日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018①


レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語: Леонид Ильич Брежнев、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日(ユリウス暦12月6日) - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第5代最高指導者。1964年のニキータ・フルシチョフの失脚により、ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1966年、書記長に改称)に就任して最高指導者となり、閣僚会議議長(首相)のアレクセイ・コスイギン、最高会議幹部会議長(国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと集団指導体制を敷いた。1977年から、死去する1982年までの間は最高会議幹部会議長を兼任し、ソ連邦元帥にもなっている。列昂尼德·伊里奇·勃列日涅夫(俄語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев关于这个音频文件 听 帮助·信息,烏克蘭語:Леоні́д Іллі́ч Бре́жнєв,1906年12月19日-1982年11月10日),苏联领导人、苏联元帅,曾任苏联共产党中央委员会总书记(1964-1966年间为第一书记)、蘇聯最高蘇維埃主席團主席(國家元首),掌權共18年。레오니트 일리치 브레주네프(러시아어: Леони́д Ильи́ч Бре́жнев, 문화어: 레오니트 일리이치 브레주네프, 1906년 12월 19일 ~ 1982년 11월 10일)는 소비에트 연방의 군인, 금속 노동자, 정치가이다. 그는 1964년부터 1982년까지 소비에트 연방 공산당의 서기장이었다.

ブレジネフ・ドクトリン=制限主権論(せいげんしゅけんろん;ロシア語 Доктрина ограниченного суверенитета、英語 The doctrine of limited sovereignty[1])とは、1968年にソビエト連邦の主導するワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに対する軍事介入(プラハの春事件)を正当化するために持ち出した論理であり、「社会主義陣営全体の利益の為には、そのうち一国の主権を制限しても構わない」という考え方のことである[2]すなわち、内政不干渉の原則(1648年のウェストファリア条約に遡り、1945年の国連憲章第2条第7項[3]でも再確認された)を尊重しつつも、社会主義陣営全体の利益の護持を目的とする場合に限っては例外的に武力介入を伴う内政干渉が許容される、という論理である。この時のソ連指導者レオニード・ブレジネフの名前からブレジネフ・ドクトリン(ロシア語 Доктрина Брежнева、英語 The Brezhnev Doctrine)とも称される。1979年のアフガニスタンへの侵攻でもこの論理が用いられた。Русскийロシア語→Доктрина Брежнева (англ. Brezhnev Doctrine или Доктрина ограниченного суверенитета) — сформулированное западными политиками и общественными деятелями описание внешней политики СССР 1960-х — 1980-х годов. Доктрина заключалась в том, что СССР мог вмешиваться во внутренние дела стран Центрально-восточной Европы, которые входили в социалистический блок, чтобы обеспечивать стабильность политического курса, строившегося на базе реального социализма и направленного на тесное сотрудничество с СССР.
Русскийロシア語→Драма "Кремлевская власть" - от Ленина до Горбачева (отбор Асахи (283))Кимура Акио Українськаウクライナ語→Кремлівська енергетична драма - від Леніна до Горбачова (Асахі відбір (283))Кімура Акіо Esperantoエスペラント語→Kremlina Potenco-Dramo-De Lenin ĝis Gorbaĉev (Asahi-Selektado (283))Kimura Akio
ブレジネフ人脈の形成へ
党幹部会の筆頭会員(当時、ブレジネフの頭文字Б(ベー)は、アルファベット順でもトップだった)、第一書記として、とりわけ党の人事を握る書記長の長として、ブレジネフは自己の権力の基盤である”人脈”づくりに力を注いだ。もともとソ連の政治における人脈の意味はきわめて大きい。「金脈」がものをいう日本や米国など資本主義諸国と違って、ソ連では市町村ソビエトから連邦最高会議に至る権力機関の選挙でも、各級党機関幹部の選出でも、カネの入り込むスキはほとんどない。候補者個人の資金によるキャンペーンの余地が、制度上ないからである。
さらにつきつめれば、ソ連社会における金銭の効用に、かなりの限界があるという事実も見逃せまい。周知の通り、社会主義のソ連では、資本財が金銭による売買の対象とならないうえに、消費財についてもルーブル(ルーブル(ロシア語: рубль ルーブリ、ベラルーシ語: Рубель ルーベリ、モルダヴィア語: Рублэ ルーブレ)は、通貨単位の一つである。現行の通貨の名称としては、ロシア、ベラルーシおよび沿ドニエストルにおいて用いられている。かつては、ソ連におけるソビエト連邦ルーブル、ロシア帝国におけるルーブルなどもあった)の購買力は制約されている。高級な外国製品や質の良い国内産品は「べリョースカ」(白樺=Берёзка)の名で呼ばれている外貨専用の”ドル・ショップ”や党・政治高官用に少数設けられている特別売店でしか買えない。これらの店を利用するには、国内通貨のルーブルを持っているかどうかではなく、外貨を入手できたり、特別売店を利用できる「身分」が条件となる。外国旅行から劇場の切符の入手に至るまで、カネよりも「身分」や「コネ」が幅をきかすのがソ連社会である。
資本主義社会に比べて「金脈」の意義が相対的に低いだけ、それだけ「人脈」の比重は大きいといえよう。権力への階段を昇るには、要所、要所を自分の信頼のおける「人脈」で固めることが、まず必要となるのである。
書記局の改造
党第一書記になったブレジネフは、まず党の中枢、なかでも日常の党務執行の中枢である中央委員会書記局に足場を確立しようとした。かつてスターリンが書記長として、まず書記局内いに勢力を固め、次に書記局の長として政治局と組織局(オルグ・ビューロー、後に書記局に吸収)のメンバーを兼ねることによって党務に精通し、やがて独裁者になったように、何よりも先に、書記局を押さえようとしたのである。
1964年11月、ブレジネフはまず、コズロフ幹部会員・書記とポリャコフ農業担当書記を解任した。コズロフはかつて第一副首相を務め、フルシチョフの最有力の後継者とみられていたが、病気で倒れていたし(65年1月死去)、ポリャコフは失敗に終わったフルシチョフ農政の責任者だったから、2人の退場は当然だった。
1965年3月には、フルシチョフ後期の文学・芸術整風に一役買った党イデオロギー委員会議長、イリイチョフ書記を解任して外務次官に格下げした。書記局には新しく、第一副首相だったウスチノフを入れた。
こうして書記局からフルシチョフ直系を排除したあとブレジネフは1965年9月、チトフ書記を免職してクラコフを迎え入れた。当時ポドゴルヌイは、幹部会員・書記であり、党の組織、人事部門の最高責任者として、事実上“第二書記”の地位を占めていた。ブレジネフ指導部発足後初めての中央委総会(64年11月)で、それまで工業、農業の2系列に分かれていた地方党組織を1本に再統合する措置について報告したのは、ブレジネフ第一書記ではなく、ポドゴルヌイ書記だった。同書記はチトフ書記の協力で、この再統合を行なうとともに、その際、自己の人脈形成をはかったといわれる。ポドゴルヌイとチトフは、かつてウクライナのハリコフ州党委で、第一、第二書記だった間柄である。ポドゴルヌイはハリコフを中心とした地盤に加えて、旧コズロフ系の人脈を吸収して、隠然たる勢力を培っていたが、チトフ解任で有力な人物を失った。

チトフと入れ替わった形のクラコフは農業専門家で、ロシア共和国農業次官、同共和国穀物生産相を務めた後、1960年からスタヴロポリ地方党委第一書記として党活動に入っていた。ブレジネフはクラコフに、ポリャコフの後任として農業を担当させ、中央委農業部長を兼務させた。以後、クラコフはブレジネフ農政の懐刀となってゆくのである。
さらに1965年12月、イワノヴォ州党委第一書記、党中央委ロシア共和国ビューロー部長を務めたカピトノフを抜擢して書記にし、組織・党活動部長にすえた。それまで党の組織部門の責任者がポドゴルヌイだったことは前に触れた通りである。
同時に、3ヶ月前に腹心のチトフ書記を切られたポドゴルヌイは、老齢のミコヤンの後任として最高会議幹部会議長に祭り上げられた。ブレジネフはさらに書記局人事をすすめ、66年3月、第23回党大会で、ウクライナ時代以来の盟友キリレンコを書記に迎え、“女房役”とした。キリレンコは第二次大戦直後、ブレジネフがザポロージェ州党委第一書記になったとき、第二書記を務めた仲である。さらに66年12月、ブレジネフは、その年6月に死亡したルダコフ書記(重工業部長)を後任として、ロストフ州党委第一書記からソロメンツェフを引き抜いた。
木村 明生(きむら あきお、1925年4月27日[1]- 2017年3月1日[2])は、ソ連・ロシア研究者、青山学院大学名誉教授。Akio Kimura (Akio Kimura , April 27, 1925 [1] -March 1, 2017 [2] ) is a Soviet - Russian researcher and emeritus professor at Aoyama Gakuin University. Latviešuラトビア語⇒Akio Kimura (Akio Kimura , 1925. gada 27. aprīlī [1] - 2017. gada 1. marts [2] ) ir padomju - krievu pētnieks un emeritētais profesors Aojamas Gakuinas universitātē.

↑1972年11月7日、革命記念日におけるソ連邦国歌吹奏。首都モスクワ、赤の広場、レーニン廟壇上の指導者たち。右から二人目がシェレーピン政治局員です。
アレクサンドル・ニコラエヴィチ・シェレーピン(Александр Николаевич Шелепин, Alexandr(Alexander) Nikolayevich Shelepin、1918年8月18日 - 1994年10月24日)は、ソ連共産党の活動家、第2代ソ連国家保安委員会(KGB)議長。

Deutschドイツ語→Alexander Nikolajewitsch Schelepin (russisch Александр Николаевич Шелепин, wiss. Transliteration Aleksandr Nikolaevič Šelepin; * 18. August 1918 in Woronesch; † 24. Oktober 1994 in Moskau) war ein sowjetischer Politiker. Er war von 1958 bis 1961 Vorsitzender des KGB.
シェレーピン書記解任
こうして徐々に書記局内に信頼できる人脈を築いておいてから、1967年9月、若くて野心に富むシェレーピン書記を解任し、名誉職の色彩が濃い全ソ労組中央評議会議長に棚上げしてしまった。
シェレーピンは、革命後の1918年生まれ。モスクワ歴史・哲学・文学大学を卒業したあと、1952年、共産主義青年同盟(コムソモール)中央委員会第一書記、58年国家保安委員会(秘密警察)議長、61年中央委書記を歴任し、62年には副首相、党・国家統制委員会議長を兼ね、フルシチョフ失脚直後の64年11月の党中央委総会で、候補を経ないで一躍幹部会員に抜擢された。学生時代から「オレは将来、党第一書記になる」と豪語していたといわれるが、まさにめざましい昇進ぶりであった。とくに二段跳びでの幹部会入りは、秘密警察長官時代からの影響力を行使して、フルシチョフ追放に秘密警察を動員したことに対する論功行賞とみられた。たしかに秘密警察の協力がなければ、党第一書記という権力の座にあるフルシチョフの追い落としはできなかっただろうと思われる。
幹部会員に昇進したとき、彼はそれまでの書記、副首相、党・国家統制委員会議長と合わせて、実に4つの党・政府の役職を兼ねていた。1965年3月、チェコスロバキアのレナルト首相がモスクワを訪問したとき、シェレーピンは副首相でありながら、東独訪問中のコスイギン首相に代わって、「第一副首相」であるポリャンスキーを従えて応援した。幹部会内の序列が、先任(1960年幹部会入り)のポリャンスキーよりも上位にあったことを示すものである。このころ西側のジャーナリズムは、シェレーピンをクレムリンの「ライジング・スター」とか「プリンス」とか呼んだものである。最年少の幹部会員としての若々しい活力と、党内での実力―とくに、長年コムソモールと秘密警察の内部に培った人脈の力は、第一書記ブレジネフをも脅かしかねないものがあった。
慎重なブレジネフは、少しずつシェレーピンの権力をそいでいった。1965年12月の最高会議で、強力な党・国家統制委員会が解体され、党統制委員会(党中央委付属)と人民統制委員会(閣僚会議付属)に分離されたのに伴って、シェレーピンは党・国家統制委員会・副首相の職を解かれた。当時モスクワでは、機構がなくなったからシェレーピンが職を解かれたのか、職を解くために機構をなくしたのか、とささやかれたものである。
1965年4月、タス通信(
イタルタス通信(イタルタスつうしん、ИТАР-ТАСС イタルタス)は、ロシアの国営通信社。正式名称はИнформационное Tелеграфное Aгентство России(Information Telegram Agency of Russia-ロシア情報通信社)。イタル・タス通信とも表記される[1]。前身はソ連の国営タス通信(Телеграфное Агентство Советского Союза(Telegram Agency of Soviet Union)―ソビエト連邦通信社)。1992年、ロシア連邦の主権宣言後に設立。大統領令により、タス通信の権利関係を継承した機関である)社長ゴリョノフが駐ケニア大使に飛ばされた。5月には国家保安委議長セミチャストイがウクライナ共和国第一副首相に、6月にはパヴロフ・コムソモール第一書記が全ソ・スポーツ団体連合会議長に、エゴルィチェフ・モスクワ市党委第一書記が建設・道路・公営事業用機械製作作者次官に、それぞれ左遷された。いずれもシェレーピン系ないし、政治的立場がシェレーピンに近い人物であった。エゴルィチェフは当時、中東“六日戦争”に対するブレジネフ主流派の政策を批判したために解任されたという説も流れた。
こうして、シェレーピンは、いわば手足をもがれた後、1967年、全ソ労組中央評議会第13回総会で、グリシン議長のモスクワ市党委第一書記への栄転に伴って、その後任の労組中央評議会議長に選出された。明らかな格下げである。当然、同年9月末の党中央委総会で、彼は書記を解任された。なお政治局員にはとどまっていたが、クレムリンに近いスターラヤ広場の党中央委ビルを出て、モスクワ市内でも少々町はずれの感じのするレーニン大通り42番地の労組中央評議会ビルに通勤することになった。権力の中枢から遠ざかったのである。中央委書記の空席はカツシェフリ・ゴーリキー州党委第一書記が埋めた。
こうして1960年代の末の書記局は、ブレジネフ、スースロフ、ポノマリョフ、デミチェフ(以上フルシチョフ時代からの留任)に加えて、ウスチノフ、クラコフ、カピトノフ、キリレンコ、ソロメンツェフ、カツシェフの10人で構成されていた。第24回党大会(71年春)にのぞんだのもこの陣容だった。10人のうち6人が、ブレジネフによって書記局に迎えられた人物である。この時点でブレジネフは、少なくとも書記局のメンバーの過半数を制していたといえるだろう。
書記局を手中に
ブレジネフはさらに書記局工作をすすめる。1970年代に入って、ソロメンツェフが71年11月、ロシア共和国首相に転出し、74年11月には、フルシチョフによって61年書記局入りしたデメチェフが、死亡したフルツェワの後任として文化相になり、同年12月書記を解かれた。そのあとを補充するために、クラスノヤルスク地方党委第一書記ドルギフ(72年12月)、党中央委総務部長チェルネンコ、プラウダ編集長ジミャーニン(いずれも76年3月、第25回党大会)、スヴェルドロフスク州党第一書記リャボフ(76年10月)、党中央委社会主義国部長・書記長補佐ルサコフ(77年5月)の5人が書記局入りした。このうちリャボフは、ウラル工芸大学を卒業したあと58年から党活動入り、重工業の中心として知られるスヴェルドロフスク州を舞台に活躍してきた人物で、かつてスヴェルドロフスク州第一書記を務めたキリレンコの系列ともいわれる。ほかの4人はいずれもブレジネフお気に入りの活動家で、とくにチェルネンコ、ルサコフの2人は職務上、ブレジネフの“側近”にいた人物である。
こうして1977年8月、書記は全員で12人になり、そのうちフルシチョフ時代以来のメンバーは、ブレジネフ、スースロフ、ボノマリョフの3人だけとなった。残りの9人はすべてブレジネフのメガネにかなった人物で固められた。もはやブレジネフは、書記局を完全に手中にしたといってよい。

政治局の改組へ
書記局の掌握をするめるとともに、ブレジネフは慎重に政治局の人事にも手をつけた。1966年春、ブレジネフ第一書記のもとでの最初の党大会、第23回党大会(3月29日―4月8日)が開かれた。この党大会で、幹部会は政治局に、第一書記は書記長に名称を変更した。スターリン時代に戻ったわけである。この党大会で、政治局からミコヤンとシュベルニクがはずれた。いずれも高齢のオールド・ボルシェビキで、円満な引退といってよかった。このとき政治局員候補のエフレーモフが解任されているが、彼はすでにフルシチョフ失脚直後の64年11月、党中央委ロシア・ビューロー第一副議長(議長はブレジネフ)からスタブロポリ州党委第一書記になって都落ちしていたので、フルシチョフ系人物排除の一環とみられた。
一方、ラトビア共和国中央委第一書記のペリシェが、ヒラの中央委員から一躍政治局員にすすんだ。1899年生まれ、革命前の1915年に入党した古参党員で、ソ連共産党史、ラトビア革命運動史に関する著作もあり、イデオロギー問題に強いところが、ブレジネフ好みだったのかもしれない。さらに白ロシアとカザフの党中央委第一書記、マシュロフとクナーエフの2人が政治局員候補に昇格した。多民族国家であるソ連の各構成共和国の代表をバランスをとって党中央の政治局員、政治局員候補に登用するのが、ブレジネフ人事の一つの特色であった。


アーヴィッド・ヤノヴィチ・ペリシェ(ロシア語: А́рвид Я́нович Пе́льше、ラトビア語: Arvīds Pelše、ラテン文字転写の例:Arvid Yanovich Pelshe、1899年2月7日 - 1983年5月29日)は、ソビエト連邦の政治家、革命運動家。ラトビア人である。
第24回党大会とその後
ブレジネフが書記局をほぼ固めた1970年代の初めから、その政治局工作が目立ってくる。第24回党大会(71年3月30日―4月9日)では、政治局員が11人から15人にふえ、候補は9人から6人に減った。新たに政治局入りしたのは、それまで候補だったグリシン・モスクワ市党委第一書記、クナーエフ・カザフ党中央委第一書記、シチェルビツキー・ウクライナ首相の3人と、候補を経ないで正局員になった党中央書記クラコフである。
党大会が新しい中央委員を選出し、新中央委員が互選した政治局員の名前を、ブレジネフ書記長はアルファベット順ではなく、序列順に読み上げて大会に報告した(翌日のプラウダはアルファベット順で公表)。それは次のような順番であった(カッコ内は第23回大会の序列)。
1ブレジネフ(1)、2ポドゴルヌイ(3)、3コスイギン(2)、4スースロフ(4)、5キリレンコ(6)、6、ペリシェ(11)、7マズロフ(8)、8ポリャンスキー(9)、9シェレスト(10)、10ヴォロノフ(5)、11シェレーピン(7)、12グリシン(昇格)、13クナーエフ(昇格)、14シチェルビツキー(昇格)、15クラコフ(新任)
ここで、1967年に書記を解かれたシェレーピン、71年7月ロシア共和国首相を退いたヴォロノフ人民統制委員会議長、シェレスト・ウクライナ党中央委第一書記の後退と、トロイカの両翼を担うコスイギンとポドゴルヌイの序列の入れかわりが注目される。
1971年7月の党中央委総会ではソロメンツェフ・ロシア共和国首相が政治局員候補に昇格した。そのポストからして当然であろう。続いて72年5月には、長い間党中央委国際部長と最高会議民族会議外交委員長を兼ねてきたポノマリョフ書記が政治局員候補にすすんだ。国際共産主義運動とソ連外交に対する多年の功労が報いられたものであろう。


ペトロ・シェレスト(Петро Юхимович Шелест、ロシア語では、ピョートル・シェレスト、1908年2月14日 - 1996年1月22日)は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人。ウクライナ共産党第一書記。1963年ニコライ・ポドゴルヌイの後任として、ウクライナ共産党第一書記に就任するとともに、政治局員候補となった。また、翌1964年11月政治局の正局員に昇進した。ウクライナ第一書記としては、部分的ではあったが、ウクライナ内部のウクライナ民族主義が「ウクライナ化」を求める声に対して支持を与えた。民族問題に対しては穏健な立場をとるが、失脚後、出版を許可した文書のタイトルにロシア語にはない呼格を採用しウクライナとロシアの差異を強調したとして、「民族主義的偏向」を犯したとして批判された。対外的にはタカ派の立場をとり、ウクライナと国境を接していたチェコスロバキアで、1968年の春から「プラハの春」による自由化、民主化が波及することを恐れ、ソ連指導部では、武力介入を主張した。また、ブレジネフが政権当初に繰り広げた緊張緩和(デタント)にも批判的な対外強硬派であった。1972年5月のリチャード・ニクソン米大統領の訪ソに対して、北ベトナム沿岸に対する機雷封鎖を理由に招請中止を主張したとされ、こうしたことがブレジネフ主流派の忌避に触れ、5月21日ウクライナ党第一書記を解任され、失脚した。解任後、ソ連副首相となるが、1973年4月、党中央委員会総会でゲンナジー・ヴォロノフとともに政治局員を解任された。

Українськаウクライナ語→Ше́лест Петро́ Юхи́мович (1 (14) лютого 1908, Андріївка, Російська імперія — 22 січня 1996, Москва, Росія) Petro Yukhymovych Shelest— партійний і державний діяч УРСР та СРСР.
1973年4月総会の異動
1973年4月の党中央委総会で、ブレジネフは初めての西独、米国訪問を控えて、大胆な政治局の異動を行なった。シェレスト、ヴォロノフの2人を解任し、グロムイコ外相、アンドロポフ国家保安委員会議長、グレチコ国防相を政治局に加えたのである。
シェレストはウクライナのボスで、かねて強硬な”タカ派”といわれていた。ウクライナと境を接したチェコスロヴァキアで燃え上がった自由化、民主化の波が、ウクライナに及んでくることを心配したシェレストは、強硬に武力介入を主張して、ためらうブレジネフ主流派を説き伏せたといわれている。ブレジネフが1970年代初めからくりひろげた緊張緩和外交にも当然、批判的だったようだ。72年5月、米国の北ベトナム沿岸機雷封鎖というきびしい情勢のなかで、約束通りニクソン米大統領をモスクワに迎え入れようとしたブレジネフ主流派に対して、彼は強硬に招聘中止を主張したという。そして5月21日、ニクソン訪ソの直前に、ほぼ9年間にわたって務めたウクライナ党第一書記からヒラの連邦副首相9人の1人に左遷された。このときから政治局員解任は予想されていたといえよう。
ヴォロノフは1971年7月、ロシア共和国首相の職をソロメンツェフに譲って、閣僚会議の人民統制委員会議長という閑職についてた。ブレジネフ=クラコフ農政を批判したためとささやかれた。
ヴォロノフはロシア共和国首相のとき、コルホーズ(集団農場)の生産性を高めるために”ズヴェノー方式”と呼ばれる新しいシステムの導入を試みたことがある。ズヴェノー(Звено)というのは、「班」とか「組」といった意味で、工場などでは作業の最小単位のことをいう。ズヴェノー方式は、コルホーズの作業単位を多人数の生産隊(ブリガータ)からより少人数のズヴェノー(生産班と訳してもよいと思われる)に移して、これに土地や農業機械を半永久的に貸し与えるというものである。互いに顔見知りの数家族が、いつも同じ土地、同じ機械で耕作すれば、各人の働きぶりが、収穫に直接響くことがよく認識され、勤労意欲がかき立てられる。大規模のブリガーダでは、個人の働きがどのように生まれたのかは目に見えにくい。自分が働かなくとも他人が働けばよい、という気風も生まれがちである。ズヴェノー方式は、いわば個人経営のよさを生かそうとしたものだ。ヴォロノフの実験は、ロシア共和国各地でかなり成果を挙げたといわれる。しかし、この方式は、社会主義から共産主義をめざすソ連農業の経営形態としては、後ろ向きであることは否めない。イデオロギー的正統制を尊重するブレジネフ=クラコフ農政と相容れなかったのだ、という観測が当時、モスクワでは流れたものである。ちょうど中国で、人民公社の経営の中心を生産大隊から、その下部組織で、より小規模な生産隊に移そうとする”実権派”の路線が、修正主義として批判されたのと同じようにー。
シェレスト、ヴォロノフの2人が政治局員からはずされるとともに、4月総会ではアンドロポフ国家保安委議長が政治局員候補から正局員に昇格、グロムイコ外相、グレチコ国防相がそれぞれ中央委員から一躍政治局員に登用された。アンドロポフは、1954年に駐ハンガリー大使になり、56年のハンガリー動乱に際しては、蜂起勢力の鎮圧と親ソ政権の擁立に手腕を振るった。57年から党中央委社会主義国党関係部長、67年5月から秘密警察を握る国家保安委員会の議長に転じ、翌6月に政治局員候補にすすんでいた。秘密警察長官が政治局に入ったのは、1953年粛清されたベリヤ以来である。1970年代初めからブレジネフ主導の下に展開されていた緊張緩和外交で、西側諸国とソ連市民との接触や交流がいやおうなしに深まり、国内へのブルジョア思想の浸透も懸念されるので、ソ連社会全体に対する“お目付け役”としての秘密警察の役割は高まりつつあり、アンドロポフの政治局入りは、ブレジネフの緊張緩和政策と表裏一体をなす国内治安の引き締め政策を象徴するものであった。
アンドロポフは、経歴からみる限り、生粋のブレジネフ人脈の一員とはいえないが、モスクワ・クトゥーゾフスキー大通り24番地のブレジネフと同じアパートに住み、ブレジネフの身辺警護の最高責任者でもあった。ブレジネフの信頼を得ていたことは間違いない。
グロムイコ外相は、1949年以来、第一外務次官を9年、57年以来、外相を20年間務めた。党の政策を忠実に、手堅く実行してきた大ヴェテラン外交官である。しかし、党では第20回党大会(56年)以来、ヒラの中央委員で、対社会主義圏外交ではカフシェフ書記、対資本主義国外交ではポノマリョフ書記(党中央委国際部長・最高会議民族会議外交委員長)の指示を受ける立場にあった。外相が政治局入りしたのはモロトフ以来で、ブレジネフがその緊張緩和外交をすすめるに当たって、すぐれた実務家グロムイコの直接の補佐を必要としたものであろう。

グレチコ(1976年4月病死)は、第二次大戦時、ブレジネフの戦友だった。41年6月、ナチス・ドイツの対ソ侵攻直後、ウクライナのドニェプロぺロフスク州党委書記だったブレジネフは、戦時特別任用令によって陸軍中佐となり、南部方面軍の政治部次長に転出し、42年4月大佐に進級して、第18軍政治部長として活躍した。当時の軍司令官がグレチコであった。その後も第4ウクライナ方面軍でともに戦った仲である。67年3月病没したマリノフスキー国防相の後任として、ブレジネフは職業軍人のなかでは気ごころの知り尽くしたグレチコを選んだのだった。国防相在任6年で政治局員になったわけだが、軍幹部の政治局入りは、ジュ―コフ元帥以来17年ぶりである。ブレジネフの軍重視のあらわれであろう。68年夏、チェコスロヴァキアの右傾化の危機を食い止めたのは、ソ連軍の実力であったし、1970年代初めからくりひろげられた緊張緩和外交も、強力なソ連軍の実力を背景にして、西側に“平和共存”を押し付けたものにほかならない。ソ連の政策、とくに外交政策を推進するに当たって、軍の全面的な協力を欠くことはできない。ブレジネフは緊張緩和外交を一層すすめるべく西独、米国に出発するに当たって、信頼するグレチコを政治局に入れ、軍の全面的な支持を取りつけようとしたのであろう。
4月総会ではまた、ロマノフ・レニングラード州党委第一書記が政治局員候補にすすんだ。彼は駐中国大使に転出したトルスチコフに代わって1970年9月、レニングラードの党組織の長になった。もともとレニングラードの党組織は、モスクワのそれと並んで、ロシア共和国内では最大の党組織であり、党を完全にコントロールするためには、ここの党組織を押さえることの意味は大きい。ロマノフは、レニングラード造船大学を卒業して、造船工業設計局で働いたあと54年からずっとレニングラードで党活動を続けてきた。ブレジネフと“地縁”でのつながりはないが、ブレジネフ好みの地方からたたき上げた党活動家である。ロマノフの政治局員候補昇進は、72年9月、グルジアでの汚職・乱脈政治の詰め腹を切らされてグルジア党委第一書記を解任され、続いて12月、政治局員候補をも解かれたムジャヴァナッゼの後を襲った形である。

ゲンナジー・イワノヴィチ・ヴォロノフ(ウォロノフ、ボロノフ、ロシア語: Геннадий Иванович Воронов、ラテン文字転写の例:Gennadii Ivanovich Voronov、ユリウス暦1910年8月10日(グレゴリオ暦8月31日) - 1994年4月1日)は、ソビエト連邦の政治家。1962年から1971年までロシア連邦共和国閣僚会議議長(首相)。ソ連共産党中央委員、政治局員候補、政治局員。ソ連最高会議代議員。

1975年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
左から1、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長 2、グレチコ国防相 3、ブレジネフ書記長 4、コスイギン閣僚会議議長(首相) 5、スースロフ政治局員 6、キリレンコ政治局員 
Русскийロシア語→Генна́дий Ива́нович Во́ронов (18 [31] августа 1910, село Рамешки, Тверская губерния — 1 апреля 1994, Москва) — советский государственный и партийный деятель, председатель Совета министров РСФСР. Член КПСС с 1931 года. Член ЦК КПСС (1952—1976), кандидат в члены Политбюро ЦК КПСС (1961), член Политбюро ЦК КПСС (1961—1973), Член Бюро ЦК КПСС по РСФСР (1961-1966), депутат Верховного Совета СССР 3—8-го созывов.

アンドレイ・アントノヴィチ・グレチコ(ロシア語: Андрей Антонович Гречко, ラテン文字転写: Andrei Antonovich Grechko、1903年10月4日 - 1976年4月26日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。ブレジネフ時代に国防相を務めた。安德烈·安东诺维奇·格列奇科(俄語:Андрей Антонович Гречко,转写:Andrei Antonovich Grechko,1903年10月17日-1976年4月26日)曾任苏联元帅、国防部长。

アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ(ロシア語: Андре́й Андре́евич Громы́ко, ラテン文字表記の例:Andrei Andreevich Gromyko, 1909年7月18日(ユリウス暦7月5日) - 1989年7月2日)は、ソビエト連邦の外交官、政治家。28年の長きにわたってソ連の外務大臣を務め、ミスター・ニエットの異名で知られた。안드레이 안드레예비치 그로미코(러시아어: Андре́й Андре́евич Громы́ко, 벨라루스어: Андрэ́й Андрэ́евіч Грамы́ка 안드레이 안드레예비치 흐라미카, 1909년 7월 18일(율리우스력 7월 6일) ~ 1989년 7월 2일)은 소련의 외교관이자 정치가이다.Мемуары Громуйко - советская дипломатическая история (японский) Книга - 1 октября 1989 Андрей Громуйко (Автор), газета Yomiuri Shimbun (перевод)

シェレーピンの退場
さきに書記局を追われたシェレーピンは、政治局の一角になおとどまっていた。昔日の勢威はもはや感じられなかったが、シチェルビツキー・ウクライナ党第一書記、クラコフ書記とともに1918年生まれの最年少の政治局員として、なおチャンスをうかがえる立場にあった。
ところが一つの事件が持ち上がった。1975年4月、ソ連の労組指導者として、英国労働組合会議(TUC)の招きで訪英したが「人殺し帰れ!」を叫ぶ大規模なデモに迎えられ、日程を繰り上げて逃げるように帰国したのである。シェレーピンは58年から61年まで、国家保安委議長としてソ連の秘密警察(KGB)の総元締めだった。国内国外の“ソ連の敵”に対しては容赦ない手段で対抗してきた。たとえば58年10月15日、西独ミュンヘンのあるアパートで、亡命生活中の有名なウクライナ独立運動の指導者ステファン・バンデラが殺された。下手人は後に西独当局に自首して出たボグダン・スタシンスキーというKGBの“殺し屋”だった。任務を完遂してモスクワのKGB本部に帰ってきたスタシンスキーを迎えたのが当時のシェレーピン議長だった。シェレーピンはスタシンスキーの功績を賛え、最高会議から贈られた赤旗勲章を伝達し、すご腕の彼が将来さらに英国か米国で任務につくために、英語を研修するように指示したという。このバンデラ暗殺事件の“共犯”として、シェレーピン議長には西独当局から召喚状が出ているともいわれている。英国にはソ連から亡命したり、追放されたりしたかつての反体制運動家やユダヤ系市民も少なくない。労組指導者として訪れたシェレーピンは、スネの傷をあばかれたわけである。

①ステパーン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ(ウクライナ語: Степан Андрійович Бандера, 1909年1月1日 ‐ 1959年10月15日)Stepan Andriyovych Banderaは、ウクライナの政治家、ウクライナ民族解放運動の指導者である。

②ボグダン・ニコラーエヴィチ・スタシンスキー(ロシア語: Богдан Николаевич Сташинский、ウクライナ語: Богда́н Микола́йович Сташи́нський、ボフダン・ムィコラーヨヴィチ・スタシンシキーBohdan Mykołajowycz Staszynski、1931年11月4日 - ?)は、KGBの元諜報部員、暗殺者。1950年代後半にウクライナの民族主義者Лев Роман Михайлович Ре́бетレフ・レベトLev Rebetとステパーン・バンデーラを暗殺し、1961年西ベルリンに亡命した。
この旅行は、シェレーピン個人の威信をゆるがせただけでなく、ソ連共産党政治局員のイメージを傷つけるものでもあった。彼は帰国早々、4月の党中央委総会で「本人の要請に従って」政治局員を解任され、5月には労組中央評議会議長の職も失った。かつての「クレムリンのプリンス」は、モスクワ政界から完全に姿を消した。
シェレーピンは書記局を追われた後も、自分の指揮下にある労組機関紙『トルード』(1969年2月12日付)に「指導者の権威」と題する社説をかかげて、指導者の備えるべき資質と犯しやすい誤りについて論じ、暗にブレジネフを批判するかの態度をみせたり、73年にはスースロフ書記、マズロフ第一副首相と連名で、ブレジネフの経済政策を批判した文書を労組内に流したといわれるなど、権力への野心を捨てていないようだった。74年暮れから75年2月にかけて約50日にわたって、ブレジネフが“病気のため”活動を停止していた間に、ソ連が米ソ通商協定の発効中止を通告したり、対米強硬論文を相次いで発表したりしたことや、75年1月中旬にシェレーピンが東独訪問を1日だけで切り上げてあわただしく帰国したことなどを考え合わせると、この間にブレジネフの緊張緩和政策がシェレーピンらのタカ派から激しく突き上げられていたとも考えられよう。シェレーピン解任を決めた75年4月の党中央委総会の決定が、こと新しく緊張緩和外交への支持をうたっていることが、その舞台裏を語っているのかもしれない。いずれにせよ、ブレジネフは、シェレーピンが訪英でミソをつけたチャンスを逃がさず、多年の危険人物を最終的に葬ったのである。
第25回党大会の人事
第25回党大会は1976年2月24日から3月5日まで開かれ、最終日に新しい中央委員287人、同候補139人、中央監査委員85人が選出された。
さらに同日開かれた中央委員会総会で政治局員16人、同候補6人、書記11人が選ばれた。
この大会での中央委員(同候補)の更新率は21・8パーセントである。フルシチョフ時代末期の22回大会の63パーセント、ブレジネフ時代初期の23回大会の34パーセント、24回大会の32パーセントと比べてみると、更新率は目立って低下している。ブレジネフ指導部を支える中央委員会の安定化を意味するものといえるであろう。
政治局人事では、1960年以来のメンバー、ポリャンスキーが解任された。すでに73年2月、第一副首相から農相に格下げされていたが、75年の農業不作の責任をとらされた形での解任であった(その後76年4月、駐日大使に転出)。

ドミトリー・ステパノヴィチ・ポリヤンスキー(ロシア語: Дмитрий Степанович Полянский、ラテン文字転写の例:Dmitrii Stepanovich Polyanskii、ユリウス暦1917年10月25日(グレゴリオ暦11月7日) - 2001年10月8日)は、ソビエト連邦の政治家。1958年から1962年までロシア共和国閣僚会議議長(首相)。失脚後、駐日ソ連大使として日本に赴任。日本では、その言動から「恫喝大使」の異名を奉られた。Русскийロシア語→Дми́трий Степа́нович Поля́нский (1917—2001) — советский государственный и партийный деятель, Председатель Совета Министров РСФСР (1958—1962). Первый заместитель Председателя Совета Министров СССР (1965—1973). Министр сельского хозяйства СССР (1973—1976). Член Президиума — Политбюро ЦК КПСС (1960—1976).
そして、新しくロマノフ・レニングラード州党第一書記とウスチノフ党中央委書記の2人の政治局員候補が政治局員に昇格し、他の14人は留任した。ロマノフは前大会で政治局員候補になったばかりで、ブレジネフの信頼と期待の深さがうかがわれる。ウスチノフは、後で詳しく触れるが、軍事技術、軍需工業行政の大ヴェテランである。ウスチノフの政治局入りは、さきのグレチコの場合と同じく、軍事力を背景にした“攻勢的”な緊張緩和外交の推進を示唆する人事とみられた。ウスチノフはその後、1976年4月病死したグレチコの後を継いで国防相に就任している。
政治局員候補は、24回大会の後、1971年11月選出されたソロメンツェフ・ロシア共和国首相を含めて5人が再選され、新たにアリエフ・アゼルバイジャン党中央委第一書記が候補に選ばれた。アリエフは1941年から一貫してアゼルバイジャンの国家保安機関と内務省で働き、67年にはアゼルバイジャン共和国国家保安委員会副議長、69年からは同議長を務めた警察官僚で、69年にアゼルバイジャン党中央委第一書記になった。国内イデオロギー引き締めの強化をねらうブレジネフ路線に沿う人事とみることができる。

↑1976年3月、第25回ソ連共産党大会でのインターナショナル(旧国歌(17-44年)+ソ連共産党・党歌(現ロシア共和国共産党・党歌))斉唱
グレチコ国防相・アンドロポフKGB議長・ポリャンスキー政治局員・ペリシェ政治局員・マズロフ政治局員・キリレンコ政治局員・スースロフ政治局員・以下トロイカ時代→<コスイギン首相・ブレジネフ書記長(中央)・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長>・グリシン政治局員・クラコフ政治局員・シチェルビツキー政治局員・クナーエフ政治局員・グロムイコ外相 後列にはカーダール(Kádár János)ハンガリー書記長・フサーク(Gustáv Husák)チェコスロバキア大統領・カストロ(Fidel Alejandro Castro Ruz)キューバ首相・ホーネッカー(Erich Honecker)東ドイツ書記長・レ・ズアン(Lê Duẩn)ベトナム書記長 さらにロマノフ政治局員・ウスチノフ政治局員・ソロメンツェフ政治局員候補・アリエフ政治局員候補なども見える(以上、私が確認できた範囲内ながら参考までに)。
政治局を制圧
すでに政治局からミコヤン、シュベルニスク(いずれも1966年)、シュレスト、ヴォロノフ(73年)、シェレーピン(75年)を切って、マズロフ(65年)、ペリシェ(66年)、クラコフ、クナーエフ、グリシン、シチェルビツキー(71年)、アンドロポフ、グロムイコ、グレチコ(73年)を加えていたブレジネフは、第25回党大会でさらにポリャンスキーを追い出して、ロマノフ、ウスチノフを政治局に迎えた。政治局員16人のうち、11人はブレジネフが第一書記・書記長になってから政治局入りした人物。これに古くからの盟友キリレンコと自分自身を加えると、実に13人がブレジネフ派ないしそのシンパという勘定になる。この時点でブレジネフ(57年政治局入り)の先輩ないし彼と同格の政治局員は、スースロフ書記(55年政治局入り)、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長、コスイギン首相(いずれも60年)の3人だけとなった。書記局に続いて、ブレジネフは党の意思決定機関である政治局も制圧したのである。

↑1968年8月1日、「チェコ事件(プラハの春)」(ソ連軍の軍事介入)に先駆け(20日にルーマニアを除くワルシャワ条約機構軍は国境突破、侵攻開始)、ソ連との国境にあるスロバキアのチェルナ・ナド・チソウにおいて(チェルナ会談)。ドゥプチェク第一書記はじめチェコ側指導者たちに迎えられたソ連首脳。左がポドゴルヌイ最高会議幹部会議長・中央にブレジネフ党第一書記・右はコスイギン閣僚会議議長(首相)




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