THIS I CANNOT FORGET/Anna Larina(translated from the Russian by Gary Kern)『夫ブハーリンの想い出(下)/アンナ・ラーリナ(和田あき子訳)』Незабываемое/А́нна Ла́рина - Товарищ«☭Большевистский переворот/Союз Советских Социалистических Республик☆»⑩
コミンテルン代表団は、受け入れられない要求を拒絶したが、世界大会の演壇から労働者階級に訴える可能性をねらって、二つのインターナショナルの代表が右派エスエル裁判を傍聴することを許すことに同意し、ソヴエト権力が被告たちに死刑を適用しないことを約束した。妥協は助けにならなかった。第二インターナショナルと第二半インターナショナルの指導者たちは、共産主義者の代表ぬきで世界大会をハーグに招集すると決定した。
レーニンはその論文「われわれは払いすぎた」で、どのような結論を引き出したか。
結論は、何よりもまず、共産主義インターナショナルを代表した同志ラデック、ブハーリンその他が、間違った行動をとったということである。
さらにそうだとすると、ここからわれわれは彼らの調印した協定を破棄すべきだ、という結論が出てくるであろうか?それではない。そういう結論は正しくないだろうし、調印された協定をやぶってはならない、と考える。・・・しかし、どんな条件をも拒否するということは、かなりに要塞堅固で、閉鎖的なこの会場にはいりこむためにどんな入場料を支払うことも拒否するということは、比較にならないほど大きな誤りであろう。同志ラデック、ブハーリンの他の誤りは大きなものではない。ことに、このことから起こる最も大きな危険といっても、せいぜい、ソヴエト・ロシアの敵どもが、ベルリン会議の結果にはげまされて、個々の人物に対して二、三の暗殺を企てて、ひょっとすると、成功するかもしれないということなのだから、なおさら、これは大きな誤りとはいえない。というのは、いまでは敵は、機会があれば共産主義者を射撃してもよいのだということ、ベルリン会議のような会議が、共産主義者がじぶんたちを射撃するのを妨げてくれるであろうということを、あらかじめ知っているからである。
しかし、とにかく、われわれは、閉ざされた会場にいくらかの割れ目をうがった。とにかく同志ラデックは、第二インターナショナルがデモンストレーションのスローガンのなかに、ヴェルサイユ条約廃棄のスローガンを取りいれることを拒否したということを、たとえ一部の労働者にもせよ、労働者のまえで暴露することができた*。
*ヴェ・イ・レーニン『全集』45巻、142-143頁(邦訳『レーニン全集』第33巻、大月書店、342-343頁)。
レーニンの論文「われわれは払いすぎた」は1922年4月11日に『プラウダ』に掲載された。べ・イ・ニコラエフフスキーがそれを読まないはずはなかった。彼はベルリンで調印された協定の基調を知っていた。そこで、ベルリン会議の直後にレーニンが、協定はやぶるべきではないと明言していたのに、なぜブハーリンが舞台裏で右派エスエルの処刑に反対して闘う必要があったのかが疑問となるのである。
ベルリン会議での合意はレーニンの決定にしたがって破棄されず、モスクワに到着したベルギーの右派社会主義者エ・ヴァンデルヴェルデやその他の人たちは、右派エスエル中央委員会を擁護することを許された。ブハーリンは裁判で、右派エスエルの反革命的活動を告発する尖鋭的な演説をしただけでなく、妥協したにもかかわらず、コミンテルンの代表団が世界大会への参加を認められなかったことに腹を立てて、スヴェルドローフ大学の学生を動員し、悪意に満ちたチャストゥーシカを作り、駅頭でのエ・ヴァンデルヴェルデ歓迎行事を妨害した(そのことを私はスヴェルドローフ大学の元女子学生たちから聞いた。エル・カタニャンもこのことを証言している)。
私が特別に右派エスエル裁判に注意を払ったのは、いかに巧みにべ・ニコラエフスキーがブハーリンの立場を歪曲しているかを示すためである。そのことは〔1938年の〕裁判でブハーリンはレーニン暗殺組織を目的としたテロリスト、セミョーノフとの関係で告発されていたのでいっそう重要である。
同じ精神でニコラエフスキーは、挑発者マリノフスキーについてのブハーリンとの会話をでっち上げている。このテーマはごく自然なものらしい、挑発者ロマン・マリノフスキーはボリシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキも保安部に売り渡した。とくに、モスクワのボリシェヴィキ組織は被害を受けたが、そこで革命工作をしていたのがブハーリンである。ブハーリンは1910年にモスクワで逮捕され、数ヵ月後にアルハンゲリスク県のオネガに流刑された。彼が考えたように、マリノフスキーの密告によるものであった。
1912年、国内のクラクフでブハーリンはレーニンと会い、自分の疑惑、マリノフスキーはツァーリの保安部の挑発者だという確信を表明した。警察の手先マリノフスキーは党中央委員になっており、第四国会のボリシェヴィキ議員団長でもあった。当時彼はボリシェヴィキの間で人気があり、レーニンは信じなかった。
ニコラエフスキーが述べているところによれば、レーニンはどうしてこの明白な事実に眼をつむることが出来たのか、という質問に対して、ブハーリンは、レーニンは熱中してしまうところがあり、分派闘争(当時は社会民主党内での)で盲目になるからだと述べた。ブハーリン自身、レーニンの側に立って分派闘争をしていた以上、どうしてこんなふうに答えられるのだろうか。ニコラエフスキーは自分のメンシェヴィキ的世界観をブハーリンのものだとしているのである。
マリノフスキーについての手ぬかり「レーニンの伝記の最も恥ずべき章の一つ・・・」だなどとブハーリンに言わせず、ニコラエフスキーは自分の口で表明したようにすればよかったのである。
最後に私は、ニコラエフスキーが考え出した、政治的にはあまり大したことのないエピソードについて話しておきたいと思う。
1936年12月の第八回ソヴエト大会で採択された憲法作成についての彼の作り話は驚きである。「じっくり見てください、このペンで新憲法は全部、最初の一字から最後の一字まで書かれたんです(ブハーリンはポケットから『万年』筆を取り出して、ニコラエフスキーに見せたかのようである)。私はこの仕事を一人でやったんです。ただカルルーシャには少しだけ手伝って貰いましたがね。私がパリにやって来られたのは、この仕事が終ったからなんです」とブハーリンはニコラエフスキーに言ったというのである。この情報は、ニコラエフスキーのファンタジーの産物である。ニコライ・イワーノヴィチが書いたのは、憲法全部ではなく、その権利の部分である。彼は家では学校用のペン軸で、普通のペンで書いた。「万年」筆は嫌いだった。ブハーリンはパリへこのペンを持っていかず、ニコラエフスキーにそれを見せることは出来なかった。ブハーリンにはカルルーシャ(多くの人はカ・ラデックをこう呼んでいたが、ニコラエフスキーはそれを知っていたと思われる)の助けは必要なかったし、まさに同じようにラデックー憲法委員会のメンバーーもtブハーリンの援助は要らなかった。
ニコラエフスキーが自分の脚色の登場人物として私まで出しているのを読んだ時には驚いた。
「ブハーリンは明らかに疲れていて、数ヵ月の休暇を夢想しており、出来れば海に行きたがっていた。そのとき私たちのところに彼の若い妻がやって来た。ー彼女は最初の出産を待っているところで、やはり彼女もまた休暇を必要としていて、夫が海について話した時には明らかに満足そうにしていた」脚本家のファンタジーに際限がない。数ヵ月の休暇は病気以外では取れなかったし、エヌ・イは休暇にパミールに行こうとしていたのである。海についての話などなかったし、そのような夢想を、私にしても、ニコライ・イワーノヴィチにしても持つはずがなかった。私は日々赤ん坊が生まれるのを待っており、パリから帰った数日後に出産した。
ニコラエフスキーはこのような作り話も行なっている。「私たちがコペンハーゲンに行ったとき、ブハーリンは、トロツキーが比較的遠くないところに、つまりオスロ―に住んでいることを思い出して、『レフ・ダヴィドヴィチに会いに、明日、ノルウェーに行ってみませんか?』と言った。そしてそれから、『もちろん、私たちの間には大きな葛藤がありました。しかし、だからといって私が彼に大きな尊敬を持っていないわけではありません』とつけ加えた」と。
*コペンハーゲン(ドイツ語: Kopenhagen [kopənˈhaːgən])、クブンハウン(ケブンハウン)(デンマーク語: København 発音 [kʰøb̥m̩ˈhɑʊ̯ˀn] )Копенгагенは、デンマークの首都。デンマーク最大の都市で、自治市の人口は81万人。市名はデンマーク語の"Kjøbmandehavn"(商人たちの港)に由来する。「北欧のパリ」と比喩される。
コペンハーゲンには私は行かなかったが、それでもこれがニコラエフスキーの作り話であることがちゃんとわかる。オスロ―へビザなしで行くことは出来なかったことは私が言うまでもなく、もっぱら言われているのは陰謀旅行の話題であるが、ニコライ・イワーノヴィチはかつて一度もそうした旅行には行ったことはない。それに、私がエヌ・イの言葉から知っているところでは、論戦の中で彼はトロツキーに対する敬意を失っていた。同じことはトロツキーについてもいえることで、彼の方でも大手を広げて、ブハーリンを抱きしめて迎えたりはとてもしなかっただろう、と私は推測する。
ブハーリンとファーニャ・エゼールスカヤとの出会いについてのニコラエフスキーの話にも同じく驚かされた。エゼールスカヤはかつてローザ・ルクセンブルクの秘書をしていたことがあり、ドイツ共産党員で、コミンテルンで働いていたが、反対派に与した。ヒトラーが政権の座につくと、彼女はフランスに亡命した。彼女はニコライ・イワーノヴィチとは親しくなかったが、私の両親とは仲がよかった。ラーリンの家族での呼び方で言えば、ファーニャ・ナターノヴナは幼ない頃からの私を知っていた。ニコラエフスキーは、さもエフ・エゼールスカヤの言葉であるかのように、彼女は国外の反対派新聞を主宰しないかとブハーリンに勧めたと言っている。この新聞というのはロシアで起こっていることをよく報道する新聞で、こういう新聞の編集者の役割を担えるのはブハーリンをおいてないと言っていたというのである。いいかえれば、彼女はブハーリンに、帰国せず、パリに留まるよう勧めたのである。ブハーリンがこの申し出を拒否したのは、ソ連でつくられている関係と、緊張した生活のテンポに慣れ親しんでいるという考慮からだけであるかのようである。ところが、エゼールスカヤがブハーリンに会ったのは一度きりで、彼女は私のいる時に「リュテーシア」にやって来て、私のいるところで帰っていった。私はその全会話の目撃者であった。話はコミンテルンの第七回大会、反ファシズム統一戦線のことであった。エゼールスカヤはフランスで生活するのは大変で、自分は工場で働いていると言っていた。ソ連での生活について訊ねたので、すでに書いたように、ブハーリンはほぼニコラエフスキーその人に言ったことと同じことを言った。ニコラエフスキーの乱暴なでっち上げにぼんやりなりとも似たものは何もなかった。
ブハーリンのパリ出張がジノーヴィエフやカーメネフの裁判(1936年8月)と時が合致していたとすれば、ブハーリンの気分もニコラエフスキーが評価したものと合致していたかもしれない。もし一致していれば、ブハーリンは告発に反駁するためにモスクワに飛んで帰っただろう。しかし、そういう状況であれば、パリか他のヨーロッパの国、あるいはアメリカならブハーリンも生き残れるだろうと考えて、誰かがブハーリンに外国に留まるように無邪気にも勧めることにしなかったともかぎらないが、ましてやその時には生活がまだ逆のことを証明していなかっただけに、飛んで帰ったことだろう・・・。
1936年8月まではニコライ・イワーノヴィチは自分の破滅を予見していなかったということは私にとっては明々白々である。これは彼の論文、演説が証明しており、それにはパリで行なった演説も含まれている。ニコライ・イワーノヴィチが破局の直前に私という若い人間と結婚しただけでなく、子供まで持とうとした事実そのものが多くを語っている。自分の子供たちにたえがたい苦しみを与えるために強く子供を欲しがったのではないか、とニコライ・イワーノヴィチを疑うことが出来ようか!
ニコラエフスキーは一つの嘘を他の嘘に積んでいき、自己撞着に陥っている。ブハーリンがパリを発ってから八ヶ月後に作られた「古参ボルシェヴィークの手紙」では、「ジノーヴィエフ=カーメネフ=スミルノフ裁判がここで落雷のようにわれわれの頭に落ちたと言うのは、最近経験したこと、そして現在経験していることについての非常に精彩のない説明をすることになる」と言われれているのである。準備されていた裁判についてヤーゴダさえも最後になって知ったと伝えている。問題は、ニコラエフスキーがどのような源からこのような情報を得たのか、ということである。
1936年3-4月にブハーリンとのかなり長い会談をしたのに、なぜかブハーリンの行き詰まった気分は彼に伝わらなかった、そうである。彼には伝わりようがなかったのである。というのは、それは1965年の彼の記述と一致していないからである。パリではブハーリンは生きる喜びに満ちており、快活で、新憲法が私たちの社会の民主化ー彼の長年の夢想ーに導いてくれるとみなしていたのである。
そして、1936年3-4月に果たしてブハーリンにパリに留まることをあえて勧める者が誰かいただろうか?
ニコラエフスキーの頭の中では時としてすべてがごちゃごちゃになってしまい、頭が混乱し、自己撞着に陥っているのだえる。他方では、彼は完全に正しく次のように認めている。
「ブハーリンは自分の敵を過小評価していた。彼は、スターリンが背信的に狡猾にこれらのすべてのすばらしい原則(新憲法を念頭においているーラーリナ)を適用し、法の前での万人の平等を、スターリンの絶対的独裁の前での共産党員と非共産党員の平等に変えてしまうか、予見していなかった」
他方では、ニコラエフスキーは会談でみせたブハーリンの「開けっぴろげさ」を次のように説明している。「彼(ブハーリン)が私に言ったことは、未来の弔辞を考えに入れて話された」と。そして1965年には30年も昔の出来事をブハーリンがパリから帰ってからはじまった「テロル」のプリズムを通して顧みながら、ブハーリンは当時はすでに迫りつつある破壊を予見していたという結論をニコラエフスキーは下しているのである。
ニコラエフスキーの確信は何を拠り所としているのか?国外滞在中のブハーリンの行き詰まった気分を説明するために、ニコラエフスキーはブハーリンのパミール旅行についてのファンタスチックな話を持ち出している。ニコラエフスキーは、どんどんと新しいディテールを追加しながら、エヌ・イは一度ならずこのテーマに立ち戻ったかのように述べている。たとえば、ブハーリンにはガイドがつけられた。その地方をよく知っている国境警備隊の将校である。そのガイドについてはわが国で映画が作られ、パリで上映されたかのように言っている。ニコラエフスキーはこの映画を見た。そして、国境警備隊員と彼の犬ヴォルクと山が彼の印象に刻み込まれた。しかし、私はそのような映画は見たことがない。
さらに、ブハーリンはニコラエフスキーに次のようなエピソードを語ったかのようになっている。つまり、彼らはガイドと一緒に細道の分岐点に行った。ガイドは、近道をするのは自殺行為だー道が雨で流され、地崩れがあったのだーと警告し、まわり道をするようニコライ・イワーノヴィチを説得した。ブハーリンは自説を固守した。話はまったくもっともらしい。ここからニコラエフスキーは、ブハーリンは運を試しており、自殺する考えも捨ててはいなかったと結論している。そのような結論のための驚くべき論拠だ!
私はすでに何度もニコライ・イワーノヴィチの生活愛といたずら好きに触れてきた。政治状況に関係なく、彼は休暇の時にはもっぱらその性格のなせるわざで身を危険にさらしてきた。私たちがアルタイに旅行した1935年にはかろうじて鞍にしがみついて、馬でテレツコエ湖への曲がりくねった山道を登って、やっと頂上にたどりついた。では、ニコライ・イワーノヴィチは私の死も望んでいたのだろうか。その時には状態は彼にとって破局的ではなかった。
私は、ニコライ・イワーノヴィチにとってもっとも順風満帆の時期から例をとることが出来る。1925年に私は両親と、ニコライ・イワーノヴィチも一緒にСочиソチSochiで休暇を取った。あるとき彼は私をКра́сная Поля́наクラースナヤ・ポリョーナKrasnaya Polyanaへの旅行に連れて行った。そのとき私は11歳だった。道は悪く、深淵を渡らねばならなかったが、そこにはあぶない木の橋が懸かっていた。運転手は、橋は老朽化しており、崩れるかもしれないと警告したし、ボディー・ガードのローゴフは引き返すことを要求したー彼は政治局員の命に責任を負っていた。しかし、どうしようもなかった。運転手は自動車をとばして、私たちはすばやく橋を渡り切ったが、橋は間もなく崩れ落ちた。新しい橋が出来るのを待って、私たちは自動車の中で夜明ししなければならなかった。
ブハーリンのパミール旅行の日付けをニコラエフスキーは明記しておらず、おおよそ1930年ごろとしている。即興の話の時として彼はうまい時を選んでいる。スターリンとの意見の不一致からブハーリンが政治局を追い出され、コミンテルン執行委員会書記と『プラウダ』編集員のポストから解任されたのはそれに比較的近い頃であった。ところが、問題は、ニコライ・イワーノヴィチがパリ旅行の前に中央アジアへはよく行ったけれども、イスイク=クリ湖より先には行ってはいなかったということである。パミール旅行は彼の長年の夢であり、彼はパリから戻ったあと、1936年8月はじめにそれを実現した。ニコライ・イワーノヴィチがパミールから戻ったのは、ジノーヴィエフ・カーメネフの裁判で彼の名前が言及され、ブハーリンやその他のボリシェヴィキ「事件」の取調べのことが新聞で報道された時であった。
ブハーリンから聞いたとされているパミールの話は何に基づいているのだろうか。ブハーリン自身はそうしたくても、その時にはまだ起こっていないことを話せるはずがない。ニコラエフスキーは、長年投獄されていたあとで亡命したエル・ヴェ・イワーノフ=ラズームニクが国外で出版した回想を持ち出している。その中で彼は、運命の導きでパミールへブハーリンを連れていった国境警備隊員と獄中で一緒になったことを伝えている。それは完全に真実であったに違いない。この回想を私は読んでいないが、情報の一部をニコラエフスキーがイワーノフ=ラズームニクから得たとしても、やはり残りは彼自身が考えついたものである。でっち上げられたニコラエフスキーとブハーリンの会話のテーマは、時どきほんとうに物騒なものとなる。このことを強調するためにニコラエフスキーは、その会話に一度同席していたアローセフが驚愕して、「われわれが帰ると、あなたはセンセーショナルな回想を書くのでしょう」と言ったと述べている。それに対してニコラエフスキーは、こう言った。「協定を結びましょう。われわれの出会いについては生き残った最後の一人が隠さずに書いてよい、と」もちろん、私のことは計算に入っていなかった。それが私が彼の作文を読むことは彼の頭には浮かびもしなかったのだろうか。ボリ―ス・イワーノヴィチよ、あなたは間違いましたね、最後に生き残ったのは私です。
以上私は、ニコラエフスキーの「回想」の価値がどのようなものであるかを示せたと思う。「古参ボリシェヴィークの手紙」についで、ニコラエフスキーのインタヴューを私の第二のでっち上げ文書であるとみなす。前者からほとんど三十年を経てこしらえられたものである。
ブハーリンのパリ滞在と関連した奇妙な資料がもう一つ、彼の出発から28年、彼の非業の死から26年して現われた。1964年にアメリカで発表された(『ノーヴイ・ジュルナール〔新雑誌〕』75号)、フョードル・ダンの妻(ユ・オ・マルトフの妹)の回想であるが、執筆者のリーヂヤ・オーシボヴナ・ダンはすでに死亡していた。
リーヂヤ・ボヴナ・ダンはマルクス・アルヒーフ購入に関する交渉について充分に正確に、ニコラエフスキーよりもはるかに客観的に語っている。委員会のメンバーのところだけは間違っている。彼女はアローセフをチホミーロフとしている。ところが、彼女、あるいは、おそらく彼女の名前で誰かが、ニコラエフスキーも考えつかなかったほどのセンセーションに読者を引き込むとき、このエピソードはおそらく誰かが彼女の回想の中に書き込んだのではないかと疑いたくなる(それがリーヂヤ・ダンの死後に発表されたものである以上)。
私が念頭においているのは、ブハーリンとフョードル・ダンとの会見の記述である。
ブハーリンは、彼がニコラエフスキーと一緒にホテル「リュテーシア」にやって来た時に実際にダンと会った。エヌ・イが言ったところによれば、「笑い草」のような機会がパリを発つ前に訪れた。ブハーリンとダンの間の対話を繰り返すことはしない。私が引用したダンについてのブハーリンの発言や、ダンがアルヒーフ購入に関する交渉を拒否し、それに携わることをニコラエフスキーに委任したことはおそらく忘れられていないと思う。
ところが、ダンの妻は、1936年4月にニコライ・イワーノヴィチは絶対絶命の窮地にあり、「ただ気が向いた」ので、自らダンのところにやって来たかのように書いている。リーヂヤ・ダンは、ブハーリンがダンに向かって「スターリンは人間じゃない、悪魔だ」とか「スターリンは彼ら(ボリシェヴィキのことーラーリナ)を全員滅ぼす」とか話したと断言している。彼がモスクワに戻ったのは、ただ亡命者になりたくなかったからだという。
「ブハーリンのスターリン論」という回想の表題自体がブハーリンの訪問の目的を指し示している。しかし、ブハーリンは、1936年4月にスターリンの評判を汚すためにダンのところに客に行っただろうか。彼はもっとあとになってもダンのところには行かなかっただろう。
この話にはばかげたディテールが入り混じっている。たとえば「しかしですね、フョードル・イリイッチ、もしここでファシズムが隆盛をきわめたら、あなたはまっすぐわが国の大使館へ行くでしょう。あそこならあなたを匿ってくれますよ」とブハーリンがダンに言ったことになっている。あるいは、「・・・彼(ブハーリンーラーリナ)は、ダンのような力がむなしく滅びるのを明らかに哀れんで、われわれのところから帰って行った」といった類がそうである。しかしながら、ブハーリンがフョードル・ダンの力を評価していたのは反ボリシェヴィキの力としてのことであり、この意味では力は衰えていなかった。ところが、ブハーリンの観点からすれば、彼の活動は価値あるものではなかった。このことから、エヌ・イはダンがファシストの手にかかって滅びることを望んでいたとか、あるいは反ファシズム闘争でダンとも統一戦線を結ぶことを望んでいなかったということにはまったくならないが。
このようにブハーリンはでっち上げられた証言の結果、フョードル・ダンの、押しかけではあるけれども、やはり歓迎すべき客となっており、外国の歴史家たちは、ペンで書かれたことは斧で抹消することはできないという原則にのっとって、それを簡単に信じてしまっている。
リーヂヤ・ダンはブハーリンがダンを訪れた日付けを、マルクスとエンゲルスの資料の点検が終わり、アルヒーフの値段の交渉がはじまった時だとしている。すべてそれらが起こったのは私がパリにいた時であり、リーヂヤ・ダンは、スターリンへの非難に熱中したブハーリンは彼らのところに昼の二時から夜八時までいたと話している(またもや誰かが彼女の名前を利用して、話しているかもしれないのだが)。私はブハーリンがダンのところへは行かなかったことを知っている。そのようなことはあり得なかった。私はいつ産気づくかわからず、ニコライ・イワーノヴィチにしてもそんなに長く私をひとりにしておかなかったからである。
私自身が、彼は行かなかったという証人でなかったとしても、出張とは関わりなく、「ただ気が向いた」からブハーリンがダンに会いに行ったというのは、私には信じられない。それでも、私は自分の証言が完全に信用されることは当てにはしていない。そこでリーヂヤ・オーシポヴナ自身の回想によってこの嘘に反論したい。彼女は超センセーショナルなこの密談と、ニコラエフスキーとの会話以上に露骨な会話の性格のことをダンは誰にも洩らさなかったと言っている。「このことを知っているのが、誰より当然だったニコラエフスキーに対してさえ話さなかった。というのは、それがいつかブハーリンにとって危険になるとみなしていたからである」と。とすれば、ダンはニコラエフスキーを信用していなかったと考えられる。それにもかかわらず、彼は自分の編集する『社会主義通信』に「古参ボルシェヴィークの手紙」を発表することによって、自分がどのようにブハーリンをもルイコフをも「大事にした」かを示したのである。
ダン〔フョードル〕が死んだのは1947年のことで、ブハーリンが処刑されて九年後であった。ブハーリンに迷惑をかける恐れはすでになかった。ところが、ブハーリンとの会見の秘密と「スターリンはわれわれを全員滅ぼす」という彼との予言的な会話をダンは墓場に持って行った。ブハーリン銃殺のあとこそ、ブハーリンの正確な予言について語るタイミングであったような気がする。ダンはなぜ黙っていたのか?明らかに彼が黙っていたのは、起こるはずのないことは起こらなかったからである。
ダンの妻の「回想」は他にも説明のつかないことがあり、不審を抱かせる。その中には「しかし当局は、すくなくとも『リュテーシア』での会見と交渉、そこや他の場所でのダンやニコラエフスキーとの会見について疑いなく知っていたのに、裁判ではこのことについては一言も言及されなかった」と書かれている。これは裁判でブハーリンとルイコフに行なわれた実際の告発とは矛盾している。
フョードル・ダン自身がソ連邦に対する干渉主義的意図を持っていたとされたのである。被告チェルノーフは元農業人民委員で、元メンシェヴィキであったので、検事総長ヴィシンスキーはそのことに注意を集中したが(「他人のことを考えるより、自分のことを考えよ」〔クルイローフ寓話。ヴィシンスキーはかつてメンシェヴィークであった〕のである)、彼はその荒唐無稽な陳述で、フョードル・ダンはドイツのスパイであり、ドイツ諜報部の手元であると言明した。その上に、ルイコフとブハーリンはニコラエフスキーを通して犯罪的目的で第二インターナショナルの代表者たちと結びついていたとされたのであった。
リーヂヤ・ダンが死後の発表によせていた序文で明らかにされているように、これらの回想の元原稿がほんとうに大英博物館に保存されているかどうか、私は明らかに出来なかった。もしそのような元原稿が存在しており、それが自筆であるとすれば、政敵からも道徳的には立派な人物だと正当に評価されているユ・オ・マルトフの妹がこのようなでっち上げをしたことに遺憾の意を表するしかない。私はそれには疑念を抱いている。
I was amazed to see myself introduced as a personage in Nicolaevsky’s imaginative play:
Bukharin was obviously tired; he longed for many months of vacation, wanted to take a trip to the sea. At that moment his young wife came up to us. She was expecting her first child, also needed rest, and showed obvious satisfaction when her husband began to speak of the sea.
Here the improviser’s creativity knows no limits. One was permitted to take a leave of many months only when ill; moreover, Nikolai Ivanovich was looking forward to taking his vacation in the Pamir Mountains. There was no talk of going to the sea; neither Bukharin not I could have cherished such daydreams. I expected the baby any day and in fact gave birth several days after coming home from Paris.
Nicolaevsky even permits himself this fiction:
When we were in Copenhagen, Bukharin recalled that Trotsky lived not too far off, in Oslo, and said, “Why not take a trip for a day or two to Norway to visit with Lev Davydovich?” And then he added, “Of course, there were great conflicts between us, but this does not prevent me from holding him in great respect.”
Although I was not in Copenhagen, I see perfectly well that this is another of Nicolaevsky’s concoctions. I don’t even mean the fact that Bukharin could not have traveled to and from Oslo without a visa, so the trip would have had to be clandestine, something he would never have agreed to do. More to the point, Nikolai Ivanovich told me that in his polemical skirmishes with Trotsky he had lost respect for him. I expect the same could be said for Trotsky, so he would hardly have welcomed Bukharin with open arms.
Nicolaevsky’s story about Bukharin’s meeting with Fanny Yezerskaya produces no less astonishment. Formerly Rosa Luxemburg’s secretary and a member of the German Communist Party, she had worked in the Comintern and been part of the Opposition. When Hitler came to power, she emigrated to France. She was never close to Nikolai Ivanovich but had made friends with my parents. In fact, Fanya Natanovna, as she was called in our family, had known me since I was a little girl. Nicolaevsky claims that she urged Bukharin to become head of a foreign oppositional newspaper; he alone, in her opinion, could handle the job of editor and ensure that the journal was well informed about events in Russia. In other words, she supposedly proposed to Bukharin that he become a nonreturnee and remain in Paris. According to this account, Bukharin turned down the offer only because he had become accustomed to the setup in the Soviet Union and the accelerated pace of life there.
In actual fact, the only time Yezerskaya met with Bukharin during our trip was in the Hotel Luteria. I was there at her arrival and departure and heard the entire conversation. They spoke about the Seventh Comintern Congress and the united front in the battle against fascism. Yezerskaya said that life was hard for her in France; she was working in a factory. She had many questions about life in the Soviet Union, and Nikolai Ivanovich told her approximately the same things he had said to Nicolaevsky in the conversation I’ve already described. Nothing in Yezerskaya’s talk with Bukharin even remotely resembled Nicolaevsky’s crude fabrications in the “interview.” How is it possible to lie so blatantly? Evidently, by the time of publication, Yezerskaya was either no longer living or no longer able to read Nicolaevsky’s “works.”
Had Bukharin’s official trip coincided with the trial of Zinoviev and Kamenev(August 1936), his mood might have corresponded to Nicolaevsky’s assessment. Even then he would have rushed back to Moscow to refute the accusations, but it is conceivable, under such circumstances, that someone might have naively decided to ask him to remain abroad, assuming that in France or another western European country, or perhaps in America, he would escape harm-all the more so since life had not yet proved the opposite to be true for other.
But the Paris trip ended in April, and I don’t have to prove that, up until August, Nikolai Ivanovich did not foresee his downfall. His articles and speeches, including the Sorbonne speech, prove this. The very fact that not long before the catastrophe he, a middle-aged man, not only joined his life with me, a young person, but also wished to have a child speaks volumes. Can one suspect Nikolai Ivanovich of passionately wanting a child who would, like himself, be doomed to excruciating agony?
The subjects of the conversations Nicolaevsky invented between himself and Bukharin were truly seditious for those times. To stress this point, he reports that Arosev, supposedly present at one of them, became frightened and remarked, “Look, we’re leaving, but you’ll be able to write up sensational memoirs.” Nicolaevsky has himself replying, “Let’s make an agreement: the last one living will write openly about our meetings.” He failed, of course, to take me into account. Indeed, could it ever have entered his mind that I would read this compositions? Nicolaevsky miscalculated: the last one turned out to be me.
I trust that I have revealed the true value of B. I. Nicolaevsky’s “recollections.” I consider both the “Letter of an Old Bolshevik” and the “interview” with Nicolaevsky to be spurious documents, the latter composed almost thirty years after the first.”
*A fuller account of the Nicolaevsky question is given in the Russian edition of this book.
There is another strange document connected with Bukharin’s visit to Paris: the memoir of Lidiya Osipovna Dan, wife of Fyodor Dan and sister of his fellow Menshevik leader Yuly Martov. Twenty-eight years after Bukharin’s departure from Paris and twenty-six years after his death, it was published in Novyi zhurnal[The new review(New York)], no. 75, 1964, after the death of its author.
What interests me is her account of Bukharin’s meeting with her husband.
I have already described the one time they met, which Nikolai Ivanovich had anticipated as “something out of a fairy tale,” and Dan’s refusal to participate further in the negotiations for the sale of the archive.
But Dan’s wife writes that Nikolai Ivanovich was felling absolutely doomed that April and came on his own to Dan because “his soul simply craved it. “She asserts that Bukharin said, “Stalin is not a man but a devil.” And also: “Stalin will gobble them all up [the Bolsheviks].” By her account, he returned to Moscow only because he did not want to become an émigré.
The very title of this memoir, “Bukharin on Stalin,” points to the supposed purpose of Bukharin’s visit, but could he have actually gone to Dan in April 1936 in order to compromise Stalin, when he had no reason to? He could not have gone to see him any later!
The story is sprinkled with inane detail, like this: “But look here, Fyodor Ilyich,” Bukharin supposedly says to Dan, “If fascism flares up here, you go straight to our embassy and they’ll give you refuge there.” Or this: “He [Bukharin] obviously regretted that such a mighty force as Dan was going to waste.” Actually, Bukharin thought Dan’s work was valueless. On the other hand, he did not wish him ill at the hands of the fascists and did want him to join a united front against them.
This fabricated memoir attempts to prove that Bukharin was Dan’s welcome, if not invited, guest. And historians abroad found this easy to believe, operating on the principle that what the pen has writ the ax cannot split.
According to Lidya Osipovna, the visit occurred after the Marx and Engels documents had all been examined and the haggling over the price had begun, but I was in Paris then and can attest that Nikolai Ivanovich never went to see Dan. Yet and still, Dan’s wife( or perhaps someone acting in her stead) writes that Bukharin was so carried away by his attacks on Stalin that he stayed from two o’clock in the afternoon until eight at night. This simply could not be. I was so close to giving birth, as I have noted before, that Nikolai Ivanovich would never have left me alone for such an extended period.
Even if I were not an eyewitness to the truth, I would be unable to believe that Bukharin would have met unofficially with Dan because “his soul simply craved it.” But, since I cannot assume that everyone will accept my testimony, I will try to disprove this falsehood by means of Lidiya Osipovna’s article itself. After this ultra-sensational secret meeting with Bukharin, she reports, in which he was far more candid than even in his supposed meetings with Nicolaevsky, here husband told no one about the incident, “not even Nicolaevsky, the most natural person to tell, for he considered that this might become dangerous to Bukharin in some way.” Therefore, we are asked to believe that Dan did not impart his “dangerous” information to Nicolaevsky and then further demonstrated his “protection” of Bukharin by publishing the “Letter of an Old Bolshevik” in the Socialist Herald.
Fyodor Dan passed away in 1947, nine years after Bukharin’s execution. At that point, there was no need to fear unpleasant consequences for Nikolai Ivanovich. Yet Dan took the secret of their meeting and the inflammatory quotation “Stalin will gobble them all up” to the grave. Surely, the best time to reveal this accurate prophecy would have been right after Bukharin was shot. Why, then, did Dan keep silent? Evidently, because what could not have taken place did not in fact take place.
Other inexplicable “reminiscences” by Dan’s wife also arouse one’s suspicions. For example, she writes, “Although the authorities undoubtedly knew at least about the meeting and the negotiations in the Lutetia, the meetings there and the others with Nicolaevsky and Dan, not one word was said about them at the trial.” This contradicts the actual accusations made against Bukharin and Rykov during the trial, where interventionist intentions against the Soviet Union were ascribed to Dan himself. In fact, he was called a German spy and an agent of German intelligence in the fantastic testimony of the accused Mikhail Chernov, former people’s commissar of land-and a former Menshevik, a detail that the prosecutor Vyshinsky [himself a former Menshevik] accentuated. (“Rather than strain to make out someone else, would it be better, cousin, to take a look at yourself?” as Ivan Krylov wrote in “Monkey and Mirror.”) Chernov further testified that, in their criminal designs, Bukharin and Rykov were connected with representatives of the Second International through Nicolaevsky.
I haven’t been able to find out whether the manuscript of Lidiya Dan’s reminiscences is actually kept in the British Museum, as stated in the preface to the posthumous publication. If such a script exists and is in her own hand, I can only voice regret that this sister of Yuly Martov, whose moral qualities were deservedly prized by political friend and foe alike, resorted to such a falsification. I myself doubt it.
↑1924年、レーニン死後の政治局員たちMembers of the Politburo after Lenin's death
上段:カーメネフ、スターリン、トロツキーTop row: Kamenev, Stalin, Trotsky
下段:ルイコフ、ブハーリン、ジノーヴィエフ、トムスキーBottom row: Rykov, Bukharin, Zinoviev, Tomsky
↑ノルウェーのトロツキー:1930 年代(29年にトルコへ追放(亡命)、32年に家族一党ことごとくソ連国籍を剥奪され、入国禁止処分Trotsky and all of his family lost their Soviet citizenship and were forbidden to enter the Soviet Union)、トロツキーとその家族は安全な避難場所を確保することが不可能だった。フランスから追放され(33~34年)、イギリスへの入国を拒否された彼らは、(35年)ノルウェーに移住した。