American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑫
そして、このメレディス行進の過程で、SCLCとの亀裂を決定的なものにして生まれ出てきたのが、マルコム・Xから多大の影響を受け、その前月にジョン・ルイスに代って新しくSNCCの委員長に選ばれたばかりのストークリー・カーマイケルによって提唱された「ブラック・パワーBlack power」だったのである。カーマイケルのこのスローガンに共鳴したCOREのフロイド・B・マッキシックは、到達地ジャクソンのミシシッピ州議会議事堂前で開かれた大衆集会における開会演説の中で、「1966年は、われわれがニグロとして強いられてきた立場を捨て、ブラック・マンになった年として銘記されねばならぬ。1966年は、ブラック・パワーの年である1966 must be remembered as the year in which we gave up our forced position as Negroes and became Black Men. 1966 is the year of black power」と誇らしげに宣言した。
*Floyd Bixler McKissick (March 9, 1922 – April 28, 1991) was an American lawyer and civil rights activist. He became the first African-American student at the University of North Carolina School of Law.
こうして、たちまち全国に知れわたったこのスローガンに呼応するかのように、この年の夏にはシカゴやクリーヴランドなどの北部の諸都市、さらに南部のアトランタでも黒人暴動が発生し各地に「黒い嵐」が吹き荒れたが、10月にはカリフォルニア州のオークランドでヒューイ・ニュートンとボビー・シールによって「黒豹党」が結成された。
①ブラックパンサー党(英: Black Panther Party, BPP)あるいは日本語で黒豹党(くろひょうとう흑표당)Партия самообороны «Чёрные Пантеры»は、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織②ヒューイ・パーシー・ニュートン(Huey Percy Newton 1942年2月17日 - 1989年8月22日)Г'юї Персі Ньютонは、アメリカ合衆国の公民権運動の指導者③ボビー・シール (Bobby Seale, 1936年10月22日 - )Роберт Джордж Силは、アメリカ合衆国の公民権運動の指導者。
1964年公民権法の成立と時を同じくして、ニューヨークの黒人居住地区のハーレムで黒人少年が白人警官に射殺されたことに端を発して、ニューヨークついでフィラデルフィアから始まり、その後、毎夏、頻発してアメリカ全土を震撼させてきた黒人暴動は、翌年の1967年には、州兵だけでは間に合わず連邦軍の戦車まで出動したデトロイトの大暴動をはじめとして、ニューアークやワシントンその他の全米諸都市に波及した。この「長く暑い夏」は翌年も衰えることなく、大規模なものだけでも延べ150以上を数え、1968年まで五年にわたって、とだえることなく繰り返された。
デトロイトの大暴動の最中(67年7月28日)に、ジョンソン大統領は、イリノイ州知事のオットー・カーナー Governor Otto Kerner Jr.を委員長とする通称カーナー委員会を設置し、うち続く黒人暴動について調査研究してこれに対処する方策を求めたが、翌年の68年3月2日に公表された『Report of the National Advisory Commission on Civil Disorders国内騒乱にかんする全米諮問委員会報告書Kerner Report』は、その序文の中で、はっきりと「わが国は、黒人社会と白人社会という二つの社会ー別々に分離され、しかも不平等な二つの社会に向かって進んでいるOur nation is moving toward two societies, one black, one white—separate and unequal」との基本的結論を下している。
①The 1967 Detroit riot, also known as the 12th Street RiotБунт в Детройте 1967 года, was the bloodiest of the urban uprisings in the United States during the "Long, hot summer of 1967".[3] Composed mainly of confrontations between Black residents and the Detroit Police Department, it began in the early morning hours of Sunday July 23, 1967, in Detroit, Michigan.
②The National Advisory Commission on Civil Disorders, known as the Kerner Commission after its chair, Governor Otto Kerner Jr. of Illinois, was an 11-member Presidential Commission established in July 1967 by President Lyndon B. Johnson in Executive Order 11365 to investigate the causes of urban riots in the United States during the summer of 1967.
すでに二年前の7月と8月にシカゴを訪れ、仕事や住宅など大都市のゲットー(黒人居住地区)の黒人が直面していた貧困と差別を打破する闘いに着手していたキング牧師が、メンフィスの黒人清掃労働者のストライキを支援するためこの地に滞在中、兇弾を受けて暗殺されたのは、この年、1968年4月4日のことであった。彼が、ニューヨークの国際記者クラブでの記者会見と、そのあとリヴァーサイド教会で開かれた集まりで、アメリカ黒人としてヴェトナム戦争に反対する立場を明確に表明し、黒人差別反対とヴェトナム戦争反対とをひとつに結びつけてから、ちょど満一年後のことである。
*Assassination of Martin Luther King Jr.Вбивство Мартіна Лютера КінгаMartin Luther King Jr., an African-American clergyman and civil rights leader, was fatally shot at the Lorraine Motel in Memphis, Tennessee, on April 4, 1968, at 6:01 p.m. CST. He was rushed to St. Joseph's Hospital, where he died at 7:05 p.m.
キング牧師の暗殺を契機に全米各地に発生した黒人暴動の最中の4月11日、住宅差別を禁止した1968年公民権法が制定されたが、キング牧師亡きあと、この国の黒人解放運動は、分裂と多様化と混迷の時代に入った。
10 アメリカ黒人の現在
政治参加の進展
1970年代に入ると、ブラック・パワーという言葉は殆ど聞かれなくなった。しかし、これは、逆説的に言えば、この頃からブラック・パワーがアメリカ社会の中に統合され、内在化して浸透していったということである。それは、一世を風靡した公民権運動の成果と限界を示すものであった。
この時期以降、アメリカ黒人の状態は多方面で改善され、かれらの地位も全般に急速に向上した。それとともに、黒人内部の階層分化が進行し、一方で専門職や管理職につく中産階級や、それ以上の富裕な黒人が増加すると同時に、地方では貧しい最下層の黒人も増大して、黒人たちのあいだに分権化の傾向がみられるようになった。そして、そのような貧富の差は、共和党のロナルド・レーガンRonald Reaganが大統領になった1980年に入って、いっそう拡大した。
富裕の黒人の中にあらわれた最も際立った成果は、かれらの政治進出である。たとえば、選挙によって官職についた黒人の増加を1965年の投票権法成立当時とくらべると、黒人公職者は全体で280人から、70年には1469人、85年には6016人へと増加し、現在では7000人以上に達している。その大きな要因としてあげられるのが、黒人の政治的諸権利の行使、とりわけ投票年齢にある黒人、なかでも南部諸州における黒人有権者の登録が急速に進んだことである。1940年には僅か3・1%にすぎなかったかれらの登録率は、66年に51・6%、70年には66・9%まで急上昇し、84年にも同じ割合であった。その結果、南部の黒人公職者は、1941年には二人(全国の黒人公職者33人中6%)という取るに足りない状態から、65年に87人(同じく1468人中48%)、85年には3801人(同じく6016人中63%)にまで増加した。
だが、黒人公職者の増加の中でも最も注目すべきは、黒人市長の急増である。1965年には全国で僅か三人だった黒人市長は、70年に48人、75年に135人、80年に182人、85年に286人と増加の一途をたどり、現在では300を超える大小の都市が黒人市政のもとにおかれている。表5は、1941年から85年の時期に、選挙で選ばれた各種の黒人公職者の全面的増加状況を示すものである。
黒人市長の増加は、数の問題ばかりではない。早くも1967年にオハイオ州のクリーヴランドとインディアナ州のゲアリーにおいて大都市で最初の黒人市長が誕生していたが、1989年11月に行なわれた地方選挙では、合衆国最大の都市ニューヨークで、デイヴィッド・ディンキンズがこの都市で最初の黒人市長として当選を果した。その結果、シカゴの黒人市長ハロルド・ワシントンの任期途中の死によって、1988年4月に行なわれた補欠選挙で、黒人陣営の分裂から市長の座を失ったとはいえ、全米六巨大都市のうち、このシカゴとヒューストンを除く四市ーニューヨーク、ロサンジェルス、フィラデルフィア、デトロイトーが黒人市長を擁しているのである。
①Harold Lee Washington (April 15, 1922 – November 25, 1987)Гарольд Ли Вашингтон was an American lawyer and politician who was the 51st Mayor of Chicago.
②デイヴィッド・ノーマン・ディンキンズ(英語:David Norman Dinkins、1927年7月10日 - 2020年11月23日)Девід Норман Дінкінсは、アメリカ合衆国の政治家。アフリカ系アメリカ人として初にして唯一のニューヨーク市長である。
なお、1989年の地方選挙では、黒人住民が20%足らずのヴァージニア州でローレンス・ダグラス・ワイルダーが州知事に選出されたが、これは合衆国選挙史上、最初の黒人知事の出現で、その歴史的意義はきわめて大きい。かつての奴隷制権力のシンボルの地、南北戦争当時の南部連合の首都リッチモンドの州庁の新しい主人の座に、かつての黒人奴隷の孫が坐るなどちうことを、26年前のワシントン大行進参加者の誰が予想し得たであろうか。ワイルダーの知事就任式は、三万人の人出の中で、年明け早々の1990年1月中旬に行なわれた。また、そのときの選挙で黒人住民が比較的少ないワシントン州のシアトルSeattle、コネティカット州のニュー・へイヴンNew Haven、ノースカロライナ州のダーラムDurhamでも黒人市長が当選した。
③Lawrence Douglas Wilder (born January 17, 1931) is an American lawyer and politician who served as the 66th Governor of Virginia from 1990 to 1994.
さらに、1990年11月の中間選挙の日に行なわれた首都ワシントンの市長選挙では、マリオン・バリー前黒人市長の後任が誰になるかが注目されていたが、シャロン・プラット・ディクソンという民主党の46歳の黒人女性が当選した。合衆国の首都に「アメリカでの大都市で選ばれた最初の女性黒人市長」が誕生したのである。
①Marion Shepilov Barry (born Marion Barry Jr.; March 6, 1936 – November 23, 2014)Мэрион Барри was an American politician who served as mayor of the District of Columbia from 1979 to 1991 and 1995 to 1999.
②Sharon Pratt (born January 30, 1944), formerly Sharon Pratt Dixon and Sharon Pratt Kelly, is an American attorney and politician who was the mayor of the District of Columbia from 1991 to 1995
これとは別に、選挙による公職者の中の最も重要なものに判事の職があるが、黒人判事は1941年には全員で10人(連邦判事一人と州及び地方自治体の判事九人)にすぎなかったのに、70年には218人(同じく19人と199人)、80年には599人(同じく94人と505人)、86年には841人(同じく98人と743人)にまでなった。そして、有権者登録の場合と同様、ここでも70年代以降、南部における増加が実数、比率ともに他の地域を凌駕している。すなわち、南部の州及び地方自治体の黒人判事は、1970年の38人にたいして86年には306人を数えるにいたった(同じ期間に北東部は66人から157人、北中部は72人から169人、西部は23人から106人)。また、連邦の判事では、カーターJimmy Carter大統領(1977-81年、在任)が37人の黒人を任命したのに、レーガン大統領(1981-89年、在任)は六人の黒人しか任命しなかったことも記憶にとどめておこう。
以上、黒人の政治進出を、選挙によって選ばれた公職者を中心にみてきたが、そこには公民権運動の成果が象徴的にあらわれている。しかし、それにもかかわらず、公職者全体の中で黒人が占める割合は僅か1・5%程度で、総人口比の約12%とくらべるとその落差はきわめて大きく、ここでも白人との不平等は厳然と存在している。
教育の統合化と生活環境
「ブラウン判決」が出された1954年当時、旧南部連合の南部11州で、白人の通う学校に通学できた黒人生徒は無に等しく、その比率は僅か0・1%であった。それから10年たっても、この数値は2%という低水準にとどまっていた。
しかし、この年に制定された64年公民権法のもとで、保健・教育・福祉省や裁判所が、地方教育への財政的助成などを通じて積極的に人種統合教育を図った結果、南部で人種隔離を廃止した学校に通う黒人生徒は急増し、その比率は66年には、いっきょに15%に達した。さらに、この数値は、68年には18%、73年には46%へと飛躍的に伸長しており、統合教育に向けて適切な行政措置を講じなかった北部や西部では、この間、28%から29%にとどまっていたこととくらべると、南部における変化には著しいものがある。
その統合教育の成果についての調査によれば、人種隔離をつづけている学校の生徒にくらべて、隔離を禁止した学校においても能力別のクラス編成が進み、低学力のクラスの多くは黒人が占めるようになり、「隔離廃止の中の隔離」といった現象があらわれるようになった。また、大都市の学校では、白人が郊外に移住するにつれて、都市部の白人生徒数は急速に減少傾向をたどり、80年には、白人生徒の比率は、たとえば首都ワシントンで4%、アトランタで8%、ニューアークで9%、デトロイトで12%にまで落ち込んだ。こうして、いくつかの都市では、人種隔離廃止の統合教育政策は曲り角にきた様相を呈し始めた。
1980年には、20歳代後半の若者で高校を卒業した者は、白人が87%を超えているのにたいして、黒人の場合は、その数が急速に増加しているにもかかわらず、70%程度にとどまっている。また、高校を卒業して大学に進学する黒人学生の比率は、73年には39%だったが、77年には48%へと上昇し、白人のそれとほぼ同じ水準に達した。しかし、この数値はやがて減少して、83年には38%、86年には36・5%に低下してしまった。他方、73年から84年のあいだに、白人の大学進学率は、48%から57%へと一貫して上昇しつづけている。そのような中でも、一部の黒人の教育達成度は高く、たとえば1987年にハーヴァードHarvard、ウォートンWharton、コロンビアColumbia、ミシガンMichiganの名門経営大学院四校Four prestigious business schoolsの修士号Master's degreeのうち、約7%が黒人に与えられたというような状況もみられた。
ひるがえって、黒人の生活環境とりわけ保健衛生の中でも注目すべき一、二のことにかぎって一瞥すると、近年、とみに改善されてきたとはいうものの、1985年になっても、黒人の乳児(生後一年以内)の死亡率は、白人の場合の1000人中9・3人にたいして、18・2人と二倍である。これを州別にみてみると、黒人の乳児死亡率が最低の州の数値(12・5人)は、白人の乳児死亡率が最も高い州の数値(10・1人)よりも高くなっている。すなわち、全米のどの州をとってみても、黒人の乳児死亡率は白人のそれよりも高くなっているのである。わが国では、この年の数値が6人であるから、先進国アメリカの黒人の乳児死亡率がいかに高いかは容易にわかる。
また、出生時の体重が2・5キログラムに満たない低体重児が生まれる割合は、死産を別にして、1987年に白人が1000人中5・6人だったのにたいして、黒人は12・4人とやはり二倍以上も高い。しかも、この傾向は白人の場合は低下しているのに、黒人では増加している。73年から83年までのあいだに、1・5キログラム以下の超低体重児の出生率は、白人は3%も減少しているのに、黒人では13%も増加している。そして、乳児死亡のうち、低体重児の死亡が60%を占めているのである。
これらの原因は、母親が、酒、煙草、覚醒剤などを摂取することをはじめ、産前の看護が不良だったり、欠如していることによるところが大きい。事実、重度のアルコール依存症の母親からは、知恵遅れの子どもが生まれやすいことが明らかにされている。しかし、ここで注意すべきことは、それが個々の母親の問題というより、彼女たちをそのような状況に追い込んでいる住宅事情、家庭環境、教育水準、総じて生活状態の悪さに問題があるということである。そして、この劣悪な社会環境から非常に多くの黒人が逃れられないまま、都市のゲットー(黒人居住区)を中心に呻吟しているのが現状である。
*Ghettos in the United States are typically urban neighborhoods perceived as being high in crime and poverty.
生まれた子どもに十分な看護を施せない理由のひとつとして、いわゆる未婚の母を含むティーン・エイジャーの妊娠と家庭崩壊をあげることができる。1984年には、黒人の出産の20%が、ティーン・エイジャーの母親の出産によって占められていた。白人の場合の11・1%とくらべて、やはり二倍近く高いのが目立つ。十分な育児知識と子どもの養育に必要な衣食住を提供するだけのゆとりがなく、子どもが盲腸炎などの簡単な病気にかかっても医者の診療を受けさせられないこれらの母親や、近年とみに増加している黒人母子家庭の母親のもとで乳児死亡が増えていくのは、火をみるよりも明らかである。
これに関連して、平均寿命(零歳における平均寿命)について一言ふれておくと、1990年11月に全国保健統計センターが発表した数値によれば、1900年の平均寿命は白人の47・6歳にたいして非白人は33歳で、両者のあいだは14・6歳の開きがあった(1970年まで黒人のみのデータではなく「白人」と「その他の人種」で示されてきたが、「その他の人種」のうち90%以上が黒人である)。それが1984年までに、白人の75・3歳にたいして黒人も69・7歳まで高齢化し、その差は5・6歳にまで縮小されたのに、その後この開きは拡大に転じ、87年の平均寿命は、白人の75・6歳にたいして、黒人は69・4歳とその差は6・2歳に広がった。さらに、88年には白人のそれは変化していないのに、黒人の場合は69・2歳へと0・2歳低下し、その結果アメリカ人全体の平均寿命をこの一年間に75歳から74・9歳に引き下げた。
平均寿命に大きな影響を与える要因のひとつが、今ふれた乳児死亡率であることを考えると、現在、アメリカ黒人が直面している最大の問題が、かれらのおかれている経済状態にあることは容易にうなずけるであろう。
経済状態
19世紀末まで、黒人は、その総人口の90%以上が南部に居住していたが、現在でも約半数は南部に住んでいる。しかし、今世紀に入ってから北部や西部への移動が著しく、とくに第二次世界大戦以降、南部の工業化の進展ともあいまって、農業地帯を離れた黒人の都市集中化現象が、南部を含めて全国的に急速に進行していった。
次に掲げた表6と表7は、1980年の国勢調査による、巨大都市における近年の黒人の集中化状況と、全国の白人、黒人の州別人口を示すものである。
1960年に全国の黒人人口の60%を占めていた南部の黒人人口は、65年には54%、70年には53%、75年には52%と減少したが、その頃から南部の諸都市への逆流現象がみられ、1980年には再び53%に戻った。他方、1960年には全国の白人の都市人口は69・5%にたいして、黒人のそれは73・3%だったが、70年には前者の72・4%にたいして、後者は81・3%にも増大した。さらに、大都市への黒人の集中化傾向は、表6の示すとおり、その進展には目をみはるものがある。全米諸都市の人口の中で、黒人人口が70%を超えているのは首都ワシントン(1980年の都市人口順位は第15位)だけであるが、80年のデトロイトの黒人人口はこの都市の全人口の63・1%、ボルティモアでは54%、シカゴでは39・8%、フィラデルフィアでは37・8%など、その比率は著しく高い。ちなみに、1980年に人口の第一位のニューヨークから第10位のボルティモアまでの10大都市人口全体の中で黒人人口が占めた割合は、この年の合衆国の総人口中に占めた黒人人口の割合が11・7%だったのにたいして、約22%であった。しかも、そのさい、多くの黒人は都市中心部に聚住し、劣悪な生活環境のもとで全米各地にゲットーを形成している。
こうした中で、黒人の職業構成にも大きな変化が起こった。かつて黒人が従事していた産業は、圧倒的に農業であった。それが、製造業やサーヴィスリ業へと変ってきたのである。
もう少し立ち入って具対的にみてみると、1960年代末から70年代をとおして、男性の場合、工場労働などのブルーカラーの職種や、事務、販売などのサーヴィス業務、さらにいっそう際立った特徴として、ホワイトカラーの知的な専門職への顕著な進出がみられた。その結果、60年代には、個人サーヴィス業、小売業、建築業務などの分野で働く黒人が過半数を占めていたが、80年代に入ると、自営業者の中でも金融業、保険業、不動産業、運輸業、通信業、卸売業などの分野にも広く進出していくようになった。
他方、女性の場合は、従来、家事使用人などの家内サーヴィス業務が殆どだったが、工場、店舗、事務所などでの仕事のほかに、一部の黒人はホワイトカラーの知的な専門職にも進出していくようになった。しかし、これらの専門職への進出は、80年代に入ってからは、白人女性の進出に押されて後退の傾向をみせている。そして、黒人女性の職としては、ホテルの掃除、洗濯や、個人の家庭の家事手伝い、病院の看護助手、福祉サーヴィスの手伝いなどの分野が今だに大半を占めている。
総じて白人との格差にかんしては、表8に示されているように、ホワイトカラー層、ブルーカラー層、サーヴィス業のいずれにおいても格差は明らかに存在しているが、とりわけサーヴィス業では黒人の占める割合がきわめて大きい。また、ブルーカラー層については、格差はそれほどでもないようにもみえるが、その職種にまで立ち入ってみると、黒人の場合は白人とくらべて熟練労働者の比率が低く、反対に半熟練・不熟練労働者のそれが高くなっている。後者にかんする1980年代の数字によれば、白人の17・8%にたいして、黒人は26・3%であった
住宅事情、家庭環境、教育水準などにみられる多くの黒人の劣悪な生活状態は、かれらの慢性的な失業というかたちで、最も端的にあらわれている。黒人の失業者は、表9が示しているように、1970年代後半以降、ひきつづいて10数%を記録し、つねに白人の失業率の二倍、もしくはそれ以上であった。
それが80年代前半には15%を超え、1983年には19・5%という驚くべき数値に達した。この年の黒人の失業率は白人のそれの2・3倍だったが、とりわけ16歳から19歳の若者の場合、表10にみられるように、状況は最も深刻で、同年齢にある白人との格差は2・5倍であったとはいえ、じつに当該年齢の黒人の半数近い48・5%もの者、つまり二人に一人が如何なる職からも閉めだされていたのである。かつて、黒人は「最初に首を切られ、最後に雇われる」"First fired, last hired."と言われたが、最近ではいったん解雇されたら、再就職は殆どおぼつかないというのが実情である。
こうしたことの結果は、当然、所得において最もよくあらわれている。表11は過去30年間の黒人家族の年収(中央値)を示すものであるが、それはこの期間を通じて、ずっと白人家族の場合の半分少々、すなわち55%から、一番よい年でも62%にすぎない。1988年の収入は、白人家族の3万3915ドルにたいして1万932ドルで、比率にたいして57%である。また、所得階層別にみた家族数の割合を示した表12によれば、同じ年の年収一万ドル未満の家族が全家族の中で占める比率は、白人の8・5%にたいして、黒人では27・3%と3・2倍にもなっている。
他方、黒人だけにかぎってみてみると、1970年に年収5000ドル未満の家族は全家族の8・4%だったが、年々、増加して88年には11・9%になった。これにたいし、年収五万ドル以上の家族も6・7%から12・6%に増加し、白人の場合以上に貧富の差は大きく、黒人内部における分権化が進行した。
黒人家族にみられるこのような所得水準の低さは、政府が一定の基準にもとづいて、毎年、算定している貧困水準以下の極貧家庭の高率な慢性的存在としてつづいてきた。表13は、その間の事情をよくつたえている。1970年以降、現在にいたるまで、黒人の貧困家庭は黒人の全家庭の30%前後で、白人のそれとくらべると最低で3・2倍、最高では4・1倍に達しているのである。
*1990年版の『米国統計年鑑』によると、1988年の貧困水準(Poverty level)は、単身者(身寄りのない個人)は6024ドル、二人家族で7704ドル、三人家族で9436ドル、四人家族で1万2092ドル(以下、九人家族以上まであるが省略)となっている。「U.S. Bureau of the Census, Statistical Abstract of the United States, 1990, p. 423)
これまでの叙述において、いくつかの問題を取り上げ、現在、アメリカ黒人がおかれている全般的状況について概観してきたが、そこから知りえたことを一言で要約すると、この国のいわゆる「黒人問題」は、すでに詳しく述べた公民権運動の数々の輝かしい差別撤廃の成果にもかかわらず、依然として解決されていないということである。政治的諸権利をはじめ、社会的、経済的諸権利にかんしても、かれら黒人は法のもとでの平等をほぼ達成した。しかし、本章の各所で垣間みたように、黒人大衆の経済状態は、最近では、むしろ悪化さえしている。それは、かれらの存在そのものが、最高度に発達したアメリカ資本主義の重要な存立基盤のひとつとして、この国の社会経済機構の中に差別されたかたちで構造的に組み込まれているからである。
したがって、こんにちのアメリカ「黒人問題」の本質は、たんに人種や偏見の問題というより、それらを媒体としながら、貧困というかたちで端的にあらわれている特殊アメリカ的な体制の問題、そういう意味での階級の問題と考えるべきである。この点については、いっそう立ち入った実証的、理論的解明を必要とするが、それは今後の課題にゆだね、ここで晩年のキング牧師の言葉を借りて本書の結びとしたい。
ブラック・パワーが登場し、黒人解放運動ばかりでなく、彼自身が自己の思想と行動において大きな転期にさしかかっていた頃、その後の運動の方向を真剣に探求していたキング牧師は、最後の著作となる『黒人の進む道』の中で、はっきりと次のように述べた。
「《ブラック・パワー》というスローガンよりも、《貧しい人びとのためのパワー》というスローガンのほうが、いっそうはるかに適当であろうThe slogan ``Power for the Poor'' would be much more appropriate than the slogan ``Black Power''.・・・要するに、黒人の問題は、アメリカ社会全体が、より大きな経済的正義に向かって新しい方向転換をしなければ、解決することはできないのだということであるIn short, the problem of black people cannot be resolved without a new reorientation of American society as a whole toward greater economic justice.」
Where Do We Go from Here: Chaos or Community? is a 1967 book by African-American minister, Nobel Peace Prize laureate, and social justice campaigner Martin Luther King Jr. Advocating for human rights and a sense of hope, it was King's fourth and last book before his 1968 assassination.
ーI am now convinced that the simplest approach will prove to be the most effective—the solution to poverty is to abolish it directly by a now widely discussed measure: the guaranteed income.ー
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