日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

THIS I CANNOT FORGET/Anna Larina(translated from the Russian by Gary Kern)『夫ブハーリンの想い出(下)/アンナ・ラーリナ(和田あき子訳)』Незабываемое/А́нна Ла́рина - Товарищ«☭Большевистский переворот/Союз Советских Социалистических Республик☆»⑩


コミンテルン代表団は、受け入れられない要求を拒絶したが、世界大会の演壇から労働者階級に訴える可能性をねらって、二つのインターナショナルの代表が右派エスエル裁判を傍聴することを許すことに同意し、ソヴエト権力が被告たちに死刑を適用しないことを約束した。妥協は助けにならなかった。第二インターナショナルと第二半インターナショナルの指導者たちは、共産主義者の代表ぬきで世界大会をハーグに招集すると決定した。

 レーニンはその論文「われわれは払いすぎた」で、どのような結論を引き出したか。

 結論は、何よりもまず、共産主義インターナショナルを代表した同志ラデック、ブハーリンその他が、間違った行動をとったということである。

 さらにそうだとすると、ここからわれわれは彼らの調印した協定を破棄すべきだ、という結論が出てくるであろうか?それではない。そういう結論は正しくないだろうし、調印された協定をやぶってはならない、と考える。・・・しかし、どんな条件をも拒否するということは、かなりに要塞堅固で、閉鎖的なこの会場にはいりこむためにどんな入場料を支払うことも拒否するということは、比較にならないほど大きな誤りであろう。同志ラデック、ブハーリンの他の誤りは大きなものではない。ことに、このことから起こる最も大きな危険といっても、せいぜい、ソヴエト・ロシアの敵どもが、ベルリン会議の結果にはげまされて、個々の人物に対して二、三の暗殺を企てて、ひょっとすると、成功するかもしれないということなのだから、なおさら、これは大きな誤りとはいえない。というのは、いまでは敵は、機会があれば共産主義者を射撃してもよいのだということ、ベルリン会議のような会議が、共産主義者がじぶんたちを射撃するのを妨げてくれるであろうということを、あらかじめ知っているからである。

 しかし、とにかく、われわれは、閉ざされた会場にいくらかの割れ目をうがった。とにかく同志ラデックは、第二インターナショナルがデモンストレーションのスローガンのなかに、ヴェルサイユ条約廃棄のスローガンを取りいれることを拒否したということを、たとえ一部の労働者にもせよ、労働者のまえで暴露することができた*。

*ヴェ・イ・レーニン『全集』45巻、142-143頁(邦訳『レーニン全集』第33巻、大月書店、342-343頁)。

 レーニンの論文「われわれは払いすぎた」は1922年4月11日に『プラウダ』に掲載された。べ・イ・ニコラエフフスキーがそれを読まないはずはなかった。彼はベルリンで調印された協定の基調を知っていた。そこで、ベルリン会議の直後にレーニンが、協定はやぶるべきではないと明言していたのに、なぜブハーリンが舞台裏で右派エスエルの処刑に反対して闘う必要があったのかが疑問となるのである。

 ベルリン会議での合意はレーニンの決定にしたがって破棄されず、モスクワに到着したベルギーの右派社会主義者エ・ヴァンデルヴェルデやその他の人たちは、右派エスエル中央委員会を擁護することを許された。ブハーリンは裁判で、右派エスエルの反革命的活動を告発する尖鋭的な演説をしただけでなく、妥協したにもかかわらず、コミンテルンの代表団が世界大会への参加を認められなかったことに腹を立てて、スヴェルドローフ大学の学生を動員し、悪意に満ちたチャストゥーシカを作り、駅頭でのエ・ヴァンデルヴェルデ歓迎行事を妨害した(そのことを私はスヴェルドローフ大学の元女子学生たちから聞いた。エル・カタニャンもこのことを証言している)。

 私が特別に右派エスエル裁判に注意を払ったのは、いかに巧みにべ・ニコラエフスキーがブハーリンの立場を歪曲しているかを示すためである。そのことは〔1938年の〕裁判でブハーリンはレーニン暗殺組織を目的としたテロリスト、セミョーノフとの関係で告発されていたのでいっそう重要である。

 同じ精神でニコラエフスキーは、挑発者マリノフスキーについてのブハーリンとの会話をでっち上げている。このテーマはごく自然なものらしい、挑発者ロマン・マリノフスキーはボリシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキも保安部に売り渡した。とくに、モスクワのボリシェヴィキ組織は被害を受けたが、そこで革命工作をしていたのがブハーリンである。ブハーリンは1910年にモスクワで逮捕され、数ヵ月後にアルハンゲリスク県のオネガに流刑された。彼が考えたように、マリノフスキーの密告によるものであった。

 1912年、国内のクラクフでブハーリンはレーニンと会い、自分の疑惑、マリノフスキーはツァーリの保安部の挑発者だという確信を表明した。警察の手先マリノフスキーは党中央委員になっており、第四国会のボリシェヴィキ議員団長でもあった。当時彼はボリシェヴィキの間で人気があり、レーニンは信じなかった。

 ニコラエフスキーが述べているところによれば、レーニンはどうしてこの明白な事実に眼をつむることが出来たのか、という質問に対して、ブハーリンは、レーニンは熱中してしまうところがあり、分派闘争(当時は社会民主党内での)で盲目になるからだと述べた。ブハーリン自身、レーニンの側に立って分派闘争をしていた以上、どうしてこんなふうに答えられるのだろうか。ニコラエフスキーは自分のメンシェヴィキ的世界観をブハーリンのものだとしているのである。

 マリノフスキーについての手ぬかり「レーニンの伝記の最も恥ずべき章の一つ・・・」だなどとブハーリンに言わせず、ニコラエフスキーは自分の口で表明したようにすればよかったのである。

 最後に私は、ニコラエフスキーが考え出した、政治的にはあまり大したことのないエピソードについて話しておきたいと思う。

 1936年12月の第八回ソヴエト大会で採択された憲法作成についての彼の作り話は驚きである。「じっくり見てください、このペンで新憲法は全部、最初の一字から最後の一字まで書かれたんです(ブハーリンはポケットから『万年』筆を取り出して、ニコラエフスキーに見せたかのようである)。私はこの仕事を一人でやったんです。ただカルルーシャには少しだけ手伝って貰いましたがね。私がパリにやって来られたのは、この仕事が終ったからなんです」とブハーリンはニコラエフスキーに言ったというのである。この情報は、ニコラエフスキーのファンタジーの産物である。ニコライ・イワーノヴィチが書いたのは、憲法全部ではなく、その権利の部分である。彼は家では学校用のペン軸で、普通のペンで書いた。「万年」筆は嫌いだった。ブハーリンはパリへこのペンを持っていかず、ニコラエフスキーにそれを見せることは出来なかった。ブハーリンにはカルルーシャ(多くの人はカ・ラデックをこう呼んでいたが、ニコラエフスキーはそれを知っていたと思われる)の助けは必要なかったし、まさに同じようにラデックー憲法委員会のメンバーーもtブハーリンの援助は要らなかった。

 ニコラエフスキーが自分の脚色の登場人物として私まで出しているのを読んだ時には驚いた。

 「ブハーリンは明らかに疲れていて、数ヵ月の休暇を夢想しており、出来れば海に行きたがっていた。そのとき私たちのところに彼の若い妻がやって来た。ー彼女は最初の出産を待っているところで、やはり彼女もまた休暇を必要としていて、夫が海について話した時には明らかに満足そうにしていた」脚本家のファンタジーに際限がない。数ヵ月の休暇は病気以外では取れなかったし、エヌ・イは休暇にパミールに行こうとしていたのである。海についての話などなかったし、そのような夢想を、私にしても、ニコライ・イワーノヴィチにしても持つはずがなかった。私は日々赤ん坊が生まれるのを待っており、パリから帰った数日後に出産した。

 ニコラエフスキーはこのような作り話も行なっている。「私たちがコペンハーゲンに行ったとき、ブハーリンは、トロツキーが比較的遠くないところに、つまりオスロ―に住んでいることを思い出して、『レフ・ダヴィドヴィチに会いに、明日、ノルウェーに行ってみませんか?』と言った。そしてそれから、『もちろん、私たちの間には大きな葛藤がありました。しかし、だからといって私が彼に大きな尊敬を持っていないわけではありません』とつけ加えた」と。

コペンハーゲン(ドイツ語: Kopenhagen [kopənˈhaːgən])、クブンハウン(ケブンハウン)(デンマーク語: København 発音 [kʰøb̥m̩ˈhɑʊ̯ˀn] )Копенгагенは、デンマークの首都。デンマーク最大の都市で、自治市の人口は81万人。市名はデンマーク語の"Kjøbmandehavn"(商人たちの港)に由来する。「北欧のパリ」と比喩される。

 コペンハーゲンには私は行かなかったが、それでもこれがニコラエフスキーの作り話であることがちゃんとわかる。オスロ―へビザなしで行くことは出来なかったことは私が言うまでもなく、もっぱら言われているのは陰謀旅行の話題であるが、ニコライ・イワーノヴィチはかつて一度もそうした旅行には行ったことはない。それに、私がエヌ・イの言葉から知っているところでは、論戦の中で彼はトロツキーに対する敬意を失っていた。同じことはトロツキーについてもいえることで、彼の方でも大手を広げて、ブハーリンを抱きしめて迎えたりはとてもしなかっただろう、と私は推測する。

 ブハーリンとファーニャ・エゼールスカヤとの出会いについてのニコラエフスキーの話にも同じく驚かされた。エゼールスカヤはかつてローザ・ルクセンブルクの秘書をしていたことがあり、ドイツ共産党員で、コミンテルンで働いていたが、反対派に与した。ヒトラーが政権の座につくと、彼女はフランスに亡命した。彼女はニコライ・イワーノヴィチとは親しくなかったが、私の両親とは仲がよかった。ラーリンの家族での呼び方で言えば、ファーニャ・ナターノヴナは幼ない頃からの私を知っていた。ニコラエフスキーは、さもエフ・エゼールスカヤの言葉であるかのように、彼女は国外の反対派新聞を主宰しないかとブハーリンに勧めたと言っている。この新聞というのはロシアで起こっていることをよく報道する新聞で、こういう新聞の編集者の役割を担えるのはブハーリンをおいてないと言っていたというのである。いいかえれば、彼女はブハーリンに、帰国せず、パリに留まるよう勧めたのである。ブハーリンがこの申し出を拒否したのは、ソ連でつくられている関係と、緊張した生活のテンポに慣れ親しんでいるという考慮からだけであるかのようである。ところが、エゼールスカヤがブハーリンに会ったのは一度きりで、彼女は私のいる時に「リュテーシア」にやって来て、私のいるところで帰っていった。私はその全会話の目撃者であった。話はコミンテルンの第七回大会、反ファシズム統一戦線のことであった。エゼールスカヤはフランスで生活するのは大変で、自分は工場で働いていると言っていた。ソ連での生活について訊ねたので、すでに書いたように、ブハーリンはほぼニコラエフスキーその人に言ったことと同じことを言った。ニコラエフスキーの乱暴なでっち上げにぼんやりなりとも似たものは何もなかった。

 ブハーリンのパリ出張がジノーヴィエフやカーメネフの裁判(1936年8月)と時が合致していたとすれば、ブハーリンの気分もニコラエフスキーが評価したものと合致していたかもしれない。もし一致していれば、ブハーリンは告発に反駁するためにモスクワに飛んで帰っただろう。しかし、そういう状況であれば、パリか他のヨーロッパの国、あるいはアメリカならブハーリンも生き残れるだろうと考えて、誰かがブハーリンに外国に留まるように無邪気にも勧めることにしなかったともかぎらないが、ましてやその時には生活がまだ逆のことを証明していなかっただけに、飛んで帰ったことだろう・・・。

 1936年8月まではニコライ・イワーノヴィチは自分の破滅を予見していなかったということは私にとっては明々白々である。これは彼の論文、演説が証明しており、それにはパリで行なった演説も含まれている。ニコライ・イワーノヴィチが破局の直前に私という若い人間と結婚しただけでなく、子供まで持とうとした事実そのものが多くを語っている。自分の子供たちにたえがたい苦しみを与えるために強く子供を欲しがったのではないか、とニコライ・イワーノヴィチを疑うことが出来ようか!

 ニコラエフスキーは一つの嘘を他の嘘に積んでいき、自己撞着に陥っている。ブハーリンがパリを発ってから八ヶ月後に作られた「古参ボルシェヴィークの手紙」では、「ジノーヴィエフ=カーメネフ=スミルノフ裁判がここで落雷のようにわれわれの頭に落ちたと言うのは、最近経験したこと、そして現在経験していることについての非常に精彩のない説明をすることになる」と言われれているのである。準備されていた裁判についてヤーゴダさえも最後になって知ったと伝えている。問題は、ニコラエフスキーがどのような源からこのような情報を得たのか、ということである。

 1936年3-4月にブハーリンとのかなり長い会談をしたのに、なぜかブハーリンの行き詰まった気分は彼に伝わらなかった、そうである。彼には伝わりようがなかったのである。というのは、それは1965年の彼の記述と一致していないからである。パリではブハーリンは生きる喜びに満ちており、快活で、新憲法が私たちの社会の民主化ー彼の長年の夢想ーに導いてくれるとみなしていたのである。

 そして、1936年3-4月に果たしてブハーリンにパリに留まることをあえて勧める者が誰かいただろうか?

 ニコラエフスキーの頭の中では時としてすべてがごちゃごちゃになってしまい、頭が混乱し、自己撞着に陥っているのだえる。他方では、彼は完全に正しく次のように認めている。

 「ブハーリンは自分の敵を過小評価していた。彼は、スターリンが背信的に狡猾にこれらのすべてのすばらしい原則(新憲法を念頭においているーラーリナ)を適用し、法の前での万人の平等を、スターリンの絶対的独裁の前での共産党員と非共産党員の平等に変えてしまうか、予見していなかった」

 他方では、ニコラエフスキーは会談でみせたブハーリンの「開けっぴろげさ」を次のように説明している。「彼(ブハーリン)が私に言ったことは、未来の弔辞を考えに入れて話された」と。そして1965年には30年も昔の出来事をブハーリンがパリから帰ってからはじまった「テロル」のプリズムを通して顧みながら、ブハーリンは当時はすでに迫りつつある破壊を予見していたという結論をニコラエフスキーは下しているのである。

 ニコラエフスキーの確信は何を拠り所としているのか?国外滞在中のブハーリンの行き詰まった気分を説明するために、ニコラエフスキーはブハーリンのパミール旅行についてのファンタスチックな話を持ち出している。ニコラエフスキーは、どんどんと新しいディテールを追加しながら、エヌ・イは一度ならずこのテーマに立ち戻ったかのように述べている。たとえば、ブハーリンにはガイドがつけられた。その地方をよく知っている国境警備隊の将校である。そのガイドについてはわが国で映画が作られ、パリで上映されたかのように言っている。ニコラエフスキーはこの映画を見た。そして、国境警備隊員と彼の犬ヴォルクと山が彼の印象に刻み込まれた。しかし、私はそのような映画は見たことがない。

 さらに、ブハーリンはニコラエフスキーに次のようなエピソードを語ったかのようになっている。つまり、彼らはガイドと一緒に細道の分岐点に行った。ガイドは、近道をするのは自殺行為だー道が雨で流され、地崩れがあったのだーと警告し、まわり道をするようニコライ・イワーノヴィチを説得した。

 I was amazed to see myself introduced as a personage in Nicolaevsky’s imaginative play:

 Bukharin was obviously tired; he longed for many months of vacation, wanted to take a trip to the sea. At that moment his young wife came up to us. She was expecting her first child, also needed rest, and showed obvious satisfaction when her husband began to speak of the sea. 

 Here the improviser’s creativity knows no limits. One was permitted to take a leave of many months only when ill; moreover, Nikolai Ivanovich was looking forward to taking his vacation in the Pamir Mountains. There was no talk of going to the sea; neither Bukharin not I could have cherished such daydreams. I expected the baby any day and in fact gave birth several days after coming home from Paris.  

 Nicolaevsky even permits himself this fiction:

 When we were in Copenhagen, Bukharin recalled that Trotsky lived not too far off, in Oslo, and said, “Why not take a trip for a day or two to Norway to visit with Lev Davydovich?” And then he added, “Of course, there were great conflicts between us, but this does not prevent me from holding him in great respect.” 

 Although I was not in Copenhagen, I see perfectly well that this is another of Nicolaevsky’s concoctions. I don’t even mean the fact that Bukharin could not have traveled to and from Oslo without a visa, so the trip would have had to be clandestine, something he would never have agreed to do. More to the point, Nikolai Ivanovich told me that in his polemical skirmishes with Trotsky he had lost respect for him. I expect the same could be said for Trotsky, so he would hardly have welcomed Bukharin with open arms.  

 Nicolaevsky’s story about Bukharin’s meeting with Fanny Yezerskaya produces no less astonishment. Formerly Rosa Luxemburg’s secretary and a member of the German Communist Party, she had worked in the Comintern and been part of the Opposition. When Hitler came to power, she emigrated to France. She was never close to Nikolai Ivanovich but had made friends with my parents. In fact, Fanya Natanovna, as she was called in our family, had known me since I was a little girl. Nicolaevsky claims that she urged Bukharin to become head of a foreign oppositional newspaper; he alone, in her opinion, could handle the job of editor and ensure that the journal was well informed about events in Russia. In other words, she supposedly proposed to Bukharin that he become a nonreturnee and remain in Paris. According to this account, Bukharin turned down the offer only because he had become accustomed to the setup in the Soviet Union and the accelerated pace of life there.

 In actual fact, the only time Yezerskaya met with Bukharin during our trip was in the Hotel Luteria. I was there at her arrival and departure and heard the entire conversation. They spoke about the Seventh Comintern Congress and the united front in the battle against fascism. Yezerskaya said that life was hard for her in France; she was working in a factory. She had many questions about life in the Soviet Union, and Nikolai Ivanovich told her approximately the same things he had said to Nicolaevsky in the conversation I’ve already described. Nothing in Yezerskaya’s talk with Bukharin even remotely resembled Nicolaevsky’s crude fabrications in the “interview.” How is it possible to lie so blatantly? Evidently, by the time of publication, Yezerskaya was either no longer living or no longer able to read Nicolaevsky’s “works.”

 Had Bukharin’s official trip coincided with the trial of Zinoviev and Kamenev(August 1936), his mood might have corresponded to Nicolaevsky’s assessment. Even then he would have rushed back to Moscow to refute the accusations, but it is conceivable, under such circumstances, that someone might have naively decided to ask him to remain abroad, assuming that in France or another western European country, or perhaps in America, he would escape harm-all the more so since life had not yet proved the opposite to be true for other.  

 But the Paris trip ended in April, and I don’t have to prove that, up until August, Nikolai Ivanovich did not foresee his downfall. His articles and speeches, including the Sorbonne speech, prove this. The very fact that not long before the catastrophe he, a middle-aged man, not only joined his life with me, a young person, but also wished to have a child speaks volumes. Can one suspect Nikolai Ivanovich of passionately wanting a child who would, like himself, be doomed to excruciating agony?  

 The subjects of the conversations Nicolaevsky invented between himself and Bukharin were truly seditious for those times. To stress this point, he reports that Arosev, supposedly present at one of them, became frightened and remarked, “Look, we’re leaving, but you’ll be able to write up sensational memoirs.” Nicolaevsky has himself replying, “Let’s make an agreement: the last one living will write openly about our meetings.” He failed, of course, to take me into account. Indeed, could it ever have entered his mind that I would read this compositions? Nicolaevsky miscalculated: the last one turned out to be me.  



↑1924年、レーニン死後の政治局員たちMembers of the Politburo after Lenin's death
上段:カーメネフ、スターリン、トロツキーTop row: Kamenev, Stalin, Trotsky
下段:ルイコフ、ブハーリン、ジノーヴィエフ、トムスキーBottom row: Rykov, Bukharin, Zinoviev, Tomsky

↑ノルウェーのトロツキー:1930 年代(29年にトルコへ追放(亡命)、32年に家族一党ことごとくソ連国籍を剥奪され、入国禁止処分Trotsky and all of his family lost their Soviet citizenship and were forbidden to enter the Soviet Union、トロツキーとその家族は安全な避難場所を確保することが不可能だった。フランスから追放され(33~34年)、イギリスへの入国を拒否された彼らは、(35年)ノルウェーに移住した。

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