日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

~♪敵の屍と共に寝て泥水~♪「謙虚イズム」やってんじゃねえ?Japanese for divine wind・神風特攻隊の起源・フィリピン決戦と敗戦・戦争責任

The Kamikaze (神風, Japanese for divine wind), were two winds or storms that are said to have saved Japan from two Mongol fleets under Kublai Khan. These fleets attacked Japan in 1274 and again in 1281. Due to growth of Zen Buddhism among Samurai at the time, these were the first events where the typhoons were described as "divine wind" as much by their timing as by their force. Since Man'yōshū, the word kamikaze has been used as a Makurakotoba of waka introducing Ise Grand Shrine.
~♪無念の歯噛み堪えつつ~待ちに待ちたる決戦ぞ~今こそ敵を屠らんと奮い立ちたる若桜~♪
神風特別攻撃隊:(家永三郎「日本の歴史」):
(1)、1944(昭和19)年10月19日の夕方、フィリピンのルソン島にあった海軍戦闘機隊の基地の指揮所にいた第一航空艦隊首席参謀の猪口力平海軍大佐(戦後、83年まで存命+兄は猪口敏平海軍少将→戦艦「武蔵」艦長。44年、沈没した艦と運命をともにし戦死)は、マニラ方面からやってきた1台の黒塗りの自動車をみた。その自動車は、将官が乗っていることを示す、黄色の旗をつけていた。飛行場では明日の攻撃準備や飛行機を隠す作業が、慌しく行われていた。
ー自動車から降りたのは一昨日、本土からフィリピンに着任した、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎海軍中将(敗戦翌日の45年8月16日、自殺)であった。その日の夜、基地の本部で会議が開かれた。会議では今始まろうとしているフィリピンでの日米決戦に、零戦を率いる海軍航空隊は、何をなすべきかについて話合われた。重苦しい空気を破って大西司令長官はいった。それはフィリピン決戦に負けると大変だから、第一航空艦隊としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させなければならない。
ーそのためには、敵の機動部隊を叩いて、少なくとも1週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。というような話をして、ちょっと口をつぐんだ・・・。そして「そのためには、零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うがーどんなものだろう」と。しばらくは誰も声を出さなかった。
(2)、やがて、神風特別攻撃隊が編成された。体当たり搭乗員には、関行男大尉を隊長とする24人が選らばれた。10月20日のことである。この頃この基地では、2ヶ月ほど前100機ほどあった戦闘機が、30機に減っていた。第一航空艦隊全体でも、飛べるのは約100機に過ぎなかった。航空艦隊といっても名ばかりであった。関大尉の率いる敷島隊が、敵艦船を発見できなかったり、天候が悪化したりで、幾度かの失敗の後、ついにアメリカ空母群に突入したのは、10月25日の午前中だった。
ーその日朝、飛行場を飛び立った体当たり機5、援護機4は、南下してレイテ方面に至り、10時40分、まず、関大尉の指揮官機が、翼を振りながら攻撃を合図し、そのまま空母に突っ込み命中した。ついでもう1機が指揮官機のあけた穴に突っ込んだ。空母は1000メートル近い火柱と黒煙をあげて沈没した。また別の1機は他の空母に、さらに別の1機は軽巡洋艦に体当たりして行った。
ーこれがパイロットの死を予定に組み入れた、無残な攻撃法ー「特攻」の始まりであった。天皇はこの特攻の最後を聞き、「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」という「お言葉」を与えた。それを聞いた大西中将はむしろ、天皇から叱られたように感じたという。大西中将自身、特攻が戦法の邪道だということをよく知っていたからである。
ーこの後各地で、何回も特攻は行われた。しかしアメリカ側も、この体当たりを防ぐために、戦闘機で迎撃して撃落したり、確実に命中するために考えられた特攻は、次第に目標に命中する雨に撃破され、不成功に終わることが多くなった。
(3)、ある遺書の1節。「・・・おかあさん、ぐちをもうこぼしませんから、おかあさんもわたしについてこぼさないでくださいね。泣かれたとてかまいませんが、やっぱりあんまり悲しまないでください。わたしは、よく人にかわいがられましたね。わたしのどこがよかったんでしょうか。こんなわたくしでも、少しはとりえがあったんだなあと安心します。ぐうたらのままで死ぬのはやはりちょっとつらいですからね。敵の行動はにぶり、勝利はわれわれにあります。わたしたちのつっこむことにより、最後のとどめがさされましょう。うれしいです」(林市造、海軍少尉、京都帝大卒、24歳。1945年4月12日、沖縄方面にて戦死)。
ーしかし「最後のとどめ」をさすことはできなかった。猪口力平・中島正の「神風特別攻撃隊の記録」に掲げられている「神風特別攻撃隊戦闘経過一覧表」をみると、「特攻」の戦果について、ほとんど不明或いはなしと記されている。その点ではそれは、痛ましい不毛の記録であった。
~♪この一戦に勝たざれば~祖国の行手如何ならぬ~撃滅せよの命受けし~神風特別攻撃隊~♪
きけわだつみのこえ・「日本戦没学生の手記」:
ー東条内閣は10月2日、「在学徴集延期臨時特令」を定めて学生の徴兵猶予を全面的に取り消した。ただし理工科系学生だけは、陸軍省により「入営延期」が認められた。これに基づいて10月21日の出陣学徒壮行会は行われたのである。その結果、同年12月1日と10日にそれぞれ陸・海軍に入営・入隊した学生の数は、極めて多く、日本全国で約13万人といわれている。その多くは1921(大正10)年から1923(大正12)年までの生まれというから、1977年現在、もし生きていれば、54歳から56歳までの年齢に当たる。
ーもしといったのは、それらの学生達の中には、青春と学問のみでなく、その若い生命そのものを奪われた人々が少なくなかったからである。戦争の傷跡がまだ、生々しく残っていた1949(昭和24)年、これらの戦没学生(その中には、卒業繰上げといって、予定日の半年程前に卒業させられた学生もかなりいた)の日記手記の類を集めた「きけわだつみのこえ」が、東大協同組合出版社から出版された。この本は多くの読者の感動を呼びおこし、当時のベストセラーとなった。
ーそしてその頃東大教授であった、フランス文学者の渡辺一夫が、序文の終わりに記した、ジャン=タルージューの詩は、若い人々の口から口へと伝えられた。
死んだ人々は還って来ない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?死んだ人々には、慨く術もない以上生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、生き残った人々は沈黙を守るべきなのか
~♪送るも往くも~今生の別れと知れど~微笑みて~爆音高く基地を蹴る~♪
戦記にみる特攻隊・レイテ戦から投入:(レイテ戦記から)
ー神風特攻の最初の戦果は、比島沖海戦酣わの昭和19年10月25日1114、サマール島沖で米護送空母「セイント・ロー」を撃沈した関行男大尉に帰せられるのが普通である。しかし厳密に時間の順序に従うなら、その名誉は同じ日の早朝、米護送空母「サンティ」を中破させた飛行士に与えられなければならない。神風特攻の真価が、その戦果よりも、確実な自己の死を賭けて、敵艦に体当たりする自己犠牲の精神にあるならば。
ー「サンティ」はこの日レイテ島東方海面に配置されていた米護送空母機動部隊の三つの群のうち、最も南にいたスプレイグ少将の大一群に属していた。この群は前章で記したように護送空母4と駆逐艦3、護送駆逐艦4から成り、スリガオ海峡の東方シアルガオ島沖40カイリにいた。10月25日、サマール島沖海戦が始まる一時間前の0600頃、スリガオ海峡から逃れ去った志摩艦隊追撃のため、アヴェンジャー雷撃機11、ヘルキャット戦闘機17を発進させた。
ー0740北方130カイリのサマール島沖で、栗田艦隊に攻撃されていたスプレイグの第三群救援のため、アヴェンジャー5、ワイルドキャット8を発進させていたところへ、低い雲の間から、不意に一機の零戦が現れた。高角砲を向ける暇がなかった。日本機は真っ直ぐ突っ込んできて、飛行甲板の左舷前方に衝突した。爆発は甲板に10×5メートルの穴を開け、格納甲板に火災を起した。発火個所のすぐ傍にあった500キロ爆弾8を取り除けることができなのは、「サンティ」の長い戦歴で一番の幸運だったといわれている。0751火災は鎮火した。負傷44、うち16は間もなく死んだ。
ー少し遅れて「サンガモン」が攻撃された。日本機は最初は「スワイニ」に狙いをつけたらしく、その艦尾を旋回していた。きりもみになって落ちてきたので、撃墜したと安心していると、不意に立ち直り、「サンガモン」目差してダイブに移った。「スワイニ」の5センチ高角砲が追従し、高度150メートルで命中弾を与え、僚艦を救った。同時に高角砲弾で傷ついた別の一機が「ペトロフ・ベイ」の舷側をわずかにはずれて海上に落ちた。
ー同じ頃「スワイニ」の前方高度2500メートルの雲の中で旋回していた1機が認められた。これも被弾したらしく、煙を曳きながら降りてきた。そして「スワイニ」の右舷、後部エレベーターの1,2メートル先の飛行甲板に垂直に突き刺さった。直径4メートルの穴を開け、爆弾が格納甲板との間で爆発した。後部エレベーターが運転不能になった。飛行甲板は1009までに応急修理された。
ーこれは0630ミンダナオ島ダバオから飛び立った「菊水隊」(指揮官一等飛行兵曹加藤豊文)、「朝日隊」(指揮官同じく上野敬一)の特攻機4、直掩機4が挙げた戦果である。初期の特攻には必ず直掩戦闘機がついた。特攻機を目標まで誘導し、戦果を確認するためであるが、傷ついた直掩機も突っ込んだ模様である。「サンティ」の火災が収まった5分後の0756、右舷に魚雷一本を受けた。しかし魚雷の信管が鋭敏すぎたとみえ、爆発は強力でなかった。死傷者は皆無、浸水も大したことはなく、16ノットの速力を保つことが出来た。
ーこれは潜水艦イ号56が放った魚雷で、この日、日本の潜水艦が挙げた唯一の戦果となった。なお海戦に先立ち、比島海域に配置された潜水艦の数は10だったが、多くは米駆逐艦に牽制されて攻撃を実施することが出来なかった。未帰還5を出した。イ号56はこの時の戦果を「エンタープライズ型一隻撃沈」と報告した。関行男大尉の率いる「敷島隊」の特攻機5は、零戦4に守られて、0725マバラカット飛行場を飛び立った。タクロバンの東方85度90分にある空母4、駆逐艦6を目標に与えられていた。
ーこれは朝から栗田艦隊に追いかけられていたスプレイグの護送空母群である。0910栗田艦隊が反転したので、討ちもらされた護送空母群5は艦首を風上に向けて艦上機を収容しはじめたところであった。日本機は海上すれすれに飛んできたので、レーダーに映らなかった。そして不意に5000フィートに上昇してから、突っ込んで来た。迎撃機を発進させる暇がなかった。一機は旗艦「キトカン・ベイ」の艦尾を飛び越してから、急に上昇反転した。艦橋を外し、右舷舷側に接触して海に落ち、そこで爆発した。甲板に多くの死傷者が出た。
ー「ファッション・ベイ」も2機に狙われたが、運よく射落すことが出来た。「ホワイト・ブレーンズ」に向った他の2機は、40ミリ高角機関銃火を冒して150メートルの高さから急降下してきた。そのうち1機が曳きながら反転し、「セイント・ロー」に激突した。この時「セイント・ロー」は二時間の戦いに疲れた水兵にコーヒーを飲む余裕を与えるために、減速していた。特攻機は飛行甲板を貫いて爆発した。格納甲板にあった7個の魚雷と爆弾が引火爆発した。飛行甲板にあった飛行機が数百フィート吹き上げられ、火は艦尾まえ燃えひろがった。1115「セイント・ロー」は沈んだ。
ー別の一機は艦隊の周囲を一周して獲物を選んでいるようだった。やがて「ホワイト・ブレーンズ」目掛けて突っ込んで来た。曳光弾がその機体に入るのがはっきり見えたが、機はまた突っ込んで来た。艦尾5,600メートル手前で回転し、飛行甲板をかすめて水面に達する前に爆発した。機体と操縦士の体が破片となって、甲板に散りかかった。11人が負傷した。これが「敷島隊」の特攻機5、直掩零戦1の行動である。直掩機3は1220セブ飛行場に不時着した。
ー西沢広義曹長は興奮していた。戦果はマニラの第一航空艦隊司令部に次のように報告された。「神風特別攻撃隊敷島隊は1045スルアン島の北東30浬にて空母4を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中撃沈」
ー2機連続命中は直掩機の誤認、巡洋艦とは「ホワイト・ブレーンズ」のことらしい。轟沈は誇張であるが、それでもこの日の栗田艦隊水雷戦隊の戦果報告と比べれば、控え目なものである。特攻の効果について、実行を命じた大西中将自身確信を持っていなかった。今後の作戦に影響するので、正確に報告するよう、特に指示されていたのである。
ー特攻士が最後の瞬間まで、操縦桿を離さず突入方向を保つことが出来るかどうか、人間の能力の限界について、疑問が残っていた。機もろとも突入するのであるから、命中率は高くなるが、航空機の翼が加速度を抑制する。それだけ爆弾の威力を減少させるので、一機が飛行甲板を破壊した跡に、続く機が突入しなければ、装甲艦を撃沈することは出来ない、と予想されていた。
ー西沢兵曹の報告は、これら特攻機に対する技術的な問題がすべて解決されたとするものである。米側の記録によれば、2機が同じ個所に命中した例はこの後もまったくない。また7000トンの護送空母「セイント・ロー」と正規空母とを見誤ったのは、この時期に一般的な希望的な誤認であった。しかし2つの特攻隊の瞬間的な攻撃が、1航艦の2日間の編隊攻撃、栗田艦隊の2時間の砲撃が成し遂げた以上の戦果を挙げたのは事実である。
ー元来神風特攻は捷号作戦に関連した緊急措置として採用されたものだが、この戦果によって、以来正規な艦船攻撃法として固定する。20年1月8日、大本営と戦争指導会議は全機特攻を決定する。
~♪我大君に召されたる~命栄えある朝ぼらけ~讃えて送る一億の歓呼は高く天をつく♪
特攻隊の発祥:大西中将と関大尉
ー特攻は10月20日第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将によって決定されたものである。15日マニラに着任した中将は、1航艦の兵力が、机上の数字とは桁違いの30機に過ぎないのを知って愕然とした。捷一号作戦を成功に導くために、栗田艦隊に空から掩護を与えるのは絶対的要請である。零戦に250キロ爆弾を抱かせ、1機1艦必殺の方針で、体当たりするほかないと考えるに至った。
ー201空戦闘機隊の副長玉井茂一中佐と相談の結果、兵学校出身の関行男大尉を隊長とする26名の特攻隊編成が決定する。23名の搭乗員は、玉井中佐子飼いの9期練習生より選ばれた。彼等は18年10月に入隊、19年2月訓練半ばにしてマリアナに出動してから、パラオ、ヤップを転戦していた。その間一人前の搭乗員に成長していたのであった。
ー大西長官の決意を伝えると、「喜びの感激に興奮して、全員双手を挙げての賛成である。彼等は若い。彼等はその心の総てを私の前では云え得なかった様子であるが、小さなランプ一つの薄暗い従兵室で、キラキラと眼を光らして立派な決意を示していた顔付は、今でも私の眼底に残って忘れられない」と玉井中佐はいっている。
ー指揮官に選ばれた関大尉は、元来戦闘機乗りではなく艦爆出身で、一月前台湾から着任したところであった。玉井副長が大尉に計画を打ち明けた時の模様は、次のように伝えられている。「関大尉は唇を結んで、何の返事もしない。両ひじを机の上につき、オールバックにしている長髪の頭を両手で支えて、眼をつむったまま俯向き、深い考えに沈んでいった。身動きもしない。-1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・。と、彼の手が僅かに動いて、指が髪をかき上げたかと思うと、静かに頭を持ち上げて云った。「是非私にやらせて下さい」少しの みもなかった。明瞭な口調であった」。
ー軍人の慣用の文体によって、関大尉の静かな決意を称揚するように、語られているのである。しかし私には、黙って俯向いていた5秒間に、大尉の心中を去来した想念の方が重く感じられる。むろんパイロットは常に死の覚悟が出来ていなければならない。殊に米軍の航空戦力と対空射撃が強化されたこの頃では、出撃はほとんど死を意味した。3度は帰還しても、4度目には撃墜されるのである。しかし生還の確率零という事態を自ら選ぶことを強いられる時、人は別の一線を越える。質的に違った世界に入るのである。
ー戦闘の経過の中では、人はこの一線は案外すっと通り越す。被弾した航空機のパイロットにとって、自爆は避けられぬ死をいさぎよく飾ることであり、憤怒の感情を解放することである。壕内に飛び込んだ手榴弾を体でかばって、僚友の身代りになるような道徳的行動が反射的に取られることがある。しかし基地の兵舎で、特攻と決定してから出撃までの幾日かの間、あるいは飛び立ってから、目標に達するまでの何時間かの間は、人間に最も残酷な生を強いる、と私には思われる。
ー神風特攻は敵も誉める行為である。米軍のパイロットの7割は、自分も同じ立場にあったら志願するといっているそうである。当時銃後にあった若者たちはみんな特攻散華のはらを決めていたという。しかし決意していることと、それを実行することの間には、また一線が存在するのである。沖縄戦の段階では学徒出身の予備学生が大量に出撃して、「きけわだつみのこえ」「ああ同期の桜」に見られるような悲痛な遺文を残した。
ーその頃は志願とは表向きで、性能の悪い練習機による特攻が強要されるようになっていた。醜悪な基地での生活と特攻の美名の間には若い心を傷つける矛盾があり、今度の戦争から胸をえぐる文字を残したのであった。沖縄戦の段階では、基地を飛び立つと共に司令官室めがけて突入の擬態を見せてから飛び去る特攻士があったという噂が語られる。故障と称して途中の離島に不時着する機が増えた(実際故障は多かった)。目標海面に達しながら攻撃を行わず、まるで失神したように、ふらふらと墜落する特攻機が、敵側に観察されている。
ー不時着半数という数字が最後の特攻を指揮した第五航艦司令官宇垣纏中将の「戦 録」に記録されている。命中率が7%に落ち、特攻打ち切りを提案する技術将校もいた。しかも特攻という手段が、操縦士に与える精神的苦痛はわれわれの想像を絶している。自分の命を捧げれば、祖国を救うことが出来ると信じられればまだしもだが、沖縄戦の段階では、それが信じられなくなっていた。そして実際特攻士は正しかったのである。
ー口では必勝を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平交渉に入るという、戦略の仮面を被った面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。
ーしかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピンでは400以上、沖縄1900以上の中で、命中フィリピン111、沖縄で133、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。
ー今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。
~♪友よ~みてくれあの凪いだ~マラッカ海の十字星~夜を日についだ進撃に~君と眺めたあの星を~♪
もともとの案と攻撃法・初期の神風:
ー神風特攻がはじめてレイテ沖に現れた時は、多くの解決しなければならない技術的問題を抱いていた。30機で実施しなければならないから、沖縄戦のように、練習機でもなんでもいい、数を繰り出して1%でも割当てればいい、というようなことは、問題にならなかった。特攻が功を奏すには、まずそれが奇襲でなければならないことも認識されていた。零式戦闘機に爆弾を抱かせたのは、当時1航艦には、戦闘機しか残っていなかったからだが、優勢な米哨戒機と対空砲火を潜り抜けるために、零戦の機動性が必要と考えられたのである。そして当時零戦はグラマン機には絶対的劣勢にあり、戦闘機としての機能を果たせなくなっていたのであった。
ーもともと零戦には腹に燃料タンクを抱え、空になった時切り離す装置があった。このタンクのかわりに250キロ爆弾を吊垂出来るように改良を加えたのが最初の工夫であった。攻撃法として「反跳爆撃」が研究された。これは水面上10メートルを飛行し、目標の300-200メートルまで接近して爆弾を投下する、それを水面で跳躍させて、目標の艦船の横腹に命中させるのである。この攻撃法は元来ミッドウェイ海戦の時米軍のパイロットが発明したものを模擬したもので、熟練を要する上に、投下後2、3秒で敵艦上を通過することになるから、被弾の確率高く、ちょっと操縦を誤れば自爆となる。生還率1%という数字が出た。特攻精神はこの時芽生えていたのである。
ーこの方法はマリアナ海戦の時、一部航空部隊によって採用されていた。この海戦が敗北に終わった時、「千代田」艦長城英一郎大佐が、非常手段として特別攻撃隊の組織を上申した背景には、こういう技術的問題があったのである。最初の神風特攻実施の名誉を飾る201空では、8日以来ダバオでこの反跳攻撃を研究していた。これはサンボアンガにあった攻撃機が実数20以下に落ちてしまったので、とにかく100機に増えていた零戦を使わなければ、近く来襲を予想させる米機動部隊に対抗出来ないという、実際的考慮から生まれたものであった。
ーところが9月12日のハルゼーのビサヤ地区爆撃で、この虎の子の零戦の大部分を失ってしまった(10日の敵上陸の虚報によって、セブへ退避したところを奇襲されたのである。10月25日の「敷島隊」の攻撃法、つまり低空接近、急上昇に、この反跳爆撃の名残りが認められる。もう一つの攻撃法は「菊水隊」が示した高空待機、急降下突入であるが、おそらくこれは搭乗員の熟練度を考慮して、低空接近を無理と見たからであろう。
ーどっちにしても500メートルぐらいの高度からダイヴするのは、不可欠の条件であった。体当たりといえば威勢はいいが、前に書いたように航空機は翼があるだけに、加速度がつかない。それだけ爆弾の威力は減殺されるからである。しかし結局この飛行機のまま突入するということが、神風特攻の根本的欠陥として残った。この後爆弾は500キロ、800キロに増強されたが、結局正規空母や戦艦を一隻も撃沈出来なかったのは、この攻撃法にある根本的な矛盾のためであった。
ーそのほか攻撃時期、目標の選定と配分、目標に達するまでの航法など、多くの解決すべき問題があった。こういう技術的問題を棄て去って、特攻精神一本となった沖縄戦の末期で、命中率が7%になるのは、当然であった。米軍の対策も進歩して、駆逐艦のピケラインが幾重にも敷かれる。目標として駆逐艦よりなくなる。補助艦艇1隻を撃破するために、航空機平均14機と搭乗員を喪失することが、引き合うかどうかという数字的問題が出てくる。神風特攻はこうして戦術的に不利という結果が出ていたのである。10月25日には、レイテ沖に戦闘状態が生み出されていたので、神風特攻が成功したのであった。
~♪輝く御旗先立てて~無敵日本の勲を世界に示す時ぞいま~いざ往け兵(つわもの)~♪
全機特攻と作戦の空想化・人間魚雷と斬込み:
ー確かにレイテ沖の段階では神風特攻は合理的に遂行されていた。搭乗員はいかに自分の機を有効に敵艦に命中さすかより考えなかったので、「きけわだつみのこえ」に見られるような複雑な反省を強いられる余地はなかったのである。全機特攻の方針が決定してから、作戦は空想的となり、無数の矛盾と悪徳が吹き出してきたのである。
ー特攻機は艦橋をったので死傷者、死傷者にはしばしば将官が含まれていた。これは敵に戦意を喪失させるという点からは有利な戦果であるが、艦船撃滅という海軍本来の趣旨からはずえている。結局人員は補充可能な要素であり、米首脳部が戦争遂行を諦めるはずがなかった。
ー特攻は搭乗員に対してだけでなく、敵側に対しても残虐兵器であった。もっとも米空軍も日本国民の戦意を失わせるために、20年3月から都市の無差別爆撃という残虐戦略を採用したからお互いさまである。そしてわれわれがそれに対して、すぐ抗議する気分にならなかったのは、われわれの戦意の中に、戦争を人間対人間の関係に単純化する意識が働いていたからである。
ー私は神風特攻を通説に従って、号作戦の段階で、現地から自然発生したとみなした。技術的にも精神的にも、その痕跡が記録に見だされるからである。しかし一方これが中央の方針として決定していたではないか、と疑わせる材料もまた見だされる。
ー特攻兵器「桜花」は1・8トンを爆装し、ロケット推進装置により、最終速力450ノットに達する恐るべき特攻兵器であるが、試作は19年8月はじめられて、10月量産に入っている。人間魚雷「回天」(これは艦船撃沈には神風特攻より遥かに有効であった)、特攻モーターボート「震洋」もこの頃設計され、10月から量産に入った。
ー大西瀧治郎中将は開戦以来航本総務部長であり、18年11月に軍需省航空兵器総局総務部長であった。「桜花」の試作を知っていたはずである。「桜花」使用部隊として721空が新しく編成されたのは11月1日である。大西中将のその決意を左右したのは、マニラ着任の2日前10月15日、台湾沖で自ら一式陸攻に搭乗して、敵機に突入した有馬正文少将の死であったといわれる。しかし彼が第一線の司令長官に任じられたのはそれ以前だから、中央で決定した方針を実施するためとみなす根拠がある。
ー「神風特別攻撃隊」の著者猪口参謀は今日でもなお神風特攻は大西中将の発意と繰り返しているが(読売新聞社「昭和史の天皇」12)には、次のように明記されている。「大西中将は19年10月5日、南方方面艦隊司令部付(1航艦長予定)に補せられた。赴任に当たって、軍令部の打ち合わせで、航空部隊の現状と術力からみて、大西中将は特攻作戦を断行する決意を表した。及川軍令部総長は特攻作戦は中央から指示しない。しかし現地部隊で自発的に実施することに対しては中央は敢えて反対せず、黙認の態度をとる旨を述べた。大西中将からは何も指示されていないように希望を述べている」。
ー性懲りもなく、古臭い嘘を繰り返している旧軍人は案外間が抜けているのである。大本営が 号作戦に関連して、特攻を志願する将兵を正式に編入する等の処置を研究していたことは、服部卓四郎「大東亜戦争史」にある。しかし一部にこれを統帥の道に反するという見解が強く主張され、特攻志願の「義烈の士」を個人として作戦軍に配属することにした。特攻隊が常に単独で特別の特訓の名称を付けられているのはこのためである。
ー地上作戦においては戦車に対する献身攻撃、斬込みが「高揚される」ようになった。これも原則として志願であるが、次第に選定、強要となったのは、神風特攻と同じである。戦闘が激しく、至急に所要兵力を揃えなければならない場合に具えて、志願者名簿を用意しておかなければならない。朝、特攻士に登録されて、夜半の電話で出動というような場合が、フィリピンの段階ですでに生じているのである。
~♪思えば今日の戦いに朱に染まってにっこりと~笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と~残した声が忘らよか~♪
天皇と上層部・壊滅と大空襲:(レイテ戦記)
ー昭和20年1月1日、東京の元旦は空襲警報で明けた。大晦日2320警報発令、ちょうど昭和20年に入った2400解除になった。しかし市民が防空壕で新年の挨拶をかわす暇もなく、5分後に再び発令、30分で解除になった。市民は頭上に少数の敵機が通過する音を聞いたように思った。市民はこの元旦空襲を米軍の嫌がらせだと信じたが、おそらくこれは誤報、迎撃に飛び立った友軍機の爆音だったろう。
ー12月27日以来、殆ど連日の空襲であった。30日には0336より1時間、B291機で2・8キロ焼夷弾240個を投下したといわれる。被害地域浅草区の蔵前1,2,3丁目、柳橋1,2丁目、桂町、浅草橋2丁目。本所区の東両国1,2丁目。日本橋区の浜町1丁目。焼失家屋。全焼196戸、半焼39戸、小火2戸。被害人員、死者1、重傷7、軽傷5、災者278であった(一色次郎「東京空襲」に拠る。これは当時ある地方紙の通信員であった著者が、区役所の記録から収集した数字である)。
ー2・8キロの焼夷弾は集中攻撃用の新式小型油脂焼夷弾で、30数個が1つの弾体におさまり、落下音は爆弾に似ている。空中分解した時、破片がひらひら落ちて来るのだが、それに気を取られていると、本体はすでに地上に到達し、火花を吹いていた、という。
ー明けて1月3日、東海、名古屋地区が90機による爆弾と焼夷弾攻撃を受けた。2400現在で全焼221、半焼72戸、死傷48、重傷85、災者約1万人を出した。浜松に焼夷弾300が投下された。全焼78、半焼15であった。東海、名古屋地方は12月7日の大地震に続く大被害で、三菱名古屋工場その他主要飛行場製作工場の機能が停止した。サイパン島喪失の効果が現実のものになりつつあった。
ーただし米側では12月27日以降の空襲は1月9日に予定されたリンガエン湾上陸の準備作戦と称している。同日以降ハルゼーの第38機動部隊は台湾を連日空襲していた。台湾の飛行場を爆撃して、ルソン増援航空兵力の発進を不可能にする。本土飛行機工場を破壊して、新製品の積出しを妨げようという計算だった。
ー12月30日、小磯首相(大将・A級戦犯・終身刑=50年、食道癌により獄中で病死)は天皇に拝謁のため参内した。廊下で杉山陸相(元帥・敗戦後の45年、9月12日に自殺)と会うと「総理、どうも統帥部はレイテ決戦をやめるらしい」といった。首相は「じょうだんでしょう」と答えて、そのまま拝謁したが(これは彼の終戦後巣鴨プリズンにおける述懐である。服部卓四郎「大東亜戦争全史」に拠る)、「退ろうとすると、陛下が「小磯、統帥部はレイテ決戦を止めて、ルソンで決戦することに変更した」とこういわれるんです。「何か報告はあると思いますけれども、総理の知らない間にこう言うようなことが起っては、なかなか努めにくうございます」と言うことで、その場はすみましたが・・・」同じことを天皇は明けて、内大臣木戸幸一(A級戦犯・20年の禁固刑=55年に釈放、77年まで存命)に伝えている。
ー天皇は統帥部はレイテ決戦をやめるそうだが、「レイテは天王山」といった手前、どう国民に説明するつもりか、と訊くと、小磯首相は実は自分もたった今聞いたばかりです、と実情を申し上げ、日本の政治家の永遠の台詞「十分検討の上、善処いたします」と奏上して退いたという。
ー陸海軍統帥部がその決定を総理大臣、陸軍大臣に告げない秘密主義は盧溝橋以来の癌であったが、形勢が悪化するとその弊害は一層大きくなった。海軍と陸軍との間にも連絡はなく、海軍が台湾沖航空戦の大戦果を取り消さなかったため、陸軍がレイテ決戦にのめりこんでいったのは、この戦記のはじめの方に記したとおりである。
ー最高戦争指導会議はその欠陥を除くために小磯が創設したものであった。30日はちょうど拝謁の後1400から会議があった。小磯は大将であり、陸海軍首脳と「俺、貴様」で話し合える仲であった。もっと早く、非公式でもいいから情報を伝えてくれればよかった、そうすれば今日の苦境に陥らずにすんだのに、と梅津参謀総長(大将・A級戦犯・終身刑)にこぼした。もう少し後、戦場がルソンに移ってからのことだが、
「陸軍はちっとも決戦しないじゃないか、もっと活動したらいいじゃないか」というと、梅津大将は答えた。「俺は陛下の幕僚に過ぎない。戦場統帥は出先でやっているから仕方ない」このような責任のなすり合い、いわゆる「無責任体系」が成立していたのである。

~♪嗚呼あの山もこの川も~赤い忠義の血が滲む~国まで届け暁に~あげる興亜のこの凱歌~♪
レイテ戦の総括
ーレイテ島をめぐる空陸海の戦いは、日本の敗戦を決定した戦いであった。聯合艦隊はすでにマリアナ海戦で空母を失い艦隊の機能も失っていたけれど、フィリピン基地空軍と結合すれば、米機動部隊と拮抗することが出来ると考えられた。しかし海陸空の意外な戦力低下によって、聯合艦隊の壊滅、基地空軍の消耗の結果を見た。陸軍の地上決戦は空母の空海の勝利を前提として立てられたものであった。従って制空権制海権を失った後は、増援師団に弾薬食糧の補給を行うことが出来ず、敗北は当然の結果であった。
ーただ日本はこの島を失っては南方資源の還送が不可能になり、ひいては戦争続行が不可能になるという瀬戸際に立たされていた。聯合艦隊が戦艦による輸送船団攻撃という前代未聞の戦法を案出したのも、レイテ島の地上戦闘に海軍の存続が賭けられていたからである。陸軍も「レイテは天王山」と叫んで、やみくもに決戦補給を続け、多くの人命資材を浪費した。
ーこれは太平洋で戦われた唯一の大島の戦闘であったから、日米双方に幾多の錯誤があった。しかし老朽化した日本陸軍は、現代戦を戦う戦力も軍事技術も持っていなかったので、米軍の錯誤も重大な結果を生まなかった。戦闘の終始米軍の主導の下に行われ、日本軍の決戦補給は事実上は消耗補給となって、じり押しに敗北に追い込まれたのである。
ー作戦の細目には幾多の問題が残った。16師団は半端な水際戦闘、第一師団のリモン峠における初動混乱、栗田艦隊の逡巡、ブラウエン斬込み作戦の無理などがあるが、それらは全般的戦略の上に立つさざなみにすぎず、全体として通信連絡の不備、火力装備の前近代性ー陸軍についていえば、砲撃を有線観測によって行い、局地戦を歩兵の突撃で解決しようとする、というような戦術の前近代性によって、勝つ機会はなかった。
ーしかしそういう戦略的無理にも拘らず、現地部隊が不可能を可能にしようとして、最善を尽くして戦ったことが認められる。兵士はよく戦ったのであるが、ガダルカナル以来、一度も勝ったことがないという事実は、将兵の心に重くのしかかっていた。「今度は自分がやられる番ではないか」という危惧は、どんなに大言壮語する部隊長の心の底にもあった。その結果たる全体の士気の低下は随所に戦術的不手際となって現れた。これは陸軍でも海軍でも同じであった。
ー陸海特攻機が出現したのは、この時期である。生き残った参謀たちはこれを現地志願によった、と繰り返しているが、戦術は真珠湾の甲標的に萌芽が見られ、ガダルカナル撤退以後、実験室で研究がすすめられていた。号作戦といっしょに実施決定していたことを示す多くの証拠があるのである。
ーその戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘らず、死生の問題を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じえない。死を前提とする思想は不健全であり煽動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。
ー醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかりたてるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である。米軍の側には、一貫してマッカーサー将軍の情熱が感じられ、それが作戦に推進力になっているのが認められる。ただレイテ平原に飛行場が建設出来ると信じ、地域確保のために四個師団を脊梁山脈東部にはりつけにしたという不手際があった。主戦場たるリモン峠で戦闘部隊は一個師団しかいない、という結果を生んで戦闘を長引かせた。工兵の不足、開戦以来3年、徴募兵が戦いに倦みはじめていた影響は、特に掃討戦の段階に現れた。
~♪朝霧晴れて朝潮の満ち来る音羽須磨明石~忘るなかかる風景も他所に優れし我国を~♪
ソ連の対日参戦と天皇:
ー1945年8月9日朝、その頃内大臣として天皇を補佐する地位にあった木戸幸一は、天皇に呼ばれた。その時の話は午前9時55分から午前10時までの5分間の話に過ぎなかった。しかし天皇は、そのとき、日本の運命を左右する重大な決意を内大臣に伝えた。この天皇の話の内容は「木戸幸一日記」によると、およそ、次のような内容であったらしい。
「ソ連が我国に対して宣戦し、本日から交戦状態に入った。ついては戦いの収拾について、急いで研究し決定する必要があると思うので、鈴木首相と十分話あっておくように」。この話を受けた木戸内大臣はその直後、鈴木首相と会い、この際すみやかに「ポツダム宣言を利用して、戦争を終結に導く必要がある」と力説した。鈴木首相は最高戦争指導会議を開いて、日本の取るべき態度を決定したいと述べ、内大臣室を去った。会議はただちに開かれた。
ーこうして日本の支配者の上層部は、ようやく彼等の言葉でいう「戦争の終結」のために、決定的な動きをはじめたのである。ソ連軍は8月9日午前零時から、ソ満国境で攻撃を開始した。天皇のいうソ連の対日宣戦布告は、モスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間8日午後11時)であった。ちょうどドイツの無条件降伏が確定してから3ヶ月目にあたり、ヤルタ協定の公約が守られたわけである。
ー満州には日本陸軍の中で最強とうたわれた関東軍があり、ソ連参戦の時点で24個師団75万人の兵力を持っていた。関東軍は長年にわたって、ソ連を仮想敵国とする北方戦の訓練を繰り返してきた。そのことからすれば、関東軍にとって、待望の日ソ戦争であり、ノモンハンの恥をそそぐべき絶好の機会だったはずである。しかしそうはいかなかった。なぜならその24個師団は、満州の現地で召集して人数だけ合わせた未熟な師団からなっていた。
ー優秀な戦車隊を含む関東軍本来の師団は、次々と太平洋方面に引き抜かれていた。その結果関東軍はソ連軍に対して攻勢を取ることができず、通化市を中心とした満州の東南部の陣地に立て篭もって、出血持久戦をする以外になくなっていた。そのためソ満国境の守りは、かなり手薄になっていた。ナチス・ドイツが東と西の2つの正面を守りきれなかったように、日本は、南と北の2つの正面を守りきることができなくなっていた。
ー国境を突破してきたソ連軍は、圧倒的な兵力と猛烈な急進撃で、幾つもの国境守備隊を全滅させ、さらに後退する関東軍を追って、北から南へ、或いは西から東へ殺到した。ことに戦車・装甲車を主体とするソ連の機甲兵団は、西方から侵入してきて、満州中央部を踏みにじった。こうした中で、後退する部隊と現地に踏みとどまって戦う部隊が入り乱れて、数日にして関東軍は、統一した防衛戦を行う力を失った。
ーその結果哀れをとどめたのは、満州に住んでいた約100万人の日本人居留民であった。これらの日本人民衆は、列車やトラックを独占して後退する日本軍に見捨てられ、ソ連軍の暴行・掠奪・虐殺にさいなまれた。さらに長い日本支配への反感から蜂起した中国人民衆の襲撃も受け、敗戦国民衆としてあらゆる悲惨に直面させられた。

~♪戦雲東に収まりて昇る朝日ともろともに~輝く仁義の名も高く~知らるる亜細亜の日ノ出国~♪
敗北の条件・「国体護持」と小田原評定:
ー1945年8月9日午前10時半から、最高戦争指導会議が、宮中にある防空壕で行われた。会議の出席者は天皇の他、政府から鈴木貫太郎首相(海軍大将=48年、肝臓癌で病死)・東郷茂徳外相(A級戦犯・20年の禁固刑=50年に心臓病の悪化で病死)・阿南惟幾(これちか)陸相(大将=45年、8月15日に自殺)・米内光政海相(海軍大将(戦後公職追放)=48年、肺炎により病死)、軍から梅津美治郎参謀総長(大将=A級戦犯・終身刑=49年、直腸癌により獄中で病死)・豊田副武(そえむ)軍令部総長(海軍大将(聯合艦隊司令長官=古賀峯一大将(44年、搭乗機の墜落により殉職=海軍乙事件)の後任)=A級戦犯容疑者として逮捕されたが、東京裁判で不起訴=公職追放(52年解除)57年死去)であった。会議では連合国に対して、4つの条件をつけてポツダム宣言を受諾するという、政府と軍の根本方針が決定された。その4つの条件と言うのは、
1、皇室の存在を確認させる。
2、日本軍の撤兵は、自主的に行う。
3、戦争責任者の処理は、日本で行う。
4、連合国は、ポツダム宣言の実行を保障するための占領は行わない。
というもんで、無条件降伏を求めるポツダム宣言と根本的に食い違うものであった。そしてこのような日本政府と軍の方針は、その頃の日本の絶望的な敗北状況からいえば、余りにも虫のいいものであった。
ー果たして、その日の午後、天皇の弟高松宮宣仁親王から、木戸内大臣に直々の電話があり、こういう条件付では、連合国はこれを拒絶と見る恐れがあるという心配を伝えてきた。そしてその心配は、直ちに天皇に伝えられた。鈴木内閣は閣議を開いた。そして「皇室の維持」だけを主張する東郷外相の提案を中心に、激しい議論を交わした。しかし外相案は、閣議決定に必要な全員一致の賛成が得られなかった。外相案への反対者は、阿南惟幾陸相・松坂広政法相(A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨に収容されたが釈放=公職追放=晩年は佐藤栄作首相の弁護士を務め、60年まで存命)・安倍源基内相(A級戦犯容疑者(同じく弁護士)・48年、岸・児玉・笹川などとともに証拠不十分で釈放=56年、参議院選に出馬し落選。89年まで存命)の3人であった。
ーこうして2つの会議とも、日本の運命について結論を出すことに失敗した。最高戦争指導会議の最中、長崎に第2の原子爆弾が投下された。被害は死者行方不明者約3万5千人、重軽傷者約6万人、全焼した家屋約1万4千戸であった。
深夜の御前会議
ー事態は極めて重大であった。そこで鈴木首相は、8月9日の午前11時過ぎ頃、天皇に会った。最高戦争指導会議を御前会議として開き、その会議に平沼騏一郎枢密院議長(A級戦犯・終身刑=52年仮釈放、その年に死亡)を出席させることを願った。天皇はそれに同意した。そして11時50分、御前会議が開催された。場所はやはり宮中の防空壕である。会議では、閣議の多数意見である外相案が、議長の鈴木首相から原案として提出された。原案には「先月26日付3国共同宣言にあげられた条件中には、天皇の国家統治の大権に変更を加える要求を包含しておらざることの了解の下に、日本政府はこれを受諾す」とあった。
ー議長の鈴木首相はこの原案の後、閣議が6対3に分かれて、意見の一致しなかった経過を説明し、次に東郷外相を指名して、提案理由の説明に当たらせた。外相の説明は「前には、ポツダム宣言は受諾できないということであったが、本日の事態では受諾は止むを得ない・・・」相手国につける条件は、絶対受諾できないものだけをあげるべきである。ソ連の参戦により、米英の地位はいよいよ確実となり、これ以上、条件を緩める余地はない。
ー先の4条件のうち、日本軍の自主撤兵は停戦の協定を結ぶときにでも申し出る機会があるだろうし、戦争犯罪人のことは受諾の難しい問題だが、これとて、戦争を続けても通さなければならぬほど絶対条件ではない。ただし、皇室だけは絶対条件である。それは将来の民族発展の基礎だからである。だから相手国につける条件は、この点に集中する必要がある」というものであった。この後鈴木議長は、米内海相の所見を求めた。米内は、外相案に同意という。次に所見を求められた阿南陸相は、こう発言する。「全く反対である。その理由は、カイロ宣言は満州国を見殺しにすることになって、道義国家の生命を失うことになる。仮に受諾するとしても、先の4条件が満たされる必要がある。ことにソ連のような道義なき国家に対し、こちらの条件だけを一方的に取り下げてポツダム宣言を受諾する案には同意できない。1億が枕を並べて倒れても、大儀に生きるべきである。だから、あくまで戦争は継続しなければならず、また十分に戦いをする自信がある。アメリカに対しても、本土決戦に対しても自信がある。もし仮に、ポツダム宣言を受諾したとしても、海外諸国にある日本軍は、無条件に矛を収めないであろう。また国民の中にも、あくまで戦うものがあって、結局は内乱が起るかもしれない」。
ーこうしてまたも会議は3対3で分かれた。外相案賛成は東郷外相・米内海相・平沼枢密院議長の3人。外相案反対・戦争継続論は阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長の3人。そこで鈴木議長はかねての考え通り、自ら最後の1票を投ずることなく天皇の前に進み、これまでの御前会議のルールを破って、天皇自身の判断(いわゆる聖断)により、ことを決したいと奏上した。出席者の全ての目と耳とが天皇に集中し、やがて天皇が口を切った。
ー天皇はいう。「外相案に賛成である」と。そして「念のため理由をいおう。従来、勝利獲得の自信ありと聞いているが、今まで計画と実行が一致しない。また陸軍大臣のいうところによると、九十九里浜(アメリカの上陸作戦予定地)の築城が、8月上旬までに出来上がるとのことであったが、まだ出来あがっていない。さらに新設の師団が出来ても、これに渡すべき兵器は整っていないとのことだ。これではあの機械力を誇る米英軍に対して、勝算の見込みはない。朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、また、朕の臣を戦争責任者として引き渡すことは忍びないが、大局上、明治天皇の三国干渉のご決断の例に習い、忍び難きを忍び、人民を破局より救い、世界人類の幸福のためにこう決心したのである」と発言した。
ーこうして日本の取るべき道は決断された。時に1945年8月10日午前2時30分。防空壕の外には月光が輝いていた。
それからの5日間
外相案はこうして、最高戦争指導会議の決定となり、8月10日午前3時からの鈴木内閣の閣議で正式に政府決定となった。夏の夜が明けた午前6時過ぎ、外務省電信課は、1条件つきのポツダム宣言受諾の電報を、スウェーデンとスイスの2中立国を通じて、米英中ソの4カ国宛に打電した。後は、その1条件についての連合国の回答待ちということになった。
ーしかしこれで、敗戦の方向が確定したわけではなかった。例えば本土決戦論の主唱者であった阿南陸相は、この10日の午後、ラジオを通じて「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ」とする「全軍将兵への布告」を伝えさせている。もっともこの布告は、大臣や次官の十分な了解なしに、陸軍省軍務局が独走して作成し、発表したものともいわれている。
ーこうして戦争継続論と和平論の対抗するうちに、2日間が過ぎた。そして8月12日の深夜、アメリカのバーンズ国務長官が、スイス駐在代理大使に送った回答文が伝えられてきた。その回答中、問題の点は次の2点であった。
1、降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合軍最高司令官に従属するものとする。
2、最終的な日本国の政府の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとする。
ー外務省はこの回答を受けて心配した。これでは戦争継続論者の受諾反対の火に油を注ぐようなものではないか。その油の1滴でも減らしたいと、外務省の官僚は苦心した。そして原文で「従属する」となっていたところを「制限の下に置かれる」という誤訳まであえてした。しかしその心配は的中した。先の御前会議で受諾派であった平沼枢密院議長が反対派に回った。そして8月12日から13日にかけて、戦争指導最高会議のメンバーによる集まりでも、閣議でも、もめにもめた。
ーこの間鈴木首相自身も動揺したとも伝えられる。また陸軍省軍務局や参謀本部の将校の間で、和平派弾圧のための兵力使用によるクーデター計画が進められたりもした。さらに特攻の生みの親である大西瀧次郎軍令部次長などは東郷外相に迫って、「今後2000万の日本男子を殺す覚悟にて、これを特攻として用うれば負けはせぬ」と豪語した。
一方和平派は、東郷外相と木戸内大臣が中心になって、必死の挽回を図った。やがて鈴木首相も明確に受諾を決断した。ことにアメリカ機がビラをまいて、日本のポツダム宣言受諾の申し入れや連合国の回答文を知らせはじめたことは、全国の混乱を何よりも恐れている和平派を強く刺激した。ついに鈴木首相と木戸内大臣は、8月14日朝、2人で天皇に会い、再び御前会議を開く許可を得た。
ー全ての対立は「天皇の国家統治の大権」の護持つまり「国体護持」にかかっていた。和平派はポツダム宣言を受諾しても、国体の護持は可能だと考えた。戦争継続派は死中に活を求める本土決戦をしないと、国体の護持は出来ないと考えていた。そのいずれの派においても、国民の生命と生活ということは、殆ど完全に抜け落ちていた。
ー鈴木内閣の全メンバーと最高戦争指導会議のメンバーが合同した御前会議は、午前10時30分から正午まで、やはり宮中の防空壕で開かれた。はじめに鈴木首相は、連合国側の回答に対する日本の態度を審議した8月13日の最高戦争者指導会議で意見が一致しなかったことを報告した。ついで梅津・豊田・阿南の3将軍から、この条件では国体の護持は不可能だから、再照会するか、死中に活を求める決戦をすべきだとする意見がそれぞれ表明された。
ーしばらく沈黙が流れた後、立ち上がった天皇は、4日前の判断を変えないとする発言をした。こうしてすべては決まった。この日の午後から、いわゆる「終戦の詔勅」案が審議され、夜遅くには、詔勅発布のため全ての手続きが終了した。8月14日午後11時、「終戦の詔勅」は発布された。外務省はただちに、スイスの加藤俊一公使に宛てて、スイス政府を通じて、そのことを連合国に通報するよう訓令電報を打った。1945年8月14日午後11時、それが日本の敗北の日時である。
~♪我は兵かねてより草生す屍くゆるなし~嗚呼東の空遠く雨雲揺りて轟くは~我友軍の飛行機ぞ~♪
天皇と天皇制の存在:レイテの収容所「8月10日」(ポツダム宣言受諾)。
ー・・・「我々は日本政府が1日も早く回答することを望むね」とウェンディは私にいった。13日の「星条旗」は日本の回答の未着を同じ焦燥をもって報じていた。ウェンディの質問に対し、私は日本の戦争犯罪人が自己の生命と面子のために、天皇を口実にして抵抗しているのだろうと答えておいた。
ー14日の報道はさらに悪かった。「星条旗」の調子には威嚇が籠もって来た。満洲で依然ソヴィエト軍が日本軍を砲撃していること。二ミッツの艦載機が「日本の決意を促がす」ために、各都市の爆撃を続けていることを報じていた。私は憤慨してしまった。名目上の国体のために、満洲で無意味に死ななければならぬ兵士と、本国で無意味に家を焼かれる同胞のために苛立ったのは、再び私の生物的感情であった。天皇制の経済的基盤とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学的感情から推せば、8月11日から14日までの4日間に、無意味に死んだ人たちの霊にかけても、天皇の存在は有害である」(大岡昇平・俘虜記)

失われた「四日間」の犠牲者と英霊たち:
ーその後閣議と御前会議とを経て10日午前3時に了解事項付ポツダム宣言受諾が決定、午前6時45分連合国宛発信されたが、この了解事項についての連合軍側回答をめぐってまたまた閣議と御前会議とで小田原評定が繰り返され、最終的にポツダム宣言を受諾するにいたったのは8月14日正午、詔書を完成する午後11時近くまでかかり、日本政府の連合国宛ポツダム宣言受諾の発信が到着するまで、米空軍の日本本土爆撃および外地での戦闘が継続し、多くの非戦闘員が死傷した。8月14日夜には高崎・熊谷・伊勢崎・秋田・小田原・大阪・光(山口県)・佐伯(大分県)が空襲を受け、光で738人をはじめとして合計約1500人の死者を出しているのであって(宮沢望個人雑誌「きら」187・198号連載「最後の空襲」)国家責任者たちの時間の空費がいかに国民に犠牲を最後の土壇場まで増加させる結果をまねくことになったかを端的に物語っている(家永三郎)。
~♪忠義一徹鉄石心だ千里万里の第一線と同じ覚悟だ皆戦友だ~安心してくれ兵隊さんよ~故郷の空は鉄壁だ~♪
8月15日・宮城事件・クーデター騒ぎ:
ー8月15日午前3時20分、木戸内大臣は突然浅い眠りの夢から覚まされた。訪問者は、天皇の下に遣える侍従の戸田康英であった。彼は午前1時頃から、近衛師団の1部将校らが反乱を起こし、宮内省の電話線を切断し、天皇の休んでいる御文庫室を包囲し、宮城占領のクーデターが始まったという、驚くべき知らせをもたらした。木戸は直ちに起床した。ことは重大である。1歩間違えば、夕べまでの戦争終結の工作は、いっぺんでご破算になる。
ー事実、陸軍の畑中健二少佐、井田正孝中佐らをリーダーとする反乱軍は、木戸内大臣が事件の第一報を聞いたのとほぼ同じ頃、近衛師団長の森赳中将を射殺し、殺した師団長の名を用いて命令を出し、宮城占領計画を実行しはじめていた。もしそれが成功すれば、陸海軍の中にある強硬な抗戦派の行動への導火線になるかもしれなかった。そしてもっと直接的に心配なことがあった。それは14日午後11時50分に、宮城内の宮内省2階にある御政務室で、天皇自らの声によって録音したばかりの「終戦の詔勅」(玉音放送)の録音盤が奪われることであった。この放送は、正午からと予定されていた。
ー木戸内大臣は重要書籍を破いて便所に流し、宮内省地下室に隠れた。宮内大臣の石渡荘太郎もそこに潜んでいた。そして正副2枚の録音盤は、それを預けられた侍従の徳川義寛の手によって、宮内省1階の事務室の軽金庫という目立たないところに隠されていた。やがて反乱軍による宮内省の捜索がはじまった。しかし内大臣も宮内大臣も、そして録音盤も発見されなかった。反乱軍の軍人達には焦りが見え始めた。ともに立ち上がるはずの東部軍では、軍司令官田中静壱陸軍大将の下で、反乱鎮圧の体制が整えられていった。
ーそして宮城占拠の師団長命令はニセであるから服従するなという命令が、各部隊にあてて下された。夜が明けた頃、阿南陸相は、議事堂に近い官邸で「一死以って大罪を謝し奉る」と書き、日本刀で割腹し自殺した。その「大罪」という言葉で陸軍大臣は、何を詫びようとしたのであろうか。そして午前7時21分、ラジオは、この日の正午から「天皇陛下御自ら」の放送があるという予告を、はじめて全国に流した。
ー午前8時、反乱に動員された近衛師団の兵士たちは、まるで何ごともなかったかのように、宮城から撤退して行った。もう敗戦への道を妨げる者は、どこにもいなかった。日比谷に近い放送会館では運び込まれた録音盤による、玉音放送の準備が整えられた。放送電力はいつもの6倍の出力になり、昼間の送電からのお盆の中継も、昼の「民謡夏の旅」も、みな中止された。やがて正午の時報が鳴った。太陽はそのとき、日本列島のほぼ真上に輝いていた。
ーその真夏の太陽は「大日本帝国」を焼きつくす光になろうとしていた。和田真賢アナウンサーが、全国の聴取者に起立をうながした。続いて情報局総裁下村宏が天皇自ら「大詔」を発することを述べ、それに「君が代」が続いた。そしてその後、録音盤に針がおろされた。天皇の声が流れ始めた。日本の津々浦々でみんなが、その声を聞いていた。途中で涙を流す者もいた。よく聞きとれない者もいた。宮中の地下防空壕の控室では、ひどく力のない表情の天皇が、椅子に身を沈めたまま、自らの声に聞き入っていた。
ー宮本百合子はその自伝的な「播州平野」の中で、この時間を、こう描写している。「・・・村中は、物音一つしなかった。寂として声なし。全身にひろ子はそれを感じた。8月15日の正午から午後1時まで、日本中が森閑として息をのんでいる間に、歴史はその巨大なページを音もなくめくったのであった」。
~♪熱い血潮を大君に捧げて遂げるこの胸を~だんと叩いて盃に砕いて飲もうあの月を~♪
わがままな大本営の「終戦工作」と戦争責任:
ー近衛文麿(A級戦犯容疑者・服毒自殺)は1945年2月14日に「敗戦必至(中略)勝利の見込みなき戦争」は「1日も速かに」「終結」するべきであるとの上奏文を提出し(細川護貞「細川日記」)、元外務大臣有田八郎も、「往ニ必勝不滅ノ信念ヲ高唄シテ戦争完遂ノ一途二驀進セムトスル者アラバ、臣ハ盧ル如此ハ墨覚 皇国ヲ滅亡二導ク二異ラザランコトヲ」と述べて天皇の決断を促す上奏文を7月9日に提出した(「平和」1955年9月号)。駐ソ大使佐藤尚武が6月8日以来繰り返し外務大臣宛に早急終戦の必要を力説する意見電報を発しており、7月12日の電報では「敵空襲加速度に激化しつつある今日、帝国に抗戦の余力ありや」「無条件降伏に近似すべき」
ー形をとるもなお戦争を終結させるべきであると切言している(「終戦史録」)。その他にも多くの即時終戦の工作がなされたが、せめて7月上旬までの時点に日本が降伏に踏み切っていたならば、少なくとも原爆とソ連参戦による大惨事は免れることができたのではなかったろうか。それにしても、右近衛上奏文をはじめ、内大臣木戸幸一ら天皇周辺の重臣層の終戦意見が、やがて8月の再度にわたる御前会議で天皇にポツダム宣言受諾の「聖断」を下される条件をつくり出していたことはたしかであるが、これも重臣層の終戦工作には、その意図ならびに方法の両面において、重要な問題をはらんでいた。
ー方法として彼らはいずれもソ連を仲介として米英との和平をはかろうとするものであって、7月12日天皇より近衛にソ連に特使として行くことが命ぜられるというところまで事がはこんでいる。ソ連が受け入れなかったために実現には至らなかったけれど、この時期にいたってソ連の好意を期待するがごときは、これまで日本がソ連に対してとってきた態度に照らすならば、あまりにも非常識といわざる得ない。元衆議院議員小山完吾は、6月末に近衛と面談した際に、「日本政府の方向は、露国を通じて講和談をすすめたい、といふにある」と聞き、「大反対」の意を示し、その理由として、
「これまで日本は露国にたいして、なんの誠意をしめしたか、あわよくば先方の困っている間に、シベリヤでも侵略したい心持で、現に東支鉄道は、無理無体の主張のもとに、到頭まきあげてしまったではないか。しかるにいま、自分が困るからとて、露国の好意にすがりたいとて、こころよく承諾するものと期待するがごときは、愚にあらざれば、気違ひの沙汰なり」。
と「痛論」したという。これが良識というものであろう。前引有田上奏文にも、重慶あるいはソ連・延安を「我方二引付クル」ことにより「大勢ヲ挽回スルノ途」を求めようとするも、「殆ンド望ミ得ザル所」であって、「尚且ツ之ヲ試ミムカ、或ハ盧ル徒ヲ二寸刻ヲ争フ貴重ナル時ヲ空費スル二過ギザラムコトヲ」と強調し、曲ながら直接に米英へ即時降伏するよう示唆している。これらの良識の言を受け容れず、小山のいう「気違ひの沙汰」を本気で有効と考え、有田のいう「貴重ナル時ヲ空費」した最高支配者たちは、この点でも国民に対する重大な責任を免れないというべきである。
ー彼らが敗戦必至と見て降伏をも辞せぬ心境となったのも、国民の被る惨禍を憂慮してではなく、もっぱら「国体の護持」のためであって、8月14日の降伏正式決定に至るまで、それが降伏の道を選んだ基本理由となっている。その点をもっとも典型的に示すのが、上引近衛上奏文であった。
「勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと在候。随つて国体護持の立場よりすれば、1日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候」という文脈に、近衛の本意が端的にあらわれている。
ー戦況の悪化につれ、次第に国民の間に怨嗟の声が高まってきて、治安当局はそれらをこまかく把握しており、内大臣がしばしば治安当局の責任者と面会している事実(木戸幸一「日記」などから)から推測すれば、それらの情報は重臣層の耳にも達していたであろうから、戦争被害の増大と良心の離反がやがて「国体の護持」をも困難にするにいたるとの憂慮が、彼らをして終戦をめざさせるにいたったものと考えてあやまりではなかろう。佐藤大使の前記外相宛意見電報にも「総ての犠牲を忍び国体擁護の一途に出づる外なしと考へ居れり」(6月8日付)とある・・・。
ー軍にいたっては、「本土決戦」をあえておこない、国民を地獄の道づれにすることさえ辞さないつもりであった。軍が非戦闘員を置き去りにしてさっさと後退してしまったこと、さらには非戦闘員同胞の生命や生命維持のため食糧等を奪ったりしたことは(サイパン・沖縄など)詳述したとおりであり、軍に国民の生命の安全を守る気がなくむしろ軍が必要とする場合はいつでも国民の生命を奪うことさえ当然と考えていたことがその行動によっても示されたが、意識的にそれを明示した文献も存在する。
「自衛権」と「開戦」の定説:
ー自衛権の行使であると主張してさえすれば不戦条約違反を免れるというのでは、自衛権の行使に籍口してどのような武力行使も可能になってしまう。適法な自衛権の行使であるかどうかは客観的な立場で判断されるべきであって、武力を行使する国家の自由な判断に任せられるべきでないことは、田岡の説くとおりである。
ー中国から撤兵すれば中国との戦争で払った莫大な犠牲が無意味になる、「満州国」の存立も、朝鮮の植民地支配も危うくなるから、日本の「自存自衛」のためには戦争を賭しても拒否しなければならなかった、という当時の日本国最高機関の論理が正当であったとするならば、中国駐兵はもちろんのこと、汪政権も「満州国」も、朝鮮の植民地支配も、すべてことごとく消滅した日本が、今日「自存」可能どころか、日本にとって真に望ましい状態であるかどうかは疑わしいにせよ、「経済大国」として「繁栄」しているのは、どう説明されるのであろうか。それとも、もう一度中国に日本軍を「進出」させて「満州国」の再建と日本利権の回復、朝鮮の再併合を試みるべきである、というのであるか。
ー今日において誰の目から見ても非常識な命題に1941年の日本国家の最高機関が固執して開戦したのを、どうして正当化できるのであろう。中西功は、1972年1月9日付家永三郎宛書簡(「近きに在りて」第3号に全文を紹介してある)で、「ABCD」の援助をABCDの包囲と見た」ところに間違いがあったのであり、平和への道は「ABCD」の包囲を「援助」と見ることの上にだけ成り立つ」、この道は「国際的には、反ファッション国際戦線の日本国民に対する平和の要請でした。国内的には「日本」を救う唯一の現実的な道でした。
ーしかし、1941年にはそれは実現しませんでしたが、1945年8月15日には、それは「新憲法」の基礎になった「ポツダム宣言」という形で、日本国民の前に現れました。勿論、それから4年間の歳月は決して無駄ではなく、ハル・ノートは、ポ宣言に発展したのでした。それは反ファッション世界人民の力の高まりの反映でもありました。このように、日本の平和の問題が、「外国」から押し付けられる特徴は、たんに「8・15」だけでなく、1941年も「7・7」のときもそうだといえましょう。しかし、外からの’押しつけ’と見たのでは、新憲法が外国の押しつけだとする日本の軍国主義者の考えと同じものになってしまう」と述べ、日本は当時自ら中国からの全面撤兵を行って平和の道を選びとるべきだったのであり、中国からの撤兵を求めたABCD「包囲」もハル・ノートも、平和を求めていた日本人への「援助」と解すべきであることを力説している。
ーハル・ノートを「援助」と見るのは多くの人々を驚かせる見解であるかもしれないが、この見解が、ハル・ノートからポツダム宣言へ、ポツダム宣言から日本国憲法へ、という基本線の一貫していることを指摘し、日本国憲法の平和主義・民主主義の基点としてハル・ノートを評価している点は、常識の盲点を衝くところがあり、そのまま同意できるかどうかは別として、傾聴に値することだけは確かなのではあるまいか。
ーポツダム宣言発出の直前に近衛文麿が天皇の特使としてソ連に赴き連合国と和平するための条件案として酒井高次に作成させ討議の上、近衛の修正を加えて成立した「和平交渉の要綱」なる文書には、「国土に就ては、(中略)止むを得ざれば固有本土を以て満足す」「固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半部を保有する程度とすること」と記されている(矢部貞治「近衛文麿」下に全文引用)。
ー南千島は「固有本土」として保有するが沖縄・小笠原は「固有本土」外として放棄してもよいというのは重大な問題であって後に再編するけれど、とにかくポツダム宣言発出の前に、もちろんポツダム宣言とは根本精神を異にするにせよ、日本の支配層の間にこのような「譲歩」をあえてする意志が自発的に形成されていたことに微すれば、ハル・ノートを受諾して戦争を回避する選択を全然考慮しなかった当時の日本国家の最高機関の責任を問うのは、必ずしも期待可能性を無視するものとはなしえないのではあるまいか。
ー対米英開戦の決定は、中国からの撤兵、すなわち中国侵略の放棄を受諾するか拒否するかの選択として日本が国際的に決断を迫られた結果であるが、日本国家機関の内部で最後まで意見の一致が容易でなかったのは、対米英戦争に勝算があるかどうかをめぐってであった。むしろこちらの方が国家意志決定の前提として最重要論点であったものと見られるが、その問題は、国際的責任ではなくて日本国民に対する権力者の責任の問題に属するので、次節において別に詳しく論ずることとしたい。

開戦責任者と侵略戦争・大本営と軍・日本政府:
ー満洲占領の成功ののち、熱河・東部内蒙古の侵略、冀東傀儡政権樹立を得経て、ついに盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争へとエスカレートするのであるが、そのようなエスカレーションを推進した陸海軍高級将校やこれを阻止しなかった中央の政府・統師機関の最高級文武官僚は、すべて侵略拡大の責任を問われればならず、特に全面戦争への展開の直接の原因をつくった盧溝橋事件直後の大動員・大部隊中国派遣の措置をとり、あまつさえドイツ公使の和平幹旋をしりぞけて中国の首都南京を占領し、1938(昭和13)年1月16日には「帝国政府ハ爾今国民政府ヲ対手トセズ」と声明をして和平の道をいっそう狭くしてしまった、当時の内閣総理大臣近衛文麿以下全閣僚、参謀本部将校の責任は、柳条湖事件当時の最高責任者、対米英開戦決定干与の最高責任者の責任とならんで、もっとも重いとしなければならないであろう。
ー「満州国」をそのままにして中国と真の和平をいつまでも維持できたかどうかは疑わしいにせよ、少なくともあの時点で中国と全面的な戦争を開始し、その時から数えても8年間にわたり山海関以南の中国全土に戦火を拡大し膨大な人数にのぼる中国軍民の殺傷、中国女性の強姦、中国民衆の生活の破壊などの大惨事を惹起した結果に照らすとき、近衛らの責任は極めて重大である。反面、中国との戦争で日本軍将兵多数を侵略戦争の中で死傷させた、日本国民への責任もまた同様に重大ということができる。
ー次に対米英開戦決定については、その結果が惨々たる敗戦に終わり非戦闘員同胞の多数を惨死させるのを避け得ないことを予見する可能性を有しながら、無謀な開戦意思を段階的に確立しえいき最後に実行にうつした責任者として、第3次近衛内閣の陸軍大臣として強硬に開戦を主張した陸軍大臣東条英機、自分は開戦に反対でありながら最後まで開戦阻止のための努力を尽くさず内閣を投げ出してしまった総理大臣近衛文麿、その後任として内閣を組織し、参謀総長杉山元。軍令部総長永野修身とともに開戦決定の主唱者となった東条、ならびに宣戦の詔書に副署した東条内閣の全国務大臣の責任がきびしく問われなければならない。
ー対米英開戦において、南方の広大な地域において東南アジア・西南太平洋諸民族に多大な犠牲を払わせ、さらに太平洋の海上、西南太平洋諸地域で多数の日本軍将兵を死地に投じ、最後に本土・満州などで多数の非戦闘員同胞を死傷させたことは、いずれも日本歴史上に例のない残虐行為というほかなく、ヒトラーらナチス首脳部の責任と、規模に若干の差があるとはいえ、世界史上未曾有の重大な責任を追及されるのを免れない。
~♪今日も暮れ行く異国の丘に~友よ辛かろう切なかろう~我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ~帰る日もある~♪
「大東亜共栄圏」の虚構と米比関係・フィリピン決戦総括とマッカーサー:
ー歴史的なレイテ島の戦いの結果、一番ひどい目に会ったのはレイテ島に住むフィリピン人だったということが出来よう。レイテ島はフィリピン8番目の大きさの島だが、雨が多い農業州で、繁栄はセブ、ネグロスに及ばない。首都タクロバンの人口は当時5000、オルモックが1万である。戦争で歴史的な島になるまでは、フィリピン以外にその名を知られることはなかった。日本軍は、最初にタクロバン付近に2個中隊500人ぐらいが駐屯するだけで、民政はフィリピン人に任せていた。情勢が悪化したのは、17年末ミンダナオの収容所を脱出したカングレオン中佐が南部レイテを拠点として、攪乱と諜報活動を開始してからである。
ーマッカーサーは早くからミンダナオ、レイテ、ルソンという反攻の段階を予想し、南部レイテのマーシンに司令官をおくカングレオン中佐をレイテ地区の指揮官に任命し、潜水艦で武器弾薬、チョコレートを送った。農民はラウレルの比島政府と組織ゲリラの二重の支配下にあり、二重の税金を取られた。農民から米を徴発し、タクロバンへ運んで闇で売る悪質のゲリラもいた。ゲリラの組織化は日本軍の増強を生んだ。18年10月以後、16師団20聯隊による機動討伐隊が各地を荒しまわる。レイテ島民はこれを「再侵入」と呼んでいる。しかし島民の生活に最も大きな変化が生じたのは、日本軍の比島航空要塞化作戦が始まってからである。
ー19年4月、16師団主力が進出し、ブラウエンに飛行場を建設し、海岸陣地を構築する。食糧は収穫ぐるみ徴発され、住民は強制労働させられる。多くの公共建築が破壊され、掩体建造のために運び去られる。トラックが徴発される。ゲリラの妨害があり、日本兵だけではなく、徴用フィリピン人も射殺される。9月、女子を含めて労働人口の全部が狩り出された。ゲリラ嫌疑による処刑、拷問致死のほかに無智な司令官の軍政はフィリピン全体の飢餓欠乏、非衛生を増大させた。2年間の占領で、日本の軍隊が島民に与えた損害は、例えば次の畜産統計に現れている。
ー水牛、牛、豚、鶏など主要農耕用動物、食用家畜において、半分から3分の2の減少である。これらは日本の駐留軍の放漫な徴発と、作戦軍の現地調達主義と、「自活自戦」による掠奪によって生じたものであった。困るのは日本の主計将校がフィリピンの農業組織を理解せず、公共財産、個人所有物を無差別に徴発することであった。例えば水牛には、地主所有、小作人所有の別があり(地区によっては村落共同体所有もあったらしい)、それぞれの場合について収穫の配分に相違がある。レイテ島では地主の水牛使用耕作の場合、小作人の取り分は4分であるが、小作人の水牛を使う場合6分という差別がある。
ーしかし米軍が与えた損害も、日本軍の与えたそれに勝るとも劣らないものであった。米軍の爆撃と艦砲射撃は日本軍がした以上の災厄だった。GIの損害を少なくするため、日本軍の拠点になりそうな町は悉く破壊された。オルモック、カリガラ、ドラグなど主要拠点は止むを得ないとしても、パロンポン、アビハオなど辺境の町まで焼き払われたのである。フィリピン全体で、米軍はフィリピンの公共施設の80%、個人財産の60%を破壊した。フィリピン人はこれらの損失を、白い天使アメリカ人に猿のような日本人を追いはらってもらうために堪えた。
ー米軍の軍用道路建設が、レイテ島の交通改善に役立った場合もある。例えばアブロクーバイバイ間の横断道路は、元来はタクロバンとヒロンゴスなど西南部地方を結ぶためのもので、バイバイ=オルモック間には古い牛道しかなかった。それをオルモック攻略のため自動車道にしてくれたのは米軍である。しかし一方米軍の重量トラックは既存の幹線道路を基底から破壊してしまった。その修理は当然新しく誕生した独立政府の責任であるが、政府は内乱鎮圧と金儲けに忙しく、まだ遂行されていない。東海岸に沿って築き上げた自動車道路は多くの河川をせきとめたので、内陸の水田を沼と化してしまった。これは直接農民に実質的な損害を与える。
ー1945年1月のピーク時には、レイテ島に257766の米兵がいた。掠奪があり強姦も行われた。しかし4百年来異人種に統治されていた哀れな人民は、主人が時として行う宥すべき悪であるとして堪えた。それは自分の国の兵隊もすることだった。米軍は飢えている人民に、食糧を与えた。しかしPXから流れ出る闇物資は、レイテ島の経済と道徳を破壊した。PXで1ドルで売っているタバコ1包は、町では10ドルで売れた。それでPXのウィイスキーを買えば、25ドルで売れるのである。つまり二度PXとタクロバンの闇屋の店先を往復すれば、1ドルの金が25ドルになるということである。米兵だけではなく、それと結託した闇商人も儲けた。彼等はそれまで日本軍と協力して、財産を増やした商人と地主であった。
ー1946年、正式に独立政府が発足してからも、復興援助金をめぐって闇経済が続いた。同じことは戦後日本でも行われたが、農業的なフィリピン経済に及ぼした影響は破壊的だった。独立後第一回大統領に当選したのは、マッカーサーと共にレイテ島に上陸したオスメニアではなく、買弁資本家、地主、新聞を後楯とした、対日協力者のロハスであった、多くの第三世界の新興国と同じく、独立は名目的なもので、フィリピンが実質的にアメリカの植民地であることに変わりはなかった。経済援助を与える代わりに、米軍は既存の基地を99年使用出来た(後25年に短縮された)。
ーアメリカ人はフィリピン人と同じ条件で実業に従事出来たので、全ては独立前より悪くなった。多くの経済専門家が渡って来て政府に忠告し、賄賂を取った。フィリピンの政治の癌である収賄と腐敗は増大した。戦後ルソン島中部を本拠とするフクバラバップが勢力を増し、バタンガス地方まで蔓延したのはこういう条件にも基づいている。それは1952年頃、アメリカ貸与の兵器と、マグサイサイの皆殺し戦術、農地改革の空手形によって蜂起したが、1965年ベトナム北爆開始以後の社会不安、インフレと不況の増進と共に形を替えて復活している。
ーフクは日本の占領時代に結成された対日共産ゲリラで、大土地所有の発達したタルラック、バンバンガを根拠としていた。米軍のリンガエン上陸に呼応して、その進路に当る地方を解放した。しかしやがて進駐した米軍は共産主義に毒されたゲリラを、掠奪強盗の罪で一斉に逮捕した。フィリピンを人民の幸福のためではなく、アメリカとフィリピンの地主資本の利益になるように解放することが、マッカーサーの目的だったからである。
ーフィリピンは1885年から1945年までの50年の間に4度主人を替えたことになる。1898年までのスペイン、1941年までのアメリカ、45年までの日本、その後の再びアメリカである。従って1950年に60歳になった老人は、4代に渡って違った主人を目撃したわけである。彼は孫に教えた。「スペイン人はよくなかった。アメリカ人は悪かった。日本人は一層悪かった。しかし最低なのは二度目に来たアメリカ人だ」。これはアメリカ軍の長すぎる駐留にうんざりした現代日本人の作り話ではない。コレヒドール陥落後直ちにミンダナオ島のゲリラを組織しながら、西南太平洋司令部に対して批判的だったために、大佐にしかなれなかった理想主義者、応召工兵科ウインダル・ファーティグの伝記を書いたアメリカ人が、ダバオで採集した実話である。なぜこんな怨恨が積もってしまったのか。
1945年2月27日、フィリピンの主権を全面的に返還する儀式が、マニラのマラカニアン宮殿で行われた。マッカーサー元帥(彼はフィリピン解放後、二ミッツと共に元帥になっていた)は演説した。「大統領閣下、私は米国政府を代表し、憲法に基く全ての権利と責任を、法に従ってこの地に再び樹立された連邦政府へ移管することを厳粛に宣言します。お国はここに、自由国家群の一員としての光栄ある地位へ向って、自らの運命を切り開いて行く自由を再び得られたのです。お国の首都は、見る影もなく荒らされているものの、それが当然持つべき地位、東洋における民主主義のとりでとしての地位に、再び返り咲いたのです。あなた方の不屈の・・・」。
ーここで「大統領閣下」と呼びかけられているのはオスメニアだが、彼がレイテ島にマッカーサーと共に上陸して、直ちに民政移管を受けた日、予算もスタッフも与えられず、その夜タクロバンの町で泊まるべき家を探しに行かなければならなかったことは、すでに書いた。その後もマッカーサーは、この無力な亡命大統領の民政執行に何の便宜も与えなかった。彼が破壊されたマニラ市と散逸した公文書の中で、途方に暮れるままにしておいた。わざとーと、その後の彼が取った処置から見ればいえる。彼がタクロバンから秘かに連絡していたのは、マニエル・ロハスだった。対日協力者は公職から追放されねばならない、というルーズベルトの言明にも拘らず、ラウレル政府の無任所相経済企画庁長官ロハスと交渉を始めていたのであった。
ーロハスは当時、山下将軍やラウレル大統領と共にバギオの山中にいたが、1945年4月少数の閣僚と共にアメリカ軍に投降する。一同は「逮捕」されたが、ロハスだけは「解放」される。対日協力の罪はなしとされ、フィリピン軍の准将に任命された。そして翌年、オスメニアを蹴落としてフィリピン共和国の初代大統領になった。これらいわゆる「フィリピンの解放」の経過を理解するためには、1941年12月、日本がフィリピンに侵入する前の米比関係、フィリピンの国内事情を見なくてはならない。
ー1934年米国議会はフィリピンの独立法案を通過させ、1946年の独立を約束した。これはアメリカが1898年、フィリピン人民の意志に反して、スペインと取引をしてフィリピンを植民地とした前非を悔いたわけではなく、フィリピンから無関税で流入する砂糖が、キューバ糖と結合した東部の資本と、中南部の糖業者(大根から砂糖を取る)を圧迫しはじめたからであった。しかしこの処置は必ずしも極東の植民地支配を希望する太平洋沿岸資本、大陸横断鉄道会社、及びこれらの全てを支配する銀行資本の意に添うものではなかった。フィリピン国内もまた独立の希望で一致してはいなかった。アメリカ資本と結びついて、自国民を植民地的に支配することを好んだ買弁資本、大地主、スペイン系資本は、独立によってうまい汁が吸えなくなるのを恐れた。独立を望む世論に押されて、10年後の独立が約束された後も、経済的調整については内部的に一致していなかった。
ーアメリカのフィリピンへの投資額は、1939年現在で、6億8663万2000ペソ(1ドル2ペソ計算)に達していた。これに対してフィリピンの民族資本は、二つのグループに分かれる。アメリカ資本と結びついた買弁資本、アメリカ向け輸出と原料調達資本と、国内向け二次製品加工の民族加工資本とである。しかし加工産業資本の発言力は極めて弱かった。アメリカは自国の農業部門の利益を保護し、同時にフィリピンの大地主、買弁資本の利益を保護しつつ、加工産業資本の発達を押えるかたちで独立法を作った。ケソン、オスメニア、ロハスらは、いずれも大地主、買弁資本と強く結びついていて、互いに権力を争っていた。
ー独立法の成立過程ではオスメニア=ロハス・グループがケソンと対立したが、コモンウェルス最初の1935年総選挙では、ケソンはオスメニアと組んで大統領に当選し、国内を統一した(オスメニアは最初から副大統領候補だった)。このコンビは1941年の選挙でも続く。アメリカに亡命したケソンは44年死亡し、オスメニアは自動的に大統領に昇格する。一方ロハスはラウレルに協力したとはいえ、ケソン政府の閣僚でいわゆる実力者であった。マニラのスペイン系資本ソリアノの顧問弁護士で、砂糖貴族デ・レオン財閥と婚姻関係にあった。「協力者は追放されねばならぬ」-これはフィリピンだけではなく、アジア、近東、ヨーロッパを含めた参戦枢軸国全般に対する連合国側の基本方針であったが、戦後処理の実際は必ずしもそうは行かなかった。
ーしかしフィリピンにおけるように、露骨に違反が行われたところはない。それは国務省の指令など屁とも思わない、マッカーサーの現実主義の結果であった。ダグラス・マッカーサーの父アーサーは、1898年アメリカがスペインに替ってフィリピンの主人になりに来た時、極東派遣軍の司令官で、その後3年続いたフィリピン人民の抵抗を容赦なく弾圧した(極東におけるアメリカ人の残虐行為のはじまりである)。1903年ダグラスは少尉候補生として、レイテ島タクロバンに勤務したことがあった。
ー彼のその後の経歴はアメリカ軍人として最も輝かしいもののひとつである。第一次大戦に師団長として従軍、3年間ウエストポイント校長(1919-22)を勤めた後、1930年11月アメリカ陸軍史上最年少の参謀総長になった。それまでに彼は2度フィリピンで勤務したことがあった。1735年、55歳で参謀総長をやめた時、ケソン大統領は彼を新しいコモンウェルスの軍事顧問に招いた。すでに日本は満州侵略を始めており、独立後のフィリピンを自主防衛できる軍隊を作り上げる必要があった。マッカーサーは10年のうちに25万の常備軍(国家警察を含む)と、それに釣り合った航空隊、魚雷艦隊を持てば、日本軍がどの群島のどこへ上陸しようと撃退し得ると考えた(これは日本の実力を過小評価した甘い計算だった)。
ー1941年7月、日米開戦の危機が迫った時、ルーズベルトは彼を中将として現役に復帰させ、極東にあるアメリカ軍全部の司令官とした。真珠湾の奇襲攻撃の後、B17を台湾に出撃させるのに躊躇し、クラークフィールドの飛行場に並んだまま撃破されてしまった不手際は、彼の自信過剰と過度の楽天性のためであった。この失敗は、その後のバターン半島籠城、レイテ反攻作戦の成功によって蔽い隠されていた。敗戦日本の事実上の最高統治者としての業績は、シーザー以来の名将ではないか、という幻想を生んだ。かつてニューギニア、レイテで容赦なく父や息子を殺した将軍を、12歳の子供であった日本人は、民主主義的理想に燃えた慈父の如きアメリカ人、と考えたのである。
ーしかし彼が日本降伏までの間に、フィリピンでしていたことを見れば、後に「アジア第一主義」と呼ばれたものに似た意見を側近に洩らしていた。「ヨーロッパは瀕死の状態にある。ヨーロッパは疲弊し打ちのめされており、ソ連が経済的、工業的に支配する地域になるであろう・・・数十億の住民を持つ太平洋に接する地域は、今後1万年に渡って、歴史の進路を決定するであろう!」。この奇妙に予言的な認識は、朝鮮戦争以後、共産主義国となった中国の脅威が現実となるまで、ワシントンのそれとはならなかった。しかし極東政策に関するマッカーサーとトルーマンの間の意見疎隔、いざこざの過程を通じて、波間にかくれた岩のように露見していたのである。フィリピンの戦後処理においては、それは水面に出放しであった。
ーフロンティア精神に燃え、野牛とインディアンを駆逐しながら、広漠たる北アメリカ大陸を西進したアメリカ人が、太平洋に達すると、そこから先には海しかなかった。あるのは海の向うの、フィリピン、日本、中国しかなかった。これはインド洋を回って来たヨーロッパ人によって極東と呼ばれた地域である。しかしフロンティア精神に燃える太平洋岸のアメリカ人は「極東」ではなく「極西」と呼んだ。1898年ハワイが併合されたのも、同年、理想主義的な東部のアメリカ人の反対を押し切ってフィリピンが領有植民地とされたのも、1898年行われた中国門戸開放宣言、つまり俺も仲間に入れろ、という主張も、これらフロンティアの声を代弁したものであった。

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