2022年3月のブログ記事
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2020年10月18日(灰色?の日曜日=Dimanche(Sunday)) みなさん、こんばんは☆ とりあえず、帰ってきました(ここ2日は、ジムの会員でもある親友(客家系2世(不動産業)→亡くなられた竹内さん、そして芦名さんのことも知っていました(涙)ニュースで見たといってた)に送ってもらったので... 続きをみる
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これらの裁判を細大もらさず記述してみたところで、その結果、影響については、きわめて不十分な認識しか得られないだろう。真の大量粛清は、稲妻と雷鳴の鳴り物入りではなしに、また犠牲者の自白もなしに、実行され、かたばかりの裁判さえもないことがしばしばだった。モスクワでの奇怪な裁判について、トロツキーは次の... 続きをみる
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↑1936年1月15日、ソヴェト連邦中央執行委員会Центральный исполнительный комитет СССРへ「軍事予算増額の必要」について報告するトゥハチェフスキー元帥(陸海軍人民委員代理(ヴォロシーロフ国防人民委員(国防相)元帥代理)兼党中央委員会委員候補)。 ↑1935年... 続きをみる
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次にきたものは、ジノヴィエフ、カーメネフの転向方式についての奇怪な取り引きであった。この取り引きは彼らが収容されていたルビアンカ刑務所の独房とクレムリン内のスターリンの事務室との間で行なわれた。スターリンはこの2人の囚人が暗殺者となんのかかわりもないと公けに認めることに同意した。だがその代りに彼ら... 続きをみる
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9、神々は渇く 序論―ボリシェヴィズムとジャコビニズムースターリン、海外でのトロツキーの活動を注視するーロシアでのトロツキーの影響力―ボリシェヴィキ内の反対派の二つの世代―スターリン、弾圧と自由主義的ジェスチャの間に立って迷う(1934年)-キーロフの暗殺(1934年12月)とえせ自由主義的期間の... 続きをみる
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―彼が入獄と流刑1年半の生活ののちに見出した“バクーのとりで”の状態もまた彼に心強さを与えるものではなかった。ここでもまた、組織は党員数百人に縮小されていた。ボリシェヴィキは2,300人、メンシェヴィキが100人ばかりであった。労組加入者もそう多数ではなかった。学習クラブ(“科学”と“知は力なり”... 続きをみる
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―2人は明らかにうまく折り合わなかったようだ。・・・スヴェルドロフは間もなく別の居住地に移された。独りとなったスターリンは魚釣り、狩り、読書に残る数ヵ年を過した。はじめのうちはまだ逃亡する気持ちが彼の心を充たしていたが、監視がきびしくなるにつて次第に薄らぎ、大戦突発とともに完全に心のうちから拭いと... 続きをみる
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―このペテルブルグ滞在中にーわずか12日間でまた逮捕されたー彼はドゥーマのボリシェヴィキ議員の行動を中央委員会代表として監督するため、彼らと連絡をつけ、新しい喜びに溢れながら、“ズヴェズダ”(星)紙を3回編集し、その紙面を大部分自分の論文で埋め、プラウダ紙創刊号を準備した。1912年4月22日、コ... 続きをみる
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↑左が母親。右が1893年、ゴリ神学校生徒時代。14歳のコーバ(スターリン) 4 コーバ、スターリンとなる 反革命の勝利(1907年―12年)“解党派”と“ボイコット派”-バクーでのスターリンの活動(1907年―10年)-入獄とソリヴイチェゴトフスク(追放―逃亡とバクーへの帰還(1909年)-スタ... 続きをみる
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-10月、ツァーリは憲法上の自由を公約したマニフェストを発布した。自由主義者は勝利を称えた。彼らはツァーリ専制政治を立憲君主制に変えられるだろうかと考え、新しく召集された議会、ドゥーマはこの脱皮のための手段だとみなした。大部分のメンシェヴィキと1部のボリシェヴィキはこの選挙に参加すべきだと考えた。... 続きをみる
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↑オフラーナの「危険な革命家」ファイルに残っていたテル=ペトロシャン(カモ)の写真。 ―コーカサスは武装隊の活躍した主要地域であった。男だてを重んずるコーカサスの義賊の伝統にぴったりとあてはまるロマンチズムが最初の武装隊の頭上に輝いた。1905年から1908年の間に、コーカサスでは全部で1150件... 続きをみる
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―1904年夏、レーニンの若い代弁者で、モスクワの刑務所から釈放されたばかりのカーメネフがチフリスにもどってきた。カーメネフはコーバより3つ若かったが、コーバより見聞は広かった。彼は、モスクワ大学で革命的活動をし、ジュネーヴ、パリ、ロンドンを訪れ、海外ではレーニンの個人的指導のもとで活動し、他のイ... 続きをみる
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↑左、1902年4月、バツームで逮捕後、公開されたスターリン(22歳)の指名手配写真。右、1895年のレーニン(25歳、逮捕、流刑前)。 3 総稽古 ーバツームの獄中でのスターリンー革命のための教育センターとしての帝政ロシア下の刑務所ボリシェヴィズムの起源―レーニン、党規約第1条―1903年、スタ... 続きをみる
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2 地下の社会主義者 未来の革命をつくる人々ーマルクス主義者対ナロードニキ(農業社会主義者)-プレハーノフとレーニン、コーカサスにおける彼らの影響力ー1898年、スターリン、チフリス天文観測所員となるー1901年、革命活動のため地下にもぐるーブルゾーラ(闘争)紙を編集ー彼の最初の政治的論文ーブル... 続きをみる
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ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Георгий Валентинович Плеханов, Georgij Valentinovich Plekhanov, 1856年12月11日(ユリウス暦11月29日) - 1918年5月30日(ユリウス暦5月17日))は、ロシアの社会主義者。... 続きをみる