日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

იოსებ ჯუღაშვილი=Stalin A Political Biography by Isaac Deutscher★소비에트 사회주의 공화국 연방★География СССР・独裁者の「少年時代と青年時代」Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин


スターリン・政治的伝記(アイザック・ドイッチャー・上原和夫訳・みずず書房、69年)
第一章・少年時代と青年時代:
1875年か、それより1,2年前に、ヴィッサリオン・イヴァノヴィッチ(イヴァンのむすこ・訳注:ロシア人には姓名のほかに父称がある。父称は父の名前に男の場合はオヴィッチ、またはイッチ、女たちはオヴナをつけたもので普通の会話では名前と父称で相手を呼ぶ)ジュガシヴィリというコーカサス(カフカース)の青年が、コーカサスの首都(チフリス訳注:現トビリシ)に近いディディリロ村を離れて、グルジアの小さないなか町ゴリに住み着いた。彼はここで靴をつくる職人として小さな店を開いた。ヴィッサリオン・ジュガシヴィリはわずか10年前にはまだ農奴だったグルジアの農民のむすこだった。彼自身も生まれたときはグルジアの地主の持物扱いにされていた奴隷だった。一生奴隷として留まっていたら、彼は決して自由に故郷の村を離れて独立した職人になることはできなかったであろう。
彼の祖先たちはだれ1人こうしたことはできなかった。彼らは土地に縛り付けられていた。せいぜいできることは、1人の地主の手から他の地主の手に移ることだけだった。ヴィッサリオンの少年時代でさえ、まだ「50人または150人の農奴付き土地500エーカーまたは1000エーカー」売りたしとか買いたしとかいう地主の広告がグルジアの新聞にのる有様だった。こうした農奴の取引きにはごまかしがよくあった。グルジアの裁判所の古い記録文書をみると、同じ農奴の一家が3人またはそれ以上の買手に同時に売り渡された事件がいくつか取扱われている。だから、ヴィッサリオンは希望に胸をふくらませながら故郷の村を離れたに違いない。彼は自由な人となった。これからは独立した職人として、ある程度豊かな生活を嘗めるようになると期待していたのだろう。
ゴリで、彼は彼と同じような卑しい生まれの少女エカテリーナと結婚した。彼女はガンバレウリ村の出身で、農奴ゲーオルギー・ゲラゼの娘だった。貧農の娘がよくそうしていたように、彼女もまたアルメニア人かロシア人の中流家庭の女中になるため町にでてきたのかもしれない(コーカサスの中産階級はロシア人かアルメニア人かユダヤ人だった。市民階級としてのグルジア人はまだほとんど生まれていなかったーグルジア人は小貴族か農奴のどちらかだった)。エカテリーナはヴィッサリオン・ジュガシヴィリと結婚したときはわずか15歳だった。亜熱帯の太陽に恵まれて、人間もぶどうと同じように早く成熟するところでは、早婚は珍しくなかった。ジュガシヴィリ夫婦はゴリの町はずれに貧しい世帯を構えた。家賃は月1ルーブル半(約2シリング)、住居はたった1部屋、それに台所がついているだけで、部屋の広さはわずか5平方ヤードだった。
小さな1つの窓からやっと日光がさしこむ程度で、中は薄暗かった。ドアをあけるとすぐ殺風景な中庭だが、家の床と中庭の間には階段がなく、同じ高さだったので、雨の日には泥や雨水が流れこむのだった。床はむき出しのれん瓦のままで、家具といえば、小さなテーブル、腰掛け、ソファー、わらぶとんを敷いた板張りのベッドがそれぞれ1つあるだけだった。ジュガシヴィリ夫妻の住居はいま記念館となり、ここを訪れる多くの観光客に公開されている。ヴィッサリオン・ジュガシヴィリの働いていた、ちっぽけな店も、古い、ガタガタの椅子、金づち、靴型ともに公開されている。この薄暗い、家賃1ルーブル半の家で、エカテリーナは1875年から78年にかけて3人の子どもを生んだが、3人とも生まれて間もなく死んでしまった。エカテリーナは1879年12月1日に4番目の子供生んだ。その時彼女は20になるかならずであった。気まぐれな運命のお陰で、この子供は生きのび、大きくなるにつれ、いうことをきかない屈強な少年となった。
洗礼のとき、彼にヨシフという名前が与えられた。つまり、後にヨシフ・スターリンという名前で有名になったヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリがこの世に現れたのを記録したのは、当時戸籍係りをも勤めていた、ここのギリシャ正教の司祭だったのである。彼の幼年時代についてはほとんど何も知られていない。6つか7つのとき、彼はほうそうにかかり、顔にあばたが残った。彼が2度目に病気になったのは、左手のできものがひどくなって敗血症になったときだった。後年の彼の思い出によると、死ぬところだったという。彼は義妹のA・B・アエルーエヴァにこう語るのだった。「当時、私が助かったのは体が丈夫だったせいか、それとも村のやぶ医者の膏薬のお陰だったかわからない」。病気は直ったが、左手の肘がうまく曲がらなくなった。こうした、ちょっとした差しさわりのため、未来の大元帥スターリンは1916年、兵役に適せずといい渡された。
彼は彼の生まれついた、ごみごみした貧困のうちに生長した。ヴィッサリオン・ジュガシヴィリは下級中産階級にはい上がろうと努力したが、ムダだった。靴屋という彼の商売では生活費を稼ぎ出せなかった。彼の妻は「やりくりをつけるため、日夜、奴隷のように働かなければならなかった。・・・いやでも応でも外に出て、洗濯女として働くよりほかなかった」。家賃の1ルーブル半でさえ、彼女の稼いだ金で支払われた。スターリンの伝記作家のなかには、このことからみて、ヴィッサリオン・ジュガシヴィリは自分の稼いだ、わずかな金をウォッカに使ってしまったに違いないと考えるものがいる。スターリンの同級生の回想録をみても、この結論には若干の根拠がある。東欧諸国の多くの言葉のうちに、「靴屋のように酔払っている」という言い回しがよく見出されるが、酔払うことはいわば靴屋の職業病であった。
さらに、ヴィッサリオンは妻子に乱暴だったといわれている。「恐ろしい、不当ななぐりつけがこの少年を父と同じような冷酷、無残な人にしたのだ」とスターリンの少年時代の友人、イレマシヴィリが書いている。こうした冷酷な父に対してスターリンがわが身を守るためにとった手段は、不信であり、警戒心であり、逃げ口上を設けて感情を偽り、ひたすらに堪え忍んでゆくことであった。この教訓と並んで、戦いでのずるさをも身につけたが、これは後に彼に役立つこととなった。ヴィッサリオン・ジュガシヴィリをこのように弱いものいじめの酔払いとして画すだけでは彼に対する正しい評価とはいえないだろう。彼には進取の気象、世間に対する好奇心といったよいところもあったに違いない。さもなければ、代々農奴の子供だった彼が、物憂い故郷の農村生活を不安定な都会生活に切り換えることは到底できなかったであろう。
東欧では「靴屋の哲学者」という言葉は「酔払いの靴屋」という言葉と同じようにいいならされた言葉である。この2つの通り言葉はしばしば相伴って現れる職業的性癖を示している。スターリンが内省的思考能力を受け継いだのは恐らく父親からであったろう。彼の父を家族に乱暴する、むっつりした、とげとげしい人にしてしまった心理的もつれを解くかぎをスターリン自身が彼の初期の論文のなかで無意識のうちに与えている。独立した職人としてたつことに失敗したヴィッサリオンはゴリの街と家族から離れてチフリスに赴き、ここでアデリハノフ製靴工場の労働者となった。彼の新しい地位を彼が恥ずかしく感じたことは明らかだった。彼の野心は自分自身の主人となることだったが、土地に縛られた農奴から賃金に縛られた労働者へと同じ奴隷状態にもどったからだった。
彼は家族のパンの稼ぎ手であることを止めてしまったが、できるだけ長い間彼の運命と闘った。恐らく、彼の怒りっぽい性質と感情の爆発はここからきているのだろう。スターリンはそのパンフレットのなかで、彼自身の父の体験をもとにしてマルクス主義理論の一端を具体的に説明している。「仕事する小さな店を構えているが、大企業との競争には太刀打ちできない靴屋を想像して見給え。この靴屋は店を閉じて、例えばアデリハノフとかいう人に雇われて、チフリスの製靴工場に入った。彼がアデリハノフの工場に来たのは、一生労働者として留まるためではなく、小金を貯めてささやかな資金をつくり、それでまた自分の小さな店を開くためなのだ。この靴屋の立場はすでにプロレタリアだが、彼の意識はまだプロレタリアではなく飽くまでプチブルだということはわかるだろう」。この論文の筆者がそのテーマの実例に利用した靴屋がだれであったかについてはいまさらいうまでもない。仕事する小さな店、店を開いてからの不運、さらに同じ雇主の名前まで出しているところからみてもわかるように、すべて父親のヴィッサリオンの一生にでてくるものである。ヴァッサリオンの心をゆがめたものは彼の社会的地位と”プチ・ブル”的野心のもつれであった。ヴァッサリオンは”ささやかな資金をつくって”店を再開することに成功しなかった。彼は1890年チフリスで死んだが、そのときむすこのスターリンは11歳だった。妻のエカテリナは未亡人となったが、洗濯女として自分と子供の生活費をかせぐのには慣れていたから、父親が死んでも家族の物質的状態には変わりがなかっただろう。年が経つにつれ、死んだ父親の面影はむすこのヨシフの心から薄らいでいったー彼が父親のことを口に出したことはほとんどなかった。スターリンと彼の公認の伝記を書いた人がヴァッサオンについて固い沈黙を守っているのは、もちろん”冷酷ななぐりつけ”についての思い出があるためだといえよう。
エカテリナ・シュガシヴィリについては、はるかに多くのことが知られている。彼女はロシアの詩人が次のように歌った、彼女と同時代の大多数の婦人と違ったところはほとんどなかった。運命は三つの試練を必要としていた。第一は奴隷と結婚すること 第二は奴隷のむすこの母となること 第三は死ぬまで奴隷に従うこと この恐ろしい試練の一つ一つがロシアの大地の女につきまとうのだ。エカテリナは東方諸国の農婦にみられる、限りない忍耐力と従順さがあった。彼女は夫に恨みを少しも抱かず、力強く運命に耐えた。彼女は生き残った独りむすこに愛情の全部を傾けた。彼女は宗教心が深かった。辛いときは教会にただ一つの慰安を見出した。彼女は読み書きができなかった。年をとってからやっと字を読むことを習いはじめ、有名なむすこを持っても恥ずかしくない母親であることを示した。苦悩に充ちた長い一生を送りながらも、その苛酷さに性格をゆがめられなかった人に自然とそなわる、”内に秘めた、穏やかな威厳”には彼女を知るすべての人が一致して感慨した。ケケ(エカテリナの愛称)おばあさんのむすこが偉くなってからも、相変わらずつつましい農村の婦人であった。彼女がしばらくむすこと一緒にクレムリンで暮していたときも、明るいコーカサスの住みなれた環境に帰りたがった。そして彼女は事実帰っていったのである。彼女は偉人の母としての役割に背かないように生きてゆこうと努力した。そのやり方は半ばこっけいだったが、同時に感動的でもあった。アリルーエヴァは、コーカサスの保養地ボルゾムでジュガシヴィリ老夫人と会ったときのことを書いている。耐えがたい暑さなのに、ものものしげに重たそうな着物を着ている老夫人をみて、アリルーエヴァがなぜそんな窮屈な服装をしているかと訊ねた。すると老夫人はこう答えた。「こうしていなければいけないのです・・・御存知のように、この辺りの人はみんな私がだれだか知っているのです」

9歳のむすこをゴリの宗教学校に送ることは、エカテリナとしては実に思い切った決意からであった。この歳ぐらいで、貧しい両親の子供が靴屋か大工の従弟となることは珍しくなかった。だがそれはエカテリナがむすこに望んだ、身のたて方ではなかった。そうしたことは彼女の運命が楽になろうとも望まなかった。彼女はソソ(原注:ソソはヨシフに対するグルジア語の愛称。ソセロとすれば、さらに”小さい””可愛い”という意味が強くなる)がヴァッサリオンの失敗した点で成功し、両親の卑しい地位より上にのぼることを願った。思うまま空想をはせたときには、彼女は隣人からうやうやしくあいさつされている教区の司祭としての彼の姿を画いたに違いない。こうした将来への見通しは頭がくらくらするほどだったーわずか数年前には、宗教学校の門は農民出身の子弟にまだ閉ざされていた。ソソは1888年から1893年までの五ヵ年間、ゴリの学校に在学した。大抵の場合、彼のクラスの最も優秀な生徒の一人であり、一番にさえなったこともあった。この貧しい、あばた面の彼らが実に異常な記憶力を持ち、学課の習得にほとんど苦労していないことは、教師からも同級生からもすぐと注目された。少年はまた彼に自己主張の一面があることにも気が付いた。自分の優秀さで他人をどうしても圧倒したいという気持ちは、彼の同級生の大部分が彼より金持ちの家の子供であり、なかにはこの身分の違いを意識して彼を見下すものがいるということに気がつくにつれ、いよいよ強まった。見下されたとはいえ、教室内では、彼に強みがあった。彼は、ぶどう酒や小麦の商人の甘やかされた孫や子供よりずっとすらすらと、習ったことを暗誦することができた。また運動場ではこの靴屋の子供は敏捷、勇敢という点で、彼らよりはるかに勝っていた。このため彼らは黙って彼のいいなりに動いた。スターリンが階級の相違と階級の憎しみを最初に味わったのは、この辺ぴな教区の学校だった。
彼が成人後絶えず大きな関心を注ぐこととなった問題をはじめてかいま見たのも彼がここにいるときだった。それは少数民族の問題である。グルジア語はシュガシヴィリ一家にとって母国語だった。エカテリナはロシア語を全然知らなかった。彼女の夫がかたことのロシア語を話せたかどうかも疑わしい。学校での授業は大抵ロシア語で行われたーグルジア語の授業は毎週数回しか修業課程に挙げられていなかった。ソソは、彼の年頃からいって珍しくないことだが、すらすらとロシア語を吸収した。だが学校のそとと家庭では、グルジア語を話し続けた。彼の同級生のなかには、アルメニア語、トルコ語、コーカサスの方言を母国語としているものもあったようだ。学校では、こうした、あらゆる自国語が沈黙を強いられ、ロシア語が絶対的に支配した。政府の強行した、このロシア化政策はうずく憎悪で迎えられた。70年代のグルジアでは、学校騒動がしばしば起こった。ロシア人教師が襲われてなぐられ、学生は校舎に放火した。シュガシヴィリがゴリの学校に在学した数年間は、こうした不穏なことはなかったが、くすぶる怒りは多分にあったに違いない。
彼の一生に早くから影響を与えたもののなかには、彼の生まれた町を中心とする自然の風物、伝統、民間伝承があった。ゴリは土地の肥えた流域に小麦畑とぶどう畑が並んでいる三つの河の合流点にある。ゴリの町全体が半ば農村、半ば都市といったところで、曲りくねった小路の間には田野が散在していた。こうした田野、町の外のあちこちに見られるがけ、クラ河とその他の二つの河がくり広げる岸辺、古いビザンチン時代の要害の城壁ーこれらはすべて少年スターリンが灰色に塗りつぶされた両親の家から逃れて自由に遊び回るに十二分な場所を与えた。自然の風物自体が、貧民街に住むこの少年のために、彼の家庭のうっとうしさ、平板さをある程度補ってくれた。この辺りは鳥、獣、植物、果物が豊富だったー金羊毛皮の国だといわれてきたのは理由のないわけではない(訳注:ギリシャ神話によるとイアソーンは舟アルゴーにのって、コルヒスに遠征し、コルヒスの王女メーデイアの助けで竜を殺して金羊毛皮を手に入れた。金羊毛皮は日光の象徴だと解釈されている。なお、きじがはじめてギリシャにもたらされたのはここを流れるツァシス河流域からで、この河の名前をとって名付けられた、英語のきじ(pheasant)はこれに由来している)。こうした健康的な環境は未来のスターリンの強じんな体質をつくり上げるのに役立った。またこの辺りは周知のようにロマンスと伝統も豊富だった。アレキサンダー大王もジンギスカンもここで戦った。ペルシア、トルコの侵入の話しは教科書にのっていた。民謡、民話は有名なコーカサスの羨賊について物語っていた。民間伝承では、これらの羨賊はしばしば民族的または人気のある英雄であった。彼らはロシアのツァーリと戦うグルジアの貴族、農奴の指導者、民衆の恨みをそそぐ人たちであり、その心は、ふみ虐げられ、貧しい人たちにはやさしく、大きく広げられていたが、金持ちに対しては悪賢い憎しみに燃えていた。彼らの隠れ家は雪に覆われた山のいただきと絶壁のほら穴であり、ここから素早く街道に舞い下りてきて敵を追いつめ、全滅させるのであった。当時でさえ、ゴリの周辺には追いはぎが横行していた。この辺りには、貧困に追いつめられた、多数のグルジア小貴族が割拠していた。彼らは定まった社会的地位もきまった収入もなく、心理的には依然、過去のものとなりつつあった部族確執の世界に住んでいた。彼らは、偶然彼らの誇りを傷つけなどして彼らの敵意を買った同じグルジアの小貴族や他の人たちに対して、想像を絶するような攻撃、略奪を行った。すると、グルジア全土はその話しになり響くのだった。こうした武勲は山賊行為に近かったが。ロマンチックな響きがなくはなかった。グルジアのロビン・フッドたち(訳注、中世イギリスの伝統的な義賊)が示した手本は、ゴリの絶壁や田野で山賊遊びをする少年たちが真似たに違いない。
こういうわけだから、ゴリでの五カ年の学校生活は若いジュガシヴィリにとって全く不幸だったわけではない。だが、ここですでに彼の心のなかには、社会的、民族的不平等に対する意識が目覚めはじめ、これを彼が、後年の反逆者、革命家にしたてあげたのであった。しかし、この意識がどの程度まで強かったかについては述べることができない。ソヴィエト政府公認のスターリン伝記作家と回想録執筆者は、彼らの英雄スターリンがすでにゴリでダーウィン(訳注、1809-82、イギリスの博物学者、進化論の提唱者)を読んで無神論者になったと主張する。そんなに若い年頃でダーウィンが読めたかどうか疑問だ。だが、その大要を伝えた通俗的な解説書から、この新しい理論を漠然とつかみとって、反宗教的考えに傾いたことは考えられる。彼の精神的発展が早熟であったことは事実として確かめられている。ゴリの学校を卒業してからわずか1年後の1895年に、彼はすでにグルジアの主要定期刊行物に詩を発表している。ゴリにいたとき詩作を試みたに違いない。スターリンの公認伝記作家はまた、彼がはじめてマルクス主義的思想を知ったのはゴリだったと主張する。だが、その可能性はきわめて少ないと思われる。当時、マルクス主義は外コーカサスの中心都市チフリスでわずかの新しい信奉者を獲得したばかりで、その影響力がゴリの学校まで広がっていたとはほとんど考えられない。スターリンのための弁明者たちは、彼の正統派”マルクス・レーニン主義”を少年時代にまで投影させることに余りにも熱心なのである。その後の事実は次の仮説しか保証していないようだ。若いジュガシヴィリは反抗的気分を持ってゴリの学校を卒業した。その気分には社会的不正に対する抗議と並んで半ばロマンチックなグルジアに対する愛国心が働いていた。上級学級在学中、彼は社会的思想よりグルジアの詩が持つ郷愁的民族主義にはるかに大きな印象を受けていた。彼と同じ学校にいたヴァノ・ケツホヴェリは次のように書いている。「ゴリの学校の上級で、われわれはグルジア文学を知ったが、我々の勉強を指導して、われわれの考え方にはっきりした方向を与えてくれる先生はいなかった。チャフチャヴェッゼ(訳注、イリヤ・G・D・1837-1907、グルジア貴族の出身で、ペテルブルグ大学在学中学生運動に参加して退校。帰国して文芸政治誌イザリヤを編集する。(1877-1902)詩のほかに”こじき物語””これでも人か”などの小説があり、グルジア文学における批判的リアリズムの創始者といわれる。)の詩”盗賊カコ”はわれわれに深い感慨を与えた。カズペギの英雄たちはわれわれの若い心にわれわれの国土に対する愛を呼び起こした。学校卒業するときには、われわれはみな祖国のために尽そうという願望に燃えていた。だが、どういう形で祖国のために尽すのかについて、はっきりした考えを持っているものは1人もいなかった」ジュガシヴィリは慎重をかまえて彼の反抗的気持ちを教師に隠していたから模範生だとみられ、教師たちは彼が彼の一生の次の段階に進むのを助けた。
ー次の段階は、1894年秋、チフリスの神学校への入学許可であった。彼の母の夢は実現しつつあるようにみえた。だが、貧しい洗濯女では彼の学費の手助けをすることができなかった。ゴリの学校長と司祭は彼に学資金が与えられるように取りはからった。有望な少年スターリンは彼の前にひらけた見通しに心が跳ったに違いない。夢のような小さな町から四方に広がった、騒々しいコーカサスの首都に移ることだけでも目覚しかった。15歳でも、彼は大人びた考えを持っていたので、彼の新しい地位が、農民の子供には長い間手の届かなかった有利な立場を与えてくれることを十分に意識した。彼は、自分の社会的地位が高まったという気持ちで心をはずませながら、チフリスまでの40マイルの道を旅行したに違いない。この気持ちは、約20年前に彼の父をディディーロからゴリへの旅に誘い出した気持ちよりはるかに現実的であった。彼が神学校に留まっていたのは、1894年10月から1899年5月までであった。より幅広い、どんな影響力が彼の思想を形成していったのであろうか。19世紀の最後の10年間は、グルジア社会は2つの問題にゆさぶられた。その1つはグルジアとロシアとの関係で、他の1つはコーカサスにおける農奴制廃止の影響であった。19世紀を通じて、帝政ロシアはカフカースを征服し、この征服の結果を確保、強化する努力を続けた。1783年以来ロシアの従属国だったグルジアは完全に独立を失った。グルジア人の運命はいくつかの点ではポーランド人に似ている。だが、新しい世代ごとに武器をとって独立のために立ち上がったポーランド人と違って、グルジア人はロシアから離脱する努力を真剣に試みなかった。彼らにあっては、反ロ感情は民族的要望に対する比較的な無関心と結び付いていた。ロシアに対する不満な気持ちは、ともかくグルジアには独立を維持する見込みはなく、考えられるすべての征服者のうちで一番恐ろしくないのはロシアだという意識で和らげられた。グルジア最後の藩主たちは、トルコとペルシャが彼らの国土を征服する構えを示したとき、帝制ロシアの前に屈した。宗教的考慮がこの選択を決定したーグルジアはロシアと同じようにギリシャ正教に所属していた。ロシアからみれば、コーカサスではオットーマン帝国(訳注、12世紀にセルジュック・トントルコは中東、バルカン、北アフリカを含む大帝国を建てたが、18,9両世紀を通じてロシアとの紛争は絶えなかった。第一次世界大戦後解体した。)に対する練兵場であり、ロシアにとってこれ以上重要なものは、ドナウ流域のバルカン諸国があるだけであった。ロシアは立派なグルジア軍用道路を設け、ついでコーカサス鉄道網を建設したが、これによってこの地方の産業開発が促進された。これはロシアによるコーカサス支配の暗い面を償うものの一つであった。
あと一つはグルジアに対するロシア文化の影響であった。グルジア人はロシア人よりはるかに古い、むかしの文化を誇りとしていたが、物の考え方は東洋の半部族的、半封建的社会のそれであった。グルジアに対しては、ロシアはヨーロッパを代弁した。歴史家、G・ハチャプリッゼは次のように書いている。「西欧とくにロシアの影響によって、ヨーロッパの風俗習慣がグルジア上流階級の生活のなかに入ってきた」ツァーリの政策は矛盾に充ちていた。一方では、グルジアのロシア化に努めるとともに、他方ではグルジアの貴族、聖職者の忠誠を確保しようと努力した。グルジア最後の王朝の諸王は中央ロシアかシベリアに移送されたが、これら追放された諸王のむすこたちはグルジア国民のため貴重な文化活動を行うことを許されたーだが、それは聖ペテルブルグ(訳注、英語でいえば、セント・ピーターズバーグ、第一次大戦開始直後ブルグがドイツ語系の単語のためペトログラードと改称され、されにレーニン死去数日後の1924年1月26日、レニングラードと改称された。1712年から1918年までのロシアの首都、なおこの本の著者はペトログラードと改称されてからも依然ぺテルブルグの名称を使用している。)からであった。そのなかにはバグラチオー兄弟のように、グルジアの”啓発運動”のスポークスマンとなって、多くのヨーロッパ文学作品をグルジア語に翻訳し、一方ではグルジアの文学、歴史をロシア社会に紹介した人たちがいた。ツァーリ、ニコライ1世はテイムラズ・バグラチオーニを帝国アカデミーの名誉会員にさえ任命した。これらの影響と並んで、ロシアの革命思想がコーカサスに広がった。ツァーリのためこの地方を征服した人は、1812年のボロジノの戦い(訳注、ロシア軍がナポレオン1世の遠征軍とはじめて本格的に戦ったところ。ロシア軍は頑強の抵抗のうち陣地を撤退した。)の英雄、エルモロフ将軍(訳注、アレクセイ・P、1772-1861、ナポレオン戦争に参加。1819-27年までコーカサス総督となり、”コーカサスのプロコンスル”と呼ばれた。)であった”コーカサスのプロコンスル”(訳注、プロコンスルは元来、古代ローマで、執政官の任期終了後地方提督となったもの、古くは戦争遂行のため執政官の任期を延長したものを指した。転じて植民地の提督、占領軍司令官などの意味に用いられる。)は、1825年12月の聖ペテルブルグでの自由主義的反乱を指導したデカプリスト(訳注、ニコライ1世の即位に当って主として貴族出身の士官が中心となって、自由主義的憲法と農奴制の廃止を要求し、反乱を起した。組織が不十分なため、簡単に鎮圧された、5人が絞首刑を宣告、多くの人がシベリアに追放された。12月(ロシア語でデカープリ)に起っためその参加者はデカプリストと呼ばれた。)の考え方にある程度同調していた。彼はこの反乱者たちと関係のあった偉大な作家たちープーシキン(訳注、アレクサンドルー1830、世界的ロシアの作家、代表作”オホーギン”、決闘で死去。)、彼の影響であり、政治的顧問であったグリボエードフ(訳注、アレクサンドル・S・1795-1829、代表作は劇”知恵の悲しみ”一つだけである。夫人はグルジアの王女。ペルシャ公使在任中、ロシアに対する反乱のため殺された。なおエルモロフはデカプリストの反乱直後グリボエードフに警告して彼の危険文書を焼却され、逮捕後はニコライ1世に抗議の書簡を提出したが、ニコライ1世の側近は書簡の調子が余り激しいので、ニコライ1世にみせなかったといわれる。)、ぺスツジェフ(マルリンスキー)(訳注、アレクサンドル・A/1797-1837、士官としてデカプリストの反乱に参加。シベリアに追放されたが、1929年一兵卒としてコーカサスに移され、再び文筆活動を行った。戦死。30年代はじめにマルリンスキーという筆名で、小説を発表、代表作はコーカサスの戦いを扱った”アンマラート・ベク”。)などをかくまった。反乱に参加した連隊がそのままコーカサスに追い払われた。そのなかには、被免された、多くのインテリ士官が一兵卒として勤務した。これらの追放された人たちは教養あるグルジア人と接触を保ち、彼らに強い影響を与えた。彼らはもちろんグルジアの愛国主義に共鳴した。またグルジアの友人より進んだ考えを持っていたので、グルジアの農奴解放を主張した。
グルジア、ロシア間の、これらの初期の接触は、ロシアの自由主義的、革命的思想が引き続き影響を及ぼす地盤を準備した。ツァーリ自身も、無意識であるが、これを大いに促進した。政治犯の追放地の一つとしてコーカサスを選んだからである。一つの世代から次の世代へと常に、新しいロシアの革命家、新しい思想が、チフリス、クタイスその他この地方の各所に現れた。19世紀初期の軍人出身の農業社会主義者、ナロードニキ(訳注、ロシアは資本主義を経なくても、古くからある農村共同体を基礎とて社会主義を実施できると主張した人たちで、自ら農村に入って宣伝を試みたが、結局失敗に終わった。)であった。次に来たのは、ポーランドの反乱参加者(訳注、ポーランドはウィーン会議後、1830-31,1863-64年の4回にわたって、ロシアに対して反乱を起して、ロシア領に併合された。)、ロシアのテロリスト(訳注、ナロードニキの失敗後、ロシアの急進分子はテロ行為に出、アレクサンドル2世をはじめ政府要人がしばしば暗殺された。)であったが、19世紀末に近づくと、全く新しい型の革命家が現れた。それは中央ロシアから追放された、マルクス主義の工場労働者であり、そのなかには、後にソヴィエト最高会議幹部会議長(大統領に当る)となったミハイル・カリーニン(訳注、1875-1946、農民出身、1897年革命運動に参加、間もなくレーニン派に所属したが、穏健な立場をとり、第一次大戦中、レーニンの敗北主義、ボルシェヴィキの政権獲得に反対した。革命後、中央委員、政治局員、ソヴィエト中央執行委員会議長を経て最高会議幹部会議長となった(1937-46)ただしこれは名誉職で実権を伴わなかった。)、ジュガシヴィリ・スターリンの義父でボルシェヴィキ党の組織活動家であったセルゲイ・アリルーイェフ(訳注、1866-1945、農民出身、1896年チフリスの社会民主党に入党、グルジアの政治ストを指導する。1907年ぺテルブルグに移り、10月革命後、主としてモスクワ、レニングラードで組織活動に従事した。)が含まれていた。
ロシアの反政府分子は、このように進歩的思想をコーカサスに持ちこんだが、ツァーリは彼らの考える戦略的利害と矛盾しない限り、この地方の社会組織をできるだけ未開の状態に留めておくよう全力を尽した。ロシアでは、農奴制は1861年に廃止された。グルジアの農奴制は1864-9まで延期された。解放後でさえー1912年まではグルジアの農奴制は”一時的義務負担”(訳注、農奴解放で永久的利用を許される分与地を農民が買いとる契約が地主との間で結ばれるまで、農民が地主に対して一定の 役または貢租を負担すること。)という形で残存した。グルジア貴族の協力を維持することに熱心なロシア政府は改革を延期した。ロシアの農奴解放のニュースがコーカサスの農村に広がっていったとき、はじめてロシア政府は止むを得ず、この問題と取り組んだ。農奴は反乱的気分にあった。彼らの長い農民暴動(訳注、ジャクリとは1358年5月28日を期して、パリ周辺地方の農民が蜂起した暴動のことで、その名称は農民の通称ジャックに由来する。この暴動は貴族によって極めて苛酷に鎮圧された。)の歴史からみて、彼らの解放をこれ以上のばすことは余りにも危険だった。だがグルジアの改革は不徹底なロシアの改革よりさらに、はるかに地主にとって有利だった。農奴は個人的自由を獲得したが、農奴として保有していた土地の約半分を取りあげられた。保有を許された土地に対して、彼らの資力をはるかに越える補償金を払わなければならなかった。農民の地主に対する経済的依存は、奴隷解放後アメリカの南部で行われた刈分小作または”一時的義務負担”についての合意という形で直ちに現われた。ロシア帝制に決して敵意を抱いていない当局筋が、1911年になっても次のように述べている。「現在のロシアでは、農奴制は遠い過去の歴史の悪夢として記憶されているに過ぎない。だが、外コーカサスとくにグルジアでは、一時的義務負担を中止する法律はまだ一つも通過していない・・・われわれの農民の経済的依存は・・・この50年間にますます強まり、新しい農奴制の形をとるようになった」。
このように、農奴制は若いジュガシヴィリの生活環境のいたるところにしみこんでいた。それは直接影響する農民のうえに重くのしかかっていたばかりではなかった。人間関係、家庭、教会、学校、心理的態度、生活様式の各面に対しても大きな重圧となって現われていた。これはもちろんある程度までは帝政ロシア全体についていえることだった。ロシアの農奴制廃止とアメリカの奴隷解放を比較して、レーニンは1861年のロシアの改革はアメリカのそれよりはるかに徹底していなかった点を指摘した。「’このため’、半世紀を経た今日、ロシア人は黒人’以上’に奴隷制の名残りを示している」レーニンのこの痛烈な批判は確かに誇張されていた。だが、ロシア社会がが封建的過去のあらゆる遺産を永遠にかなぐり捨てることをもどかしげに待ち望んでいた革命的プロパガンジストにとっては、誇張は当然であった。ロシア人については全面的な真実とはいえないことも、コーカサス人にとっては依然真実であった。彼らの社会的存在は、余りにも生々しい”奴隷制の名残り”を余りにも多く示していた。農奴制から生まれた生活様式を特徴付けたものは、1人の人間が他の人間を人目もはばからず乱暴に左右できること、仮面をつけない厳格な社会諸階級制と原始的な暴力の支配、人間的威厳の喪失であった。一般的にいって、公然とした組織活動によって自己を防衛できない、暗黒裡にとり残された被圧迫者たちがとり得る主要な武器は、自己を偽り、他人を欺き、暴力行為にでることであった。チフリスの神学校は他にはめったにみられない妙な教育機関だった。これはグルジアばかりでなくコーカサス全体を通じて、ただ一つとはいえないにしても、最も重要だとみなされていた高等学校であった。これはこの地方のインテリを育て上げた主な温床であった。また同時に、農奴制の精神的保存地区でもあった。進歩的な社会的、政治的思想が最も直接的に浸透して、封建的、神学的思考方式と衝突したのはこの学校においてであった。
神学校は兵舎の感があった。この内部の生活には、厳格な修道士たちによってきびしい画一化が課せられていた。入学者の背後で校門が一旦閉じられた以上、外界との完全な隔離が要求された。担任の修道士に申し出れば、2時間の外出許可を受けることができたが、原則として、神学生は日夜校内に留まるべきものだと考えられていた。1日の日課はスコラ的神学の讃義と果てしない祈りで充たされた。家庭の貧しい学生は食うや食わずの生活を続け、2,30人の学生が1つの共同寝室に押しこめられた。精神的には、この学校は半ば僧院で半ば兵舎だった。かつてここの学生だった人が述べている。「生活は悲しく、単調だった。夜昼となく、校舎の壁のなかに閉じこめられたわれわれは、何も罪がないのに数年間をそこで送らなければばらない囚人のように感じた。われわれはみな元気がなく、暗い顔をしていた。若々しい喜びは室内と廊下で押しひしがれてしまい・・・表に現われることはほとんどなかった。時々、青年の熱情が燃え上がることもあったが、それは修道士や上級生の監督係によって直ちに押さえつけられた」学生は一般図書館から本を借りることを禁じられていた。修道士の許可した本しか読めなかった。この神学校はもちろんロシア化のための一機関であった。校則違反は独房監禁で罰せられた。修道士は、学生たちの持ち物を点検し、彼らの会話を盗み聞き、少しでも疑わしい点があれば校長に密告し、スパイの目で学生の思想傾向と行状を熱心に追求した。だが、この陰うつな神学校は政治的反抗分子の重要な一拠点でもあった。後年、グルジアばかりでなく、ロシアの世論の指導者、全国的に著名な人物となった多くの人はこの壁に囲まれながらその形成期を過した。外コーカサス共産大学歴史学部は1930年、チフリス憲兵隊の記録文書を公表したが、そのなかには神学校内の”政治的危険思想”の現われについての報告が含まれている。1873年からジュガシヴィリが入学を許可されたときまでの20年間にわたるこの報告は、当時の学生の精神的動揺のなかでさまざまの思想が活発に芽生えつつあったことを十分にうかがわせる。

憲兵大佐はすでに、1873年に、学生のなかにはダーウィン、パクル(1821-62、イギリスの歴史家、代表作、「文明史」)、ミル(1828-89、ニコライ・Gロシアの急進的民主主義者ナロードニキの理論的先駆者であり、文芸批評家としても活躍、19年間シベリアに追放された。小説「何をなすべきか」-)の著作を読んでいるものがいることが、書簡を開封した結果明らかにされたと上官に報告している。所持品の点検が指令され、さらに2つの”扇動的”書簡が発見された。それはルナン(1923-92、フランスの思想家、歴史家、合理主義者で、「キリストの生涯」ではキリストを人間的に取扱い多くの論争を引き起こした。)の「キリストの生涯」とユーゴ(訳注、1802-85、フランスの詩人、劇作家、小説家、著作は「パリのノートルダム」「海の労働者」「93年」「レミゼラブル」など多数、政治的には正統派から次第に自由主義的、急進的になる。議員としても活動したが、ナポレオン3世のクーデター後ベルギーに10数年間亡命し、”小ナポレオン”などを書いて”政治的ジャーナリズムにも従事する。パリ・コミューン当時帰国したが、コミューン敗北とともに一時ブリュッセルに逃れ、後帰国して死去、国葬でバンテノンに葬られる。)の「小ナポレオン」であった。3人の教師が教室で”自由主義的な精神で”讃義したことが確認されると、校長はこれを犯罪行為として彼らを被免し、憲兵隊に密告した。多くのものが告発されたが、そのなかには違反行為を知りながらその違反者を密告しなかったという理由からのものあった。この報告書はこれらの違反者たちがグルジア愛国主義の精神に動かされていることを強調している。
こうした活発な思想的動きは、1886年6月に劇的事件となって現われた。反ロ的態度のため放校された元学生のヨシフ・ラギエフが、校長のバウェル。・チュデツキーを暗殺した。暗殺者はゴリ州の牧師のむすこだった。チフリス憲兵隊長は報告した。「ロシアの神学校と比べると、チフリスの神学校は極めて不利な立場にある。神学校にくる学生たちはしばしば・・・反宗教的考え方に捉われており、ロシア的なものに対して敵意を示している。彼らは感情的に極めて反発しやすく、また郷土に対して病的自負心を持っている。このため、彼らを善導することはしばしば不可能である。」彼はさらに、最近禁止されたばかりの、いくつかのグルジアの新聞がいままで民衆の間に反ロ感情をあおり、神学校をグルジア愛国主義の拠り所としてきたと付け加えた。神学校は数ヶ月間閉鎖された。この事件で、バウェル・グルジア大主教代理は奇妙な役割をつとめた。彼は憲兵隊長に、この暗殺は個人ではなく秘密組織の仕業だと伝え、その主要容疑者として、1年前に校長を襲撃したシルベステル・ジブラッゼというものを挙げた。ジブラッゼは後に社会民主党の創立者の1人となったが、ジュガシヴィリの政治的指導者の1人でもあった。1886年放校された学生のなかには牧師のむすこのミハイル・ツハカーヤもいたが、彼は後にレーニンと知り合い、ボルシェヴィキ党中央委員、グルジア・ソヴィエト最高会議幹部会議長となった。グルジア出身の全神学生による本格的なストはジュガシヴィリが入学するわずか数ヶ月前に起った。1893年12月4日、チフリス憲兵隊のヤンコフスキー将軍はサンクトペテルブルグに打電した。「ギリシャ正教神学校の学生の大多数はストを宣言し、一部教師の引退とグルジア文学講座の設置を要求した。」グルジア大主教代理はまる1日かけて、ストを中止するよう学生を説得したが、ムダだった。校長は警察の協力を求めた。警察は学校を閉鎖し、学生を強制的に自宅にもどらせた。だが、警察署長は不安気に報告した。「多くの知的な人々は、学校の閉鎖は彼らの考えに従って民族的利益を守ろうとする学生たちに対する不当行為だと考えている。」学校を去るさいに、学生たちは団結の誓いをたてた。だが、彼らのうちの87人は学期の終わる前に神学校から追放された。ミハイル・ツハカーヤはまたこの騒動の主な組織者として挙げられた。放校されたなかには、ゴリの学校出身で、ジュガシヴィリよりわずか3つ年上のラド・ケツホヴェリ(訳注、ウラジミール・Z(ラドは通称)1876-1903、チフリス神学校在学中革命運動に参加、194-96年までキエフで活動する。1897年メサメ・ダシに参加し、獄中で殺される。)がいた。彼は間もなくジュガシヴィリの政治的助言者となった。これらの報告はどれも社会主義的宣伝に触れていない。これらの示威運動の主な動機は、暴行に対するグルジア愛国主義の怒りであった。
15歳のジュガシヴィリが神学校に現れたときには、このストの余波はまだ非常になまなかしかった。学生たちはこの事件について話し合い。87人の放校について考えを述べ合ったに違いない。新入生のジュガシヴィリは彼の生まれた国土の文学を神学校で教えるべきだという要求に同情せざるを得なかった。このように、彼はほじめから興奮した政治的空気に影響された。だがゴリのときと同じように、彼はここでも自分の感情を教師たちに隠した。またゴリのときと同じように、ここでも彼は勤勉、有能、綿密な模範生であった。彼が新しい環境をむさぼるような好奇心で見守ったことは疑いない。校長はロシア人の修道僧ゲルモゲネスで、学監は自分がグルジア人であるためかえって、むやみと卑屈な態度をとり、ロシア当局にとりいろうと熱心に努めた。ここで若いジュガシヴィリは、小規模ながら専制的支配というものがどのように行われているかを身近に観察することができた。権威ある人自身が緊張と恐怖のうちに暮していた。ロシア人の校長は前任者の暗殺が忘れられなかった。
ーグルジア人の学監はちょっとした上官の不景気な姿に心をいため、また一方では、薄暗い、長い廊下の隅や学生の共同寝室内で、なにか陰謀がたくまれているのではないかとの考えにおののいた。道士たちは厳重に学生を監視し、熱心に話しを盗み聞きし、学生の服と本籍から禁制の本を探し出そうとしばしば試みた。だが、こうしたことがひどくなればなるほど一層根強く、異端的な考えが固い壁に囲まれた神学校内に広まっていった。放校されて間もない学生たちは、後輩の学生たちからみると、新たに道徳的権威をかちとったものであった。元学生たちは、ともかく曲りなりにも、前の仲間との接触を続け、この神学のとりで内でも彼らの影響力を感じさせることができた。ジュガシヴィリは第1学年のときすでに、しばしば半ばこっそりと町に出掛けて反逆組の人たちと連絡をとっていたに違いない。このことは、自由主義的愛国者イリヤ・チャフチャヴァッゼが編集したグルジアの定期刊行物イベリヤに彼の詩が発表されたことから推察できる。これはジュガシヴィリがチフリスにきてからちょうど1年くらいたった1895年10月29日のことである。内容は愛国的だが社会急進主義に色どられた彼の詩は、有名なグルジアの詩人、R・エリスタヴィに捧げられた。この詩は”ソセロ”(小さなヨシフ)という署名で発表されたが、これは作者が自作であることを神学校当局に隠そうと努めたからであろう。彼が校則にそむいてした他のことは、町の巡回図書館から本を借りることであった。彼が愛読したのは、グルジアの詩ばかりではなく、ロシアとヨーロッパの文学の古典も含まれていた。彼が一番好んで読んだのは、3人のロシアの偉大な風刺作家、サルトウイコフ・シチェードリン(訳注、ミハイル・E・サルトウイコフ、著名N・シチェードリン、1826-89、進歩的作家、官使として州副知事にまでなったが、後文筆活動に専念、社会とくに農村の暗い面をあばいた「ゴロヴリョーフの家の人々」などの一連の社会的小説、痛烈な社会風刺を行った「 話」などの作品がある。)ゴーゴリ(訳注、ニコライ・V・1809-52、プーシキンと並ぶ偉大な作家。官使地主の腐敗した面を画いた、喜劇「検察官」小説「死せる魂」などの作品がある。晩年、宗教に捉われ、病的となり、憂悶のうちに死んだ。)チェホフ(訳注、アントン・P、1860-1904、世界的短編作家。こっけいな短編小説家として出発したが、後に理性と愛情で社会をみつめる独自のものを書いた。また「三人姉妹」「桜の園」などで劇の上でも新しい分野を開拓した。)で、これらの作家は後年、彼の演説、論文のなかでしばしば引用された。ヴィクトル・ユーゴのいくつかの小説とサッカレー(訳注、ウイリアム・M・T・1911-1863、イギリスの小説家、インドで生まれ、大きな遺産を継いだが、事業の失敗などで失い、また妻の狂気に悩まされた。1847年1月から翌年7月まで連載した”虚栄の市”ではじめて一流作家になった。その他「ペンデニス」「エスモンド」などの長編小説がある。皮肉な才筆でたくみに登場人物を画き出したが、概して社会的抗議の色彩は薄い。)の”虚栄の市”のロシア語訳が彼の読んだ外国の本のなかに挙げられている。彼の精神的発展にとってより重要なのは、ダーウィンの進化論と経済学、社会学についての通俗書だった。自然と社会についての実証的、唯物的考えは当時の若い自由主義者、社会主義者に強い影響を与えた。
スターリンに好意的か敵対的かにかかわりなく、ほとんどすべての回想録執筆者は、彼と同じ学校にいたG・グルルジッゼが彼から受けた印象に同感する。なおグルルジッゼは30年代までもまだゴリで教師をしていた。
われわれは礼拝堂で礼拝中でも、座席の下に本をしのばせてよく読んだ。もちろん、教師にみつからないようにとても慎重にしなければならなかった。ヨシフにとっては、本はわかれることのできない友人だった。彼は食卓のときでさえ、本を手放そうとはしなかった・・・なにかきかれると、ヨシフは大抵の場合、返事に手間取った。こらえきれないほど息苦しい神学校内の空気に包まれたわれわれにとって、変った楽しみの一つは歌を歌うことであった。ソソが即興的に合唱団をつくり、澄んだ、気持ちのいい声で、われわれの愛誦する民謡を歌いだすと、われわれはいつも大喜びだった。
だが別の回想録執筆者、イシマシヴィリ(訳注、メンシェヴィキで、1932年ベルリンで「スターリンとグルジアの悲劇」を出版した。)は、これほど好ましくないスターリンの性格の一面を強調する。彼もまたジュガシヴィリが神学生中の主な論客の1人で、大部分の同僚より物知りなうえ、論争を巧みにさばきながら自己の主張を非常に根強く押し進めることができたと述べる。だが、ジュガシヴィリは周囲の人たちから抜きんでようとする気持ちが強かったため、よくよくではないと、他人の背後に押しやられることに我慢できなかった。自分の議論のいたい所をつかれると、いつもいらいらし、論争で少しでもいい負かされるとむっとしてふくれ面をするのだった。数人の同級生の回想によると、彼を負かした反対者に恨みを抱き、意地悪い陰口やうわさ話を広めあだを打とうとすることもあった。こうした振舞いは、彼と同じ年頃の少年に例外的とはいえないだろうが、このため彼は付き合いにくい仲間だとされた。神学校に入って3年目のはじめになってはじめて、修道士たちはこの有望な少年が間違った道を歩いているのに気がつきはじめた。1896年11月、彼らの1人は操行簿に次のように書き入れた。「ジュガシヴィリは簡易図書館の券を持って本を借りているようだ。きょう、私はヴィクトル・ユーゴの「海の労働者」を没収したが、そのなかにはこの図書館の券が入っていた。」校長はこの報告を認めて次のように書き加えた。「普通より長く、懲罰室に監禁せよ。禁止されているヴィクトル・ユーゴの「93年」についてすでに私から彼に警告したことがある。」確かに、フランス革命に取材した、この有名なユーゴの小説は、若い読者を聖職者の道に進ませるうえには少しも役に立たなかったであろう。同じような記入が操行簿にますます多くなった。「午後11時、私はジュガシヴィリからルトウルノー(訳注、シャルル・M,1831-1902.フランスの人類学者、人類学協会の会長、教授。熱心な進化論者として知られ、文化史の著書がある。)の「諸国民の文化的発展」を取り上げた。この本は簡易図書館から借り出していたものだった。・・・ジュガシヴィリはこれを礼拝堂の階段で読んでいるところをみつけられた。この学生が簡易図書館から借り出した本を読んでいるところをみつけられたのは、これで13回目だ。私はこの本を僧の監督係に渡した。」最初の注意がでてからわずか4ヶ月後の、1897年3月に、これが記入されている。校長は命令する「厳重に警告し、普通より長く懲罰室に監禁せよ。」しかしこの校長をみだす学生のもとで社会主義的な本が発見されたということは、これらの注意に少しもでていない。マルクス主義的な本はなおさらのことである。だが、彼の同時代の人たちの回想と彼のその後の活動から考えてみると、彼は上級学級に在学中に、はじめて社会主義的、マルクス主義的理論を知ったものと判断される。彼が神学校内の秘密討論グループとメサメ・ダシと呼ばれた、市内の秘密社会主義組織に入ったのは1898年8月だった。社会主義的な本は神学校内に持ち込むには余りに危険だったに違いない。それに、こうした本は容易に手に入らなかった。ヤノスラフスキーによると、ロシア語訳のマルクスの資本論は当時チフリスではたった1冊しか入手できず、若い社会主義者たちはこれを筆写した。ジュガシヴィリは神学校の外でどうにか過すことのできた数時間を利用して、社会主義的著者の本やパンフレットを読んだー時には走り読みしたのだろう。
彼が19歳になるやならずで参加したメサメ・ダシという組織は1893年に創設された。この組織はその考え方にグルジア愛国主義の色彩がまだ残っていたが、チフリスの最初の社会民主的団体の1つであった。メサメ・ダシ(第3グループ)という名称がつけられたのは、80年代にグルジアのインテリゲンチャを指導した、進歩的、自由主義的な組織、メオリ・ダシ(第2グループ)と区別するためだった。メサメ・ダシの創立者のなかには、ノイ・ジョルダニア(訳注、ノイ・N・1870年生れ。メンシェヴイキ・グルジア社会民主党の創立者。第一国会議員。1918年グルジアのメンシェヴイキ政府の首相)K・チヘイゼ(訳注、ニコライ・N・S、1865-1926。メンシェヴィキのリーダー、評論家、帝政国会の議員、1917年2月革命のペトログラード、ソヴィエト議長。)G・ツェレテリ(訳注、1882年ウ案レ、メンシェヴィク、第2国会議員、ケレンスキー内閣の通信大臣。のち亡命。反革命活動を行う。)がいたが、彼らは間もなく、穏健な社会主義のスポークスマンとしてグルジア外でもその名を十分知られるようになった。これを発展させた精力的な活動家の1人は、校長を襲ったため神学校から追放された、例のシルヴェステル・ジブラッゼであった。メサメ・ダシの指導者たちは自由主義的クヴァリ(あぜみぞ)の紙面を通じて彼らの考えを説いた。

グルジア語→スターリン=იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი (ნამდვილი გვარი — ჯუღაშვილი; დ. 18 დეკემბერი [ძვ. სტ. 6 დეკემბერი], ოფიციალური ვერსიით 21 დეკემბერი [ძვ. სტ. 9 დეკემბერი], 1878, გორი — გ. 5 მარტი, 1953, მოსკოვი) — ქართველი და საბჭოთა რევოლუციონერი, პოლიტიკური, სამხედრო, პარტიული და სახელმწიფო მოღვაწე. კომუნისტური პარტიის, საბჭოთა სახელმწიფოს, საერთაშორისო კომუნისტური და მუშათა მოძრაობის ერთ-ერთი ხელმძღვანელი. მარქსიზმ-ლენინიზმის თეორეტიკოსი და პროპაგანდისტი. სკკპ წევრი 1898 წლიდან გარდაცვალებამდეヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日[1] – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者。一般に広く知られているスターリンという姓は「鋼鉄の人」を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。
Stalin A POLITICAL BIOGRAPHY (Issac Deutscher:Oxford University Press:London England・Penguin Book・1966)
Chapter 1: Childhood and Youth
Perhaps in 1875, a year o two before, a young Caucasian, Vissarion Ivanovich(son of Ivan) Djugashvili, set out from the village Didi-Lilo, near Tiflis,the capital of the Caucasus, to settle in the little Georgian country town of Gori.  There he started a small shoemaker a business.  Vissarion Djugashivili was the son of Georgian peasants who only ten years before had still been serfs.  He himself had been born a chattel –slave to some Georgian landlord.  Had he remained so for the rest of his life, he would never have been free to leave his native village and become an independent artisan.  Certainly none of his forefathers could have done anything of the sort.  They had been tied to the soil, and at best they could pass only from the hands of one landlord to those of another.  Even in the years of Vissarion’s childhood Georgian newspapers still carried advertisements in which landlords offered for sale or sought to purchase, say, 500 or 1,000 acres of land with 50 or 150 souls;.  The trade in chattel-slaves had often been fraudulent; and in the archives of Georgian courts, cases were recorded in which the same peasant family had been sold to three or more buyers simultaneously. 
Vissarion, then, must have left his village in a mood of hopeful elation.  He had become a free man, and now as an independent artisan he hoped to achieve some prosperity.  In Gori he married a girl of similar humble origin-Ekaterina, the daughter of the self George Gheladze, of the village of Gambareuelli.  Like many another daughter of poor peasants, she may have moved to the town to become a maidservant an Armenian or Russian middle class family.  (The middle classes in the Caucasus were Russian, Armenian, or Jewish.  There was almost no Georgian bourgeoisie-Georgians were either gentry of selfs.)  When she married Vissarion Djugashivili, Ekaterina was only fifteen years old.  Such early marriages were not rare in a country where human beings mature as rapidly as the grapes under a semi-tropical sun.   The couple took a poor dwelling at the outskirts of Gori, the rent of which was one and a half roubles(roughly two shillings) a month.  It consisted of only a kitchen and one other room,  That room, covering not more than five square yards, was dim, for little light came through its one small window. Its door opened straight into a drab courtyard, from which mud and water would pour in on rainy days, since the floor of the dwelling was on a level with the courtyard and not separated from it by any steps.  The floor was of bare brick, and a small table, a stool, a sofa, a plank-bed covered with a straw mattress were all the family’s furniture.  The abode of the Djugashvilis, transformed into a museum, is now shown to crowds of tourists who visit the place.  So is Vissarion Djugashvili’s, tiny workshop, with its old richery chair, hammer, and lasts.  It was in that dark, one-and-a-half-rouble dwelling that Ekaterina gave birth to  three children in the years from 1875 to 1878.  All three died soon after birth.  Ekaterina was hardly twenty when on 21 December 1879 she gave birth to a fourth child.  By a freak of fortune this child was to grow into a healthy, wiry, and self-willed boy.  At baptism he was given the name of Joseph; and so the local Greek Orthodox priest, who acted as registrar, recorded the appearance in this world of Joseph Vissarionovich Djugashvili, later to become famous under the name of Joseph Stalin.
About his early childhood very little is known.  At the age of six or seven he fell ill with smallpox; and his face remained pock-marked.  He fell ill for a second time when a blood infection developed out of an ulcer on his left hand.  He was to recollect later that he was near death.  ‘I don’t know,’ he was to tell A.S. Alliluyeva, his sister-in-law, ‘what saved me then, my strong constitution or the ointment of a village quack.’  When he recovered he could not easily bend his left arm at the elbow.  Because of this slight infirmity, the future Generalissimo was to be declared unfit for military service in 1916.  He grew up amid the squalor and poverty into which he had been born.  Vissarion Djugashvili made an attempt to climb up to the ranks of the lower middle class but was unsuccessful.  His shoemaker’s business did not earn him a living ; and o his wife obliged to go out to work as a washerwoman’.  Even the one and –a-half-rouble rent for their dwelling was paid from her earnings.  From this, some of Stalin’s biographers deduce that Vassarion Djugashvili must have been spending on vodka the little money he did earn, a conclusion for which there is some basis in the reminiscences of Stalin’s schoolmates.  Drunkenness was indeed something like a shoemaker’s occupational disease-the saying ‘drunk as a cobbler’ recurs in most eastern European language.  Vissarion, it is further claimed, was cruel to his wife and child.  ‘Undeserved and frightful beatings,’  writes Iremashvili, a friend of Stalin’s childhood, ‘ made the boy as grim and heartlessness were distrust, alertness, evasion, dissimulation, and endurance.  Life was to teach him, early, lesson-and some ruses de guerre-that would be useful later on.  
This portrait of a drunkard and bully does not perhaps do full justice to Vissarion Djugashvili.  He must have had better qualities as well, a spirit of enterprise and curiosity about the world.  Otherwise, he, the son of serfs, would hardly have exchanged the sluggish life of his native village for the uncertainties of urban existence.  In eastern Europe the ‘cobbler’.  Both bywords describes occupational propensities which often go together.  It was probably from his father that Stalin inherited a reflective mind, and he has himself unwittingly given us a clue to the inner conflict which made his father grow sulky, bitter,’ and cruel o his family.  Unsuccessful as an independent artisan, Vissarion left the town of Gori and his family, and went to Tiflis where he became a worker in the shoe factory of one Adelkhanov.  His new position apparently humiliated him;  his ambition had been to be his own master, and now he exchanged chattel-slavery for wage-slavery.  He struggled against his lot as long as he could, even though he had ceased to be the family’s breadwinner.  Hence, probably, came his irritability and his outbursts.  In once of his early pamphlets, Stalin illustrated a point of Marxian theory by the experience of his own father;  ‘Imagine,’ he wrote, ‘a shoemaker who had a tiny workshop, but could not stand the competition of big business.  That shoemaker closed his workshop and hired himself, say, to Adelkhanov, a the Tiflis shoe factory.  He came to Adelkhanov’s factory not to remain a worker for ever but to save some money, to lay aside a small capital and then to reopen his own workshop.  As you see, the position of that shoemaker is already that of a proletarian, but his consciousness is not yet proletarian, but petty –bourgeois through and through.’  There can be no doubt which shoemaker served the writer as the illustration for his thesis.  The tiny workshop, the back luck in business, even the name of the employer, all were part of Vissarion’s story.  What had warped Vissarion’s mind was the conflict between his social position and his ‘petty-bourgeois’ ambition.
Vissarion did not succeed in ‘laying aside a small capital’ and reopening his workshop.  He died at Tiflis in 1890, when his son was eleven years old.  His death probably made no difference to the  material condition of his family, for the widowed washer-woman was accustomed to earn her and her son’s livelihood.  In blurred-he hardly ever mentioned his father.  Recollection of the ‘heartless beatings’ may, of course, account for Stalin’s and his official biographers’ extreme reticence about Vissarion.  Much more in known about Ekaterina Djugashvili.  There was little to distinguish her from the great mass of her contemporaries, of whom a Russian poet said; Fate has had three ordeals in store, The first is to be married to a slave; The second, to be mother to the slave’s son; The third, to obey the slave until death.  And all these terrible ordeals Beset the woman of the Russian land. 
Ekaterina possessed the infinite patience and submissiveness of the eastern peasant woman.  She endured her lot with fortitude, bearing no grudge against her husband.  She devoted all her tenderness to her only surviving son.  She was deeply religious; in her trials she found her only consolation in church.  She was also illiterate.  Only in her old age was she to learn to read, and so prove herself worthy of her famous son.  All who knew her agreed in admiration of her ‘quiet, restrained dignity, which comes to people after a long life spent in worries, the bitterness of which remained a modest peasant woman even after her son’s ascendancy.  When for a time she stayed with him in the Kremlin she longed to go back to her more familiar surroundings in the sunny Caucasus, and back she went.  Yet in her own half-comic but moving way, she tried to live up to the role of the great man’s mother.  Alliluyeva relates how at Borzhom, the Caucasus spa, she once met old Mrs. Djugashvili, dressed heavily and solemnly in black despite unbearable heat.  Asked why she was to uncomfortably dressed, the old woman replied: ‘I have to . . . Don’t you see, everybody around here knows who I am.’    
It was a truly heroic decision on Ekaterina’s part to send her son, at the age of nine, to the ecclesiastical school at Gori.  It was not rare for children of poor parents to become shoemakers’ or carpenters’ apprentices at this age, but that was not the career Ekaterina wished for her son, even though it might have eased her own lot.  She wanted her Soso*to succeed where Vissarion had failed, and to rise above the humble standing of his parents.  In her bolder flights of fancy she no doubt saw him as the parish priest respectfully greeted by the neighbours.  The prospect was dazzling-only a few years before, ecclesiastical schools were still closed to children of peasant estate.  Soso attended the Gori school for five years, from 1888 till 1893.  Usually he was one of the best or even the best pupil in his form.  Teachers and schoolmates alike quickly noticed that the poor pockmarked boy had a quite extraordinary memory and learned his lessons almost without effort.  They also noticed that waxed the keener the more Soso grew aware that most of his school mates came from wealthier homes than his, and that some of them, also aware of the difference, looked down on him.  Nevertheless, he had the advantage in the classroom, where he could recite his lessons with greater ease than the pampered offspring of wine or wheat merchants; while in the
playground
*Soso is the Georgian for Joe.  Soselo is a more diminutive form.
He excelled them so much in agility and daring that they let themselves be bossed and ordered about by the shoemaker’s boy.  It was in this obscure parish school that the future Stalin had his first taste of class difference and class hatred. 
There, too, he had his first glimpse of a problem that was to keep him preoccupied in his mature years  -the problem of national minorities.  Georgian was the Djugashvilis’ native tongue.  Ekaterina knew no Russian  at all; and it is doubtful whether her husband had as much as a smattering of it.  At school most lessons were taught in Russian-the curriculum provided for only a few lessons in Georgian every week.  Soso absorbed the alien language with the ease natural to his age.  But out of school  and at home he went on talking Georgian.  The native tongue of some of his classmates may have been Armenian, or Turkish, or some Caucasian dialect.  At school all the vernaculars were silenced, and Russian reigned supreme.  This policy of Russification, enforced by the Government, caused bitterness.  Even boys in their early teens staged school strikes and other demonstrations in defense of their native tongue.  In the seventies, school riots were frequent in Georgia; Russian teachers were assailed and beaten up and pupils set fire to schools.  In the years when Djugashvili attended the Gori school there was no such turbulence, but there must have been much simmering resentment.  Among the early influences in his life, nature and the tradition and folk-kore of his native town played their part.  Gori lies at a point where three fertile wheat-and vine-growing valleys meet.  The cliffs outside the town, the banks of the river Kura and two other rivers, the walls of an old Byzantine fortress, and the fields between the tortuous little streets in the town itself, which was half-village and half-town, all offered the boy plenty of spaces for playing freely and escaping from the drabness of the parental home.  Nature itself made some amends to the young sum-dweller for the dullness and stuffiness of his home.  The country-side abounded in animas, birds, plants, and fruit-not for nothing was it believed that this had been the land of the Golden Fleece.  These healthy surroundings contributed to the strong physical constitution of the future Stalin.  The countryside was also proverbially rich in romance and legend.  Alexander the Great and Genghiz Khan had fought there.  Tales of Persian and Turkish invasions wre found in the school-books.  Folk-song and story told of the famous Caucasian brigands.  In folk-lore, these brigands were often national or popular heroes: Georgian noblemen who fought against the Russian Tsar, or leaders of serfs, people’s avengers, with big and tender hearts for the poor and downtrodden and sly hatred for the rich.  Their hiding-places were in the snow-capped peaks and in caves in the cliffs from which they would swoop down to the roads to trap and destroy their enemies.  All this folk-lore was not far from the fats.  The land around Gori was even in those days infested by high-waymen.  There were multitudes of impoverished Georgian petty gentry around, who had no defined social standing and no regular incomes but still lived mentally in a fading world of clans and feuds.  They would often engage in fanciful forays against one another or against other people who happened to hurt their pride or otherwise incur their enemy.  The whole land would then resound with stories of the raids, exploits that bordered on banditry yet were not without romantic appeal.  These local Robin Hoods offered examples that the boys ‘playing brigands’ in the cliffs and fields of Gori must have been eager to imitate.   The five school years of Gori were thus not altogether unhappy for young Djugashvili.  But already there began to grow in him as awareness of the social and national inequalities that was to make of him the rebel and revolutionary of later years.  It is impossible to say just how strong was this awareness.  Official Soviet biographers and memoirists claim that already at Gori their hero had read Darwin and become an atheist.  One may doubt whether he could have read Darwin at so early an age.  But he may have acquired a vague notion of the new theory from popular summaries, and his mind may have turned against religion.  The fact of his precocious mental development is established, for in 1895, only a year after he had left the Gori school, he was already publishing, verses in a leading Georgian periodical.  He must have tried his hand at verses-writing while at Gori.  His official biographers also claim that it was there that he first acquainted himself with Marxian  ideas.  This seems highly improbable: by that time Marxism had won only a few converts at Tiflis, the capital of Transcaucasia, and its influence could hardly yet have spread to the Gori school.  Stalin’s apologists are only too ready to project his ‘Marxist-Leninist’ orthodoxy almost into his childhood.  Subsequent events seem to warrant no more than the following hypothesis: young Djugashvili left the Gori school in a mood of some rebelliousness, in which protest against social injustice mingled with semi-romantic Georgian patriotism.  While in the upper forms, he had been much more impressed by the nostalgic nationalism of Georgian poetry than by any sociological ideas.  ‘In the upper classes of the Gori school,’ writes one of his school-fellows, Vano Ketskhoveli, ‘we became acquainted with Georgian literature, but we had no mentor to guide our development and give a definite direction to our thoughts.  Chavchavadze’s poem “Kato the Robber” made a deep impression on us.  Kazbegi’s heroes awakened in our youthful hearts a love for our country, and each of us, on leaving school, was inspired with an eagerness to serve his country.  But none of us had a clear idea what form this service should take.’  Since Djugashvili was careful to conceal his rebellious sentiments from his teachers they regarded him as an exemplary pupil helped him to the next stage of his career.  
That next stage was his matriculation, in the autumn of 1894, at the Theological Seminary of Tiflis.  His mother’s dream seemed to be coming true.  As the poor washerwoman was unable to contribute to his upkeep at the seminary, the headmaster of the Gori school and the local priest succeeded in obtaining a scholarship for him.  The promising boy must have felt encouraged by the prospect opening before him.  The mere change from the small dreamy country  town to the sprawling and turbulent capital of the Caucasus was dazzling.  At the age of fifteen he was mature enough to realize the advantages of his new position, advantages that not so long ago were unattainable to peasant children.  He must have travelled the forty miles to Tiflis with an exhilarating sense of his own social advancement, infinitely more real than the one that had lured his father on the journey from Didi-ilo to Gori some twenty years before.

グルジア語→ქართული ენა — ქართველების მშობლიური ენა, საქართველოს სახელმწიფო ენა (აფხაზეთის ავტონომიურ რესპუბლიკაში, მასთან ერთად სახელმწიფო ენად აღიარებულია აფხაზური ენა). ქართულ ენაზე 5 მილიონზე მეტი ადამიანი ლაპარაკობსグルジア語(グルジアご)あるいは、ジョージア語(ジョージアご)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の公用語である。カルトリ語(ქართული ენა, kartuli ena)とも呼ばれる[3]。20世紀前半の日本では、ジョルジア語とも呼ばれていた[4][注釈 1]。2015年に日本政府が国家の外名を変更(ジョージアの国名も参照)して以降はジョージア語という呼称を積極的に使用することもなされている[3][5]。グルジア語(ジョージア語)の総話者数は約410万人で、その内、ジョージア国内の母語話者数は多数派民族のカルトヴェリ人を中心に国民の約83%にあたる約390万人である。残りの話者はトルコ、ロシア、イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、アメリカ合衆国、ヨーロッパに存在する。漢字による省略形は「具語」ないし「喬語」

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