日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11⑧

 重要なことは、独ソ戦勃発によって、対独戦争の性格が、これまでの”帝国主義強国同志の戦いBattle of comradely imperialist powers”から”民主主義勢力とファシズム勢力の戦いThe battle between democratic forces and fascist forces”に変ったことである。戦争目的のこのきり替えは、ソビエトの対外政策にも大きくひびいた。ソビエトにとっては、いまや”民主主義戦線democratic front”の結束を固めることが至上命令となった。
 独ソ開戦と同時に、フランスはじめドイツ占領下の諸国では、共産党を中心とする抵抗運動がほうはいとしておこってきたが、この抵抗運動が、”プロレタリア革命の旗Flag of the proletarian revolution”を掲げることをスターリンは許さなかった。その代りに、フランスならドゴール、オランダならヴィルヘルミナ女王、チェコスロバキアならベネッシュなどの指導権を認めた。


①ウィルヘルミナ(オランダ語: Wilhelmina, 1880年8月31日 - 1962年11月28日、在位:1890年11月23日 - 1948年9月4日)ウィルヘルミナ・ヘレナ・パウリーネ・マリアWilhelmina Helena Pauline MariaВильгельми́на Еле́на Паули́на (Павли́на) Мари́яは、第4代オランダ国王(女王)。

②エドヴァルド・ベネシュ(チェコ語: Edvard Beneš, チェコ語発音: [ˈɛdvard ˈbɛnɛʃ] , 1884年5月28日 - 1948年9月3日)Э́двард Бе́нешは、チェコスロバキア共和国の政治家、首相(1921年 - 1922年)、大統領(1935年 - 1938年、1945年 - 1948年)、外務大臣(1918年 - 1935年)。
 二年ほどあとのコミンテルン解散も、”民主主義戦線維持Maintaining the democratic front”に対する配慮のあらわれだった(もっともこのときソビエトは、スターリングラードの勝利で、もはや対独戦には敗けないという自信を強めてきていたので、開戦当時とは事情は大きく変わってはいた)。

*Deutschドイツ語→Joseph Stalin, Führer der Sowjetunion, löste die Komintern
Коммунисти́ческий интернациона́л (Коминте́рн, III Интернациона́л)コミンテルン(第三(共産主義)インターナショナル)解散1943 auf, um seine Verbündeten in den späteren Jahren des Zweiten Weltkriegs, die Vereinigten Staaten und das Vereinigte Königreich, nicht zu verärgern.

 しかし、スターリンの英米に対する不信は消えることがなかった。スターリンにとって、イギリスの肚を試す最良の手段は”第二戦線second front”だった。独ソ開戦から一ヵ月にもならぬ7月18日のチャーチル宛ての手紙で、早くも”第二戦線”を要求したのもそういう狙いからだった。
 「北フランスに第二戦線ができれば、ヒトラー兵力を東方から割かせるばかりでなく、同時にヒトラーのイギリス侵入をも不可能にするでしょうIf a second front were established in northern France, it would not only force Hitler's forces away from the east, but also make it impossible for Hitler to invade Britain. このような戦線をつくることの困難は知っていますが、われわれの共同の目的のためでなく、イギリスの利益のためにも、それをつくるべきだと思いますI know the difficulties of creating such a front, but I think it should be created, not only for our common purpose, but also for Britain's interests.
とスターリンは書いている。無理難題を承知で相手の答えぶりが知りたかったのである。
 不信といえば、英米側にも不信の種はあった。「スターリンがまたヒトラーと手を握りはしないか?Will Stalin ever hold hands with Hitler again?」という心配である。ソビエトと英米の間のこの相互不信は、結局戦争終結までついに消えることなくつづいた。そして終戦とともに、”冷たい戦争Cold War”となってはげしく燃えあがることは周知のとおりである。その間に幾度となく演じられた”第二戦線”をめぐるやりとり、テヘランやヤルタのかけひきなど、すべてこの不信のあらわれにすぎなかった。この問題にはあとでもう一度触れることにして、ふたたび東部戦線に移ることにする。

 ソビエト軍の冬期攻勢がもたらしたもの
 さて、ソビエト軍の冬期攻勢で不意討ちを食らったドイツ軍が、総崩れ一歩手前の危機に追いこまれたこと、ヒトラーの必死の頑張りで辛うじて持ちこたえ得たことは前述のとおりである。1941年12月上旬にはじまったソビエト軍の攻勢は、42年2月中旬を峠として下り坂になるまで二ヵ月以上もつづいた。
 はじめ、モスクワ正面に限定されたソビエトの攻撃は、間もなく、北部、南西部にも拡がり、まがりくねった戦線1500キロ全線に及んできた。しかし、ソビエト軍の攻勢が全線に拡大されたことは、実はドイツ軍にとって幸運だったのである。もしもこの攻撃が、はじめのソビエト軍の作戦計画どおり、モスクワ正面のドイツ中央軍に集中しつづけられたならば、ドイツ中央軍は壊滅を免れなかったであろうし、それは全ドイツ軍にとって致命的な中央突破を意味した。中央軍が壊滅すれば、両端の北軍、南軍の戦力は半減し弱体化してしまう。しかしソビエト軍作戦指導部には、そこまでの見透しは無理だったのである。というのは、この冬期攻勢は、はじめは、モスクワに対して迫ってきた、ドイツ軍の第二回目の攻撃を阻むというのが主たる目的だったからである。反撃をしかけてみると、ドイツ軍が意外にもろいことがわかった。そこでさらに突込んでゆくと、ドイツ軍の占領していた重要地点がポロポロと落ちてきた。そこで、「これならば行けるぞWe can go with this.」ということで総攻撃となり、しかもそれを全線にわたって拡げることになったのである。ソビエト軍の方では、もちろん冬期攻勢の準備をととのえ、新手の師団も送りこんではいた。しかし、ドイツ軍がこんなに弱っているとは予想できなかったのである。ドイツ軍からみれば、夏期攻勢でソビエト軍はすっかり消耗しているはずだったので、この大攻勢はまったく予期できなかった。
 6月22日のドイツ軍侵入が文字どおり不意討ちだったのとおなじように、ソビエト軍の冬期攻勢は逆にドイツ軍にとっては不意討ちだったのである。緒戦におけるドイツ軍の戦果が大きかったのとおなじように、ソビエト軍の冬期攻勢の戦果も大きかった。ドイツ軍は夏期攻勢で進出した前線から150キロ乃至300キロ後退しなければならなかった。ソビエト軍にとって、この戦術的成果はもちろん大きかったが、もっと大きかったのは、冬期攻勢がもたらした心理的、政治的効果である。無敵を誇ってきたドイツ軍の前進を阻止しただけでなく、逆襲によって痛打を浴びせ、全線にわたって大後退を余儀なくさせたNot only did they stop the advance of the German army, which had prided itself on being invincible, but they also counterattacked and dealt severe blows, forcing a major retreat along the entire line、という事実は、ソビエト将兵に大きな自信をあたえたgave great confidence to Soviet soldiers. ソビエト国民の歓喜のほどはいうまでもない。ソビエト共産党編纂『第二次大戦史』はつぎのように述べている。
 「モスクワ付近での赤軍の勝利は、大きな政治的、軍事的意義をもっていたThe Red Army's victory near Moscow had great political and military significance. それは、祖国戦争のその後の進行に大きな影響をおよぼしたIt had a great influence on the subsequent progress of the Patriotic War. ソビエト国民と軍隊は、モスクワへの接近路におけるドイツ・ファシスト軍の撃滅と、ソビエト軍によるロシア中央諸州数千の住民地点の解放とを、自分たちの大きな努力の当然の結果としてうけとったThey took as a natural result of their great efforts the destruction of German fascist forces on the approaches to Moscow and the liberation of thousands of inhabited sites in the central Russian provinces by Soviet troops. ソビエト国民は、”無敵”のドイツ軍を食いとめることができるだけでなく、粉砕することもできることを、はっきりと確信したのであるThe Soviet people were clearly convinced that they could not only hold back the "invincible" German army, but also crush it.
*【追加参照資料Additional reference material】(中略Omission)原始的、東洋的だが、狂いのない洞察力を持ったスターリンは、ヒトラーの慢心にすべてを賭けたWith primitive, oriental, but unfailing shrewdness, he(Stalin) gambled on Hitler’s arrogance. 相次ぐ比類なき成功の連続におごり高ぶるヒトラーは、モスクワ攻防戦終了後、凡庸な将軍でさえとったと思われる事前の対策を怠ったA long and unparalleled succession of victories had indeed made Hitler so overweening that after the assaults on Moscow he failed to take the precautions which even a mediocre general would have taken. 彼は軍隊を防衛陣地に撤退させなかった。彼は、モスクワの視界内で冬営するよう命令したInstead of withdrawing his troops to defensive positions, he ordered them to take up winter quarters within sight of Moscow. 彼は防寒被服を供給しなかったHe failed to supply them with winter clothing.・・・それまでのスターリンの軍事上の失敗は、過度の警戒と慎重さから生まれたものであった。スターリンは、すでに、指導者ヒトラーに慎重さの欠けていることを素早く見抜いていたStalin, whose military mistake so far had originated from an excess of caution and prudence, had quick eye for that lack of prudence in the Führer.・・・彼は、ドイツ軍に、はるか後方への高価な退却を余儀なくさせた。ドイツ軍最初の退却であったhe forced the Germans to make a long and costly retreat, the first they ever made.(ドイッチャーDeutscher『スターリンStalin』)。
 ここでソビエト将兵の士気が一挙にあがったことは当然である。スターリンは、国民の意気昂揚のために”1942年中に勝利をvictory in 1942”とよびかけた。もちろんそれだけの確かな勝算をスターリンも読んでいたわけではない。しかし”戦争は間もなく終るのだThe war will end soon”という明るい見透しを国民にあたえることが、この際どうしても必要だとスターリンは感じたのだった。それほどに、ドイツ軍の夏期攻勢で受けたソビエトの損害は大きく、今後三年も四年も戦争はつづくのだ、と国民に語るわけにはゆかなかったのである。

 他方、ドイツ側の状況はどうだったか?夢にも予想しなかったソビエト軍の冬期攻勢で痛打を受けたあと、ドイツ軍の蒙った心理的打撃はもっと深かった。”戦えば勝つIf we fight, we will win”という信念、”無敵ドイツ軍Invincible German army”の誇りが一挙に崩れた。同時にソビエト軍の底力が大きくクローズアップされ、うす気味悪く迫ってきた。それにロシアの冬のきびしさ、ロシアの広大な土地から受ける圧迫感、などが重くのしかかってきた。ひとことにいえば、ドイツ軍は自信を失ったのであった。それは、ソビエト軍の冬期攻勢にどう対処すべきかを決めるに当って明らかになったドイツ軍最高首脳部の考えの中にも読みとることができる。
 東部戦線のドイツ軍総司令官ルントシュテット元帥(南軍最高司令官でもあった)、北部軍最高司令官レープ元帥、中央軍最高司令官ボック元帥などは、この際ポーランド国境まで一気に退却して、戦力を補強し、陣容をたて直すよう主張したがAt this time, they(generals) insisted that they retreat all at once to the Polish border, reinforce their forces, and rebuild their rank、ヒトラーは、この退却がひきおこす政治的影響を考慮してこれを拒否し、飽くまでもソ連領内での抵抗、防御を主張したHitler refused this retreat, considering the political consequences it would cause, and insisted on resistance and defense within Soviet territory. 軍首脳部とヒトラーの意見対立の結果、陸軍総司令官ブラウフィチ元帥をはじめ、ボック、レープなど最高首脳は免職となり、陸軍総司令官の職にはヒトラーみずから就くことになったThe supreme leader was dismissed from office, and Hitler himself assumed the position of commander-in-chief of the army. このとき、北、中部、南の各方面軍最高司令官以下部隊長クラス40人が入れかえになった。ヒトラーは、冬期攻勢で受けた打撃の責任をもっぱら軍首脳部に負わせ、自分の直接指導の下にドイツ軍陣容を一新するという姿勢を、この大がかりな人事異動で誇示しようとしたのである。

*ヴァルター・ハインリヒ・アルフレート・ヘルマン・フォン・ブラウヒッチュ(ドイツ語: Walther Heinrich Alfred Hermann von Brauchitsch, 1881年10月4日 - 1948年10月18日)Ва́льтер Ге́нрих Альфре́д Ге́рман фон Бра́ухичは、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。ドイツ国防軍の第2代陸軍総司令官を務めたが、モスクワの戦いの最中にヒトラーにより更迭された。
 なお、独ソ開戦からソビエト軍冬期攻勢が終息するまで、約九ヵ月間のドイツ軍損失は、死傷合わせて111万(内3万3000は将校)で全兵力の三分の一に当る。これはドイツ軍にとって大きな損失だった。しかもこの大犠牲を払って手に入れたものは、開戦当時の作戦目標から隔たるところはるかなるものであった。しかし、ヒトラーはそう落胆した様子はなかった。そしてみずから総司令官として采配をふるい、第二回夏期攻勢に乗出すことになった。このときのドイツ軍兵力は約160コ師団、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなど同盟軍30コ師団で、量から見れば依然として大軍だったが、第一回夏期攻勢で失なった”精鋭部隊elite force”100万の大穴を埋めることはできなかった。
 これに対して、ヒトラーの第二回夏期攻勢を迎え撃つソビエト軍は約390コ師団で、量的にはドイツ軍を大きく上回っていた。ソビエトの兵力補給源が如何に大きいかを物語る数字である。
 ヒトラーの第二次夏期攻勢の目標はつぎのようなものだったThe goals of Hitler's Second Summer Offensive were:
 戦力を南方戦線に集中するConcentrate forces on the southern front. ドン河正面で敵軍を殲滅し、コーカサス地方を占領して石油地帯を確保するDestroy the enemy forces in front of the Don River, occupy the Caucasus region, and secure the oil region. スターリングラードを、できれば占領、さもなければドイツ軍砲火の下に置き、兵器製造の中心および交通要衝としての同市の機能を奪うStalingrad, if possible, should be occupied, or else placed under German fire, and the city's function as a weapons production center and transportation hub taken away.
 これを見て目につくことは”ソビエト戦力の撃滅Destruction of Soviet forces”という一年前の目標が落ちていること、ヒトラーがあれほど執着した、レニングラード占領Occupation of Leningradがあとまわしにされていることなどである。ヒトラーには、そのいずれにも自信がなかったのであろう。
 ドイツ軍の第二回大攻勢は1942年6月28日午前四時に開始された。この日わたくしは、クルスク南方、ロシア平原のまん中に立っていた。
 つぎの章では、東部戦線で得た見聞を記すことにしたいが、その前に日米開戦の報を迎えたヨーロッパの表情の一部を紹介しておかねばならない。

①Русскийロシア語→Нападе́ние на Перл-Ха́рбор (англ. Attack on Pearl Harbor, яп. 真珠湾攻撃) Pearl Harbor elleni japán támadás— внезапная комбинированная атака воздушных и подводных сил японского флотаПерейти к разделу «#Конец изоляции Японии» на американские силы, находившиеся на военно-морской базе в Перл-Харборе (Гавайские острова)Перейти к разделу «#Американская колонизация Гавайев. Филиппины». Атака произошла воскресным утром, 7 декабря 1941 года и стала поводом к вступлению США во Вторую мировую войну②Deutschドイツ語→Als Pazifikkrieg werden zusammengefasstPacific War太平洋戦争Тихоокеанский театр военных действий Второй мировой войныGuerre du Pacifique die 1937 begonnenen Kampfhandlungen zwischen dem Japanischen Kaiserreich und der Republik China, später zusätzlich insbesondere den Vereinigten Staaten und deren Alliierten in Ostasien und im pazifischen Raum bezeichnet. Mit dem Kriegsschauplatz in Europa ist er Teil des Zweiten Weltkrieges.
 日米開戦をブダペストにて・・・
 1941年12月7日の午前三時ごろ、ハンガリー・ニュウス通信社のM君という若い記者がこのニュウスを報せてくれた。公使館には、そのしばらく前に、日米開戦を示唆する報せがきていたのでわたくしにとってこのニュウスは”寝耳に水a bolt from the blue”ではなかった。
 それにしても、日本が大戦争にとびこんだという事実がどうにも呑みこめない気持が強く、はげしいショックを受けたせいもあって、さきのことなどゆっくり考える余裕はなかった。翌日公使館に、ブダペスト在住の日本人全員が集まり、公使のOさんがあいさつした。Oさんは途中で泣きじゃくってしまい、それにつられて参会者の半ばも涙を流した。戦争をはじめたからには勝たなくては、という単純な論理だけがはっきりしていて、それ以外のことは考えることを許さない国家の倫理が、一万キロも離れた外国にある日本人サークルを支配する、ということにも誰も疑念をいだかなかった。参会者一同は、Oさんの音頭で万歳を唱え涙をぬぐって声をあげた。誰もが(軍事専門の陸軍武官も含めて)明快な見透しを持っていたわけではなかったが、「勝たねばならないのだWe have to win.」という気持は強かった。日本でもこれはおなじだったのであろう。
 さて、日米開戦がヨーロッパに大きなショックをあたえたことはいうまでもない。このニュウスに一番おどろいたのがドイツであることももちろんである。新しい敵アメリカの登場、世界最強の国を敵にまわすきっかけをつくったパール・パーバーのニュウスにドイツが、上はヒトラーから下は国民一般に至るまで、すこしもたじろがなかったといえばいつわりであろう。
 「日本はえらいことをやってくれたJapan did something extraordinary.」と迷惑を感じたのがドイツ人の気持だったThe Germans felt that they were inconvenienced.
 したがって、ドイツは即時対米宣戦をやるべきかどうか、についてはドイツ指導層の間でも議論がわかれた。たとえばリッベントロップ外相は、「日本は攻撃を受けずに自分の方から攻撃をしかけたのだから、ドイツは自動的に対米戦争に入る条約上の義務はないSince Japan launched an attack on its own without being attacked, Germany has no treaty obligation to automatically enter into war against the United States.」という立場から即時参戦には反対を唱えた。ところがヒトラーは、12月11日対米宣戦を布告した。アメリカが如何に強大な国であるかということを、この偏見で固まった独裁者はまったく知らなかったのであるThis prejudiced dictator had no idea how powerful America was.

*German declaration of war against the United StatesДекларация Германии об объявлении войны США (1941)ドイツの対米宣戦布告Kriegserklärung Deutschlands und Italiens an die Vereinigten Staaten On 11 December 1941, four days after the Japanese attack on Pearl Harbor and the United States declaration of war against the Japanese Empire, Nazi Germany declared war against the United States, in response to what was claimed to be a "series of provocations" by the United States government when the U.S. was still officially neutral during World War II. The decision to declare war was made by Adolf Hitler, apparently offhand, almost without consultation.
 もっとも、12月11日という時点では、パール・ハーバー、マレー沖(英主力艦プリンス・オブ・ウェールズHMS Prince of Wales、レパルスHMS Repulse撃沈)における日本軍の大戦果がはっきりしていたし、他方東部戦線では、ソビエト軍の反撃を食ってドイツ軍が総崩れの一歩手前に追い込まれていた、という軍事情勢がヒトラーに影響したことも否めない。
*【追加参照資料Additional reference material】大日本帝国海軍によるマレー作戦と真珠湾攻撃の成功の報告を受けた際にはUpon (Hitler)receiving reports of the success of the Malayan operation and the attack on Pearl Harbor by the Imperial Japanese Navy、「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだWe can't lose the war. We now have an ally who has never lost to us in 3000 years.」と語り対米宣戦を行ったがAlthough he declared war on the United States、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認しているhe felt that Japan's rapid advance at the time was an exaggerated announcement, and approved measures not to directly report on Japan's announcements.
 一方イギリスでは、チャーチルがパール・ハーバーの報を聞いて「これでわれわれは戦争に勝ったNow we have won the war.」とよろこびの声をあげたそうである。
 イギリスがいくら訴えても実現のむつかしかった”アメリカ参戦American participation in the war”を、日本がやってくれたのだから、チャーチルが喜んだのは無理もなかった。それから三日あと、12月10日には、プリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈のニュウスを聞いて”全戦争を通じて最大のショックBiggest shock of the entire war”を受けたチャーチルだったが、「アメリカが参戦した以上勝利はこちらのものだSince America entered the war, victory is ours.」という確信は不動だった。
 最後に、わたくしの住んでいたブダペストの反応ぶりを紹介しておこう。

 ハンガリーは古くからの親日国pro-Japanese countryである。”マジャール人はアジアに起原するMagyars originate from Asia”というのがこの国の親日の土台である。ハンガリーがパール・ハーバー奇襲の成功に示した喜びは、ほかの枢軸諸国には見られぬ異常なものがあった。巷では愛国行進曲がはやり、若ものたちの口笛がこのメロディを奏でるのだった。日本の陸軍武官は、ブダペスト社交界のスターにされてしまった。「枢軸国の最後の勝利をもたらすのは、ドイツではなくて日本であるIt will be Japan, not Germany, that will bring about the final Axis victory.」という神話mythologyがハンガリーでは信じられていたのである。「ヨーロッパのまん中に、たったひとりいるアジア民族The only Asian race in the middle of Europe.」という感傷から、ハンガリー人の見る日本はバラ色に染めあげられていたというべきであろう。

*Magyarマジャール語→A Hazaszeretet, Napkeleti vizeken, vagy Japán nemzeti dal, korabeli, téves megnevezésén Japán himnusz, avagy eredeti japán címén Hazafias induló (愛国行進曲; Aikoku kósinkjoku)Patriotic MarchПатриотический марш egy japán második világháborús katonadal. Eredeti szövegét Morikava Jukio (森川幸雄) írta, zenéjét Szetogucsi Tókicsi (瀬戸口藤吉, 1868–1941) szerezte. Magyar nyelvre Liszt Nándor (1899–1946) fordította~♪おお清朗の朝雲に、聳ゆる富士の姿こそOh, in the bright morning clouds, the sight of towering Mt. Fuji金甌無缺揺ぎなき、我が日本の誇なれUnconquered, unwavering, be proud of our Japan~♪
 そのころわたくしに対して、「朝日新聞ではたらくようにWork at Asahi Shimbun.」という話が東京で進み、春からはバルカン特派員として仕事をはじめることになっていた。

*ブラウ作戦(ブラウさくせんOperațiunea Albastru、ドイツ語:Unternehmen Blau、英語:Case Blue)План «Блау»Opération Fall BlauОперація «Блау»は、第二次世界大戦中の1942年のドイツ軍夏季攻勢計画の名前である。作戦地域は、ロシア南部で、ボルガ河西岸への到達と、コーカサスの征服を含んだ、野心的な作戦計画であった。ドイツ軍は、作戦計画に、色名をつけることが多かったが(ポーランド侵攻=白、低地諸国・フランス侵攻=黄)、「ブラウ」はドイツ語で青の意である。

                  6 東部戦線をみる
 ハンガリー軍宣伝中隊の客として
 1942年の春、ドイツは第二次対ソ攻撃の準備に忙がしかった。新しい作戦計画にあたって最大の悩みは、兵力不足をどう補うかということだった。第一次攻勢の失敗、大きすぎた犠牲がここで深刻にひびいてきた。あり余っていたドイツの兵力がにわかに不足になってきたのである。ドイツは、この穴を埋めるため衛星諸国に出兵増加を求めた。第一次攻勢ですでに20コ師団を送っていたルーマニアは、無理を押して新手数コ師を派遣することになった。第一次攻勢には、パルチザン対策に二コ師の治安部隊を送っていたハンガリーは、今度は戦闘部隊10コ師の派遣を迫られた。第一線兵力10コ師を送るとなると、予備兵力をふくめ、補給部隊、輸送部隊、衛生部隊などを加え、総勢は50万を越える。人口800万の小国にとって、これは重い負担である。
 ハンガリーの戦時色はこの春にわかに深まり、東部戦線重大化の印をブダペスト市民ははっきりと読みとった。
 ハンガリーのほか、クロアチア、スロバキアなど豆衛星国も一、二コ師団を割りあてられた。本国防衛で手いっぱいのイタリアさえも、若干の部隊を東部戦線に送らねばならなかった。こうして、枢軸同盟の反ソ十字軍Axis Alliance anti-Soviet crusadeという形ができあがった。
 ハンガリー軍は、四月から五月にかけて前線に出かけて行った。その作戦任務は、中部戦線の南端クルスク方面からまっすぐ東に向う攻撃の一部を受け持ち、スターリングラード攻略に側面から協力することにあった。
 五月の末、当時ブダペスト駐在の陸軍武官Y少将の尽力で、わたくしは、ハンガリー軍所属のプロバガンダ・コンパニーpropaganda company(宣伝中隊)に招かれ、東部戦線に同行することになった。将校待遇の客として、行動は自由、義務はなし、東部戦線の滞在は無期限、帰還希望のときはいつでも送りとどける、という大へんありがたい話である。わたくしは早速準備にとりかかった。準備といっても大したことではなかった。背広では具合が悪い、というので軍服まがいの妙な服をつくってもらった。それに長靴。どれくらい滞在するか見当はつかなかったが、薬、石けん、コーヒーとお茶、コニャックなども用意した。
 6月9日出発ときまり、前日、宣伝中隊本部に出かけて、150人の隊員たちに紹介された。大部分は若い新聞記者とカメラマンで、文士、絵かきもまじっていた。任務はもちろんハンガリー軍の活動をリポートすることである。みな動員召集を受けたものばかり。絵かきの中には40歳をすぎたひともいたが、大体30歳までの若ものたちである。ほとんどみなドイツ語をはなすので、わたくしにはありがたかったAlmost everyone spoke German, which I was grateful for. その日、前線につくまでのつぎのような旅程を聞いた。
 ブダペストから南ポーランドのルジェフまで汽車(車中一泊)、ルジェフからクルスクまで約1500キロ、途中の滞在もふくめて二週間の自動車旅行、クルスクには6月27日到着予定(第二次攻勢は6月28日開始と決まっていた)。

 宣伝中隊は自動車の積み下しや長距離旅行準備のためルジェフに三日滞在し、6月13日に出発した。クルスクには予定どおり6月26日に到着。この二週間の間に、南ポーランドのガリチアを抜け、ウクライナのまん中を通って、大ロシアのほとんど中央部にあるクルスクまで約1500キロの道を走った。その間に、ルヴォフ、ロヴノ、シトミール、キエフ、ニエジン、ヷトリン、ルゴフなどに短い滞在をした。
 宣伝中隊に参加したわたくしの目的は、いうまでもなく東部戦線の見聞にあった。三週間にわたって最前線を走りまわった間に、この目的をある程度達することができた。もちろん、広大な戦線の中の小さな部分にすぎないので、東部戦線全体について語るわけにはゆかないが、わたくしの目にとまったもの、耳にはいったものだけでも語りたいものは多いし、わたくし個人にとってはまことに貴重な経験だった。しかし、興味深かったのは、前線の生活だけではなく、ルジェフからガリチア、ウクライナを抜けてクルスクまでの半月あまりの旅も大へん面白かった。
 順序としてこの旅行の見聞から述べることにしたい。

*ルヴフ・ゲットー(波:Getto lwowskie)・レンベルク・ゲットー(独:Ghetto Lemberg)・リヴィウ・ゲットー(ウクライナ語:Львівського геттоЛьвовское геттоLwów Ghettoは、ナチス・ドイツがルヴフ(当時はポーランド総督府領。現在はウクライナ領でリヴィウという)に設置したゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。ポーランド総督府領に設置されたゲットーの中では三番目に人口が多かった(一番はワルシャワ・ゲットー(Getto Warszawskie、二番目はウッチ・ゲットーGhetto Łódź)。
 ”ゲットー”にて
 宣伝中隊の仲間たちが、汽車で運んできた自動車の積みおろし、長距離ドライブの準備などにとりかかっている間、わたくしはひとりでルジェフの町を散歩してすごした。南ポーランドのこの町は、かつてオーストリア帝国の所領でライヒスホーフReichshofという立派なドイツ名を持っている。人口三万五〇〇〇の小さな町だが、チェコスロバキアやハンガリーとの交通の要点にあたるので、ハンガリー軍にとっては大切な中継基地となっていた。ポーランド人はぼろをまとい、裸足が多く、まるで奴れいのようなかっこうでいる中で、身ぎれいなドイツ人はひと目でわかった。スラブ民族を劣等人種として、その絶滅を目指していたナチスの人種政策が、ここでは早速実行に移されていたのであるThe Nazi racial policy, which regarded Slavic peoples as an inferior race and aimed to exterminate them, was immediately put into action here. 食べものでも着ものでも住居でも、ポーランド人はほとんど人間あつかいはされていなかった。それは、このさきの旅をつづける間いたるところで見聞したことだが、ルジェフではじめてそれを見たとき、わたくしは強いショックを受けた。その晩わたくしは、宣伝中隊の将校たちといっしょに、ドイツ占領軍のカジノ(将校集会所)に招かれた。そこでも、ポーランドにおける占領政策について、とりわけ”スラブ絶滅策Plan to exterminate the Slavs”について講義を聞かされた。若いドイツ将校が、「スラブはヨーロッパにとって最大の脅威です。これを滅ぼすことはわれわれドイツ人にとっての大きな使命ですThe Slavs are the biggest threat to Europe. It is our great mission as Germans to destroy it.」と平然として語るのを聞いて、わたくしは啞然とするのみだった。
 そのときドイツ将校のひとりがユダヤ人問題を持ち出してきた。かれの説明によると、ポーランド南部のこのバリチア地方にはユダヤ人が非常に多く、その対策が大きな問題になっているようだった。そしてこのルジェフでは、市民の約三分の一がユダヤ人であること、去年の秋から”ゲットー”をつくって、ユダヤ人を全部その中に収容し、ポーランド人と隔離してしまったこと、などを教えてくれた。別れぎわには「御希望なら明日”ゲットー”を御案内しましょうIf you wish, I can show you around the "ghetto" tomorrow.」という厚意さえ示してくれた。正直のところ、そのときは、”ゲットー”を見たいという気持にはなれなかったが、翌日わたくしはそのドイツ将校を訪ねた。ハンガリーの仲間が四、五人同行した。わたくしたちは”ゲットー”に案内された。それはお粗末なバラックで埋めた200メートル四方ぐらいの一区画で、その中を一メートルほどの小路が縦横につらぬいている。バラックの数は五、六百もあったであろうか・バラックの中には、床はなく、地面からじかに柱が立っていてその上に屋根が載っている。お粗末な倉庫か物置きを想像すればよい。わたくしたちが見たのは、”ゲットー”の中の商店街で、地面に板ばこを置いて、その上に貧しい品ものが寒々と並んでいた。そのすぐそばで老人が寝ていたり、子供が何人も屯していた。入り口は一メートル半あるかなしで、奥の方は暗くて見えなかった。その暗がりには何人ものひとがじっとうずくまって見えた。寝起きはどうなっているのか?炊事はどうなっているのか?用便はどうするのか?一体何人の人間がここでねているのか?わたくしの頭の中にはつぎつぎに疑念が浮かんでくる。そばでは案内のドイツ将校が、ゲットーでユダヤ人を隔離してから、町の犯罪が減り、風紀もよくなり、病気もすくなくなったなど数字をあげ、得意になって”ゲットー”の効用を説いていたAfter segregating Jews in the ghetto, he became proud and preached the benefits of the "ghetto,'' citing numbers such as how crime in the town had decreased, morale had improved, and there had been fewer illnesses. このドイツ人の言葉を聞きながしているうちに、わたくしの胸は、憐れみと怒りでいっぱいになったMy heart was filled with pity and anger. 同行したハンガリーの青年たちも、強いショックを受けたらしく、唇を噛んで沈黙をつづけた。居たたまれなくなったわたくしたちは、蒼惶と引きかえした。

 ドイツ将校と別れたあとで、ハンガリー青年のひとりが口を切った。「あんなことがあっていのでしょうかね。日本人のあなたはどう思いますかCould something like that happen? As a Japanese person, what do you think?」「よくないにきまっているじゃないか。日本人だろうが、ドイツ人だろうが区別はないよI'm sure it's not good. There is no difference whether I am Japanese or German.」ぶっきらぼうなわたくしの答えで話は切れてしまった。
 帰り道、町のまん中で道路工事をやっていた。みると、15,6歳の少女たちがつるはしをふるって働いている
On my way home, I saw some road construction going on in the middle of town. When I looked, I saw girls of 15 or 16 years old working with pickaxes. 裸足でぼろをまとっている。にわか雨が降ってきたのでAs it started to rain、わたくしたちはそばの家の軒下で雨やどりをしていると、まもなくその少女たち5,6人がそこに駆けこんできた。よく見ると、目鼻だちのいいきれいな娘ばかりだったが、すぐあとにやってきた監督らしい男が、「そこはお前たちの場所じゃないぞThat's not your place.」と叫ぶと娘たちはまた雨の中を走って去った。これもまた印象深い哀れな光景だった。ユダヤ娘たちは雨やどりも許されないのであるJewish girls are not even allowed to take shelter from the rain.

 この旅行は物見雄山ではないので、愉快なことばかりだろう、などとはもちろん予期していたわけではない。しかし、旅のはじまりのこのルジェフで見たものは、あまりにもひどいものだった。わたくしはすっかり気分が沈んでしまった。後日わたくしは、ナチス惨虐の記録はいやというほど読まされたが、ルジェフのゲットーの中で、思わずたたずんだときの強い戦慄や、雨の中を駆け去ったユダヤ娘に覚えた憐愍ほど深いものはその後感じたことがない。

*ガリツィア(ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー、ポーランド語: Galicja ガリーツャ、ロシア語: Галиция ガリーツィヤ、ドイツ語: Galizien ガリーツィエン, ハンガリー語: Gáczország ガーチョルサーグ、英語: Galicia)は、現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。
 ウクライナ戦場の旅
 トラック10台、乗用車30台を列ねた宣伝中隊がルジェフを出発したのは6月13日早朝だった。ルジェフを離れると間もなくウクライナに入る。ガリチアのやわらかな丘波が次第に崩れて広い野が展開する。土の色も黒くかわり、農家のたたずまいもガリチア風とはちがって、木造、草ぶきに変る。農家の窓枠は赤や青に彩色されているが、貧しさは外目にもあざやかに映る。若い男の姿はまるで見当らず、老人と子供ばかりである。車がとまると、ところどころで子供が寄ってくる。穀物倉とよばれるウクライナの百姓たちが、パンで困る、というのは如何に解しかねることである。
 ガリチアの東端、ウクライナの入り口にあたるルヴォフで一泊し、ロズノフ、ドヴレナなどを過ぎていよいよウクライナに入る。
 ルヴォフはガリチアの中心で人口40万の大都会である。やはりオーストリア帝国に属したことがあり、いわばドイツ文化の東の端のとりでだったが、1942年夏のルヴォフは、ナチス・ドイツの東方植民地政策の前進基地となっていた。ポーランド、ウクライナ、白ロシア、大ロシアなどから、スラブ人の80パーセントをシベリアに追出し、そのあとにゲルマン民族を移住させ、東欧の広大な地域をドイツの植民地にしよう、というのがヒトラーの夢だったのであるHitler's dream was to expel 80 percent of the Slavs to Siberia, then move the Germanic peoples there, and turn vast areas of Eastern Europe into German colonies. イギリスがインドを植民地として大英帝国の土台を固めたように、ドイツは東ヨーロッパの植民化によって大帝国を打ち立てようという構想である。
 第一次夏期攻勢の挫折によって、この大構想の実行はおくれてしまったが、計画と組織の好きなドイツ人は、このルヴォフにどっと押しかけ、ここで待機していたのである。そのせいでこの町にはドイツ人が多勢いた。しかも若いドイツ人、ドイツ娘の姿がよく見かけられた。”千年の帝国建設”の夢に惑わされた若者たちがすくなくなかったのである。結局、ヒトラーの壮大な夢が空中楼閣に終ったことはその後の歴史が証明したところである。ルヴォフというのは、そういう因縁のある町だった。
 もしもヒトラーの対ソ攻撃が成功したとしたならば、二億のロシア人に対して、どんな惨虐な手段がとられたか、おそらく言語に絶するものになったにちがいないIf Hitler's attack on the Soviet Union had been successful, the cruel measures that would have been taken against the 200 million Russians must have been unspeakable.
 さてウクライナに入ると風景は一変してくる。道路のすぐそばには、戦車の残骸がごろごろ横たわっていて激戦のあとを物語っている。しかし、ウクライナの野は大へん美しい。白樺と杉の林がところどころで野原のまん中に浮かびあがる。

*Kyiv(Kiev) would suffer Nazi occupation for 779 daysキーウ(キエフ)は779日、ナチスの占領を受けることとなるKiew würde 779 Tage lang unter der Besetzung durch die Nazis leidenКиївКиев терпів нацистську окупацію 779 днів. During that time, an estimated 100,000 people — Jews, Roma (Gypsies), communists and Russian prisoners of war — were murdered at Babyn Yar, according to the U.S. Holocaust Memorial Museum.
 ロヴノやジトミールなどで一晩ずつ泊ったあと、ウクライナの首都キエフでひと休みすることになった。”ロシアの町々の母mother of Russian cities”と呼ばれるこの古い都は、見るも無惨に破壊されていた。町の中心は完全な廃墟に化けていた。ポンペイの廃墟Ruins at Pompeiiの規模を大きくしたようなもので、これに比べられる凄惨な都会の姿は、後年わたくし自身住むことになったベルリンの廃墟Ruins at Berlinだけである。キエフのドイツ人やハンガリー人たちは、「スターリンの焦土戦術の仕わざだThis is the result of Stalin's scorched earth tactics.」といっていたが、それよりはドイツ空軍の猛爆の結果The result of the Luftwaffe bombardmentだろうとわたくしは思った。
 キエフに三日滞在して、1000キロ走破の疲れを休めた。道はウクライナに入ってからはひどいもので、200キロ走るのに13時間もかかることがあった。その上に、毎日平均14,5時間も走り、朝は四時ごろに出発するので睡眠不足となり、キエフについたときには若いわたくしも相当にへばっていた。
 キエフにはハンガリー治安部隊の司令部があった。オリジェイ中将という司令官が、ウクライナに頑張っているパルチザンの活動について話してくれた。森林地帯の奥深くに根拠地を持つパルチザンの総数は約五万、地下に営舎を持っていてきびしい冬もがんばりとおした。ソビエト軍との連絡は緊密にとれていて、いまでも夜になると飛行機連絡をやっている。武器弾薬、食糧も豊富に持っていて、その攻撃規模も中隊単位ぐらいの大きさである。ハンガリー守備軍は、はじめは軽武器しか持っていなかったので、パルチザンの機関銃にやられたことが度々あったそうである。キエフからさきはまだ治安工作が進んでいないので、パルチザンの危険は大きいから気をつけなさい、とオリジェイ中将はいっていた。

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