★Троцкийלייב טראצקי☭武力なき予言者/THE PROPHET UNARMED トロツキーTROTSKY 1921-1929 アイザック・ドイッチャー/ISSAC DEUTSCHER第五章CHAPTER V: 決定的抗争・1926-27年The Decisive Contest: 1926-7⑤
彼の国家と党は、彼の精神や意志とはほとんど無関係な精神と意志をもっていて、彼はそれに叩頭しなければならないようにおもえた。国家と党は、彼には痙攣的で、予言することのできない盲目の力のようにおもえた。ボルシェヴィキがソビエトを「権力機関」としたとき、彼らはトロツキーとともに、世界がかつて見たこともないほど「明瞭で、透明な政治組織」を、支配者と被支配者がたがいにいままでよりもいっそう緊密になり、国民大衆は彼らの意志をかつてないほど直接に表現し、実行する組織を、打ち立てたと信じた。ところが、ほんの数年後の単一政党制ほど「透明」でないものはなかった。社会全体が透明さをうしなっていた。どの社会組織も、自分の意志を表明する自由をもたなかった。だから、どの階級の意志もわからなかった。支配者たちや社会理論家たちは、これを憶測するほかなかったが、自分たちの憶測がまちがっていたことを、事態によっておしえられることが、いよいよ頻繁になるばかりだった。だから、すべての社会階級は、予言することもできないような仕方で、あらゆる方面から党を圧迫する、原初的な力として行動しているようにおもえた。おもえたばかりでなく、ある点までは事実そうしていたのであった。党内のグループも個人も、しらずしらず、およそ思いもかけない方向におしやられているように見えた。あらゆる面でひとが(自分たち自身や他の者について)かんがえること、意志すること、そして実行することのあいだに、裂け目ー政治活動の「客観的」な面と「主観的」な面とのあいだに裂け目ができたり、古い裂け目がふたたびあらわれたりした。いまはだれが革命の敵で、だれが味方かをはっきりさせることが、最大の困難となった。主流派も反対派も、現実の危険や亡霊と戦ったり、たがいにたがいを、そしてまたたがいの影法師を追いかけたりして、暗闇のなかで動いていた。彼らはたがいにあるがままの相手を見ることはやめて、相てを解読して、無害なものにしてしまわなくてはならない、隠れた、不吉な潜勢力をもった、ふしぎな実体として見た。このように社会からも相手からも疎外していたことが、主流派を刺激しては、反対派は異質な社会的分子の手先となって働いていると宣言させ、反対派をそそのかしては、支配的分子の背後にはテルミドール的勢力が立っていると主張させたのである。
では、それらの勢力とはたんであったか?富裕な農民、ネップ・ブルジョアジー、官僚の一部ーつまい、ブルジョア的復古に関心をもついっさいの階級とグループである、とトロツキーはこたえた。労働階級は「十月の獲物」に愛着していて、テルミドール分子には絶対的に敵意をもっている。官僚はどうかといえば、危機の瞬間には分裂し、一部は反革命を支持し、他の一部は革命を防衛するだろう、とトロツキーは予感した。彼はこの亀裂の間接の反映として、党内に分裂がおこるとかんがえた。右翼はテルミドール分子にいちばん近いが、しかしかならずしもそれと同一ではない。ブハーリンの有産者援護は、テルミドール的野望の匂いがするが、しかしブハーリニストが現実のテルミドール分子であるのか、それとも彼らの無意識的な補助部隊にすぎなくて、危険にさいしては、革命に結集するのか、はっきりしない。この見解にしたがえば、左翼、つまり合同反対派だけが、ひとり党内でプロレタリア階級の利益と純粋な社会主義の綱領を代表し、反テルミドール派の前衛の役を演ずる、中間派、つまりスターリニスト派は、なにひとつ綱領をもたない。それは党機関を支配してはいるが、広範な社会的支持をもっていない。右と左のあいだでバランスをとり、両方の綱領に卵を生みつける、中間派が右翼と提携しているかぎり、それはテルミドール派のために道をひらくのを助ける。だが、中間派は彼ら自身を抹殺してしまうことになるテルミドールから、なにひとつえることはできないだろう。だから、反革命の脅威に直面するやいなや、中間派は、もしくはその大きな部分は、左翼の指導のもとにソビエト・テルミドールに反対するために、左翼に結集するだろう。
ここで話の先まわりをして、その後の事態がはたしてどの点までこの見解を確認したか、それとも裏切ったかを、指摘する必要はないだろう。ここでは、トロツキーがそれからひきだした、ひとつの重要な実際的結論を指摘するだけで十分である。これは、一言でいってしまえば、彼と彼の同志たちは、たとえどんな事情のもとでも、ブハーリン派と同盟してスターリンに対抗してはならないということだった。ある事情と条件のもとでは、反対派はスターリンと共同戦線をむすんでブハーリンに対抗する覚悟さえしなければならない、とトロツキーは主張した。その条件は、すべての共同戦線に適用されるものであって、反対派は自己の独立と批判の権利、党内の自由にたいする強い主張を放棄してはならないということだった。よく知られていた戦術的定式にしたがえば、左翼と中間派は、別個のすずみ、いっしょに打たねばならなかった。なるほど、反対派は差当りこの定式を運用する機会をもっていない。スターリニスト派とブハーリニスト派は権力を共有し、統一を維持している。だが、トロツキーは彼らがまもなく不和になることをすこしもうたがわなかった。彼の戦術的ルールは、同者のあいだにくさびをうちこみ、スターリニストもふくめて、いっさいの「反テルミドール分子」を支配することを、反対派にゆるすような再編成を生みだすのを助けることであった。それからの数年、反対派の全行動は、つぎのような原則によって支配されるのである。「スターリンと組んで、ブハーリンに抵抗する?-然り、ブハーリンと組んで、スターリンに対抗する?-断じて否!」
【原注】この問題のさらに突っこんだ分析は、本書の第六章と『追放された予言者』でおこなう。
この戦術の決定にはトロツキーが主として責任があったが、いまこれをいっさいの反スターリン的分派とグループの上にふりかかった最後の、おそろしい光に照らして見るなら、それこそばかげた自殺行為であったとしかおもえないだろう。トロツキーが無力なブハーリンのうちに具体化されているかのように見たテルミドール的精神は、歴史を飽食しすぎた想像力の作り話にすぎなかったようにおもえる。その後の事態の様子をすっかり知って、トロツキーが「右からの危険」、つまりブハーリン派からの危険について、なんどもやっきになって警鐘を乱打したことや、彼がスターリンの力をあきらかに過小評価したことを、つくづくかんがえてみるとき、あんなにもしばしば予言者的な先見の明をしめしたこの人物が、この場合にかぎって明らかにした近視眼と盲目さにおどろかずにはいられないだろう。だが、dénouement (結末)の角度だけから見た見解は、一面的である。トロツキーの決定はまた、彼がそれを決定した状況を背景にして見なければならない。ネップ(新経済政策)は最高潮にたっしており、ブルジョア的復古の関心をもつ努力はまだ生きていて、活動していた。ネップ資本主義の強制的抑圧とか、「階級としてのクラーク(富農)の清算」など、まだだれも夢想さえしていなかった。トロツキーはソビエト社会の相対立する諸勢力の抗争の結果を、自明のこととして、かんがえるわけにはいかなかった。彼が見たようなテルミドールの亡霊は、半ば真実であった。1917年から八年後、いや、十年後でさえ、復古の可能性は頭から否定することはできなかった。マルクス主義者であり、ボルシェヴィキである彼は、当然ながら、これにたいしていっさいの力を緊張させ、全精力を動員することこそ、自分の第一の義務であると感じた。これが彼の党内戦術を決定したのである。もしもまだなにか復古への道をひらくことができるものがあるとしたら、それはスターリンの政策というよりも、むしろブハーリンの政策であった。こうした情況において、トロツキーは、反対派はスターリンに条件的支持をあたえて、ブハーリンに対抗しなければならないという結論に、到達せざるをえなかったのである。このような結論は、左翼と中間派とが同意して、右翼に対抗することには賛成するが、左翼と右翼がむすんで中間派に対抗することは、非原則的であって、ゆるされないとかんがえる、マルクス主義的伝統に一致していた。こうして、トロツキーの態度は、当時の情況において見、マルクス主義的用語で判断すれば、ちゃんとロジックにあっていたのである。その後の事態が、そのロジックをのりこえ、それを反対派の自己抹殺のロジックとして暴露したことは、彼の不幸であった。トロツキーが革命を擁護したその過程において、同時に政治的自殺をおかしたことは、まさしく彼の悲劇であった。
1927年春、ある問題に関連して、ふたたび党内闘争がもえあがった。それはいままで党内闘争ではほとんどなんの役割も演じたことはなかったが、しかし合同反対派が決定的に除名され、解散してしまうまで、ずっとその中心問題になるのである。
この問題というのは、中国革命であった。
中国革命が、すでにレーニン時代のおわりごろからはじまる発展によって準備されてきた重大な危機にはいったのは、ほぼこのころであった。ボルシェヴィキは、植民地や半植民地民族の反帝国主義運動は、ヨーロッパのプロレタリア革命のための主要な「戦略的予備軍」をなすものだと信じて、ずっと早くからこれに注目してきた。レーニンもトロツキーも、西欧資本主義は、安価な労働力や原料、非常に有利な投資の機会を提供してくれる植民地ヒンターランドから切りはなされたら、決定的に弱くなるだろう、と確信していた。1920年、コミンテルンは西欧共産主義と東洋の解放運動との同盟を宣言した。だが、それは原則を宣言しただけで、それ以上には出なかった。同盟の形態とか、それを促進させる手段については、なにも決定していなかった。コミンテルンは、アジア諸民族の独立闘争が、歴史的にはヨーロッパのブルジョア革命に相当することをみとめた。そして、農民を、ある点まではそれらの諸民族のブルジョアジーをさえ、労働階級の同盟軍としてみとめた。だが、レーニン主義的コミンテルンは、アジア自体における反帝国主義運動と、社会主義のための闘争との関係、つまり自国の「反帝国主義的」ブルジョアジーにたいする中国共産党やインド共産党の態度を、まだはっきり規定しようとはしなかった。
これらの問題を解決するには、まだ早すぎたのである。
十月革命が東洋にあたえた衝撃は、まだあまりにも新しくて、その力と深さは、まだ評価することができなかった。アジアの最も重要な国々でも、共産党はやっと結成しはじめているところだった。労働階級は数的に弱く、政治的伝統を欠いていた。ブルジョア的反帝国主義でさえ、まだ形成段階にあった。1921年になって、はじめて中国共産党は、小さな宣伝家的サークルをもとにして、第一回大会をひらいた。だが、中国共産党が大会をひらいて、綱領の決定と組織づくりにとりかかるいなや、さっそくモスクワは、国民党との友好関係をもとめるように勧告しはじめた。国民党は、当時頂天にたっしていた孫逸仙の道徳的権威にひたっていた。孫逸仙自身は、西欧帝国主義にたいして、自分の権力を強化してくれるだろうとかんがえて、ロシアとの協定を熱心にのぞんでいた。彼はその漠然とした、「無階級的」な、ポピュリスト的社会主義の立場で、中国共産党とも協力する用意があった。ただし、彼らが彼の指導権を無条件でうけいれて、国民党を支持するならばである。彼はレーニンの政府との友好協定に署名したが、自分の条件で中国共産党を自分に協力させることは、それよりもむずかしかった。
【原注】このへんの説明は、ことにブラント・シュワルツ、フェアバンク共著『中国共産主義ドキュメント史』、毛沢東『選集』、M・N・ロイ『中国における革命と反革命』、陳独秀『党への公開状』(1929年、ミリタント紙)、スターリン『著作集』、トロツキー『中国革命の諸問題』、アイザックス『中国革命の悲劇』湯良礼『中国革命内面史』「ボルシェヴィキ」、インプレコール・レヴォルーチョエイ・ヴォストーク「革命的東洋」のファイルなどをもとにしている。
共産党は、陳独秀に指導されていた。陳独秀はアジアにおけるマルクス主義の知的パイオニアのひとりであり、中国におけるその最初の偉大な宣伝家であり、毛沢東が出現するまでは、中国革命のいちばん目立った大人物であった。彼は毛沢東にくらべて、戦術家、実際的指導者、組織者としてはおとっていたが、思想家とし、理論家としては、彼より優っていたようにおもえる。陳独秀は、西欧の列強が中国でもっていた特権に反対する大運動の創始者であった。陳独秀が教授をつとめていた北京大学に発したこの運動は、非常に強大なものとなり、その圧力におされて中国政府は、それらの特権を是認するヴェルサイユ条約に署名することを拒否した。マルクス主義的宣伝家サークルが発展して、共産党を結成するまでになったのは、大部分陳独秀の影響によるものであった。彼は党が創立された瞬間から、1927年のおそくまで、革命のあらゆる決定的段階をとおして、中国共産党の争う余地のない指導者であった。彼は党がモスクワからうけた政治的勧告を、はじめから不安の目で見ていた。彼は共産党が国民党と協力する必要はみとめたが、しかしあまりに緊密な同盟をむすぶと、共産主義はそれ自体の独自性を確立することをさまたげられるだろうとおそれた。党が国民党といっしょに前進するまえに、まず自分の足で立つことをのぞんだ。ところが、モスクワは、彼にそうしたちゅうちょをすててしまうように、執拗に要求した。毛沢東はこれとおなじような情況でも、モスクワの勧告にちっとも反対しないで、いつもこれをうけいれるようなふりをし、それからモスクワとの真の分裂を挑発することなしに、その勧告を無視し、自分自身の考えで行動した。ところが、陳独秀には、この毛沢東の性格の力もなければ、ずるさもなかった。陳独秀は真っ正直で、おだやかで、自信を欠いていた。これらの性質が彼を悲劇的な人物にした。彼はあらゆる段階で、モスクワの政策にたいする反対を率直にのべた。しかし、それをどこまでも固守しはしなかった。おし切られると、コミンテルンの権威に屈し、自分のいっそうすぐれた知識にそむいて、モスクワの政策を実行した。
すでに1922年ー3年に、後にトロツキスト反対派で頭角をあらわした二人の男、ヨッフェとマーリング=スネ―フリエトは、若い中国共産党と国民党をむすびつけ、後にスターリンとブハーリンが遂行することになる政策のための地盤を準備するのに決定的な役割を演じた。ヨッフェは、レーニンの政策の大使として、孫逸仙との友好協定の交渉をした。自分の任務を促進することに熱心なあまり、明らかに委託の範囲をこえて、ボルシェヴィキは中国共産党を助長することに関心はもっていない、ボルシェヴィキは、中国共産党が孫逸仙の条件で国民党と確実に協力するように、自己の影響力を利用することを孫逸仙に保証した。マーリングは共産主義インターナショナルの代表として、1922年中国共産党の第二回大会に出席した。彼のイニシアチヴで、党は国民党との連絡を確立し、それへの加盟条件を討議しはじめた。しかし、孫逸仙の条件は頑固で、交渉は失敗におわった。
【原注】オランダのマルクス主義者マーリング・スネーフリエトは、インドネシア共産主義の誕生と密接にむすびついており、モスクワでオランダ共産党を代表していた。後年、ことに1930年代をつうじて、彼はトロツキーの熱烈な支持者であった。第二次大戦中、彼は占領下のオランダで抵抗団体を指導し、ナチスのために処刑された。
その年おそく、マーリングは中国へかえって、陳独秀と彼の同志たちにむかって、共産主義インターナショナルは条件のいかんにかかわらず、国民党に加盟することを彼らに断固として指令すると告げた。陳独秀はこの指令にしたがって行動することは好まなかったが、マーリングが国際的な共産主義的規律の原則をもちだすと、彼と彼の同志たちは屈服した。孫逸仙は、のちに蔣介石がやるように、共産党は国民党の政策を公然と批判することをさしひかえ、その規律にしたがわなくてはならないーそうしなかったら、彼は共産党員を国民党から追いだし、ロシアとの協定を無効とかんがえるだろう、と主張した。1924年のはじめまでに、共産党は国民党に加盟したが、最初は孫逸仙の条件など深く心にとめないで、独立を維持し、国民党の不興を買いながら、はっきりと共産主義的政策にしたがった。
共産党の影響力は急速に増大した。1925年に、「5月30日の大運動」が南支一帯にひろがったとき、共産党員はその前衛にあって、西欧の租界や商会のボイコットを鼓吹し、中国史上最大の広東ゼネストを指導した。運動の勢いが増大するにつれて、国民党の指導者たちはびっくりして、これを抑制しようとして共産党員と衝突した。共産党員たちは内乱の接近を感知して、束縛から解放されたいと熱望し、モスクワに陳情した。1925年10月、陳独秀は彼の党が国民党から引き上げる準備をすることを提案した。ところが、共産主義インターナショナルの執行部はその計画を拒否し、全力をつくして内乱をさけることを中国共産党に勧告した。ソビエトと軍事顧問や外交顧問たるボロージン、ビュッヘル、その他は、蔣介石の本部で働きながら、彼の軍隊を武装させたり、訓練したりした。ブハーリンとスターリンは、いまではじっさいにソビエト外交を指導していたが、どちらも中国共産党が近い将来に権力をにぎるチャンスがあるとは信じないで、ふたりともソビエトと国民党との同盟を維持することを熱望していた。共産党の影響力の増大は、その同盟を分裂させるおそれがあった。そこで、彼らは中国共産党をつけあがらせないようにしようと決意した。
こうして、モスクワは陳独秀と彼の中央委員会にむかって、「愛国的」ブルジョアジーにたいする階級闘争も、革命的な農業運動も、孫逸仙の死以来国民党のイデオロギーとして聖典視されるようになっている孫文主義の批判も、いっさいさしひかえるように要求した。ブハーリンとスターリンは、彼らの態度をマルクス主義の用語で正当化するために、中国ではじまっている革命は、ブルジョア的性格であるから、社会主義的目的を設定することはできない、国民党の背後にある反帝国主義的ブルジョアジーは、革命的な役割を演じている、したがって、それとの統一を維持し、それを敵にまわすようなことはいっさいやらないようにすることは、共産党の義務である、という理論を発展させた。そして、彼らの政策を学理的根拠にもとづいて成立させるために、帝政とたたかう「ブルジョア的」ロシア革命にあっては、社会主義者はプロレタリア独裁ではなく、「労働者と農民の民主的独裁」を目的としなければならないという、レーニンが1905年にのべた見解を呼びおこした。この前例は、中国の情勢にほとんど、もしくは全然関係がなかった。1905年に、レーニンと彼の党は、帝政に反対して、自由主義的ブルジョアジーとの同盟をもとめはしなかったー反対に、レーニンは、ブルジョア革命はただ自由主義的ブルジョアジーに断固として対立しながら、労働階級の指導のもとにたつとき、はじめてロシアで勝利することができるのである、と倦むことを知らず説いた。ブルジョアジーとの同盟をもとめたメンシェヴィキでさえ、ブルジョアジーによって支配された組織の指導と規律をうけいれるなどということは、夢にもおもわなかった。トロツキーがのちに指摘するように、ブハーリンとスターリンの政策は、1905年のボルシェヴィキの態度のパロディであったばかりでなく、メンシェヴィキの態度のパロディでもあった。
だが、これらの学理的な詭弁はちゃんと目的に役だった。それはモスクワの政策をイデオロギー的に飾りたて、それについての不安を感じていた共産党員の良心をやわらげた。1926年早々、国民党が準加盟党として共産主義インターナショナルに加入をみとめられ、インターナショナルの執行部が蔣介石将軍をはなばなしく名誉メンバーにえらんだとき、この政策の日和見主義はびっくりするほどはっきりあらわれた。こうしたゼスチュアでスターリンとブハーリンは国民党にたいして彼らの「好意」を証明し、中国共産党をおどしつけた。「世界革命の参謀本部」が蔣介石をその名誉メンバーに選んでからわずか数週間後の3月20日に、蔣介石は最初の反共クーデターをおこなった。そして、国民党の本部のあらゆるポストから共産党員をしめだし、彼らが孫逸仙の政治哲学を批判することを禁じ、共産党中央委員会にむかって、国民党に加入したいっさいの党員の名簿を提出するように要求した。ソビエト顧問たちにおされて、陳独秀と彼の同志たちはこれに同意した。だが、蔣介石が自分たちにたいして内乱を準備していることを確信していた彼らは、必要の場合には彼の武力に匹敵する軍隊を組織したいと熱望した。そして、ソビエトの援助をもとめた。広東のソビエト代表たちはこの計画を絶対に拒否し、いっさいの援助をこばんだ。陳独秀はふたたびコミンテルンの権威に屈した。モスクワの各新聞は蔣介石のクーデターについてはなにひとつ論評しなかったーそれどころか、この事件を報道もしなかった。混乱をおそれた政治局は、前デセミストのブブノフを中国におくって、その政策を実行させ、国民党のために「苦力の勤め」をやることは、中国共産党員の革命的義務であるといって、彼らを説得させた。
【原注1】陳独秀は、中国共産党中央委員会は広東のソビエト軍事顧問にむかって、蔣介石あてに送られてきた軍需品のうちから、広東省の反乱農民を武装するように、すくなくとも小銃五千を提供してほしいと要求したといっている。
【原注2】陳独秀の『公開状』からの引用。
They appeared to have a mind and a will of their own which bore little relation to his mind and his will and to which he had to bow. State and party appeared to him as blind forces, convulsive and unpredictable. When the Bolsheviks made of the Soviet ‘organs of power’ they were convinced, with Trotsky, that they had established ‘the most lucid and transparent political system’ the world had ever seen, a system under which the mass of the people would be able to express and enforce its will as directly as never before. Yet nothing was less ‘transparent’ than the single-party system after a few years. Society as a whole had lost all transparency. No social class was free to express its will. The will of any class was therefore unknown. The rulers and the political theorists had to guess it, only to be more and more often taught by events that they had guessed wrongly. The social classes therefore appeared to act, and up to point did indeed act, as elemental forces, unpredictably pressing on the party from all sides. Groups and individuals within the party seemed to be unknowingly pushed in the most unexpected directions. On all sides cleavages arose or reappeared between what men thought (of themselves and others), what they willed, and what they did-cleavages between the ‘objective’ and the ‘subjective’ aspects of political activity. Nothing was now more difficult to define than who was the foe and who was the friend of the revolution. Both the ruling group and the Opposition moved in the dark, fighting against real dangers and against apparition, and chasing one another and one another’s shadows. They ceased to see one another as they were and saw each other as mysterious social entities with hidden and sinister potentialities which had to be deciphered and rendered harmless. It was the alienation from society and from one another that prompted the ruling factions to declare that the Opposition worked as an agency of alien social elements and the Opposition to claim that behind the ruling stood Thermidorian forces.
Which then were those forces? The wealthy peasants, the N.E.P. bourgeoisie, and sections of the bureaucracy. Trotsky replied-briefly, all those classes and groups which were interested in a bourgeois restoration. The working class remained attached to the ‘conquests of October’ and was implicitly hostile to the Thermidorians. As for the bureaucracy, Trotsky expected that in a critical situation it would spite: one section would back the counter-revolution; another would defend the revolution. He saw the division within the party as an indirect reflection of that cleavage. The right wing stood closest to the Thermidorians; but it was not necessarily identical with them. Bukharin’s defense of the men of property savored of a Thermidorian aspiration; but it was not clear whether the Bukharinists were the actual Thermidorians or merely their unwilling auxiliaries, who would in danger rally to the revolution. The left, i.e. the Joint Opposition, alone, according to this view, represented within the party the proletarian class interest and the undiluted programme of socialism; it acted as the vanguard of the anti-Thermidorians. The center, the Stalinist faction, had no programme; and although it controlled the party machine, it had no broad social backing. It balanced between right and left and spawned on the programmes of both. As long as the center was in coalition with the right, it helped to pave the way for the Thermidorians. But it had nothing to gain from a Thermidor which would be its own undoing; and so, when faced with the menace of counter-revolution, the center or a large section of it would rally to the left in order to oppose, under the left’s leadership, the Soviet Thermidor.
There is no need to run ahead of our story and to point out to what extent events confirmed or falsified this view. Here it will be enough to indicate one important practical conclusion which Trotsky drew from it. This was, briefly, that under no conditions must he and his associates enter into an alliance with Bukharin’s faction against Stalin. In certain circumstances and under certain conditions, Trotsky urged, the Opposition must even be prepared to form a united front with Stalin against Bukharin. The condition were those that applied in any united front: the Opposition must not give up its independence, its right of criticism, and its insistence on inner-party freedom. According to a well-known tactical formula, left and center should march separately and strike jointly. True, for the time being the Opposition had no opportunity to apply this rule the Stalinists and the Bukharinists shared power and maintained unity. But Trotsky had no doubt that they would fail out presently. His tactical rule was designed to drive a wedge between them and assist in bringing about a realignment which would allow the Opposition to take command of all ‘anti-Thermidorian’, including the Stalinists. In the next few years the whole conduct of the Opposition was to be governed by this principle: ‘With Stalin against Bukharin-Yes. With Bukharin against Stalin?-Never!’
*A further analysis of the problem is found in chapter VI and The Prophet Outcast.
When this tactical decision, for which Trotsky was mainly responsible, is viewed in the grim light of the end which befell all anti-Stalinist factions and groups, it cannot but appear as an act of suicidal folly. The Thermidorian spirit which Trotsky saw as if embodied in the ineffectual Bukharin appears to have been the figment of an imagination overfed with history. And as one ponders, with the full knowledge of the after-events, Trotsky’s many anxious alarms about the ‘danger from the right’, i.e. from Bukharin’s faction, and his evident underestimation of Stalin’s power, one may marvel at the short-sightedness or blindness which in this instance characterized the man so often distinguished by prophetic foresight. However, a view taken only from the angle of the dénouement would be one-sided. Trotsky’s decision has to be seen also against the background of the circumstances in which he took it. N.E.P. was at its height, the forces interested in a bourgeois restoration were still alive and active, and nobody dreamt as yet of the forcible suppression of N.E.P. capitalism and of the ‘liquidation of the kulaks as a class’. Trotsky could not take for granted the outcome of the contest between the antagonistic forces of Soviet society. The phantom of Thermidor, as he saw it, was still half real. Eight or even ten years after 1917 the possibility of a restoration could not be ruled out. As Marxist and Bolshevik, he naturally felt it to be his prime duty to strain all strength and to mobilize all energies against it. This determined his inner-party tactics. If anything at all could still pave the way for restoration, then it was Bukharin’s rather Stalin’s policy. Within this context Trotsky could not but conclude that the Opposition must lend conditional support to the latter against the former. Such a conclusion was in line with Marxist tradition which approved alliances between left and center against the right, but considered any combination of left and right directed against the center as unprincipled and inadmissible. Thus, seen in its contemporary setting and judged in Marxist terms, Trotsky’s attitude had its logic. It was his misfortune that subsequent events were to transcend that logic and to show it up as the logic of the Opposition self-effacement. It was Trotsky’s tragedy indeed that in the very process by which he defended the revolution he also committed political suicide.
In the spring of 1927 the inner-party struggle flared up again in connection with an issue which had hitherto played almost no part in it, but which was to remain at its center to the end, until the final expulsion and the dissolution of the Joint Opposition.
That issue was the Chinese Revolution.
It was about this time that the Chinese Revolution entered upon a grave crisis which had been prepared by development dating back to the close of the Lenin era. The Bolsheviks had very early set their eyes on the anti-imperialist movements among the colonial and semi-colonial nations, believing that these movements continued a major ‘strategic reserve’ for proletarian revolution in Europe. Both Lenin and Trotsky were convinced that western capitalism would be decisively weakened if it were cut off from the colonial hinterland which supplied it with cheap labour, raw materials, and opportunities for exceptionally profitable investment. In 1920 the Comintern proclaimed the alliance of western communism and the emancipatory movements of the East. But it did not go beyond the enunciation of the principle. It left open the forms of the alliance and the methods by which it was to be promoted. It acknowledged the struggles of the nations of Asia for independence as the historic equivalent of bourgeois revolution in Europe; and it recognized the peasantry and, up to a point, even the bourgeoisie of those nations as allies of the working class. But the Leninist Comintern did not yet attempt to define clearly the relationship between the anti-imperialist movements and the struggle of socialism in Asia itself, or the attitude of the Chinese and Indian communist parties towards their own ‘anti-imperialist’ bourgeoisie.
It was too early to resolve these questions. The impact of the October Revolution on the East was still too fresh. Its strength and depth could not yet be gauged. In the most important countries of Asia the communist parties were only beginning to constitute themselves; the working classes were numerically weak and lacked political tradition; even bourgeois and anti-imperialism was still in a formative period. Only in 1921 did the Chinese Communist Party, based on small propagandist circles, hold its first congress. But no sooner had it done so and set out to formulate its programme and shape its organizations than Moscow began to urge it to seek a rapprochement with the Kuomintang. The Kuomintang backed in the moral authority of Sun Yat-sen which was then at its height. Sun Yat-sen himself was eager for an agreement with Russia which would strengthens his hands against western imperialism; and in his vague, ‘classless’, populist socialism, he was prepared to co-operate with the Chinese communists as well, but only if they accepted his leadership unreservedly and supported the Kuomintang. He sighted a pact of friendship with Lenin’s government, but found a more difficult to get the Chinese communists to co-operate with him on his terms.
*The account gives in these pages is based on inner alia Brandt Schwarts, Fairbank, A Documentary History of Chinese Communism, Mao Tse-tung , Selected Works. Roy(Militant, 1950); Stalin, Works, Trotsky, Problems of the Chinese Revolution, Issacs, The Tragedy of the Chinese Revolution, Tang Leang-Li , The Inner History of the Chinese Revolution; files of Bolshevik, Inprekor, and Revolutsionnyi Vostok.
The communists were led by Chen Tu-hsiu, one of the intellectual pioneers of Marxism in Asia, its first great propagandist in China, and the most outstanding figure of the Chinese Revolution up to the advent of Mao Tse-tung, to whom he was inferior as tactician, practical leader, and organizer, but superior, it seems, as thinker and theorist. Chen Tu-huis had been the initiator of the great campaign against the privileges the western powers enjoyed in China: the campaign starting from Pakin University, of which Chen Tu-hsiu was a professor, assumed such power that under its pressure the Chinese government refused to sign the Versailles Treaty which sanctioned the privileges. It was largely under Chen Tu-hsiu’s influence that the Marxist propagandist circles had developed which formed the Communist Party. He remained the party’s undisputed leader from the moment of its foundation till late in 1927, throughout the crucial phases of the revolution. From the beginning he viewed with apprehension the political advice his party received from Moscow. He admitted the need for Communists to co-operate with the Kuomintang, but was afraid of too close an alliance which would prevent communism from establishing its own identity; he preferred his party to stand on its own feet before it marched with the Kuomintang. Moscow, however, insistently urged him to drop his scruples ; and he possessed none of the strength of character and none of the slyness of Mao Tse-tung, who in similar situation never raised objections to Moscow’s advice, always pretended to accept it, and then ignored it and acted according to his own lights, without ever provoking a genuine breach with Moscow. Chen Tu-hsiu was straightforward, soft, and lacked self-confidence; and these qualities made him a tragic figure. At every stage he frankly stated his objections to Moscow’s policy; but he did not stick to them. When overruled, he submitted to the Comintern’s authority, and against his better knowledge carried out Moscow’s policy.
As early as in 1922-23 two men who were later prominent in the Trotskyist Opposition, Yoffe and Maring-Sneevliet, played a crucial part in associating the young Chinese Communist Party with the Kuomintang and in preparing the ground for the policy which Stalin and Bukharin were to pursue. Yoffe, as Ambassador of Lenin’s government, negotiated the pact of friendship with Sun Yat-sen. Eager to facilitate his task and, no doubt, going beyond his terms of reference, he assured Sun Yat-sen that the Bolsheviks were not interested in promoting Chinese communism and that they would use their influence to ensure that the Chinese communists co-operate with the Kuomintang on Sun Yat-sen’s terms. Maring attended, as delegates of the Communist International, the second congress of the Chinese Communist Party in 1922. It was on his initiative that the party established contact with the Kuomintang and began to discuss the conditions of adherence to it. But Sun Yat-sen’s terms were stiff; and the negotiations broke down.
*Maring-Sneevliet, a Dutch Marxist, had been closely associated with the beginnings of communism in Indonesia, and represented the Dutch party in Moscow. In later years, especially throughout the 1930s, he was Trotsky’s ardent followers. During the Second World War he led a resistance group in occupied Holland and was executed by the Nazis.
Later in the year Maring returned to China and told Chen Tu-hsiu and his comrades that the Communist International firmly instructed them to join the Kuomintang, regardless of terms. Chen Tu-hsiu was reluctant to act on this instruction, but when Maring invoked the principle of international communist discipline, he and his comrades submitted. Sun Yat-sen insisted, like Chiang Kai-shek later, that the Communist Party must refrain from criticizing openly the Kuomintang’s policy and must observe its discipline-otherwise he would expel the communists from the Kuomintang and consider his alliance with Russia null and void. By the beginning of 1924 the Communist Party had joined the Kuomintang. It did not at first take Sun Yat-sen’s terms to heart: it maintained its independence; and it pursued distinctly communist policies, incurring the Kuomintang’s displeasure.
Communist influence grew rapidly. When in 1925 the great ‘movement of 30 May’ spread over southern China, the communists were in its vanguard, inspiring the boycott of western concessions and concerns and leading the general strike of Canton, the greatest so far in China’s history. As the momentum of the movement increased, the Kuomintang leaders became frightened, tried to curb it, and clashed with the communists. The latter sensed the approach of civil war, were anxious to unite their hands in time, and made representation to Moscow. In October 1925 Chen Tu-hsiu proposed to prepare his party’s exodus from the Kuomintang. The Executive of the Communist International, however, vetoed the plan and admonished the Chinese to do its utmost to avoid civil war. Soviet military and diplomatic advisers, Borodin, Blucher, and others, worked at Chiang Kai-shek’s headquarters, arming and training his troops. Neither Bukharin nor Stalin, who by now effectively directed Soviet policy, believed that Chinese communism had any chance of seizing power in the near future; and both were anxious to maintain the Soviet alliance with the Kuomintang. The growth of communist influence threatened to disrupt that alliance and so they were determined to keep the Chinese party in its place.
Moscow thus urged Chen Tu-hsiu and his Central Committee to refrain from class struggle against the ‘patriotic’ bourgeoise, from revolutionary-agrarian movements, and from criticism of Sun Yat-senism, which had since Sun Yat-sen’s attitude in Marxist terms, Bukharin and Stalin evoked the theory that the revolution which had begun in China, being bourgeois in character, could not set itself socialist objectives; that the anti-imperialist bourgeoisie behind the Kuomintang was playing a revolutionary role; and that it was consequently the duty of the Communist Party to maintain unity with it, and do nothing that could antagonize it. Seeking further to substantiate their policy on doctrinal grounds, they invoked the view Lenin had expounded in 1905 that in the ‘bourgeois’ Russian Revolution, directed against Tsardom, socialists must aim at a ‘democratic dictatorship of workers and peasants’, not at a proletarian dictatorship. This precedent had little or no relevance to the situation in China: in 1905 Lenin and his party did not seek an alliance with the liberal bourgeoisie against Tsardom-on the contrary, Lenin preached untiringly that the bourgeois revolution could conquer in Russia only under the leadership of the working class, in irreconcilable hostility to the liberal bourgeoisie; And even the Mensheviks, who did seek an alliance with the bourgeoisie, did not dream of accepting the leadership and discipline of an organization dominated by it. Bukharin’s and Stalin’s policy was, as Trotsky later pointed out, a parody not merely of the Bolshevik but even of the Menshevik attitude in 1905.
However, these doctrinal sophistries served a purpose they embellished Moscow’s policy ideologically and soothed the conscience of communists who felt uneasy over it. The opportunism of that policy showed itself startlingly when, early in 1926, the Kuomintang was admitted to the Communist International as an associate party and the Executive of the International elected with a flourish General Chaing Kai-shek as honorary member. With this gesture Stalin and Bukharin demonstrated their ‘good will’ to the Kuomintang and browbeat the Chinese communists. On 20 March, only a few weeks after the ‘General Staff of World Revolution’ had elected him its honorary member, Chiang Kai-shek carried out his first anti-communist coup. He barred communists from all posts at the headquarters of the Kuomintang, barred their criticisms of Sun Yat-sen’s political philosophy, and demanded from their Central Committee that it should submit a list of all party members who had joined the Kuomintang. Pressed by Soviet advisers, Chen Tu-hsiu and his comrades agreed. But, convinced that Chiang Kai-shek was preparing civil war against them, they were anxious to organize communist-led armed forces to match, if need be, his military strength; and they asked for Soviet assistance. The Soviet representatives at Canton categorically vetoed this plan and refused all assistance. Once again Chen Tu-hsiu bowed to the Comintern’s authority. The newspapers of Moscow made no comment on Chian’s coup-they did not even report the event. The Politburo, fearing complications, sent Bubnov, the ex-Decemist, to China to enforce its policy and persuade the Chinese communists that it was their revolutionary duty to ‘do coolie service’ to the Kuomintang.
*Chen Tsu-hsiu relates that the Chinese Central Committee requested the Soviet military advisers in Canton to supply from the munitions which had arrived for Chiang Kai-shek at least 5,000 rifles to the communists to enable them to arm insurgent Kwantung peasants. The request was refused.
*Quoted from Chen Tu-hsiu’s ‘Open Latter’.
①"The civil war awakened a desire to throw ourselves into the fire of events." How the Chinese helped the Bolsheviks retain power - BBC News Russian Service②The Chinese Communist RevolutionКитайська революціяКитайская коммунистическая революция was a social revolution in China that began in 1927 and culminated with the proclamation of the People's Republic of China (PRC) in 1949.https://www.youtube.com/watch?v=lR3aXZz7iZw
①El Manifiesto Karajánカラハン宣言Манифест Карахана fue una declaración de la política soviética hacia China fechada el 25 de julio de 1919苏维埃政权建立后多次对中国政府和中国人民发表宣言,或总称为“苏俄三次对华宣言”。《苏俄第一次对华宣言》指俄罗斯苏维埃联邦社会主义共和国政府代理外交人民委员加拉罕1919年7月25日签署的《俄國政府致中國南北政府各界書》(又名「加拉罕第一次對華宣言」、俄罗斯苏维埃联邦社会主义共和国政府对中国人民和中国南北政府的宣言),《苏俄第二次对华宣言》指加拉罕1920年9月27日签署的《俄罗斯苏维埃联邦社会主义共和国政府对中华民国政府的宣言》(又译《俄罗斯苏维埃联邦社会主义共和国政府对中国政府的宣言》),第三次宣言指加拉罕1923年9月2日在中国发表的《苏联驻华代表加拉罕对报界的声明》。三个宣言的核心是废除不平等条约,缔结友好关系。
②Das Sun-Joffe-Manifest oder Gemeinsame Manifest von Sun und Joffe (孫文越飛宣言Манифест Суня–Иоффе или Совместный манифест Суня и Иоффе孫文=ヨッフェ共同宣言) war ein am 26. Januar 1923 zwischen Sun Yat-sen und Adolph Joffe unterzeichnetes Abkommen zur Zusammenarbeit zwischen der Kuomintang der Republik China und der Sowjetunion.https://www.youtube.com/watch?v=3XxSbjU1bKA
③Чэнь Дусю́ (кит. трад. 陳獨秀, упр. 陈独秀, пиньинь Chén Dúxiù; настоящее имя Цинту́н (кит. 慶同, пиньинь Qìngtóng); 9 октября 1879 — 27 мая 1942) — китайский революционер и политик, философ, один из основателей и первый генеральный секретарь Коммунистической партии Китая.
④ヘンドリクス・ヨセフス・フランシスクス・マリー・スネーフリート(オランダ語:Hendricus Josephus Franciscus Marie Sneevliet 、1883年5月13日 -1942年4月13日)亨德里克斯·约瑟夫斯·弗朗西斯克斯·马里·斯内弗利特は、簡称名でヘンク・スネーフリート、偽名としてマーリンを使用した。オランダ人の共産主義者であり、オランダ本国及びオランダ領東インド(現インドネシア共和国)で主に活動を行った。また彼はコミンテルンから中国に派遣され1921年7月の中国共産党の設立で重要な貢献した。第二次世界大戦が勃発すると祖国オランダを占領したナチス・ドイツに抵抗する共産主義派のレジスタンスに参加し、1942年にドイツ人により処刑された。
①Die Bewegung des 30. Mai (30. Mai 1925)Движение 30 мая (кит. упр. 五卅 运动May Thirtieth Movement, кит. трад. 五卅 運動5·30 사건, пин. Wǔsà Yùndòng) war eine Arbeiter- und anti-imperialistische Bewegung in der früheren Zeit der chinesischen Republik②Сянган-Гуанчжоуская (Гонконг-Кантонская)省港大罷工Canton–Hong Kong strike或稱粵港大罷工Kanton-Hongkong-Streik забастовка — массовая забастовка в Китае, произошедшая в период Революции 1925—1926 годов; продолжалась с 19 июня 1925 по 10 октября 1926 года и охватила британское владение Гонконг (Сянган) и англо-французскую концессию Шамянь в Гуанчжоу (Кантоне). https://www.youtube.com/watch?v=aD_0NXesZrE