日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11⑨


*Soviet partisansРадянські партизани were members of resistance movements that fought a guerrilla war against Axis forces during World War II in the Soviet Union赤軍パルチザン(せきぐんパルチザン)Советские партизаны в Великой Отечественной войнеSowjetische Partisanenとは、ソビエト連邦がモスクワ放送などで指揮した、共産主義のゲリラ部隊。大祖国戦争中に結成され、ドイツ国防軍占領地や、フィンランドの国境近くで、枢軸国軍と戦った。
 わたくしは二日間キエフの町をあるいてまわった。町の中央はひどい破壊ぶりだが、郊外はいくらか残っていた。ドニエプルの堤から眺めるキエフの景色はすばらしかった。廃墟と化した大通りが、夕陽を背にして美しいシルエットとなって浮かびあがり、その手前にキエフ第一の大寺院が、なかば崩れ、金色のドームに夕陽を浴びていた。印象深い景色だった。晩にはオペラに招かれた。バレーのコッペリアCoppéliaをやっていた。見物人はみな兵隊ばかりだった。陣中見舞の一座だったのだろうが、踊りは上手で、オーケストラもなかなかよかった。
 三日目の日は、パルチザン掃蕩戦で負傷した兵隊たちのいる病院を訪ねて話を聞いた。「パルチザン相手の撃ち合いはいやなものです。誰でも侵略者には反抗するのは当たり前ですShooting against partisans is unpleasant. It is natural for anyone to rebel against an invader.」こんなことをいうハンガリー兵もいた。
 キエフには古い寺が数え切れないくらいあった。大半はこわれていたが、わたくしののぞいたお寺にはツァー時代の絵がふんだんにかけてあった。「こんなお寺を自分の手でわざわざ破壊するわけはあるまいThere is no way they would go out of their way to destroy a temple like this with their own hands.」とわたくしは思った。
 ハンガリー人の話によると、ソビエトは、都市から30パーセント、農村からは20パーセントの住民たちを連れて行ったそうであるThe Soviet Union reportedly took 30% of the population from cities and 20% from rural areas. キエフを立ったあと、ニエジン、ヷトリン、ルゴフなどで泊り6月26日にクルスクについた。ニエジンをすぎるともう大ロシアで、農家の感じもウクライナとはちがってくる。草ぶき、土壁はおなじだが、床下を二尺ほどすかして、そこに横板を打ちつけている。ひとびとの服装もウクライナよりは小ぎれいに見えた。

*Kurskクルスク (Russian: Курск, IPA: [ˈkursk])Курськ is a city and the administrative center of Kursk Oblast, Russia, located at the confluence of the Kur, Tuskar, and Seym rivers. It has a population of 440,052 (2021 Census).
 クルスクの手前のルゴフでは、先方にあったドイツ軍大部隊で道が一ぱいになり、まる二日待たされた。六月も終りが近いので、ロシア平原のまん中もすっかり夏らしくなっていた。日光は強烈で、裸でいると背中はじりじり焼けるようだった。それでも夜になると気温は三度ぐらいまで下るので、夜は寒さでふるえてしまう。ここまでくると前線が近いせいか、どこもここも兵隊で一ぱいになり、戦場の気分らしいものが強く感じられる。
 このルゴフの町で、わたくしは奇妙なものを発見しておどろいた。町の広場の一角に、太平洋戦争Pacific Warの模様を説明する大きな地図がはり出され。そのそばに”日本の大戦果Japan's great achievements”がでかでかと広告されているのである。東部戦線の最前線近くで、何故こんなものが必要なのだろうか。これは何とも説明のつかぬ奇妙なことだった。
 旅の終点クルスクには6月26日の夕方についた。ルジェフを発ってから13日、ブダペストを立ってからは17日になる。地図で見ると、クルスクはモスクワのほとんど真南に当り、その線をずっと地図の下にのばすと、サウジアラビアを横切って紅海のまん中にぶつかる。ずいぶん東にきているのにわたくしはびっくりした。ブダペストは2000キロ以上も遠い彼方に離れてしまったのである。
 クルスクは、二つの丘の上に建てられた風趣ゆたかな町である。破壊がひどく、満足な建ものはほとんど残っていない。ここもモスクワに似てお寺が多い。戦争前はいい町だったにちがいない。わたくしは、トルストイLeo Tolstoyの『Война и мир戦争と平和War and Peace』の中で、Николай Ильич Ростовロストフ中尉Count Nikolai Ilyich Rostovが、馬を買入れるためクルスクに出かけた、というくだりのあったことをふと思い出した。そのクルスクは、いまはこの方面の重要な前線基地で、町中兵隊で溢れ、戦車やトラックが右往左往していた。
 わたくしは、四人の将校と一しょに、廃墟となったアパートの一室をあてがわれた。東を向いた丘の中腹にあって、東の方、明日からの戦場を一望の下に見はるかすことができた。窓には硝子がなく、夜は開けっぱなしで寝るのだった。晩飯のあとは、灯のともらないうすぐらい部屋で三人の将校と一ぱいやりながら駄べるのだったが、11時すぎ、満月近い月が明るく照らす時刻になると、ソビエトの飛行機がやってきて、クルスクの上空をぐるぐるとまわりはじめた。爆弾を落とす様子はなかったが、われわれは、戸外に出て、簡単な土壕の中にかくれた。
 6月27日、明日は総攻撃が開始されるというその日、わたくしはハンガリー軍総司令官ヤーニー大将を訪ねた。クルスク前方の野原の中、殺風景なバラックの一室だった。ヤーニー大将は、子供のころに読んだ中国の大将軍Гуань Юй関羽Guan Yuを思わせるような堂々たる軍人だった。戦争の見透しについては、「ロシアから石油地帯を奪いとること、これが最大の目的ですThe main objective is to seize oil areas from Russia. これに成功すれば今度の攻勢は目的を達成するIf this is successful, the next offensive will achieve its objective. そのあとどうなるか、無理に攻撃をつづける必要はないThere is no need to forcefully continue the attack, knowing what will happen next. 一方的にしかけた戦争ですから、一方的に中止することもあり得るSince this is a war started unilaterally, it may be called off unilaterally.」と、こんな言葉をわたくしは聞いた。要するにコーカサスを占領する、というのが第二次夏期攻勢の主目標なのであったIn short, the main goal of the Second Summer Offensive was to occupy the Caucasus. その日の午後になって、戦線から六キロ手前にある軍団司令部に移ることになった。

*ヤーニ・グスターフ(ハンガリー語: Jány Gusztáv、1883年10月21日 - 1947年11月26日)Густав Яни は、ハンガリーの軍人。最終階級は陸軍上級大将。第二次世界大戦ではスターリングラードの戦いでMagyar 2. hadsereg第2軍Second Army (Hungary)を率いた。大戦終結後、戦争犯罪に問われ銃殺刑に処された。1993年に名誉が回復されているAfter the war, he was found guilty of war crimes and executed by firing squad. He was posthumously exonerated in 1993 by the Supreme Court of Hungary.
 夕食後にクルスクを後して前線へ向った。町を離れると広い野原で、東の空には満月がぽっかりと浮かんでいた。西空にはまだ夕陽が照りかがやいていて、東の空のるり色と、西の空のあかね色の下で、野原がきれいに染まっていた。もうトラックや戦車の往来も絶えて静かな夕方の気分が漂っていた。ときどきハンガリー兵が歩哨に立っているのに出会うだけで、戦場まぢかとは思われぬ安らかな風景だった。
 わたくしは、軍団司令部のそばの天幕でD少佐の隣りに寝ることになった。D少佐から寝しなに、「ぼくは二時に起きるが君は七時まで寝ていていいんだよI wake up at 2 o'clock, but you can sleep until 7 o'clock.」といわれたが、慣れない野外ベッドと寒さのため眠れないでいるうちに二時になった。

 D少佐は起きて出かけて行った。すると間もなくドンドンと大砲の音が聞こえはじめた。いよいよはじまったなIt's finally begun、そう思うと寝てはおれなかった。外は月明りで白々としていた。寒くてぶるぶるふるえた。東の空が朝焼けでほのかに赤い。野の線がその明るくなりつつある空と接していた。近くにひとが集まっているので行ってみると、みなあいさつをして、急降下爆撃機の飛びまわっている方を示してくれた。急降下してはまた舞上がる数十機の爆撃機が、淡い朝焼けの空を背景にして、まるで蚊とんぼの群れのように上下に動きまわっていた。
 大砲の音は次第に大きくなり、とどろきつづけた。「またはじまったなIt started again.」と思うとわたくしも何となく興奮を覚えた。しかし、二回目の独ソの決戦Second decisive battle between Germany and the Soviet Unionがはじまったのだ、その戦場のそばにいるのだ、といっても実感の方は一向に湧いてこなかった。こうして一時間ほど、蚊とんぼの飛びまわる東の空を見ていたが、四時半にまた天幕にもどった。
 朝飯のあとしばらくして前線を見に行くことになった。ハンガリー軍はそれまでに七キロほど進んだので、われわれのゆきついた地点は昨日まではノーマンドランドだったところである。そこにゆく途中で、その朝捕えたばかりのソビエト兵を見た。ソビエト兵の捕虜は、ウクライナの方々で何度も見てきたが、その朝のソビエト兵は一番いいなりをしていた。五、六ヵ月の訓練を受けただけで第一線に出されたのだそうである。
 ノーマンドランドの先端まできて、われわれは一服していた。五、六キロ前方にはソビエト兵がまだ頑張っていた。ところがそのとき、何か黒っぽい鳥のようなものがこちらに向って飛んでくるのが見えた。しばらくすると爆音が聞え、ソビエトの飛行機であることがわかった。複葉のぶさいくな型で、われわれの立っていた岡から100メートルほどのところまできて引き返して行った。偵察のためだったのであろうが、こちらには高射砲はなく黙ってそれを見送るだけだった。まるで演習でもやっているようなもので、おかしなことだな、と思っていると、ドガン、ドガン、と凄まじいさく裂の音がわたくしのすぐ背後でおこった。何がおこったのかわからぬまま、わたくしは仲間の連中の走ってゆくあとを追った。30メートルほどのところに砂ぼこりがおこって、それが一列になって右の方に、わたくしの位置から遠ざかって行くのが見えた。”砲撃だIt's shelling”と誰かが叫んだのを聞いて、何がおこったかがわたくしにもわかった。あたりは一面の草原で、身をよけるような遮蔽物は何ひとつ見当らない。砲撃は、はじめの線を正確に、右から左、左から右に規則正しい線をえがいて200メートルほどの距離の間に落下していた。その破片はわたくしのすぐそばにも降ってきた。落下点から逆の方向に夢中で走り、100メートルほどのところにようやく、二メートル高さの岩塊を見つけ、そのうしろにまわってほっとした気持になった。兵隊が三人いっしょだった。みな新兵ばかりで、かれらも砲火の洗礼を受けたのはこのときがはじめてだった。砲撃はおよそ一時間つづいて終ったが、すっかり怖気づいてしまっていて、岩蔭から離れるのがおそろしくてしかたがなかった。欲ばってカメラを二つも肩にかけ、その上、16ミリを提げていたし、生まれてはじめて長靴で走ったため、腰から下がすぽっと抜けたようになって、とても歩けたものではなかった。若い兵隊二人の肩によりかかり、半病人でわたくしはひきあげて行った。「気軽に戦争見物などという気をおこした罰だなIt's a punishment (to me) for casually watching the war.とわたくしはひとりでつぶやいた。
 その晩、食事をしながらD少佐が説明してくれた。その話によると、あのときひどい目に遭わされたのは、普通の大砲ではなくて、迫撃砲だった。迫撃砲は破壊力は小さいがさく裂平面が大きいので、人的損害は大きくなるのだそうだ。「あの標準がもう100メートル左によっていたら、君も多分大怪我はまちがいなかったなIf that standard had gone another 100 meters to the left, I have no doubt that you would have been seriously injured as well.」というD少佐の言葉を聞いて、わたくしはもう一度ひやりとした。文字どおり”砲火の洗礼baptism of gunfire”を受けたわけである。
*迫撃砲(はくげきほうМортира、英: mortar、臼砲と同語)Mörser (Geschütz)は、簡易な構造からなる火砲。高い射角をとることから砲弾は大きく湾曲した曲射弾道描く。

 しかし、翌日もまたつぎの日も、わたくしは最前線を走りまわった。大砲のとどろきは一日中絶えなかった。小さな村が燃えている光景も何度となく見た。路傍に横たわる死骸もたくさん目に入った。新しい十字架がどんどん立っていた。攻撃開始から四日目、チムТимскийという小さな町を攻撃する場面も見た。深い谷間をへだてて向こうの岡にあるこの町に、ソビエト軍一コ大隊が頑張っているのを攻撃するのである。夜明けに攻撃をしかけて成功せず、大きな損害を出したということだった。臨時の野戦病院をのぞいてみた。重傷、軽傷を合わせて200人ほどの兵隊が、苦痛にうめきながら横たわっていた。空軍や砲兵の掩護なしで突撃をやったのだそうである。空軍はこんな小さな戦闘にはまわしてくれないし、砲兵は連絡が悪くて近くにはいなかったのだという。そのため無益な流血となったのである。兵隊こそたまったものではない。わたくしの眼の前で、また一コ中隊が谷間に下りて行った。しばらく見ていると、チムからもうもうたる黒煙があがり、つづいて赤い焔が吹きあがった。ソビエト軍はチムを放棄することを決め、石油タンクに火をつけたのである。
 その翌日、チムはハンガリー軍の手に落ち、軍団司令部もここに移った。わたくしもいっしょについて行った。そこはもうクルスクからは70キロほど離れてしまったので簡単には往来できなくなってしまった。宣伝中隊とも何となく縁が切れ、自然に軍団司令部の厄介になることになった。先方には迷惑だったにちがいないが、自動車をあてがわれていたので、わたくしは勝手にその辺をうろつきまわった。運転手のザイグレー老伍長は第一次世界大戦の勇士で、もう48歳の老兵だったが、司令部から様子を聞いてきて、危険のなさそうな地域を案内してくれた。開戦六日目には、ハンガリー軍先鋒はもう100キロも進んでいて、つぎの目標のスタリオリスク攻略にむかっていた。

 作戦を終った地域というのは混乱そのもので、兵站輸送部隊、治安部隊が流れこみ、地域司令部の宿泊所はドイツ、ハンガリー将校で満員となり、わたくしは毎晩変った相手と同じ部屋にねかされた。ドイツの将校たちはなかなか鼻息が荒く、七月中にはスターリングラードを落としてみせるWe will capture Stalingrad in July、と確信をもって語っていた。中にはスターリングラードまでいっしょにこないかWill you come with us to Stalingrad?、と真面目に語ってくれた将校もいた。
 ドイツの作戦計画でも、スターリングラードは夏の間に攻め落とすことになっていたのであるGermany's military plan also called for Stalingrad to be captured during the summer. あとで聞いた話によると、わたくしの友人H新聞のベルリン特派員だったK君は、七月半ばにドイツ宣伝省から「八月下旬までにスターリングラード見学に案内するから準備をしておくようにWe will take you on a tour of Stalingrad by late August, so be prepared.」という通知をもらっていたそうである。
*国民啓蒙・宣伝省(こくみんけいもう・せんでんしょう、ドイツ語: Reichsministerium für Volksaufklärung und Propaganda 略称・RMVPReich Ministry of Public Enlightenment and PropagandaИмперское министерство народного просвещения и пропагандыは、ナチス・ドイツ時代のドイツに置かれた国家宣伝と国民指導を目的とした省。

 戦場でみたものは
 さて、わたくしが、チムとスタリオリスクの間を走りまわっている間に、前線はどんどん遠くなってしまった。その間に珍らしい見聞もないわけではなかった。
 ある日、スタリオリスク付近の、前線に近い小さな部落に入ったとき、農家の庭さきのむぎわらの上に、顔じゅう傷だらけになった女が横たわっているのが眼に入ったI saw a woman lying there with scars all over her face. そばに4、5人のハンガリー兵が立っていて、負傷した女の方を睨んでいた。
 話はこういうことだった。ハンガリー兵たちが、ついその近くで掃蕩戦をつづけていたところ、この負傷している女がーまだうら若い娘なのであるー両手をあげてあらわれたので、ハンガリー兵が近づいて行ったところ、かくれていたソビエト兵から銃撃を受け、5人のハンガリー兵が重傷を受け、ソビエト兵は逃げてしまった。ロシア娘は逃げようともしなかったので捕まえてきて、処罰したところだ。ほんとうは銃殺すべきなんだが、15,6歳の娘なのでそれだけは勘弁して、その代り顔に傷をつけてやったのだ、というのである。凄惨な話であるが、まだどこかに救いの残っている話でわたくしは強烈な印象を受けた。
 わたくしのそばでしゃがみこんで話を聞いていた運転手のザイグレー伍長も、如何にも感に堪えぬという様子だったが、ずっと立ちあがり自動車のうしろにまわり、トランクを開いて衛生箱を抱え出すと、そのままロシア娘のそばに歩いていった。そして娘を抱きおこし、衛生箱からとり出した消毒水で顔から血を洗い落としはじめた。それが済むと、何か薬をつけ、そのあとほうたいで顔中を巻いてしまった。それが終るとザイグレー伍長は、またわれわれのところに戻ってきて、兵隊たちにむかって口を開いた。
 「君たちがあの娘を撃たなかったのはいいことだった。大へんいいことだった。それでわしも、そのいいことのお手伝いをしたわけだ。あの子供が歩けるようになったらすぐ帰してやれよIt's a good thing you didn't shoot that girl. That was a great thing. So I helped out with that good thing. As soon as that child can walk, let her go home.
 荒々しい戦場、神も仏も姿を消してしまったこの血なまぐさい戦場のほとりに、こんなに心打つできごとがころがっていることに、わたくしは感動を覚えた。帰り道すがら、ザイグレー伍長はいい御機嫌だった。そして、猛然とソビエト礼讃をやりはじめ出した。
 「えらいもんですね。あんな小娘があんな思い切ったことをやれるということは、わたしはすっかり感心しましたよ。そうじゃないですかねIt's a great thing. I was completely impressed that such a young girl could do such a drastic thing. Isn't that so?
といってわたくしの同意を求めてきた。わたくしは別段の考えもなくむしろ反射的に答えた。
 「それもそうだが、君やハンガリーの兵隊たちもいいことをしたね。ドイツ兵ならああじゃなかっただろうな
That's true, but you and the Hungarian soldiers also did some good things. It wouldn't have been like that if it was a German soldier.

わたくしは余計なことをつけ加えたようである。しかしこれは本音だった。

 翌日わたくしはクルスクに戻った。宣伝中隊本部は新しい住居に移っていた。クルスク・プラウダの社屋で、焼けのこったのを手入れしたものだった。今度は、中隊付の大尉と二人で一部屋もらうことができた。

 戦場を一週間あまり走りまわって疲れも出てきたので、二、三日ぶらぶらすることにした。クルスクでは、戦場では一向つかめなかった戦況もいくらかわかってきた。ハンガリー軍は大体予定どおりに前進していて、一週間で100キロくらい進んでいるということだった。もうすっかり夏で、日中は30度近い暑さだった。クルスクは相変らず兵隊、トラックなどでごった返しだったが、それにもましてロシア人の人出が大へんだった。方々の焼け出され組がここに集まってきていた。

 町のまん中に大きな古もの市があって、ここでは盛んな買いものが行なわれていた。普通には買いものの対象にはならないがらくた類までが並んでいた。古着、古靴はもちろん、なべかまの類まで、要するに戦争の破壊が如何にトータルなものであるかを、このがらくた市は物語っているのである。この市場の中でわたくしはブダペストの知人に出会った。Aという総司令部付幕僚の中佐である。A中佐はブダペストに急用で帰るため飛行機を待っているのだった。晩飯に招いてくれたのでその夕方総司令部の連絡事務所に出かけた。

 そこで一般戦況についての説明を聞くことができた。A中佐の意見では、ドイツ軍が全力をあげて南部戦線に立ちむかうならば、秋までに目的を達することは不可能ではない。しかしソビエト軍は予想した以上に力を持っているように見える、という慎重な見かただった。わたくしは、チムで会ったドイツ将校の言葉を思い出し、「八月中にスターリングラード入城といっていましたがどうなんですかThey said they would enter Stalingrad in August, what do you think?」と尋ねてみた。

 「スターリングラードまではまだ700キロ以上もあるんですよThere is still more than 700 kilometers to go from Stalingrad. それにソビエト軍はこの正面だけでも100コ師団くらいは集めていますから、無人の境を行く、というわけには行きませんねAlso, the Soviet army has gathered about 100 divisions on this front alone, so it's not like we'll be left unmanned. いまや兵力においては敵側がはるかに優勢なのです。よほどうまくやらなければThe enemy now has far superior military strength. we have to do very well.”」と、相変らず慎重な返事だった。それは、単に”慎重”というよりも、警戒の色の濃いものRather than simply being "cautious," it's more of a warningであることをわたくしは見逃さなかった。そのとき、ロンメルJohannes Erwin Eugen Rommel将軍のひきいるドイツ軍が北アフリカAfrikafeldzugで優勢であることや、イギリス空軍のケルンに対する前代未聞の大爆撃British Air Force's unprecedented bombing of Cologneがあったことなども聞いた。東部戦線にきてから12日、戦場の熱気に巻きこまれて、つい忘れがちだったほかの世界のことを思い出させられたわけである。しかし、この戦争を決定するものがこの東部戦線である、というわたくしの確信は揺がなかった。

Operation Millennium: Bombing of Cologne in World War IIケルン爆撃Бомбардировка Кёльнаドイツのケルン市は、 第二次世界大戦中に262回にも渡る連合国の空襲を受けたが、そのほぼすべてはイギリス空軍(RAF)によるものであった。他にアメリカ陸軍航空軍が誘導ミサイルの捕捉試験を1回実施しているが、これは失敗している。イギリス空軍が投下した爆弾の総量は合計34,711トンにも及び、市民20,000人が死亡したほか、ケルン市街はほぼ壊滅状態となった・・・史上初の爆撃機1,000機による空襲は1942年5月30日から31日にかけての夜に行われた。

 その晩、わたくしは久しぶりで空襲警報を聞いて地下室に下りた。最前線では空襲はなかったのである。

 地下室に入ってみると、ロシア人家族が大ぜい集まっていた。大人が20人くらい、その二倍くらい子供がいた。その上に宣伝中隊部員が50人くらいで、狭い地下室はぎっしり詰まってしまった。れんがづくりの粗末な建ものなので空気ぬきなどはない。たちまち暑くるしくなってしまった。やがて高射砲が鳴りはじめ、ドーンと爆弾の落ちる音も聞こえてくる。小さな爆弾らしいが、こんな地下室では一発くらえばそれっきりで、不安は大きい。空襲の経験はその後十分に積んだわたくしだが、このクルスクの空襲ほど不安なものはほかになかった。地下室にはもちろん燈火はない。ロウソクの灯を三つ、四つ立てているだけで、そのうす暗い中で、みんなぼそぼそと話し合っているのは何とも侘しい、情けない感じだった。しばらくそんな状態がつづいたとき、ロシア人のたまりの方から、ふと歌声が聞こえてきた。はじめは、ひとつの細いソプラノだったがすぐに幾つかの男女の声が加わり、だんだん大きくなって、たちまち全員の合唱になった。子供たちもいっしょになって歌っているようだった。聞いたことのないメロディだったがロシア民謡Русская народная песняであることはまちがいなかった。思いもよらぬことだったので、わたくしもおどろきの方がさきに立った。耳を澄ましていると、それは実に快よいメロディで、スラブ民謡Slavic Folk Songs特有の哀調を帯び、音の高低は単純だが、アクセントの変化がゆたかで、表情たっぷりの歌いぶりだった。歌好きのハンガリー人たちは思わず身体を乗出して聞き入っていた。


五、六分たって合唱が終ったときは、ハンガリー兵全員が立ちあがって拍手を送った。しばらく間を置いて、歌がまたはじまった。前とおなじように、ソプラノのソロから合唱に移っていた。これもはじめて聞いた歌だった。おそらくはこの辺の農民の歌なのだろう。高音、低音の二部合唱が、即席にしてはうますぎるほどによく調子が合っているし、声も大へんよかった。思いがけぬ贈物にわたくしの喜びは大きかった。それにしても、とわたくしは考えた。ロシア人というのは何とたくましい魂をもっていることだろうWhat strong souls Russians have! 戦争に敗けて、自分の住む町を占領され、どん底の苦しい生活に喘ぎながら、また、この地下室で、いわば敵国の兵隊たちといっしょに、自分の祖国の飛行機の空襲を避けねばならぬという、まことに不幸な状況におかれながら、みんな一団となって美しい民謡を歌うというこの芸当ーわたくしはあえてこの言葉を使いたいと思ったーこれは驚異に値するのではあるまいか?しかもかれらは、何かの目的があって歌ったわけではなかっただろう。時間つぶしに、どうせおなじ時間をつぶすなら楽しく、という単純な楽天主義、無意識の楽天主義がこの合唱の泉Simple optimism, unconscious optimism is the fountain of this chorusではなかったか?そんなことを考えると、わたくしはロシア人の心の強じんさ、魂の強さThe strength of the Russian heart and soul、というものを感じないではいられなかった。
 このロシア人の合唱で気分の出てきたハンガリー人が、つぎに歌い出した。わたくしにはなじみの深い、ジプシー調の民謡だった。ロシア人たちは、はじめは静かに聞いていたが、やがてメロディだけをついて歌いはじめた。それは何ともいえない愉しい光景だった。そして最後には、ロシア人が”ヴォルガの船歌”を歌いはじめ、ハンガリー人もいっしょに歌い、盛んな合唱が地下室一ぱいにひびき渡った。わたくしにはいつまでも忘れることのできない、愉しい思い出の晩となった。

*『ヴォルガの舟歌』(ヴォルガのふなうたThe Song of the Volga Boatmen、ロシア語: Эй, ухнем エイ・ウーフネム)Zúg a Volgaは、世界的によく知られたロシア民謡のひとつ。ヴォルガ川の船引き人夫の労働歌に由来し、『ヴォルガの船引き歌』とも呼ばれる。
 クルスクで三日休養してから、わたくしはまた前線に出かけた。このときハンガリー軍先鋒は、クルスクからはもう150キロほどさきに進んでいたので、そこまで辿りつくのに二日以上かかった。その頃ドイツ軍の有力部隊が、ドン河畔の要点ヴォロネジをめぐってソビエト軍と激戦中で、ハンガリー軍はその後方を守る任務を帯びていたようである。わたくしは、その最前線までは進めなかったが、ヴォロネジの町が燃えて煙のあがるのを遠くから望むことができた。それはドン河までは20キロくらいの地点。わたくしの踏んだロシア戦場の東の端だった。またそのあたりで聞いた砲声、これがわたくしの耳に入った最後の戦場の音となった。

①Deutschドイツ語→Die Woronesch-Woroschilowgrader Operation (russisch Воронежско-Ворошиловградская операция)Battle of Voronezh (1942)ヴォロネジ攻防戦 war eine Verteidigungsoperation der Roten Armee im Deutsch-Sowjetischen Krieg, die vom 28. Juni bis zum 24. Juli 1942 dauerte②ヴォロネジ(ボロネジ、ヴォロネシ、ヴォローネシなどとも;ロシア語: Воро́нежVoronezhВоронежは、ロシア南西部にあるヴォロネジ州Воро́нежская о́бластьの州都でヴォロネジ川Воро́неж(ドン川Дон支流)の河港市である。
 正直いって、そのときのわたくしは、戦場にはもう興味がなくなっていた。それは誰でもおなじことだろうが、傍観者として戦場に臨んで見れば、この巨大な破壊行為の馬鹿馬鹿しさのみが心に沁みわたるのである。燃えあがるヴォロネジを遠く望見しながら、わたくしは東部戦線に別れをつげることにした。
 それから半年あと、わたくしを客として好遇してくれたこのハンガリー軍は、スターリングラード激戦のとばっちりを受け、ドン河のほとり、雪と氷の中に消えて行った。
 また、わたくしの関羽、ヤーニー大将は、戦後の裁判で、このときの責任を問われ銃殺の刑に処せられた。

①Deutschドイツ語→Die Schlacht von StalingradСталинградская битваスターリングラード攻防戦
Bătălia de la Stalingrad ist eine der bekanntesten Schlachten des Zweiten Weltkriegs. Die Vernichtung der deutschen 6. Armee und verbündeter Truppen im Winter 1942/1943 gilt als psychologischer Wendepunkt des im Juni 1941 vom Deutschen Reich begonnenen Deutsch-Sowjetischen Krieges②ヴォルゴグラード(ロシア語: Волгоград, Volgograd)は、ロシア連邦のヴォルガ川西岸に南北80kmにわたって広がる都市・・・1925年まではツァリーツィン(Царицын, Tsaritsyn)、1925年から1961年まではスターリングラード(Сталинград, Stalingrad)と呼ばれていた。2013年以降は年に数日のみ市名がスターリングラードとなる。

                7 スターリングラードの悲劇ーそのあと
 スターリングラードの敗北
 1942年6月28日に開始されたドイツの第二次夏期大攻勢は、二つの戦略目標のいずれをも達成できぬうちに、また冬を迎えることになった。ということは、またもやソビエト軍の反撃を受けねばならなかったということである。二つの目標のひとつ、コーカサスの石油地帯の占領を目指した南方軍は、バクーまでまだ600キロもある地点で前進を阻まれてしまった。

*The Battle of the CaucasusБитва за Кавказ (1942—1943)コーカサス攻防戦Nordkaukasische Operation was a series of Axis and Soviet operations in the Caucasus as part of the Eastern Front of World War II. On 25 July 1942, German troops captured Rostov-on-Don, opening the Caucasus region of the southern Soviet Union to the Germans and threatening the oil fields beyond at Maikop, Grozny, and ultimately Baku. Two days prior, Adolf Hitler had issued a directive to launch an operation into the Caucasus named Operation Edelweiß. German units would reach their high water mark in the Caucasus in early November 1942, getting as far as the town of Alagir and city of Ordzhonikidze, some 610 km from their starting positions. Axis forces were compelled to withdraw from the area later that winter as Operation Little Saturn threatened to cut them off.
 他方、スターリングラード攻略を目指した中央軍は、九月上旬に同市の半ばを占領することには成功したが、ソビエト軍の手ごわい抵抗を受け、市街戦をつづけるうちに冬となったのである。南方軍は、1000キロも延びた長い戦線のわりには、大した被害もなく後退することができた。しかし、スターリングラードおよびその周辺に進んでいた第六軍は、11月に入って反撃に出てきたソビエト軍の大包囲攻撃を受け、二ヵ月以上も頑張った末、結局は全軍降服せざるを得なかった。これには、作戦指導部の判断の狂い、ヒトラーの気狂いじみた威信保持への執着、などが大きく禍したのだった。その原因はともかくとして、精鋭部隊25万を一挙に失なったという物理的な大損害とともに、戦史上類のない大敗北によって、ドイツ軍の受けた精神的打撃は測り知れぬほど大きかった。”無敵ドイツ軍”のイメージは、今度こそは全世界の前であますところなく打ち破られたのであった。また、スターリングラードの敗戦は、単に敗戦の世界記録となっただけではなく、戦場における古今未曽有の悲劇として記録されることになったのである。その悲劇たる所以を略述しておきたい。
*【追加参照資料Additional reference material①】「この戦いの運命は、そもそもはじめから、異常だった。最初、ドイツ軍は、この都市を極めて重要だとは考えていなかったFrom the outset the fortunes of this campaign were extraordinary. The Germans had at first not considered the city to be of prime importance. ・・・事実、スターリングラードを、是が非でも、第二次世界大戦の最激戦地にしなければならない軍事的理由はなかったThere was, indeed, no compelling military reason why Stalingrad should have become the site of this greatest battle of the Second World War. いまやヒトラーを駆りたてているものは、主として心理的動機であったIt was mainly a psychological motive that now impelled Hitler. (ドイッチャーDeutscher『スターリンStalin』)。

*Deutschドイツ語→Friedrich Wilhelm Ernst Paulusフリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス (* 23. September 1890 in Guxhagen; † 1. Februar 1957 in Dresden-Oberloschwitz)Фри́дрих Вильгельм Эрнст Па́улюс war ein deutscher Heeresoffizier (ab 1943 Generalfeldmarschall) und im Zweiten Weltkrieg Oberbefehlshaber der 6. Armee während der Schlacht von Stalingrad. Paulus war von 1943 bis 1953 in sowjetischer Kriegsgefangenschaft und lebte danach bis zu seinem Tod in der DDR.
 パウルス大将のひきいる第六軍が、スターリングラードの一角で頑張るソビエト軍を掃蕩するため、はげしい市街戦をつづけているうちに、冬がやってきたことは前述のとおりである。しかし冬だけがやってきたのではなく、冬とともに、強力なソビエト軍の反攻がはじまったことも、一年前の東部戦線とおなじだった。スターリングラードの両側にあらわれた二つのソビエト軍は、合わせて60コ師団という大きな戦力で、この二つの軍団の目的が、パウルス軍団の包囲にあることが11月はじめには明白となってきた。
*【追加参照資料Additional reference material①】「スターリンの反攻構想の基礎は、モスクワ防衛計画の場合と同じように、ヒトラーの心情に対する洞察力と心理的前提のうえに置かれていたThe idea of the counter-offensive was based on the same psychological premises and the same insight into Hitler’s mentality which underlay the scheme for the battle of Moscow.・・・再びスターリンは、仇敵の盲目的慢心に賭けた。彼は当然の結果として次のことを疑わなかった。ヒトラーは、夏季攻勢で南部のロシア軍を完全に動揺、混乱させたものと信じ、ロシア軍の反攻への兵力結集を不可能だとみなしている。スターリンはさらに、ヒトラーは再び部隊を攻撃体制から防衛体制へ再編することを怠っていると仮定した。事実、ヒトラーは、10月14日の布告のなかで、ロシア軍の反攻は問題外であると将兵に明言していたOnce again Stalin banked on his foe’s blind arrogance. He took it for granted that Hitler was considering the Russian forces in the south to have been so upset and disorganized in the summer as to be incapable of rallying for a counter-offensive. Stalin further assumed that the Germans would once again fail to redeploy their troops from offensive to defensive formation. In his order of 14 October Hitler did in fact explicitly assure his men that a Russian counter-offensive was out of the question. (Ibid.,)

*Românăルーマニア語→Operațiunea Uranusウラヌス作戦Операция «Уран»天王星作戦Operation Uranus a fost numele de cod al operațiunii strategice sovietice din al Doilea Război Mondial care a dus la încercuirea armatei a șasea germană, armatei a treia și a patra română, și o parte din a patra armată germană Panzer. Operațiunea făcea parte din Bătălia de la Stalingrad care era în curs de desfășurare, și a avut drept scop distrugerea armatei germane aflată în Stalingrad și împrejurul acesteia.
 この危険な状況に直面したこの方面のドイツ軍総司令部では、まず第一に、第六軍の安全な脱出を計らねばならなかった。方面軍総司令部は、パウルス大将に対して、”脱出用意Prepare to escape”を内命すると同時に、ソビエトの二軍団に対して外から牽制攻撃を加える準備を進めた。いずれにしても、包囲の環が閉まってしまわぬうちに第六軍を脱出させなければならなかったのである。ところがそれには、陸軍総司令官であるヒトラー(1941年12月中旬以来ヒトラーは陸軍総司令官のポストにもあった)の許可が必要だった。そのヒトラーは、スターリングラード確保に強い執着を持っていた。ドイツは、スターリンの名を持つこの町の攻略を必要以上に大きく評価し、これを大がかりに宣伝していた手前、ここいたってこの町を放棄することは、ヒトラーにとっては威信の喪失を意味した。
 そこでヒトラーは、第六軍のスターリングラード撤退を早目に実行させようと考えていた方面軍総司令官の要請を斥ぞけ、外からの援軍が救出に動くまで頑張ることを命じた。パウルス大将は、食糧不足、燃料不足、弾薬不足などの事実をあげ、「食糧、燃料、弾薬を空輸すること、最悪の場合は独断で行動できる自由Air transport of food, fuel, and ammunition, and in the worst case, the freedom to act independently.」の二つを条件としてこの命令にしたがうことにした。
  ところが方面軍の空軍責任者は、空輸では第六軍の必要とする量の五分の一しか補給できぬこと、第六軍のような大兵力を冬じゅう空輸で補給することは絶対不可能であることを明らかにしたIt became clear that only one-fifth of the Sixth Army's needs could be supplied by airlift, and that it would be absolutely impossible to replenish a large force like the Sixth Army by airlift throughout the winter. その間に、ソビエト軍は攻撃を開始し、包囲線をじわじわと縮めてきた。同時に、外からのドイツ軍の救出作戦もはじまったが、優勢なソビエト軍にはね返され、包囲線の最後のかんぬきがいよいよ閉められそうな形勢となってきた。
 そこでパウルス大将は、相当な犠牲は覚悟の上で、全軍脱出のため、血路を開く決意を固め、第六軍全部隊長の同意もとりつけた。このままじっとしていては、飛行場も奪われ、空輸の途も断たれることは必至である。そうなれば第六軍は、撃つべき弾もなく、飢え死のほかはない。血路を求めて脱出を計れば、第六軍の中核はともかく生きのびることができるし、ドイツ軍全体にとって貴重な戦力も保持できる、というのがパウルス大将の考えだったのである。おそらくこれは、この危機に臨むもっとも妥当な判断だったであろう。しかし、パウルス大将は、この決定を実行する前、ヒトラーの許可を得なければならなかった(25万将兵の生命のかかっている、この火急の危機に臨んで、なお上からの指令を待たねばならない、という仕組は奇怪なことだし、あえて自分の責任において最良の策を実行できなかったところに、パウルスという人物の、いやドイツ軍人に通常の、またドイツ人に一般的な大きな欠陥がある。パウルスのこの欠陥はあとでもう一度繰り返されることになるcarry out the best plan at his own risk was a major flaw in the character of Paulus, and indeed in German soldiers and Germans in general. This flaw of Paulus would be repeated again later.)。
 

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