日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『My Showa history私の昭和史Mon historique Showa』Сюити Като加藤周一Shūichi Katō編edit(1988) 岩波新書Iwanami Shinsho【쇼와 시대昭和時代Сёва】(2024/03/31)CANADA🍁⑤


*Españolスペイン語→Un militar taiwanés del Japón Imperial (en chino:台籍日本兵; en japonés:台湾人日本兵)Taiwanese Imperial Japan ServicemanВоеннослужащий Тайваньской императорской Японии es cualquier persona taiwanesa que sirviera en el Ejército o la Armada Imperial Japonesa durante la Segunda Guerra Mundial, ya sea como soldado, marinero u otro no-combatiente capacitado.「台灣人日本兵」、「台灣人原日本兵」、「原台灣人日本兵」「台灣特別志願兵」的稱呼「台灣特別志願兵」的稱呼。
 ところが、二高の最後の半年は軍需工場で大砲の火薬を造らされた。自分の手で造ったこの火薬が同胞の殺傷に使われるとは!私は板ばさみになった。そんな工場にはどうしても行きたくない。が、強大な国家権力に公然と反抗すると牢獄にぶちこまれる。私にはその勇気はなかった。考えてみれば、こんな憂き目に会ったのも自業自得と言わざるをえない。日本人として振舞って得になる時は日本人となり、損をする時は日本人とならないーこれが今になってたたっているのだ。
 挙句の果てに、私は入院という手段を使うことにした。一ヵ月でも二ヵ月でもいい。こんな仕事から手を引こうと。前々から鼻カタルにかかっていたので、この際にと手術を受けた。「正当」な理由だったので、二か月あまりの休暇をくれた。それで、私が造った火薬は他人より二か月分少ないということだ。しかし、手術後はどうしても工場にもどらねばならなかった。
 昭和19年、B29が中国大陸の基地から九州を空爆し始めた。このニュースを耳にしたあの晩は眠れなかった。私は軍需工場の片すみでクラスメートの台湾人葉山君とひそかに語り合った。二人ともとても興奮していて、もう日本はこれで終わりだと、杯を挙げて祝いたいほどであった。

 初恋と終戦
 それでありながらも、私はいつものように表向きは日本人として振舞っていた。昭和20年4月、東北帝大医学部に入って間もなく、私は仙台のある有名なお寺に下宿させてもらった。勉強の傍ら、私はお寺のさまざまな行事の手伝いに精を出した。方丈Abbot (Buddhism)様はこの「日本」青年の私を心から愛してくださった。しばらくして、私は方丈様のお嬢さんと仲良しになったが、彼女も私を台湾人とは知らなかった。戦後にやっと『私は中国人ですよ』と打ち明けた時、彼女はいささかも驚きの色を示さなかった。「いいえ、そんなこと・・・。ただ、あなたとなら・・・」と、とまどうことなく答えてくれたのだ。
 医学の勉強は全く面白くなかった。私は講義をさぼっては図書館に行って、社会科学、特に中国関係の本をあさって読んでいた。
 8月15日の終戦で、台湾は中国に返還され、台湾籍である私は一躍戦勝国の国民となった。カメレオン式の変色である。私の昭和史はここで終ったといえようか。「大和魂を太平洋にぶち込んで中国に帰ろうLet's throw the Yamato spirit into the Pacific Ocean and return to China.」ー当時の台湾学生は皆こんな思いであった。「医学なんか止めてしまえ。帰国したら、一番いい北京大学に入って、マルクスの言うが如く、経済学を勉強しなくては現代社会は理解しかねる」と私は考えた。
 昭和21年の春、私は台湾経由で北京に向かった。横須賀港外の甲板から、夕やみに沈み行く日本列島を遠くに見やって、私は感慨にふけった。もう一日と名残惜しさに、私は一人で甲板に立ち続けていた。20年以上も全体主義に荒らされたこの国ではあるが、人は皆いい人だ。何といっても、ここは私の青春をはぐくんでくれた国だ、そして日本人の身振りで過ごした国だ。愛情は政治にはためにならぬというむごい考えで、私は初恋の人をここに残して、今や永別しようとしている。祖国中国への希望にあふれていた私ではあるが、やはり日本を去るのは悲しかった。

*北京市Пекин,通称北京베이징시(汉语拼音:Běijīng;邮政式拼音:PekingПекін,简称“京”,曾称“北平”。是中华人民共和国的首都及直辖市,是中国的政治、文化、科技、教育、军事和国际交往中心,是一座全球城市,是世界人口第三多的城市和人口最多的首都,具有重要的国际影响力。北京位于华北平原的西北边缘,背靠燕山,永定河流经老城西南,毗邻天津市、河北省,为京津冀城市群的重要组成部分。
 北京での生活
 その後、北京での四十幾歳はもちろん昭和史ではない。が、それは私は文頭で「滞在」の昭和史と称した。というのは、若き日の昭和史はその後の私に大きな影響をもたらしたからである。
 顧みるに、私の昭和史は惨めな二十年であった。日中両国の数十年の歴史で最も痛ましい時期に、私はその青春を迎えた。この時代は、他人の家に侵入して窃盗するどころではなく、「現人神」の「御名」によって「聖戦」と名宣っては蛮刀を振るって闖入し、数千万もの衆生を殺戮した時代であった。それ故帰国の際に、私は堅く誓った。こんな昭和史はもう御免こうむる、天皇制の前近代的な体制には断乎として反旗を翻すのみ、そして人びとが明るく生きていける社会を作らなければならない、と。私が帰国して間もなく、国民党独裁反対の学生運動にくみしたゆえんも、そして搾取のない社会を理想とするマルクス主義に傾倒したゆえんも、ここにあったのだ。
 若き日の昭和史は民族問題をめぐって展開された。「潜在」の昭和史にも同じことがいえそうだ。終戦後、私は「中国人意識」たっぷりのつもりで帰国した。ところが、祖国の人たちと接触して愕然とした。父や兄弟が殺され、母や姉妹が犯された祖国の人びとは、「日本」という一言を耳にすると、すぐ「鬼」だと直感する。北京人は「日の丸」を目にすると、抑えきれぬ思惑で身震いする。しかるに、私は違う。これは大きなショックであった。中国の一知識人として同胞に奉仕したいのなら、民族意識をもっと高めなくてはと、私はこの時に悟った。しかし、これは決して民族の恨みをあおり立てるという意味ではない。「一握りの日本帝国主義者と日本国民を混同すべからずA handful of Japanese imperialists should not be confused with the Japanese people.」とは正しい言い方である。この言い方を被害者の中国民衆が受け入れるのは、決してたやすいことではない。が、それでも受け入れてもらいたい。なぜならば、諸民族の友好はこの命題に沿ってこそ、始めて実現されうるからだ。
①Italianoイタリア語→Il Giappone; in giapponese 日本일본Japan, Nippon, 日本国일본국Япония, Nihon-koku) è uno Stato insulare dell'Asia orientale②Deutschドイツ語→Die Flagge von Japan (jap. 日章旗일본의 국기flag of the sun Nisshōki ‚Sonnenwappenflagge‘ bzw. 日の丸히노마루Ball of the sunхиномару Hi no Maru‚ dt. etwa „Sonnenrund“, „Sonnenkreis“)Флаг Японии zeigt auf weißem Grund einen genau mittig angeordneten großen zinnoberroten Kreis als Sonnensymbol③東洋鬼Oriental demon(devil)东洋鬼término de abuso para los japoneses · demonio extranjero en tiempos de guerra④日本鬼子Japanese demon(devil)是中文对日本军人的蔑称르번구이쯔(중국어: 日本鬼子, 병음: rìběn guǐzi)는 중화권 국가에서 일본인을 비하의 의미로 부르는 중국어 욕설이다

*昭和天皇(日语:昭和天皇Император Сёва/しょうわてんのう쇼와 천황〔せうわてんわう〕 Shōwa Tennō;1901年4月29日—1989年1月7日)是日本第124代天皇(1926年-1989年在位),大日本帝国第3代大元帅(1926年-1945年在任),名裕仁(裕仁히로히토/ひろひと HirohitoХирохито,为日本第125代天皇明仁的父亲。
 北京から見た日本
 ところが中国大衆のみならず、私の如きものにも理解に苦しむことがあるHowever, not only the Chinese public, but also people like me sometimes find it difficult to understand. たとえば天皇は、毎年日本の戦没者を弔うFor example, the Emperor mourns for Japan's war dead every year. が、なぜ害を与えた他国の戦没者をも弔わないのか。ドイツの国家首脳はそうではないWhy doesn't he also mourn the war dead of other countries who caused harm? Germany's leaders are not like that. このようなテーマで、北京を訪れる日本の友人と議論を交わされることはまれである。してみると、私の昭和史はまだ続いているのである。
 顧みれば、私の北京での四十数年は国内政治闘争の嵐の歳月であった。それでも私は、日本のその日その日の動きに絶大なる関心を払って来た。あたかも私が日本にいた時に中国に対して無限の関心を抱いていたが如くに、これは理からしても情からしても当然至極なことなのだ。中国は私の祖国であり、日本は私の第二のふるさとであるからだ。
 この四十数年来、私は祖国の前途を憂えて不眠の夜を明かすこと屡次なりしが、日本の成り行きに対しても一刻も目をそらしたことはなかった。なぜならば、日中修好の成敗はこの二つの国の将来のみならず、アジア、いな全世界の将来を左右する問題であるからだ。この信念に基づいて、私は一介の中国人として日本国民と心を許し合った。幅広い変わりを進めようとして来た。「君は民間外交官だよ」と、これは二高級友中島氏の「賛辞」である。ありがたいことを言ってくれると感謝している。「外交官」となれとおやじに言われていたが、「民間」の二字が付け加えられて、かえってうれしい。

 絶え間なく北京を訪れる日本の文化人、政治家、同窓生、民間人、企業家など、あらゆるタイプの人たちと、私は時間を惜しまず接触している。折を見ては私も渡日する。友好の花が咲くたびに、私と友人とは喜びに杯をあげる。教科書問題や南京大虐殺有無の問題などが暴走すると、日本の友人と私は憂いに沈んで、深夜まで討論し合う。北京でのこの四十数年は、私にとっては、「中華人民共和国史」と同時に「潜在」の昭和史なのである。

 私のテーブルには航空便で送られて来る日本の新聞雑誌が山のように積み重ねてある。北京にいる私は、今日東京で起きたことを遅くともその夜には電波でキャッチする。雑務で忙殺されているその日その日ではあるが、日本との文通に毎日少なくとも一、二時間をさいている。その償いは必ずあると私は信じているからである。日本への年賀状は数百枚、そして年々増えていくばかりである。二高の先輩佐藤信先生を理事長とする尚志学園の顧問として、私は中国留学生派遣の仕事にも長年携わっている。私の昭和史はとぎれるどころか、ますます展開されて行くようである。

 恩師と親友
 日本の恩師の面影は四、五十年後の今になっても忘れられない。浄土真宗Jōdo Shinshū(The True Essence of the Pure Land Teaching)に深く帰依された根っからのリベラリスト二高の阿刀田校長先生、終戦後行方も知らぬ私の二高の卒業証書を35年もの長きにわたって保管してくださったドイツ語の教授平野先生、『万葉集Man'yōshū(Collection of Ten Thousand Leaves)』を教えてくださった二高の扇畑先生、漢文の手ほどきをしてくださった大連三中の井上先生、中朝国境で戦病死された大連日本橋小学校の花田先生ー恩師の恵みはとこしえである。
 日本の津々浦々にはまたわが友垣が健闘中である。中学校・高校・帝大のクラスメートはもとより、幼稚園・小学校の竹馬の友ともつながりがついている。この世に無にの親友と称すべきものは稀有であろうが、45年前授業中に私の後ろの机でよく居眠りしていた二高の秀才中島君、今の中島病院長が正にそれである。無数の文通が交わされ、毎週十ページにもあまる手紙で二高時代と同じように天下の大勢を論じている。そしてまた驚くなかれ、国際電話で二高の寮歌を歌い合ったこともあったのだ。「東京に留学中のお子さんは小生が親代りに教育するから安心してくれ」とまで言ってくれている。
 日本の親友たちとの交わりは、この「潜在」の昭和史の美しい楽章である。

*Portuguêsポルトガル語→Taipé ou também Taipei (literalmente "Norte de Taiwan"), oficialmente conhecida como a Cidade de Taipé (chinês: 臺北市타이베이시 ou 台北市Тайбэй, pinyin: Táiběi Shì; ou Taibei em pinyin), é a capital e um município especial de Taiwan. Situada no extremo norte da ilha Formosa, a cidade é um enclave do município de Nova Taipé.
                   闇に消える同昭和史         宇敷民夫    
                    うしきたみお 1924年生 栃木県宇都宮市 専修学校教員
 滝野川の小学校から台湾へ
 私は大正もあと二年で終る時に生れたから、ちょうど昭和初期からの記憶が残っている。最初に人から教えられた歌が「春が来た春だ春だ、緑の夜明けだ、昭和だ昭和だ、我等が時代だ」という文句である。どうも即位大典奉祝歌ではないかと思うのだが、近所の小学一年ぐらいの女の子が学校で教わって来たものらしかった。昭和六年春に神戸の小学校に入学したが、わずか一学期で父の転勤のため東京に移り、滝野区立の小学校に転校した。これが非常に良い雰囲気の学校で担任の先生もとても優しく、愉しい夢のような毎日を過した。ただ周囲には賢い友だちが多く、いろんな難しいことをよく知っているので、時々劣等感を抱いたものである。私には世間知らずというものがあまりにも身に備わっていなかったようであった。その賢い友だちが話す内容は、肉弾三勇士、荒木大尉、”日本人は此処に在り!Japanese people are here!”等々、勇壮なものが多かった。そういった輝かしい内容の話題を駆使することがうらやましく、内容にも憧れを持ったのである。父の勤務先は台湾銀行だったので、昭和八年春には台北本店に転勤になり、私は二年足らずで馴れた小学校に別れを告げ、三年生は台北市立の小学校でスタートした。

*爆弹三勇士(東京日日新聞用语;朝日新聞称为肉彈三勇士)指大日本帝国陸軍独立工兵第18大隊(久留米)的3名一等兵江下武二、北川丞、作江伊之助。

*Katsunari Araki (October 20, 1907 - December 3, 1932) was a soldier in the Japanese Army陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。
 台湾航路の四日の旅は扶桑丸という大阪商船の大きな船内の生活だったが、毎日が非常に心細かった。その時分の『幼年倶楽部』や『日本少年』などの子供雑誌には、なぜか海賊の話や幽霊船の物語や国際的な人さらいの少年小説が多かったので、もしも海賊に襲われたらどうしようかと真剣に悩んだのである。もう一つの心配は、二年程前に霧社事件があって日本人多数が皆殺しに遭ったことも友だちの話でうすうす知っていたので、台湾に着いて表を歩いていて、いきなり殺されたどうしようかと恐ろしくてならなかった。基隆に入港した時にはなんだか淋しい所だなと思ったが、台北市に住み始めて数日後に、城内と称する中心街に連れて行かれて驚いた。大廈高楼が軒を連ねているではないか。東京にもなかった見上げるような高い塔が中央に聳える赤煉瓦の建物が群を抜いている。これが総督府で中には台湾でいちばんえらい人が居るんだと聞かされて改めてびっくりした。圧倒される思いで家に戻る途中のバスの窓から周囲を見ると、街の中の台湾人はおそろしく粗末な服装で、ほとんどがハダシで歩いているではないか。子供心には社会の矛盾など難かしいことは分らないまでも、さっき見た総督府の壮大さとの間の断絶はなんとなく感じとった。そして日常生活の中で、内地人(いやな言葉だ)の子供は台湾人の子供を馬鹿にし、いじめるのを楽しみにしているように見えた。
①『幼年倶楽部(Childhood Club)Yônen Kurabu』(昭和1(1926)年1月創刊号)大日本雄弁会Dainippon Oral Society(講談社の前身predecessor of Kodansha)②Deutschドイツ語→Shōnen Club (japanisch 少年倶楽部, Shōnen Kurabu, dt. „Jungsclub“) war ein japanisches Manga-Magazin, das sich an ein männliches jugendliches Publikum richtete und daher zur Shōnen-Kategorie gezählt wird. Es erschien ab 1914 monatlich bei Kōdansha und enthielt eine Mischung aus meist humorvollen und Abenteuer-Mangas, Fotoserien, bebilderten Artikeln und Fortsetzungsromanen③Françaisフランス語→« Nihon Shonen » (日本少年) est un magazine mensuel pour garçons publié pour la première fois en 1906 (Meiji 39) par Jitsugyo no Nihon Sha et publié environ 420 volumes jusqu'en 1938 (Showa 13).

①우서 사건(중국어: 霧社事件Musha Incident 우서스젠[*], 일본어: むしゃ じけん/霧社事件 무샤지켄[*])은 1930년 일본 제국의 대만 통치 시대(대만일치시기)에 대만 원주민이 일으킨 최대 규모의 봉기이다.

②Españolスペイン語→Keelung (基隆市지룽시, Jīlóng Shì, Jilóng Shìh, Chi-lung-shih o Ke-lâng-chhī)Цзилун es una ciudad situada al norte de Taiwán.

 台湾の小学校で
 台北市の小学校三年生の一学期が始まったとたんに、物凄いスパルタ教育に驚かされた。先生はまるで地獄の獄卒だ。つい先日までは東京の天国のような学校にいたのに、一夜明ければまるで地獄の亡者の境遇である。そのうえ家から学校までは子供の足には遠すぎて、しかも亜熱帯の太陽は道にはほとんど蔭を作らず、往復には頭上から仮借なく灼熱の光を注ぎかけ、これが辛くて子供心に死んでしまいたいとさえ思った程である。うまくしたもので、翌年からは大して辛くなくなった。人間の環境順応性はえらいものだ。一クラス五十人の中に台湾人の子が四人いたが、全然いじめがなかったことは立派だったと今にして思う。この学校では生徒が台湾語を口にすることは、台湾人生徒はもとより、内地人生徒が真似してカタコトをしゃべることさえ厳しく禁じられていた。そのくせ先生が生徒を罵って、「このゴンゴン(愚か者の意)」と言うのは構わない(らしい)のである。不思議な学校だった。私が悪い生徒だったからにせよ、どうしても好きになれない学校だった。
 ここも一年と一学期だけで、翌秋には父は東海岸の田舎町台東街の台東支店長になり、私はこの町の小学校の四年生に編入され、卒業まで二年半在籍した。この町では蕃刀を腰に下げた高砂族が裸に近い服装でハダシで歩いていて、ちょっと恐ろしかった。しかし内台人の差別も目立たない良い気風の土地だった。ただ欠点はミリタリズムMilitarismの固まりのような町で、小学校で重い模擬銃をかついで軍事教練をやらされたのには驚いた。それに体操の先生が予備役少尉で、何かある度に軍服姿で出て来てはやたらに気合を入れるのには閉口した。

①台東街為台灣日治時期1920年至1945年間存在之行政區,曾轄屬台東廳台東支廳和台東郡。臺東街在1920年成立時的範圍包含今台東縣台東市中北部、及卑南鄉在卑南溪以東的地區;在1944年合併卑南庄後,其範圍包含今台東市全域、卑南鄉東半部與太麻里鄉美和村②Taitung City (Chinese: 臺東市타이둥시; pinyin: Táidōng Shì; Pe̍h-ōe-jī: Tâi-tang-chhī)Тайдун is a county-administered city and the county seat of Taitung County, Taiwan.
 官吏の横暴
 またこの町には、威張ることで有名な視学官Inspectorがいた。一体に台湾の官吏が横柄、横暴、横着なことで日本全国に鳴り響いていたのは、昔の中国の蛮族統治の原則「衣冠束帯に威儀を正し高飛車に出よCorrect your dignity in your robes, robes, and robes and act high-handed.」を忠実に守っているうちにしみついた体質だからとされる。また一説によると、第三代台湾総督の乃木大将(当時中将)が各地視察の際、持ち前の質実さを表に出したのが裏目に出て、日本はよほど貧乏な国らしいと陰口をきかれたので急遽更迭され、以後はハッタリ政治に切り替えられたとも言われる。事実、乃木さんはわずか一年四か月の在職だったが、これは部下の人事に対する政府のやり方に不満で、辞表を叩きつけたというのが真相らしい。ドサクサ時代にはいろいろ風説が飛び交うもので、戦病死した北白川宮能久親王についてさえ暗殺説があるくらいで、迂闊には信じられない。経歴はともかくとして、台湾の官吏は官服と称する制服を着用して、短剣を腰に下げていた。これが学習院の制服だか海軍士官のそれにそっくりである。ふだんは短剣だが儀式の時は長剣となり、肩には金モールの肩章をつけて蛮族統治に向いた物々しい姿になる。威張り屋の視学がこのいでたちで胸を張り、肩で風を切って歩くと、威風あたりを払った。ある時近くの公学校(台湾人子弟専用の小学校Elementary school exclusively for Taiwanese children)の脇を歩いていたら、この視学が生徒を笞で叩きのめしているbeating away with a whipところを見て怖ろしくなった。リンカーン以前の黒人奴隷に対する仕打ちであるThis was the treatment of black slaves before Lincoln. この人は町中の人に怖れられていた。だが官吏の特徴で、上の人などにはうけがよかったらしい。野上弥生子さん(だったか?)の訪台日記の中に、親切な役人として略称で顔を出している。ここまでの子供時代を総括した印象は、”内地人の台湾人いじめ””官吏の横柄””教育関係者の野蛮”ということになる。

①Deutschドイツ語→Nogi Maresuke (jap. 乃木 希典노기 마레스케; * 25. Dezember 1849 in Edo; † 13. September 1912 in Tokio)Ноги Марэсукэ war General der Kaiserlich Japanischen Armee出生於日本長府藩藩士家庭,从师玉木文之进。為大日本帝國陸軍大將,官階正二位、大勳位、功一級、伯爵,1896至1898年任台灣日治時期第3任總督。

②Русскийロシア語→Ёсихиса, принц Китасиракава (яп. 北白川宮能久親王기타시라카와노미야 요시히사 친왕1 апреля 1847 — 5 ноября 1895) Prince Kitashirakawa Yoshihisa— японский принц и военный деятель, 2-й глава дома Китасиракава-но-мия (1872—1895). Служил в японской императорской армии с 1887 по 1896 год, имел звание генерал-лейтенанта. Участвовал в Первой японо-китайской войне и японском завоевании Тайваня.

③Españolスペイン語→Yaeko Nogami野上 弥生子(6 de mayo de 1885 – 30 de marzo de 1985)野上彌生子Яэко Ногами fue una escritora y activista japonesa. Su nombre de nacimiento fue Kotegawa Yae出生於大分県臼杵市的小手川家,父親為FUNDOKIN醬油的創始人。
 野蛮な教育
 台東小学校を卒業する時、父は屏東支店長に転じ、私は高雄中学校に入って屏東市から汽車通学をすることになった。この学校は日本帝国の最南端の中学校だった。ここに四年間お世話になったのだから悪口を言っては申しわけないが、軍国主義と皇道主義に凝り固まっていた。だから陸士か海兵に進むのが最高という認識だったようだ。配属将校も武道や体操などの教師も、野蛮極まりない教育を施してくれた。しかしそれ以外の教師はまともに教えてくれた。入学して間もなく日中戦争が始まると、ある日配属将校が生徒を前にして声を張り上げ、「戦争に協力しないチャンコロはシナへ帰れ!Chankoro who doesn't cooperate with the war should go back to Shina(China)!」と一喝した。台湾人生徒を指した暴言である。一視同仁Treat everyone equallyも内台融和(Inner Taiwan reconciliation)地延長主義internal extensionismもヘッタクレもあったものではない。それを誰も咎めもしないのだからひどい時代だった。
①Pingtung County屏東縣핑둥현Akaw is a county located in southern Taiwan②Українськаウクライナ語→Гаосю́н (кит. трад. 高雄가오슝시, пін. Gāoxióng)Kaohsiung, у мовах корінних народів Такау (кит. трад. 打狗, пін. Tákáu) — місто на південному заході Тайваню.

 そんな気風に便乗して体育の教師たちが猛威を振るうものだから、教練・武道・体操の時間は地獄の責苦だった。この野蛮な空気に染まって上級生は下級生に理由もなく制裁を加える。内地人は無理難題を吹っかけて台湾人を殴る、一部の教師は気に入らない生徒を些細なことで張り倒して回る、器械体操の不得手な生徒は鉄棒にブラ下らせて竹の根っこの笞で腹にミミズ腫れが五線符のようにできて血が滲むまで引っぱたくという有様だから、下級生の台湾人でこれらの科目が不得手でちょっと強そうな顔つきでもしていようものなら目の敵にされて、26時間中迫害されていたと言っても過言ではない。なまじ柔道などが強かったりしようものなら、ゴロツキのような生徒が何人も組んで呼び出し激しいリンチを加えたことがあった。この事件は赤新聞に書き立てられ、狼狽した学校は加害者を教員室に呼び出して詮議し、何人かに謹慎を命じてお茶を濁した。もしも内台人が逆だったらどうだろう、恐らく台湾人は放校され、明るいうちは歩けないことになったと思う。
 この物凄いアパルトヘイトの中に、現在の日本人の驕りの原点を見る。とにかく野蛮・不快・恐怖の暗い中学校生活だった。何しろ小学三年から台湾生活だから、内地の中学校がどんな状況か知る由もなく、多分似たりよったりなんだろうと思って、この世に生まれて来たことを呪いつつ宿命と諦めて惰性で毎日を過した。幸いこの生活は一年短縮された。四年を終了したところで新設の台北帝大予科に運よく合格したのである。五年生になるともう上級生がいなくなるから少しは楽になる。それを捨て去るのにちょっと未練もあったが、牢名主になったとて囚人に変りはないと思いきりは早かった。

*南非種族隔離(南非語:Apartheid아파르트헤이트アパルトヘイトАпартеид,為1948年至1994年間南非在國民黨執政時實行的一種種族隔離制度,當時佔大多數的黑人,其包括集會、結社的各項權利受到大幅限制,維持歐洲移民阿非利卡人的少數統治。
 この予科の生活は楽しくて夢のようだった。まず上級生がいないし、教練などまるでお遊び同然である。ところが内地から来た諸兄が口を揃えて「教練のきついのが玉に疵だ」というのに愕然とした。この時初めて台湾の(少なくとも南部の)中学校の教練は大変厳しいものだったと知り、改めて下らない軍事教練などで貴重な時間を浪費した過去を恨み、軍人への憎悪をかき立てた。

①According to the testimony of an elderly Taiwanese who lived through the Japanese colonial period, the Japanese soldiers were actually very kind and not as barbaric as the school teachers said (perhaps a lot of what was taught in the textbooks were fabricated?)②『日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日The Japanese people were so wonderful - a day that is about to be forgotten』(2013/桜の花出版Sakura no Hana Publishing)by 楊素秋 (著) by Yang Suqiu (Author)日本名Japanese name、弘山喜美子Kimiko Hiroyama「日本人は、日本人であることを大いに誇っていいのです。昔の日本精神はどこにいったのですか! 私はそう叫びたいですJapanese people should be very proud of being Japanese. Where did the old Japanese spirit go? That's what I want to shout!」③楊素秋女史インタビュー 「私の愛する日本の人々へのメッセージ」Interview with Ms. Yang Suqiu “Message to the people of Japan whom I love” 靖国神社にて 金美齢女史の提言Proposal by Ms. Kim Bi-ling(Alice King) at Yasukuni Shrine https://www.youtube.com/watch?v=VfJ63PG36KU④『この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人The hypocrisy of this world: Japanese people who have forgotten the basics of life』(2013/PHP研究所) 金 美齢, 曽野綾子Kim Bi-ling, Ayako Sono
 台湾人への差別
 ちょうどその頃知ったことだが、内地人の官吏は俸給に六割追俸があって台湾人には一銭も付かないというのである。つまり台湾人が百円ポッキリなのに、内地人は百六十円もらっているのだ。道理で平巡査の家でも台湾人の洗濯女を雇っていられるわけだ。どうしてこんなことをしながら「内台一如」などと口幅ったいことが平気で言えるのだろう。6月17日は始政記念日と号し台湾だけの祝日で、学校では祝典歌を歌って紅白の饅頭をもらったものだったが、歌詞の二番は「内外の海の隔てなく、明治の光隈もなく、台湾島に輝きし、佳き日を祝え万歳に
There is no separation between the inner and outer seas, there is no Meiji light and shade, and the island of Taiwan shines, and we celebrate this happy day, long live it.」となっている。こんな差別をしておいて、よくも空々しく、「内外の海の隔てなく」などと歌ったものである。義憤を感じてますます官吏が嫌いになった。だいたい台湾人はめったに官吏に採用されないし、採用されても辺地の公学校の教員か下級巡査ぐらいがオチで、間違っても校長とか課長などの役職には昇進できない。彼らはそれを熟知しているから、社会的に差別されることの少ない、実力で勝負の医者などになる。今となっては確かめようもないが、ある台湾人官吏がなぜ内地人だけに加俸があるのか上司に質したそうだ。その答えが、「内地人は数年に一度は内地に墓参などの用で帰らねばならず、莫大な経費がかかるのでそれに充当するが、台湾人の諸君はその必要がないから」の迷文句だったという。ずいぶん人を喰った話だと思う。こんなことでは台湾人に好かれようと言ってもどだいムリな話だ。

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