日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『資本主義ロシアー模索と混乱』中澤孝之/Capitalist russia-Groping and confusion Takayuki Nakazawa/Капиталистическая Россия Нащупывание и путаница Такаюки Наказава⑩


困窮する軍人と家族たち
予算削減のしわ寄せは、将兵の物質的報酬に及ぶ。特に、物価が欧州部ロシアの二倍から三倍もする極東やバイカル軍管区では、一般軍人の収入は労働者平均の四分の一で、貧困ラインの25~30%の生活しかできない。軍人の75%は銀行預金がなく、給与以外に収入の道はない。ロシアでは一般に共稼ぎが多いが、軍人の妻は、夫の仕事の性質上、職業をもたない場合が多い。結果的には13・5%が両親から仕送りを受けているという調査結果がある。「多くの将兵は給料だけでは食べていけないから、選択は三つしかない。意を決して脱走するか、アルメニアやアゼルバイジャンなど他の国の雇い兵になるか、軍の資産を盗んでヤミでたたき売るかだ」-冗談ともつかない説明だが、このような状況は真実なのである。幹部級ですらこの有り様だから、一般の兵士は推して知るべしである。
もちろん、徴兵忌避者は増える一方である。92年秋の兵役登録率はわずかに28%、各部隊の平均定足率は40~80%といわれた。「兵士の80%は軍隊の生活に不満をもち、辞めたいと思っている」(ロシア国防省機関紙『赤い星』による)のが実態だ。92年5月に給与が一気に6倍に引き上げられた。その後も引き上げられているが、それでもまだ不十分で、特に下級将校に不満が多い。賞与2ヵ月分、生活当1ヶ月分で年間は15ヶ月分の給与が払われてもである。さらに住宅問題も深刻だ。軍将兵15万世帯が住宅をもてない(ある資料では、将校の2人に1人は自分の家がもてない)という。94年にはバルトやドイツなどから駐留軍が引き揚げてきたので、住宅のもてない世帯は40万世帯にも上っている。軍人は今や大学の教官、研究者、年金生活者などとともに社会の貧困層を形成しているといっても差し支えない。
一般企業と同様に、給与の遅配問題が軍にもある。94年3月にはロシア極東の軍事施設で軍パイロットの妻たちが給料未払いに抗議して、滑走路に座り込みを続けた事件があった。また8月初めには、太平洋艦隊の極東海軍建設局所属の将校16人が、数ヶ月におよぶ給与未払いに抗議して司令官にストを予告するとともに、ウラジオストクの検察当局に事態の改善を訴えていたことが判明した。結局、特別支給の形で一部が支払われて、ストにまで発展しなかったが、将兵のスト予告は前代未聞である。同艦隊では下級兵士たちが4月以来の給料をもらっておらず、不満がくすぶり続けているという。4月には同艦隊の駐屯部隊の電気、水道料金の未払い分が45億ルーブル(約2億7000万円)も溜まり、供給停止になりかけたところ、実力でこれを阻止する騒ぎがあった。こうした軍による公共料金未納の状況は太平洋艦隊だけではなく、ほかの地域でも起きている。既述のように、モスクワ郊外の戦略ミサイル部隊基地でも、同じような問題が発生して、供給を実際に止められるという事態となり、大きな話題となった。
この問題に関して、第二章でも紹介したが、このまま放置すると「社会的爆発」もあり得るとの重大な警告を発する論調が現れた。『赤い星』94年8月25日付けの一面トップに載った。「労働への支払いがなければ、効率よい仕事への期待は困難だ。むしろ、爆発を期待しなければならない」という意味のタイトルの論評がこれだ。給与の遅配は当り前になっているある中隊の事例を挙げ、4ヶ月間も給与なしでどうして家族を養えようかという切実な訴えを紹介している。この論評を見る限り、3ヶ月、4ヶ月の給与未払い遅延はもう当たり前のようである。最後は、「国の指導者に対して最後通告を突き付ける石炭労働者と違って、国防相組織で働く人間は忍耐強い。しかし」と続け、「この忍耐をいつまでもテストするのは近視眼的である。陸軍や海軍の内部で、軍部隊で、あるいは軍関係役所の勤労集団で、もし社会的な爆発が起きたら、石炭労働者の示威行為よりはるかに根底から社会を揺さぶるであろう」と結ぶ。この論評は、まさにこの時点の軍人の抱える苦境、彼らの心の底に溜っているフラストレーションを代弁したものと言ってよいだろう。
増大する軍内の犯罪と汚職
給与の遅延に関して付け加えるならば、ある部隊で、中央から兵士たちの給与原資が送られてきたにもかかわらず、これを配らず、まとめて利息の高い銀行に勝手に長期間預けて、その分の利ザヤを稼いで自分の懐に入れていた地方軍幹部がいた、という報道を目にしたことがある。まさに、軍人の堕落も極まれりという感じである。
軍の犯罪の具体的な例は紹介しきれないくらいだ。ロシアの改革派マスコミもこの問題を執拗に迫っており、「将軍のビジネス」、「軍商売」といった見出しが新聞に躍る。不要の施設や武器、燃料などを横流しする株式会社をつくることが軍のなかではやっているとまで報じられた。ついに国防省が軍の犯罪に関しては、おおげさな報道は控えるようにとの異例の声明を出したほどだ。
軍高級将校が絡んだ大掛かりな汚職としては、ドイツ駐留軍(西部集団軍)による武器を含む大量物資横流し事件がある。免税の特権を利用して200トンもの軍事物資を組織的に闇で売却していたといわれる。この商売ではマフィアの影もちらつく。国防省の否定にもかかわらず、マスコミは動かぬ証拠として契約文書や軍検察の内部文書などのロビー写真を公開して、激しく責め立てている。ドイツ警察当局も捜査に乗り出し、この大掛かりな汚職の実態を把握したようだ。この事件にはドイツ駐留軍最後の司令官ブルラコフ大将が一枚かんでいるとの見方が強い。それを巨額の裏金をつくり、人事工作として国防相グラチョフにドイツの高級車を貢いだという。

①ドイツ駐留ソ連軍(Group of Soviet Forces in Germany、ロシア語:Группа советских войск в Германии、ドイツ語:Gruppe der Sowjetischen Streitkräfte in Deutschland)は、1949年から1988年にかけて旧東ドイツに駐留していたソビエト連邦軍部隊である。

②Deutschドイツ語→Matwei Prokopjewitsch Burlakow (russisch Матвей Прокопьевич Бурлаков; * 19. August 1935 in Ulan-Ude; † 8. Februar 2011 in Moskau) war ein russischer Generaloberst. Von 1990 bis 1994 war er letzter Oberkommandierender der Gruppe der Sowjetischen Streitkräfte in Deutschland (GSSD) und leitete den Abzug der Truppen aus Deutschland.
しかし、エリツィンは94年8月26日、つまり同月31日の駐留軍撤退式参加のためにベルリンに赴く5日前に、グラチョフの強い要請もあって、この疑惑の司令官を国防次官に任命した。方やドイツ駐留軍の軍規の乱れは数多くの事例で実証されている。94年初めには拳銃1万丁など武器の大量横流し事件をドイツ誌『シュピーゲルSpiegel』が報じたことがあった。この時は、国防相がブルラコフに規律強化の機密電報を打ったといわれている。結局、不正事件の最高責任者は罰せられるどころか、逆に昇格し、国防省の幹部として生き残ったのだ。
10月17日に大衆紙『モスコフスキー・コムソモーレツ』の編集部で爆発事件が起き、若い記者ドミトリー・ホロドフ(27歳)が死亡した。同記者はドイツ駐留軍の汚職をはじめとする軍幹部の腐敗ぶりを追及し続けた正義派の敏腕記者で、下院で証言しようとしていた矢先の出来事だった。関係資料を提供したいとの匿名電話で呼び出され、スーツケースを持ち帰ったところ、なかに仕掛けられた小型爆弾が爆発した。ロシアのマスコミや議会は「軍か防諜当局が絡んだ悪質な口封じ」であり政治テロであると断じ、グラチョフ国防相とブルラコフ次官の解任を要求した。また、『新時代』誌上94年第43号は「検閲の形態としてのテロ」との見出しで事件を解説した。
92年から93年にかけて、エリツィン政権の高官を巻き込んだ政界汚職「プーチ・クラスヌイ」(赤い道)なるスキャンダルが起きたことがある。ところが、93年9月の大統領令とそれに続く10月騒乱で、この事件の捜査・究明はいっぺんに吹き飛んでしまった。ドイツ駐留軍のスキャンダルも闇に葬られるのであろうか。

*Dmitry Yuryevich Kholodov (Russian: Дми́трий Ю́рьевич Хо́лодов; 21 July 1967 – 17 October 1994) was a Russian journalist who investigated corruption in the military and was assassinated on 17 October 1994 in Moscow軍の汚職を調査したロシアのジャーナリストであり、1994年10月17日にモスクワで暗殺された。
同駐留軍が帰国した後も、トルコへの1万6500両の戦車不正売却(その代金のうち少なくとも8億ドルが消えたという)や軍撤退時にドイツ製高級乗用車10台を軍用機で不正に持ち帰った事件、さらには国連の最新兵器を横流しした疑惑(独誌『シュピーゲル』11月14日発売号で報道)などの「悪事」が次々と明るみになった。しかし、エリツィンは政権ぐるみでこの汚職事件をもみ消そうとしているかに見える。この問題を調査中に1億マルク規模の汚職の事実を大統領に報告したボルドゥイレフ大統領府監査局局長(現上院議員)がエリツィンによって93年3月に解任されたのは、このことを如実に物語っている。ドイツ駐留軍の汚職事件と記者爆殺テロ事件はエリツィンの信任にかかわる重大問題である。エリツィンは灰色のグラチョフを「重要な政治家である」とかばい続けたが、ブルラコフは11月1日大統領令により解任した。この事件も、トカゲのしっぽ切りですませ、国民投票不正問題の処理のように得意の裏取引や大統領強権で握りつぶすのか、あるいはエリツィン政権の土台を揺さぶる一大スキャンダルに発展するのか、大いに注目されるところだ。

3 軍人の意識
ソ連・ロシア軍の各国からの撤退
ゴルバチョフが1988年、悪評の高かったアフガニスタン駐留軍の撤退を開始した時、西側専門家、とりわけ軍事専門家といわれる人びとの間では、完全撤退の公約を疑う向きが少なくなかった。「ゴルバチョフにだまされるな」などと書かれた論評が現れたものである。しかし、これは公約どおり行われた。ソ連・ロシア軍の外国からの引き揚げは、時代の趨勢であったのだ。
ロシアになって、60年代からキューバに駐留していた旧ソ連軍部隊の際後の部隊約1500人の撤退完了式が93年6月15日ハバナの郊外で行われた。一部の軍事顧問や技術者は残留するが、これでキューバ撤退を完了した。バルト三国からも、エストニア、ラトビアから94年8月31日に撤退を完了(リトアニアからは93年8月撤退)、40年にソ連軍が駐留して以来、54年ぶりにバルト駐留に終止符を打った。

ソ連時代から引き継いで旧東独地域に駐留していた旧ソ連軍は、そのままロシア軍の地位が与えられ、任地に残留していた。すでにゴルバチョフ時代の90年10月のドイツ統一の際に、94年末までにソ連軍が撤退することでソ連、ドイツ双方が合意していた。独立後のロシアのエリツィン政権は撤退期限をやや早めて8月31日と決断した。4年間で将兵約33万9000人、その家族やスタッフ約20万7000人、戦車4200両、装甲車8200両、航空機700機が引き揚げた。コール首相、エリツィン大統領出席の下、ベルリンで行われた31日の式典の後、最後まで残ったロシア軍兵士2000人は、9月1日帰国の途に就いた。49年間のドイツ駐留にようやく終止符が打たれたのである。駐留軍の役割が役割だっただけに、反露感情は最後まで拭えず、ロシア軍を見送るベルリン市民の表情は複雑だった。「たつ鳥跡を濁さず」ということわざがあるが、ロシア軍が引き上げた跡は、汚れ放題の大変な光景だったようだ。

周知のように、ベルリンには第二次大戦後、米英仏ソの四カ国が共同駐留していた。エリツィンはコールに対して、まとめて四国軍撤退式典の形式をとるように圧力をかけていた。しかし、コールはこれを断った。冷戦時代にベルリンを守った三ヶ国軍と東西分断の先兵の役を果たしたソ連軍とは同列に扱えないからである。コールはエリツィン支援の点で西側首脳のなかではだれにも引けをとらないが、さすがに通すべき筋は通したのであった。9月8日に西側三国の軍隊の撤退式典がドイツ市民の温かい視線に囲まれて挙行された。
ドイツは撤退費用として約140億5000万マルク(約9000億円)の援助を約束した。このうち約83億5000万マルクは、撤退将兵用の住宅約4万5000戸の建設にあてられる。撤退を控えてロシア・テレビは次のようなインタビューを放映した。「ロシアに帰ったら当分はテント暮らしなの。住むところさえないわ。軍人の妻になってこんな惨めな思いをするのは初めてよ」(ある将校夫人)。「正直なところ、ここから出て行きたくない。ここの暮らしはいいし、給料もまあまあだからな」(ある将校)。ロシアのマスコミ、とりわけ保守系の新聞は「駐留ロシア軍の撤退で大国としてのロシアの存在感が失われる」との危機感を煽り立てた。ジュガノフ(ロシア共産党委員長)は、8月31日の記者会見で「エリツィンは降伏するために、ベルリンに出掛けた」と厳しく批判した。
高い極右への支持率
93年12月選挙がジリノフスキー旋風を巻き起こしたことはすでに触れた。軍はこの選挙にどういう意思表示をしたのだろうか。軍有権者は家族を含めて500万人から700万人。そのほか軍と直接関係をもつ非軍人有権者は8万~14万人と見られている。モスクワからロシアの新聞の引用として伝えられた報道によれば、軍人のかなりの数が、「軍民転換の即時中止」「在外ロシア人2500万人を他民族の迫害から救え」「武器輸出で外貨収入を増やせ」などの公約を掲げたこの右翼ジリノフスキーの党、自民党に投票したのであった。
戦略ロケット軍の将兵の72%が自民党に投票、共産党には16・5%、エリツィン与党といわれた「ロシアの選択」支持は5・8%であった。また、10月騒乱にエリツィン支持のために出動したタマンスカヤ師団の87・4%、カンテミロフスカヤ師団の74・3%がそれぞれ自民党に投票したことも判明している。国防省のあるモスクワ軍管区でも、過半数に近い46%が自民党支持で、共産党には13・7%、ロシアの選択には8・5%が票を投じた。他の軍管区や軍教育機関、空軍でもジリノフスキーの自民党が圧倒的な支持を得たといわれる。グラチョフ国防相は事前に、「軍の7割は”選択”に投票するであろう」と語っていたが、見込みは大きく外れたわけだ。ソ連解体で、使命感の喪失、士気の低下、網紀のゆるみに憤慨する軍幹部、とくに中堅将校が自民党を支持した。議会解散に軍を使った大統領のやり方にも不満が大きかった。
なお、軍事社会心理法制研究所の調査によると、伝統あるロシア軍の誇る「真の軍人」と自らを考えている軍人たちは、少佐から少将まで(30代後半から50歳まで)で、彼らは軍と運命をともにすることをいとわない。また、彼らはロシア社会の資本主義化を快く思っておらず、その50%は民営化に反対で、価格の自由化にも60%が反対していることが明らかになった。また、将校の42%が軍の将来に希望がもてず、状況が改善されなければ、軍務から離れる用意があるとの意思表示をしている。
とにかく、10月騒乱からわずか2ヶ月たった時点で、エリツィンは軍内部の基盤をほぼ喪失し、軍・治安機関へのコントロールを失ったかにみえた。シャポシニコフ前CIS軍最高司令官はこの結果について、「政治抗争に軍を巻き込もうとしたのが災いしたのである」とエリツィンの過ちを指摘している。
実は、軍のなかでエリツィンやいわゆる改革派に対する支持者は前から少なかった。前述のように、軍の中堅クラスはエリツィン政権に批判的であった。92年11月の調査で、政府支持は軍人の19%、56%が反対という結果が出ている。92年半ばの別の調査でも、政府全面支持は将校の約20%、大統領の人気調査で全面支持者は30%、絶対反対が10%、60%は態度を決めかねていた。将校の三分の一以上がソ連再生を望み、軍事予算削減には反対。三分の二が強権による政治を望み、民族愛国主義勢力への支持は70%に上る。75%が国営型経済を希望しているという調査結果(『モスクワ・ニュース』紙93年第7号)から判断すると、10月騒乱の際に、ホワイト・ハウス砲撃計画に対してグラチョフが一時煮え切らない態度をとり、軍の実戦部隊が出動を渋ったのも、また選挙で軍がジリノフスキーを圧倒的に支持したのも、それほど不思議ではないのである。
94年7月初め軍司令官を対象に行われた秘密の調査(モスクワの兵舎での調査との説もある)によれば、次期大統領にだれが一番ふさわしいかという問いに対して、一位がチェルノムイルジン首相、二位はジリノフスキーで、三位ヤブリンスキー(『ヤブリンスキー連合』リーダー)以下を大きく引き離した。エリツィンの名前を挙げたものはいなかったという。そして、クレムリンの現指導部を支持するか、との質問に何と96%が二エット(ノー)と答えた。

①アレクサンドル・イワノヴィチ・レベジ(レーベジ、ロシア語: Алексáндр Ивáнович Лéбедь、ラテン文字転写の例:Aleksandr Ivanovich Lebed、1950年4月20日 - 2002年4月28日)は、ソビエト連邦及びロシアの軍人、政治家。中将。クラスノヤルスク地方知事、ロシア安全保障会議書記などを歴任した。Хакасия Республиказыハカス(ハカシアRepublic of Khakassia)共和国Республика Хакаси政府議長(首相)を務めたАлексей Иванович Лебедьアレクセイ・レベジAleksei Ivanovich Lebed大佐は実弟。
タカ派将軍の高い人気
次に、次期国防相にはだれが適任かとの質問に、グラチョフを挙げた者は一人もおらず、レべチ司令官が76%の支持を受けて他を圧倒した。二位はコレスニコフ大将で、わずか6%の支持率だった。

②General of the Army Mikhail Petrovich Kolesnikovミハイル・ペトロヴィチ・コレスニコフ (Russian: Михаил Петрович Колесников; 30 June 1939 – 26 March 2007) was a member of Boris Yeltsin's administration and briefly served as acting Defence Minister of the Russian Federation after Pavel Grachev was fired by Yeltsin. Kolesnikov also served as Chief of General Staff of the Armed Forces of the Russian Federation from 1992 to 1995.

Рихард Зорге - Трагический агент (1973), неизвестная привязка Мария Колесникова (автор), Михаил Колесников (автор)/Richard Sorge - Tragic Agent (1973) Unknown Binding by Maria Kolesnikova (Author), Mikhail Kolesnikov (Author)
軍内きってのタカ派といわれるアレクサンドル・レべチ将軍は、軍部全般はもちろん、民族主義勢力のなかで最も人気の高い軍人といわれていたが、これが実証されたのである。レべチは1950年生まれだから、グラチョフの二歳年下、アフガニスタン戦争で名をあげたが、広く有名になったのは、1991年8月の反ゴルバチョフ・クーデター事件の際、ホワイトハウス(最高会議ビル)防衛に大きな役割を果たしたからであった。その後レべチは92年ロシア第14軍司令官に就任し、旧ソ連の共和国で独立したモルドバに派遣された。モルドバはルーマニアに国境を接し、かつてモルダビアと呼ばれた国である。この領内で90年9月に、住民の大多数がロシア系であるプリドニエストル地方において、分離独立を目指して一方的に共和国樹立が宣言された。このため、一時流血の事態にもなったが、内戦の拡大を避けるために、ロシアはレべチ将軍を送り込んだのであった。レべチは戦闘を停止させたまではよかったが、招かれざる客として引き続きプリドニエストルに居残っている。

①モルドバ共和国(ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova)は、東ヨーロッパの内陸国Republic of Moldova②モルダヴィア、モルダビア(Moldavia、ウクライナ語: Молдавія、ロシア語: Молдавия)は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称であるРепублика Советикэ Сочиалистэ Молдовеняскэモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国Молда́вская Сове́тская Социалисти́ческая Респу́блика/Moldavian Soviet Socialist Republic③Приднестровская Молдавская/Pridnestrovian Moldavian Republic (PMR)沿ドニエストル・モルドバ共和国Република Молдовеняскэ Нистрянэ/Придністровська Молдавська Республіка
モルドバ政府はエリツィン政権に対して、第14軍を撤退させるように強く要求していた。前述のように、結局、グラチョフは8月10日、第14軍の組織を師団に縮小し、三年以内にロシア軍を撤退させるという協定に調印した。しかし、レべチはこの協定に基づく組織変更計画に応じない、と国防相に抵抗するのである。最高司令官のエリツィンは、将軍に服従を命じることなく、むしろレべチを解任しようとしたグラチョフを抑えた。レべチはモスクワに召喚され、ТоҷикистонタジキスタンТаджикистан駐留ロシア軍司令官への転任を内示されたが、これを拒否して、第14軍にとどまった。上官の命令には絶対服従の軍のなかにあって、異例の事態であった。エリツィンがあえてレべチを切らず、第14軍司令官に留め置いた背景には、民族派や軍人に人気の高いレべチが大統領候補としてかつぎ上げられるのを阻止するためではなかったかと憶測されている。レべチは、公式発言のなかで、エリツィンを「欠陥大統領」と批判したことがある。レべチ将軍は8月20日インタファックス通信とのインタビューで、「プリドニエストル地域には現在、ロシア軍撤退のための前提条件は整っていない。ロシア議会は協定を批准しないであろう」と、当分はとどまる決意を表明した。
ロシアの改革派の新聞は「レべチ将軍は次期大統領選挙で有力な候補となるであろう」と書き立てた。将軍自体も政界への進出に食指を動かしている様子で、94年7月末の『イズベスチヤ』紙とのインタビューで、「ロシアの現状からすれば、軍部が政治に進出するのはやむを得ない」と述べ、「ピノチェト将軍は国家を全面的な崩壊から救い、軍に誇りをもたせた。軍の支援によりピノチェト将軍は国民を仕事に復帰させ、反対派を容赦なく沈黙させた」と、チリの左翼政権をクーデターで倒して軍事独裁政権を打ち立てたピノチェトを称賛したのである。


①アウグスト・ホセ・ラモン・ピノチェト・ウガルテ(Augusto José Ramón Pinochet Ugarte、1915年11月25日 - 2006年12月10日)Аугу́сто Хосе́ Рамо́н Пиноче́т Уга́ртеは、チリの軍人、政治家、第30代大統領(在任:1974年 - 1990年)。1973年9月11日のチリ・クーデターで政権を掌握し、長期に亘って強権をふるい、独裁者としてチリに君臨した②チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado ChilenoВійськовий переворот у Чиліとは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデターのこと。
国防相のグラチョフは軍内部で野戦指揮官出身の「成り上がり者」として見られている。グラチョフ自身は、エリツィンと毎月曜日の午前11時に会うほか、毎日午前10時に五分間電話による報告が義務づけられている(『論拠と事実』紙93年第5号)と、エリツィンとの親しさを強調する。前記の記者爆殺事件のあと、この事件の黒幕とみられるグラチョフ国防相の更迭要求が盛り上がるなか、エリツィンがグラチョフを終始かばったことは、両者の密接な関係を裏づけているようだ。
レべチとともに今後、侮れないのが、グロモフ国防次官(
CIS担当・大将)である。89年のアフガニスタン軍事介入終了まで旧ソ連第40軍(アフガン駐留軍)の司令官だった。レべチほどの人気はないが、事実上現ロシア軍部における最高の実力者である。アフガン時代にはグロモフが常にグラチョフの上官だった。「ロシアにもド・ゴールがいるはずだ」と自らロシア版ド・ゴール将軍を気取っているが、将来、軍部クーデターを率いることのできる実力者だといわれている。

*ボリス・フセヴォロドヴィチ・グロモフ(ロシア語:Борис Все́володович Громовバリース・フスィェーヴァラダヴィチュ・グローマフBoris Vsevolodovich Gromov、1943年11月7日 - )は、ソビエト連邦およびロシアの軍人、政治家、大将。ソ連邦英雄。
4 軍民転換と武器輸出
難航する軍民転換
本章の最後に、軍民転換と兵器輸出の問題に触れておきたい。軍民転換はコンバージョンという英語からの言葉「コンベルシアリ」が使われ、東西軍縮が具体化したペレストロイカ時代から進められていた。何よりも軍事発注の減少で、軍事工場は民需への転換を図らざるをえない状態に追い込まれた。例えば、ロシア極東のコムソモリスク・ナ・アムーレの軍用製造工場は、軍民転換の一環としてヤマハ製の70~150馬力のエンジンを積んだ高速モーターボート製作を試験的に開始したと6月に伝えられた。当初は50隻を作り、試験運転の結果を見て商業生産に踏み切るとのことだ。同工場では、軍用機の発注が減ったため、民間機や船舶の製造を行っており、ヨット、キャビンクルーザー、漁船などを手掛けている。

ウリンソン第一経済次官によれば、94年上半期における軍事発注は前年同期比70%も減少したという。これが工業生産全般の大幅低下と関係しているのは間違いない。ロシア国防工業国家委員会は、6月30日に軍事コンプレックスの今年上半期の生産実績を公表したが、これによると、軍需生産は昨年同期に比べて43%、民需生産は40%それぞれ減少しており、この傾向はさらに続くと予想している。こうした状況の主な理由として、発注企業に支払い能力がないこと、銀行制度の不備、経済的相関係関係の断絶などが挙げられた。
これより先の5月27日の『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙によると、国防費削減の影響でロシアの軍需工業は3月現在で、全体の四分の一が生産停止か稼動率半減に追い込まれた。グルヒフ国家防衛産業委員会議長のインタビューで明らかにされた2月の兵器生産量は、前年同月38%低下、91年以降で78%も落ち込んだ。
とにかく政府の武器発注が減少して軍事産業は青息吐息の状態である。94年9月6日のインタファックス通信によると、ミサイルや電子工学設備の大手企業「アフトマチカАвтоматикa」が、政府の軍備注文の減少で、95年まで生産停止に追い込まれた。エカテリンブルクにある同社は、旧ソ連のスペースシャトル「ブラン」の電子システムなどを生産していた。すでに、従業員7000人全員に無給休暇を与えるか、農作業に従事させるなどの措置をとった。政府は注文削減のみならず、引き渡し済みの代金支払いも遅らせている。このため水道料金が払えず、同社は現地当局から料金未払いで水の供給を止められ、一時的な閉鎖に追い詰められた。企業閉鎖で精密な製造工程の一部が支障をきたし、修復までに15年かかるといわれるから、ロシアにとって将来的にも大きな損失となろう。

①ブラン(露: Буран、ロシア語ラテン翻字: Buran)は、ソ連の各設計局が開発した宇宙船(宇宙往還機)、ないしは同機を初代オービタとする打ち上げ計画(ブラン計画)である。「ブラン」とは「吹雪Blizzard」特に「ステップの猛吹雪Snowstormを意味するロシア語②ブラン計画Энергия — Буран(ブランけいかくBuran programme)は、ソビエト連邦によって進められたсоветской многоразовой транспортной космической системы (МТКС)再使用型宇宙往還機Reusable launch (spacecraft)vehicle(RLV)計画である。
また94年初めには、300年の歴史をもつ有名なトゥーラの兵器工場が、政府の支払い遅延と新規注文のストップによって、開業以来初めて1ヶ月にわたる生産停止を余儀なくされた。
どこの軍事企業も、軍民転換を迫られているにもかかわらず、必要な資金がないのだ。政府も緊縮財政のなかで、金を出し渋る。それでも業界からの強い圧力で少し財布のヒモをゆるめ出した。8月15日にロシア経済省のコソフ次官は94年下半期に、軍民転換への投資促進(一部は農業分野も含む)のために3兆5000億ルーブルを低利で資金供与すると述べた。これは同月10日の「投資と軍民転換計画に関する大統領令」に基づくものである。金利は月10%というから破格の低利である(公定歩合は94年8月23日に年率150%から130%に引き下げられたが、「ブラック・チューズデー」後の10月13日に40%引き上げられて170%、さらに11月17日180%に設定された)。94年第一・四半期ですでに7000億ルーブルを供与済みなので、全年度合計4兆2000億ルーブルの政府資金が供与されることになる。
増大する武器輸出
しかし、93年から94年にかけて注目すべき傾向が生まれている。それは軍民転換を図って資金調達、人員削減などで苦しむよりも、従来の武器製造機械・技術を活かして、得意の武器の生産を増やし、武器輸出を強力に進めるという方針である。

1990年のソ連の武器輸出は100億ドルだったが、92年のロシアの場合は年20億ドルにすぎない。一方、米国は90年の140億ドルから330億ドルに伸ばした。政府は92年末に武器輸出を「輸出収入安定化の有力手段」と位置づけ、これを国家支援する方針を決めた。しかし、それ以前に、武器輸出振興のために許可制度を残したままで、無制限な延べ払い輸出は禁止されたが、実質的には自由化されていた。輸出が自由化されてもメーカーに経験がないために大きな商談はまとまらず、有力な退役軍人や元閣僚、公務員がブローカー役を果たした。後述の対マレーシアのミグ29戦闘機(1機2400万ドル)輸出商談には、18人のブローカーが名乗りを上げた。ボルコゴーノフ大統領軍事問題顧問、アーべン元対外経済相、シバエフШибаев同元次官などである(『モスクワ・ニュース』紙93年13号)。

ピョートル・オレゴヴィチ・アーヴェン(ピョートル・アベン、ロシア語: Петр Oлегович АвенPetr Olegovich Aven、ラトビア語: Pjotrs Avens(モスクワ生まれのラトビア系ハーフ)、1955年3月16日生まれ)は、ロシアの政治家、企業家。ロシアの新興財閥(オリガルヒ Олига́рх)の一つ「アルファ・グループАльфа-Групп」の最高幹部。
93年末に政府は武器輸出の効率化を目的に、個別企業の武器輸出を禁止し、輸出を管理する国営会社「ロスウァルジェニエ」を設立した。しかし、94年5月の政府会議で、ソスコべツ第一副首相は「官僚機構が各企業の武器輸出努力を阻害している」との危機感を強調、会議は再び企業ベースでの武器輸出業務を認める方針を決めた。
「ロスウァルジェニエ」幹部会代表のシャポシニコフは、『論拠と事実』紙94年第22号とのインタビューで、「ソ連時代の武器取引は貿易ではなかった。わが国、社会主義への支持が、武器供与の基準であった。最盛期の1985年、160億ドルの武器輸出契約が結ばれたが、国庫に入ったのは20億ドルだけであった。ロシアになって、企業が直接輸出に走り、過当競争の結果、採算割れになったので、「ロスウァルジェニエ」に一本化された。今後の武器輸出の中心は航空機関係で、総輸出の6~7割に達するであろう」と語った。また彼は2月9日、ロシア通信に、同社はロシアの軍事産業コンプレックスの対外経済活動を積極的に助成していく方針であることを明らかにした。
また「高率な輸出税と激しい競争で、新しい武器市場へのロシアの参入が妨げられている。(輸出税を廃止して)ロシアのハイテク製品輸出を増やすための好ましい条件を作るべきだ」-武器輸出を伸ばす環境づくりについて、ロシア対外経済関係省のダニリツェフ関税総局局長は、このように語っている(94年9月8日)。
さらに、シャポシニコフは9月12日、インタファックス通信に、ロシアは93年、武器売却によって22億ドルの純益を得た、と語るとともに、「94年は特に東南アジア湾岸の新しい市場に進出することによって、昨年以上の利益を得る見込みだ」と述べた。94年の武器輸出は、クウェート、マレーシアと大規模な武器輸出契約を結んでいるので、前年比二倍弱に相当する40億ドルに上る見通しだという」(「ロスウァルジェニエ」のトレチャク社長の9月28日会見での発言)。国際制裁の対象となっているイラク・リビアへも食指を動かしており、10月半ばのコズイレフの「湾岸外交」は、イラクへの70億ドルに上る債権の回収もさることながら、武器輸出の再開を狙ったものでもあった。これらの国への経済制裁が解除されれば、この二国だけで年間120億~150億ドルの武器輸出が見込まれるといわれる。このほかにもロシアは、インド、ブラジルにT72S、T80戦車、BMP3装甲車の輸出を計画している。

ロシアの軍用機を東南アジアで最初に購入した国であるマレーシアには、ミグ29を18機、総額6億1500万ドルで95年4月の引き渡しを条件として売買契約を結んだ。購入代金の20~25%はヤシ油で支払われる。ロシア側はこれを「世紀の取引」と称し、「65年のThe Thirtieth of September Movementインドネシア9・30事件Gerakan Tiga Puluh Septemberを機に手を引いて以来、30年ぶりの東南アジア兵器市場への参入」と興奮ぎみである。
資本主義化はこの国を再び、80年代前半までのソ連のような悪名高い「死の商人」へ駆り立てようとしているのではないだろうか。
おわりに
最後に二つばかり付け加えたい。一つは、本書の内容はロシアのマイナスの面を強調し過ぎたのではないかという批判が予想されるが、私としてはできる限り客観的、実証的な検証を心掛けたつもりである。また、そうした批判にこたえられるように、やや繁雑ではあるが、できるだけ数字と出典をその都度明記するように努めた。とりわけゴルバチョフ以前のクレムリノロジー(ソ連研究)の場合、ソ連の秘密主義のせいもあって、実証的な研究がほとんど不可能であった。全くの憶測や邪推に基づくピント外れの議論が少なくなかった。ゴルバチョフ時代になってさえも、そのような傾向が多分に残っていた。こうした過ちの反省に立たねばならない、と私はつねづね考えている。
資本主義ロシアの将来は、果たして明るいのか暗いのか。私は、短期的にはまだまだ厳しい試練がこの国を待ち受けているように思う。その将来は、エリツィン大統領が任期中に、民主的な方法でどれだけ安定した政治、経済体制を作り上げることができるかにかかっているのではないだろうか。
しかしながら、93年秋からのおよそ1年間に見られるように、大統領権限を強化した「エリツィン憲法」を盾に、エリツィンが権威主義的あるいは独裁的な姿勢を強めれば強めるほど、つまり民主化から遠のけば遠のくほど、エリツィン後の状況は予測しがたいものとなるであろう。だれがエリツィンを引き継いでも、この国の舵取りは容易ではない気がする。とにかく、ロシアが資本主義への道を歩んでいるからといって、必ずしもこの国で民主主義、法治主義が深化しているわけではない。むしろ、94年後半の時点で、現実はその逆であり、これが、この国の将来についてなかなか楽観的になれない理由の一つである。
二番目は、資本主義ロシアにおいては、もはやイデオロギーの対立は、実質的にほとんど政治的な関心事ではなくなっているということだ。保守派と急進派といった色分けではなく、エリツィン派と反エリツィン派という区別がより適当である場合が多くなっている。今やどこの国でもそうだが、とくにロシアでは、問題はやはり経済である。ショックをできるだけ回避しながら、どん底の経済をいかにして好転させるか、その方法の違いが、全体的な資本主義化のなかで内政の大きな争点となりつつあるように見える。
そして、中央内部、中央と地方、あるいは地方同士の政治的な抗争を見るとき、「経済的な利権をめぐる対立」という観点が必要となることも少なくない。つまり、経済は必然的に、政治に連動するので、政治だけ、あるいは経済だけを見ていては、実態がなかなかつかめないのである。経済の動きが政治にどう反映するのか、また逆に政治の動きの背景にはどのような経済的な動機が隠されているのかといった点から、この国を注意深く見守っていく必要があるように思われる。それも、一握りのニューリッチや新ノメンクラトゥーラの側からではなく、大多数のロシアの一般市民の側からの視点をいつも考慮に入れることが不可欠であると私は確信している。

あとがき
資本主義とは「商品生産が支配的な生産形態となっており、あらゆる生産手段と生活資料とを資本として所有する有産階級(資本家階級)が、自己の労働以外に売るものをもたない無産階級(労働者階級)から労働力を商品として買い、それの価値とそれを使用して生産した商品の価値との差額(剰余価値)を利潤として手にいれるような経済組織」(広辞苑第四版より)である。
ロシア人は極端から極端に走る民族だといわれている。「ロシア人は中庸を知らない」とロシアの哲学者ベルジャーエフНикола́й Алекса́ндрович Бердя́евは言ったそうだが、真実をついている言葉である。彼らは今、社会主義から資本主義へ一気に飛び込もうとしている。あれだけ広い領土での、この大掛かりな実験は、もちろん、未曾有のものである。もはや逆戻りはできないところまできた感じだ。混乱のなかで資本主義の初期の段階を通過しつつあるかに見える。だが、ロシア的資本主義(最終的には、法治主義を欠く中南米独裁型資本主義を予測する向きもあり、「エリツィンのバナナ民主主義」という表現が聞かれる)へのソフトランディングには、まだ道遠しである。それもいつになるのか皆目、見当がつかない。当分は、模索が続くであろう。
本書で私は、資本主義化のプロセスにあるロシアの現状を紹介しながら、いくつかの問題点の分析を試みた。しかし、分量的な制限もあって、すべてを網羅するわけにはいかなかった。
例えば、官僚の汚職問題。資本主義は基本的には弱肉強食の世界である。容赦のない弱者切り捨ての実態は本文でも少し触れたが、社会主義体制のなかで強者であった官僚は、引き続き資本主義化のなかでも強者であり続け、マフィアともども、法制の混乱に乗じてうまい汁を吸っている。この社会悪現象は目を覆うばかりである。
「魚は頭から腐る」という諺がロシアにあるが、最高権力者エリツィン大統領も例外ではない。イルラリオフ元大統領経済顧問が米誌『フォーブス』の記者に語ったところでは、エリツィンが自分への支持と引き替えに軍人や民間人の友人たちにばらまいた「贈り物」(税金や関税の免除、有利な融資、特権的な許可証交付など)は、すでに400億ドルにも上るという。どのようにして弾き出した数字か分からないが、とにかく巨額である。『エリツィンの手記』にも出てくるテニス・コーチに、彼は消費物資輸入の無制限・無税輸入の権利を与えた。ペトロフ前大統領府長官は、私的な投資会社設立に1億ドルもの国家資金を受け取ったとか。また、「モスクワ帝国」のツァ(皇帝)といわれるルシコフ・モスクワ市長にも、前任者のポポフ(ロシア民主改革運動の指導者)と同様に、黒い影がつきまとう。彼は国有財産の処分権を握り、独裁的政治を行っている。「市自体が一つの企業であり、ルシコフは最も特権的な企業家」と評されているが、彼もまた利権や謝礼の見返りにエリツィンと同じような「贈り物」をする。彼は1968年から91年までソ連共産党員で、化学産業出身の官僚であった。ペレストロイカ時代にモスクワ市政に関与しており、ソ連邦国家賞、レーニン勲章の受賞者という華々しい過去をもつ男だ。
ピョートル大帝の時代から「盗みはロシアの官僚の生得的な特質」とさえいわれる。だから、汚職はソ連時代にもあった。しかし、資本主義化のプロセスのなかで、それは断然増えている。生来の腐敗体質がいっさい顕在化したとも言える。官僚の贈収賄、詐欺、職権濫用のおびただしい摘発件数がしばしば発表されるが、それは氷山の一角で、弱い立場の庶民とは掛け離れたところ、官僚のあらゆるレベルで、汚職・盗みが横行しているのである。なお、第六章で触れたポルドゥイレフ上院議員(「ヤブリンスキー連合」の共同議長)は11月4日付けの「イズべスチヤ」紙とのインタビューで、エリツィンは軍幹部だけでなく、ルシコフやガイダルなど側近による汚職の証拠を隠滅し、当局の摘発から擁護したことを示唆する爆弾発言をした。
さらに、グラスノスチ(情報公開)後のマスコミの現状についても、本文では十分に触れられなかった。インフレによって新聞・雑誌が軒並み経営難に陥り、国家補助を必要とする状況にあって、政治的な中立が困難になっていることは、大きな問題である。また、ロシアも本格的なテレビ時代を迎えていることに触れておかねばならない。本文で指摘したように、投資会社「MMM」の倒産事件は、テレビによる誇大宣伝と密接な関係があった。活字から次第に離れ、テレビを唯一の情報源としている市民が増えているだけに、テレビの影響力は甚大である。
次に、「ペレストロイカの時期に帰国すべきだった」との批判もあった、「遅れて帰国した」ソルジェーニーツィン氏の帰国後の発言や、彼を迎えるロシア市民の反応には私は一貫して関心を寄せていた。しかし、紙幅の関係で、本文ではエリツィンの名前さえ知らない世代が多くなった現在、一部で期待されるほどには、彼がロシアの救世主となり得る条件はないような気がする。同氏のロシア民族主義的な考え方がこの時期、一般にアピールするとしても、政治的な役割を彼にどれだけ庶民が期待しているかは、疑問である。国外追放生活20年の空白は大きい。
なお、同氏は10月28日、下院で初めて演説した。そのなかでの「今の体制を何と言うべきであろうか。それは民主主義では決してない。率直に言って、それは寡頭政治、ごく限られた人間の権力支配である」という老作家の批判は至言であり、恐らく正しい。かねて私が考えていた通りだ。また「国民大衆は屈辱と、よるすべもない恥辱の中で意気消沈し、ショックを受けている」「底辺の人びとには、惨めな生活を維持するか、他に稼ぐ道を求めるかという哀れな選択しかない。他に稼ぐ道は常に非合法で、政府をだまし、また互いにウソをつく以外ない」「今日われわれは最も苦難多く、最も愚かな方法で共産主義から抜け出そうとしている」といった指摘も、同氏が帰国後、地方各地を見て回った実感から滲み出た切実な言葉と受け取るべきであろう。同氏は11月16日にエリツィン大統領と会談したが、その内容が伏せられたのは、ペレストロイカ時代に始まったグラスノスチに反するもので、甚だ残念である。
日露関係および極東ロシアの現状に関しては、資料をそろえていただけに、十分検討できなかったのは残念である。別の機会に譲りたい。突出した物価高などロシアのなかでも特に経済条件の悪い極東地域と、日本はどう付き合っていかねばならないか。これはロシア国内の中央(モスクワ)と地方との権限をめぐる対立と絡み、むつかしい問題だ。また、暴力も含めあらゆる手段で勢力の拡大を図る地元マフィアとの付き合いなしには仕事が成り立たない事情は、他の地域同様、極東でも、進出外国企業の悩みの種である。
ところで、市民社会の核となる中流階級がしっかりと形成されている日本でも、中央と地方とを問わず、議員や官僚の汚職は絶えず、組織犯罪(暴力団)の跳梁がしばしばニュースで大きく取り上げられる。したがって、資本主義の腐敗した部分は何もロシアに限ったことではない。目くじらを立てるほどのことはないという意見もあるかもしれない。しかし、体制の転換期、移行期にどのような問題がこの国にあるのかを把握しておくことも重要だと考える。10年後、20年後のロシアには、90年代後半の資本主義化ロシアの混迷した姿とは違ったものが出現することを期待してやまない。

私がジャーナリストとして初めてソ連・ロシアとかかわりをもってから、30年近くになる。ゴルバチョフ以前のソ連では、その秘密主義をあって、真実への壁は厚かった。ひな壇に並ぶ席順でクレムリン指導部の序列を占った時代が懐かしい。ペレストロイカ以降は、情報の洪水である。多すぎるほどの情報の渦のなかで今度は、何が真実なのかを見分けるのが大変だ。そして動きが激しい。誇張して言えば、一日たりともロシアへの目配りを怠るわけにはいかないくらいである。実態が流動的なだけに、ロシアの全体像をつかむのはなかなかむつかしい。そこで、前述のように、本書ではまず、資本主義ロシアの実態を紹介することに重点を置き、そのうえで私なりの実証的な分野を若干加えた。書き残したものは少なくなかったが、とにかく日ごろ断片的にこつこつとあつめてきた資料・情報を、このような形でひとまずまとめる機会が得られたのは幸いであった。編集の労をとっていただいた岩波書店編集部の山田まりさんに厚くお礼を申し上げたい。         1994年11月    中澤孝之


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