日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『타올라라 검(燃えよ剣)』幸運な方=「司馬史観」氏(ネット時代到来前の「ご逝去」)『Shinsengumi Keppūroku (新選組血風録)』『Wolken über dem Abhang(坂の上の雲)』番外「ネットサーフィンInternet surfing」⇔Drama『電車男El Hombre del Tren』と「うそ」について(CANADA)2016/09/23

はじめに:
こんばんは。また丑の刻になってしまいました。やはり気になった「バンクーバー殺人事件」を調べていたら眠れず・・・。明日は六時おきだからいい加減に寝ないとかなりヤバイ。ただ今日のマッサージの「余韻」は去らず(「治療師」は患者さんそれぞれが「背負っている」ものを吸収してしまう)。ですのでゴチャゴチャ編集しました。おやすみなさい☆ サム 2016年9月23日 リッチモンドヒル オンタリオ カナダ
昨夜の序文から:
これ、ぱっと思いついたので紹介します。こういった司馬氏の「著作」は80%はデマカセ(しかも「でっちあげ」「改竄」であるから「-50点」としかいえないでしょう。↓にあるとおり。篠原泰之進が(ここには記されてない)「豚の肉ばっか食ってた」だの「耳がかゆくていつも洗ってた」から「中耳炎」で死んだ。すべてうそっぱち「捏造」であります。明日また詳しくほかの人物もふくめ紹介します。とりいそぎ、ながらまったくもって・・・「娯楽」「楽し」けりゃなんでもいいんでしょうか?(しかも「フィクション」(架空の話)とはいっていない)。
①『新選組血風録』(しんせんぐみけっぷうろく)は、司馬遼太郎の小説。幕末の新選組を題材とした連作短編集である。これを原作とした映画、テレビドラマがたびたび製作されている。司馬遼太郎は、1962年5月から12月に「小説中央公論」で新選組を題材とした15編の短編を連載した。これが1964年に中央公論社から短編集『新選組血風録』としてまとめられた。
②Shinsengumi Keppūroku (新選組血風録) is a Japanese television jidaigeki or period drama that was broadcast in 1998. It is based on Ryōtarō Shiba's novel of the same title and Moeyo Ken. It depicts the stories of the Shinsengumi. Synopsis=The arrival of Matthew Perry's Black Ships rudely awakened Japan from 300 years of isolation from the world. Men set their eyes beyond Japan and began to demand change in society. Old clashed with the new, and thus began an age of turmoil. Amidst this confusion, one group remained true to the old ways and risked their lives to preserve the traditional shogunate system. Led by their charismatic captain, Kondo Isami, the Shinsengumi upheld the code of honor of the samurai. Tales abound of the feats of men like Kondo, Hijikata Toshizo and Okita Soji. In general, the passion and glory of these men who lived during these turbulent times in Japanese history are given exploration.
21世紀「ネットサーフィン?」:
ードラマ『電車男』でこの言葉・表現を知りましたが、今だに概要は把握できない古強「文学徒」です。それはともかく、司馬氏は非常に好運な方だったといえる。存命していたらいろいろ叩かれるのは逃れられなかったはず(晩年は元皇軍陸軍将校たちからなる「偕行社」に『坂の上の雲』は史実と異なると批判を受け、何の釈明もしないままご逝去なされた人・・・「国民文学」ここに極まれりの様相・・・。)。
ーちょっと「10分」ほど「ネットサーフィン」を決め込めば以下↓の情報がえられる(20年前を思い出せば信じられない=最低「一週間」そればっかり「籠もる」を強いられた)。

1、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は小説であって歴史書ではない
2、誤謬だらけの『坂の上の雲』―明治日本を美化する司馬遼太郎の詐術 単行本 
3、司馬遼太郎『坂の上の雲』は間違いだらけである。それを無批判にNHKが全国放送する。司馬いわく「日清戦争に日本は受け身だった」「日露戦争は、祖国防衛戦争であっ ・・・」
https://www.amazon.co.jp/誤謬だらけの『坂の上の雲』―
4、司馬遼太郎さんの「坂之上の雲」はベストセラーとなりましたが、これは小説です。
http://yamahiko-farm.jp/blog2/2014/01/post-910.html
私のうちには父が購入したハードカバーの「坂之上の雲」(当時1冊350円!!!)がありますが・・・・・ほとんど読んでいません。司馬遼さんの著書はかなり購入し熟読していますが(特に関が原はお気に入りです)、なぜか「坂之上の雲」だけは苦手です。初めて読んだのは小学生の頃ですが・・・・早すぎると言うよりも私と波長が合わない読み物でしょう。 この「坂之上の雲」は歴史研究書ではありません、ただの小説です。これが日露戦争の研究に関して負のイメージを与えていることは私も感じております。くどいようですがこの本は小説です。決して研究書には引用してはならない資料であります。(司馬遼さんの作った歴史です)しかしながら司馬遼さんの名文により多くの読者が誤認することは致し方ないところです。 私が公刊戦史を熟読しただけでも、世間で言われている司馬遼さんの主張が間違いであることはよくわかります。先日の橘祭でお話をした偕行社の方も「あれは小説だ、時代考証に間違いがある」と語ってお出ででした。

・・・だそうであります・・・(*番外編・巻末脚注)
*ドイツ語→Saka no Ue no Kumo (jap. 坂の上の雲, dt. „Wolken über dem Abhang“) ist ein Roman des japanischen Autors Shiba Ryōtarō. Es gilt als bekanntestes Werk des Autors. Der Roman erschien zunächst zwischen 1968 und 1972 als Serie in der Zeitung Sankei Shimbun und wurde dann in sechs Einzelbänden bzw. acht Taschenbuch-Bänden veröffentlicht.
「坂の上の雲」・国民文学と私:
ーちなみに「坂の上」云々は私も、ほとんど読んでいません(この間のアメリカ老大将宅に一つの本棚「国民文学書」だけで埋まってた。まさにわんさか並んでたのを横目でみてましたけど・・・)。
ー「読み物」「趣味」としてはおもしろいです(私に関しては「小学校・中学生」当時の話に過ぎず)。今は全然おもしろくもおかしくもない。いわゆる「お殿さま」「上さま」「筆頭大名」「将軍家」「大御所」どうこう「命令者」の「見下ろす」視点ばっかり(または立身出世列伝?→『国盗り物語』(斎藤道山=元油売り)『太閤記』(秀吉=元百姓))。「下級雑兵」(足軽?)は?実際に戦場で命を賭けて戦うのは「豊国大明神」(秀吉の戒名)でもなければ「東照大権現」(家康)でもない「召集兵」たちであります(司馬氏は43年に学徒出陣。44年、満洲の戦車連隊に配属。45年の敗戦は内地で、「本土決戦」に備えた戦車隊の小隊長(陸軍少尉?中尉?)として迎えた)。
*注:上海派遣軍・南京戦にも参加した後の記者・作家の故棟田博氏(元伍長・著作『拝啓天皇陛下様』、負傷して除隊後は従軍記者として宜昌作戦(1940年)にも従軍)におなじく南京戦に参加。反戦文学作家の故火野葦平氏(元軍曹・著作『麦と兵隊』)が放ったという言葉「きみ、伍長でよく生きてたな」棟田氏「伍長は消耗品ですから」(笑)(藤原彰『日中全面戦争』1988年)故藤原氏(一橋大学教授・南京事件調査研究会・委員・中隊長(少佐)として中国各地を転戦(44年末からの「大陸打通作戦」に参加)との対談において。サム 2016年9月24日、追記
新撰組関連の改竄・捏造:
篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日(1828年12月22日) - 明治44年(1911年)6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。
来歴
筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。嘉永5年(1852年)、藩士・小倉一之進に仕えた後、家老・有馬右近の中間となる。安政4年(1858年)、有馬の江戸藩邸勤番に伴って上京し、北辰一刀流を学ぶ。桜田門外の変の影響を受け、翌月に藩邸を脱出し、尊王攘夷の志を抱いて水戸に滞在する。文久元年(1861年)、江戸の揚心流柔術師範・戸塚彦介のもとに潜伏した後、旗本(講武所柔術師範)・窪田鎮勝のもとに滞在して大攘夷論の影響を受ける。翌文久2年(1862年)、大阪や京都にて尊攘志士と交わり、のち諸国を巡る。文久3年(1863年)、神奈川奉行所の定番役頭取取締だった窪田鎮勝に従い、同奉行所に雇われ、横浜の外国人居留地警備に当たる。この頃、服部武雄や加納鷲雄、佐野七五三之助らと交遊を深める。同年10月、イギリス人3名が税関に乱入したため、縛り上げて海岸に放置する等の暴行事件を起こして江戸に潜伏する。この頃、伊東甲子太郎と交遊を深める。元治元年(1864年)10月、伊東や三木三郎など計7名で新選組加盟を前提に上京。篠原のみ大阪の谷道場に滞在後、慶応元年(1865年)に加盟し、諸士調役兼監察・柔術師範を務める。近藤勇や伊東に重用され、慶応2年(1866年)の長州征伐後の訊問使の一人として広島に下向している。慶応3年(1867年)3月、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。この頃、秦河内と称する。油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、12月18日、篠原ら御陵衛士の生き残りは伏見街道にて近藤を襲撃する。明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津戦争や北越戦争で戦功を上げた。維新後は秦林親と改名。戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。明治2年(1869年)に弾正台少巡察、明治5年(1872年)に大蔵省造幣使の監察役。のちに実業家に転身したものの、成功はしなかった。晩年はキリスト教に入信する。明治44年(1911年)に東京市青山にて84歳で死去。青山霊園に墓がある。
備考
司馬遼太郎の小説『新選組血風録』では、普段から水で耳を洗う癖が仇となって中耳炎で死去したとされているが創作であるそもそも耳を洗う癖は無く、耳を患ったこと自体生涯に一度もなかったという長男夫人談)。『秦林親日記』は日記ではなく、本人が明治末年に執筆した回顧録である。篠原の遺した手帳から、御陵衛士が英語を学んでいたとする説がある。篠原は息子の英語教育に熱心で、後年、建築家になった長男の泰親は帝国ホテル建築に参加した際、設計者フランク・ロイド・ライトに可愛がられた。泰親は子母澤寛との親交が深く、子母澤の新選組関連著作にも証言者として登場する。もっとも子母澤が書いた篠原関連のエピソードには耳の件ほか創作が多い。父・元助は入婿で、旧姓が秦である。また、一説に丸橋忠弥の血筋ともいう。維新後の篠原は、伊東一派の新選組加盟の目的を、新選組を勤王に衣替えするためだったと語っている。近藤は「徳川あっての今日だ」と言って聞き入れなかったと書き残している。御陵衛士拝命は、篠原の尽力であったとされる。篠原の神奈川奉行所勤務は、窪田が神奈川奉行所取締役に就任したことによる。上京後、伊東らとは違い新選組には即座に加盟せず、大坂の谷万太郎道場に滞在するなど京坂を見学した後、慶応元年(1865年)に至って加盟している。なお、谷とは維新後も交友が続いた。
情報転用追加:「歴史家」と「歴史小説家」について:「ネットサーフィン」時代に感謝:
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/572.html。
「色川氏(歴史家)が、司馬氏の書いた小説「燃えよ剣」の土方歳三について、「そうした暗さ、不信と絶望の深さがわからなかったら、それを生き抜いて五稜郭まで落ちてきた土方歳三の、あの複雑で深みのある人間像が丸ごと書けないじゃないですか。」と司馬遼太郎に問い詰めたところ、彼は「色川さんの言うのは歴史でしょう。それと歴史小説とは違う。歴史小説というのは、読んでくれる方に楽しみの娯楽を与えるものであって、読んだら絶望してしまうようなのはだめだ。」と弁明したという。しかし、司馬氏は別の場所で「燃えよ剣」を歴史として書いたと言っているので、矛盾している。」あくまで小説なのだから、真実である必要はないとすれば、武田鉄也のように「竜馬が行く」に感動し、海援隊などというグループまで作っってしまった責任は誰にあるんだろう。鉄也が司馬氏に面会したとき、司馬氏は「いいかげんに卒業なさい。」と言ったそうだ。やはり、「歴史に合わせて小説を書いたというより、小説にあわせ歴史を都合よく引き寄せ、つじつまを合わせた。・・・・・・・」
ーそれにしても。「自宅」にいて、わずか「数分」で完了。再びながらむかしは、
情報を調べる=「図書館」にいってさんざん探し回る=やっと手に入れる=読み込んでコピーする=ワープロに打ち込む=郵送なり・・・最低「数日」長ければ「一週間」かかりきり・・・(苦笑)
とあらためて時代の推移に複雑な思いになります(笑)。この記事が上がってきたので、以前書いたのから転載しました。私は「武田氏」は幼少当時からさまざまな面で苦手だった(でも、先日「鬱」を病んでいたと知り感慨は深かったけど)。ともあれ「文献」(学者)と「小説」(物書き)の根本的相違。しかも「全幅信頼」(100%式)を置いてしまうと(あらためて故’文豪・創作力巨匠?’の「不誠実と乱暴」さ及び「低劣な人格」に驚かざる負えない)こういう面当てが返って来る危険があるひとつの事例とはならないか。野次馬好奇心次元としてこの後、武田氏はどうしたんだろう?まだ「竜馬」だ「海援隊」とやってたのか(もしくは「可愛さあまって憎さ百倍?」)。詳細は知る術もない。まったくもって・・・。「元」日本人及び国民に過ぎず サム カナダ 2016年9月24日
沖田 総司(おきた そうじ、天保15年(1844年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)は、幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良。幼名は宗次郎。
剣術
9歳の頃、天然理心流の道場・試衛館に入門。若くして才能を見せ、塾頭を務めた。15歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている。沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている。永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語り、弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とも語ったといわれる。実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという。沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、稽古は相当に厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であるが、史実であるかは不明。平正眼(天然理心流では「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した(即ち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていた)という伝説である。 赤間倭子によると、「山攻撃破剣」という剣法が得意であったという。佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声までがよく似た細い甲高い声であったという[13]。ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりで、腹を少し突き出し気味の平正眼をとる近藤とはやや異なる構えを取る癖があったとされる。新選組以外からの声もある。小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年)7月に、「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べており、新選組に批判的だった西村兼文も、「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」、「天才的剣法者」と言い、さらに新選組と敵対していた阿部十郎は、「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」、「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」、「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」と語るなど、外部からもその腕前が高く評価されていたことが窺える。
否定的見解は、千葉弥一郎(新徴組隊士で、総司の義兄・沖田林太郎の同僚)の言葉に、「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」とある。死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたといわれるが、この話は子母沢寛による創作であるといわれる。ただし、江戸時代には、黒猫を飼えば労咳(結核)が治るとの迷信があり、病身の沖田の周囲に黒猫がいた可能性は否定しきれない。
ーこのように諸説入り乱れています。ところが、こういった関連は何ひとつ出てきません。剛直一本、デマカセだろうがインチキだろうが「ものはいいよう」、「ろくに調べてもいない」その代表が「司馬文学」なのは間違いないでしょう。サム
性格
凄腕の一番隊組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようである。屯所界隈の子供達ともよく遊んでやっていたようで、作家の司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたことになる)。近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、山南と並び沖田についても批判を残していない。これは西村が山南と沖田には悪意を持っていなかったことの表れと見られ、従って沖田は新選組に表立って敵対した者以外には人当たりの良い好人物であったと考えられている。新選組と敵対していた阿部十郎からは「近藤の高弟の沖田総司、大石鍬次郎という者はまことに残酷な人間でございまして、もとより国家朝廷のあるを知らぬようなもので」と、岡田以蔵などと同様に思想的背景を持たない“人殺しの道具”として非難されている。佐久間象山の息子・三浦啓之助がある隊士にからかわれた。後日、土方と沖田が碁を打っている側で三浦をからかった隊士を三浦が背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいたという話が伝わっている。甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。
書評「新撰組血風録」:
ーこれまたしかり、何ひとつ描かれておりません。サム(番外「日本語人送別会と「新撰組」ルポ・文末脚注追加・2016年9月24日)
容貌
若き天才剣士が労咳により夭逝してしまうというドラマ性に富むその生涯から、そのドラマ性をさらに演出する要素として多数の創作において「剣にめっぽう強い上に明るい性格、その反面、病弱で色白の美青年」として描かれてきた。沖田の容貌に関して、現在残っている沖田の肖像画は、姉ミツが孫の要を「総司にどこか似ている」と称したことから、彼をモデルに昭和4年(1929年)に描かれたもので、生前の沖田を描いたものではない。八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美青年であった」とは書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」と書かれたものが残っている。この記述から浮かび上がる人物像として、美青年説に疑義を唱える指摘もある。ただし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎の曾孫がテレビで谷春雄の話にのってつい口走ってしまったのが始まりとされ、谷は「総司がヒラメ顔」というのは「のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから」と話している。沖田哲也はこの説を完全に否定し、沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっているという。また、沖田の写真は一枚も残されていないが、ミツの証言によると、「沖田の次姉キンの文机の引き出しに彼の写真がある」と伝えられていたが、新選組研究者によると、キンの文机の引き出しを調べたが写真はなかったという。家を引越しする際、可燃ごみと一緒に処分してしまったのではないかとされる。
女性関係
フィクション作品の世界で沖田は、一般に純情な青年として描かれることが多かった。町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。ただ、井上松五郎の文久3年(1863年)4月22日付の日記によると、土方、松五郎、井上源三郎と共に沖田が新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買うという記述が見られるため、必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだが、自分が好意を持っている女性の話になるととても真面目だったという。また、壬生光縁寺には、過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。一説には、この女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人おり、沖田はこの女性との間に1女をもうけキョウという名を付けたという話もあるが、定かではない。なお、新選組にはもう1人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。さらに、試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も残っている(その女性は断られたショックでか自殺未遂を起こし、その後近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。この女性は近藤周平の許婚であったと言われる岩田コウという説もある。また、油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。
ーこれに関しては読者の方々にお任せします。「恋愛」だの「女性関係」どうこうは、あんまり得意ではない(苦笑)。けどホントにいかがわしくふしだら。あらゆる「妄想」(二束三文・半日で考えたような「創作」イカサマ逸話ばかり)。「沖田総司の恋」、まずはじめから「池田屋の戦闘」で喀血・嘔吐・したところからはじまる(いわゆる「元々論」で↓のごとく、何ら「証明」されておらず。つまり、「国民文学」=一般向けの「ウィキ」にすら及ばないお粗末発明ぶり。たいしたものです)。
ー当時、「本願寺」(信長にもっとも長く抵抗した「石山本願寺・大阪城」(秀吉の「豊臣大阪城」原型)・信長は10年をかけながらついに攻め滅ぼせず「和睦」(投降・座主顕如上人は退去に応じた)は「東」(徳川の傀儡)「西」(反幕府=しかしこれも「確証」はされてません)に分けられていた。
ー沖田が通った「医者」(「西本願寺派」と書いていた)なるものの「娘」に「恋に落ちる」話だけ(作り話に過ぎず)。これだけでもう「趣味の読み物」。しかも土方と近藤がそれにごちゃごちゃチャチを入れたことになってる・・・思い出すのは「茶屋」でその「娘」とばったり出会った(しかし実は沖田は見越して赴いた)。京都の市井語で「餅」のことを「アモ?」(幼児言葉だそうですが本当ですか?知らない。少年時代に読んだだけ。調べてないので)とかいうそうだ。それをいっしょについてきた土方が注文したから笑われた。「おれもアモをくれ」「なんだ餅ではないか」「へえ、おもちでございます」(-_-; 興味のある方は古本屋だろうが本屋だろうが巷にあふれかえってるでしょうから読んでみて下さい(ちなみに小学校時代は「感動」しました☆)。加えてここもしかり「総司、待った」だの「へへ、はええもんだな歳」どうこう呼ばわりあっていたかと思えば、別の話では「土方君」や「沖田君」云々となりよった(「ヨタ話」作成の名人らしい、ええかげんの一言)。
発病時期
『新選組始末記』(子母澤寛)によると、沖田は池田屋で倒幕派の志士1人を斬り伏せた直後に、肺結核で喀血して倒れ、以後は活動から離脱したという。しかしその時期から発病してたならば、もっと早く悪化していなければ不自然である。そして沖田の離脱については『近藤勇書簡』『島田魁日記』においては記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり[19]、その後も活動していることが確認されている。慶応2年(1866年)頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。慶応3年(1867年)には周囲が認識し得るほど発病していた模様で、2月頃罹病したとする『両雄実録』(小島鹿之助)、不動堂村へ屯所を移転した9月頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、さらに10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤な状態に陥ったのは、慶応3年秋から冬頃であったと思われる。永倉新八が明治2年の『浪士文久報国記事』、明治44年(1911年)の『七ヶ所手負場所顕ス』『新選組史料集』において沖田が呼吸器疾患を患っていたことを記し、子母沢寛が『新選組始末記』において池田屋における喀血と離脱が記されており、時代が下ることに確立した説であると考えられている[20]。なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
最後に:日本式「ノン」フィクション:
いかがでしょう。こういう風に「著者」(実に大衆(読者)をバカにした)の勝手な思惑でいいようにねじまげられてしまう。しかも「間違った」知識そして「誤った」先入観を与えた面で、その罪は比類なく重い。そういうしかないでしょう。 サム リッチモンド ヒル カナダ 2016年9月22日
番外編:回り道=ドラマ『電車男』から:「うそ」と「山田さん」について(苦笑)
「すみませんでした。うそついて申し訳ありませんでした。実はネットサーフィンが「インターネットの遊び方」の一つだといえなくて・・・」(湘南?江ノ島?豪雨の中、ひたすら土下座し、頭を垂れ涙する伊藤敦史氏)「山田さん!」(って勘弁してよ(-__-;メチャクチャタイプじゃけん、以来ずっと「耳」に残ってるなつかしの伊東美咲女史のお言葉(「司馬史観」の各種’能書き’なんて比べものにならん良好・肯定的な私の「苗字」連発=’衝撃’=はじめて拝んだのが『呪怨』だったのはさておき(~_~;(^_-☆+「無敗明訓」(一度も負けない「野球」なんてあんのかよ?)=「山田太郎」は恨むぜよ水島のじいさん、「やあ~まあだあ~」だの「やあまあだ、たろおお~」ってこれホントいつまでもやられたんやき『おじゃまんが山田くん』以上にずっとでスた・・・
(~_~;いま思いだした伊藤敦史氏も『壬生義士伝』(南部藩大野家の嫡男=名演技すばらしかったです☆)
ーこれは「史実」も多くとりいれた名作だと思います。新撰組に関係してたんですね(『電車男』もおなじく。娘も大好きで何度もいっしょにみました☆)。ここで「改竄」と「史実」について「解説」したのもよみがえった。
ーともあれ、すくなくとも「司馬史観」のいいからかげんさ、ほか多くと全然ちがうすばらしい内容だと思います。こちらも史実はともあれ、怪しげな「国民文学」よりは全然ましの悲しくせつない『壬生の恋唄(1983)』(三田村邦彦氏主演=徳島県時代の少ない楽しみの一つ=これすら’いじわるばあさん’にグチグチ嫌味を言われたけど涙)以来の新撰組一番の名作だと個人的には考えます。そういえばアメリカにいたころ「新選組〜沖田総司(1987)」東山紀之氏も見ました笑(少ない日系人のおばさんから借りたビデオ)。これも確か「池田屋」「喀血」悲劇のヒロイン’強くて’’やさしい’「美男子」沖田の’色恋’が中心だったような(再笑)まさに~♪AH-デカメロン(恋物語)~『仮面舞踏会』WAKE UP! DESIRE(好きさ、おまえが)~♪(^_^
『電車男』の「ウソ」(「山田さん、それはウソとはいいませんよ・・・」(;_;なんでしょうか笑)いわく、’エルメス’嬢ならなんというでしょう?あの妻子持ちを隠してた元彼「うそ」つき男などはるかに上回る悪質極まりない意図的「でっちあげ・改竄業」兼「いわしの頭」式’超国家的’エセ文学巨匠ともなれば・・・「うそついてたんですね・・・」劇団ひとり氏「・・・山田氏、ヲタクだってばれたらまずいんですよね・・・」エルメス嬢は涙を流す・・・
(;_;・・・果たして・・・明らかに「確信犯」常習「うそつき」屋に過ぎない故「司馬氏」はともあれ。今もってして「国民文学」だと「まとわりつき」、かざしてやまないNHKをはじめとするインチキ人間たち。ええ加減にせいよてめえらはホンマに・・・今だに各書店に「山積み」の「産経新聞元記者」及び「国民文学」にどうもなりません(-_-;
番外編(2):横山ザ「国民漫画史観?」から『三国志』(「史実」じゃありません)より:
・・・によれば劉備玄徳と諸葛亮孔明が荊州の四群(零陵(太守劉度)・桂陽(太守趙範)・武陵(太守金旋=担当者張飛)・長沙(太守韓玄=担当者関羽))を攻略(「侵略・軍事制圧」に過ぎず)したとき。二番手(桂陽攻略)大将趙雲子龍(只有常山趙子龍=「史料」に残っている詩から)が降伏した太守の兄嫁美人・未亡人を妻に。と殿と軍師に勧められた際、子龍は、
「たしかに私も美人は嫌いではありません」と答えながらも辞退申し上げた。しかし、さらにネチネチやめない劉備たちに対し「お断りします・・・武将としての大儀名分がなりたたない方を恐れます」といって部屋を去った。
劉備は孔明に「真から武士じゃのう」とやり、孔明は「まこと」となったそうでありました(よく覚えてませんけどこんな感じだった)。
*ただこれらも真偽は確かめようがない(なにせ「210年」(日本は「邪馬台国」時代?「倭」と呼ばれていた頃)の話ですので)「でっちあげ」(調べてもいない)「イカサマ」=「趣味の読み物」の一環なのは「司馬史観」と選ぶところにあらず(「論拠」は吉川英治氏の「小説」です)。

ーしかし思い出したのは横山氏は司馬氏ほど「高慢」でもなければまだ「良心」があった。「三国志・辞典」という「番外版」を備えていた。『三国志』だけにせよ(マンガ『徳川家康』『織田信長』は「山岡荘八」氏が「論拠」)。そこで「史実」について説明しているのは評価できましょう。吉川氏だけでなく柴田錬三郎氏の著作も紹介し、司馬遷の「史記」も添え「実在人物」と「史実にはない」ことを並べ紹介していた。思い上がり人を食っている態度の司馬氏より、はるかに誠実な人物だったといえる。
そんなとこでしょうか・・・。
ともあれ、ありがとうございました☆Peace☆平和 サム リッチモンド・ヒル 
PS:ちなみに私は日本時代「名前」でよばれたことはほとんどなかった(家族だけ)。あだ名かまさに「山田」としてやられていたので余計に『電車男』(ドラマ・映画は一回見ただけで忘れました)で白石美帆女史の「山田あ~~?」ほか「山田~山リン・・・おまえさあ~おれにケツふかせんなよ~携帯全然つながらないと思ったら、こんなところで油売ってたんだね」といったのが頭に宿ったまま今日を迎えました(どうでもいいこと。失礼しました)(^_-☆ 本日は「上下」「あがりさがり」の変動が激しいようでありました。いいのか悪いのか・・・(苦笑)。さてまったく別分野、「マッサージ治療」へ向け。出勤時間が迫ってまいりました。ふたたび人類みな兄弟!戦争反対!努力忍耐!天下大吉!有力出力!

PS:さらに柴田錬三郎氏は『三国志・英雄ここにあり』(上・中・下=劉備が死ぬまで)において四川攻略後、劉備が皇帝を宣言した式典を見守る孔明を描き、命を失った「名もなき雑兵」「下級兵士」たちへの想いをはせる項目を設けている。しらじらしいといえばそれまでにせよ、そんなことはなから眼中にない「命令者」文学の司馬氏より「庶民的」なところを感じたものだ。柴田氏の著作は吉川氏と比べても、「史実」という面はさておいても、内容は非常に興味深い。くわえて『三国志、英雄・生きるべきか死すべきか』(上・中・下(⇒吉川氏+横山マンガは「略述」程度にとどめている)、孔明死後の弟子「姜維伯約」(魏に破れ討死)の戦いを綴っている)とくに私は「下巻」を数えきれないほど読み返しました。追記:2016年9月26日
番外・日本語人宴会と「新撰組」ルポ:
ーさっきよみがえったのを忘れない間に紹介します。何かの参考にしていただけたら光栄なのはいつもとおり。例のタダ働き・タカリ業兼診療所店主「仙台訪問の愛国者」家で開催された在りし日の「日本語人」送別会において。さる若い鍼灸師の方が帰国するとやら。もう10年以上前になる。当時私は昼は治療師、夜は韓国人経営の「カラオケバー勤務」(料理・女性たちの送迎担当(日60%・韓30%・中10%・客は80%韓国人)。寝ていないままそこへ招かれたので出席(おまけにこちらではよくあるそれぞれ「一品料理持参」のPot云々?だのいう形式だった)。
ー普段はみなさん滅多に一堂に会することなどありえない「犬猿」の仲ながら。その青年(実に真面目で物静かな元柔道家でした)はいろいろ「ムラ内」各種整体師・鍼灸師たちに世話になっていたので集まっただけ(「酒」は飲めないし、疲労困憊の私は途中で帰った。その後、ほかの人間から聞くところによれば「犬猿の仲」同士、子どもたちもいっぱいいる中で「つかみ合い」の喧嘩沙汰寸前になったとやら(「同血」あいまみれた「ムラ泥仕合」ぶり、まったくもって)。それは無関係。
ーただ私が一応「歴史専攻」であるがゆえ、当時は三谷幸喜脚本の香取慎吾氏主演の「新撰組」が盛り上がっていた頃である(私は「ビデオ」で数回横目でみた程度。全然覚えていない)。みなさん「酒」が入るとそんな話でおしゃべりに華が咲いていた。いろいろ聞かれ、適当に受け答えしていたのを思い出す(ただし私は「日本史」は専攻ではないと紹介したが、むろん誰もきいていなかった苦笑)。
ー周りに『犬夜叉』DVDに没頭する「子どもたち」はみんな娘の幼ななじみ。私はオヤジたちはよく知らない(奥さま方(ほとんど「厨房」から「持ち運び」作業に釘づけ+子供たちの世話にかかりっきり=いつものこと)たちは「日本語人保育園」時代からよく知っている)。当時の仕事で毎晩作ってた「果物盛りあわせ」を持って行った。それを子供たちがたくさん食べていたので嬉しかった(涙)。
ーひとりの人が司馬氏の著作を読んだとかで内容について自慢げに語っていた。
終始無言で端の方で聞かないわけにはいけない私は思わず「『新撰組血風録』ですか」と口走った(まだ10歳若かったので「顕示欲?」「虚栄心?」も手伝ったのかもしれません(苦笑)。
ーその途端「???」シーンと座をしらけさせた(なぜなんでしょう?理解できない)。「空気が読めない」それだったんでしょう。一人年配の方がたちあがって仕草まで交え熱く語っていたのに水をさした(-_-;気まずい雰囲気がわいたものだった。
ーともあれ、ほかの人たちも『坂の上の雲』だの各種司馬氏の「著作」話をひっぱりだしては語っていた。余計にくたばり、閉口してしばらしして辞去。ちょうど「前髪の惚三郎?」(男色(衆道)・陰間茶屋?・岡場所がらみのひどい内容だった。むろん「架空」の話である)「芹沢鴨」(いいかげんな捏造・改竄ぶりたるや。芹沢に申し訳ない)や「沖田総司の恋」まさしくそのあたりだった。
ー要するに、それが「司馬史観」「国民文学」の次元と実態というべきなのだろう。「酒飲み博学・勉強家」の’自慢話’程度にこそもってこい。他がきいていようがなんだろうが赤ら顔の「おしゃべり屋」さんたち。10数年経過した今、「本国」でもおそらく忘れられているのではないか。いかがだろう?東京都「調布市」上石原町(村)は私の実家の境にある町です。まさに近藤勇、井上源三郎などの出身地(土方、沖田はちがいます)。京王線には「近藤勇の墓」(一時期ながらく「京王プール」にかえられていたが、『ゲゲゲの鬼太郎』水木氏の出身と混ざりその「ブーム」で一気に花咲いたときいた。今はどうなっているか(あとでヒマあったら「ネットサーフィン」調べてみます☆)。むろん「墓」なぞ行ったことはない)。
ー同じく「日本語人」たちも記憶の彼方なのではなかろうか(興味も関心も一切ないし、おそらく偶然でもなければ、二度と会うこともないでしょう)。
ーまごうことない「流行」(ブーム)に過ぎないのもこれまたいつものこと。「韓流ブーム」だ「ゴーマニズム」だと(どこでも誰でもいつも『TVジャパン』~♪君も. Do you need to cry? (同様にcry?)孤独とも~♪タッキー氏の『義経』もここでみた笑)常に「本国」を向いて生活している人間たちのところにはわいてでる。それだけに過ぎない。へんなことを思い出したらまた気分が暗くなった。「日本語人」と元それの「日系カナダ人」これも腐れ縁なんでしょうね(苦笑)。失礼しました☆ 

①スペイン語→When the Last Sword Is Drawn (壬生義士伝 Mibu Gishi Den?) es una película japonesa de 2002 dirigida por Yōjirō Takita levemente basada en hechos históricos reales. When the Last Sword Is Drawn ganó el premio a la Mejor Película en los Premios de la Academia Japonesa de 2004, además de los premios a Mejor Actor (Kiichi Nakai) y Mejor Actor de Reparto (Kōichi Satō). Recibió otras ocho nominaciones②吉村 貫一郎(よしむら かんいちろう、天保10年(1839年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日)?)は、幕末の盛岡藩士。フランス語→Kanichiro Yoshimura吉村 貫一郎 (1839 - 30 janvier 1868) était un serviteur du clan Morioka à la fin de la période Edo.







*新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である+イタリア語→La Shinsengumi (新選組 o 新撰組? lett. "Nuova squadra scelta") fu uno speciale corpo di polizia istituito durante lo shogunato al fine di contrastare i sostenitori dell'Imperatore.

(1)、沖田 総司(おきた そうじ、天保13年(1842年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)は、幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良(かねよし)。幼名は宗次郎+フランス語→Okita Sōji (沖田 総司, Okita Sōji?)(1842 ou 1844 - 30 mai 1868 (calendrier lunaire) / 19 juillet 1868 (calendrier grégorien)) était un samouraï, capitaine de la première division de la shinsen gumi, milice basée à Kyoto durant la période du bakumatsu à la fin de l'époque d'Edo.

(2)、近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家+ドイツ語→Kondō Isami (jap. 近藤 勇; * 9. Oktober 1834 in Kami-Ishihara, Provinz Musashi (heute: Chōfu, Präfektur Tokio); † 25. April 1868 bei Itabashi) war ein Samurai der Bakumatsu-Ära und Hauptmann der in Kyōto stationierten Polizeieinheit Shinsengumi.

(3)、土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年35歳+スペイン語→Hijikata Toshizō (土方歳三?) (31 de mayo, 1835—20 de junio, 1869) fue un rōnin y segundo al mando del Shinsengumi, una agrupación militar japonesa que resistió durante la Restauración Meiji.

↑This photo is not Serizawa Kamo(4)、芹沢 鴨(せりざわ かも、芹澤 鴨、天保3年(1832年)? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日))は、幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長(頭取)。前名は下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)と推定されている。諱は光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない(後述)*↑というわけで、本人の写真は存在しないそうです=芹沢鴨が存命していた時にはカメラがほとんど広まっていません。+ポルトガル語→Serizawa Kamo (芹沢鸭? , 1826 - 30 de outubro de 1863) foi um samurai conhecido por ser o primeiro comandante do Shinsengumi. Treinou e foi mestre do estilo Shindō Munen-Ryū . Kamo significa ganso ou pato em japonês que era um nome estranho para chamar a si mesmo. Seu nome completo era Serizawa Kamo Taira no Mitsumoto (Serizawa = nome de família , Kamo = nome , Taira = nome do clã , Mitsumoto = nome formal.)
*Moeyo Ken (燃えよ剣, "Burn, O Sword") is a novel by Japanese author Ryōtarō Shiba. It dramatizes the life of Hijikata Toshizō, a member of the Shinsengumi, active in Japan during the bakumatsu (the end of the Tokugawa shogunate).The novel was initially serialized from 1962 to 1964 in the Bungeishunjū weekly magazine Shūkan Bunshun. Shinchosha published the complete novel in two volumes. The action takes place in the Ōkunitama Shrine in Fuchū, along the Asa River in and near Hachiōji, in the Mibu area of Kyoto, and in Hokkaidō.Shochiku released a 1966 film of the same title. Asahi Kurizuka played Hijikata. He repeated the role in the prime-time television jidaigeki on NET. 
타올라라 검(燃えよ剣)은 시바 료타로의 장편소설, 역사소설이다. 신선조부장 히지카타 도시조의 생애를 그리고 있다.1962년 11월부터 1964년 3월까지 '주간 분슈'에 연재되었다. 단행본은 신쵸샤에서 상, 하권으로 나뉘어 발매되었다. 시바는 같은 시기에 '신센구미 혈풍록', '료마가 간다'등 막말을 소재로 한 역사소설도 연재하고 있었다.



↑Nagakura (3rd from the right), as Sugimura Yoshie in his later years(5)、永倉 新八(1839年5月23日—1915年1月5日),日本幕末時期武士,新選組第二隊隊長、劍術師範,幼名榮吉、榮治。諱載之(のりゆき)Nagakura Shinpachi (永倉 新八, May 23, 1839 – January 5, 1915) was the captain of the 2nd troop of the Shinsengumi, He was later known as Sugimura Yoshie (杉村 義衛) during the Meiji era.

6)、斎藤 一(さいとう はじめ、旧字体:齋藤󠄁 一、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、日本の武士(新撰組隊士)、警察官。階級は警部。ドイツ語→Saitō Hajime (jap. 斎藤一; * 18. Februar 1844 in Edo, Provinz Musashi; † 28. September 1915) war der Anführer des dritten Korps der Shinsengumi, einer in Kyōto stationierten Polizeieinheit. Er war eines der wenigen Mitglieder der Truppe, die die Kämpfe der Endphase der Shōgunatszeit überlebten. Er steht auf einer Ebene mit dem ersten Führer der Truppe, Okita Sōji und seinem Nachfolger Nagakura Shinpachi.

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