府と10の州政府)が併存しており、カナダの連邦制度はアメリカ合衆国や西ドイツ連邦共和国のそれより、むしろEC(欧州共同体)に類似しているとの結論すら導き出されるのである(Federal-Provincial Diplomacy)。

しかしながら、あまり分権化の側面のみを強調するのは偏った見方である。早い話が、ケベック州は勿論のこと、他の諸州の為政者たちも、連邦政府は集権的だと非難し、連邦政府が彼らの権限を侵犯するのを常に慮れている。現に連邦政府はいろいろな手段を用いて国家統合を図ろうとし、連邦・州間、州・州間の調整にも努めている。
カナダの学会では、自国のコンフェデレーションという制度を、分権的と見るか、それとも集権的と見るかをめぐって学派の対立があう。だが筆者はそのいずれの見解にも与えることなく、分権と集権とのダイナミズムの中に、カナダのコンフェデレーションの妙味を覚える。とくに1960年以降、ケベックという”爆弾”を抱えながらも、それを”爆発”させることなく、なんとか国家の体裁を保っているのは感服に値する。
カナダのコンフェデレーションを支えてきた基本精神には、第1章で概観した歴史に培われた「妥協」と「寛容」、そして「忍耐」の国民性であった。だがいまカナダは、そのコンフェデレーションを維持することができるかどうか、正念場にさしかかっている。
「公用語法」と「1982年憲法」は、とにかくケベック州が独立するのだけは食い止めた。けれどもケベック州政府は、後述するように、「ミーチ・レークの合意」が成立するまで「1982年憲法」を承認しなかった。同「合意」は、一応ケベック州をコンフェデレーションの枠内に留めることに成功した。が、その「合意」はあくまでもマルルーニー連邦政府首相とロベール・ブーラサ・ケベック州政府首相(および他州政府首相)間に達せられたものである。連邦議会の下院は「合意」を承認したが、まだ二つの州議会はこれを承認していない。つまり「ミーチ・レークの合意」はまだ正式に発効していないのであり、その限りにおいて、ケベック州がコンフェデレーションに留まるか否かは、いま(1988年12月現在)はペンディングpendingということになる。
しかもマルルーニー首相はこの「合意」を成立させるために、ケベック州に高価な代償を支払い、州権全般のいまだかつてなかった大幅な拡大を認めることを余儀なくされ、さらに多文化主義の「団体」を危殆に瀕せしめることにもなった。
この「合意」はまだ他にもいくつかの難点を内包している。しかし見方によっては、もしこの「合意」が成立すれば、1960年代後半から70年代前半にかけて、世界の政治学会で一世を風靡した「多極共存型民主主義(Consociational Democracy)」理論の妥当性を復活させることにもなる。そうした学問的興味と、カナダのコンフェデレーションがいま”のるか”、”そるか”の瀬戸際に立っているという意味からも、「多極共存型連邦制への道」を跡付けることは至極重要であろう。

*Françaisフランス語→Au temps de la guerre de Sécession, le Canada n'existait pas encore en tant que nation fédérée. À la place, le territoire était constitué des sept colonies restantes de l'Amérique du Nord britannique et du territoire de la couronne administré par la Compagnie de la Baie d'Hudson.Canada and the American Civil WarКанада и Гражданская война в США
2 コンフェデレーションの沿革
1)マクドナルド時代
アメリカで南北戦争が勃発した1861年、ジョン・A・マクドナルドは、真のコンフェデレーションの原則は、州に特別に委ねられた権限以外のすべての権力を中央政府に付与することであると確信した。この考え方は、マクドナルドのみならず、ケベック州出身のジョルジュ・E・カルチエを含むコンフェデレーション結成の父祖たちの一致した信念でもあった。彼らは、南北戦争は州権が強すぎたためにひき起されたものと思い、アメリカの教訓に学ぼうとしたのであった。

*Françaisフランス語→George-Étienne Cartier, né le 6 septembre 1814 et mort le 20 mai 1873, est un homme politique canadien français.
南北戦争のアメリカからアメリカからの脅威に対処するためにも、カナダの中央政府は結束する必要があった。とくに、ブリティッシュ・コロンビアには不穏な動きがあり、同植民地に移住したアメリカ人たちは、1869年、合衆国との併合をユリシーズ・S・グラント大統領に申請していた。

*ユリシーズ・S・グラント(英: Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)Ули́сс С. Грантは、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争時の北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リーRobert Edward Lee将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の1人である。
そうした状況の中で、集権的連邦制度確立の立役者は、1967-73年および1878-91年の間、連邦政府の首相を務めたマクドナルドであった。彼は新しく誕生した自治領が、社会的・経済的統合を伴わない、脆くて人為的な創造物にしかすぎないことをよくわきまえていた。だからこそ、強固な中央政府を模索するのが不可欠であると信じたのである。あたかも折れた足の骨を補強するのに、しっかりしたギブスが必要なように。
彼は集権的な憲法が数年間作動する機会が与えられれば、連邦制度の骨組みは固まるであろうと考えていた。マクドナルドは、「地方政府との関係において、カナダの中央政府の権力は合衆国のそれより遥かに大きいので、中央勢力は必ず〔地方勢力に〕勝つ」と、1868年の書簡に記している。

ところが、マクドナルドのこうした楽観的な予測に反して、州政府は次第に力を増してきた。そこで、二度目に首相に返り咲いたマクドナルドは、国家統一と「国益」最優先を叫んだ。その具体策が「ナショナル・ポリシー」であった。それは第1章で既述したとおり、工業化のための保護関税、西部の人口増加をめざす移民の奨励、大陸横断鉄道建設の三本柱からなっていた。




































この「合意」はまだ他にもいくつかの難点を内包している。しかし見方によっては、もしこの「合意」が成立すれば、1960年代後半から70年代前半にかけて、世界の政治学会で一世を風靡した「多極共存型民主主義()」理論の妥当性を復活させることになる。そうした学問的興味と、カナダのコンフェデレーションがいま”のるか、そるか”の瀬戸際に立っているという意味からも、「多極共存型連邦制への道」を跡付けることは至極重要であろう。

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