日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Là một mangaka카와구치 카이지川口開治『Du nom de (「我らがよしりんOur Yoshirin」企画Kikaku社長사장)Jicchan!!』Angkatan Laut Amerika Serikat《『戦国自衛隊G.I. Samurai』Священная война》Eagle oraz Zipang『クヒオ大佐Captain Kuhio』日本陸軍『Silent Service沈黙の艦隊Chinmoku no Kantai』加拿大2016-23

2016/10/15 みなさん、こんばんは、お元気でしょうか。こちらは夜12時近く。相変わらずの「悪夢」
(-_-;なんか「バクロ」的な傾向になりかけてるのはあんまりよくはないんでしょう。ただ「自衛隊」を青少年大活躍大冒険浪漫物語に起用するのは納得できません(「娯楽」「趣味」ならなおさらです)。「鎖国」でもしてるならまだしも「世界」「旧被害国」「国際社会」では当然、問題視されてます(さきほど確認)。さらに「公安」からみで家族から死者まで出てますので。ベトナム語⇒Kawaguchi Kaiji (川口 開治 Xuyên Khẩu Khai Trị?, sinh ngày 27 tháng 7 năm 1948) là một mangaka người Nhật, tác giả của các bộ truyện tranh như Eagle và Zipang. Các tác phẩm của ông chủ yếu đề cập đến các vấn đề của nước Nhật và phân tích các lựa chọn về mặt đạo đức của con người khi họ bị đặt vào một tình thế hiểm nghèo. Ông đạt được ba Giải thưởng manga Kodansha cho các tác phẩm Actor (năm 1987), The Silent Service (năm 1990), và Zipang (năm 2002).インドネシア語→The Silent Service (沈黙の艦隊 Chinmoku no Kantai) adalah sebuah serial manga yang ditulis dan diilustrasikan oleh Kaiji Kawaguchi. 
1、「天皇制大日本帝国」
母親方の祖父(弟が中国から復員)は戦後しばらくして病死(籠を作る職人)・まずしい群馬県の山奥寒村(祖母も私が赤ん坊のときに死亡)・少年たちは将校の「軍事教練」(母親(敗戦時8歳)方の一番上の叔父(要領が悪い人)は教官(将校)に目をつけられ、さんざん殴られ、いじめられたそう)を受け畑仕事(父親(10歳・長男)も畑仕事中に敗戦を知ったといっていた+「玉音放送」は雑音がひどく、あんまり聞こえなかったらしい)。少女たちは軍馬用の秣狩り学徒勤労奉仕)。ともあれ単なる病死ですので「靖国」にも「千鳥ヶ淵」にもおらず。戦後の「軍人恩給」(空襲で家族を失い、焼けだされた一般市民への補償や支援はなにひとつなし)もいただいておりません。
2、「無敵陸軍」
大叔父(父親方祖母の弟(上の弟は中国から復員)→(45年3月)中国(南支)戦線で戦死)+親族2~3人(ソ満国境などで戦死)+むろん「靖国」にいて「軍人恩給」を頂いているはず)「帝国海軍」(父親方祖父(徳島県の豪商だった+弟が中国から復員)45年2月に初召集(34歳・一等兵・5人の子持ち)7月(敗戦1ヶ月前)に戦死)こちらは(頼んでもいないのに)「靖国」(遺骨すらない)に’祀られ’「軍人恩給」享受)。
①逸話としては祖父は出征する前、「山」なども含む全財産を「おカネ」に変えてばあさんに渡したと聞きました。「これだけあれば(私の父親が)18歳になるまでもつだろう」という言葉を残して去った~♪それじゃ行くよと別れたが~永(今生)の別れとなったのか~♪戦後のハイパーインフレと1/2000に落ちた日本円の貨幣価値急落により「米俵一表」にしかならんかったそうな(笑)「国民的英雄」よしりん企画社長式『じっちゃんの名にかけて』?(↑の写真が(徳島県(現三好市)阿波池田町)1945年1月頃の本家屋敷兼「山田商店」前(徴兵直前)における写真であります)~♪男だなんで泣くものか~負けず嫌いの戦友の~遺品(かたみ)の国旗(はた)をとりだして~雨によごれた寄せ書きを~山の頂上に立ててやる~友よ見てくれあの凪いだ~マラッカ海の(南)十字星(じっちゃんへの「同一化」⇔ツンドラの(北極星)北斗七星?)~遺骨を抱いて俺は行く~守ってくれよ戦友よ~♪血涙 ★怒羅権OSAMA2022/09/16 Canada②朝鮮の釜山へ渡る輸送船が機雷に接触(日本近海は、すでに制海権などない)し、沈没。ちょうど運悪く命中個所上の甲板で作業中だったらしい(まだ博多湾がみえたそうだ)。すでに内臓が飛び出し(下からの(各種破損物を伴った)爆風が直撃)虫の息で仰向けに倒れていたという(泳ぎ帰ってきた戦友が祖母を訪ね、最後の模様を伝えた)③~♪後に心は残れども残しちゃならぬこの身体~空しく冷えて魂は~故鄕(くに)へ帰った~♪戦死した日の夜中、ばあさんは枕元に気配を感じて起きたら、ずぶぬれの軍服を着た祖父が、真っ青な顔で無表情に立っていた。急いでタオルを持ってきたらもういなかった(しかし、塩の匂いがする水で畳が濡れていたそうである)これも小さい頃から、よく聞かされた(真偽は未だに不明ながら)。
【追記postscript】①「戦争の犠牲はよしりん企画社長(小学館によれば「我らがよしりん」)の家族だけではないYoshirin Kikaku president(According to Shogakukan, “Our Yoshirin”)'s family isn't the only victim of war」「社長を甘やかすなDon't spoil the president」といわれたらあなた方はどう答えるのか?How would you respond to this?「戦争に行くのは日本人として当たり前だ。いばるなIt is natural for Japanese people to go to war. don't barber」(町内会長Town chairman鮫島伝次郎Denjiro Samejima(戦後『愛と平和の戦士love and peace warrior』となり、県会議員に出世After the war, he was promoted to a member of the prefectural assembly)『はだしのゲンBarefoot Gen』)とでもなるのかな?I wonder if this will happen?②すなわち「非国民」(反日アカ「ガイジン?」)の親族であれば(立場や相手によって態度を変える)、邪険に扱う(全然’平等’ではないということであろう)In other words, if they are relatives of "non-nationals" (anti-Japanese red "gaijin?") (you change your attitude depending on their position and opponent), they will be treated harshly (it is not 'equal' at all)③仕事場のテレビニュースで暗殺された「安倍元首相」の死を悲しみ、涙を流しながら献花する大勢の老若男女たちを見ていましたがI saw many men and women of all ages laying flowers in tears over the death of former Prime Minister Abe who was assassinated on the TV news at my workplace、「岸田首相」「よしりん企画」社長の’じっちゃん’そして私の「祖父」(「皇国の男児として生を受け・・・東亜建設へ命を捧げるのは、日本男児の本懐」と最後の手紙(曽祖母宛=遺書となった)に書いていましたよ)も同じ「日本人」ではないのですか?"Prime Minister Kishida'', "Yoshirin Kikaku'' president's "Jicchan'' and my "grandfather'' (written in the last letter (addressed to my great-grandmother which became his farewell note) of  "Born as a man in the empire . . . Dedicating one's life to Toa Construction is the long-cherished desire of a Japanese man" ) are not the same “Japanese”?④さらにいえば「南京」で日本軍に殺された中国人も、広島で原爆の犠牲になった朝鮮人も同じ「人間」ではないのですか?Furthermore, aren't the Chinese who were killed by the Japanese army in "Nanjing" and the Koreans who were victims of the atomic bomb in Hiroshima the same "human"?自分たち(「民度が高い」らしい『大日本人』)さえよければ、他はどうなろうと何とも思わないのかなAs long as you (the "대일본인Der Große Japaner" who seem to have a high degree of civilization) are okay with it, you don't care what happens to others⑤「PRAY FOR JAPAN」とかプラカードを掲げたりhold up a placard(これらも同じくテレビで拝んだ→)ワールドカップサッカーやWBC野球を応援している「プチナショナリズム」の若者たち(I also saw these on TV)Young people of "petit nationalism" who support World Cup soccer and WBC baseball、あるいはOr~♪大好きだけどなによI love you but what~ねえねえねえ~♪AKBはじめ秋元氏傘下の方々やPeople under Akimoto's umbrella, including AKBハロプロのみなさんなどはどうお考えですか?Everybody under Hello! Project, what do you guys think?(ここは聞いてみたいですI would like to hear about this)~♪今日の涙はしょっぱすぎるわToday's tears are too salty見られたくないわこの涙I don't want you to see my tears~♪残念ながら、もはや私は、とことん『大日本人』主流派(「日本会議」「天皇制」や『文藝春秋』『ゴーマニズム』などをお頭に仰いで怖じない人たち)には「疑心暗鬼」に苛まれている(苦笑)Unfortunately, I'm already tormented by the suspicion of the mainstream ≪Big Man Japan≫ (people who are not afraid to look up to "Nippon Kaigi", "Tennosei", "Bungei Shunju", "Gomanism", etc.) (bitter smile) ) 2023/06/09 Canada
3、「明治大学」
「学生運動」(反戦・反ベトナム闘争)=には「背を向けた」とありましたが。「解放派」(=仏語⇒Fraction Libération de l'Alliance des Jeunes Socialistes Shaseidōkaihōha, abrégé Kaihō-ha社青同解放派)は多少は知っております(同じく法政の「中核派」(=英語⇒Japan Revolutionary Communist League, National Committee (Kakumeiteki Kyōsanshugisha Dōmei, Zenkoku Iinkai?) is a Japanese far-left revolutionary group, often referred to as Chūkaku-ha (中核派 Middle Core Faction) ⇔革命的共産主義者同盟全国委員会)・早大「革マル派」(=仏語⇒La Ligue communiste révolutionnaire du Japon (faction marxiste révolutionnaire) (Nihon kakumeiteki kyōsansugisha dōmei, kakumeiteki Marukusu shugiha?) est un groupe trotskyste, souvent appelé Kakumaru-ha)⇔日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)。
4、「自衛隊」
深い個人的怨恨もありますし経験もあります。
ー小学校時代からのゴロツキ相棒。おとうさまが「自衛官」(事務関係だけど)。「観閲式」に行きました(亡くなった叔父も元自衛隊員(母親(共産党員)を呼び出し脅しつけた公安が手を回したため、解雇(私が生まれる前)。直後に事故死)中2の頃(ちょうど「謹慎」とかいって、2人(間もなくその男は教護院送り、私は田舎行き)で通学(登校)禁止にされていた=毎日、あてもなくブラブラと悪いことばかりしていた)。「兵器」や「戦車」「航空自衛隊」といったことより「日章旗」「旭日旗」(「聯隊旗」(軍旗)「軍艦旗」などなど)が翻り(もちろん、当時はよくわかりませんでしけど)、『軍艦マーチ』『日本陸軍』『陸軍分列行進曲・扶桑歌抜刀隊』(いまでも安倍サンがこれに奏でられ「閲兵」)といった辺りが轟いているのに驚かされました(戦中とまったくいっしょで・装備こそ80年代、アメリカ製の最新鋭でしたが)。
ー「戦犯」たちが公職追放解除で上部に舞いもどったのは「特高警察」(公安警察)といっしょ。
ー子どもたちを狩りだしてまで「軍事演習」を’観閲’(しかもAKBアイドル(欧米作成のドキュメンタリーで見ました。けどMa cher et Dear 島崎遥香Симадзаки Харукаちゃん☆遥香하루카ちゃんのせいじゃないからね!!心配しないで!!~♪素肌の水着のあと~人生捨てたもんじゃないよね~♪(がんばって!!応援してます!!)までCMに起用して)させ「戦意高揚?」は感心しません。「積極的平和」とは「軍事的積極」という意味なのか。
5、「公安警察」
「自衛隊」と親密な関係にあり、こういったところとは自分の望むべきは無関係。「家族」の関係が深く(否応なく巻き込まれ、子供に逃げ場などない)残念ながらあんまりいい思い出はありません。『赤旗』「日本共産党」「労働組合」「反米」「天皇制」「戦争」どうこう→Психопатия「3人組Тро́йка」とりわけ(でしゃばり)«Паразит-одинакパラサイトシングル패러사이트 싱글»Psychische Störung ’ぺラ回し😚’屋「むぅうのぉぉうのぉひぃとぉっ!(●_●Човек без талента」인격장애人格障碍성격장애性格障碍が常にへばりつき(コントロール)チョロつきよったけん(いつも(まるで’主’のごとく、ふんぞりかえり)デカイ顔)一層始末が悪し(本当に残念ながらReally unfortunate何と’自分’のない人間だったかWhat a person without 'self'(押された方へ動くmove in the direction pressed)「便所のドア」そのもの'The toilet door' itself血涙~♪あのね Q太郎(所有物&付属品)はねYou see, Q Taro(Possessions & Accessories) is(are)~いつも失敗ばっかりしてるんだよI'm always failing~♪「バぁケぇラッタああ~~!!」号泣)価値観の基幹は「高学歴」や「著名校」「地位」「収入」(うわべ、表面的なもの)そんなことだけが中心The basis of values ​​is "high education", "famous school", "status", "income" (appearance, superficial things) only such things are centered)←「思いあがった半可通の山師どもconceited, semi-educated quack」 。忘れもしない小学校3年生、朝、ブザーが鳴るや公安刑事(みんなコートに背広姿)が15~6人?雪崩込んできた。毒父(共産党員+郵政産業労働組合目黒支部長)はあっというまに手錠をかけられて連行され。通学時間なので出るときみた、玄関にぞろり。あふれんばかりにぬぎすてられた黒の「皮靴」群が恐ろしかった(鮮明に記憶に残っている)。1日中徹底的な「家宅捜査」でひっちゃかめっちゃか(子供部屋までも隅々まで調べられた)。そのまま1ヶ月くらい拘留。簡単にいえば「傷害容疑」(ええかっこしい式に’突き飛ばした’(集会に’チャチ’を入れにきたとかいう)「上役」が倒れて怪我をした)に過ぎない。釈放され、華々しい?’凱旋’気取り(他にもやれ「赤旗まつり」だ「メーデーデモ」(+「野球」(トラウマ)これが一番嫌やった)だと引っ張りまわされ)郵便局近くの「公民館」?におけるわけわからん’演説’。ながら経緯(「取調べ」「留置場生活」(矮小’武勇伝’(後々まで何度も)’自慢話’的な回想)など詳細も含め)から内容(グダグダことあるごとに聞かされ、話すを強いられたので)人名まですべて記憶している。
まず「沈黙の艦隊」と「ジパング」について:
『沈黙の艦隊』は、かわぐちかいじによる日本の漫画作品。『モーニング』(講談社)にて、1988年から1996年まで連載。1990年に第14回講談社漫画賞一般部門を受賞。1995年時点の累計発行部数(25巻まで、総集編含む)は2442万部。
スペイン語)Silent Service (沈黙の艦隊 Chinmoku no Kantai?, lit. La Armada Silenciosa) es un manga creado por Kaiji Kawaguchi. Fue publicado por la editorial Kodansha en la revista Weekly Morning desde 1988 a 1996 y juntada en 32 volúmenes en tankōbon. El manga ganó el premio Kodansha Manga Award para manga general en 1990.1 El manga fue adaptado a un especial de TV y luego a dos OVAs por Sunrise y Bandai Visual. El canal de animaciones para adultos Locomotion anunció en su página web oficial que había adquirido el especial de TV y los OVAs en el año 2001 para transmitirlos en sus señales de América Latina e Iberia , pero por razones que se desconocen nunca se transmitieron.
軍事評論家の岡部いさくは雑誌『GON!』のなかで、「エンターテインメントではあるが」と前置きした上で、以下のような不自然な点を挙げている。
なぜか自衛隊がM16を持っている。
少しでも船殻に傷がついたらまずいのに、海江田自ら「やまと」とナイフで刻んでいる。
潜水艦はアップトリム90はできない(する戦術的意味がないから)。
潜水艦は空は飛べない。作中で高度を読み上げているシーンがあるが、どうやって測っているのか不思議。
During the Cold War, the Japan Maritime Self-Defense Force jointly developed a nuclear submarine with the United States Navy. On its maiden voyage, the captain of the submarine declares the submarine to be an independent state, "Yamato". The American navy pursues "Yamato", repeatedly failing to capture or destroy the rogue submarine.The Silent Service (Japanese: 沈黙の艦隊 Hepburn: Chinmoku no Kantai) is a manga series written and illustrated by Kaiji Kawaguchi. It was published in Kodansha's Weekly Morning manga magazine from 1988 to 1996 and collected in 32 tankōbon volumes. The series was adapted into an anime TV special and OVA series by Sunrise. The first two episodes of the anime were later spliced together and released in North America as a single volume. The rest of the series remained untranslated, though excerpts of the manga were published in Frederick Schodt's Dreamland Japan, however.
また、防衛庁広報誌連載を単行本化したオフィシャル分析本『「沈黙の艦隊」解体新書』(講談社)では、「やまと」の船体形状について戦略原潜「デルタIII」級に似ているので高速が出せそうにない(艦橋横から始まる凸部が上に向かってテーパーになっているのも不自然)、という指摘をしている。また、アップトリム90度の件は同書の座談会で現役海自潜水艦乗員が同じく指摘している。一方、潜水艦である「やまと」が水上にジャンプする描写は、荒唐無稽ではあるが、潜水艦の回避運動の将来像として研究の余地はあるとしている。「実際の米国海軍兵力は作中以上に強大であり、作中程度で米国艦隊が壊滅するようなことは現実的ではない」ともしている。潜水艦戦を描いた戦記物に、核戦争や国際政治等の問題提起を絡ませ、各方面から注目を集めたPS:こういった辺りも「落合信彦Nobuhiko Ochiai」映画なら「エロバズーカero-BAZOOKA・スタローンСталлоне氏」「レッドオクトーバーを追えПолювання за «Червоним Жовтнем»」とでもなろう。マンガなら「ゴルゴ13Голго-13」「パイナップルアーミーPineapple Army」「マスターキートンMaster Keaton」ってなのと同質(いいかげんな知ったかぶり我国式「社会派?」「軍事ヲタ?」「娯楽趣味」内容=私論)。
『ジパング 深蒼海流』(ジパング しんそうかいりゅう)は、かわぐちかいじによる日本の漫画作品。源平合戦を題材にした漫画で、講談社の『モーニング』にて2013年1号(2012年12月6日発売)から2017年51号(2017年11月16日発売)まで連載された。同作者の作品に、海上自衛隊のイージス艦が第二次世界大戦時にタイムスリップする物語『ジパング』があるが、本作品との関連性はないHiroshi Kawaguchi (川口 浩?), né le 22 août 1936 à Tokyo et mort d'un cancer en 1987, est un acteur japonais川口浩探検隊~野性の脅威・猛獣編笑(似たもの同士=私見)Tatsuo Kamon嘉門 達夫카몬 타츠오~♪原住民が底なし沼にはまる~顔は「笑ってる」~道にはなぜかタイヤの跡がある~腕には時計の跡がある!~大発見をしてジャングルを後にする~♪(はなはだしくは時々’BGM’が~♪海行かば↓~水漬く屍~♪のメロディーにまでなりよった(-_-どさくさにまぎれて「なんというずうずうしさでしょう笑(Snakeman Show海賊版)」)。
(フランス語)Kaiji Kawaguchi (かわぐち かいじ) est un mangaka japonais né le 27 juillet 1948 (67 ans) à Onomichi dans la préfecture de Hiroshima. Il fait ses débuts en 1968 avec Yoru ga aketara (夜が明けたら?, lit. « le soir se lève »L'auteur est connu pour ses œuvres dont les thèmes analysent la situation du pays sur fond de guerre et de tensions politiques internationalesActor (アクター), (1985-1988, Morning Chinmoku no kantai (沈黙の艦隊?, lit. La Flotte du silence) (1988-1996, Morning) Eagle (イーグル)Hard and loose (ハード&ルーズ, Hādo ando rūzu) avec Caribu MarleyLife (生存 ~LifE~, Seizon — Life?)Spirit of the Sun (太陽の黙示録, Taiyō no mokushiroku, lit. « L'Apocalypse du soleil ») (2002-2008, Big Comic)Zipang (2000-2009, Morning)
Zipang (Japanese: ジパング Hepburn: Jipangu?) is a Japanese manga written and illustrated by Kaiji Kawaguchi. It was first serialized in Kodansha's Weekly Morning magazine from 2000 until 2009, and published in 43 volumes. Four volumes have been translated into English by Ralph McCarthy for the Kodansha Bilingual Comics library.[1] It was adapted into an anime in 2004.Plot:The newest, most advanced destroyer(最新鋭の駆逐艦) in the Japan Maritime Self-Defense Force(日本の海上自衛隊), the JDS Mirai(未来), sets sail from Japan (日本から出航)on a training exercise with the United States Navy(アメリカ海軍との演習). En route, they encounter a strange meteorological anomaly(奇妙(不思議)な異常気象に遭遇), causing the Mirai to lose contact with her sister ships(「未来」は姉妹艦との通信(連絡)を失う). After a short time, the crew detects a fleet approaching, but can barely believe their eyes as a massive battleship passes by them(大型戦艦が目に入った). The crew soon identify it as the Yamato, a ship which was sunk in 1945(1945年に沈没した戦艦「大和」を搭乗員が確認). As the crew scans with their radar(乗組員がレーダーで走査したよう), numerous other ships(膨大な艦船), including a Nagato-class battleship, are sighted(戦艦「長門」級 も含むが視界に入った). Two destroyers from the unknown fleet(正体不明の艦隊から駆逐艦2隻) attempt to intercept the Mirai(「未来」を遮断(妨害)しようと試みる), but she manages to escape(しかし、なんとか逃れた)・・・PS:こういう内容なんですね(角川『戦国自衛隊』みたい(苦笑)).After examining the situation(状況を調べた後), the crew realises that the ships they passed are part of the Imperial Japanese Navy (搭乗員は通りすぎた艦船群は、大日本帝国海軍の一部だと実感した)and(加えて) that they have somehow been transported back in time more than 60 years to June 4(5), 1942, the first day of the Battle of Midway(彼らはなんらかの方法で60年以上むかし、1942年6月4(5)日、ミッドウエー海戦の初日に「タイムスリップ」していた(笑)). Knowing that an American attack will soon devastate the four aircraft carriers of the Kido Butai(アメリカ軍がもうすぐ、機動部隊の航空母艦4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を撃沈するとして知られる), some Mirai crew members believe that they should intervene, to save the carriers and the 3,000 Japanese lives that will be lost(空母群と3千人の日本人の命を救うため、一部の「未来」搭乗員は介入すべきだと思った). With the Mirai's advanced technology and weaponry, which is far superior to anything possessed by the United States (or any other nation) in this era(アメリカ(もしくは他のいかなる国)が持つどれより勝る(優越する)。「未来」の今世紀、最新鋭の技術及び武器によって), the crew realize that they could potentially alter the course of the Second World War(搭乗員たちは、もしかすると(潜在的に)第二次世界大戦の帰趨(趨勢)を変える(改める)ことができるやもしれん、と実感した(笑=まさに現代版?『戦国自衛隊』式(^_^↓
1、『戦国自衛隊』(せんごくじえいたい、G.I. Samurai )は、1979年の日本映画。アクション監督・主演:千葉真一、監督:斎藤光正、製作:角川春樹事務所、カラー・ビスタビジョンサイズ、139分。1979年12月15日公開。公開時のキャッチコピーは、「歴史は俺たちに なにをさせようとしているのか?」。追加情報⇒出演:渡瀬恒彦・夏木勲(長尾景虎(上杉謙信)役笑「同族じゃっ!(^_^」)江藤潤・竜雷太・三浦洋一・かまやつひろし・鈴木ヒロミツ(戦車兵「もっ、もう燃料がないよっ!(;_;」)成田三樹夫(本願寺光佐(顯如上人)役笑「ほほほほほ(^○^」)真田広之・清水昭博・角川春樹(真田昌幸役笑「ば~か、てれるじゃねえか (○´ω`​○)」「坊主頭が大好きな」’薬島博子’から蒲田法子+大山政子?(笑)マンガ『BE-BOP-HIGHSCHOOL』きうちかずひろ・第1巻)・岡田奈々・小野みゆき・薬師丸ひろ子などなど(苦笑)「はああっはっはああ~戦国の女かあ~」ってのがいまだに頭に残ってる(~__-;((とりわけ(虐殺の挙句に)複数女性たちを拉致。あの船内においてさんざん暴行、監禁した上、 素っ裸のまま海に突き落とすところも衝撃的だった)あくまで「娯楽映画」上+イチ視聴者の感想ながら)子供心に「ひでえ人間たち」としか思えなかった(;__;隊長千葉氏が「信玄」との一騎打ちに勝利(「武田信玄’殿’かぁっ!?(-_-」~♪Y・M・C・A~♪「いや~すっかりこの時代にとけこんじゃって(^_^」マンガ『代紋take2』木内一雅(福岡県出身・かずひろの実兄)第2巻)首をあげた。あとは真田氏(武田勝頼=笑)が空中のヘリコプターに潜入(~♪油断大敵~♪清水氏にクナイ手裏剣一投(’軽業’を披露)たちまち組みつき、惨殺)連続殺人を成功させる(脱出して「鉄の鳥」は墜落)+「まだ子供なのに」(だったっけ?)ゴリさんが少年兵薬師丸女史の槍一突きを食らい、拳銃発砲の壮絶な「合い打ち死」(なんともはや)誰か最後、思わぬ恋に落ちた(惚れた罪?)小野女史(戦国の女=あの追いかけっこの挙句?野外版、青空「性交」場面は(映画『聖女伝説』(郷ひろみ氏「てめえで何人目だ(-_-」)も含め)強烈だった)に射殺されてましたよね(何十年ぶり回顧)2、『戦国自衛隊』(せんごくじえいたい)は、日本のSF小説である。作家・半村良が中編小説として『SFマガジン』1971年の9月号・10月号に連載した。本作を直接の原作あるいは原案として映画・劇画・テレビドラマなど、『戦国自衛隊』を冠した作品が様々なジャンルで作られている。
(トルコ語)Zipang (ジパング Jipangu), Kaiji Kawaguchi (かわぐち かいじ) tarafından yaratılan ve Kōdan-sha tarafından Haftalık Morning (週刊モーニング) dergisinde 23 Ocak 2001.
카와구치 카이지(일본어: 川口 開治, 1948년 7월 27일 ~ )은 일본의 만화가다.(「이토 히로부미伊藤博文Ито Хиробуми」(長州藩・山口県出身)初代韓国統監閣下と何かご関係があるのでしょうか?。写真がいっしょについてましたけど(韓国で「伊藤」とくればあんまりいいことはないのだけは確か)。
最後に:
戦後ドイツ(50点・国旗「帝政(黒白赤)三色旗」「鉤十字」国歌「ドイツの歌」「旗を高く掲げよ」も変えた・戦犯裁判(時効なし)・犠牲者被害者たちへの賠償と保障・公式謝罪と国家元首や高官たちの旧被害地訪問(アウシュヴィッツやワルシャワゲットー蜂起の追悼碑などなど)による、「過去克服」への努力が旧侵略被害国(旧ソ連・東欧・西欧)に認められ。「戦後のドイツ人はちがう」と好意をもって受け入れられてきました。いっしょに「歴史教科書」を作成している。そうした延長線上での「教育」(子どもたちや学生のナチ時代への関心と興味は高い)はすみずみまで行き届いている。
戦後日本(3点・国旗「日の丸」(+「旭日旗」?)国歌「君が代」(+「海行かば」?)のまま・戦犯(戦後、続々と衆(参)両議院当選→国会議員)も裁かれず。A級戦犯容疑者が首相になるほど)。そもそもドイツで言う中華人民共和国・中華民国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・アジア諸国と日本は「協力して」「共同」で「歴史教科書」を’つくる会’?ドイツとはまるで正反対(賠償・保障、謝罪どころか責任はおざなり。事実すら認めようとしない態度)・・・そうしておいて「自衛隊」と少年青年大志を抱け・浪漫を忘れずは・・・(加えて戦後ドイツですら「100点満点」で「50点」なのを忘れないほうがいいでしょう)。あまりいうべきこともなくなってきました。悲しくさびしい。それだけ。
*永井 清彦Kiyohiko Nagai(ながい きよひこ、1935年6月19日 - 2017年7月14日)は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。略歴=東京府東京市牛込区(現東京都新宿区)出身。1958年東京大学文学部卒、朝日新聞に入り、ドイチェ・ヴェレ、ザ・タイムズ記者ののち、桃山学院大学教授、玉川大学教授、1996年共立女子大学国際文化学部教授を務めた。+「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となるThose who close their eyes to the past are also blind to the present」ワイツゼッカーWeizsäcker氏(西ドイツ大統領)の訳者、ドイツ語文献の翻訳者(↑は氏による「採点」)。
*「東中野(修道)教授のような男の著作が刊行されること自体、かつて日本と共に敗戦国だったドイツとは次元が違い、日本人の平均的意識やマスメディアの水準が国際的に低いことを示すものでしょうThe fact that a book by a man like Professor Higashinakano (Shudo) is published is in a different dimension from Germany, which was once a defeated country along with Japan, and the average awareness of the Japanese people and the level of the mass media are low internationally・・・これには近・現代史における日本人の無責任さ・思考力の浅さ、そしてそれがそのまま反映しているジャーナリズムの程度の低さ、学者や知識人たちの無力さがありますThis shows the irresponsibility and shallowness of thinking of the Japanese people in modern and contemporary history, and the low level of journalism that directly reflects it, and the powerlessness of scholars and intellectuals・・・そして巨視的にみるとき、日本の歴史には革命と言えるような変革はついに無かったと考えられます。ということは、南京大虐殺があった70年前の日本と現在では、あまり変わっていないことにもなりますAnd from a macroscopic perspective, it seems that there has never been a revolutionary change in Japanese history, which means that Japan 70 years ago, when the Nanjing Massacre occurred, and the present, it also means that not much has changed」(本多勝一Katsuichi Honda2007年12月13日の南京講演を、『週刊金曜日』12月7日・14日・21日号に抄録)
*東中野(修道)教授(「通常の研究者」でもなければ「学問研究」でもないNeither “ordinary researcher” nor “academic research”)漫画家小林よしのりYoshinori Kobayashiからは「最新の研究として一番信用できるmost reliable as the latest research」と評されている⇔60年以上売れ続ける世界的ベストセラー! 新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論A global bestseller that has been selling for over 60 years! New Gomanism Manifesto SPECIAL War Theoryベストセラーには連日この本の名前が載り、読書に遠い人さえもこの本を携えていましたThis book's name appeared in bestsellers day after day, and even people who were far from reading carried this book with them.
番外追記⇒「源平盛衰記」なら。大好きです。
源氏は清和天皇の第6皇子貞純親王長男(嫡子)経基王(六孫王・臣籍降下し源経基となる)が祖(武蔵(現神奈川県)守として赴任)。以来関東地方に本拠地を持った。伊勢平氏は桓武天皇第4皇子葛原親王の第3王子高見王の子高望王(臣籍降下し平高望となる)が祖。上方一帯、三重県の田園からでた武士豪族。
司馬史観氏によれば源氏をはじめ関東地方の住人は「東人」(「馬糞くさい」と嘲笑ってた+「あらえびす」(を’討伐’した義家)云々も含む)などという蔑称で呼ばれていたという(奥州の住民、蝦夷やアイヌなどと同様)。
実戦での強さにおいては比較にならず。1156年「保元の乱」(平清盛は京都洛中での「市街戦」に、ろくに加わらなかった=本陣に留まり指示のみ)では、源義朝の強さが目立った。その義朝(為義長男=父とは久しく対立していた)すら異母弟(為義8男)鎮西八郎為朝(身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西(現佐賀県北部)八郎を名乗る)が現れたら、あっという間にとんずらしたほど。崇徳上皇(鳥羽法皇(上皇が出家すると法皇となる)第1皇子=讃岐国(現香川県)に追放(配流+64年死去=享年45歳)側(為義(享年60歳)=息子義朝が斬首)・為朝(武勇を惜しまれて助命された(17歳)。肘の筋を切り(鉄弓は引けなくなった)伊豆大島(現東京都大島町+ここでも大暴れした)へ追放(70年、追討され自害(享年31歳)77年という説もあるそう)・平忠正(清盛の(父忠盛の弟)叔父=斬首刑))の完敗。後白河天皇(鳥羽法皇第4皇子)側(義朝・清盛)。1160年「平治の乱」(二条天皇(後白河上皇(天皇が皇位を譲ると上皇となる)第1皇子=親政派)側=義朝、後白河上皇=院政派)側=清盛)緒戦は源氏側が優勢。地方視察中だった義朝長男悪源太義平(源氏最強の武者)も到着。奇襲をかけてきた清盛嫡男重盛は圧倒され、追い回された。結局、裏切りも手伝い平家(清盛は後に二条天皇派に寝返り。後白河上皇の院政(派は壊滅)による政治介入は妨げられる=最終的には両者の対立・抗争は膠着状態になった)に源氏は敗れた(義朝は暗殺(享年38歳→(裏切った家臣(同じく(酒を飲まされ騙し討ち)謀殺された義朝の第一郎党(乳兄弟)鎌田政清の舅)長田忠致の(尾張国野間=現愛知県知多郡美浜町)屋敷内)伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる(義朝と政清の首は清盛に送られ、獄門台に梟首)忠致は後に覇権を握った頼朝に父の仇として捕えられ、処刑)、義平は斬首刑(享年20歳→(敗軍の落武者となった父一行と別れ、京都に戻り潜伏。清盛暗殺に失敗し捕らえられた)義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。(六条河原での処刑時)「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、難波経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる)布引(現神戸市中央区)の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという)義朝次男朝長(享年16歳→竜下越で落人狩りの比叡山の山法師(司馬史観氏によれば「悪僧ども」)が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆(義家(頼義(嫡子)長男)6男=為義(異母次兄義親嫡子)の叔父)は首筋に矢を受けて落馬(そのまま死んだ)、朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙(あぶみ)を踏みかねた。義朝が「矢を受けたか、常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるなよ」と励ますと、朝長は「私は大丈夫です。それよりも陸奥六郎(義隆)殿が深手を負われています」と気丈に答えた(『平治物語』)・・・義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという)3男(嫡子)頼朝は13歳(近江国(現滋賀県)で捕えられ、六波羅に送られたが。清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられる。伊豆国(現静岡県)に追放=32歳(1180年)まで過した(この時代の史料(記録)はほとんど残っていない→司馬史観氏が『義経』で派手にやってるのは(義経や行家はじめ他のも含め)ほとんどデッチ上げ))。平家は宮廷に入り込み「貴族化」(本拠地は六波羅)。清盛(太政大臣・81年、病死=享年64歳)の親族滋子(清盛正妻時子(二位尼)の異母妹)が「高倉天皇」(後白河上皇第7皇子)の母(建春門院)。高倉天皇(正室が清盛の娘徳子(安徳天皇の母)=建礼門院)の異母次兄以仁王(第3皇子=80年、全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、源行家(為義10男)が諸国の源氏に挙兵を呼びかける)は、源三位頼政(頼光(経基(六孫)王(長男満仲(嫡子)の長男)の孫)異母弟頼信(満仲3男)が河内(主流)源氏(頼義=義家=義忠(為義の養父(義家3男)異母次兄義親(義家次男=為義の実父)が隠岐島(現島根県)流刑(略奪や官吏殺害の蛮行)となり、家督を継承するが暗殺されたため、異母弟義時(義家5男)が棟梁となる)=為義(異母兄義信(義親長男)は素行が悪く、家督相続から外された)=義朝=頼朝)が祖)摂津(上方)源氏の首領・平治の乱時は、義朝を裏切り清盛に寝返った)といっしょに蜂起。失敗し戦死(頼政は嫡男仲綱とともに切腹=自決+木曽義仲の異母兄仲家(父義賢(為義次男)の死後、京都で頼政の養子となった)も嫡子仲光とともに戦死)。以仁王(享年29歳)の遺児北陸宮(1230年まで存命。義仲(北陸から進攻。83年6月(「倶利伽羅峠(現石川県河北郡津幡町=92年頃、歴訪しました☆)の戦い」(平家軍公称「10万」(大半が戦死)木曽軍約数万)で大勝)、はじめに平家を追い出し京都を占領(追討には失敗した)+後に従兄弟の頼朝に滅ぼされた。源家ならではの豪傑だったといわれる)が担いだが、後白河法皇は無視して。安徳天皇の異母弟後鳥羽天皇(高倉天皇第4皇子+のちに「承久の乱」(1221年、鎌倉幕府執権北条義時に対する挙兵)を起こし隠岐島に追放・39年死亡=享年59歳)を皇位につけた)。時忠(大納言・公家系・武家平氏ではない+時子の同母弟=「平家にあらずんば人にあらず」(85年、長門国「壇ノ浦の戦い」(現山口県下関市)敗北後(平家滅亡)、捕虜となり)翌年、能登国(現石川県)に配流(89年死亡=享年59歳))・清盛長男(嫡子)重盛(内大臣・79年、病死=享年42歳+重盛に対する同時代人の評価は・・・好意的なものが多く[4]、優れた武人であると共に穏やかで、情に厚く、穏和で気配りのできる人物だったことが窺える)・次男基盛(正四位越前守(重盛と同母)62年に病死=享年24歳+定説では病死とされる[2]が、『源平盛衰記』においては、宇治川(「淀川」の京都府内での名称)を騎馬で渡河しようとした際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した、と記されている)・3男宗盛(内大臣・85年(「壇ノ浦」で捕虜(知盛(弟)経盛(叔父(太皇太后宮大夫=享年62歳)祖父忠盛3男)教盛(叔父(中納言=享年58歳)4男)ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗(2人とも泳ぎの名手であり、肥満だったため浮きやすかったとも言う『平家物語』)とともに引き上げられた)となり帰京(叔父時忠、妹前皇后(中宮)の建礼門院などといっしょに、市中引回しの末)鎌倉へ連行(敗軍の総大将として)頼朝の面前に引き出された。宗盛は、命惜しさのために、頼朝に対し媚びへつらい、それを見た源氏の諸将は宗盛をあざ笑った。頼朝は、宗盛の名を平末国と改名させた『平家物語』)再び京都に戻され、嫡子清宗、次男能宗とともに(近江国篠原宿(現滋賀県野洲市)にて)刑死・さらし首=享年39歳+『平家物語』での宗盛は優れた人物である兄の重盛との対比として、愚鈍な上に傲慢な性格で、思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物とされている)・4男知盛(中納言・85年、「壇ノ浦」において安徳天皇(5歳+高倉天皇第1皇子)とともに入水自殺=享年33歳(聡明そして人間的にも魅力に溢れ「入道相国(清盛)最愛の息子」(『玉葉』安元2年12月5日条)才能に富び優れた武将だった)自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である)・5男重衡(三位中将・84年2月の摂津国「一ノ谷の戦い」(現兵庫県神戸市)で捕虜となり、翌年(木津川畔(現京都府)にて)斬首刑=享年29歳)・6男知度(従五位上三河守(生年不明)・83年「倶利伽羅峠の戦い」で戦死)。重盛長男(嫡子)維盛(権亮三位中将・駿河国(現静岡県中部)富士川での大失態(80年)公称「10万」(実際は約7万)の大軍を率いて甲斐源氏(*文末脚注)の武田軍(頼朝側につく鎌倉軍)と対峠中(すでに平家軍は敗色濃厚だった)。突然、飛びたった膨大な野鳥たちのざわめき(源氏軍の奇襲=鬨の声と馬蹄の響きに勘違い)にびっくり仰天。武備や慰安婦などを置き去りにして真っ先に逃げたため清盛の怒りにふれた。けど「謹慎」だけ。源家であれば処罰されたはず(「一ノ谷の戦い」前後に死去=享年26歳)正確な死因(入水自殺したとされる)および日時は不明)。重盛次男資盛(小松新三位中将・85年4月「壇ノ浦」で入水自殺=享年24歳)・3男清経(正四位下左近衛権中将・83年4月に豊前国(現大分県宇佐市)柳浦にて入水自殺=享年20歳)・4男有盛(従四位下右近衛権少将・次兄資盛とともに入水自殺=享年20歳)。
清和源氏
古くは奥州侵攻。制圧のため暴れまわった「義家」(こういうのも「司馬史観氏」と異なる史実として「坂上田村麻呂」のインチキ「国民英雄」ぶりについてもいずれ)。為義(43人の子ども=長男義朝(「保元の乱」後、むろん父はじめ兄弟たちの助命を願ったが、清盛は許さなかった)・次男帯刀先生(たちはきのせんじょう)義賢(父為義が、関東で勢力を伸ばす異母兄義朝(下野(現栃木県)守に就任)を牽制すべく京都から派遣。「保元の乱」勃発の前年、義朝の命を受けた甥義平に殺された)+木曽義仲(従兄弟である義平から殺害命令が出ていた(信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、ここで成長)当時2歳)の父)・3男志田義広(若年時に都において帯刀先生の職にあり、後年関東に下向し常陸国信太荘(茨城県稲敷市)を開墾し本拠地としたため、通称を志田(志太、信太)三郎先生と呼ばれる+同母の兄義賢とは仲がよかったらしい。「保元の乱」においては父為義に従ったという説がありながら、真偽不明+「平治の乱」勃発時、再び上京したという話もある(兄義朝側にはせ参じた)=ながらこちらも確証はされていない+甥頼朝と敵対し、敗れた。もうひとりの甥義仲(とともに京都入り)敗死(1184年(享年30歳)後、頼朝に殺された+義仲の遺児義高(事実上の人質)は頼朝の長女大姫と結婚していが。父の敗死後、鎌倉から逃亡(父頼朝が謀殺を企てているのを知った大姫が手助け)を試み、激怒した頼朝が差し向けた追手に討ち取られた=享年12歳+当時7歳だった大姫(2代将軍頼家・3代将軍実朝の同母(頼朝正室北条政子)姉)の心は深く傷つき(悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだったといわれる)健康を害した。その後も不憫な義高を憐み(回復することなく)ずっと病床に伏したまま20歳で死去))・4男源頼賢(異母兄義賢(殺人事件に関与した嫌疑で帯刀先生を解官)が廃嫡され、嫡子となる。次兄義賢の復仇のため関東に下り、長兄義朝・甥義平親子と戦った)=「保元の乱」で父為義同様、義朝に斬首された)・5男頼仲(同じく斬首刑→「兄上(義朝)は心狭く、自分一人生き残ろうとしている。万が一の事があれば後悔するであろう」と高笑いしていたという)・6男為宗(同じく)・7男為成(同じく)・9男為仲(8男兄為朝と同母=同じく)・10男新宮義盛(行家(紀伊国熊野(和歌山県南部と三重県南部からなる地域)に追放)・「平治の乱」では異母長兄義朝に従い参戦→源氏敗北後、再び熊野に逃亡成功+86年、頼朝(義仲、異母兄義広(と同じくまず、甥頼朝と敵対)とともに京都入り)に殺された=享年43歳)。義経(義朝9男)はすでに述べたとおり。「奥州17万騎」(実際は2万。頼朝が征伐軍として28万を派兵してあっというまに滅亡)の古都平泉(現岩手県)の衣川館(藤原秀衡(義経(奥州に亡命)養父)は病死(87年)する前、義経を大将と仰ぎ協力するよう子供たちに遺言→守られず、兄弟闘争に勝ち残った嫡子泰衡は義経討伐(「衣川の戦い」)を決意)で89年6月15日、妻と4歳の娘を殺し(武蔵坊弁慶も討死)その後自らも「自決」(炎上して焼け崩れた)。享年31歳。実子は他にもおそらくたくさんいたはず。泰衡は酒に浸した義経の首を鎌倉へ送り、「恭順」の意を示したが頼朝は許さなかった。鎌倉の大軍が押し寄せる前に泰衡(9月3日に贄柵(現秋田県大館市)で郎党が裏切り、殺害(首は頼朝に送られた)享年35歳)は平泉に火を放ち逃亡。頼朝が到着したときは、すでに全焼していた。このへんで+義朝=4男義門(頼朝と同母・「平治の乱」後の源氏敗北時、戦死した模様)5男希義(頼朝、義門と同母・60年、頼朝が伊豆に追放された同日。土佐国(現高知県)へ流刑。80年、兄頼朝が挙兵するに及び。平家による希義追討令が出た。捕えられ処刑=享年28歳)6男範頼(義仲さらに平家討伐鎌倉軍の総大将。異母兄将軍頼朝自ら出陣した奥州合戦にも従軍(これが範頼最後の参戦となった)。後に頼朝の嫌疑を受け、伊豆へ追放。93年、幽閉の後、誅殺された=享年43歳)7男阿野全成(義経の同母兄(通称”悪禅師”)・僧侶・80年、異母兄頼朝に合流。北条政子(鎌倉幕府初代執権北条時政(頼朝死後(99年=享年53歳)、独裁者となるが、政子と義時によるクーデターで伊豆へ追放された=強制隠遁)の長女・2代目義時(時政次男)の異母姉)の異母妹阿波局(3代将軍実朝(1219年、甥に当る兄頼家の遺児公暁(父の死後に出家)に暗殺された=享年27歳+公暁も暗殺直後に討たれた=享年19歳)の乳母)と結婚(異母長兄宗時(時政長男)は80年の「石橋山(現神奈川県小田原市)の戦い」(頼朝は平家側に惨敗を喫した)後に討死)。頼朝死後の1203年、甥である2代将軍頼家(1204年に暗殺=享年21歳)と対立し常陸へ配流。現地で誅殺された=享年51歳)8男卿公円成(源義円・全成、義経と同母・僧侶・81年、異母兄頼朝に合流。叔父義盛(行家)とともに平家軍と対峙中(「墨俣川(現岐阜県長良川+小学校低学年、旅館の窓から眺めた夜景が懐かしい)の戦い」)。奇襲に失敗して戦死したとされる(義円は別個に挙兵した説も存在)享年27歳)。なお実朝の死により、源氏(頼朝)直系の血は途絶え。以降の「征夷大将軍」は単なるお飾り(北条氏が実権を握った)となる(公卿及び皇族が継承→4代藤原(九条)頼経(正二位権大納言)5代藤原(九条)頼嗣(従三位左近衛中将)6代宗尊親王・7代惟康親王・8代久明親王・9代守邦親王と続く)PS:いろいろ訂正したり加えたりしました。調べて確認した関連で私自身、不勉強。新たに知ったことや間違いも多かったです(インターネット時代(ほとんど即席ウィキ参照ながら)に感謝☆)。失礼しました 2019年12月27日 サミー
*司馬史観氏の『義経』に登場し、前半大活躍する「四条の聖」こと鎌田正近(政清の子とされている)そして奥州の商人(金売)「吉次」(橘次末春)なる者もあくまで(『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』にのみ登場する)伝説上の人物に過ぎず、史料的に実在は確認されておりません(おそらく架空の人物です)。
(*文末脚注)源義家(長兄)の同母弟新羅三郎義光(頼義3男)が祖(河内源氏棟梁である甥義忠暗殺の真犯人(表向きは同母次兄義綱(佐渡島(現新潟県)に流刑=後継の為義に追討され自害)3男義明父子)と判明)→武田信縄(17代当主)信虎(1541年、嫡子晴信(信玄)に追放された(強制引退(親戚である今川家に身を寄せ(60年「桶狭間の戦い」において娘婿義元敗死後、孫である後主氏真に追放された)京都に移り、隠遁生活)信玄死後(73年=享年53歳)の晩年(信濃国高遠城にて)勝頼とも対面。74年に死去=享年81歳)信玄(長男義信は廃嫡(義元の長女(従姉妹)嶺松院が正室)67年、幽閉中に死去=享年30歳(義元の正室は信虎長女の定恵院(氏真の母・信玄(次男+長男竹松(宝恵院の兄)は6歳で早世)信繁(4男(*1)(兄(勇武に長け謹直。有能な弟を信頼していた)への忠誠は固く、敬愛していた+3男犬千代も6歳で早世)61年、第4次川中島の戦いで討死=享年37歳)逍遙軒信廉(6男(画家であり(信玄に骨相及び容姿が最もよく似ており(側近すら見分けがつかなかったとされる)影武者をつとめた。勝頼(はじめて祖父の顔をみた)同様、高遠城で父信虎と30数年ぶりに再会)自画像も含め、父や兄弟の肖像画はすべてこの信廉が描いたもの→旧(居館)本拠地である(山梨県甲府市)躑躅ヶ崎館(何度も行った)に展示されています)82年、甥である当主勝頼自決の13日後に殺された=享年51歳)の同母姉))諏訪勝頼(信玄4男(*2)父に滅ぼされた諏訪頼重(外祖父・信玄の義弟(信虎3女禰々御料人(宝恵院、信玄の異母妹)が正室)・42年に自刃=享年26歳)長女諏訪御料人が母)織田信長・徳川家康連合軍(甲州征伐)に敗北後、天目山で継室桂林院(北条氏康6女)、嫡子信勝(16歳)とともに)自害=享年36歳)。信勝の生母は勝頼正室龍勝院(信長の養女であり姪(信秀4女(3男(嫡子)信長、4男信行(58年(血みどろの確執、熾烈な抗争状態にあった)兄信長に謀殺された=享年22歳)の同母妹、5女お市の方の同母姉、11男長益(有楽斎)の異母姉)苗木勘太郎室の娘)=71年に死去。
*1信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵軍の上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、後年の信玄と武田義信の対立はなかったといわれるほどである。山県昌景(武田四天王の1人(兄(叔父の説あり)飯富虎昌は義信の傅役(義信に先駆けて)65年、切腹)「長篠の戦い」で戦死)は「古典厩信繁、内藤昌豊(武田四天王の1人「長篠の戦い」で戦死)こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。真田昌幸(幸隆3男(長兄信綱・次兄昌輝が「長篠の戦い」で戦死したため、真田家を相続)信玄の奥近習衆から足軽大将(信玄の母方・大井氏の支族武藤家へ養子入り)「武藤喜兵衛」となる)は後に生まれた次男(幸村)に「信繁」と名づけている。
*2(兄義信と同母)信玄次男海野(竜芳)信親は失明し盲目だったといわれる。82年、同じく勝頼敗死後に自殺=享年41歳。3男武田信之は53年に早世=享年10歳。信玄継室三条の方(左大臣・三条公頼の次女)が母(長女黄梅院(勝頼の異母姉)は北条氏政(勝頼の義兄(氏康(嫡子)次男)桂林院の異母長兄)正室)。
*信虎5男武田信基は早世・7男一条信龍(信玄、信繁、信廉の異母弟)は82年、駿河において攻め寄せた徳川軍と交戦し敗退。甥勝頼が死んだ同日4月3日に討死=享年43歳・8男武田宗智(出家し僧侶となったといわれる)は生年没年とも不明・9男松尾信是は71年に死去(生年不明、異母長兄信玄の信任は厚かったとされる)・10男河窪信実は75年の「長篠の戦い」時に戦死(生年不明)・11男武田信友(信虎が駿河に追放された後に誕生・義元の死後(68年「駿河侵攻」)旧今川領を制圧し、本拠地駿府(氏真は掛川城(遠江国佐野郡=現静岡県掛川市)へ逃れた)を占領した異母長兄信玄に後を任される)は82年(勝頼自害の約1ヶ月前)に捕らえられ、斬首刑=享年40歳(嫡子信堯(勝頼の従兄弟)も処刑された=享年28歳)。信繁の長男望月信頼は父が戦死した61年の第4次川中島の戦い後に、死去=享年18歳。次男(後継)武田信豊(勝頼の従兄弟)勝頼の死から5日後に自害=享年34歳。信廉の嫡子武田信澄(勝頼の従兄弟)は76年に病死=享年17歳。
おはようございます。今日はこれから街中へ行かねばならず。みなさんいつもありがとう!ぼくもがんばります!! 敬具 山田修 2017年5月2日 リッチモンド・ヒル カナダ


①The Wonderful World of Captain Kuhio (クヒオ大佐, Kuhio Taisa, lit. "Captain Kuhio") is a 2009 Japanese comedy-crime film②ジョナサン・エリザベス・クヒオ‎Jonathan Elizabeth Kuhioこと鈴木和弘Kazuhiro Suzuki:Born in Abashiri City, Hokkaido during the war, he entered a vocational training school after graduating from junior high school and moved to Tokyo after graduating元自衛官Self-Defense Official*厳密には「大佐」はColonelであり、Captainは「大尉」です。


①《Nihonrikugun日本陸軍》is a Japanese military song . It was announced in July 1904 ( Meiji 37) ②《Rikugunbunretsukoshinkyoku陸軍分列行進曲》 is a Japanese ritual song composed and enacted as a marching song for the Imperial Japanese Army , and is used as a marching song for the Ground Self-Defense Force and the police

①「昭和15(1940)年には航空総監、6ヶ月間ヨーロッパ戦のドイツ軍陣地を視察した。日本陸軍が速やかに空軍と機械化部隊に徹底的改善を加えなければ、現代戦を戦うことは出来ないと報告して、東条に不快の念を与えたといわれるIn 1940 (Showa 15), he inspected the German military positions during the war in Europe for six months as the Chief of Air Force. It is said that he displeased Tojo by reporting that the Japanese Army would not be able to fight in modern warfare unless they made thorough improvements to the air force and mechanized units immediately・・・彼はヨーロッパ戦線を視察し、西欧世界の軍事技術の進歩を見たばかりであったHe had inspected the European front and had just seen the advances in military technology in the Western world」(山下奉文Tomoyuki Yamashita大将(高知県出身(B級戦犯)絞首刑)②「日露戦争(1904(明治37)年2月から1905(明治38)年9月)の後After the Russo-Japanese War、一歩も進歩していなかったthere was no progress日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬込みなどの作戦指導strategy guidance of the Japanese Army's non-retreat policy, summit capture, rear disturbance, and slashing」(双方、大岡昇平Shōhei Ōoka『レイテ戦記(上)』(中公文庫)より)③「昭和19(1944)年の20世紀に、未だ明治38年式の銃を持って生命を的に戦う兵が気の毒であったIn 1944 (Showa 19), in the 20th century, I felt sorry for the soldiers who were still fighting for their lives with 1903-style guns」(軍医軽部茂則Shigenori Karube・回想記『インパール進攻の夢破れて』)④↑は戦後、GHQが没収した大本営(最高統帥機関Imperial General Headquarters)作成の官製「プロパガンダ(宣伝)」映像です。

Der Fall von Berlinベルリン陥落とソ連邦国歌«Паде́ние Берли́на» — советский двухсерийный художественный фильм; киноэпопея, поставленная в 1949 году Михаилом Чиаурели по сценарию Петра Павленко. Съемки проводились в СССР и на киностудия «Баррандов» в Праге. Берлинская наступательная операцияベルリンの戦いSchlacht um BerlinBattle of Berlin

①Françaisフランス語→Battōtai (抜刀隊?), est une célèbre marche militaire japonaise, datant de l'ère Meiji②扶桑歌(日语假名:ふそうか)是1886年(明治19年)由旧日本帝国陆军法国教官查尔斯·勒胡(Charles Leroux)创作的一首军歌。

ロシア語⇒A Spirit of The Sun (яп. 太陽の黙示録 Тайё но Мокусироку) — манга, написанная Кайдзи Кавагути, начала публиковаться издательством Shogakukan 30 мая 2003 года, всего было выпущено 17 томов манги.空母いぶき』(くうぼいぶき)は、かわぐちかいじ作、恵谷治監修による日本の漫画。『ビッグコミック』(小学館)にて、2014年24号から連載中。ルーマニア語⇒Marina Militară Rusăロシア連邦海軍=Oficial, Flota Maritimă Militară a Federației Ruse (rusă Военно-морской Флот Российской Федерации (ВМФ России)(Voienno-morskoi Flot Rossiiskoiy Federatsii (VMF Rossii)) este moștenitoarea directă a flotei maritime militare a Uniunii Sovietice, fiind forța navală a Forțelor armate Ruse.セルビア・クロアチア語⇒ソ連邦海軍=Sovjetska ratna mornarica (ruski: Военно-морской флот СССР) neformalno zvana Crvena mornarica, bila je od 1918. do 1991.dio Oružanih snaga Sovjetskog Saveza. 















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