日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11⑦

 レープ元帥のひきいる北軍は、レニングラード包囲戦に没頭し、ボック元帥麾下の中央軍は、モスクワ進撃を途中で変更し、北部、南部に勢力を分散して中途半端な作戦を命じられた。ルントシュテット元帥の南軍は、ウクライナ工業地帯占領に向った。こうしてドイツ軍主力は三つの広大な地域に分散された。ドイツ軍首脳は、モスクワ正面に向って退却したソ連軍主力の殲滅こそ戦略目標である、と主張したがヒトラーに拒否されたのである。

①ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フランツ・リッター・フォン・レープ(ドイツ語: Wilhelm Josef Franz Ritter von Leeb、1876年9月5日 - 1956年4月29日)Вильге́льм Йо́зеф Франц Ри́ттер фон Ле́ебは、ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦で軍集団司令官を務めたが、独ソ戦の最中にヒトラーと対立して解任された。最終階級は陸軍元帥。

②モーリッツ・アルブレヒト・フランツ・フリードリヒ・フェードア・フォン・ボック(ドイツ語: Moritz Albrecht Franz Friedrich Fedor von Bock、1880年12月3日 - 1945年5月4日)Мориц Альбрехт Франц Фридрих Федор фон Бокは、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。

③カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット(Karl Rudolf Gerd von Rundstedt, 1875年12月12日 - 1953年2月24日)Карл Ру́дольф Герд фон Ру́ндштедтは、ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦中に軍集団司令官や総軍司令官などを務めた。最終階級は陸軍元帥。ドイツ国防軍の象徴的存在である。
 将軍たちの反対を押し切って強行されたヒトラーの戦術は、はたせるかな中途半端な結果に終った。レニングラードは、勇敢な市民の協力もあってついに死守された。ウクライナ作戦はある程度の戦果をおさめた。しかし、肝心の”ソビエト戦力の破壊”という目的は達することができなかった。モスクワ正面に逃れたソビエト軍主力は、ここで一息つき、補強されて、十分に態勢をととのえるだけの時間をかせいだのである。
 十月に入って、ヒトラーが、また思い出したように中部軍をモスクワ正面に転進させたとき、ヒトラーは二つの大きな敵を相手にしなければならなかった。ひとつは”立ち直ったソビエト軍Recovered Soviet army”、もうひとつは”冬将軍General Winter”としてやがて猛威をふるう”ロシアの冬winter in russia”の前ぶれである。

①Русскийロシア語→Операция «Тайфун» (1941) Unternehmen Taifunタイフーン作戦Operation Typhoon— стратегическая наступательная операция немецких войск в московском направлении осенью-зимой 1941 года, прерванная наступлением советских войск в декабре 1941 года.
 十月上旬から12月上旬にかけて、ドイツ軍はモスクワ攻略を目指して猛攻をつづけた。しかし、ソビエト軍の抵抗は強く、ドイツ軍の前進は鈍かった。”ロシアの冬”のきびしさは誰しも知るところだが、1941年の冬は特別にきびしかった。もう十月からひどい寒さがはじまっていた。ところがドイツ兵は防寒服を持っていなかった。午後の三時になるともう暗く、地上には雪が降りつもり、地下深く凍りつく”ロシアの冬”が本式にはじまる12月になると、ドイツ兵には凍傷にかかるものも大勢出てきた。ロシアの12月に冬装束なし、というのもまったく無茶な話であった。
 冬服、冬外套、冬靴で寒さに対してがっちりと身を固めたソビエト兵を相手に、ドイツ兵はひどく分の悪い戦いをやらねばならなかった。モスクワ攻略の歩みが鈍ったのは当然である。しかしそれでも12月2日、ドイツ軍の最先端部隊はモスクワ郊外まで達した。そこからは、クレムリン宮殿を守る高射砲の赤い火花が夜空に散るのも見られた。ドイツ軍がモスクワに一番近づいたのはこのときだった。そしてをそれを最後として、ドイツ軍はふたたびモスクワに近づくことがなかった。
 ここで、バルカン戦争のため無駄にした38日の持つ重要な意味を考えなければならない。ヒトラーが二回目のモスクワ正面攻撃を開始したのが十月上旬で、もう冬がはじまっていたこと、冬装束の用意をしていなかったドイツ軍が寒さに悩まされたことは前述のとおりである。そこで、もしバルカン戦争がおこらないで、はじめの予定どおり5月15日に対ソ攻撃を開始していたならば、二度目のモスクワ攻撃も、ひと月早い九月上旬にはじめることができたわけである。そうすれば”冬将軍”に悩まされることもなかったし、ドイツ軍の戦力もハンディキャップを受けないで済んだはずである。はたしてモスクワ攻略ができたかどうか、それは別としても、”冬将軍”にあれほどひどく悩まされることがなかったことは否めない。それ以上の仮定は立てないにしても、この38日、バルカン戦争で失った時間が、ヒトラーにとって非常に重大な影響を持つものだったことは認めなければならない。

②Deutschドイツ語→Die Schlacht um Moskauモスクワの戦い(Би́тва за Москву́/Моско́вская би́тва, Би́тва под Москво́й) war eine Schlacht an der deutsch-sowjetischen Front im Zweiten Weltkrieg. Ziel der Operation war die Einnahme der sowjetischen Hauptstadt Moskau. Die Kämpfe begannen am 2. Oktober 1941 mit der Wiederaufnahme der Offensive der Heeresgruppe Mitte gegen die West-, Reserve- und Brjansker Front in der Doppelschlacht bei Wjasma und Brjansk.

 ソビエトの反撃
 12月6日、ヒトラーの予期しなかったソビエト軍の反撃がはじまった。新手の100コ師団が猛然として大攻勢に出てきたのである。これは、ヒトラーだけでなく、ドイツ軍全首脳を大いにおどろかせ、かれらの立っていた足下は砂のようにくずれ落ちてゆくのであった。
 このときの状況を、さきにも引用した『ヒトラー伝』の著者アラン・ブロックは簡潔な筆でつぎのように述べている。
 「例の12月6日、ロシア軍は中部戦線の全線にわたり、新鋭の100コ師団による大逆襲を敢行On December 6th, the Russian army launched a major counterattack with 100 new divisions along the entire Central Front、モスクワに対するドイツ軍の脅威を一掃し、ヒトラーと国防軍総司令部とを啞然たらしめたeliminated the German military threat to Moscow and confronted Hitler and the Wehrmacht General Headquarters. ドイツ軍は、もうそのころは耐久力も限度まで達していたので浮き足立ち、数日間は大混乱を呈し、ロシア軍が突破作戦をやるのではないかとびくびくしていたBy this time, the German army had reached the limit of its endurance, so it remained in a state of confusion for several days, fearing that the Russian army might try to break through. ヒトラーは、戦争がはじまって以来もっとも重大な軍事的危機に直面したのであるHitler faced the most serious military crisis since the beginning of the war. たとえそれを克服することができるとしても、この大博打に失敗したことthat he failed at this great gamble, even if I could overcome it、東部戦線では、ずっと前から予告してきた勝利に到達できぬまま、1941年も暮れようとしているということだけはもはや明らかとなったのであるit was now clear that 1941 was drawing to a close on the Eastern Front without achieving the long-prophesied victory.
 この状況を前にして誰しも思い浮かべるのは、ナポレオンの敗走であろう。129年前、おなじく運命の日6月22日ロシアに攻め込んだナポレオンが、やはりロシア軍主力の殲滅を目指してロシアの奥深くひっぱりこまれ、いったんモスクワ入城ははたしたものの、そのモスクワを焼かれ、折柄訪れた”冬将軍”とロシア軍の反撃に遭って、ほうほうの体で逃出し、文字どおり”命からがらFor the life of him”パリに逃げもどったこと、歴史上最大規模の軍勢”グランダルメーGrande Armée”50万の将兵が、ロシアの広野と寒気の中にむなしく消え去ってしまったあの悲惨な敗北、それをヒトラーも、将軍たちも思い浮かべずにはおれなかったにちがいない。

①Françaisフランス語→La campagne de Russieロシア戦役Отечественная война 1812 годаPatriotic War of 1812祖国戦争Russlandfeldzug 1812, également connue en Russie comme la guerre patriotique de 1812, est une campagne militaire menée par l’empereur Napoléon Ier en 1812 et lors de laquelle les troupes françaises ont envahi l'Empire russe. Elle a pour principale cause la levée par Alexandre Ier de Russie du blocus continental imposé par Napoléon à toute l'Europe depuis 1806, contre le Royaume-Uni②大陸軍(だいりくぐん、フランス語: Grande Armée、グランダルメВеликая армияまたはグランド・アルメ、英語: The Great Army)あるいは大陸連合は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。
 ドイツ軍には大きな危険が迫っていた。”総退却ー総崩れTotal retreat - Total collapse”、それはナポレオンの二の舞を意味した。部隊長のひとりは、当時を回想してつぎのように語っている。
 「この危機に臨んで多くの部隊は、ナポレオンのモスクワ退却の話を思い出し、自分たちもおなじ運命を辿るのではあるまいかと心配していたIn the face of this crisis, many troops remembered the story of Napoleon's retreat from Moscow and feared that they too would suffer a similar fate. ひと度退却をはじめたとなれば、収拾不可能な敗走となることは明らかだったのであるIt was clear that once they started retreating, it would be an irreversible rout.
 ところがヒトラーは退却しなかった。ヒトラーは全力をあげて抵抗することを命じ、大きな犠牲を惜しまず、また異議を唱える軍首脳は容赦なく追払って、強い防衛態勢を築くために努力した。その結果、中部軍は辛うじて危機を脱し、モスクワ正面約170キロの線で踏みとどまることができた。こうしてドイツ軍は、ともかくロシアの奥地深く、極寒と戦いながら苦しい冬営生活に耐えることができた。
 しかし、二、三ヵ月で、ソビエト軍主力の潰滅、レニングラード、モスクワ占領、全ウクライナ制圧、などを主要目標とするこの大作戦が、完全に失敗したことは疑いの余地がなかった。それは、短期決戦を目指したヒトラー作戦の挫折を意味したが、ドイツ軍にこの打撃を加えたソビエト軍の冬期攻勢が、12月6日という日に開始されたことをわれわれ日本人はとくに記憶しておかねばならない。
 戦後ドイツで出版された独ソ戦史もっとも公平なものといわれる、フィリッピィ・ハイムPhilippe Heim共著”対ソ戦争史History of the war against the Soviet Union”が、このソビエト軍冬期攻勢の意義について「後世の史家は、ドイツ軍のこの根本的な失敗が、独ソ力競べの決定的転機であったという判断を下すに違いないFuture historians will no doubt conclude that this fundamental failure of the German military was a decisive turning point in the competition between Germany and the Soviet Union.」と述べているのは注目すべきである。

*The winter campaign of 1941–1942ソ連軍による冬期攻勢/Зимняя кампания 1941–1942 гг./Winterfeldzug 1941–1942 from 5 December 1941 to 7 May 1942 was the name given by Soviet military command to the period that marked the commencement of the Moscow Strategic Offensive Operation (better known as the Battle of Moscow). The opening phase of the Red Army strategic counter-offensive operations in the Soviet Union was a major albeit costly Soviet victory.
 ヒトラーはこの大失敗、大打撃にもめげずに、よく1942年夏には第二次大攻勢を試み、その冬にはまたもやソビエト軍の逆襲を受け、今度はスターリングラードの大敗北という、ふたたび立つ能わざる痛打を食らって、これがドイツ敗北の決定打となることは読者のすでに知るとおりである。また、このスターリングラード戦以後は、ドイツ軍はついに攻勢に立つことなく、怒濤のごとく押し寄せるソビエト軍の前に、じりじりと後退をつづけ、最後にはソビエト軍のベルリン占領となって、この大勝負にけりがついたことも歴史的事実となってすでに久しい。
 しかしいずれにしても、1941年12月上旬、ソビエト軍の逆攻勢でドイツ軍の前進が食い止められ、はね返された時点において、ヒトラーのソビエト侵略史の第一巻は終ったのである。その意味では、スターリングラード戦は第二巻の終りであるし、それにつづく第三巻の結末はベルリン陥落ということになろう。その間三年十カ月という長い月日が流れるが、第二次世界大戦を通じて最大の戦場となった東部戦線の歴史を詳述することは、その小冊子、しかも一章や二章ではたし得ないことはいうまでもない。
 以下わたしくの叙述は、ソビエト軍冬期攻勢のその後、ドイツ軍の第二回夏期攻勢、スターリングラードの大敗北、などを略述することにとどめるが、わたくしは、第二回夏期攻勢開始当時、約五週間東部戦線第一線の戦場で暮らすことができたので、このときの見聞をその間に挟むことにしたい。

 ヒトラーの軍事的展望
 しかし、ここでは、独ソ開戦当初に遡って考えてみたいことがある。そのひとつは、ヒトラーは、この大冒険に踏み切るに当って、どういう軍事的展望を持っていたのかということ、もうひとつは、独ソ開戦は当時の世界政局にどんな影響をあたえ、どんな波紋をひきおこしたかということである。
  ヒトラーが、対ソ戦争という”大博打Big gamble”を打つ決意を固めた政治的背景についてはすでに述べたが、いざ攻撃開始となれば、この戦争をどう片づけるかについての軍事的な見透しがなければならなかったこと当然である。結論をさきに出せば、この問題については、ヒトラーは不思議なくらい単純な人間だったということであるOn this issue, Hitler was a strangely simple man. ヒトラーの下した判断は、明快そのもので一点のくもりもなかった。「二ヵ月、長くて三ヵ月で戦争は片づくThe war will be over in two months, three months at most.」というのがかれの確信だった。ヒトラーは、軍首脳やナチス幹部の前では、開戦のずっと前からこの確信を口にして憚からなかった(リッベントロップも松岡に対して「もしも独ソ戦争となれば二、三ヵ月で片づいてしまう。ドイツは対ソ戦で日本の援助など夢にも考えていないIf there was a war between Germany and the Soviet Union, it would be over in two or three months. Germany does not even dream of Japan's aid in the war against the Soviet Union.」と大言壮語している)。この確信の基礎は何だったか?
 そのひとつは、「ドイツ軍に敵なしNo enemy to the German army」という無条件の妄信である。それが、ポーランド戦、フランス戦の輝かしい成功にもとづくこというまでもない。もうひとつは、ソビエト戦力の過少評価である。フィンランドとの戦争で見せたソビエト軍の拙劣さ、1937年以来の赤軍大粛正、それにスターリン体制に対する誤った判断(ドイツ軍の一撃はソビエト内部に大異変をひきおこし、スターリン政権は内部崩壊は必至、とても戦争継続どころではないThe German army's attack caused a huge upheaval within the Soviet Union, and Stalin's regime was bound to collapse, making it far from possible for the war to continue、という判断である)などがあった。
 「われわれはドアーさえ蹴り倒せばいい。腐れ切った建物は自然にぶっ倒れるだろうAll we have to do is kick down the door. A decaying building will collapse on its own.」ヒトラーはこうもいっている。
 二、三ヵ月で作戦集結ということを確信していたヒトラーには冬服の準備など論外だったのである。
Tausendjähriges Reich千年の帝国Thousand-Year Reich”建設、という大事業にとりかかろうというにはあまりにも手軽なこの見透しにおどろかざるを得ないが、狂信的な、異常な頭の持主だったヒトラーは別として、ドイツ軍首脳がこれに大した抵抗なしにひきずられたことは一驚に値する。
 ところで、ドイツの外では独ソ戦の行方をどう見ていたのであろうか?

 最大の関心を寄せていたのがイギリスであることは申すまでもない。チャーチルは、”独ソ開戦”の報を聞いたとき、「これでイギリスは敗けなくてすむThis way Britain won't have to lose.」と叫んだといわれる。しかしアイアンサイドWilliam Edmund Ironside参謀総長以下軍首脳を集めた緊急会議では、「短期間にソビエトの敗北必至Soviet defeat is inevitable in a short period of time.」というのが軍事専門家のほぼ一致した判断だった。ところがチャーチルは、「ソビエトは相当期間頑張るにちがいないThe Soviets must hold out for a considerable period of time.」という見透しを持ち、イーデンRobert Anthony Eden外相その他軍事専門家以外の少数の政治家はこれに傾いた。軍人たちは、専門的な情報をもととして悲観的見方に立っていたのに反して、軍事問題の素人たちは特別の根拠はなく、常識と直感からこの判断を下したのだった。おなじ傾向はアメリカでも見られた。ルーズヴェルト大統領は、独ソ開戦三ヵ月後の九月、「ロシア戦線は持ちこたえ、モスクワは占領されまいThe Russian front will hold out and Moscow will not be captured.」という大胆な見透しを発表して人目をひいた。ところがマーシャルGeorge Catlett Marshall, Jr.参謀総長以下、アメリカの軍部首脳たちは、揃ってドイツの短期勝利を信じて疑わなかったAll American military leaders had no doubts about Germany's short-term victory.

*Deutschドイツ語→Franklin Delano Rooseveltフランクリン・デラノ・ルーズベルト[ˈfɹæŋk.lɪn ˈdɛlənoʊ ˈɹoʊzə.vɛlt] (Aussprache) (* 30. Januar 1882 in Hyde Park, New York; † 12. April 1945 in Warm Springs, Georgia)Фра́нклин Дела́но Ру́звельт, oft mit seinen Initialen FDR abgekürzt, war vom 4. März 1933 bis zu seinem Tod am 12. April 1945 der 32. Präsident der Vereinigten Staaten. Er gehörte der Demokratischen Partei an.

*Baron Hiroshi Ōshima (大島 浩Хироси Осима, Ōshima Hiroshi, April 19, 1886岐阜県出身(大日本帝国陸軍中将(A級戦犯)終身刑) – June 6, 1975)Хіросі Осіма was a general in the Imperial Japanese Army, Japanese ambassador to Germany before and during World War II and (unwittingly) a major source of communications intelligence for the Allies. His role was perhaps best summed up by General George C. Marshall, who identified Ōshima as "our main basis of information regarding Hitler's intentions in Europe". After World War II, he was convicted of war crimes and sentenced to life imprisonment, but was paroled in 1955.
 大島大使と新聞特派員たち
 つぎに、独ソ戦争の行方について、どの国にも劣らぬ深い関心をいだいていた日本はどうだったか?日本でも軍部が、短期決戦によるドイツの勝利を確信していたことは英米の場合と変りがなかった。ちがっていたのは、日本にはチャーチルもルーズベルトもいなかったことであるThe difference was that Japan didn't have Churchill or Roosevelt. つまり日本は”ドイツの勝利German victory”をまるで既成事実のように全面的に承認していたということである。それは、パール・ハーバー=奇襲=日米開戦という大冒険の決行されたのが12月7日(時差の都合でヨーロッパでは八日ではなくて七日である)という日だったことが、何よりもよく説明している(この事実についてはあとでもう一度考えることにする)。
 日本の軍部、ことに陸軍が、”ドイツ軍短期勝利German short-term victory”を確信した最大の理由は、かれらがドイツ軍の西部戦線電撃の勝利に眩惑されたところにあったが、三国同盟の事実上の推進者だった陸軍にとっては、ドイツが強大であること、ドイツが勝つことは自分たちのプレスティジュ保持のためにも不可欠の必要だったのである。

 その上に当時の駐独大使大島中将は(日本政府代表であると同時に、日本陸軍の代表でもあった)、骨のずいから親独派で、ドイツのいうことはすべて無批判に信用する、というような人物だったため、この大使の送った独ソ戦の見透しがドイツの短期勝利を確信したものであることは当然であった。そしてこの報告があたえた影響も小さくはなかったにちがいない。大島中将はリッベントロップとは特別に親しく、またヒトラーの信頼も厚かった。任国の最高首脳と親密な関係を結ぶということは、日本の外交官としては珍らしいケースだったが、そういうドイツ最高首脳との特別関係のお蔭で、大島中将は、対ソ攻撃についても早くから確かな情報を持っていたらしく、独ソ開戦を予測した報告がかなり前に東京に送られていたようである。
 このことに関連して興味深い話を、当時読売新聞ベルリン特派員Yomiuri Shimbun Berlin correspondentだった嬉野満洲雄Mitsuo Ureshino氏から聞いたことがある。それはつぎのような話である。
 当時大島大使は週一回の新聞会見をやっていたが、独ソ開戦のしばらく前、独ソ戦の噂をめぐって、大島大使と在ベルリン日本新聞特派員たちJapanese Shimbun correspondents in Berlinとの間で活発な議論が交わされたことがあった。このとき大島大使は「もしかりに独ソ戦争がはじまるようなことがあるとしても、ドイツ軍は二、三ヵ月でソビエトを片づけてしまうだろうEven if a German-Soviet war were to start, the German army would probably wipe out the Soviet Union in two or three months.」という楽観的な判断を述べたところ、特派員たちの中から異論が出て、議論が沸いた。たとえば朝日新聞Asahi Shimbunの守山特派員などは、「日本軍が中国大陸の奥深くはいり込んで、どうにもならぬ状態に陥っているのとおなじようなことにはならんでしょうかなI wonder if it will be the same as the Japanese army penetrating deep into mainland China and falling into a hopeless situation.」と短期決戦どころではない、どろ沼に落ちこむ危険さえもあるのではないか、という見方で食い下がったところ、大島大使は腹立たしげに、「君たち市井の新聞記者に何がわかるんだねWhat do you local newspaper reporters know?」と飛んだ放言をしてしまったそうである。
*守山 義雄Yoshio Moriyama(もりやま よしおЁсио Морияма、1910年(明治43年)11月21日 - 1964年(昭和39年)8月27日)は、日本のジャーナリストである。大阪市に生まれ、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現在は大阪大学に統合)ドイツ語学部に入学する。1931年(昭和6年)に卒業後は大阪朝日新聞に入社し、社会部に所属した。1939年(昭和14年)には第二次世界大戦直前下にあったナチス・ドイツNazi-Deutschlandのベルリン特派員となり、同年9月に大戦が勃発した際にはヨーロッパの戦線報道European front coverageに携わる。翌1940年(昭和15年)6月にはナチス・ドイツ軍Wehrmachtに入り、終戦直前の1945年(昭和20年)7月まで従軍した。

 当時のベルリン特派員は、守山、茂木Mogi(以下朝日)、加藤Kato、大島Oshima、佐倉Sakura(以下毎日Mainichi)、嬉野、牧Maki(以下読売)、江尻Ejiri、佐藤Sato(以下同盟通信Dōmei Tsushin)、といった顔ぶれだった。この中には大島式楽観論を肯定するひともないわけではなかったが、多数はこの”ドイツ製楽観論German optimism”に批判的だったようである。大島大使は、日本新聞特派員たちの中から出た抵抗に非常な不満を感じていたらしく、「日本新聞特派員の中には反独的傾向のものがあるのは困ったことだIt is troubling that some Nippon Shimbun correspondents have anti-German tendencies.」と側近に洩らしていたそうである。この日本の駐独大使にとって、日本新聞特派員の資格は、公正な立場をとるということよりは、まずさきに”親独的であるpro-German”ということだったようである。大島大使のこの態度は”外交官の偏向diplomat's bias”の標本ともいうべきものだったが、それが極限まで拡大されるできごとが間もなくおこった。
 独ソ開戦と同時に、大島大使は、「二、三ヵ月で戦争終結、ドイツの勝利はまちがいなしThe war will end in a few months, and Germany will definitely win.」という判断を確信をもって外務省に報告したことは不思議ではない。ところがおなじころ、朝日の守山特派員は、「長期戦となる可能性をまったく無視するわけには行かぬWe cannot completely ignore the possibility that this will be a long battle.」という意味の見透しを打電した。東京の外務省はこの記事に注目して、早速大島大使宛てに、「朝日ベルリン特電は、長期戦の可能性も無視できないという記事を送ってきているAsahi Berlin Special Telegram has sent an article stating that the possibility of a long war cannot be ignored.」という意味の電報を送った。これを読んで大島大使はカンカンに怒ったAmbassador Oshima became extremely angry when he read this. そして、外務省に対しては、「外務省は、駐独大使の判断と、市井の一記者の判断と、いずれを尊重するのかDoes the Ministry of Foreign Affairs respect the judgment of the ambassador to Germany or the judgment of a regular reporter?」とえらい権まくで外務省に抗議したそうである。
 一方ベルリンでは「こういう記事を送ることは反独行為である。このような反独的日本人特派員がドイツで活動することは好ましくないSending articles like this is an anti-German act. It is not desirable for such an anti-German Japanese correspondent to work in Germany.」と公言して、間接に守山特派員に圧力を加えてきた。これには朝日ベルリン支局はもちろん、その他各社支局も憤慨したが、結局は、当時、戦争下ヨーロッパ事情視察のためベルリンに滞在していた笠信太郎氏のとりなしで、話はそれ以上こじれずに片づいたそうである。大島大使の判断と守山特派員の見透しと、どちらが正しかったかは半年を出ずして明らかになったIt became clear within six months which was correct, Ambassador Oshima's judgment or correspondent Moriyama's foresight.

*笠 信太郎(りゅう しんたろうРю Синтаро、1900年〈明治33年〉12月11日(福岡県出身) - 1967年〈昭和42年〉12月4日)は、日本のジャーナリスト。社長不在時代の朝日新聞で常務取締役論説主幹を務め、信夫韓一郎、永井大三とトロイカ体制をしき、60年安保では最初から日米新安保条約への改定に賛成して、反米親ソの安保反対陣営から激しく攻撃された。また、昭和研究会メンバーなども務め、政界のフィクサーや、CIA協力者としても活動した。

 大島という人は闊達で明るく、竹を割ったようなまっすぐな性格で、私利私欲とはおよそ遠いきれいな人物だった。わたくしも二度ほど、食卓を囲んで話を聞いたこともあり、その人柄の良さを評価するには決して吝かではない。しかし、日本の政策決定に大きな影響を持つ重要な国に使する外交官としては問題があった。ドイツのいうことだけしか聞かないという”ドイツ一辺倒Dedicated to Germany”だけでは、当時の駐独大使という任務ははたせるものではなかった。しかもそのころの外務省には、ほかに適材がいなかったわけではない。大島大使の任命は、当時日本の政治を動かしていた軍部の意向のあらわれだったのであろうが、あやまりはあやまりとして認めなければならぬことにかわりはない。
*【追加参照資料Additional reference material】大島のドイツ贔屓は終生続き、晩年においても毎日ドイツ語の本と雑誌ばかり読んでいたOshima's preference for Germany continued throughout his life, and even in his later years he read only German books and magazines every day. また、ヒトラーを常に「天才戦略家」と評価しており、蟄居先であった茅ヶ崎の自宅応接室にも、自身とヒトラーとが向かい合った写真が飾られていたというHe also always praised Hitler as a "genius strategist,'' and it is said that a photo of himself and Hitler facing each other was displayed in the drawing room of his Chigasaki home where he lived in seclusion. またMoreover、「国家の勢力拡大が最優先事項とされた当時の価値基準で測れば、ヒトラーはアレクサンドロス3世やナポレオン・ボナパルトに次ぐ天才であったことを固く信じるHe firmly believes that Hitler was a genius next to Alexander III and Napoleon Bonaparte, measured by the values ​​of the time when national expansion was paramount.」とヒトラー死後30年を経た後にも語っていたHe spoke even 30 years after Hitler's death.
 それはともかくとして、独ソ戦の行方を判断するに当って、日本政府も軍部も、駐独大使の報告の影響を大きく受けたことは明らかであるし、それが日本の対米戦争決定にもひびいたことは容易に推察される。ドイツ軍の強打を受けてソビエト軍は撃滅される。軍事的脅威としてのソビエトは消えてなくなる。背後の脅威を除いたドイツは、強大な軍事力を集めてふたたびイギリスを威圧する。というのが独ソ戦のあとに登場するヨーロッパの新局面として想定されていたにちがいないからである。しかし、現実の事態は、この想定とは隔たるところ遠かった。日本がパール・ハーバーを攻撃した12月7日、ドイツ軍はソビエト軍の反撃を受けてよろめき、総くずれの危機に立たされていたこと前述のとおりである。
 ここでまたひとつ”仮定”を立ててみる。もしも日本が、独ソ戦の行方を速断せずにもっとじっくり腰を据えて観察していたならば、あるいは日本の対米戦争決意の時期が一ヵ月ずれたとしたならば、日米開戦はあの時点ではおこらなかったのではあるまいか?
 いずれにしても、日米開戦が東部戦線の戦況と強いつながりを持つことは否定できない。その意味では日米戦争は独ソ戦争のひきおこした最大の波紋であるといっていい。

 民主主義対ファシズムの闘い
 おなじように大きな波紋が両方にもひろがって行った。”ドイツ軍ソビエトへ侵入”の報を聞いて、「これでイギリスは敗けないですむ」と叫んだチャーチルは、その晩ラジオを通じて全世界に向ってつぎのようによびかけた。
 「過去25年を通じ、わたくしより頑固な反共主義者はいなかったThroughout the past 25 years, no one has been more staunchly anti-communist than me. わたくしは、共産主義について述べたこれらの言葉をひとことも取り消すつもりはないI do not intend to take back any of these words I have said about communism. しかし、それはいま繰りひろげられつつある光景の前にすべて消えてなくなるHowever, all that will disappear before the scene that is unfolding now.
 われわれはいま、ただひとつの目的しか持っていないWe have only one purpose now. われわれはヒトラーとナチス政体の痕跡をすっかり撲滅することにきめているWe are determined to eradicate all traces of Hitler and the Nazi regime. われわれは、ナチスの圧制から地球の諸民族を解放するために戦うWe fight to liberate the peoples of the earth from Nazi tyranny. ナチスに対して戦うものは、ひとも国もわれわれの援助を受けるEvery person and country fighting against the Nazis will receive our aid. ヒトラーと共に歩むものは、ひとも国もわれわれの敵であるAnyone who walks with Hitler is our enemy, both people and countries. 
 この戦いは階級闘争ではない。それは、人種と宗教と党派を超えた戦いであるThis battle is not a class struggle. It is a battle that transcends race, religion, and partisanship. ヒトラーが、ソビエト攻撃によって、偉大な民主主義国家の攻撃からすこしでも逃れ得ると想像するならば、とんでもない考えちがいであるIt would be a terrible mistake for Hitler to imagine that by attacking the Soviet Union he could somehow escape the attack of a great democracy.
 わが家の炉のために戦うロシア人の立場は、あらゆる自由人、自由国民の立場とおなじであるThe position of the Russian man in fighting for his home's hearth is the same as that of every free man and free citizen. ロシアの危険はわれらの危険であるRussia's danger is our danger.
 チャーチルのよびかけは、明らかに対ヒトラー共同戦線の結成を目指すものだった。しかし、スターリンはそれを額面どおりに受けとるわけにはゆかなかった。何しろ相手はイギリス反共主義の総大将であるし、十月革命の直後、英仏の反革命軍事干渉を組織した中心人物である。そのチャーチルがいかに口さきでうまいことをいっても、肚の中で何を考えているかは見えすいているのだ。イギリスはこれを機会にドイツと講和をやるのではないだろうか、それとも当分は、独ソを戦わせて形勢観望に出るのではあるまいか、とスターリンは疑わざるを得なかった。折も折、イギリスの航空機生産省大臣ブラバゾンが「イギリスにとって一番好ましい独ソ戦の結末は、独ソ双方が疲れ消耗することであるFor Britain, the most favorable outcome of a war between Germany and the Soviet Union would be for both Germany and the Soviet Union to become tired and exhausted. そうなればイギリスは第三勢力の役割をはたし、戦争の終りで自分の条件を押しつけることができるBritain could then act as a third power and impose its terms at the end of the war.」という意味の見解を公表したのである。

①初代ブラバゾン・オブ・タラ男爵、ジョン・セオドア・カスバート・ムーア=ブラバゾン(英語: John Theodore Cuthbert Moore-Brabazon, 1st Baron Brabazon of Tara, GBE, MC(Military Cross), PC、1884年2月8日 - 1964年5月17日)Джон Теодор Катберт Мур-Брабазон, 1-й барон Брабазон из Тары はイギリスの航空のパイオニアであり、保守党の政治家である。イギリス人としてイギリス国内で最初に飛行を行ったパイロットであり、第二次世界大戦中に輸送大臣と航空機生産大臣を務めた。
 チャーチルは、この率直すぎる意見表明におどろいて即座にブラバゾンの首を切ったが、スターリンの疑いはこれで一段と強まった。アメリカでは当時まだ上院議員だったハリー・トルーマンが、独ソ開戦の二日あとに、「もしもドイツが勝ちそうだったらロシアを助け、ロシアが勝ちそうだったらドイツを助けるIf Germany is likely to win, we will help Russia, and if Russia is likely to win, we will help Germany. こうして双方にできるだけたくさん殺し合いをやらせるのがいいのだIt's best to have both sides kill each other as much as possible.」と語っている。スターリンにとって、英米不信を強める理由は十分だったのである。

②Deutschドイツ語→Harry S. Trumanハリー・S・トルーマン (* 8. Mai 1884 in Lamar, Missouri; † 26. Dezember 1972 in Kansas City, Missouri)Га́рри С. Тру́мэн war ein US-amerikanischer Politiker der Demokratischen Partei und von 1945 bis 1953 der 33. Präsident der Vereinigten Staaten. Zuvor war er 1945 kurzzeitig Vizepräsident und vertrat zwischen 1935 und 1945 den Bundesstaat Missouri im US-Senat.
 しかしソビエトは危急存亡のときにあった。相手がチャーチルだからといって、差しのばされた手を振りはらう余裕などはなかった。なぐり込みをかけてきたヒトラーを追い返すためには、イギリスとの同盟は火急の要でもあった。こうして、独ソ開戦から三週間たった7月12日”英ソ協定Anglo-Soviet agreement”がモスクワで調印された。対独戦争遂行のためのあらゆる相互援助、単独休戦、単独講和の排除などが主たる内容だった。この英ソ同盟は、五ヵ月あとアメリカの参加によって拡大され、”反ファシズム大同盟Grand Alliance Against Fascism”に発展することになる。

*The Anglo-Soviet Agreement英蘇協定Соглашение о взаимных поставках, кредите и порядке платежей от 16 августа 1941 года was a declaration signed by the United Kingdom and the Soviet Union on 12 July 1941 to cooperate in the war against Nazi Germany. Shortly after the beginning of Operation Barbarossa, the German invasion of the Soviet Union, both powers pledged to assist each other and not to make a separate peace with Germany.

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