日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)追加(2023/09/10)②


      道を見出す
 このころ、小川さんの友人の父、江藤敏夫(奉天図書館長)が書いた『満州生活三十年・奉天の聖者クリスティの思出』を読んだ(後に、矢内原忠雄によって全訳され、クリスティ『奉天三十年』岩波書店、1938年、として出版されている)。


Thirty Years in the Manchu Capital in and Around Moukden in Peace and War by Dugald Christie, Iza Inglis Christie
From the end of the 19th century to the beginning of the 20th century, Manchuria was the scene of major world events, such as the Sino-Japanese War, the Kenpei Incident, the Russo-Japanese War, and the National Revolution.  This book is about a man who came to Manchuria in 1883 as a missionary doctor, and devoted himself to serving the Manchurian people for 40 years until he returned to his homeland due to old age.  This is an autobiographical memoir by Christie, a Scotsman who was highly respected by the public.
*Deutschドイツ語→Yanaihara Tadao (japanisch 矢内原 忠雄; geb. 27. Januar 1893 in der Präfektur Ehime愛媛県出身; gest. 25. Dezember 1961) war ein christlicher japanischer Wirtschaftswissenschaftler während der Shōwa-Zeit.

 当時、大陸の日本人は、中国人クリスチャンを宣教師に経済的にたかる寄生虫ぐらいに思っていた。だがクリスティ(スコットランドの医師で牧師)は30年にかけて、希望に燃える中国人を創っていた。医師になるなら、クリスチャンになるなら、クリスティのように生きたい、そう小川さんは本を読んで感動した。アフリカでの医療伝道に生きたシュバイツアー(アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer、1875年1月14日 - 1965年9月4日)Альбе́рт Шве́йцерは、アルザス人Elsässer/Alsacienの医師、神学者、哲学者、オルガニスト、音楽学者、博学者。通称に「密林の聖者」がある)の伝記、あるいはクリスチャンの植物学の先生から聞いた、ドイツでのてんかん児童のための福祉運動の話も、彼を鼓舞した。北ドイツのビーレフェルトBielefeldの町にあるベーテル(ベーテル財団(独: Bodelschwinghschen Foundation Bethel)は、ドイツ連邦ノルトライン=ヴェストファーレン州ビーレフェルト近郊に位置する、てんかん、知的障害、精神疾患を持つ人々及び、高齢者、社会活動に困難を持つ若者、ホームレスの人々などが生活するキリスト教の活動、治療共同体である)では、ボーデルシュヴィング牧師(フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィング(Friedrich von Bodelschwingh、1831年3月6日 - 1910年4月2日)Фридрих фон Бодельшвингは、ドイツの福音主義神学者、社会活動家、政治家。てんかん患者や貧しい労働者を支援する施設であるベーテルの施設長であったことで知られる。なお、同名の息子も知られている)を中心に、てんかんや知的障害の児童のための福祉村が作られつつあった。真直ぐに構えて直進することを好む小川さんは、自分の生きる方向が中国での医療伝道にあると定めると、その後の計画に迷いはなかった。彼は洗礼を受けて三年後、満州医科大本科二年になった時点で、医大を中退し、東京日本神学校予科三年に編入学することに決めた。基礎医学の勉強が終り臨床医学に進む前に、神学を学ばねばならない。時局から見て、医大を卒業すればすぐ召集されて牧師になれない。また、医学のなかで最も欠けているのは神学である。神学を学ぶことによって、本当の医師になれる、と考えたのだった。

司督阁 (Dugald Christie;1855年11月11日—1936年12月2日)Дугалд Крісті 是一位苏格兰在华医学传教士,在奉天创立了盛京医院和奉天医科大学。
 もちろん、父親は頑強に反対した。求道に関心の高い父は、息子が牧師になることに反対できない。
それで、
 「もう二年すれば医師になれる。今、中退したら再入学できないかもしれないぞ。神学校に行くのは、お前が決めた道だから賛成する。ただ、医師になってからでも遅くはない」と、実際には断念させようとした。最後には、
 「お前は頭がおかしい。精神科医に診てもらえ」とまで言い出した。
 友人たちも反対した。大学のYMCA活動などを熱心にやっていた小川さんが居なくなることを嫌った。しかし、小川武満さんは父親に遺書を書いた。二度目の遺書である。満州事変後の遺書は五族協和のためのものだったが、今度は神からの呼び出しに応じる遺書だった。
 「私よりも父母兄弟を愛するものは私にふさわしからず」という聖書の言葉を枕に、「国から召集令状が来たとき、国の召しとあれば戦争に行く。まして神の国の召しがあったとき、その召しに応じるのが献身です。それでもお父さんの意志に反して行くのですから、親子の縁はこれで切ります」と書き置きした。ただし、本だけをもって東京・角筈の日本神学校の寮に移った息子へ、父は「そこまで決心したのなら許す」と電報を打ってきたのであった。

Japan School of Theology was a Protestant Japan Christian ( Presbyterian ) / interdenominational seminary that existed in Tokyo from 1930 to 1943 .

       止揚と呼ばれる詭弁
 四年間の神学校での生活の間にも、日本は軍国主義に突き進んでいく。36年の雪の日の朝、二・二六事件を知った。翌37年7月7日には盧溝橋事件、そして8月15日には、日中全面戦争へ突入。共産党員の検挙が続き、38年、国家総動員法が成立して、戦争国家が出来あがっていった。
*Españolスペイン語→La Ley de Movilización General del Estado (国家総動員法 Kokka Sōdōin Hō)Государственный закон о всеобщей мобилизацииState General Mobilization Law국가총동원법Loi de mobilisation générale de l'État fue legislada en la Dieta de Japón por el Primer Ministro Fumimaro Konoe el 24 de marzo de 1938.
 このような時勢にあって、教会と国家の関係をどう論理化するか、それは神学校の最大の課題であった。すでに、第一次世界大戦になぜ教会の指導者たちは荷担したのか、という問いに発したカール・バルト(カール・バルト(ドイツ語:Karl Barth, 1886年5月10日 - 1968年12月10日)Карл Бартは、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者)の「危機の神学」はよく知られていた。バルトはそこで、ルター(マルティン・ルター(Martin Luther[ˈmaɐ̯tiːn ˈlʊtɐ] 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)Мартін Лютерは、ドイツの神学者、教授、聖職者、作曲家・・・ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である)に始まる宗教と国家の分離、政治を宗教的・倫理的な監視から解放された自律的世界と認めることによって、国家の不正を許す思想を批判していた。バルトへの反批判も伝わっていた。それでは、我国ではいかに考えるべきか。 
 神学生たちの注目のなかで出版されたのが、神学校教授・熊野義孝の『終末論と歴史哲学』(1933年9月)だった(なお、バルトの『今日の神学的実存』ーナチの働きかけによる教会改革など、きわめて多様な形をとって現れてくる時代の誘惑に抵抗しなければ、神学的実存は失われるーも同年10月に出ている)。

Eschatology and the Philosophy of History (1949) , January 1, 1949 by Yoshitaka Kumano (author)
*Yoshitaka Kumano熊野 義孝 ( May 9 , 1899東京都出身 - August 20, 1981 ) was a Japanese pastor and theologian . He is a professor emeritus at Tokyo Theological University. ( May 9 , 1899 - August 20, 1981 ) was a Japanese pastor and theologian . He is a professor emeritus at Tokyo Theological University.
 小川さんも神学校に入り、熊野教授を尊敬し、この本を何度も読んだ。そこには、こう書かれていた。
 「教会はもとより政治的形態を探ることが不可能であるが、同時に決して無政府主義の加担者ではないのである。国家をしてその機能を正常に発揮せしめ国際間の平和を保障し、人類の連帯的道義心を喚起するためには、教会はその所在を認容し保護するところの国家に対して忠誠と勤労とを惜しまぬであらう。教会と国家との関係は弁証法的に把握されねばならぬ
 「教会は不断に十字架を背負ふものである。其故に万一国家が罪悪を犯す場合には教会はその苦痛を一層おほく味ふことによつて国家的正義の恢復に奉仕する。かくて教会は此世界に於ける創造の秩序の担当者でなければならない。かつては自然法概念によつて人道主義的な国際法が基礎づけられたのであるが、この自然法的な思想はなほ其根底に超自然的な創造の秩序を仮定したと観られるのが適当である。むしろ自然法の名称を去つて之を聖なる意志にまで基礎づけねばならぬ。この意志の代弁者として教会は名目の民族とその文化とのために奉仕することが可能である」(『終末論と歴史哲学』第四章)
 ここには、戦中、戦後にかけての日本的知識人の思考がよく表れている。国家権力が国民精神の総動員に向けて、検閲を強化するとき、天皇制国家の悪に対して毅然として反対するか、沈黙するか、検閲すれすれの発言を行いやがて弾圧されていくか、三つの内ひとつを選ぶしかなかったはずである。だが、多くの日本的知識人は、明確に対立するものを弁証法の呪文によって曖昧にし、「高い次元に立って把握する」とか、「一気に把握する」と称した。いかなる状況においても、まず知識指導者であろうという意志が、すべてに先だって彼らにはあった。
 この文章も空虚な言葉の羅列であり、あえて強者の側に与しようとする者に特有な思考の弛緩がある。教会と国家との関係は弁証法的関係にあるといい、教会は国家の罪悪の苦痛を一層多く味わうことによって国家主義の恢復に奉仕するといい、自然法の彼方には超自然的な聖なる意志があり、超自然の意志の代弁者として教会は日本民族のために奉仕しなければならないと、日本的知識人による日本的知識人むきの詭弁を存分に使っている。
 教会は決して創造の秩序の担当者ではない。教会は神の言葉を信じ、服従するところである。にもかかわらず、国家を神による創造の秩序とみなし、天皇の地位も、権力者の地位もその秩序のひとつと主張している。民族も、国家も、そこに起こる事件も、創造の秩序をもたらす神の許しがなければ生まれないというわけだ。
 この論理は、中国侵略を聖戦と呼ぶ一歩手前で言葉を飲み、読者に「そうだ、聖戦だったのだ」と納得させようとしている。戦争は悪には違いないが、神の支配する秩序にあって、その秩序が乱れるとき、秩序回復のために行われる聖戦があるとされる。この論理が燃えあがると、さらに「殉国即殉教」という言葉まで出てくる。甘い観念の自家中毒なしに人は生きられないのだろうか、と私は『終末論と歴史哲学』の文章を読んで思う。

*新京特別市,通稱新京(郵政式拼音:Hsinking),是满洲国的首都,轄區相當於今中华人民共和国吉林省省会长春市。
     死ぬための論理
 小川青年は高級軍医の家庭に育ち、頑固ではあるが、権威に対して比較的従順であった。それでも日本プロテスタント神学の最高峰とみなされた熊野教授の説に、違和感を持った。彼がクリスチャンになったのは、満州事変後、五族協和のために命を捧げると遺書まで書きながら、怯えから中国人を射殺する日本人の側に立っている自分に気付いたからであった。しかし、「国家が罪悪を犯す場合には、教会はその苦痛を一層おほく味ふことによつて国家的正義の恢復に奉仕する」というレトリックは、戦時体制下、いかに自分の死を意味付けるかに直面していた青年には、魅力的な言葉でもあった。
 熊野教授は神学生に言った。
 「君たち、こんな時代に戦争に反対し、右翼に歯向うのは、狂犬に向かって突き進んでいくようなものだ。噛みつかれた終わりです。こんな時には、神学の勉強を静かにやっていればいいのです」
 だが、神学生には勉強は許されていなかった。熊野教授は神学の洋書を読んでいられたが、学生たちには卒業と同時に戦争が待っていた。小川さんは、熊野教授の言辞に「どこか違う」と思いながら、なお、「万一国家が罪悪を犯す場合には、教会はその苦痛を一層おほく味ふことによつて国家的正義の恢復に奉仕する」を「キリスト者は国民の誰よりも多く苦痛を味わうことによって信仰に生きる」と読み替えたのであった。それは後の特攻隊員が、無意味な作戦で死んでいく兵士が、罪を着せられて殺されていく戦犯将兵が、自分の死にせめてもの意味を見出そうとした、小さな論理であった。日本的知識人の大論理から、死んでいく青年がやっと引き出した小論理であった。
 小川さんが日本神学校に学んでいたとき、無教会派の矢内原忠雄は、はっきりと戦争を弾劾していたが、プロテスタント正教派の熊野教授に強く感化された神学生の知るところではなかった。矢内原忠雄は、1937年10月の藤井武記念講演会で次のように語っている(『矢内原忠雄全集』第18巻、岩波書店)。よく引用される言説ではあるが、日本キリスト教の罪を考えるとき、欠かせることのできないものなので、再録しておこう。
 「わが日本の国においても、キリスト教は信用を失いました。あるいは、失わんとしているのであります。キリスト教の権威と共に、日本国に理想は滅びんとしております。否、滅びました。私は詳しく述べません。しかし、日本人の凡てが、ことに日本人の中の心ある者が、ことに日本人の中のキリスト教徒は、今一つの問題に対して彼の態度の決定を迫られております。態度の決定を要求させられているのであります。
 これについて二、三のことを考えてみる。あるいはいわく、キリスト教は宗教である。政治の問題は政治家に任せたのである。政治家の定めたことに従って行く、と。これが一つの答案であります。一つの態度であります。政治批判、この世の問題についての批判から避難する。かく遊離することによってキリスト教を守ろうとする態度であります。しかし、キリストが言われているのに、汝らは地の塩である、塩もしその味を失ったなら何をもって塩付けるのであるか。現実の社会の不義を批判しない者は、味のない塩であります。自分を守らんとすることによって、自分を失っているのであります。政治の運動に従事しないということと、政治を批判することとは、おのずから別であります。批判は正義の声であります。
 第二の答案に曰く、日本の国が支那を撃つのは聖書の示す教えである。神の命である、何となれば、支那はおのれの罪によって審かれているのである。日本はこれを審く神の怒りの杖である。だから日本の支那を撃つのは神の御用にあずかっているのであると。
 明白に私は申しますけれども、かかる聖書の解釈が神の名によって立つところの教会、その信者によって唱えられているというのは何事であるか!現実国家の命令には国民として服従いたします。服従しなければなりません。しかし、現実国家の言うところを、ことごとく、道徳的に信仰的にしかも聖書的に弁護するというならば、キリスト教の存在の価値はないのであります。神に審かれたるユダの国よりも、おのれを驕ぶってユダを撃ったアッスリヤの罪の方が、さらに大きいのであるーわかりますか!アッスリヤの罪は、ユダの罪よりもまだ大きい。-自ら怖れなければならない」
①ユダ王国(ユダおうこく、ヘブライ語:מַלְכוּת יְהוּדָהИудейское царство猶大王國Kingdom of Judah유다 왕국は、紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて古代イスラエルに存在した王国②アッシリア(Assyria, 古典シリア語: ܐܬܘܪ, ラテン文字転写: ʾāthor, アラビア語: اشور‎Ассирия亚述אשור아시리아は、現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。
 小川武満さんは、こうして1939年、神学校を卒業し、満州医科大学の編入試験を受け、再び奉天に単身帰っていった。すでに中国での医療伝道の可能性はほとんどなくなっていた。それでもなお、少しは中国人の医療に役立ちたいという思いがあった。
 四年間、神学校に行った小川さんは26歳、理系の大学生は27歳まで徴兵が免除されていたが、最終学年の本科四年で徴兵検査となる。その時は、神学校の友人たちと同じく、一兵卒として苦痛を一層多く味わおうと決めていた。

                                                 第三章     心を病む将兵たち
      「教会はその苦痛を誰よりもおおく・・・」
 小川武満さんは東京日本神学校を卒業し、故郷・奉天に帰ってきた。父親は満州事変の少し前に伊勢の赤十字病院に転勤し、兄弟も彼の地には残っていなかった。それでも武満さんの故郷は満州だった。周囲に合わせて生きる日本内地の生き方ではなく、広漠たる大地で自分の考えを持っておおらかに生きる。そんな大陸の生き方が好きだった。自分は満州の人であり、内地の日本人と同じでないと思っていた。
 だが、自分は誰なのか、大陸を故郷とする日本人とは何者なのかは、よくわかっていなかった。
 植民地で生れ育った者は、屈折した民族アイデンティティを持つ。中国人と同じ自然環境に育ち、風土への愛着も強いのだが、摂取した文化は違っている。そのため、心情の祖国と理念の祖国に引き裂かれている。現地の人の眼に映る私と、こうありたいと思う私とが違っている。しかし彼らは、この植民地育ちの自我の壁を深く認識する力はなかった。日本人が指導者になって五族を協和するという植民イデオロギーによって、自我は塗り籠められていた。
 あくまで医療伝道の志を捨てず、小川さんは奉天に帰り、満州医科大学に再入学した。この医学生時代、北野政次教授より「現地猿を使った発疹チフス予防ワクチンの開発実験」の講義を受けている。北野は731部隊で部隊長の石井四郎に次ぐ位置にあり、当時、軍医大佐であったが、勅命により満州医科大の微生物学教室の教授(1936-42年)となっていた。後に、北野は731部隊長(少将)となる。北野教授は柔和な顔で黒板に図を書き、臓器の病変がこのように見られ、体温がこのように下がり死亡した、と説明した。小川さんは「満州に現地猿がいるかな」といぶかったが、それが中国人やロシア人を使った人体実験であり、行われた場所が医大の微生物学教室と解剖室であったことは、もとより気付かなかった(北野政次は39年2月、13人の中国人に発疹チフスを感染させ、その後に生体解剖を行った知見にもとづき、発疹チフス予防ワクチンに関する論文を発表している)。

①Deutschドイツ語→Kitano Masaji (japanisch 北野政次(軍医中将); * 14. Juli 1894 in der Präfektur Hyōgo兵庫県出身; † 17. Mai 1986 in Tokio) war ein Arzt, Mikrobiologe und Generalleutnant in der Kaiserlich Japanischen Armee. Er war der zweite Kommandant der Einheit 731, einer verdeckten Forschungs- und Entwicklungseinheit für biologische und chemische Kriegsführung. Die Einheit 731 ist bekannt für ihre Kriegsverbrechen, die von den Japanern verübt wurden②Françaisフランス語→L'Unité 731 (731部隊, Nana-san-ichi butai?)«Отряд 731», créée entre 1932 et 1933 par mandat impérial, était une unité militaire de recherche bactériologique de l'Armée impériale japonaise.

③Surgeon General Shirō Ishii (Japanese: 石井 四郎(軍医中将), Hepburn: Ishii Shirō, [iɕiː ɕiɾoː]; June 25, 1892千葉県出身 – October 9, 1959) was a Japanese war criminal, microbiologist and army medical officer who was the director of Unit 731, a biological warfare unit of the Imperial Japanese Army.
 さらに、40年、満州国の首都新京(現、長春Changchun (UK: /tʃæŋˈtʃʊn/, US: /tʃɒŋ-/;[5] Chinese: 长春)창춘시 is the capital and largest city of Jilin Province in China)でペストの大流行があり、防疫のために医大の医師や医学生が動員させられた。これも石井部隊長の指揮によるペスト防疫作戦であったことを小川さんが知るのは、戦後二十数年がすぎてからのことである。
 今になって振り返ると、侵略戦争と結びついた医学教育でなかったか、疑問に思うことは少なくない。日本軍が軍医の教育のために生体解剖をしているという噂は、1935年、基礎医学を学んでいた頃、すでに聞いていた。法医学の実習では、銃剣で刺殺された中国人の死体をよく見た。病理学や生理学教室には、凍傷で死んだ人の下肢や輪切り標本が置いてあった。すべてが虐殺や生体解剖後の人体であったかどうか、わからないが、疑わしい。また、多くの博士論文が中国人の犠牲において作られていったのではないか、と今にして思う。
 小川さんは、「その時代に生きていたから、よくわかっているとは決していえない。かえって、よくわかっていないことが多い。後に、あれがそうだったのか、と気付くことが少なくない」と反省する。神学校を卒業した青年が医療伝道のために学んだ臨床医学、悲しいことにその医学の一部は生体解剖からもたらされた知識であったのである。
 学部四年生になったとき、すでに小川武満さんは27歳、理系大学生でも徴兵検査の延期はできない年齢になっていた。「第一乙」で合格となった。甲種と第一乙は現役入営しなければならない。だが、「軍も軍医を必要としている。後一年だから勉強して医師になれ」と検査官に言われ、入営は延期された。その年の12月8日、真珠湾攻撃。「大東亜戦争」となり、結局、12月で繰り上げ卒業となった。
 多くの級友は軍医として志願していった。志願すれば、湯浅謙さんがそうであったように、三ヶ月の研修の後、軍医中尉になる。だが小川さんは初心どおり初年兵(二等兵)として徴兵される道を選んだ。心のなかには、熊野義孝教授の言葉、「万一国家が罪悪を犯す場合、教会はその苦痛を誰よりもおおく味わうことによって、国家的正義の回復に奉仕する」の彼なりの解釈があった。
 医大時代、級友から何度となくクリスチャンをやめるように言われた。卒業のとき、「大東亜クラス会」と呼ぶ宴が開かれた。そこで志願を拒否する小川さんは、皆に「君はいい男だが、ただひとつ残念なのはキリスト教徒であることだ。この際、やめちまえ」と散々言われた。
 小川さんは、「今にわかる時がくる。これは私の選んだ道、私の信じた道なんだから、誰が何と言ってもやめられない」と答えるしかなかった。同じ会話は、軍隊に入ってから、何度繰り返されたかわからない。
 1942年1月、小川武満さんは、敵前上陸部隊である福山西部63部隊(広島県)に入隊した。この部隊は、南方戦線で戦死していく兵士を補充するための混成部隊であった。三ヶ月間は一歩も営外に出られず、死にもの狂いの訓練を受け、殴られっぱなしだった。夜間に行軍し、翌日、炎天下で戦闘訓練を続ける。完全装備の初年兵は熱射病になり、なかには引付けを起こして死亡する者も出る。弱い兵は戦場に出る前に死んでおく方が邪魔にならなくてすむ、兵隊は部品であり、替りはいくらでもある、そういう訓練だった。
 「軍人勅論」、「戦陣訓」、「作戦要務令」も一字一句暗記させられる。「皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり」、あるいは「生きて虜囚の辱を受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れDon't live and suffer the shame of being a prisoner, die and leave behind the stigma of sin」と。
小川さんは逐字暗記は馬鹿らしい、要点を憶えていればいいと思った。そこで軍人勅論の第何条を言え、と指される。一字一句でも間違えると、「お前は大学を出ておきながら、それくらいも憶えられないのかEven though you graduated from university, you still can't remember that much?」と殴られた。第一ボタンに洗面器をぶら下げ、這って皆のところを謝って回らされた。
*参照Reference「炊事の事務室勤務といっても、私の仕事は残飯統計係りというのだったEven though I worked in the cooking office, my job was to be in charge of statistics on leftover food・・・バカらしいので、私はーこんなこと出来ませんーと宣言したIt seemed stupid, so I declared, - I can't do this-. すると炊事班長が言ったThen the cooking team leader saidーとにかく数字を書き込んで表を作っておけばいいんだ。大学出の貴様に出来ないわけはないAll you have to do is write down the numbers and make a table. There's no way you can't do it since you graduated from universityーSo、私は大学の名誉のため、残飯統計表なるものを作ってI created something called a "leftover food statistics table'' for the honor of the university・・・」(長谷川四郎Hasegawa Shirō(7 juin 1909北海道出身 ; † 19 avril 1987) était un écrivain et traducteur japonais(法政大学文学部卒Graduated from Hosei University Faculty of Letters(独仏英西伊露はじめ、およそ八ヶ国語に堪能だったHe was fluent in about eight languages, including German, French, English, Spanish, Italian, and Russian)満州でソ連軍の捕虜となり、五年間シベリア抑留Captured by Soviet troops in Manchuria and interned in Siberia for five years『鶴Crane』講談社文芸文庫)。
 要領よく覚え、要領よく答え、要領よく立ち回らなければならない。尋常小学校の教育も受けられずに入隊していた一人の男は、どうしても暗記できず、逃げだして捕まり、営倉に入れられた。一人の男は便所で銃剣を使って自殺した。

 医科大学卒、クリスチャンということで、小川さんは殴られ続けた。それでも耐え、一期の検閲、二期の検閲を通過した。訓練はさらに厳しくなった。例えば匍匐前進。ふらふらの行軍の匍匐は辛い。それで少し腰を上げると、頭といわず、腰といわず殴られた。こうして苛まれていると、どうせ死ぬなら早く戦場に行って死にたい、と願うようになる。そして彼らが出て行くと、しばらくして骨になって帰ってくる。まだ太平洋戦争の初め、割合、遺骨は帰ってきた。すると、次の部隊が出て行く。一年間の間に何遍も遺骨を迎え、遺族が取りに来た。結局、出て行くことは死ぬことだった。
 小川さんは知識としてではなく、肉と骨で初年兵教育を体験した。体験することによって、集団では強い人間が、個人としてはいかに弱いかを知った。あるいは、徹底的に弱いところに追い詰め、そこから暴力を引き出す手口を知った。それは、満州事変の後、奉天の日本人街の警備に立った学生が、脅えのため中国人に発砲するのと同じだった。共に、個々人の弱さを認めず、それを覆い隠すことによって暴力に転化する。小川さんは、後に北支の戦争ではっきりとそれを確認することになる。
 初年兵教育が終った後、彼は予備役に編入され、東京中野の軍医学校に送られた。志願して軍医中尉になることを拒否したのだったが、やはり軍医の課程を取らされた。
 三ヶ月の研修の中心は「死ぬこと」と「見捨てること」。軍医は負傷兵の手当てをする任務があるが、自分が負傷して任務を果たせなくなれば、価値がないので死ね。そう、繰り返し告げられた。同じ論理で、前線に復帰できる兵を手当てし、その他は死ぬのに任せろ、と教えられた。重傷者をまず助けるという医学の常識、さらには人命を助けようという甘い観念は一切払拭しろ、と言われ続けた。
 軍医教育が終了すると、一人ひとり呼び出される。陸軍衛生部見習士官となって戦地に送られる小川さんも、「お前はどこで死にたいか」と聞かれた。
 「私は中国で生れたので、中国で死にたい。それも満州で生れたので、北支に行きたい」
と彼は答えた。当時、南方の戦争は始まったばかり、多くの軍医は南方を志願した。北支は共産ゲリラの動きが活発で、評判がよくなく、北支を希望したのは二人だけだった。
 さらに、「お前は牧師の資格を持っている。これから軍医になり、上官の立場で部下にキリスト教を伝道してもらっては困る」と付け加えられた。
 「私は軍隊で上官の命令は天皇陛下の命令だと叩き込まれてきた。だから、自分の信仰、良心の課題を軍の命令という形で伝えることはしない。それは信仰にもとる行為である。
 ただし、私は中国での医療伝道を志してきた。死に場所として中国を選んでも、もし生かされた、いつの日かその地で医療伝道にたずさわりたい」
 これが、1年3ヶ月の軍人教育を潜り抜けた小川さんの矜持であった。 

     「戦争栄養失調症」
 43年3月、小川武満さんは北京の南、石家荘軍病院に配属された。西の太行山脈を越すと山西省・太原であり、さらに西、黄河の向うに中国共産党の根拠地・延安がある。ここで、そして半年後に移った北京第一陸軍病院で、小川軍医は強がる人間の弱さと日々向き合うことになる。
 小川軍医は内科の重症病棟の担当となった。そこには結核病棟、伝染病棟、その他の重症病棟に三分類されていた。肺結核は徴兵検査でふるい分けられているはずだが、見落しも多く、また過酷な軍隊生活で発症した。劣悪な集団生活のため感染する者も少なくなかった。だが、それよりも、小川さんが驚いたのは原因不明の重病人の多いことであった。 
 原因不明の高熱、けいれん、嘔吐、あるいは喘息。多くは痩せ細り、悪臭が酷かった。排尿の抑制ができず、朝も夜も失禁していた。下痢は止まらず、汚れ、ミイラのように小さくなって死んでいった。
 彼は当時出来る検査は総て行った。便、尿の細菌学的検査を行っても、細菌は出ない。血液検査、レントゲン検査でも異常はない。遺伝歴、幼少期の既往症を聞いても、特に問題はない。いわゆる「戦争栄養失調症」と診断されていた病像である。 
 ここで戦争栄養失調症について、少し説明しておこう。第一次大戦の末期、食糧封鎖を受けたドイツにおいて飢餓による浮腫が多発し、「戦争浮腫」と名付けられた。これは蛋白質の欠乏によっておこるもので、循環器の病気による浮腫などと違い、尿量は減少せず、むしろ多尿となる。脈は遅くなり、血圧は低下し、体重は減り、頑固な下痢を伴う。倦怠感は強く、意欲は低下する。血液を調べると、血液総蛋白量が著しく減っている。後日、第二次大戦末期の日本内地でも発生した。食糧事情の悪化とともに、炭水化物と野菜しか食べられず、蛋白質および脂肪が欠乏していった結果である。
 ところが、中国に侵入した日本軍にも、食糧は欠乏していないのに、戦争浮腫と類似の症状が現われた。徐州会戦(1938年)の後、痩せ、貧血、浮腫(これは現われない地域もあった)、慢性下痢を主微とする病兵が続出し、軍は「戦争栄養失調症」と命名した。特に下痢は持続し、腹痛やしぶり腹はないが、泥状、ときには粘血便となった。痩せさらばえ、悪液質になって死亡する者が多かった。
 この病状の兵士の内には、マラリア、赤痢、アメーバ赤痢、結核なども混っていたが、それらをすべて除外しても、なお原因不明の栄養失調症が多発した。病理解剖では、肝などの諸臓器の萎縮、脂肪の消失、胃腸カタルなどの一般的所見しか見付けられなかった。
 小川さんは、栄養失調症なのでやはり食糧事情が悪いのだろうと考えて調べてみたが、食糧補給は十分にされている。南方戦線と違い、北支のこの地域は補給が途絶えるほどのことはない。略奪もよく行われていた。なぜ栄養失調になるのか。 
 実は、兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた。
 医大を卒業して軍医になった小川さんは、精神医学に精通していたわけではない。彼が精神科医であったとしても、当時の日本の精神医学は、戦争神経症についてほとんど研究していない。鍛えれば強くなる。報国の集団心理によって死の不安は解消すると単純に考える帝国陸軍から見れば、戦争神経症という概念は余分なものでしかなかった。
 註ーこの伝統は戦後の精神医学にも、日本社会にも継承されている。戦争医学の教育は、諸外国に比べてあまりにも貧弱である。例えば災害時の精神的外傷後ストレス障害の概念について、阪神・淡路大震災が起こるまで、ほとんどの精神科医は知らなかった。精神医学の教科書で災害後の精神的外傷について書かれたものは、当時、私が調べた限り、皆無であった。災害のみならず、家庭、学校、職場での精神的負荷について、問題が起こるたびに十分な研究と対応がとられたことは、一度もない。いつも「心の教育」といった精神論や処世論が横行し、精神科救急のシステムさえ造らず、現在に到っている。   

 しかし、戦争の泥沼化につれて、戦争神経症は確実に増えていったはずである。正確な資料はないが、前頁表1、表2は、1938年2月より精神疾患の受入れを拡充した国府台陸軍病院における資料である。このなかには、脳損傷、症状精神病、精神分裂病も含まれるので、戦争による心因性の精神障害の比率については分からない。また、兵力の消耗とともに、入隊者の素質は低下しており、精神薄弱者、精神病質者の混入も増えていた。   
 このように、内地の陸軍病院において精神病者の収容は行われていたが、戦場の第一線において、精神医学的研究はほとんど行われず、発症予防のための対策は皆無であった(国府台陸軍病院での心因性精神障害の治療が、いかに低レベルのものであったか、第17章でも述べている)。
 このような状況で小川さんは、行軍を共にし、血圧を測定することから研究を始めた。初年兵の一年間、戦闘教育を受けてきた彼は、行軍の経験もあり、指揮もできる。八路軍に囲まれた北支の戦場で、重装備の兵士が強行軍を繰り返す。集団による激励で乗り切っていくのだが、興奮した兵隊の何人かは突然緊張が崩れ、血圧が下がる。小川軍医は、強い兵士、弱い兵士を選び出し、どんな時に崩れるか観察を続けた。
 彼は自律神経系が解体するのではと疑った。カナダの医師ハンス・セリエがストレス学説を発表したのは1936年。セリエは、細菌感染、薬物中毒、外傷、火傷、寒冷、精神的緊張など外的、心理的な非特質的刺激に対して、その刺激と直接結びつかない一連の生体反応が生じることを発見し、「汎適応症候群」と名付けた。小川さんはセリエのストレス学説を知らなかったが、日本陸軍の戦略と兵士処遇が自律神経系の解体にまで追い込んでいると考えていた。

①ハンス・セリエ(Hans Selye,ハンガリー語: Selye János, 1907年1月26日 - 1982年10月16日)Ганс Сельєは、ハンガリー系カナダ人の生理学者。Selye János Hugo BrunoЯнош Гуго Бруно Шеєストレス学説を唱え[1]、ストレッサーの生体反応を明らかにした闘争・逃走反応(英語: fight-or-flight responseРеакция «бей или беги» 战斗或逃跑反应Réponse combat-fuiteは、動物が示す恐怖への反応투쟁-도피 반응鬪爭逃避反應

*Deutschドイツ語→Die 8. Marscharmee bzw. 8. Feldarmee[1] (chinesisch 八路軍 / 八路军, Pinyin Bālù Jūn)팔로군8-я армия (НРА)国民革命军第八路军 war neben der Neuen 4. Armee die größte Armeegruppe der Kommunisten als Teil der von der Kuomintang geführten gesamtchinesischen Streitkräfte. Gemäß der Vereinbarung der zweiten Einheitsfront wurde die Rote Armee Nordwestchinas als 8. Marscharmee Teil der vereinigten Front gegen die japanische Aggression.
     心を無視する精神主義
 行軍は厳しく、作戦は耐えがたい。1940年8月から12月にかけての八路軍大攻撃によって打撃を受けた北支軍は、解放区の根絶のために、後に中国から命名されたいわゆる三光作戦ー殺光(殺し尽くす)焼光(焼き尽す)搶光(奪い尽くす)-を実行していた。人格を解離することなしに耐えられなくとも、逃げれば敵前逃亡で射殺され、内地の親族は非国民の一家とされる。こうしてさらに身体に駆り立てても、ある瞬間から拒否反応が始まる。

*Polskiポーランド語→Strategia „trzech wszystkich”, sankō-sakusen (jap. 三光作戦); chiń. 三光政策; pinyin sānguāng zhèngcè – strategia spalonej ziemi stosowana przez Cesarską Armię Japońską w czasie II wojny światowej w Chinach. Strategia składała się z tzw. „trzech wszystkich” (三光)[1][2]: wszystko zabijać, palić i grabić. W japońskich dokumentach nazywano ją „strategią palenia do samej ziemi” (dosł. na popiół) (燼滅作戦, jinmetsu-sakusen).Политика трёх «всех»«убить всё, сжечь всё, ограбить всё» (кит. 殺光、燒光、搶光)
 牧師であった小川さんは、精神医学の専門教育は受けていなかったが、人間の心に常に眼を向けていた。
 「日本に帰りたい」
 痩せ衰えた兵士はいう。だが、体重30キロを割り、衰弱しきった兵士は移送できない。動かせば死ぬだけだ。点滴をしても、何を食べさせようとしても、拒否反応で死んでいく。小川軍医は、その観察記録を病棟日誌に書き続けた。 
 ある日、軍医部の査察があった。査察に来た軍医少佐は、小川さんの研究姿勢を評価したのであろう。ただちに北京第一陸軍病院に配転させた。小川さんは後で知ったのだが、戦争栄養失調症に取り組んでもらうための転勤であった。
 北京第一陸軍病院では、戦争栄養失調症の研究に加え、二つの重い仕事が軍医中尉となった小川さんを待っていた。
 ひとつは精神科病棟の担当兼務である。300人の病者を受け持たされた。北京第一陸軍病院ほどの病院にさえ、日本陸軍は精神科医を置いていなかった。志願した軍医に精神科医がいなかったわけではない。ただ、その専門を認めなかっただけである。小川軍医は、「お前は牧師だった。戦争栄養失調症に関心もある。だから精神科を兼務しろ」と命じられた。他のひとつは、北京陸軍監獄の医師をさらに兼務させられたことだ。大学卒、しかも医科大学卒、そして牧師の初年兵は、内地の部隊ではいじめられ通しだったが、軍医になってからは、一年間の戦闘訓練の忍耐も含めて評価されていた。
 戦争栄養失調症については、これまでの知見をまとめ、軍医団の会合で講演した。北京の陸軍病院の軍医の平均年齢は44歳、若い軍医は前線に送られ、大学の医学者や大病院の院長が予備役で送られてきた。彼らとの討論で、いくつかのヒントを得た。栄養失調者は髄液圧が低下する。間脳の障害を疑った彼は、脊髄に酸素を注入し、何人かの患者を改善させることができた。だが、臨床研究はそこまでだった。敗戦後、すべての資料は焼却されたので、私たちは彼の貴重なメモを参照できない。
 精神科病棟では、本格的に戦争によって心因性の反応を呈した多くの患者に接した。後に慶応大出身の精神科医、八幡軍医がやっと配属されてきたので一緒に診察に当った。
 小川さんたちは「戦争神経症」という概念すら知らなかったが、多数の心因反応を診た。ヒステリー性のけいれん発作を頻発する者、歩行障害、半身不随、失語、自傷。すべて心因性の症状であり、身体に病変はない。夜中にうなされ、突然起きあがって叫ぶ(夜驚症)者も少なくなかった。
 ここで彼は、症状が改善すると自殺する将兵に衝撃を受けた。一人の将校は症状がおさまった後、自決した。
 ある兵士は小川軍医が病気ではないと説明すると、一応理解した。彼は病院という環境で落着いてくる。そこで小川さんは「治癒退院」の診断書を書き、現隊復帰の命令が兵士に下りる。兵士が退院の申告に病院長のところに出て行く。しばらくして、館内放送が入り小川中尉の名前が呼ばれる。「何号棟の便所へすぐ来い」と。
 なぜ便所に呼び出されるのか、いぶかしく思いながら駆け付けると、便所のなかで兵士は血まみれになっている。銃剣で咽から胸まで突き刺して、うずくまっていた。
 小川武満さんは思った。「ここでは治すことが殺すことになる。病気だと言っておけば、そのまま病人として生きられた。病気でないと説明すると、生真面目な男はそれなりに納得せざるをえない。ところが帰る場所は、元の戦場しかない。そこから脱する道がどこにあるというのだろう」。戦場に帰ることを死をもって拒否した兵士の心を、軍医である自分は理解できなかった、と自責の念がつのった。
 それから小川さんは、あえてはっきり病兵に向って「人殺しによって解決することは何もない。人を殺せば、敵は増えるばかりだ。戦争が止まらない限り、精神的な病気は多くなるだけだ」と発言した。傷病兵は軍医の前では物を言いにくい。それでも、彼らの受け応えから同意しているのが分かった。それは、小川武満さんが命をかけて実行した、戦争神経症者への最高の精神療法だったと、私は思う。

A top-secret investigation that must not be disclosed for 50 years: Soldiers' emotional scars | Battle scars Fading memories of war NHK 
 註ー医学教育、卒後軍医教育において「戦争神経症」は教えられてこなかったが、例外的に外地の戦場において書かれた精神科医の報告書がある。金沢医科大学の教授であった早尾乕雄は、1937年夏に召集を受け、上海第一兵站病院(一万病床)に予備陸軍軍医中尉として勤務した。彼は、当時の中支の戦争(1937年12月の南京攻略から、翌38年春の徐州会戦開始に到る)状況をもとに、「戦場神経症竝ニ犯罪ニ就テ」(1938年4月)と題する優れた論文をまとめている(高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』ー15年戦争重要文献シリーズ第一集、不二出版、1990年)。

①15 Years’ War Important Literature Series: 1st Army Medical Officer’s Battlefield Report Opinion Collection Edited by Ryuji Takasaki②Françaisフランス語→Ryuji Takasaki高崎 隆治 (1925神奈川県出身-2013) était un chercheur de guerre japonais.
 この論文は、外傷性神経症(戦争神経症)や行軍による急性錯乱症Amentia(アメンチアThe state of being out of one's senses; madness, insanity)について正確に記述しているだけでなく、飲酒と兵士の犯罪との関連を鋭く指摘している。「上海、南京等に酒場、慰安場を多数に開設し自ら酒と女とのみを以て将兵を慰むる方法をとる他に健全なる精神の転換を図る施設を忘れたること」と、犯罪頻発の原因を告発している。
 著者は一年間の中支での勤務後、千葉県の国府台陸軍病院で一年、計二年間応召している。だが一般の軍医に、このような論文が読まれる機会はきわめて稀であった。
*敵前逃亡Desertion(てきぜんとうぼうunauthorized absence (UA) )とは、兵士などが軍事遂行命令を受けず、戦闘継続可能な状態にもかかわらず、戦わずに逃亡すること。この行為は重大な軍規違反であり、重刑になる可能性がある。Deutschドイツ語→Fahnenflucht, Desertation oder Desertion bezeichnet das Fernbleiben eines Soldaten von militärischen Verpflichtungen in Kriegs- oder Friedenszeiten – benannt nach der Flucht von der Regimentsfahne, unter der sich alle Soldaten zum Gefecht zu versammeln hatten.

         処刑される兵士たち

 小川さんの第三の仕事は、北京陸軍監獄への通勤だった。

 ここには利敵行為やスパイの容疑で捕えられた国民党や共産党系の中国人、日本軍の逃亡兵が収監されていた。軍法会議での判決はほとんど死刑となった。小川軍医は囚人の健康管理だけでなく、処刑に立ちあい、前腕の脈をとって死を確認しなければならなかった。日本軍は中国人を斬首、日本兵を射殺と決めていた。殺人方法の人種差別である。

 利敵行為の嫌疑はいかようにも拡大できた。穀物を持って解放地区を歩いている中国人農民、あるいは解放地区で魚をとっている者でも利敵行為の容疑で捕えられた。利敵行為はすべて死刑とされ、六人、七人とまとめて首を斬られていった。

 小川さんが困惑したのは、日本軍の敵前逃亡者であった。目の前で逃走しようとすれば、すぐ撃ち殺されている。送獄されてくる兵は、何日か本隊から離れていた者である。だが戦線が入り乱れる対ゲリラ戦では、どちらが敵前なのか、分らなくなることもある。行軍に疲れはて急性錯乱(アメンチア)になってさ迷う兵士もいる。それでも敵前逃走と判定されれば銃殺される。銃殺されるだけでなく、彼は事故死として扱われ、親族に堪えがたい恥辱をもたらす。

 僧侶は処刑される兵士に面会し、「お前は生きてお国のために尽くすことは出来なかったが、死んで故国の霊となり、お国を護りなさい」と教戒していた。

 小川さんはやりきれなかった。鍛えぬかれたはずの軍人が怯え、萎縮し切っている。人間の弱さの極限を見る思いだった。中国共産党の工作員が、「私を斬り殺すことはできても、中国人民の反抗を止めることはできない」と言って、毅然と斬り殺されていくのと、あまりにも対照的だった。小川武満さんは、強がる人間のどうしようもない弱さに鋭い感受性を持っている。これで四度目である。満州事変後の奉天で警備に立つ学生、福山西部第63部隊で追い詰められていく初年兵たち、北支の戦地において戦争失調症のため小さな塊に見えるほど衰弱して息絶えていく兵士たち。そして今、これほども怯えて、処刑の前にうなだれている兵士たちがいる。

 それでも彼らを銃殺と死後も続く不名誉から救う方法が、ひとつだけあった。それは小川軍医が、「発見時、朦朧状態にあり、位置の判断ができる精神状態になかった」と診断書を出すことだった。だが、もし診断書が意図的なものと疑われたら、小川さんが処刑される。それを覚悟した上で、看守長に診断書を書くと告げた。看守長はうなずいてくれた。ばれたときは小川軍医だけでなく、監獄所長も処罰される。それで所長には「あえて書きます」と了解をとりに行った。所長は、「責めは二人で負おう。死なせたくない。よく決心してくれた」と答えたのだった。こうして30人ほどの兵が銃殺をまぬがれた。日本陸軍が、逃亡の嫌疑のかかった兵士を本当に許したかどうか、分からない。彼らは死ぬ確率の高い南方戦線にあえて送られていったかもしれない。小川さんは、彼らがその後どうなったのか、どれだけ生きていたか、知らない。

 しかし、中国農民をどうすることもできなかった。ある日、七名の斬首刑に立ちあったとき、首を切り損じられた一人が穴に転落し、血だらけの頭で「日本鬼子(リーベンクイズ)」と叫んだ。憲兵はピストルで撃ち、「軍医殿、死を確認してください」と彼に求めた。憲兵たちは穴の上にいる。穴の底には七人の中国人の体と首、土のなかに降りていくとき、自分はなぜ狂わないのかと不思議だった。

 それでも小川さんを支えたのは、ゴルゴタの丘の刑場に向うイエス・キリストへの信仰であった。また唯一の慰めは、教会への出席だった。石家荘ではペンテコステ派の教会があり、中国人の集会に出た。北京ではYMCAの礼拝に加わることができ、生涯の友となったキリスト者との出会いがあった。

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