日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『My Showa history私の昭和史Mon historique Showa』Сюити Като加藤周一Shūichi Katō編edit(1988) 岩波新書Iwanami Shinsho【쇼와 시대昭和時代Сёва】(2024/03/31)CANADA🍁③


 踏みにじられた女たち
 当時、私の大隊本部では大隊長の中沢少佐以外の将校は皆独身だった。指揮班長の木元大尉、大隊副官の横瀬中尉、軍医官の林大尉、それに私と、皆学徒兵出身の将校である。そして全員20歳代半ばで、女の取り扱いについては無知と同じだった。ただ、女に酒をすすめることだけが、私たちにできるすべてだった。
 第11軍の殿部隊として敗戦まで中国軍と激闘し、それ以前は常に最前線にいた私たちが、この女を知っているはずがない。女もそれを承知している。だが、女は誰かに、それも責任ある者に、胸の思いを心ゆくまでぶちまけたかったのである。私は女に聞いたわけではないが、今でもそう思っている。

 今さら胸のうちをぶちまけたとて、どうなるものでもない。だが、そうせずにはいられない。戦争の最大の犠牲者、朝鮮の女の憤怒だったのであろう。考えてみれば朝鮮の人たちほど気の毒な人々はいない。祖国は日本に合併され、そして多くの娘が日本軍将兵の性放出器になったのである。女の過去はおそらくこうだろう。女は間違いなく貧しい朝鮮の農家の娘にちがいない。それが或る日、村の長と日本の官憲に、半強制的に「陸軍病院の洗濯が仕事だ、仕事が終ったらする帰す。給料もしっかりやる」といって連行されたのである。そして、すぐ中国戦線に投入され、娘がそれと気づいた時には、娘の力では、娘の分別では、もうどうにもならない極限の状況に追いこまれていたのである。
 娘から女へ。女の腹の上を通過していった日本軍将兵の数は、何千、何万になるであろうか。毎日毎日が惰性と捨て鉢の日々であったに違いない。
 日本の敗戦、そして祖国朝鮮の独立。それは女にとっては待ちに待った日であり、解放の日でもあった。だが、気がついてみると体はボロボロであり、その心は極端なまでにすさみ切っていた。この体で、この心で、この過去で、どうして故郷に帰ることができよう、と、女は遠い昔の娘心に立ちかえったのであろう。そう、昔のことであろう。この従軍慰安婦という仕事の一年は、普通の十年、いや二十年に相当するかもしれないからである。
 女の口数がだんだん少なくなってきた。酒の酔いが廻ってきたのである。女はついに酔いつぶれてしまった。大隊副官が「少し休ませてやれ」といって女に毛布をかけてやった。女の寝顔は、ひどく幼かった。私たちは全員そっと部屋をでた。

*Die südkoreanische Regierung hat offiziell 240 Opfer registriert, aber eine genaue Zahl ist weiterhin umstritten mit Angaben zwischen 20.000 bis 200.000/Estimates vary as to how many women were involved, with most historians settling somewhere in the range of 50,000–200,000; the exact numbers are still being researched and debated/Оценки того, сколько женщин было вовлечено, колеблются от 20 000 (японский историк Икухико Хата) до 360 000—410 000 (китайский учёный); точные цифры всё ещё изучаются и обсуждаются.
 日本人としてどう考えるか
 日本に帰ってから調べたのであるが、このようにして日本軍将兵の性放出器として酷使された朝鮮の女性の数は六万人とも八万人ともいわれている。戦時統計にすら残らない哀れな彼女らである。そして彼女らの前身は一様にして貧しい家の娘だったという。また、戦地へゆくため船に乗る際、彼女らの身分を明らかにする根拠がないので、戦用資材として処理されていたというのだからひどい話である。
 そして敗戦。彼女らのその後を知っている者は誰もいない。ただ確実なことは、そのほとんどが現地で置き去りにされたか、捨てられたという事実だけである。もちろん、彼女らは故郷には帰っていない。いや帰れないのである。ではどうしたのだろうか。当然これは推測の域をでないが、およそ次のようになるという。現地にそのまま残って今までの仕事を続けたか、あるいは日本の港町の場末にひっそりと沈んだかであるという。何とも人間残酷物語の極致ではなかろうか。

 経済繁栄に酔う日本人は、わずか40年前のことすら忘れている。まして朝鮮人従軍慰安婦のことなど、誰もが初めから関心がない。だが、私は違うと思う。あなたたちの夫や、あなたたちの子どもたちーそれは、もはや、靖国の神々となっているかもしれないし、あるいは現在精力的に社会活動をしているかもしれない。これらの夫や子どもたち、これらの人々の中に今日一日の命と覚悟し、今夜限りの命とあきらめてSome of these people are prepared to live for just one day, and some are resigned to the fact that their life is only for tonight、その人生の最後の一瞬を、朝鮮人従軍慰安婦の腹の上でthe last moment of his life was spent on the belly of a Korean military comfort woman、これが生きている最後の証かと、ひたすらおのが命を燃焼させた多くの人がいるはずであるI'm sure there are many people who just gave up their lives, wondering if this is their last proof that they're still alive.(*ー線(line)サミーSammyより。徐京植先生は、こうした記述にこだわりがあると言及されておられましたIt has been mentioned that Professor Kyŏng-sik Sŏ is particular about such descriptions. 2024/04/19 Canada)。
 私は戦争という不条理の極限の状況下のこの特殊な出来事を、いま問題にしているのではない。まして新たな問題を提起しようというものでもない。ただ、私の言いたいのは、この事実を絶対忘れてはならないということだけである。

 靖国神社護持派や推進派の人々は、わが国の今日の繁栄は靖国の英霊の賜だという。そしてまた、靖国神社の国家護持や靖国神社への閣僚の公式参拝は当然だという。ならば私はこれらの人々に問いたい。「では、靖国の神々に一瞬の命の安らぎを与えて死出の見送りをした朝鮮人従軍慰安婦のこの悲惨な犠牲を、いったいどうしようというのか」と。そしてまた、中国軍民二千万人の犠牲、東南アジア八百万人の犠牲をどう取り扱おうというのかHow should we deal with the sacrifices of 20 million Chinese soldiers and civilians and 8 million people in Southeast Asia?と。
 戦争とは、国という得体のしれない集団の間の不条理・非論理の戦いではあるが、ただそれだけの理解でいいのかどうか。私はやはり集団を構成する個人個人の責任を問わねば片手落ちではないかと思う。その好例が昨今のわが国の現状、すなわち第二次大戦の教訓と反省を忘れた世相である。そこには個人として、また国家としての責任は、もはや忘却の彼方にあるかのようである。ここにわが国の将来に対し、いいしれない危機感を持つ。この時、私は43年前、中国で朝鮮人元従軍慰安婦から聞いた。
 「エエッ!お前ら!これをいったいどうしてくれるんだ!」
という血を吐くような言葉を、昨日のことのように思い出すのである。

 2 中国での体験
 敗戦国の軍隊
 第58師団は敗戦後帰国待ちの集結地を「九江」周辺と定められ、この地に駐留することになった。この地に落ちつくまで私たちは武装したままの戦時行軍を続けてきたが、中国軍とも中国人ともさしたるトラブルはなかった。中国人とは不思議な国民である。明治以来、わが国は国としてどのような友好を中国にして来たであろうか。まして15年戦争を起こして以来、わが国は中国に対して悪逆の限りをやってきたのである。そして今、立場は逆転して中国は戦勝国である。私たちが、かつて中国軍にしてきたような仕打ちを中国軍から受けても文句はいえないのである。だが、中国軍は違っていた。
 中国軍参謀長何応欽将軍は「暴に報いるに情をもってせよHave compassion when repaying violence」と厳しく全軍に布告し、「これを基本として日本軍に対応せよRespond to the Japanese army based on this」と指導したのである。

*Françaisフランス語→He Yingqin, ou Ho Ying-chin (chinois traditionnel : 何應欽허잉친; chinois simplifié : 何应钦; pinyin : Hé Yìngqīn)Хэ Инцинь, né le 2 avril 1890 et mort le 21 octobre 1987, était un militaire et homme politique chinois.
 駐留といっても別に兵舎があるわけではない。まして敗戦国の軍隊である。私たち大隊本部の将校にはある尼寺の附属建物が提供されたが、他はすべて手造りバラックだった。だが間もなく日本に帰れるというので、将兵たちはうきうきしていた。軍規も従前と同じように、厳正に保持されていた。
 兵士の軍務はすべて終り、何もすることがない。そこで、日本へ帰ってからの生活のため各種の職業教育が活発に行なわれた。また、農家の農作業の手伝いに兵士たちは盛んに出勤した。これは大変な好評だった。第一に仕事が早い、そのうえ段取りがいい、そして農業に詳しい、というのである。このためか各隊を訪れる中国農民の数が急にふえてきた。その多くは兵士の手伝いに対するお礼だったようだが、中には名指しで「ぜひ、わが家の養子に世話してほしい」という懇願が少なからずあったという。これは当然かもしれない。長年の戦争で中国の適齢期の若者が極度に少なくなっていたからである。日中友好にしては何とも申しわけない話だと各隊の幹部がこぼしていたのを、私は何回も聞いている。

 中国軍からの出頭命令
 部隊の軍馬、弾薬等すべての戦用資材を政府系中国軍に引き渡してから間もなく、
 「日本軍の軍馬・兵器等取扱い指導のため兵科将校、獣医部将校、下士官・兵若干を〇〇日までに△△まで出頭させよ」と中国軍からいってきた。これは至上命令だという。当時中国も大変だった。共通の敵日本に勝ったが、引き続いて熾烈な国共内戦が待っていたのである。このため政府系中国軍も、日本軍の兵器で早急に戦力を増強しなければならない情況下にあった。
 初め連隊では志願中心で要員を集め、その第一陣を送り出したが、すぐ第二陣を送れという。今度は志願では足りずに私にもお鉢が廻ってきた。私たちは花見中尉を長として、総勢30名が中国軍の指定する場所へと急いだ。もうこれで日本へは帰れないだろうと観念して、私たちは黙々と行軍を続けていた。
 今でこそ小学生の国際交流まで行なわれているが、当時は物心ついたころから中国人はチャンコロであり、米英人は鬼畜米英であった。したがって中国人や米英人は敵以外の何ものでもなかった。この敵に、今度は敗れたためわれわれが徴用されるのである。当然、日本軍が中国軍捕虜にしたようなことをされても、何の不思議はないわけである。「何の因果か」と私たちは身の不運をかこったものである。
 恐る恐る私たちは中国軍に出頭した。中国軍は戦勝気分で、ひどく活気に満ちていた。だが、服装や兵器は、日本軍と比べるとかなり見劣りがした。私の担当である軍馬の衛生。これをつかさどるのは当然中国軍でも獣医部である。私はここを訪れてビックリした。薬品は木根草皮ばかりである。あるいは乾燥したもの、あるいは瓶に浸したものと、いわゆる現代医療品は一つもない。器材も昔から日本の伯楽が使っていたような古典的器材ばかりである。
  このすさまじい現状を見て、私は最初にいだいていた軽蔑が、ある種の感動にかわった。つい先ほどまでは米式装備の中国軍の精鋭と死闘をくりかえし、昨今の中国軍の急変に目をみはっていた私たちである。そして今見る中国軍の劣悪装備である。私は改めて中国の国土の広大さを、中国軍の苦難を思った。そして、よくもこんな劣悪装備で頑張ったものだという感動を、どうにもおさえることができなかった。

 古来中国は師を尊ぶ
 中国軍は私たちに実に丁重だった。これは予想もしなかったことである。私たちの宿舎も、営外の立派な建物を準備してくれていた。その上、私たちに対する敬礼が、日本軍以上に厳正丁寧なのが何とも不思議でならなかった。私はある大尉にこのわけを聞いてみた。すると大尉はおかしな質問をするものだといった顔をして、
 「古来中国は師を尊ぶ、師を尊ぶに何の不思議があるのか。なるほど、貴官らは敗戦国日本の軍人である。だが、現在の貴官らの立場はこうだ。われわれ中国軍の教官、すなわちわれわれの師なんだ。この師を尊ぶのは古来中国からの習わしである」
と、いとも簡単に言うのである。そして、また続けて、
 「日本の敗戦は黄河の氾濫だ。そのうち今まで以上の日本に必ず復興するだろう」と。
 残念ながら私は、大尉のいう”黄河の氾濫”という言葉の意味がわからなかった。
 「黄河の氾濫?」私の問い返しに、大尉は答えた。
 「そうだ、黄河の氾濫だ。黄河は時々氾濫して、家屋はもちろん、多くの土地まで流してしまう。この点からいえば、黄河の氾濫は中国人にとっては耐えられない天災だ。だが、この氾濫もいつかは必ずおさまる。そして、そのあとに豊沃な土壌を残すのである。この豊沃な土壌で中国農民はどれだけ救われることか。このような禍福
は紛える縄の如しで、禍のあとには必ず福がくるんだ。敗戦などいつまでもくよくよするな」と。
 この大尉の言葉を聞いて、私はショックにも似た感動をどうすることもできなかった。もちろん、なまりの強い大尉の中国語が私に充分わかるわけがない。筆談をまじえての会話であったが、大尉の意中は私にはわかりすぎるほどわかった。私はこの時ほど私が、そして日本が、惨めに思えたことはない。中国人に対して、一度としてこのような言葉をかけた日本人がいただろうか。私は「敗れるべくして敗けた戦争とはこのことか」としみじみ思った。

Hayashi Yaichiiro(林弥一郎, 1911 - 1999)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍少佐。日中友好会会長。中国人民解放軍空軍の創設に貢献した。大阪府出身, formerJapanese pilot that ended up being one of the early instructors of the People's Liberation Army Air Force汉名林保毅,日本大阪府南河内郡人。东北民主联军航空学校主任教官、有“中国人民解放军空军之父”的称号②直接は無関係とはいえ、(以前別の頁で紹介しましたが)立場は(国府軍と中共軍の違いこそあれ)同じなので参照させていただきましたAlthough they are not directly related (as I previously introduced on another page), I referenced them because their positions are the same (there is a difference between the Kuomintang Army and the Chinese Communist Army).林少佐も農家出身Major Hayashi was also a farmer.そして、次の著者に関連しますAnd related to the following authors.

 大陸からの申し出

 中国軍人との交流もだいぶ進んだ。教育も終りに近いある日のこと、大尉は私に話があるという。

 「貴官も承知の通り、目下中国は国家統一のため、中共軍と戦いが続いている。このため、中国は優秀な日本軍人を切に求めている。どうだ、貴官もひとつ中国軍に加わって中国近代化のために働く気はないか。条件は日本軍の現在の階級を三階級特進させることと、妻を二人世話することである。二、三日で返事がほしい」

というのである。またまた私はビックリ仰天である。日本人に敗戦国の軍人を三階級も特進させて使う発想がはたしてあるだろうかという驚きである。

 もうこの頃になると、初め心配していた”もう日本へは帰れないのではなかろうか”ということが全くの杞憂に過ぎなかったことを私たちは知った。そうなると正直なもので、帰心矢の如しである。三日後大尉は、私に返事を求めてきた。私は、

 「残念ながら私は農家の一人息子である。家には年老いた両親が私の帰りを待っている。貴軍の私に対する気持はありがたいが、私は一日も早く家に帰らねばならない」

 と、答えた。すると大尉は急に暗い顔をして、いうのである。

 「貴官の気持はよくわかった。この話はなかったことにしよう。だが、私は貴官がうらやましい。貴官には、貴官の帰りを待っている両親がいる。だが、私には両親も姉妹も誰もいない。皆日本軍に殺されたのである」

 世に冷や水をかぶせられたような、という言葉がある。まさしくこれである。私は息をのぶばかりで、返す言葉もなかった。続けて大尉はいった。

 「気にすることはない。戦争とはこんなものだ。貴官と私には何の関係もない。家に帰ったら両親によくすることだ」

 愚鈍な私もようやく日本人の根本的な間違いに気がついた。そして”日本”という言葉がひどくうとましくなってきた。

 日本とはなんと思い上がった国なんだろう。日本人とは何とどうしようもない国民なんだろう。日本の教育は何と間違っていたんだろう。

 こうした私なりの憤懣を、しばらくの間私はどうすることもできなかった。これにはさらに私の貧しい人間性を告白しなければならない。もし、そうしなかったら、私がいかにも純粋な若者だったということになる。だが、私はそんな立派な若者ではなかった。実は私は大尉に嘘を言っていたのである。

 たしかに私は農家の長男だが、一人息子ではない。弟が一人いるし、姉妹は六人もいる。また、父は五十代、母は四十代で、年老いてはいない。だが私は大尉に、年老いた両親とか、一人息子だ、と嘘をついたのである。中国軍の長期留用が怖かっただけであるが、中国人や中国軍、そして大尉の大海原のような寛容さにくらべ、何と私の心情の貧困であったことか。私は今でもこのことを思い出すたびに、たまらない自己嫌悪に陥る。


Records of Japanese soldiers remaining in China 古川 万太郎Mantaro Furukawa Iwanami Shoten 1994/10/17
中国残留を余儀なくされた日本人兵士の中に人民解放軍に協力し,国共内戦を戦い抜いた人々がいたAmong the Japanese soldiers who were forced to remain in China, there were those who cooperated with the People's Liberation Army and fought through the Communist civil war. 中国空軍を創設した将校,砲兵を指揮する大隊長,炭鉱,工場で働く人々The officers who founded the Chinese Air Force, the battalion commanders who commanded the artillery, the people who worked in the mines and factories……克明な取材で明らかにされた日中交流側面史A side history of Japan-China exchange revealed through detailed interviews.


*Portuguêsポルトガル語→O Exército da Oitava Rota (chinês tradicional: 八路軍팔로군, chinês simplificado: 八路军, pinyin: Bālù-Jūn)8-я армия (НРА)8. Marscharmee8e armée de route, oficialmente conhecido como o 18º Exército de Grupo do Exército Nacional Revolucionário da República da China, foi um exército de grupo que atuou sob o comando do Partido Comunista da China, nominalmente dentro da estrutura de militares chineses chefiada pelo Partido Nacionalista Chinês durante a Segunda Guerra Sino-Japonesa.
                   八路軍と共に八年     本間雅子
                      ほんままさこ 1924年生 山口県玖珂郡玖珂町 無職
 開戦・結婚・渡満
 私は大正の末年、瀬戸内の山あいの農村で生まれた。もの心つくころに初めて電灯がつき、四キロ離れた小さな町に汽車が開通したのは、小学校の高学年のころである。
 子どものころのかすかな記憶に二・二六事件があり、硝煙の匂いがし始めたころ、学校で軍国教育を受けた。小学六年の時、当時の満蒙開拓団への誘いの講演があり、胸を湧かせた思いが今も心に残っている。満州事変、支那事変と戦いの兆が見え、戦時色が日本中を包みこんでいった。お上のやることに間違いがあろうとは思いも及ばなかった。

*Русскийロシア語→Японская иммиграция в Маньчжурию満蒙開拓移民Japanese settlers in Manchuria满蒙开拓移民 — часть национальной политики Японской империи, выражавшаяся в виде поощрения в 1931—1941 годах переселения японских крестьян на территорию марионеточного государства Маньчжоу-го, созданного японцами в 1932 году после вторжения 1931 года.
 太平洋戦争が勃発した翌年に、私は女学校を卒業した。家にいると徴用がかかるというので、村の郵便局へ勤めた。業務にもやっと慣れて当直についた夜、仮眠中を電話のベルで起こされた。手にした受話器から、兄の戦死を知らせる電報を震える手でようやく書き取った。あの時の衝撃は今も身内によみがえる。
 元気な男たちは大方兵隊にかり出された。年ごろの女たちは容易に結婚相手にめぐり会うことはできなかった。
 そんなある日、田舎では見かけない、印象に残る人が局を訪れた。彼は軍の休暇で帰省し、花嫁探しのため、郵便局にいた私を見に来たのだった。結婚の話は、彼が満州へ着任した後で進んだ。私の方はそれとは知らず、窓口からちらっと見かけただけの彼と結婚することになった。満州へのあこがれと、非常時という当面の世相が私をそうさせたのだったろう。
 満州へ着任したばかりの彼が、結婚のために再び帰郷することは許されず、私は写真を相手に結婚式を挙げた。
 昭和20年5月の末、戦況は緊迫していた。満州へ渡るということは、容易なことではなかった。すでに関釜連絡船は閉鎖されており、船は博多から出航した。父の同行も考えていたが、帰りの船を危ぶんで、私はたった一人異郷の地へ向かった。その前々日にも船が撃沈されたとか。思えば命がけの旅だった。にもかかわらず船内は超満員だった。私は船底の暗い船室で船酔いにあえぎながら、不安な夜を過ごした。釜山に上陸した時は命拾いした心地だった。後で聞くと、翌日から船の運行は停止されたという。母は私を行かせなければよかったと、ずいぶん悩んだという。
 戦況が思わしくないとはいいながら、その時の私は、間もなく日本が敗れようとは想像もできなかった。神風が吹いて日本は危機を脱するといわれていた。日本の周辺には機雷が無数に敷設されていたのだと私は後年になって知り、ぞっとしたものである。
 夫は本渓湖の憲兵隊に所属していた。早朝、駅のホームで、写真でしか見ていないその人の出迎えを受けて、私はようやく安堵の胸をなでおろした。
 若草のもえる丘の上に建ったが赤い屋根の瀟洒な家が気に入っていた。恥じらいと、田舎者の気の利かなさとでとまどいながら、新婚の日々はまだ夢心地だった。スナップ写真を撮って、故郷へ第一信を書き送ったまま、父母からの返信を手にもせぬうちに敗戦になった。二人の愛情も育て得ぬままに、新婚の夢は無残に打ち砕かれた。

*Deutschドイツ語→In der Radioansprache Gyokuon-hōsō (japanisch 玉音放送옥음방송, deutsch etwa: „Übertragung der kaiserlichen Stimme“)Обращение императора Хирохит verlas Tennō Hirohito den „Kaiserlichen Erlass zur Beendigung des Großostasiatischen Kriegs“ (大東亜戦争終結ノ詔書《大东亚战争终结之诏书》, Daitōa sensō shūketsu no shōsho)〈종전 조서〉(終戦詔書)《终战诏书》. Es handelte sich um die erste öffentliche Übertragung der Stimme des Tennō.
 敗戦と夫との別れ
 8月15日、本渓湖の空もよく晴れていた。12時には隊の方に来るようにという夫の言葉どおり、官舎の奥さん方と初めて憲兵隊本部の門をくぐった。聞きとりにくいラジオの放送に耳を傾けていると、突然隊長が大声をあげてラジオを床に投げつけた。何のことかわからなかった私は、隊長のすさまじい言動にただおびえた。あとの説明で、敗戦の玉音放送だとわかった。
 「どうなるのだろう?」だれもいちばん先に思ったことである。涙がとめどなく流れた。外には照りつける太陽に大きなヒマワリが陽を追っていた。いずれ通達があるまで待機するようにといわれ、家でひっそりと過ごした。ある日山に近い家が暴民に襲われ、一夜のうちに家財残らず持ち去られた。
 丘の上にいた私たち住民は、下の方の家に同居することになった。武装解除があり、男たちは全員連れ去られた。女子供ばかりになった数日の間に武器の隠匿を調べる家宅捜索があった。武装した八路軍兵士が、私たちを一室に閉じ込め見張りをした。私たちは怖さに震えながら、家中がかき回されるのを見つめていた。夜半、玄関の扉を激しく叩く音におびえ、私たちは足袋はだしで裏口から逃げ出した。凍えた雪の中を痛みも冷たさも感じずに走った。

 逃げかくれしていた夫が、捕まった。どういういきさつがあったのか私にはしかとはわからぬまま、夫は八路軍の中で働くことになった。私は同県人のもとに託された。終戦の年の暮れ、凍てついた雪の中を、わずかばかりの荷物を馬そりにのせて引っ越した。持ちこして来たもので食べつないでいた。二月の厳寒期、夫は少し遠くへ行くからしばらく来られないといって、別れに来た。
 私はいっしょに行くと言い張ったが、「折を見て逃げ帰る。その時足手まといになる」と私を残したまま行ってしまった。黒い中国服のズボンに締めた。私の真紅の腰ひもの端が、雪の中にゆれながら遠ざかって行った。それきり私は彼と会うことはなかった。

 八路軍に加わる
 それから間もなく、居留民会からの通達とかで町内の集会があった。八路軍の病院へ協力のため、数人を出すようにとのことで、くじ引きとなった。たまたま私の同居先の主人がくじを引き当てて来た。めいにあたる人が同居していたが、私が出ないわけにはいかなかった。手回りの荷物を持って、雪どけの道をこの家の主人が送ってくれた。
 私は見も知らぬ人の中にほうり出された。夜、床の中で枕を濡らした。故郷を出る時母が「何かの折にはこれを持って、何回でも称名をとなえなさい」と持たせてくれたお守りを手に、その通りにした。やがて気分が落ちついて眠りについた。
 私たちの仕事は、国内戦で傷ついた八路軍兵士の看病だった。12名の班編成で、比較的年長の私は、班長をやらされる羽目になった。日本が支配していた環境の中で、私たちもいつしか中国人に対して優越感を持ち、蔑視の感情を持っていた。その人たちの両便の世話をしなければならない。屈辱で涙がぼろぼろ出る。しかし戦争に敗れた国だからしかたがない。私たちはほかの日本人の犠牲になるのだと自分にいい聞かせて、仕事についた。
 一か月もすれば帰宅できると思っていた。ところが間もなく、戦況の変化に伴って病院は移動するという。私たちは啞然とした。帰宅を要求したが容れられなかった。私たちの手ではどうすることもできなかった。家族との別れもなし得ぬまま、せきたてらるように汽車に乗った。それきりこの地に戻ることはなかった。汽車は高粱畑が続く中を走った。飛び下りれば逃げられるとひそひそ話している者もあったが、実行した人たちもいずれは連れ戻された。
 八路軍は後退を続けた。汽車のないところではトラックに一班ずつ乗って移動した。鳳凰城、二道江と時には患者を収容して、北朝鮮の対岸の大栗子というところまで退った。
 大栗子にいる時、一般日本人の帰国が始まった。私たちは帰国を要求してストライキをしたが、聞きいれられるはずもなかった。病院の医療・看護面はすべて日本人がたずさわっていたのだから、私たちは逃げ帰るすべもなく、諦めるよりほかなかった。
 そのころのある日、病室で班員の一人が患者と口争いの末、「もういっぺんひっくりかえればいい(日本が勝つの意)」といった。怒った患者に殴られると半べそで帰って来た。患者のリーダーから呼び出しがあった。私は𠮟られるのを覚悟で病室へ行った。リーダーは笑顔で私を迎えた。「殴ったりしてすまなかった。八路軍には人を叩いてはいけないという規律がある」と反対にあやまられた。
 八路軍の戦況は悪く、私たちの病院はついに鴨緑江を渡って対岸の北朝鮮まで後退した。軍の幹部は折々の演説で「八路軍は燎原の火の如く、やがて力を盛りかえす」とくり返し言っていた。私たちは、早く負けてしまえば帰国できると、戦争の早い決着だけを願っていた。

 北朝鮮の冬
 朝鮮での生活はひどいものであった。入口の破れ障子からは雪が吹きこみ、焚く薪はなく、冷えきったオンドルを体温で温めた。四畳半の部屋に12名が寝起きした。夜勤者がいるから寝られたが、いったん抜け出すと入りこむのは容易ではなかった。病室から持ち帰ったシラミは間もなく全員がかかえた。食事は毎食栗のご飯で、ボロボロと箸にはかからなかった。私たちは白菜が二、三片浮いた塩汁をかけて流しこんだ。そのころ患者には白いご飯と、肉の入った菜がまかなわれていた。’
 私たちは毎日交替で患者のご飯とお菜のバケツ一個ずつを自分たちの部屋へ運んだ。飯上げの量が多いことに気づいた炊事の責任者が眼を光らせるようになった。運悪く、班の最年長者がやった時見つかってしまった。病院本部まで来るようにという報せを受けて、私は平身低頭して彼女を引き取って来た。が、その後も量を減らして、ひそかに悪行は続けられた。
 中庭にある古井戸の周りは、汲み水がこぼれて側の縁まで水で埋まっていた。二、三人がかかりで綱をたぐり、命がけで水汲みをした。水も湯も乏しく、四、五百メートル離れた病棟への運搬はもっと大変で、私たち患者に三、四人が一つの洗面器で洗面するよう強要した。
 私たちは患者に対して最小限しなければならないことだけしかしなかった。患者の方も私たちに同情的な者が多く、たいていは不満をいわなかった。北朝鮮の冬は厳しく、豆油灯のともる病棟から霊安室の隣りにあるトイレまで、夜半、患者の便器を何回も運ぶのは、泣きたくなるような辛いことであった。トイレは汚物がつぎつぎ凍ってうずたかくなっていた。
 半年経ったころ、私たちは四キロも離れたところから丸太を運び、それを割って、半年ぶりにひざまでの湯につかった。腰が抜けるとはこのことかと思った。翌日は足腰の力がすっかりなえていた。

 脱走
 鴨緑江に張りつめていた氷がゆるんで流れ始めたころ、八路軍は勢力を盛りかえした。私たちの病院は中国本土へ戻ることになった。抜け出すチャンスだとだれもが思い、計画した。
 私はよく、班の人たちとなけなしの金をはたいて中国人の経営する食堂へ行っていた。そこのご主人が私の連れのAさんを、自分の亡くなった娘に似ているといって目をかけてくれた。そのご主人が、もし脱け出すなら手を貸してあげようといってくれた。私とAさんはさんざん考え迷ったあげく決行することにした。
 いったん本土に移った日の午後、迎えに来るという手筈である。病院の方でも脱出を警戒して、それとない監視の目があった。私とAさんは平静を装い、班員といっしょに散歩の体ですんなり脱け出した。夜になって板前が迎えに来た。小さな船で再度鴨緑江を渡るのだ。流れの早い鴨緑江の、結氷がとけたばかりの水中へ転覆でもすれば命はなかった。細い月がわずかに照らす川面を見つめて息を殺した。向こう岸へ下りた時遠くから祭ばやしが聞こえた。大変なことをしたという思いにかられた。二人は草深い民家に案内された。
 そこには、もう一組脱走者がいて計四人になった。ひっそりと人目を忍び、声を落としての生活が苦痛になって来た。南へ向けて旅立ちたいといったら、二人ずるがよいといわれて、彼女たちが先に立った。二日おくれて私たちも旅立った。
 夜の闇の道を40キロも歩いたろうか。翌朝は足腰が立たず、這ってトイレに行く始末だった。出立は不可能で、一日休養させてもらった。その翌日、先発した二人が捕まったという報せが入った。私たちはもう歩く意欲をなくした。どうせ働くなら中国にしようと、ためらいもなく向きを変えて白昼堂々、中国への道を歩いた。すぐにとがめられ、車で運ばれて、間もなく中国側へ引き渡された。
 私たちの病院はその時、三百キロも前進していた。まさか元の病院へ帰されるとは思わなかった。さすがにきまり悪く、班員には申しわけなく、詫びた。みんな快く迎えてくれた。
 所長は「間違いはだれにもある」といってとがめもしなかった。私たち二人は一週間、勤務員のトイレ掃除を命ぜられた。トイレ掃除は十分もあればすむ簡単な作業だった。が、私たちには恥しい辛い仕事だった。みんながいない時を見はからって大急ぎですませた。忙しい普通の仕事に戻ってほっとした。

 整訓 
 やがて整訓と呼ばれる学習が始まった。勤務員が半数ずつ前後期に分かれての合宿だった。後続の男性から「赤くなるなよ」といわれて、「大丈夫。赤カブよ。中まで赤くはならないわ」と、やりたくない学習に臨んだ。
 日本人の指導員で、すでに共産主義について充分理論を身につけた人の講演が毎日あった。原始、封建、資本主義社会と、私たちがそれまで教えられて来たこととはまるで違う考え方である。私たちは最初、耳はかさない、聞き流すつもりで座っていた。「そんなことはない」と否定し続けながら、いつしか話に興味を持つようになっていた。肯定したわけではない。徹底反論するために聞いた。そして反論したが、すっきりしなかった。しかし学習が終わるころには、自分たちがそれまで教えこまれたことに間違いがあったかも知れない、とわずかながら疑問を持つようになった。
 八路軍の解放地区はだんだん拡がった。病院も患者を移送し、自分たちも移動した。そのころの私たちはもう徒歩行軍をするようになっていた。
 長期行軍という任務をひかえて、病院内で訴苦大会というのがあった。過去に受けた苦しみを訴えるというもので、日本人の間では敗戦後の苦しみを訴えるものが多かった。中国人の場合は地主からの圧迫、国府軍・日本軍からの残虐な仕打ちなど、ほとんどの人が苦を訴えていた。そのような苦を再び受けることがないようにするには、具体的に自分たちはどうすればよいかと徹底討議が行なわれた。私たちは中国人の訴苦を聞き、多くを知った。この運動は次の重要な任務に移るための精神の高揚のためでもあったようである。
 私たちは整訓の学習のあと、すっかり考えを変えるというまでに至らなかったが、少しずつ協力的になっていった。
 それは周囲の中国人のおおらかさと、八路軍の政策に納得させられるものがあり、さらに戦争の好転、民衆の八路軍への支持などによったものと思う。

 行軍
 その後は一路南進の行軍が始まった。自分の荷物はすべて自分で持つことになった。薄い布団一枚と着替えと日用品、それ以上持つ余裕はなかった。それを背嚢に仕立てて背負った。一日平均32,3キロ歩いた。二日間砂漠の中を歩いたこともある。一歩踏み出した足が半歩戻って来る。歩いても歩いても進まない行軍に疲れ果てた。宿に着いて、砂風を浴びた。お互いの顔を見て、何十年か先の老いの顔を想像して笑いあった。
 焼けた土の上に、心地よく寝込んだ夜明け、冷えこんだ大地に目覚めた野宿もあった。運河では半分に分かれて、丘から船を曳いたり、交替して船に戻ったりした。船についているロープを十人ぐらいで引っぱるのだが、曳く時の辛さは足も腰も力尽きてしまう。しかし船に戻って、さんざめきながらあたりの風景に目を奪われる時の気分は、後になっては懐しいことの一つである。戦闘があればそのつど傷兵を収容した。
 河南省鄭州の郊外に駐屯した時は、民衆の地主に対する裁きを見た。それまでしいたげられていた人たちの憎しみが、激しい言葉になってとび出し、胸を打たれた。土地を解放してくれた八路軍を民衆が擁護するのも当然に思えた。

*Deutschドイツ語→Die chinesische Landreformbewegung (chinesisch 土地改革運動, Pinyin Tǔdì gǎi gé Yùn dòng 土地改革运动)Le mouvement de réforme agraire chinois, kurz Chinesische Landreform, war eine Kampagne der Kommunistischen Partei Chinas unter dem Vorsitzenden Mao Zedong in der späten Phase des Chinesischen Bürgerkriegs und in der Frühphase der Volksrepublik China.
 私は東北部の雪中行軍の折に虫垂炎を起こし、弱った体にシラミ媒体の熱病でうなされた。また華中での行軍の一日、胸の重苦しさを感じて医師の診断を受けた。湿性の肋膜炎で行軍を続けることはとても無理といわれた。その時の私は「大丈夫です。ついて行きます」と心からそういった。一人置かれる心もとなさもあったが、それ以上に病をおしてでもやろうという気概を持つようになっていた。
 結局、所長命令で45日間入院し、おそれていたマラリヤも併発したが、予定通り退院できた。病院では48時間休みなしの勤務が待っていた。再発をおそれている暇はなかった。立っていても眠い勤務を完了した。
 1949年10月1日、新中国国家成立の報せを聞いた。私たちは歩きに歩いて湖南省の長沙まで来ていた。報せを聞いて私たちは自分たちのことのように感激し、喜んだ。しかしまだ未解放の地域も多く、私たちは更に敵を追って南下した。
 切断されている線路にそって歩きながら、到るところにある「地雷注意」の立札に緊張し、前を歩く人の足あとからそれないようにして歩いた。敵の後退が早く、私たちもゆっくりしてはいられなかった。夜明けの前の行軍や日暮れてからの行軍があった。前の人の背包に白いタオルを下げて目じるしにした。眠くてよろけそうになるのをがまんして歩いた。苦行ともいえる辛い行軍だった。前線が近いようで、水面近く架けられた仮橋に死体がかかっていてぎょっとすることもあった。
 行軍の当初は靴ずれに泣く思いもしたが、長い間に行軍は日常生活になっていた。中国大陸の北辺の地をたって足かけ五年、万里の長城を越え、黄河を渡り、長江を渡って、中国の最南端広西省までを二本の足で歩いた。ベトナムまで二、三百キロの地点南寧に落ちついた。

 帰国
 病院は正規化され、私たちは患者のため誠意をもって働くようになっていた。重症の患者に進んで血液を提供し、便秘で苦しんでいる患者の便を指でほじり出すなど、すぐれた看護をしたというので立功という賞をもらった。
 病院が落ちついてからは、生活も仕事も楽になった。長く辛かった行軍の日々を懐しくさえ思うようになった。その後何回か転勤して、昭和28年にやっと待ちに待った帰国船が来ることになった。
 何度か噂があっては消えた帰国ができる。仕事も手につかない。体中が踊るような喜びだった。しかし八年間過ごした中国と、いっしょに働いた中国の人との別れは、寂しく哀しく胸のつまる日々でもあった。
 不本意で参加した八路軍だったが、苦楽を共にした八年の間に、新中国の建設のためと思うようになった。1956年周総理の言葉に「中国政府は一部の日本人に感謝している。彼らは医師、技術者、看護婦としてわれらの解放戦争に参加してくれた・・・」とある。私たちの力は一握りの砂に等しいものだったが、わずかでも役立てたと思えることが私自身の心の灯となっている。その後の人生で辛いこと哀しいことがある度、ふつふつと心の中に温かみが湧くのはこのことがあるからだと思う。
 終戦の翌年雪の日に別れたままの夫は、五年後、祖国との通信ができるようになって、すでにいっしょに住んでいる人があるとわかり、離婚した。帰国のため集結した漢口で船の迎えが三か月もおくれたことで、私は結婚相手にめぐり会った。
 昭和28年8月、縁したたる舞鶴へ上陸した。瀬戸内の肉親との再会の喜びも束の間、夫の郷里小樽へ落ちついた。職を得、祖国の生活になじむにはしばらくかかったが、その後夫婦生活は平穏に、27年がいっきに過ぎた。
 会社員だった夫は定年退職後間もなく、半年の闘病で世を去った。子供に恵まれなかった私は、いま故郷で静かな余生を送っている。新聞やテレビで報ぜられる中国のことには、常に関心をもつ。折々あの当時のことを懐かしく思い起こし、訪ねてみたいと思う。あの八年は、長く重みのある年月に感じる。あの時があって今の自分があると思う。

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