日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

A History of Japan⇔Total War WW2・「国家総力戦」の時代・「日米開戦」前夜「日本の歴史」

みなさん こんばんは。相変わらず「鬱」や不安定は改善せず。文章はあまり書けません。またさまざまな局面を異なった視点からまとめて行きますので。よろしくお願いします。いつもありがとうございます。2016/10
「大東亜共栄圏」:(家永三郎・「日本の歴史」)
ーという言葉。先の満州事変のとき、日本は「満州人を中国人の手から開放して、その幸せのために、王道楽土を作るのだ」と世界に宣伝した。今、その日本が、アメリカ・イギリス・オランダを新しい敵として、太平洋戦争をはじめた。その戦いの目的は、長く続いたヨーロッパ人の支配の「白い手」から、アジア人を解放することにあると叫び続けた。
ーそしてアジア全体に広がる新しい「王道楽土」という意味で、「大東亜共栄圏」という名前をしきりに宣伝した。日本をリーダーとして、東アジアの国々が、ともに栄える地域という意味である。しかし、その中身は、どうだったのか。もし、本当に、日本が「大東亜共栄圏」を作ろうとして戦ったのなら、日本の敗北は、アジアの人びとに対して、誇るべき名誉ある敗北であっただろう。
ーもし、そうでないならば、正しくない戦いをして、しかも敗北したという、二重の敗北であったとみなされなければいけないであろう。
資源の略奪
ー東アジアには、豊かな天然資源と実り多い土地に恵まれている国が多い。日本は、それらの国々を占領した。すると日本は、それらの国々の富を、普通の貿易のやり方によってではなく、軍事力を背後に持つ国家の力により、独り占めにするやり方を展開した。
ー例えば、朝鮮では、朝鮮人農民の貧しさにつけ込んで、大量の米を買いつけて、日本内地に移出した。1932-1936(昭和7-10)年の5年間の統計では、朝鮮米生産高の51%が日本に送りだされている。そして、残りの米も、小作米として地主に取られたりすることが多かった。そのため、朝鮮人農民は、米が食べられず、粟とかヨモギを食べていたという。
ーまた、台湾の、中国人農民は、日本に台湾米を移出し、自分たちは外米とさつまいもを常食にしていたという。1936-39年の統計では、やはり生産高の51%が日本に送りだされている。「王道楽土」であるはずの満州はどうだったのだろう。ここでは、日本人商人が、満鉄や関東軍の後押しで、満州人或いは中国人農民から、大豆・小麦などを安く買い上げ、反対に、衣料品のような日本製商品を高く売りつけるというやり方をした。これらの地域では、三井物産・三菱商事を中心とする商社が大活躍をした。
ーさらに、太平洋地域では、アメリカ・イギリス・オランダという競争相手を撃退した日本は、まさに無人の野を行くかのようであった。石油・生ゴム・ボーキサイト・タングステン・食用油・木材を買いあさった。そして、その支払いには、砂糖・塩を売り込む他に、貨幣として信用できない、乱発された「軍票」などをあてた。それは、貿易と呼ぶに値しない、「弾と紙切れによる略奪」であった。

三国同盟の締結と北部仏印進駐:(世界文化社「聯合艦隊」)
ー1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まったとき、日本は内閣が交替した直後だった。大戦勃発の一週間前の8月23日に、モスクワで独ソ不可侵条約が締結され、平沼内閣は驚愕して倒れた。ソ連は、4年前の1936年11月にドイツと日独防共協定結んだ際の、共同仮想敵国である。その’敵’であるソ連と、ドイツが日本に知らせぬまま突然に不可侵条約を結んでしまったのだから、日本外交は完敗・破綻というほかない。
ーソ連は、関東軍がその年5月から8月にかけてノモンハンの満ソ国境紛争で戦って大敗し(ノモンハン事件)、まだ停戦協定も成立していない相手であるのだから、ドイツに裏切られたという衝撃はいっそう大きかった。平沼騏一郎首相は8月28日「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので・・・」と述べて国際情勢急展開への対応能力欠如を告白し、内閣総辞職を選んだ。平沼内閣を悩ませたドイツ、イタリアとの三国同盟締結問題も、このドイツの’裏切り’でさすがの陸軍強硬派もシュンとなったために、以後しばらく鳴りを静めた。
ー後継内閣は阿部信行陸軍大将が首班となって8月30日に発足し、9月15日にモスクワでノモンハン事件の停戦協定が成立。阿部は陸軍軍人としては穏健な常識派で、欧州戦争勃発に際してはいち早く「不介入」を宣言し、同時に米英との協調路線を取ろうとした。組閣の「大命降下」の際に天皇から「英米と協調する方針を取るように」と異例の指示を受けたためでもあった。
ー阿部は内閣発足時に自分が兼任していた外相に、やがて親米派の野村吉三郎予備役海軍大将を起用し(9月25日就任)、ジョセフ・グルー駐日大使との日米関係改善の交渉に当たらせた。しかし、日本が中国に80万人を越える大軍を送って戦争を続けていながら、しかもこの年11月には強引な要求で中国華北地方の英国駐屯軍を撤退させるような振舞をしておきながら、片方ではアメリカとだけ仲良くしようというのは、常識から考えても無理だった。米のルーズベルト大統領とハル国務長官の「日本は中国の主権を侵害している侵略国家」だとの基本認識は変わらなかった。
ー日本は前年7月に米から日米通商航海条約の廃棄を通告された後、必死で新しい通商航海条約か、せめてその暫定取り決めの締結をと求めてきたが、この年12月22日、米はグルー大使を通じてどちらの締結もできないとの回答を寄せた。米は日本をまた突き放したのである。「支那事変」による生活物資不足と物価高騰による不人気、そして陸軍が英米協調路線の阿部を見限ったことにより、この内閣はわずか4ヵ月半で倒れた。後継には翌1940年1月16日、軍部に同調する近衛文麿元首相を推そうとした陸軍の目論見の裏をかいて、湯浅倉平内大臣の宮廷グループは対米英協調派の米内光政海軍大将への「大命降下」に持ち込むことに成功した。
北部仏印進駐・暴走する陸軍:
米内は平沼内閣時代に、海相の自分と共に三国同盟に反対した外相有田八郎を再び外相に起用し、英米との関係好転を図った。しかし同年3月には中国の南京で親日派の元国民政府行政院長汪兆銘に傀儡政権を樹立させるなど、日中戦争の泥沼を深めるほうに動いたから、アメリカが好感を持つはずはなかった。ハル国務長官はただちに日本を非難し、従来通り重慶の蒋介石政府こそ中国の正統政権であると認めるとの声明を発表。同時に蔣政府に米輸出入銀行が追加クレジットを与えると発表した。
ー前年9月にヨーロッパで起きた戦争は、英仏がドイツに宣戦布告して、’大戦’となったのに、実際の戦争はドイツの東欧侵略だけにとどまっているという不思議な’大戦’だった。ところが開戦後7ヶ月を経たこの年1940年4月、ドイツ軍はノルウェー、デンマークを急襲し、5月には北仏、オランダ、ベルギーに侵入、西部戦線が火を吹いた。ドイツの電撃作戦はあっという間にフランスを敗北に追い込み(6月22日独仏停戦協定)英国も風前の灯に見えた。
ー仏蘭がドイツに蹂躙されると、東南アジアの仏・蘭の植民地は日本から見れば、傷ついて白い腹を見せて横たわっている獲物になった。破竹の勢いのドイツの尻馬に乗って、その獲物を手に入れてどこが悪いか・・・。「バスに乗り遅れるな」が軍部だけでなく、官民の合言葉になった。米内も軍部がお膳立てする南方侵略の序盤構想を容認せざる得なかった。それは英仏に対して、蒋介石政府に運ぶ援助物資の禁輸(’援蒋ルート’の閉鎖)を要求することから始まった。
ー外務省は1940年6月4日に駐日フランス大使に対して仏印の、6月24日には駐日英国大使に対して香港とビルマの援蒋ルートの閉鎖を要求した。仏は6月17日から援蒋ルートを閉鎖し、英も7月12日から3ヶ月の期限付で香港とビルマの援蒋ルート閉鎖を実施した。アメリカは英国が援蒋ルート閉鎖に応じた弱腰に反対したが、かといって独自の強硬策で擁護することまではしなかった。日本の軍部はいまや死に体となったフランスに対してはさらに強く出て、援蒋ルートの閉鎖だけでなく、実際に現地で援蒋物資禁輸を確認する日本の監視団を受け入れよと迫った。
ーもはや拒否する力を持たぬフランスはこれを承認。6月末、西原一策陸軍少将(元フランス駐在。国際連盟勤務も経験)を団長として、陸・海・外の三省から成る40名の監視団がハノイに到着。だが西原監視団には実は参謀本部第一部長(作戦部長)富永泰次少将ら南方武力進出派によって、単なる禁輸監視任務だけでなく、日本軍の実質的北部仏印(現在のベトナム北部)進駐を認めさせる’副次任務’が与えられており、そちらのほうがより重要で困難な任務だった。富永らは中国華南の南寧(仏印国境から約180キロ)に駐屯する日本の南支那方面軍の第22軍(2個師団)を、北部仏印に進駐させ、その地域の飛行場数ヶ所を南方進出の拠点にしようと目論んでいた。
ー西原団長が仏印のカルトー総督と困難な交渉を続ける間に、日本では7月22日、三国同盟反対と南方進出は平和的手段によるとの基本方針を変えない米内首相を不満とする陸軍が、内閣を倒した。陸軍省軍務局長武藤章少将ら強硬派が、陸相畑俊六大将を突き上げて陸相を辞任させるという卑劣な手段で、米内内閣を葬ったのである。後継は陸軍が望んでいた第二次近衛内閣だった。参謀本部富永第一部長らの北部仏印進駐の画策は近衛内閣の実現でブレーキを失い、暴走を始めた。
ー8月下旬と9月下旬の二度にわたり、富永は自らハノイに乗り込み、強硬な態度で西原団長の交渉を’指導’し、ついに9月22日、2万5000の日本軍が北部仏印に入り、四ヶ所の飛行場を使用するとの協定が結ばれた。それまでの間に、勇んで北部仏印国境に集結した第22軍第5師団の一部が浸入する無断越境事件を起したり、平和進駐のはずが協定実施時間(23日)より早く越境して仏印軍と戦闘になるなど、現地軍の無統制と越権専断は目に余った。
ートンキン湾から上陸する陸軍部隊を援護する予定だった海軍の現地艦隊は、陸軍が強引な上陸作戦を行おうとしたのを拒否し、撤退する事件まで引きおこした。このような日本の動きがアメリカを刺激しないはずはない。ルーズベルト大統領はすでに5月初旬の時点で太平洋艦隊を本土のサン・ペドロからハワイ真珠湾に移して日本を牽制していたが、7月2日には国防強化法を成立させ、石油、屑鉄などの軍需物資の輸出を許可制とした。同年31日には航空機用ガソリンの対日輸出を禁止。
ーそして9月25日の蒋介石政権への2500万ドルの借款供与決定(その後計1億5000万ドル追加)と、その2日後の屑鉄対日全面禁輸の決定は日本の北部仏印進駐への報復処置だった。北部仏印進駐と共に、アメリカの対日感情を一気に悪化させたのが、北部仏印進駐の5日後、9月27日にベルリンで調印された日独伊三国同盟だった。三国同盟問題は独ソ不可侵条約締結というドイツの’裏切り’で一時は沈静していたが、1940年春からのヨーロッパ西部戦線におけるドイツの破竹の進撃により再び息を吹き返し、第二次近衛内閣となってからは、松岡洋介外相の主導により瞬く間に同盟締結へと進んだ。三国同盟はドイツの尻馬に乗るための切符だった。
松岡外相の行動・大旅行と「日ソ中立条約」調印:(家永三郎・「日本の歴史」)
日米交渉のはじまり
ー1940年(昭和15年)11月、松岡外相は、前年からつづいた日本の大使の大掛かりな取替え、いわゆる「旋風人事」の1つとして、駐米大使に、海軍大将野村吉三郎を任命した。野村大将は、海軍軍人の中に多かった日独伊三国同盟の反対論者の1人であり、松岡外交のコースにも反対であった。しかし、日米戦争を是非とも避けたいという海軍の意向に押されて、大使任命を受けた。野村は軍人であるがルーズベルト大統領とも親しかった。時の駐日大使グルーは、「野村は高潔な人物である」という電報を、ワシントンに打っている。
ーハル国務長官は、日米の平和的な交渉が実る可能性は、50分の1ほどと考えていた。それでも、1941(昭和16年)年4月16日から、本格的な野村大使との会談に入った。この野村・ハル会談では、2つの考え方が日米の話し合いの土台として提出された。まず、ハル国務長官は、「全ての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、全ての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」という4原則を示した、そして、日本の進んでいる方向は、そのままでは認められないという立場を明らかにした。野村大使から出されたのは、およそ次のような「日米諒解案」であった。
1、日独伊三国同盟は、攻撃的でなく防御的なものであると日本が宣言する。
2、日中間の協定によって、日本軍が中国本土から撤兵する。
3、中国を併合しない。中国に賠償を求めない。
4、蒋介石・汪兆銘(汪精衛)両政権の合流を助ける。
5、中国は満州国を認める。
以上のような条件を、日本政府がのむならば、アメリカ大統領は、国民政府に対して、日本との平和を斡旋する。そして日米の間の通商・貿易を正常な姿に戻す。さらに、日本に対して資金援助をするというこいとが盛り込まれていた。ハル国務長官は、この「日米諒解案」は、日米交渉の土台となるだろうと述べ、この案が、日本政府の正式な提案となるよう求めた。その話し合いから、野村大使は、ハル長官が、この案に賛成だという印象を受けた。そこでこの案の交渉を進めたいと考え、東京に電報を打った。常識で考えれば、この「日米諒解案」は、日本にとって、有利な案だったからである。
松岡の訪欧ソ・独断専行:
ーちょうどその頃、外交の最高責任者である外相松岡洋介は、日本にいなかった。外務大臣になって、初めての欧州旅行に行ったからである。この旅行の目的は、ドイツとソ連の戦争が近いという噂が本当かどうかを確かめる(もし、本当なら、三国同盟の目的の1つが消えてしまう)、日本とソ連の国交をよい状態にしようというものであった。
ーシベリア鉄道に乗って、ソ連に入った松岡外相は、さらに、ドイツ・イタリアに行って、ヒトラー総統とムッソリーニ首相に会った。ここで、かねて考えていた日独伊ソの四国同盟の力で、アメリカ・イギリスに対抗しようとする計画は、不可能であることを悟った。つまり、ドイツとソ連との戦争が迫っていることを感じたからである。
ーそこで、ドイツ・イタリア旅行の帰りに、再びソ連に立ち寄った松岡外相は、ソ連との間に、日ソ中立条約を結んだ。
日ソ中立条約:
ーもともと、松岡外相は、「独ソを味方につければ、いかに米英でも、日本との開戦を考えようはずがない」と考えていた。こういう考え方からすれば、三国同盟の後の宿題は、ソ連との条約であった。1941年4月7日、モスクワに着いた松岡外相は、ソ連のモロトフ外相との間で、日ソ条約の話し合いをはじめた。ソ連は、その頃、ドイツ軍がバルカン半島に侵入し、また、スパイ情報により、ドイツのソ連攻撃が6月下旬であることを知っていた。
ーそのため、ソ連としては、西方に国家の力を集中するために、日本と条約を結んで、東方を安心できる状態にしておく必要があったのである。はじめ、モロトフ外相は、北樺太に、日本が持っている利権(漁業と石油採掘の権利)を返せといって、条約を渋っていた。しかし、4月11日の夜、モスクワの酒場で酒を飲んでいた松岡外相のところに、突然、日本大使館を通じて、首相であり、共産党書記長であったスターリンからの「会いたい」という伝言が入った。そして、翌日のスターリン・松岡会談をへて、日ソ中立条約は生まれたのである。
ー4月13日、クレムリン宮殿で、条約は調印された。それはおよそ、次のような内容であった。
1、日ソ両国のいずれか1ヵ国が、他の国から攻撃を受けた場合、他の1カ国は、その争いの全期間を通じて、中立を守る。
2、日ソ両国は、平和と友好の関係をたもち、お互いに領土に対する権利をおかさないように約束しあう。
3、条約の期限は5ヵ年とし(つまり1946年ー昭和21年ー4月まで)、もし、いずれかの1カ国が延長を望まない時は、満期一年前に、その意志を通告する。
4、日本は「モンゴル人民共和国」の、ソ連は「満州国」の、それぞれの領土に対する権利をおかさないように約束する(だから、スターリンは、日本の「満州事変」の結果を認めたことになる。中国政府は、これに抗議した)。
ーこの頃、駐ソ公使としてモスクワにいた西春彦は、日ソ条約の熱心な推進者であった駐ソ大使で陸軍中将の建川義次から、「きみ、日本はシンガポールを攻撃するんだよ」と、こっそり打ち明けられた。大使が酔っていた時の打ち明け話である。
ー後に、ヒトラー総統の通訳者が明らかにしたところによれば、松岡外相は、ヒトラーとリッペンドロップ外相との会談の中で、ドイツの要求を受け入れ、近い将来、天皇と近衛首相を説得して、シンガポールに攻撃を加える方向に日本を引きずることを約束していた。
ーイギリスにとってシンガポールは、アジアの大根拠地である。松岡外相のこの約束は、日本が南に進み、イギリス・アメリカとの戦争に向かって、国家の進路を決めたということであった。少なくとも、そうみられても仕方のないものであった。そして、それほど重大なこの発言が、天皇と首相が知らないまま、外相の口から出たのである。
一方、スターリンは、日本のそういう意図をよく知っていた。しかし、あえて日本と握手したのである。彼は、調印式の後での宴会で、日本の1軍人に、「これで日本も、安心して南進できる」と語り、松岡外相がモスクワを離れる夕方、慣例を破って、駅に現れ外相にキスをし、その体を抱擁した。このとき、スターリンは、酒に酔っていたというが、日本とドイツの挟み撃ちから、ソ連を救った喜びの表現であっただろう。
欧州滞在の朝日新聞特派員ルポ・松岡の訪欧について:(笹本駿二「第二次大戦下のヨーロッパ」
’独ソ戦の序曲’と題したこの章をむすぶにあたってもうひとつ付け加えておきたいことがある。ちょうどこの時期に行われた松岡の訪欧が、独ソの緊迫した関係の中でどんな意味を持ったか、ということである。松岡は三月中旬に東京を出発し、3月20日すぎにモスクワ到着、モスクワ滞在中ソビエト首脳と会談したあと3月下旬ベルリンに着いた。ベルリンではヒトラー、リッベントロップと会い、ローマに出かけた。
ーローマからの帰途再びベルリンに立寄って、ヒトラー、リッベントロップと会談した。ちょうど、ユーゴスラビア攻撃の前夜に当り、ヒトラーは多忙を極めていた。ベルリンを出発したあとまたモスクワに寄り、ここで日ソ中立条約を調印している。以上が松岡訪欧の足取りである。
ーベルリンの記者会見で松岡は、「日本の外務大臣が同盟の相手のヒトラーさん、リッベントロップさんとお互いに顔も知らないのではお話にならぬ、一度会ってじっくりと懇談するために出かけてきたのだ」とその訪欧の目的を説明したが、ほんとうの目的は日ソ中立条約調印にあった。しかし、ベルリンにおけるヒトラー、リッベントロップとの会談の意義も決して小さくはなかった。松岡は2回のベルリン滞在中に、ヒトラーとは2回、リッベントロップとは3回、あわせて5回もドイツ最高首脳と会談を行っている。
ードイツ側が松岡訪欧を相当に重要視したことがこれでよくわかる。ドイツ外務省の記録によるとこの5回の日独会談の眼目は次の諸点にしぼることができる。
1、ドイツ側からは、日本のシンガポール攻撃によってイギリスの降服を早めることが望ましいと要望された。この場合ソ連が対日軍事介入に出れば、ドイツは全力をあげてソ連を攻撃することをドイツ側は確約した。
2、松岡から、日ソ中立条約締結の意図をほのめかしたのに対して、リッベントロップから、日ソ関係の深入りは時宜に適せず望ましくない、という考えが示された。その理由として、独ソ関係はどうなるかわからぬ、ことが言及された(ドイツ外相は、松岡に対して日本に帰ってからも、独ソの衝突はありえないことだなどとはいわないようにしてもらいたい、と述べている)。ヒトラーも、独ソ国境には150個師団のドイツ軍が集結しているとはっきり述べている。
3、松岡は、日米衝突が不可避であること、日本のシンガポール攻撃は既定の方針で、実行は時間の問題である、と確言した。
ーこの議事録からみれば、松岡は、リッベントロップの勧告を無視して日ソ中立条約を調印したことになる。また松岡は、日本に帰った後、リッベントロップの示した、独ソ衝突の可能性を閣議に報告しなかったばかりでなく、当時日本でも流布されはじめた独ソ開戦の噂を否定していた。何故松岡が、リッベントロップがしばしば繰り返して語った独ソ開戦可能性を無視したのかについては、はっきりした説明がなされていない。松岡自身何の記録も残していない。
ーしかし、松岡のこのサボタージュの引きおこした波紋は小さくなかった。まず第一に、国際情勢の判断が正確でなかったという理由で、松岡自身の首が飛んだ。時の首相近衛は当時の事情について、「ドイツは日本と何の打ち合わせもなくソ連を攻撃し、三国同盟の予想したソ連引き入れとはまったく正反対の結果を招来したから、三国同盟の存在理由をも滅却したものである、との理由でこれを廃棄しようとさえ考えたが、軍部などの反対が予期されたのでついに問題にならなかった」(「東郷茂徳外交手記」)と語っている。
ー近衛が、折角思いついた三国同盟廃棄を実行できなかったことは残念なことだが、他方松岡が、ヒトラー、リッベントロップとの会談内容を詳しく報告しなかった、ということは誠に奇怪な行動といわねばならない。松岡のやったように、重大な国際会談の中味を、個人的な企図や判断ですりかえるということは断じて許されぬことである。また、私がヒトラー・松岡会談議事録を読んで不快に感じるのは、松岡のヒトラーに対する態度に卑屈の色が強過ぎること、日本のアラやボロを外国の首脳の前であばき立てて平然としている無神経ぶりである。
ー松岡はヒトラーを最大限に持ち上げお追従たらたらだった。これは当時の日本の外務大臣として、また日本第一流の政治家の振る舞いとして褒めたことではなかった。また三国同盟については、「自分は前々からこの構想を持っていたが、同盟実現の前にどうしてもシンガポールを占領し、それを土産にして同盟に入りたい考えだった。ところが、シンガポールに手もつけないまま同盟が実現したのは面目ない次第である」と奇怪なことをいっており、また「日本では自分の反対派が多いので物をいうにも用心しなければならないのだ」とか、「今度の話(対米戦争不可避という松岡の意見その他)についても今後は電報のやりとりはやめて、必要な場合はクーリエを交換しましょう。日本では機密がすぐに洩れるのです。ドイツの機密保持には信頼がおけますが、日本はそうは参らないのです」といっているなどは甚だしく不見識ではあるまいか?少なくとも日本の外務大臣として日本の体面を保つ所以ではない。
ーここで、20年も前に亡くなった人物の誤りを指摘するのは、松岡をあらためて責めるためではなく、現在の日本の指導的政治家に、こういう過ちのないように教訓を引き出してもらいたいからである。その意味からも、当時の人たちにはこの議事録を一度は読んでもらう必要があると私は考えている。国家の重大な問題の決定に当たって個人プレイが顔を出し過ぎることは禁物であるからだ(1970・岩波新書)。

北の戦争と南の戦争・松岡の帰国:(家永三郎・「日本の歴史」)
ー1941年4月22日、ヨーロッパ旅行を終えた松岡外相は、立川飛行場に帰着した。近衛首相はこの日、わざわざ立川飛行場まで外相を迎えに行った。立川からの自動車に2人だけで乗り「日米諒解案」で、日中戦争を解決し、日米交渉をまとめるという、政府や陸海軍の考え方について、首相自ら、外相に了解をとる積もりであった。しかし松岡は、これからすぐに、宮城前の二重橋にいって、皇居を拝したいといった。そういうことの嫌いな近衛との同車のチャンスは失われてしまった。
ー後で外務大臣から、「日米諒解案」の話を聞いた外相は、外交の主任大臣を差し置いて、留守にそんなことを進めたとは何事だと怒り、強く反対し、陸軍の指導者の説得にさえ、耳をかそうとしなかった。こうして「日米諒解案」は水に流され、後から考えれば、これはアメリカが日本に差し出した、もっとも温かい手であった。しかし松岡外交は、その手と握手することを拒否したのである。この後のアメリカは、もっと冷たい手を、日本に対して差し出してくる。・・・1つの機会がこうして失われた。
・アメリカは態度を明らかに
日本の未来をドイツに賭けた松岡外交のために、日米交渉は行き詰まってしまった。アメリカが欧州の戦争に参加したときは、三国同盟の責任から、日本がドイツ側にたってアメリカに参戦する積もりであるという松岡外交の真意は、アメリカ政府にはわかっていた。例えば、1941年6月21日、ハル国務長官から野村大使に与えられた口頭の声明は、名前こそあげてはいないが、ナチスの侵略政策に「ぬきさしならぬ誓約」を与えている「政府の有力なる地位にある日本の指導者」を、公然と非難した。
ーそしてその5月から6月にかけて、アメリカの交渉条件は、次第に3つのことにしぼられて来ていた。
1、日本は、武力による太平洋西南地域の征服をしないこと。
2、日本はアメリカがヒトラーに対する自衛のために、欧州の戦争に参加しても、三国同盟によってアメリカに宣戦しないことを保障する。
3、日本は中国からの撤兵を実行することについて、具体的な計画によりこれを保障する。
ーこういうアメリカの考え方は、先の松岡外交批判と同じ目に出された。アメリカ政府の反対修正案に、もっとも明らかに示されている。これはこの日米交渉の間で、はじめてのアメリカ政府の公式の修正案である。ハル国務長官は、十分なタイミングのよさを狙って、これを放ってきたのである。なぜならそのあくる日、6月22日、ドイツがソ連に攻め込む日であり、アメリカ政府はその日付けを知っていたからである。
ーそれは「松岡外交」をもう捨ててはどうかという、アメリカの問いかけであった。
・独ソ戦と日本
1941年6月22日、ドイツはソ連に侵攻した。それはヒトラーの最大の「夢」を現実のものとしようとする戦争のはじまりであった。
ーその日の夕方、松岡外相は天皇と会った。そして「独ソが開戦した今日、日本もドイツと協力して、ソ連を討つべきである。このためには南方は一時控えるほうがよいが、早晩、戦わなければならない。結局日本は、ソ連・米英を同時に敵として戦うことになる」と上奏した。天皇は非常に驚き、そのようなことは、首相とよく相談せよと命じた。もともと三国同盟と日ソ中立条約との間には、独ソが戦う場合を考えると、矛盾があった。
ー松岡は、独ソが戦う場合には日本は独自の判断をすると、日ソ中立条約審議のときは答えてきたが、現実の独ソ戦を迎えて彼は、三国同盟の立場に立ち対ソ攻撃を主張したのである。この頃、陸海軍を実際に動かす力を持つ幕僚層の間では、戦争はもう避けられない、もう避けるべきではない、という意見が次第に強力になっていた。その場合、どちらかといえば、陸軍は北方での戦い(ソ連との戦争)、海軍は南方での戦い(イギリスまたはアメリカとの戦争)を、それぞれ目標にしていた。
ーこうした中で7月2日、日本の行くべき道を決定する御前会議が開かれた。その会議では次のような「帝国国策遂行要網」が決定された。
1、支那事変(中国との戦争)は、あくまでもやりとおす。
2、日本の「自存自衛」のために、「南方進出の歩」を進める。
3、「情勢の推移」によっては「北方問題」を解決する。
ーこの決定は、陸軍と海軍の考え方を、1つの作文として混ぜ合わせただけのものである。しかもそのどちらについても、ドイツの勝利をあてにしての方針であった。「他人の褌で相撲をとる」という諺の見本みたいなものである。
大島駐独大使と新聞特派員たち:(笹本駿二)
ー次に、独ソ戦争の行方について、どの国にも劣らぬ深い関心を抱いていた日本はどうだったか?日本でも軍部が、短期決戦によるドイツの勝利を確信していたことは英米の場合と変わりがなかった。違っていたのは、日本にはチャーチルもルーズベルトもいなかったことである。つまり日本は’ドイツの勝利’をまるで既成事実のように全面的に承認していたことである。それは’パール・ハーバー奇襲’日米開戦という大冒険の決行されたのが12月7日という日だったことが、何よりよく説明している(この事実については後でもう一度考えることにする)。
ー日本の軍部、ことに陸軍が、’ドイツ軍短期勝利’を確信した最大の理由は、彼等がドイツ軍の西部戦線電撃の勝利に眩惑されたところにあったが、三国同盟の事実上の推進者だった陸軍にとっては、ドイツが強大であること、ドイツが勝つことは自分のプレスティジェ保持のためにも不可欠の必要だったのである。
ーその上に当時の駐独大使大島浩中将は日本政府の代表であると同時に、日本陸軍の代表でもあった(A級戦犯=終身刑=55年仮釈放+75年まで存命(満89歳))。骨の髄からの親独派で、ドイツのいうことはすべて無批判に信用する’というような人物だったため、この大使の送った独ソ戦の見透しがドイツの短期勝利を確信したものであることは当然であった。そしてこの報告が与えた影響も決して小さくはなかったにちがいない。大島中将はリッベントロップとは特別に親しく、またヒトラーの信頼も厚かった。
ー任国の最高首脳と親密な関係を結ぶということは、日本の外交官としては珍しいケースだったが、そういうドイツ最高首脳との特別関係のおかげで、大島中将は、対ソ攻撃についても早くから確かな情報を持っていたらしく、独ソ開戦を予測した報告がかなり前に東京に送られていたようである。
ーこのことと関連して興味深い話を、当時読売新聞ベルリン特派員だった嬉野満洲雄氏から聞いたことがある。それは次のような話である。
当時大島大使は週一回の新聞会見をやっていたが、独ソ開戦のしばらく前、独ソ戦の噂をめぐって、大島大使と在ベルリン日本新聞特派員たちとの間で議論が交わされたことがあった。このとき大島大使は「もし仮に独ソ戦争がはじまるようなことがあるとしたら、ドイツ軍は2,3ヶ月でソ連を片づけてしまうだろう」という楽観的な判断を述べたところ、特派員たちの中から異論が出て、議論が湧いた。例えば朝日新聞の守山特派員(南京入りした)などは、「日本軍が中国大陸の奥深く入り込んで、どうにもならぬ状態に陥ってるのと同じようなことにはならんでしょうかな」と短期決戦どころではない、泥沼に落ち込む危険さえあるのではないか、という見方で食い下がったところ、大島大使は腹立たしげに「君たち市井の新聞記者に何が分かるんだね」と飛んだ放言をしてしまったそうである。
ー当時のベルリン特派員は、守山、茂木(以上朝日)加藤、大島、佐倉(以上毎日)、嬉野、牧(以上読売)、江尻、佐藤(以上同盟通信)、といった顔ぶれだった。この中には大島式楽観論を肯定する人のいないわけではなかったが、多数はこの’ドイツ製楽観論’に批判的だったようである。大島大使は、日本新聞特派員たちの中から出た抵抗に非常な不満を感じていたらしく、「日本新聞特派員の中には反独的傾向のものがあるのは困ったことだ」と側近に洩らしていたそうである。
ーこの日本の駐独大使にとって、日本新聞特派員の資格は、公正な立場をとるということよりは、まず先に’親独独的である’ということだったようである。大島大使のこの態度は’外交官の偏向’の標本ともいうべきものだったが、それが極限まで拡大される出来事が間もなく起こった。
ー独ソ開戦と同時に、大島大使が「2,3ヶ月で戦争終結。ドイツの勝利は間違いなし」という判断を確信をもって外務省に報告したことは不思議ではない。ところが同じ頃、朝日の守山特派員は、「長期戦となる可能性を全く無視するわけには行かぬ」という意味の見透しを打電した。東京の外務省はこの記事に注目して、早速大島大使宛に「朝日ベルリン特電は、長期戦の可能性も無視できないという記事を送ってきている」という意味の電報を送った。
ーこれを読んで大島大使はカンカンに怒った。そして、外務省に対しては、「外務省は、駐独大使の判断と、市井の一記者の判断と、いずれを尊重するのか」とえらい剣幕で外務省に抗議したそうである。一方ベルリンでは、「こういう記事を送ることは反独行為である。このような反独的日本人特派員がドイツで活動することは好ましくない」と公言して、間接に守山特派員に圧力を加えてきた。これには朝日ベルリン支局はもちろん、その他各社支局も憤慨したが、結局は、当時、戦争下ヨーロッパ事情視察のためベルリンに滞在していた笠信太郎氏のとりなしで、話はそれ以上こじれずに片づいたそうである。大島大使の判断と守山特派員の見透しと、どちらが正しかったかは半年を出ずして明らかになった。
松岡の失脚と南部仏印侵攻:
それから半月後の1941年7月16日、相変わらず日米交渉の仕事をさぼり続けていた松岡外相に手を焼いた近衛首相は、彼を内閣から追い出すため、いったん総辞職した。そして2日後に、海軍大将豊田貞次郎(戦後A級戦犯として逮捕されたが、東京裁判では不起訴となった(公職追放のみ)。58年、ブラジルの鉄鋼開発合弁企業・日本ウジミナスの会長に就任。61年、腎臓癌で死去(享年76歳))を外相とする、第三次近衛内閣を発足させた。豊田外相は、アメリカとの戦争に反対していたといわれ、近衛首相の腹積もりとしては、新しい豊田外相と野村大使のコンビで、日米交渉を成立させる積もりだったという。
ーしかし現実には、日本は、戦争へのブレーキをかける努力を何ひとつしなかった。しないばかりか、政府は駐仏大使の加藤外松を通じて、フランス政府(祖国の大部分を失っていたヴィシー政府)に圧力をかけ、南部仏印(フランス領インドシナ)を含む、全仏印の日本軍による占領を認めさせた。フランスは、1940年6月にはドイツに降伏し、ドイツ軍占領地域と非占領地域に分けられていた。ときの首相ペタンは、ヴィシーに政府をおき、共和国憲法を廃止し、ドイツ軍と協力しながらの政治を行っていた。
ーこれに対して、ド・ゴールはイギリスに逃れ「自由フランス政府」の名でイギリスのBBC放送を通じてレジスタンス(抵抗)を呼びかけていた。このように、この頃フランスは自主性を失い「瀕死の重傷」の状態であった。加藤大使はその後、「フランスがかくも容易に日本の要求を受け入れた理由は、彼等が、日本の決意いかにかたく、日本の意志がいかに強いかを知っていたからである」と自慢した。だがそれは、外交史の学者田村幸策によって「瀕死の病人の枕もとから財布を奪って、成功を誇る外交官は、教養が高いとはいえない」と批判されている。
ー7月24日、フランスの屈服の3日後である。アメリカのラジオ放送は、日本の軍艦が、カムラン湾沖に現れ、12隻の輸送船が、海南島から南下しつつあると報じた。日本軍の上陸作戦は、7月28日からはじまった。そして8月はじめには、カムラン・サイゴンの2つの港を軍港として押さえ、南部仏印の中心都市であるサイゴン市を占領した。この侵攻は、東アジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール市をおとすための作戦準備であった
ーシンガポールをその南端に持つマライ半島への上陸作戦は、気象条件により12月が限度である。そのためには、南部仏印に飛行場をつくらなければならないが、それは10月の雨季が来る前にすまさなければならない。工事には、2~3ヶ月が必要である。だとすれと、7月下旬の侵攻は、ぎりぎりのタイム・リミットであった。そしてアメリカ政府は、このような南部仏印侵攻の意味をよく知っていた。ときの国務次官ウェルズは、こういっている。
ー「南部仏印侵攻は、最後の明白な危険信号であった。それはビルマ・マラヤにおける、イギリスの地位に対する直接の脅威である。また、フィリピンにおける、アメリカの極めて攻撃しやすい位置に対する、突撃とみなす他なかった。こうしてルーズベルト大統領は決意した。アメリカ政府は7月26日までに、アメリカにおける、日本人の資産を、すべて凍結するという命令を出した。このため、日本の商社が行うすべての取引は終わった。石油の買い付もできなくなった。
ーイギリス・オランダも、これに続いた。8月1日、アメリカの日本に対する石油の輸出は、全面的に禁止された。日本政府や日本の陸海軍指導者たちは、まさか石油輸出の全面的な禁止はあるまいとたかをくくっていた。しかしそのあまい見通しは、破れた。日本の政策は、相手の喉にナイフを突きつけておきながら、相手がそのままじっとしているのを期待するようなものであった。日本はまた一歩、大きな誤りに踏み込んで行った。
関演習・対ソ戦開始の準備:(家永三郎・「日本の歴史」)
ー1941
年7月5日、日本陸軍は、本格的な動員を決定し、蘆溝橋事件の4周年記念日にあたる7月7日、天皇はこれを許した。その頃関東軍は12個師団、朝鮮軍は2個師団を持っていたので、これに日本内地からの2個師団を加えて、16個師団とし、第一段の作戦にあてようと計画された。そして、第二段の作戦では、この16師団を中心に、さらに中国と日本内地から最低6個師団をあつめ、22個師団以上の大兵力を9月上旬にソ「満」国境に集中する予定であった。その総兵力は、約85万人であり、そのために約50万人が新しく召集された。
ーもともと、関東軍の兵力は、1940年末の数字で、約35万人であり、「関演習」のための動員で実際に関東軍の兵力となったのは、約70万人(馬・14万頭)であるというから、兵力は2倍となり、日本陸軍総兵力の約3分の1になったことになる(服部卓四郎「大東亜戦争全史」)。
ーまた、ノモンハン事件に懲りて充実を急いだ飛行機・戦車は、おなじ1940年末に、それぞれ720機・450輌に増えていたが、それでもなお、ソ連極東軍の持つ2800機・2700輌には、遠く及ばなかった(歴史学研究完全編「太平洋戦争史・4」)。このうち、日本軍にとってもっとも心配されたのは、沿海州を基地とする優秀なソ連爆撃機の本土空襲であった。陸軍参謀本部の見積もりでは、「夜ならば十数機、昼ならば20、30機の爆撃が数回で、東京は灰儘に帰すであろう」ということであった。
ー日本軍にとって、ソ連軍を破る道は一つしかなかった。それは、ドイツ軍の攻撃にソ連軍が敗れ、西部戦線に極東のソ連軍が送られて、その兵力が減ることを待ち、その隙をつくことであった。このことを、当時の日本陸軍の指導者は、熟れて落ちそうになった柿の実をとる意味で、「熟柿主義」と呼んでいた。しかし、期待した時期になっても、柿は熟してこなかった。極東のソ連軍の西方への輸送は、予想を下回り、特に、日本軍が攻めようとしていた東部正面と北部正面の兵力は、ほとんどそのままであった。
ーもっと大きな期待をよせていたソ連の国家としての敗北も、この年中には起りそうもなかった。日本陸軍の対ソ強硬派の中には、「渋柿」でもいいから叩いてとれ、という冒険的な戦いを主張する軍人もいた。しかし8月になると、今からでは、シベリアの冬に戦う危険を犯す。それに、アメリカの石油輸出禁止のため、長期の日ソ戦争はやれないという問題が出され、8月9日、ついに、参謀本部は、1941年中には、対ソ武力行使はしないという決定をした。
ーしかし、その後も、関東軍の兵力の増大は続けられ、10月になって、モスクワ市外までドイツ軍に攻め込まれたソ連軍は、喉から手が出るほど欲しい極東の軍隊を、西部戦線に回すことが出来なかった。日ソ中立条約は、すでにこのとき、関東軍の泥靴で、踏みにじられていたのである。

東条内閣の登場・開戦前夜:
ー南部仏印侵攻の後、アメリカが、日本との経済的な繋がりを断ち切ったことは、陸海軍の指導者の間に、米英との戦争に踏み切るべきだという意見を強める結果になった。そうした中で、1941年9月6日、対ソ戦争中止の後、国家の進路を決める、御前会議が開かれた。この会議で決定された「帝国国策遂行要領」は、先の7月2日の決定のうちの、南方での戦争(対アメリカ)の方針だけを中心にしたもので、次の三点を決めた。
1、日本は、「自存自衛」のために、対アメリカ(対イギリス・オランダ)の戦争を辞さないという決意の下に、10月下旬を目標として、戦争の準備を完了する。
2、日本は、それに平行して、米英との交渉を続ける。
3、その外交交渉により、10月上旬になっても、日本の要求を見通すみこみがないときには、開戦を決意する。また、南方以外については、米ソの「対日連合戦線」を作らせないように労力する。
この会議の席上、天皇は枢密院議長の原嘉道が、「これでは、外交より戦争に重点が置かれているように・・・」と発言したのに続いて、突然発言し、「今の質問はもっともである」と述べた。その後「四方の海、みなはらからと思う世に、など波風のたちさわぐらむ」という、祖父の明治天皇の歌を読み上げ、この考えが、自分自身の考え方であると断言した。しばらく誰も発言しなかったが、やがて、陸海軍を代表して、軍令部総長である海軍大将永野修身が、「軍としても、外交を主とするという考え方に異存はない」と延べ、会議は終了した。
ーしかし、結果的には、この9・6決定は、日本陸海軍に対する’GO’の青信号であった。この後、陸海軍は、太平洋と東南アジアでの戦争の計画と訓練に、全力を注ぎはじめる。近衛首相は、この前後、ルーズベルト大統領と直接話し合い、日米交渉を実らせたいと決意していたようである。しかし、その話し合いの最大の問題は、中国大陸から、日本軍の退くことを求めるアメリカの考え方であった。この点について、近衛首相らは、「名を捨てて実をとる」方式、つまり、アメリカの要求を入れて中国から兵を撤退させ、後で共産軍を防ぐといった目的で、日本軍を駐留させればいいという主張をした。
ーしかし、陸軍を代表する陸軍大臣の東条英機は、どうしても納得しなかった。10月12日、東京荻窪の荻外荘という首相私邸で開かれた4者会談(近衛首相・東条陸相・及川海相・豊田外相)でも、4時間の話し合いにも関わらず、「駐留問題だけは、陸軍の生命であって、絶対に譲れない」という、東条陸相の考えを変えることはできなかった。
ー10月16日、近衛内閣は総辞職した。近衛首相の辞表には、陸軍大臣の開戦論を、説き伏せられなかったことが、その理由として、はっきり書かれていた。重臣会議の席上で、内大臣の木戸幸一(木戸孝允の孫)は、後任の首相として、問題の人物である東条陸相を強く押した。それが会議の結論となった。特に反対論はなかった。天皇はこの頃、一方では確かに、日米交渉の成立に強い期待をかけていたが、もう一方では、徐々に開戦論に傾きかけていた。
ーことに、陸軍大臣として、実力のあった東条中将に対して、これまでの陸軍大臣とは違うという、信頼を持ちはじめていた。国家の最上層部に、少しずつ、戦争への最後の決意が結晶しはじめていた。こうして10月18日、新しく陸軍大将となった東条英機を首相とする内閣が誕生した。この東条内閣が、アメリカとの戦争を始めた内閣であることは、あまりにも有名な事実である。

実らなかった日米交渉・ハル・ノート:
ー東条内閣の誕生は、アメリカに対して、大きなショックを与えた。東条首相は、天皇と木戸内大臣から、9・6の決定は、白紙に返してもいいから、日米交渉を成立させるようにと指示されていた。しかし、逆に、首相自身は、中国から絶対に兵を引かないという自分の考えが、天皇の支持を得たのだと考えていた。アメリカ政府は、この内閣交代をみて「日米交渉には、もはやみこみがない」と判断したという。
ー現にその直後、日本沿岸を走っている全てのアメリカ船に、「ただちに友好国の港に入り、日本軍の攻撃を避けよ」という、暗号電信が発信されていた。1941年11月1日、政府と陸海軍の会議は、日米交渉の打ち切りの時間を、12月1日午前零時と決めた。しかしこの会議において、永野軍令部総長は、海軍の代弁者として、「海軍は、開戦2年目までは勝つ見込みがあるが、3年目からは予測できない」と述べ、海軍に自信がないことを明らかにしている。
ー東条内閣は、外務大臣に、ベテランの外交官である、前駐ソ大使である東郷茂徳をすえた。そして野村大使の他に来栖三郎大使をアメリカに送って、日米交渉を続けさせた。しかしこのときアメリカ政府は、もう、日本政府がすることを、戦争までの時間稼ぎとしかみていなかった。11月20日、野村・来栖両大使は、日本政府の最終案ともいうべき案を、ハル国務長官に提出した。
ーそこでは、
1、日本は、仏印以外の東南アジアと南太平洋地域には、武力進出しない。
2、アメリカは、日米の経済関係を、1941年7月25日以前に戻す。
3、アメリカは国民政府への援助を打ち切り、日本政府と汪兆銘政権との平和交渉を妨げない。
といったことが盛り込まれていた。
ー1941年11月26日、ハル国務長官は、野村・来栖両大使を呼び、アメリカ政府の10カ条の提案と、その説明書を手渡した。
1、太平洋に利害を持つ、米・英・日・ソ・中など7カ国の間に、多辺的な「不侵略条約」を結ぶ。
2、米・英・日・中・蘭など6カ国の間に、仏印の領土を守る協定を結ぶ。
3、中国では、国民政府(蒋介石政権)しか支持しない。
4、日米両国は、財産の凍結をやめる。
5、日本は中国と仏印から撤兵する。
このハルノートは、11月27日午後、ワシントンの日本大使館にいる陸軍軍人の手で、暗号に組まれ、東京の参謀本部に打電されていた。その電報によれば、4か条にまとめられていたその要点は、
1、4原則の無条件承認(4原則とは、「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、全ての国の平等な原則の尊重、太平洋の現状維持」)
2、中国及び仏印からのからの全面撤兵。
3、汪兆銘政権と満州の否認。
4、日独伊三国同盟を空文にする。
であった。これは、参謀本部の軍人たちに、大きなショックを与えた。
「これは、もはや交渉とはいえない」誰かが叫んだ。「アメリカの対日宣戦布告だ!」と。
ー実はこのハル・ノートの出る前に、日本に対して、もっと緩やかな妥協案が国務省の内部で作成されていた。しかし中国の国民政府の蒋介石総統は、これに強硬に反対し、イギリスのチャーチル首相もこの反対を支持
した。このため中国の日本に対する抵抗が崩れることを恐れたアメリカは、この妥協案を引っこめ、強硬なハル・ノートの提出となったのである。現に野村大使は、11月26日発信の大至急電報の中で、アメリカのひどい条件の後ろには、イギリス・オランダと並んで、中国の策略があるといっている。
ーハル・ノートは、開戦やむを得ずという空気を極めて濃いものにした。天皇は11月29日、重臣会議を開き、前に首相であった8人に意見を聞いた。8人のうち6人から、日米戦争に余り乗り気でない意見が出された。天皇はこのとき、もう戦争を決意していたようだが、出来れば日米戦争を避けたいという、海軍の気持ちに最後の不安を持った。そこで11月30日、海軍大臣(海軍大将嶋田繁太郎→A級戦犯=終身刑)と軍令部総長(海軍大将永野修身→A級戦犯容疑者=開廷中に病死)を呼び、海軍の戦争への見通しを確かめた。
ーいずれも相当の確信があると答えた。その日の夕方、天皇は木戸内大臣を呼び「予定の通り進めるよう首相に伝えよ」と命令した。明けて12月1日午後2時から、御前会議が開かれ、日米戦争の開始が決定した。この会議の席上、東条首相は「日本を経済的・軍事的に圧迫するアメリカ・イギリス・オランダに対して、開戦はやむをえない」と発言した。続いて東郷外相は「ハル・ノートを受け入れれば、日本の国際的地位は、満州事変以前よりもさらに低下する」と説明した。
ー天皇はまったく発言せず、「開戦」の決定は、何の反対論もなしに行われた。満州事変以前の日本になってもよいから、戦争はやらないようにしようという意見は、日本の指導者たちの口からは、ついに出なかった。こうして日本の運命は決められた。シーザーの言葉を借りれば「サイコロは投げられた」。12月2日、参謀総長の陸軍大将杉山元は、南方にいる第一線部隊に対して、「ヒノデ ハ ヤマガタトス」という内容の暗号電報を打った。また、聯合艦隊司令長官の山本五十六大将は、北太平洋にいるハワイ攻撃隊に対して「新高山ノボレ1208」という内容の暗号電報を打った。それはいずれとも、開戦の日は、12月8日であることを知らせるものであった。
日米開戦をブダペストにて:(笹本駿二)
1941年12月7日の午後3時頃、ハンガリー・ニュース通信社のM君という記者がこのニュースを報せてくれた。公使館には、そのしばらく前に、日米開戦を示す報せがきていたので私にとってこのニュースは’寝耳に水’ではなかった。それにしても日本が、大戦争に飛び込んだという事実がどうしても吞み込めない気持ちが強く、激しいショックを受けたせいもあって、先のことなどゆっくり考える余裕はなかった。
ー翌日公使館に、ブダペスト在住の日本人全部が集まり、公使のOさんが挨拶した。Oさんは途中で泣きじゃくってしまい、それにつられて参会者の半ばも涙を流した。戦争をはじめたからには勝たなくては、という単純な論理だけがはっきりしていて、それ以外のことは考えることを許さない国家の倫理が、1万キロも離れた外国にある日本人サークルを支配する、ということに誰も疑念を抱かなかった。参会者一同は、Oさんの音頭で万歳を唱え涙をぬぐって大声を出した。誰もが(軍事専門の陸軍武官も含めて)明快な見透しを持っていたわけではなかったが、「勝たなければならないのだ」という気持ちは強かった。日本でもこれは同じだったのであろう。
ーさて、日米開戦がヨーロッパに大きなショックを与えたことはいうまでもない。このニュースに一番驚いたのがドイツであることももちろんである。新しい敵アメリカの登場、世界最強の国を敵に回す切っ掛けを作った真珠湾のニュースに、ドイツが、上はヒトラーから下は国民一般に至るまで、少しもたじろがなかったといえば偽りであろう。
ー「日本はえらいことをやってくれた」と迷惑を感じたのがドイツ人の気持ちだった。従って、ドイツは即時対米宣戦をやるべきかどうか、についてはドイツ指導層の間でも議論が分かれた。例えばリッペンドロップ外相は、「日本は攻撃を受けずに自分の方から攻撃を仕掛けたのだから、ドイツは自動的に対米戦争に入る条約上の義務はない」という立場から即時参戦には反対を唱えた。ところがヒトラーは、12月11日対米宣戦を布告した。アメリカが如何に強大な国であるかということを、この偏見で固まった独裁者はまったく知らなかったのである。
ーもっとも、12月11日という時点では、真珠湾、マレー沖(英主力艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパレス撃沈)における日本軍の大戦果がはっきりしていたし、他方東部戦線では、ソ連軍の反撃を食ってドイツ軍は総崩れの一歩手前に追い込まれていた、という軍事情勢がヒトラーに影響したことも否めない。一方イギリスでは、チャーチルが真珠湾の報を聞いて「これでわれわれは戦争に勝った」と喜びの声をあげたそうである。
ーイギリスが幾ら訴えても実現の難しかった’アメリカの参戦’を、日本がやってくれたのだから、チャーチルが喜んだのは無理もなかった。最後に私の住んでいたブタペストの反応ぶりを紹介しておこう。
ーハンガリーは古くからの親日国である。’マジャール人はアジアに起源する’というのがこの国の親日の土台である。ハンガリーが真珠湾奇襲の成功に示した喜びは、他の枢軸諸国には見られぬ異常なものがあった。巷では愛国行進曲がはやり、若者たちの口笛がこのメロディを奏でるのだった。日本の陸軍武官は、ブダペスト社交界のスターにされてしまった。「枢軸側の最後の勝利をもたらすのは、ドイツではなくて日本である」という神話がパンガリーでは信じられていたのである。
ー「ヨーロッパの真ん中に、たったひとりいるアジア民族」という感傷から、ハンガリー人の見る日本はバラ色に染上げられていたというべきであろう。その頃の私に対して、「朝日新聞で働くように」という話が東京で進み、春からはバルカン特派員として仕事を始めることになっていた・・・
(1942年の東部戦線にて)このルボフ(ロシア・クルスク近郊)の町で、私は奇妙なものを発見して驚いた。町の広場の一角に、太平洋戦争の模様を説明する大きな地図がはり出され、その傍に、’日本の大戦果’がでかでかと広告されているである。東部戦線の最前線近くで、何故こんなものが必要なのだろうか、これはなんとも説明のつかぬ奇妙なことだった。
泥沼の日中戦争と対米英開戦:(家永三郎・「日本の歴史」)
ー「大東亜戦争」は「ABCD包囲陣」によって追いつめられた日本が余儀なく「自存自衛」のために開戦せざる得なかったという見解が戦後も広く流布しており、国家の公的見解さえなっていることは、1966(昭和41)年6月2日の東京地方裁判所刑事法廷での公判で行われた弁護側証人に対する検察官の反対尋問によってもうかがうことができる。連記録によって該当部分を出する。
 検察官:大東亜戦争が起った最も大きな原因は何だというようにお考えですか。
 証人家永三郎:日本の中国侵略です。
 検察官:それはいわゆるABCと言われるアメリカその他の国が狭い日本を包囲してきたので、これでは日本はどうもならん。このままでは自滅するより仕様がないということも大きいな原因になっているのではないですか。
このような俗論がいかに歴史的事実に反するものであるかを、開戦決定にいたる経過を概観することによって、明らかにしていきたい。なお、戦争開始の理由のほかに、開戦と戦争継続中の国際法違反の責任を問われてもやむを得ない事実があるので、それについても論ずることとする。またソ連も連合国に属しているが、米・英・蘭などの戦争とまったく事情を異にするので、これは項を改めて別に検討することにしたい。
ー長期にわたる複雑な経過に深入りすることを避け、対米英開戦か避戦かの選択に当たって開戦を決断した核心には何があったかを、最終段階に絞って証拠により考えてみると、1941(昭和16)年7月から8月にかけての米・英・蘭の対日戦略物資輸出禁止・日本資産凍結措置後の9月6日の御前会議で、10月下旬を目途として戦争準備を完遂すること、これと並行して外交により要求貫徹につとめること、その場合の「帝国ノ達成スベキ最小限度ノ要求事項」などが決定されたが、「対米(英)交渉ニ於テ帝国二於テ帝国ノ達成スベキ最小限度ノ要求事項」として、「帝国ノ日支基本条約及日満支三国共同宣言二準拠シ事変ヲ解決セントスル企図ヲ妨害セザルコト」「米英ハ帝国ノ所要物資獲得二協力スルコト」などが、「帝国ノ約諸シ得ル限度」として、上の「要求ガ応諸セラルル二於テハ、
1、帝国ハ仏印ヲ基地トシテ支那ヲ除ク近隣地域二武力進出ヲナサザルコト。
2、帝国ハ公正ナル極東平和確立後仏領印度支那ヨリ撤兵スル用意アルコト。
などがあげられていた。右文中の「支」とはすべて汪兆銘を首席とする傀儡政権を指し、要するに、米英は日本の「満州国」・汪政権維持による中国支配の既成事実を承諾せよ、抗日中国を屈服させる戦争遂行を妨害するな、そのために必要な戦略物資を供給せよ、そうするならばフランス領インドシナからは撤兵してもよい、というのであって、中国侵略政策継続が最低の妥協条件となっていたのである。
ー第三次近衛内閣が倒れ、東条内閣が成立したのち、1941(昭和16)年9月6日御前会議の開戦方向への決定を一応白紙還元としたものの、11月1日から2日にかけて14時間を超える大本営政府連絡会議での結論とこれを正式に国家意志として決定した同月5日の御前会議において「此ノ際米英蘭戦争ヲ決意シ」「武力発動ノ時期ヲ12月初頭ト定メ、陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」ることを、「対米交渉ガ12月1日午前零時迄二成功セバ武力発動中止ス」という停止条件付で確認し、ほぼ実質的な開戦方針が固まったのである。
ー対米交渉はその後も続けられたが、11月26日付のアメリカから渡された国務長官ハルの対案、いわゆるハル・ノートに、「日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スベシ」「合衆国政府及日本国政府ハ臨時二首都ヲ重慶二置ケル中華民国国民政府以外ノ支那二於ケル如何ナル政府若シクハ政権ヲモ軍事的、経済的二支持セザルベシ」という条項の含まれているのに接して政府ももはや妥協の余地がないと判断し、12月1日の御前会議で「帝国ハ米英蘭ニ対シテ開戦ス」と決定され、12月6日付で外務大臣東郷茂徳により日米交渉打ち切りの通告を指定した日時に米国務長官に手交することとし(交渉打ち切りと開戦をめぐる手続き実施の問題については後に述べる」、12月8日(日本時間)払暁日本軍の対米英武力攻撃が開始されたのである。
ー日本では、戦後までハル・ノートは最後通牒同様のものであり、日本を戦争に追い込ませるアメリカの意図によるものという見方が流布しているが、アメリカでは、ハル・ノート提出に先立ち、日米交渉成立の見込みのほとんどないことを前提としながら、日中直接交渉をそくし日中協定成立まで、アメリカは中国への軍需品援助を停止し、日本側は中国・仏印への兵力増強をおこなわない、などを骨子とする、ハル・ノートよりはるかに緩和された暫定協定案の提示をも断念していなかったのであった。
ー暫定協定案が提示されず、ハル・ノートが渡されたのは、もっぱら中国の強い要望によるものであることが、福田茂夫執筆の「太平洋戦争への道7」第2編「アメリカの対日参戦」に説かれている。
「ハルに、対日暫定協定案提示にたいする英・蘭・中の回答がもたらされた。英政府は答えた。「ハルが最善の方法というなら支持してもいい。しかし要求を高く代償を低くするべきであり、また石油輸出再開は疑問である」オランダは「軍事潜在力を増大させない限度の石油供給」を条件として賛成した。中国大使は蒋介石の苦情「アメリカに中国を犠牲にして対日宥和政策をとろうとしている様子がみられる。もし対日経済封鎖が緩和されれば中国国民と軍隊の抵抗精神は崩れ去ってしまうであろう」と伝え、それを大統領と閣僚に伝えるよう希望した。さらに強い調子の蒋介石の伝言が宋子文からノックスとスチムソンに送られ、また蒋介石の政治顧問ラティモアからもルーズベルトの一秘書に「蒋介石の見解を至急大統領に伝えるよう」打算してきた。その夜についたチャーチルのルーズベルト宛回答も、英・駐米大使が伝えた公式回答を確認した上で、「蒋介石との関係を憂慮」していることを強調したものであった」。
ー右の記述によって、ハル・ノートが、中国からの直接の強い妥協反対とイギリスの中国の立場への顧慮とを聴取した結果発せられたものであることが理解でき、アメリカが妥協を避けたのも、中国の日本侵略に対する固い抵抗の決意に動かされたためであることが判明する。要するに、日米いずれの側からみても、交渉の最終のつめが、日本の中国侵略問題を核心として進められたことがうかがわれ、日本の対米開戦が中国侵略戦争の延長線上にあるという見方の間違いないことが判明されたと思う。
ー中国からの全面撤兵にもっとも強硬に反対したのは陸軍であったけれど、東条内閣においてハル・ノート接受まで戦争回避にもっとも力を注いだ外務大臣東郷茂徳の戦後の回想記「時代の一面」(1952年)には、
「支那との交渉成立の上は仏印より撤兵するにも連絡会議でも大した異存はなかったが、支那の撤兵につきては果然大問題となった。参謀本部側では駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を喪失せしむると共に、軍隊の士気を泪喪せしむるから到底期限付撤兵は承諾し難しと強硬なる反対があり、東条首相本問題は慎重考慮の要ありて軽々に撤兵に応ずるを得ずと述べて暗も統帥部の意見を支持したが、鈴木国務相も同様の態度を持した。又嶋田海相も最近自分が支那方面艦隊司令官として見聞きした所では日本軍隊の撤退を見る場合には日本人企業の維持は勿論、安全も期し難しとして駐兵に賛成し、兼ねて如何なる場合にも海南島の撤兵には応じ難しと云ひ、予て緩和派であった賀屋蔵相すら北支開発株式会社総裁時代の経験を持ち出して、駐兵は在支企業に必要であるとのことで、自分は孤立無援の状態に陥った。
しかし本問題は近衛第三次内閣の倒潰の原因であった丈け軍隊より強硬なる主張が出て来るのは覚悟していたが、自分も入閣当時より若し期限付駐兵の意見が拒否せらる場合には断然辞職するとの決意を固めていたので、前記の反対に対しては他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと、従って期限付撤兵が士気に関するとの思想の誤てること、居留民の保護は究極的には軍隊の駐在により困難となること、尚日本が隣国支那に対し長きに渉り兵力を以て圧迫を加ふることは東洋永遠の平和を維持する所以に非ること、並に軍隊の力をからざれば維持出来ざるが如き企業は採算上より見るも之を提案して可なること等の理由を挙げて激論数刻に渉り尽くる所なき状況であった」
と記されており、陸軍ばかりではなく、企画院総裁・海軍大臣・大蔵大臣までもが無期限駐兵を主張していたということであるから、中国からの全面撤兵か駐兵維持かが対米和戦の分岐点であったことは、いっそう明確といえよう。
米国その他の欧米連合諸国(ソ連をのぞく)に対する戦争責任:(家永三郎「戦争責任」)
ー対米交渉の決裂は、この他にも日独伊三国軍事同盟その他の問題がからんでいて、中国をはじめとするアジア諸邦諸民族との戦争は侵略戦争であるけれども、アメリカ・イギリス・オランダなどの欧米連合諸国との戦争は異なる性格を持ち、評価もおのずから別であるとの見解がある。小林勇「情 荘主人」によれば、岩波茂雄は中国との戦争には協力を拒んだが、米英との開戦後は「米英をやっつけるなら僕も賛成だ」と公言したという。美濃部達吉も軍の中国への武力圧迫を非難していながら、丸山真男氏から私が聴取したところによると、マレー沖海戦で日本軍がイギリスの2戦艦を撃沈したニュースを聞いたときの喜びようは大変なものであったとのことであるから、岩波と同じような考え方に立っていたと思われる。
ー上引岩波の心境を「アジア主義の展望」(「現代日本思想大系9」解説)に引用した竹内好は、1959年(昭和34)年「近代日本思想史講座」大七巻に寄稿した「近代の超克」において、「戦争から対中国(及び対アジア)侵略戦争の側面を取り出して、その側面、あるいは部分についてだけ責任を負おうという」亀井勝一郎の「考え方」(と竹内が理解する見解)をあげ、次のように述べている。
 「私はこの点にだけついていえば、亀井の考え方を支持したい。大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない。日本はアメリカやイギリスを侵略しようと意図したのではなかった。オランダから植民地を奪ったが、オランダ本国を奪おうとしたのではなかった」。
ー同じ事を1960年刊行の「現代の発見」第三巻に寄稿した「戦争責任について」では、一層はっきりと、「日本の行った戦争の性格を、侵略戦争であって同時に帝国主義対帝国主義の戦争である」と「いう仮説を立て」、「したがって、侵略戦争の側面に関しては日本人は責任があるが、対帝国主義戦争の側面に関しては、日本人だけが一方的に責任を負ういわれはない」と表現している。
ーこれに対し、「時代」1971年11月号所載「日中全面戦争のころ=2」において、中西功は竹内見解に次のとおり批判を加えた。
 「もちろん、対日戦争は、中国にとっては民族解放戦争であり、米英にとっては、多分に自己の帝国主義的権益を守るための戦争であった(しかし、一面では反ファシズム・反侵略的側面を持っていた)。しかし、戦争をはじめた日本にとっては、その戦争はすべて全体として帝国主義的侵略戦争であった。日本の戦争の目的は中国を含む全アジア・太平洋の占領と収奪であったが、そのために、それに対抗したソ・中・米英及びアジア諸民族と戦ったのであり、その戦争の性質は誰と戦ったかではなく、根本的にはその戦争の目的、つまりアジア・太平洋の侵略目的によって規定されていたのである。そして、それは日本帝国主義の全体制から生まれたものであった。その目的を相手国によって分割することはできない」。
 私もまた竹内の見解には賛成できない。日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対米英蘭戦争が発生したのであり、中国との戦争と対米英蘭戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできないのである。対米開戦決意が最終的にどのような理由に基づいて決定されたかの経過を見れば、そのことは明白であろう。
ー1931(昭和6)年の日本の中国侵略開始以来、アメリカ・イギリスなどは日本の行動を非難していたが、それにも関らず日本が中国との戦争を遂行するために欠くことのできない石油・鉄などの戦略物資は、これらの諸国が日本に提供していたのである。文部省は、中国が日本軍に対し「ねばり強く抗戦を続けた裏には、英・米・仏・ソの中国に対する活発な援助が行われていたという事実等、当時の日華両国をめぐる列強の動き(いわゆる「援蒋ルート」など)について」ふれていないことを、私の教科書を検定で不合格とした理由のひとつにあげている(第一次教科書訴訟第一審国側九準備書簡)が、交戦国への第三国の援助を書くことが是非とも必要であるというならば、日本が米・英・蘭などから戦略物資の供給を受けていたため中国との戦争を続けることのできた事実をも書かなければ、一方的となるではないか。
ーそのように、はじめは日本の中国侵略を実質的に援助していた諸国も、1941(昭和16)年以来、日本への援助を停止し、日本の中国侵略中止を要求し、日本はこれを拒否し、武力によりオランダ領インドネシアその他の東南アジア諸地域を占領し戦略物資を確保するために開戦を決行したのであるから、中国との戦争と米英などとの戦争は一連不可分の戦争であったと見るほかない。

大東亜戦争全般と日本軍:
ー中国からの全面撤兵か駐兵維持かが対米和戦の分岐点であったことは、明確といえよう。対米交渉の決裂は、この他にも日独伊三国軍事同盟その他の問題がからんでいて、中国問題が唯一の原因とはいえないにせよ、少なくともこれが核心であったことは、否定し難い。
ー要するに、中国を侵略して作った「満州国」と汪兆銘を載く「国民政府」という二つの傀儡政権をあくまで維持し、さらに永久に日本軍を中国領域内に駐在させ、これがため必要な石油・鉄などの戦略物資を米・蘭などから供給することの約束を与えるのでなければ、中国との戦いで生じた多大の犠牲を無にするばかりでなく、ひいては朝鮮の植民地支配も困難になるというのが、アメリカとの妥協を拒み戦争への道を選んだ根本の理由であるから、中国との戦争が侵略戦争としての評価を免れないかぎり、対米英蘭戦争を「自存自衛」のために余儀なくされた戦争として正当化することもできないし、米・英・蘭が帝国主義国家であり日本がその本国に侵入したわけではなくその植民地を奪おうとしただけであるから、これらの国々との戦争は中国との戦争とはまったく別質の対帝国主義戦争として評価を異にすることもまたできないとする他なかろう。
ー帝国主義国に対する戦争であろうとも、不戦条約違反の責任は免れない。不戦条約の武力行使禁止には自衛権の行使は含まれないというアメリカの留保があり、対米英戦の詔書では「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為然起ツテ一切ノ障礎ヲ破砕スルノ外ナリキリ」とあって対米英開戦を自衛権の行使と解する余地はない。もっとも自衛権の行使はその必要を認める国家の判断に任せられた問題であるとの見解もあり、極東国際軍事裁判所判決でのバール少数意見では、そのような見解が示されているけれど、田岡良一がこれを批判して
「行使された自衛権が、正当な限界を超えていなかったかどうかは、社会の判断に付せられねばならないことである。(中略)自衛権の行使は、完全に国家の自由には任せられていないのである」
と論じている(「共同研究バール判決書」)のに賛成したい。
無謀な開戦決定と終戦遅延:
ー米英との開戦にあたっては、厳しい対立があったことは第1節二で述べたとおりである。そこでは、中国侵略中止(全面撤兵)をめぐっての国家意志決定の経緯を見てきたが、ここでは、国民に対する責任という角度から、戦争の見通しについて開戦決定までにどのような論議がなされたかを検討しなければならない。
ー第三次近衛文麿内閣のとき、首相近衛は対米英戦争に勝算のないことを考え、陸相東条英機と対立した。敗戦後の近衛の手記によれば、撤兵を説く近衛に対し、東条は「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」といい、近衛は「個人としてはさういふ場合も一生に一度や二度はあるかも知れないが、二千六百年の団体と国民のことを考へるならば、責任のある地位にあるものとして出来ることではない」旨答えたことがあったという。
ー結局「支那事変ノ未ダ解決セザル現在二於テ更二前途ノ透見スベカラザル大戦争二突入スルガ如キハ」到底忍び得ないという理由で、東条を説得できなかった近衛は内閣を投げ出し、東条が代わって内閣を組織した。「杉山メモ」所収の1日の連絡会議の議事録には、次のような意見が記録されている。
大蔵大臣:南方作戦開始ノ機ハ我二在リトスルモ、決戦ノ機ハ依然米国ノ掌中二在リ。(中略)勿論南方戦略要点ハ、我ガ有二帰シアルモ、二年後即チ米国ガ決戦ヲ挑ム時期二至レバ、我ハ軍需他二於テ幾多困難ヲ生ズル二至ルベク、確算ナキモノノ如シ。
軍令部総長:(中略)日米戦争ノ見透二就テハ、(中略)若シ敵ガ短期戦ヲ企図スル場合ハ、我ノ最モ希望スル所二シテ、之ヲ遊撃シ勝算我二在リト確信ス。然レドモ之以テ戦争ノ決トハナラザルべク、戦争ハ十中八、九長期戦トナルベシ。即チ
第一段 二年間 長期戦態勢ノ基礎ヲ確立シ 此間ハ確算アリ。
第二段 三年以降ハ海軍勢力ノ保持増進、有形無形ノ国家総力 世界情勢ノ推移二依リ決セラルルモノニシテ予断許サズ。
(中略)以上ノ次第ニテ総理ハ左ノ断定ヲ一応下セリ。二年ハ確実ナリ。三年以降ハ不明ナリ。
統帥部ガ責任ヲ以テ言明シ限度ハ、以上ノ通リト了解ス。
ー同月4日の軍事参議会において軍事参議官朝香宮鳩彦王の「戦局ハ長期戦二陥ル公算アリトノ判断赤首背シ得ル所、此ノ如キハ我弱点トスル所二シテ、特二資源二乏シキ我レトシテ大イ二考慮ヲ要スベキ点ナリト思考ス」という質問に対しても、軍令部総長は、
長期戦二於イテハ、各種ノ原因ヨリ予見シ難キ要素ヲ包含ス。先ヅ米二比シ我レハ諸種ノ材料、資源少ク、工業力二於テモ格段ノ差アリ。且開戦後二於ケル米ノ兵力補備二ツキテハ、今日以上ノ能率ヲ現ハスベキヲ予見シ得べク、又海上交通ノ保護、攻撃等ノ点二関シテノミ考フルモ、数年後ノ長期二瓦リ確信ヲ以テ、戦局ノ帰結二関シ述ブルコト困難ナリ。況ンヤ此間二起ルベキ世界状勢ノ変化逆賭シ難キモノアルオヤ。日本海軍トシテハ、開戦二ヵ年ノ間ハ必勝ノ確信ヲ有スルモ、遺憾ナガラ各種不明ノ原因ヲ含ム将来ノ長期二瓦ル戦局二ツキテハ予見シ得ず。
と答え、軍事参議官東久邇宮稔彦王の質問に対して陸軍大臣は「戦争ノ短期終結ハ希望スル所二シテ、種々考慮スル所アルモ名案ナシ。敵ノ死命ヲ制スル手段ナキヲ遺憾トス」るを認める答えをしながらも、もしこのまま時間を徒過していれば、「油ハ不足スベシ、又米ノ国力戦力ハ整ヒ、殊二航空勢力ハ著シク我レト縣絶シ、南方要地ハ難攻不落ノ状態トナリ」、「対日経済封鎖ハ益々強化セラレベク、我レハ何等施スベキモノナシ。此状態ハ重慶、ソ聯二反映スベシ。我占拠シアル支那ノ地域、満州ノ動向ハ如何、更二台湾、朝鮮ノ向背如何。此ノ如キハ徒ラニ共手シテ昔日ノ小日本二還元セントスルモノニシテ、光輝アル二千六百年ノ歴史ヲ汚スモノト請ハザルべカラズ。以上二依リ、吾人ハ二年後ノ見透シ不明ナルガ為無為二シテ自滅二終ランヨリ、難局ヲ打開シテ将来ノ光明ヲ求メント欲スルモノナリ」と答えている。
ーこれらの質問に対する前記各答弁に示されるように、3年以後の勝算が全然立たないけれども、結局陸相が近衛内閣当時首相に向って言ったとおりに「清水の舞台から目をつぶつて飛び降りる」と同然の気持ちであえて開戦に決定したに他ならないゆえんが明確にうかがわれるであろう。


1、↑1941年4月12日モスクワ、クレムリン宮殿内での日ソ中立条約調印。左からモロトフ外相・松岡外相・スターリン首相・ヴィシンスキー副首相の隣りに加瀬俊一秘書官(自称「醜い韓国人」の父)
2、松岡は東条と並んでもっとも世界に名前と顔が知られた日本の政治家であった。東京裁判でA級戦犯容疑者に指名され、「同盟」「開戦」に重要な役割を果たした中心人物。しかしすでに結核を病んでおり裁判途中に死んだ。私が「東京裁判」を見る限りも卑屈で「阿諛」的な態度が気に掛かった(バスから降りるときもおべっか笑顔+米兵たちにペコペコしている)。松岡いわく日本を「侵略者」の汚名から救うのが最後の役目、と自負していたらしい。ただ、「罪状認否」の際も一人だけ「英語」で答えしどろもどろ。思えば1933年の国際連盟総会で全権代表としてさっそうと居丈高に「脱退」を宣言したとき。そのときと比べるとなんともはや。’元外相’として最後に「外国語」でカッコつけたかったのか。それとも「こびうり」だったのか。不明です。サム







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