日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Советско☭☆финская十 война (1941—1944) Jatkosota継続戦争Continuation War】 Lapplandkrieg/Lapin sota《Блокада Ленинграда/Leningrad–Novgorod offensive》『図解・ソ連戦車軍団』斎木伸生, 上田信②『Московское перемириеモスクワ休戦協定Moskovan välirauha』〔2022/10/08Kanada🍁Antid Oto〕


『図解・ソ連戦車軍団』斎木伸生, 上田信
バルバロッサ作戦
フィンランド侵攻を終えたソ連にとって、ヨーロッパの戦争はしばらく、無関係であった。資本主義国とファシズム国家がお互いにつぶし合いをしてくれれば助かる。
しかし驚くべき事態が引き起こされた。1941年6月22日、ドイツ軍は突如ソ連領内への攻撃を開始した。バルバロッサ作戦の発動である。バルト海から黒海におよぶ長大な戦線に、ドイツ軍は17個戦車師団を含む120個師団からなる三個軍団を配置した。その戦力は戦車3300両、航空機2000機、兵力300万人に上った。その戦力が国境地帯のソ連軍に襲い掛かった。
当時ソ連軍は戦車師団32個を含む129師団からなり、戦車二万両、航空機4000機、兵力300万を擁していた。しかし戦力はドイツ軍に比べ、かなり劣っていた。戦車は数こそ多かったが、ほとんどはT26やBTなどの旧式戦車で、故障や整備状態の悪い物が大半であった。航空機も新型機への切り替え開始直後で、主力はI16やI153のような旧式機であった。
T-26は、第二次世界大戦前からソ連赤軍などで使用された軽戦車であるBT戦車(ロシア語:Быстроходные танкиブィストラホードヌィイェ・ターンキ、略称:БТベテー)は、第二次世界大戦前にソ連が開発した一連の戦車である③I-16(露:Поликарпов И-16 イー・シヂスャート、 Polikarpov I-16)は、ソビエト連邦のНикола́й Никола́евич Полика́рповポリカルポフ設計局Polikarpov Design Bureauが開発した単葉戦闘機I-153(ロシア語:И-153 «Чайка»イー・ストー・ピヂスャート・トリー チャイカ(海猫))は、ソ連の複葉戦闘機である。
部隊の練度も最低だった。スターリンの粛清によって、能力ある指揮官が失われ、兵士は戦い方を知らなかった。フィンランド戦後に改善が試みられたが、まだ十分な効果は現われていなかった。その上悪いことに、ドイツ軍の攻撃は完全な奇襲となった。ドイツ軍の国境での活動増加の兆候はソ連軍にも分かっていた。イギリスのチャーチルWinston Churchillはドイツの攻撃情報を伝えさえした。しかしスターリンはドイツと結んだ不可侵条約German-Soviet Nonaggression Pactに安心しきっており、ドイツを挑発しないよう防衛準備を禁止さえした。国境の警戒部隊は、何が起こったかわからないうちに消滅した。前線近くの飛行場は空襲を受け、ソ連空軍は飛び上がる以前に戦力を消耗した。ドイツ軍はやすやすとソ連領内への進撃に成功した。ソ連軍の指揮系統は大混乱を起こし、地上軍はほとんど戦闘態勢を整えないうちにドイツ軍の襲撃を受けてしまった。部隊は情報も無いままに、右往左往するだけで、激しい抵抗を続ける部隊はあっても、統一した防衛戦闘は行ない得なかった。
①赤色空軍Рабоче-крестьянский Красный воздушный флот (РККВФ)は、ロシア革命後から第二次世界大戦までのソ連の空軍である。赤軍の航空部隊として組織された②ソビエト連邦空軍(ロシア語: Военно-воздушные силы СССРSoviet Air Forcesは、ソビエト連邦の空軍組織の一つ。
*ドイツはバルバロッサ作戦により、ソ連に侵攻したが、フィンランドは当初中立を表明した。しかし、フィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ空軍機に対し、ソ連はフィンランド領内へ報復空爆を行ったため、6月25日フィンランドはソ連に対して宣戦を布告した。フィンランドは、この戦争はソ連ーフィンランド二国間の問題で、冬戦争の継続であると主張した。このため、この戦争は、継続戦争とも呼ばれている。
World War II All Front Guide第二次世界大戦全戦線ガイドРуководство по всему фронту Второй мировой войныShigeru Aoki青木茂Шигеру Аоки(February 1, 1998)
フィンランドも7月10日からソ連に侵攻して旧領土を奪回し、9月4日にはレニングラード北方のオロネツに達した。またムルマンスクから南に通じる鉄道線を遮断したが、それ以上前進せず、レニングラードに対する圧力は不充分であった。
①オロネツ(オローネツ、Олонец, カレリア語:Anus, フィンランド語:アウヌス, Aunus, 独:Olonez, 英:Olonets)は、ロシア連邦・カレリア共和国の都市。カレリア共和国の最南部、ラドガ湖の東側に注ぐオロンカ川沿いにある②ムルマンスク(ムールマンスクMurmanskとも、ロシア語:Мурманск、キルディン・サーミ語: Мурман ланнҍ)は、ロシア連邦ムルマンスク州の州都。

①レニングラード包囲戦(レニングラードほういせんSiege of Leningrad、ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月27日)Leningrader Blockadeは、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。また死因の97%は餓死と言われている。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人とされていたジダーノフАндре́й Алекса́ндрович Жда́новであった。

②Русскийロシア語⇒Ленинградско-Новгородская операция (14 января — 1 марта 1944)Leningrad–Novgorod offensive — стратегическая наступательная операция советских войск Ленинградского, Волховского и 2-го Прибалтийского фронтов, осуществлённая во взаимодействии с Балтийским флотом и авиацией дальнего действия, с целью разгрома немецкой группы армий «Север», полного снятия блокады Ленинграда и освобождения Ленинградской области.

③Deutschドイツ語→Die Leningrad-Nowgoroder Operation (russisch Ленинградско-Новгородская операция) Leningrad–Novgorod offensive war eine Winterschlacht zwischen Verbänden der Roten Armee und der Wehrmacht an der Ostfront des Zweiten Weltkrieges, die vom 14. Januar bis zum 1. März 1944 andauerte und zur endgültigen Aufhebung der Leningrader Blockade führte. Im Laufe dieser Operation wurden vier Unteroperationen durchgeführt: Krasnoseljsk-Ropschaer, Nowgorod-Lugaer, Kingissepp-Gdower und die Staraja Russa-Noworschewer Operation.[1] Sie war der erste der sogenannten Zehn stalinschen Schläge.

レオニード・アレクサンドロヴィッチ・ゴヴォロフ(ロシア語: Леонид Александрович Говоров、1897年2月10日 - 1955年3月19日)Leonid Aleksandrovich Govorovは、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄。第二次世界大戦時、包囲されたレニングラードを防衛するレニングラード戦線司令官を務めた。戦後は、国土防空軍総司令官等を歴任する。
レニングラードの解囲
1941年9月以来包囲が続けられていたレニングラードでは、その後何度か包囲を突破する試みが続けられていたが、細い回廊が作られただけで完全には成功しなかった。レニングラード市民は戦闘だけでなく、飢えや寒さで多くの者が死傷していったが、市当局はどうすることもできなかった。
レニングラードを包囲するドイツ軍は十分強力であった。それにスターリンは政治的理由でレニングラードを放置したとも言われる。しかし1944年になって、クルスクやウクライナでの勝利の結果、ようやくソ連軍にもレニングラード解囲攻撃をする余裕が生まれた。北方でも、これ以上ドイツ軍をのさばらせておく理由はない。
レニングラード地域にソ連軍部隊の集結が始められた。主力となるのはレニングラードに拠るレニングラード方面軍、レニングラード南東方でヴォルホフ川流域のボルボフ方面軍、そしてイリメン湖南方の第二バルト方面軍の三個方面軍であった。
①ヴォルホフ川(ヴォルホフがわ、ロシア語: Во́лхов / Volkhov, フィンランド語: Olhavanjoki, ドイツ語: Wolchow)は、ロシア北西部のノヴゴロド州とレニングラード州を流れる河川である②ヴォルホフ(ボルホフ、ヴォールホフ、ロシア語: Во́лхов、ラテン文字表記の例: Volkhov)はロシア・レニングラード州の中部にある都市③イリメニ湖(イリメニこLake Ilmen、ロシア語: Ильмень)は、ロシア連邦ノヴゴロド州にある湖である。
1月14日朝、凄まじい連続砲撃が始まった。ソ連軍の総攻撃である。レニングラード方面軍はオラニエンバウムОраниенба́ум橋頭堡とレニングラード市街から出撃、連絡を回復するとさらに南進した。ヴォルホフ方面軍も加わり、ドイツ軍を南から西へと押し戻して行く。
19日にはノヴゴロドが解放され、27日にはモスクワ・レニングラード鉄道もソ連軍の物となった。ドイツ北方軍集団は包囲される危険にさらされ、ナルヴァへの後退を急いだ。イリメン湖からPeipsiペイプスЧудскоеまでの地域は2月15日までにソ連軍の手で解放された。ドイツ軍はナルワ川に沿って防衛線を固め、ソ連軍の攻勢は第二バルト方面軍地域に移った。
①ノヴゴロド(ロシア語: Но́вгород [ˈnovɡərət]) Novgorodは、ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都Железнодорожная линия Санкт-Петербург — Москваモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道Saint Petersburg–Moscow railwayはロシアの二大都市、サンクトペテルブルクとモスクワとを結ぶ鉄道で、全長は649.7km。1842年に建設を始め、1851年に完成している③ナルヴァ(エストニア語: Narva、ロシア語: Нарва)は、エストニアの都市。かつては「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。

②ナルヴァの戦い(エストニア語: Narva lahing、独: Schlacht bei Narva露: Битва за Нарву)とは、ドイツ国防軍ナルヴァ軍集団とソビエト赤軍レニングラード方面軍との間でナルヴァ地峡をめぐり、1944年2月3日から8月10日まで行われた戦いのことである。

ボルホフ方面軍はルガからプスコフへ進撃路を取り、第二バルト方面軍の進撃も始まり、ドイツ軍はPeipsi-Pihkva järvプスコフ湖Чудско-Псковское озероとヴェリカヤ川東の地域を捨てて敗走した。3月1日には、レニングラード南方の広大な地域をソ連軍が確保した。しかしドイツ軍はナルヴァからプスコフ、オストロフ、イドリツァを結ぶ線で防衛線を構築し、戦線を安定させることに成功した。
①ルーガ(ルガ、ロシア語: Лу́га、ラテン文字表記の例: Luga; フィンランド語: Laukaa; ヴォート語: Laugaz)はロシア・レニングラード州の南西部にある都市②プスコフ(プスコーフ、ロシア語: Псков、ラテン文字転写の例: Pskov、エストニア語・フィンランド語: Pihkva、 ドイツ語: Pleskau、 ポーランド語: Psków)はロシアの都市③オストロフ(オーストロフOstrov、ロシア語: Остров)はロシア北西部のプスコフ州中部にある町Idritsaイドリツァ(Russian: Идрица)は、ロシアのプスコフ州のSebezhsky地区にある都市。

①継続戦争(けいぞくせんそうContinuation War、フィンランド語: jatkosota)は、第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で戦われた戦争である。戦争当事国の一方であるソ連では、この戦争は大祖国戦争(独ソ戦)の一部である。Second Soviet-Finnish War第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争Советско-финская война (1941—1944) とも呼ばれるFinnish Front of the Great Patriotic War

②Русскийロシア語⇒Советско-финская война 1941—1944 годов, советско-финский фронт Великой Отечественной войны (в русскоязычных источниках), «война-продолжение» (фин. jatkosota, в финской историографии) — война между Финляндией и нацистской Германией с одной стороны и СССР с другой стороны в рамках Второй мировой войны, проходившая с 1941 по 1944 годы.

③Suomiフィンランド語→Jatkosota käytiin Suomen ja Neuvostoliiton välillä 25. kesäkuuta 1941 – 19. syyskuuta 1944 Neuvostoliiton Suomen pommituksista Moskovan välirauhaan. Tulitauko oli määrätty alkaneeksi 4. syyskuuta, mutta neuvostoliittolaiset joukot lakkasivat ammunnan paikoittain vasta 5. syyskuuta 1944.

The Ryti–Ribbentrop letter of agreementリュティ=リッベントロップ協定(Finnish: Ryti–Ribbentrop-sopimus, Swedish: Ryti–Ribbentroppavtalet) of 26 June 1944 was a personal letter from President Risto Ryti of Finland to German Führer Adolf HitlerÄyräpään–Vuosalmen taistelutヴオサルミの戦いБои за Вуосалмиは、継続戦争でフィンランドとソビエト連邦の間で行われた戦闘の一つ。おおよそ1944年7月4日から7月17日に行われた。アイラパー・ヴオサルミの戦いとしても知られるBattle of Vuosalmi③ヴィープリ湾上陸作戦Battle of Vyborg Bay (1944) (フィンランド語: Viipurinlahden taistelu) は継続戦争の戦闘Десант на острова Выборгского залива④Ilomantsin taisteluイロマンツィの戦いСражение при Иломантсиは継続戦争の戦いの一つ。1944年7月26日から8月13日にかけてフィンランド軍とソビエト連邦軍がソフィン国境のフィンランド 北カルヤラ(北カレリア)イロマンツィ村近郊の40km×30kmの範囲で行った戦闘。戦闘はフィンランドの勝利で終わり、これは継続戦争最後の大規模戦闘になったBattle of Ilomantsi⑤モッティ戦術Motti(もってぃせんじゅつ)Тактика «Мотти»とは、第一次ソフィン戦争(冬戦争)時に圧倒的戦力を持った重装備のソ連軍(赤軍)に対して、フィンランド軍が行った包囲(モッティ)・撃滅作戦のことである。
ソ連軍は継続的な攻撃を仕掛けたが、本格的な突破行動は行われなかった。彼らはレニングラード北方、フィンランド戦線の後始末の準備をしていた。ここ二年の間、フィンランド軍は一切の攻撃を行わなかったし、ソ連軍も放置しており、いわば忘れられた戦線であった。しかし今やこの国を戦争から除去すべき時であった。
1944年6月9日、カレリア地峡のフィンランド軍への大攻勢が始まり、フィンランド軍は不意をつかれた。ソ連軍はもはやかつてのソ連軍ではなかった。フィンランド軍は防戦に努めたが、戦線は突破された。フィンランド第二の都市ヴィープリは21日に陥落してしまった。ソ連軍は東カレリアでも攻撃を開始し、ソ連領土からフィンランド軍を駆逐した。フィンランドは戦争から脱落した。

*リスト・ヘイッキ・リュティ(フィンランド語: Risto Heikki Ryti、 1889年2月3日 - 1956年10月25日)Ри́сто Хе́йкки Рю́тиは、20世紀のフィンランドの政治家、弁護士、銀行家。フィンランド銀行総裁を務めるなど戦間期のフィンランドで要職を務め、1939年の冬戦争が勃発した翌日に首相、1940年12月にフィンランド第5代大統領に就任、継続戦争末期まで戦時政府を率いた。

*モスクワ休戦協定(モスクワきゅうせんきょうていMoscow Armistice、露: Московское перемирие、芬: Moskovan välirauha)は、1944年9月19日にフィンランド側とソビエト連邦、イギリス側によって署名された協定であり、これによって事実上継続戦争は終結した。

*ラップランド戦争(ラップランドせんそうЛапландская война、フィンランド語: Lapin sota、スウェーデン語: Lapplandskriget、ドイツ語: Lapplandkrieg)は、1944年9月から1945年4月にかけて、フィンランドとナチス・ドイツとの間で、主にフィンランド北中部のラップランドLappi(伝統的にSápmiサーミ人Saamelaiset(先住民族)が住んでいる地域を指す)で行われた戦争。1944年9月19日に、フィンランドはソ連とモスクワ休戦協定を結んで、ソ連との継続戦争を終了させたが、この休戦協定には、フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して抑留することを要求した条項があった。当初は、平和的であったラップランドのドイツ軍の撤退は、10月になり、トルニオで本格的なフィンランド軍とドイツ軍の戦闘が発生すると、以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を行いながら、ラップランドからノルウェー北部へ撤退した。この為、ラップランドの多くの街は灰燼に帰した。最後のドイツ軍兵士がフィンランド領を去ったのは、1945年4月である。

*ヘルシンキ (フィンランド語: Helsinki,スウェーデン語: Helsingfors「赫爾辛基」)は、フィンランドの首都で同国最大の都市である。また、バルト海東部のフィンランド湾に面した同国南部のウーシマー県の県庁所在地である。人口は616,042人(2013年2月28日現在)、都市的地域の人口は 1,176,976人(2012年12月31日現在)、ヘルシンキ都市圏であるHelsingin seutu大ヘルシンキGreater HelsinkiHelsingforsregionenの人口は約140万人でフィンランドではもっとも人口の多い自治体と都市域を形成している。

①モスクワ防衛軍の歌(Le Chant des défenseurs de Moscou、ロシア語: Марш защитников Москвы)は、ソビエト連邦で作詞作曲された、赤軍の軍歌である。作詞はアレクセイ・シュルコフАлексе́й Алекса́ндрович Сурко́в、作曲はボリス・モクロウソフБорис Андреевич Мокроусовが担当した

②「モスクワ郊外の夕べ」(ロシア語: Подмосковные вечера、英文題名:Moscow Nights)は、ロシアの歌曲である。ヴァシリー・パヴロヴィッチ・ソロヴィヨフ=セドイ(Василий Павлович Соловьёв-Седой、1907年 - 1979年)が、1955年に作曲した曲。ミハイル・リヴォヴィッチ・マトゥソフスキー(Михаил Львович Матусовский、1915年 - 1990年)による歌詞がつけられている③モスクワ(ロシア語: МоскваマスクヴァMoskauMoscouは、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独で連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるМосковская область/Подмосковьеモスクワ州Moscow Oblast/Podmoskovyeの州都でもある。
【ソ連戦車軍団】機械化軍団の縮小と失敗
*機械化歩兵Infanterie mécanisée(きかいかほへいМеханизированные войска、独: Panzergrenadier、装甲擲弾兵の意、英: Mechanized infantry)Механізовані військаは、軍における兵科の一つ。
ソ連軍は世界各地で起こった小規模な戦闘で実戦経験を積んでいった。それらには1930年代後半の数度にわたる極東での日本軍との戦いСоветско-японские пограничные конфликтыSoviet–Japanese border conflictsГражданская война в Испанииスペイン内戦Guerra Civil Españolaへの義勇軍の派遣などがあった。しかしこうした貴重な経験の一方で、赤軍内部はスターリンの粛清によって有能な人材が失われ、戦訓もきちんと評価されるか疑わしい状態だった。
こういう時期に起こったのがドイツ軍によるポーランド侵攻であったKampania wrześniowa(1939)。それは電撃戦の伝統を作るほど見事なものであった。その一方で、独ソ不可侵条約を結んでいたソ連軍は、この攻勢に呼応して東側からポーランドに侵入した。ポーランド軍はほとんど粉砕されており、抵抗は無いに等しかった。それにもかかわらずソ連軍は、機械化作戦への不慣れを露呈し、ポーランド東半分の占領にかなりのもたつきを見せたのであるПольский поход Красной армии (1939)
1939年11月、この戦訓に基づいて、ソ連機械化部隊の改編が行われた。しかしこれは実は間違った形で戦訓を引き出すものとなっていた。すなわち戦車軍団は、非効率で不満足な代物として廃止されてしまったのである。大きな原因は、このような大規模部隊への補給の困難さであった。それはまさにポーランド戦で起こったことであった。しかしこれは戦車軍団の責任ではなく、能力不足の補給部隊、あるいは十分な補給部隊を用意しなかった参謀本部が悪いのである。
こうした理由で、戦車軍団は廃止された。代わりに機械化師団が編成された。機械化師団では戦車隊の規模は戦車軍団当時の半分で、全部で275両の戦車保有数となっていた。この数自体はそれほど少ないわけではないが、問題なのはこれらがなんと馬曳き装備の部隊と一緒に、機動戦闘を行うことになった点である。これが戦車部隊の機動力という、最大の利点を失わせる馬鹿げた決定であることは明らかであった。
独立戦車旅団にしても同じ運命が待っていた。彼らは狙撃兵師団や騎兵師団の支援のために、それら部隊により密接に結び付けられることになった。またこれ自体は悪いことではないが、狙撃兵師団の戦車部隊の規模が、大隊規模から旅団規模に拡大することが計画された。こうして戦車部隊の運用では先進国であったはずのソ連は、戦車部隊を歩兵の直脇兵器とする古い思想に突然逆戻りしてしまったのである。
この発想が間違っていたことはすぐ証明された。改編が決定された直後に発動されたフィンランド侵略でソ連軍部隊は、惨めな敗北をするのだ。これは編制ないし運用がすべての原因というわけではない。しかし現実問題として、狙撃兵師団に分散された戦車旅団は、戦車最大の利点である衝撃力を発揮することはできず、個々に撃破されてしまった。


T-34/T-34-85(Т-34советский средний танк периода Великой Отечественной войны テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車、主力戦車KV-1(ロシア語: КВ-1、カーヴェー・アヂーン)は、第二次世界大戦期のソ連軍の重戦車(45トン級)である。当時のソ連国防相であるクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠したもので、略称はКВ。英語ではKV、ドイツ語ではKWと表記されるKV-2(ロシア語: КВ-2:カーヴェー ドヴァー)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦で開発された重戦車である。152mm榴弾砲D-10Tを搭載した回転砲塔を装備するその巨体ゆえに、ドイツ兵からはギガントGigant(巨人)Гигантと呼ばれた。
機械化軍団の再編
1940年6月、機械化軍団の再編が決定された。8月に最初の九個機械化軍団の編制が開始された。そしてさらに41年までに21個師団が編成されることになった。1940年型の機械化軍団は、ドイツ軍の自動車化軍団、後の機甲軍断を参考に創設されたものであった。このため、一般的にソ連軍の部隊編制は、同種の西側部隊より小さいものだが、これに限っては西側の基準でいう軍団に近い規模になっていた。

軍団に含まれる部隊は、軍団司令部、参謀部と、戦車師団二個、自動車化狙撃兵師団一個、そして軍団直轄のオートバイ連隊、自動車化通信大隊、自動車化工兵大隊、軍団管理支援部隊などであった。軍団内の戦車師団の編制は、二個戦車連隊、一個自動車化狙撃兵連隊、一個砲兵連隊、偵察大隊、通信大隊、工兵大隊、対空大隊、MP(憲兵)中隊からなる。
一方自動車化狙撃兵師団の編成は、二個自動車化狙撃兵連隊、一個戦車連隊、一個砲兵連隊、偵察大隊、工兵大隊、対空大隊、対戦車大隊からなる。戦車師団の装備定数は、戦車375両、砲60門、人員1万1343人となっており、戦車は210両がT34中戦車、63両がKV重戦車、102両がT26軽戦車またはBT快速戦車とされていた。自動車化狙撃兵師団については、275両の軽戦車が配属されていることになっていた。これらも合わせた機械化軍団の総兵力は、戦車1031両、砲358門、装甲車268両、車両5000両、牽引車350両、オートバイ1700台、人員3万7000人であった。
しかし、いかに巨大な工業力と資源、人口を誇るソ連と言えども、簡単にこのような大部隊の編制を行うことはできなかった。このため再編に着手したものの、ほとんどの部隊は装備不足の状態のままであった。ソ連軍には2万4000両もの戦車があったが、それでも30個の機械化軍団の必要を満たすには、はるかに及ばなかった。そして新型戦車の配備は、まだ始まったばかりであった。

J. V. Stalin(ヨシフ・ヴ・スターリン)Speech at Celebration Meeting of the Moscow Soviet of Working People’s Deputies(モスクワ・ソビエト労働者人民代表大会での演説)and Moscow Party and Public Organizations November 6, 1944(1944年11月6日、モスクワ党及び諸公的機関)
I. Germany in the Vice Between the Two Fronts(二つの戦線の間におけるドイツの悪徳(堕落行為)非行)
The decisive successes of the Red Army this year(今年度における赤軍の決定的な成功)and(及び) the expulsion of the Germans from Soviet territory were predetermined by the succession of shattering blows which our troops dealt the German forces(われわれの部隊によるソ連領からのドイツ軍駆逐は、粉々になる強打の連続によって事前に決定された), beginning as far back as last January((それらは)昨年の1月からはじまった)and(そして) continuing throughout the year under review(当年度を通じて、継続中である).The first blow was struck by our troops in January this year at Leningrad and Novgorod(最初の一撃はわれわれの軍によって今年の1月に、レニングラードとノヴゴロドにおいて打たれた), when the Red Army broke up the permanent German defences(赤軍が恒久的なドイツの諸防衛線を壊したとき)and flung the enemy back to the Baltic(敵をバルト海へ追い返した). This blow resulted in the liberation of the Leningrad Region((さらに)この痛打によりレニングラード地域が解放された).The second blow was struck in February and March this year on the River Bug, when the Red Army routed the German forces and flung them beyond the Dniester(第二撃は2月と3月にブーグ川において、赤軍がドイツ軍を敗走させドニエストルへ追い落としたときに放たれた) As a result of this blow the Ukraine west of the Dnieper was freed of the German-fascist invaders(この攻勢の結果、ドニエプルの西部ウクライナはドイツ・ファシストの侵略者から解放された).The third blow was struck in April and May this year in the area of the Crimea, when the German troops were flung into the Black Sea(第三撃は今年の4月と5月にクリミア地域にて、ドイツ軍が黒海へ投げ込まれたときに放たれた). As a result of this blow the Crimea and Odessa were delivered from German oppression(この攻勢の結果、クリミアとオデッサはドイツの圧制から救出された).The fourth blow was struck in June this year in the area of Karelia, when the Red Army routed the Finnish forces, liberated Vyborg and Petrozavodsk, and flung the Finns back into the interior of Finland(第四撃は今年の6月、カレリア地方において赤軍がフィンランド軍を壊滅させ、ヴィボルグ及びペトロザボーツクを解放し、フィンランド人たちを国内に追い払ったときに打たれた). This blow resulted in the liberation of the greater part of the Karelo-Finnish Soviet Republic(この攻勢により、大部分のカレロ=フィン・ソビエト共和国は解放された)


*カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(The Karelo-Finnish Soviet Socialist Republic、フィンランド語: Karjalais-suomalainen sosialistinen neuvostotasavalta、露:Карело-Финская Советская Социалистическая Республика)、略称でカレロ=フィン共和国(カレロ=フィンきょうわこく)は、1940年から1956年まで存在した、ソビエト社会主義共和国連邦の構成共和国の一つ。1956年ロシア共和国に編入され、カレリア自治共和国に降格した。

①サッキヤルヴェン・ポルッカ(フィンランド語: Säkkijärven polkka)Полька Сяккиярвиは、フィンランドの民謡。フィンランド国内では非常に有名な民謡の一つである。元々はフィンランド・カレリア地方で演奏されていた曲であり、ヴィルヨ・ヴェステリネンViljo "Vili" Vesterinenによって大衆化されたものが現在知られているサッキヤルヴェン・ポルッカである。サッキヤルヴェン・ポルッカは「サッキヤルヴィのポルカ」という意味である。サッキヤルヴィSäkkijärviはかつてフィンランドに属した都市であるが、第二次世界大戦Toinen maailmansota中の継続戦争においてソヴィエト連邦に占領され、現在はロシア連邦レニングラード州コンドラチエヴォとなっている
②コンドラチェヴォ(ロシア語:КондратьевоKontdratjevoは、ロシア連邦レニングラードЛенинградскаяобластьヴィボルグ地区Выборгский районに属する自治体である。

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