日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Советско☭☆финляндская十война (1939—1940)】≪冬戦争/Зи́мняя война/Talvisota/Winter War≫Принимай нас, Суоми - Njet, Molotoff!『図解・ソ連戦車軍団Illustrated Soviet Tank Corps』斎木伸生Nobuo Saiki, 上田信Ueda Shin①《Maamme/Karjalan kunnailla》Советская армия〔2022/10/01Kanada🍁Antid Oto〕


Illustrated Soviet Tank Corps/Иллюстрированный советский танковый корпус/ by Nobuo Saiki (Author), Ueda Shin (Author)/Нобуо Сайки (Автор), Уэда Шин (Автор)
序章:世界最大の戦車軍団
爆撃機の編隊がひとしきり爆弾を投下して去ると、今度は猛烈な砲撃が始まった。この世のものとは思えない激しさ。何時間も続く鉄の嵐によって、地面は畑のように掘り返され、塹壕に身を潜めた兵士たちは次々と蒸発していった。やがて嵐は始まったときと同じように突然止まり、戦場に静けさが広がった。やがてかなたの森の中から、轟々と地鳴りのような音が響いて来た。
モヤが晴れ次第に視界がひらけて来ると、森の中からは黒い染みのようなものが近づいて来た。そのシルエットは段々と大きくなり、次第に何物であるかがはっきりしてきた。戦車だ。小さな砲塔に長い砲身、ソ連の戦車だ。十両、二十両、そんなものではきかない、100両、200両、ソ連戦車軍団の突撃である。ついにこの日が来たのだ。世界の破滅、第三次世界大戦の開始である。
これは実話ではない。しかし冷戦中のヨーロッパではアメリカ、イギリス、西ドイツなど西側諸国によるNATONorth Atlantic Treaty Organizationの軍と、ソ連と戦後社会主義化された東欧諸国によるワルシャワ条約機構Организация Варшавского договора (ОВД) 軍が、一触即発の状態で対峙し続けていた。西側諸国が恐れていたのは、ソ連と東欧諸国の強力な戦車軍団の電撃的突進であった。
冷戦末期ワルシャワ条約機構Варша́вский догово́р軍は、実に5万3000両もの戦車戦力を保有し、NATOOrganisation du Traité de l'Atlantique Nord軍の2万6000両をはるかに凌駕していた。NATO軍はこれに対抗するためにTactical nuclear weapon (TNW) 戦術核兵器Тактическое ядерное оружие (ТЯО)に頼らざるを得なかった。結局幸いにして、このような恐怖のシナリオが発動されることはなかった。しかしソ連戦車軍団の強大な戦力は、長い間世界を脅えさせ、ひとつの歴史ともなったのである。
ではソ連戦車軍団はどこから生まれて来たものなのだろうか。そこにはロシア革命Российская революция、ソ連の誕生と共に始まった長い発達の歴史がある。
ゼロからの出発
ソ連の前身であったロシア帝国Российская империяは遅れて来た帝国主義国家であった。その版図はБерингово мореベーリング海Bering Seaに至る東方領土の拡大によって、世界一となったが、実際は中世以来の古臭い政治形態、経済形態を引きずっていた。資本主義の発達も、また工業基盤も貧弱なものであった。このため軍需産業のレベルも、他の欧州列強諸国に比べると見劣りするものであった。第一次世界大戦Первая мировая войнаはその帝国の内部的弱体ぶりと工業基盤の低さをあらわにした。ドイツ帝国Deutsches Kaiserreich軍に対してロシア帝国軍は全く対抗できなかった。敗戦と国内経済の困窮は帝国の基盤を揺るがし、ロシア革命へとつながった。1917年2月(ロシア歴)の二月革命Февральская революцияにより政権を獲得したケレンスキーКе́ренский政府は戦争継続の方針をとったため、国民の不満が高まり、レーニン率いるボルシェビキбольшевики́により、十月革命Октябрьская революцияが勃発した。その結果ロシアは、新たに社会主義ソビエト国家Союз Советских Социалистических Республикに生まれ変わった。
このころ第一次世界大戦で新兵器として登場した戦車は、試作はされたもののまだロシアでは実用化されていなかった。初めてロシアの大地を踏んだ実用型戦車は、革命に介入した連合軍の戦車であった。赤軍(ソ連軍)は内戦終了後、これを捕獲し自軍の装備として使用した。これが世界最強とうたわれたソ連戦車軍団の始まりであった。このようにソ連戦車軍団は、革命によってゼロから出発したのである。
ロシア革命は世界に波及することは無く、ソ連は敵意に満ちた世界中の資本主義国に囲まれた中で、孤立した経済社会建設を始めなければならなかった。もともとが遅れた資本主義国であったソ連では、国が主導権を取って工業化するしかなかった。こうしてソ連共産党Коммунистическая партия Советского Союза主導のもとで、強引な工業化政策が取られることになった。
Социализм в отдельно взятой стране一国社会主義Socialism in one country政策を取る以上、全方位に対して防衛態勢を取らなければならない。こうして工業化の主力は軍需産業を中心とする重工業に置かれることになった。とくにソ連は大陸国で、陸上国境を守るためには強大な陸軍力が必要である。またその広大な国土を守るためには機動力が必須となる。こうして戦車の開発と戦車軍団の整備が大車輪で行われることになった。
技術的遅れを取り戻すため、世界各国から輸入した戦車に範を取った戦車開発政策は成功し、1932年には世界に先駆けて戦車軍団と機械化狙撃兵軍団の編制まで行われた。しかし順調な発展を続けるソ連戦車軍団に大変な不幸が襲い掛かった。スターリンによる大粛清Большой террорである。その結果、軍の有能な人材は失われ、先進的な戦車軍団編制も解体されてしまった。

①冬戦争(ふゆせんそうWinter War、フィンランド語: talvisota) First Soviet-Finnish Warは、第二次世界大戦の勃発から3か月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争である。フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。両国間の戦争が1941年6月に再開されたため、第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言う。なお、後続の戦争は、日本ではSecond Soviet-Finnish War第2次ソ・芬戦争Советско-финская война (1941—1944)と呼ばれることもあるが、英語圏ではJatkosota継続戦争Continuation Warと呼ばれる。
1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国Baltian maatとフィンランドへの圧力を強め、バルト三国Прибалтикаとは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、両国間の交渉は、11月に決裂した
ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、同年11月30日にフィンランドに侵攻した。明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、同年12月14日に国際連盟から追放されたが、ソ連の行動に何の影響も与えなかった。この際、イギリスとフランスはナチス・ドイツとの戦いにこの戦争を利用できないか模索した。スターリンは、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ3倍の兵力を投入したが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常に苦戦を強いられた。
既に、ナチス・ドイツと戦争中であったイギリス、フランスは、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産に不可欠なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。フィンランドは1940年3月まで戦い抜いたが、フィンランド第二の都市であるヴィープリを含む国土の10 %、工業生産の20 %が集中するカレリア地峡をソ連に譲り渡すという苛酷な条件の講和条約を結び、3月13日に停戦は成立した。
Winterkrieg겨울 전쟁Vinterkriget

②Сове́тско-финля́ндская (советско-финская) война́ 1939—1940 годов (фин. talvisota — Зи́мняя война, швед. vinterkriget) — война между СССР и Финляндией в период с 30 ноября 1939 года по 13 марта 1940 года.

③Talvisota oli 30. marraskuuta 1939 – 13. maaliskuuta 1940 Suomen ja Neuvostoliiton välillä käyty sota. Neuvostoliitto aloitti talvisodan hyökkäämällä ilman sodanjulistusta, ja sota päättyi 105 päivää myöhemmin Moskovan rauhansopimukseen. Kansainliitto tuomitsi hyökkäyksen ja erotti Neuvostoliiton jäsenyydestään 14. joulukuuta 1939.

*キリル・アファナシエヴィチ・メレツコフ(ロシア語: Кирилл Афанасьевич Мерецков、1897年6月7日 ‐ 1968年12月30日)Kirill Afanasievich Meretskovは、ソビエト連邦の軍人。最終階級はソ連邦元帥。
                   フィンランド電撃戦
ソ連は1939年9月のドイツのÜberfall auf Polenポーランド侵攻Польская кампания вермахтаに対して、ポーランド領土を占領するとSoviet invasion of Poland、北の隣国の処理にも手をつけ始めた。まずリトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国に要求を突き付け強引にソ連軍を進駐させるとOccupation of the Baltic states、次はフィンランドに攻撃の目標を定めた。この国との国境はあまりにレニングラードЛенинградに近すぎる上に、フィンランド人はやたらとソ連にたてをつく。スターリンはドイツのポーランド電撃戦Blitzkriegのような、ソ連版電撃戦Блицкригによるフィンランド全土の占領を目指した。
1939年11月30日午前6時50分、国境線に布陣したソ連軍騎兵隊は一斉に射撃を開始した。冬戦争の勃発である。ソ連軍はレニングラードのすぐ北のKarjalankannasカレリア地峡Карельский перешеекから、北極圏にいたる1200キロの広大な戦線の各地で侵攻を開始した。その兵力は人員が約50-60万人、戦車1500両、航空機800機に上った。総司令官はメレツコフである。メレツコフは、政治力で将軍になった人物で、軍事的能力は怪しかった。
主攻撃ルートになったのはカレリア地峡であった。そこには七個師団と五個戦車師団からなる第七軍が置かれ、カレリア地峡のフィンランド軍防衛線ーフィンランド軍総司令官の名前をとってマンネルへイムラインと呼ばれていたーを突破し、フィンランド第二の都市ヴィープリを占領、そこからフィンランド本土になだれ込むことになっていた。
①ヴィボルグ(ロシア語:Вы́борг, ラテン文字転記:Vyborg)は、ロシア連邦レニングラード州の都市である。かつてはスウェーデン領やフィンランド領であった都市であり、ヴィープリ(フィンランド語、カレリア語:Viipuri)、ヴィボリ(スウェーデン語:Viborg)の名でも知られる②ヴィープリ州(ヴィープリしゅう、フィンランド語: Viipurin lääni、スウェーデン語: Viborgs län)Выборгская губернияは、かつて存在したフィンランドの州。1812年から1945年まで存在した。現在は、州域の多くがロシア領である。
助攻として、六個狙撃兵師団と二個戦車旅団からなる第八軍が、ラドガ湖の北を回ってカレリア地峡の背後を衝くとともに、そのままフィンランド内陸部へ侵入する。さらに北部、クフモからサッラにかけては第九軍が配置され、クフモ、スオムッサルミ、サッラなどいくつかの道路を使って、フィンランドを中央部で切断する。そして最北の北極海沿岸ベツモア地区には三個狙撃兵師団からなる第14軍が展開し、フィンランド内陸部に侵攻することになっていた。
①ラドガ湖(ロシア語: Ладожское озеро、カレリア語 Luadogu、フィン語 Laatokka、スウェーデン語 Ladoga)は、ロシアにあるヨーロッパ最大の湖②クフモ (フィンランド語: Kuhmo)Кухмоはフィンランド、カイヌー県の自治体③Sallaサッラ (Kuolajärvi until 1936) (Inari Sami: Kyelijävri) Саллаis a municipality of Finland, located in Lapland④スオムッサルミ (スオムスサルミ、Suomussalmi) Суомуссалмиはフィンランド、カイヌー県にある自治体。ケヒュス=カイヌー郡に属する。
これに対するフィンランド軍の兵力はまったくお粗末な物で、冬戦争勃発時に動員できた総兵力は29万5000人で、しかも兵器の質も低かった。銃、火砲は不足がちで雑多な物の寄せ集めだった。対戦車砲、対空砲もほとんど無く、戦車はフィンランド中からかき集めても数十両、飛行機も飛ぶ価値のある物は数十機にすぎなかった。
ソ連軍は自信を持っていた。こんなとるに足らない小国に何を恐れる必要があろうか。強大な赤軍が一発撃てば、フィンランド兵など蜘蛛の子を散らすように逃げ去るに違いない。戦争はほんの2,3日で終わるだろう。この楽観は前線部隊への物資補給に現われていた。弾薬補給は10から12日分を考えれば良いとされ、被服も夏服であった。
しかし弱体なフィンランド軍には強力な味方がいた。フィンランドの厳しい気候、荒々しい自然、勇猛果敢なフィンランド人気質、そしてかつてロシア帝国軍の将軍で、現在はフィンランド軍総司令官のマンネルへイム将軍である。

①サッラの戦いSallan taistelut (talvisota)(サッラのたたかい)Битва при Саллеは、冬戦争の戦いの一つで、ソ連軍とフィンランド軍がフィンランド北部サッラ近郊で行った戦闘②スオムッサルミの戦い(-のたたかい、芬:Suomussalmen taistelu)Битва при Суомуссалмиは、冬戦争における戦闘の一つ。スオムッサルミ近郊では冬戦争開始から一月末にかけての期間中戦闘が起こっていたが、一般的には1939年12月7日から1940年1月8日までの間続いた戦闘を言う。
                    ソ連軍大敗北
ソ連軍の電撃戦の予定はあっという間に崩れ去った。フィンランド兵は逃げ去るどころか、ソ連兵に倍する勇気で陣地に踏みとどまり、頑強な抵抗を続けた。主攻のカレリア地峡では、侵攻後一週間でマンネルへイム線に取り付いたものの、そこで完全に停止してしまった。
ソ連軍の攻撃は指揮官不在<注>のオーケストラであった。戦車と歩兵の攻撃は協調を欠き、行動は硬直化していた。各々の部隊は勇敢であったが、別個に攻撃を行い、各個に撃破された。歩兵を伴わない戦車はフィンランド軍の火炎瓶攻撃で炎上し、戦車を伴わない歩兵は機関銃で薙ぎ倒された。部隊は明らかに経験と指揮調整能力が欠如していた。ソ連軍はいたずらに死体の山を築き、やがて12月末には攻勢は先細りとなった。
ラドガ湖の北では当初ソ連軍は快調な進撃を続けていたが、実はフィンランド軍はこの地にはほとんど部隊を配置していなかったのだ。急遽投入されたフィンランド軍はソ連軍が過度に分散していることを見抜き、ソ連軍部隊を各個分断包囲した。補給を断たれたソ連軍は次第に衰弱し、寒気とフィンランド軍の攻撃によってせん滅された。
フィンランド北部でも激戦が展開されていた。とくにソ連軍部隊に大敗北となったのはスオムッサルミの戦いであった。ここでもフィンランド軍は分散したソ連軍を各個に分断包囲し、完全に殲滅した。ばらばらになって逃げるソ連兵はフィンランドの森の中に消え、生きて帰ったものは皆無に近い。
ソ連軍は全面的に戦略を見直さざるを得なかった。新たに採用したのは電撃戦では無くソ連らしい力による正攻法であった。新任の総司令官ティモシェンコはバラバラな攻撃を止めさせ、十分に準備された突破作戦を行うことにした。マンネルへイム線正面に25個師団その他、60万人の大兵力を動員したのである。この攻撃の前にフィンランド軍はついに崩れ去った。1940年3月13日講和条約が結ばれ、戦争は終結した。
<注>赤軍自体への粛清Purge of the armyは、当初はスターリンも手を焼いていたが、1936年7月にNKVDに逮捕されたドミトリー・シュミットДмитрий Аркадьевич Шмидт将軍(キエフ軍管区戦車隊司令官)が、拷問の末廃人にされて赤軍内の“共犯者”の名前を“自白”したことで、徐々に赤軍高級将校への粛清が始まった。さらに1937年6月11日にはミハイル・トゥハチェフスキーМихаи́л Никола́евич Тухаче́вский元帥(国防人民委員代理)、Iona Emanuilovici Iakirイオナ・ヤキールИона Эммануилович Якир一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)、Jeronimas Uborevičiusイエロニム・ウボレヴィッチИероним Петрович Уборевич一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)ら名だたる赤軍高官がまとめて“ナチスドイツNazi-DeutschlandのスパイШпион”として銃殺され、これを機に赤軍の粛清がいよいよ本格化する(上記のシュミット将軍は同年6月20日に処刑されている)。以降、翌1938年までいわゆる「赤軍大粛清」が吹き荒れることとなり、元帥5人のうち3名(残ったのはかつてトロツキーが「下士官反対派N.C.O.s' oppositionと嘲ったヴォロシーロフВорошиловとブジョンヌイБудённыйのみ)、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち62人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も四分の三が殺され、大佐以上の高級将校の65%が粛清された計算になる。政治委員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年代に命を落とした。

①カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheimスウェーデン語: [ˈkɑːɭ ˈɡɵˈstavˈeːmɪl ˈmanːɛrˈheɪm] 、1867年6月4日 - 1951年1月27日)Карл Гу́став Эми́ль Ма́ннергеймは、フィンランドの軍人、大統領。フィンランド軍の最高司令官としてフィンランド内戦、冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争を指揮した。

②マンネルハイム線Mannerheim-linja(マンネルハイムせん)Линия Маннергейма、またはマンネルヘイム線(マンネルヘイムせん)Mannerheim-Linieは、ソ連軍の侵攻に対抗するためフィンランド軍がラドガ湖とフィンランド湾の間のカレリア地峡(現在はロシア領)に長さ135km、幅90kmに亘り築いた防衛線のこと。ナチス・ドイツの技術援助により作られた。


*セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコ(ロシア語:Семён Константинович Тимошенкоスィミョーン・カンスタンチーナヴィチュ・チマシェーンカСемен Костянтинович Тимоше́нко、1895年2月18日 - 1970年3月31日)Semyon Konstantinovich Timoshenkoは、ソビエト連邦の軍人。戦前は軍管区司令官、国防相を歴任。第二次世界大戦においては、司令官として活躍した。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。


①我等の地(われらのち、フィンランド語: Maamme、スウェーデン語: Vårt landГимн Финляндииは、フィンランドの国歌。楽曲がエストニアの国歌と同じである。また、フィンランドにおいては第二の国歌としてジャン・シベリウスJean Sibelius作曲のフィンランディアFinlandiaが知られている。

②『フィンランディア』 (Finlandia) 作品26は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスによって作曲された交響詩。シベリウスの作品の中でもっとも知名度が高いもののひとつである。1899年に作曲され、1900年に改訂された。『フィンランディア』が作曲された1899年当時、Suomen suuriruhtinaskuntaフィンランド大公国Великое княжество ФинляндскоеVenäjän keisarikunta帝政ロシアРоссийская империяの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていた。シベリウスが作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」 (Suomi herää) で、新聞社主催の歴史劇の伴奏音楽を8曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させたものであった。フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして、帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話である。Финляндия (симфоническая поэма)

                 ソ連戦車軍団ー戦場で鍛えられる
1939年末から1940年初めにかけて戦われたフィンランドとの戦争、通称「冬戦争」は、ソ連軍の惨敗に終わった。粛清の結果は想像より深刻で、ソ連軍は全く役たたずの軍隊に成り下がっていた。スターリンもことの重大さに気付き、軍の改革を開始したが、充分な時間は残されていなかった。
1941年6月22日には、ドイツ軍はソ連を奇襲攻撃した。 Unternehmen Barbarossaバルバロッサ作戦Операция «Барбаро́сса» の開始である。ソ連軍は戦車の数だけは豊富であったが、戦車戦のエキスパートで当時世界最強の戦車部隊を持つドイツ軍の敵ではなかった。戦車軍団は、空地が協力して、速度を生かした電撃戦を行なうドイツ軍の包囲殲滅攻撃によって、緒戦の戦いでほとんど壊滅した。
しかし、ソ連戦車軍団は消え去ることはなかった。ドイツ軍の攻撃を避けてウラル地方に疎開した工場では、ドイツ戦車の性能を凌駕する新型戦車が次々と生産され、前線部隊に送り込まれた。その戦車を受け取る前線部隊では、ドイツ軍との激しい戦闘の中で新しい戦車戦の知識と経験を得た指揮官が育って行った。彼らは戦場で血を流しながら鍛えられたのだ。
1941年末、レニングラードでもモスクワでも、あと一歩まで迫ったドイツ軍はソ連軍の激しい抵抗に、どうしても目標を落とすことはできなかった。ソ連軍は拙いながらも戦車の集中使用や、戦車と歩兵、砲兵との協調戦闘のやり方を学んで行った。こうしてドイツ軍は押し戻された。
しかし戦車師団の実力はまだ先生であるドイツ軍には及ばなかった。ドイツ軍は戦略的防衛作戦を取り、ソ連軍を罠にかけてしまった。その結果再び主導権はドイツ軍の手に移った。1942年、ドイツ戦車部隊の快進撃が再開された。しかしソ連軍はかつてのソ連軍ではなかった。戦略的後退作戦を取り、逆にドイツ軍を罠にかけたのである。
戦車の突進、速度を生かした包囲殲滅作戦が成功。スターリングラードで、ドイツ軍はこれまでに無い大敗を喫した。今やソ連戦車軍団は、ドイツ軍に負けない戦車部隊に育って行ったのである。

連合国勝利の原動力
第二次世界大戦は、世界のほとんどが巻き込まれた戦いであった。ドイツはまずポーランドと戦い、フランス、イギリスと戦い、ユーゴスラビア、ギリシャを席巻していった。イギリスとの戦いは続いていたが、アフリカでの付随的な戦闘と、海・空での戦いであった。1941年12月にアメリカも参戦したが、イギリスへの援助が中心で、戦争の表舞台に出て来るのはだいぶ先であった。
この間、ドイツ軍の攻撃を一手に支えていたのはソ連軍であった。スターリンは連合国側に、たびたび第二戦線の要求を出したが、それももっともなことであった。Lend-LeaseレンドリースЛенд-лиз物資はソ連軍を助けはしたが、決定的なものでは無かった。ソ連軍は自力でドイツ軍の重圧をはねのけねばならなかった。しかしソ連はスターリンのもと、名実ともに国家総動員態勢を取り、その任務を達成した。それを象徴する戦いが第二次世界大戦を決定した戦い、1943年7月のSchlacht bei Kurskクルスクの戦いКурская битваであった。ドイツ軍の2700両の戦車に対して、ソ連軍は3600の戦車を集結させた。そこでは史上最大の戦車戦が戦われた。ソ連戦車軍団はかつて最強であったドイツ軍戦車部隊に真っ向からぶつかり、勝利した。
ソ連戦車軍団は今や名実共に世界第一の実力の持ち主に成長していた。もはや戦場の主導権はソ連軍に移り、二度とドイツ軍のもとにはならなかった。ソ連軍はウクライナ、ベラルーシからドイツ軍を追い出し、ロシアの大地を侵略者から解放した。
1944年6月、連合軍はNormandy landingsノルマンディーに上陸したВысадка в Нормандии。しかしそのころには東部戦線の勝敗は決していた。ドイツ軍は所処で激しい抵抗は見せはしたが、ソ連軍が自力で対処できないものではなかった。ソ連戦車軍団は他に比類無き戦力にまで成長し、第二戦線は必要なかった。後はどちらが先にベルリンに到着するかを競うレースが残っていただけだ。
三年間ほとんど独力で戦い抜き、ドイツ軍を駆逐したソ連軍、その主役であったソ連戦車軍こそが、連合国の最終的勝利達成の原動力となった。


フィンランド共和国(フィンランドきょうわこく、フィンランド語:Suomen tasavalta、スウェーデン語:Republiken FinlandФинляндия、通称フィンランドは、北ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はヘルシンキHelsinki。北欧諸国の一つであり、西はスウェーデン、北はノルウェー、東はロシア連邦と隣接し、南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置している。国体の変化が激しい歴史を持つ国家であり、王制から共和制へ変換された国々の一国として知られている。ロシア帝国がFinska kriget第二次ロシア・スウェーデン戦争Русско-шведская война (1808—1809)後にフィンランドを併合してフィンランド大公国にした1809年まで、スウェーデン王国Konungariket Sverigeに属していた。後に、ロシア帝国がロシア革命で崩壊したことで1917年に独立を果たした。独立後、フィンランドでは4つの戦争が行われた。1918年のフィンランド内戦Suomen sisällissota、ロシア革命で成立したソビエト連邦との冬戦争(1939年~1940年)、第二次世界大戦(独ソ戦)に伴うソ連との継続戦争(1941年~1944年)とソ連との講和後のナチス・ドイツとのLapin sotaラップランド戦争Lapplandkrieg(1944年~1945年)である。それぞれの戦争において、共和国の軍隊は、軍の最高司令官であるマンネルへイム元帥によって率いられた。冬戦争と継続戦争により幾らかの土地をソ連に奪われるも、ソ連に併合されたバルト三国と異なり独立を維持した。首都ヘルシンキはФранко-русский союз露仏同盟Alliance franco-russe以来、ロシア帝国の主要都市であるサンクトペテルブルクСанкт-Петербург方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきた。フィンランドで成長しているもう一つの重要な都市エリアは、ヘルシンキの北約180 kmにあるタンペレである。同じく直近の旧領ヴィボルグはサイマー運河の出口であったが、現在はロシア領で、Северный потокノルド・ストリームNord Streamの経由地となっている。ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、度々勢力争いの舞台や戦場になってきた。

     Historia: Suomen tasavaltaフィンランド共和国の歴史History:Republic of Finland
2度の世界大戦 
ロシアの支配からの独立運動は日本が1904年日露戦争Русско-японская войнаでロシアを破ったことなどから高まりを見せ、第一次世界大戦では、フィンランドはロシア軍の前哨基地となったが、職業軍人を除いて参戦する義務を負わず、国力を温存させた。1917年にロシア革命によりロシア帝政が倒されると、社民党は政権を奪取し、憲法を復活させた。ケレンスキーとの暗闘の後、社民党は下野し、有産階級の諸政党の連立政権が引き継いだ。ボリシェヴィキとの交渉が成立し、フィンランド人は独立を宣言した。しかし、労働者階級はソビエト連邦への参加を求めて蜂起し、内戦に突入する。両陣営の勢力は互角であり、労働者階級は都市部とくにヘルシンキに集中していた。1918年、赤軍がヘルシンキなど南部地域を掌握(Suomen sosialistinen työväentasavaltaフィンランド社会主義労働者共和国Финляндская социалистическая рабочая республика)したため、白軍はヴァーサへ逃れたが、ここで政府はマンネルヘイムを指揮官に任命し、ドイツ人・スウェーデン人も義勇軍を送った。白衛軍は勢力を取り戻し、タンペレの決戦で白軍が勝利した。余勢を駆って白軍はカレワラ発祥地、カレリアに出兵。この是非を巡り連立政権は王党派と共和派に分裂した。王党派(保守党、スウェーデン人民党)は、ドイツ帝国に接近して王国の樹立を画策、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールFriedrich Karl von Hessen-Kasselを国王に選出しフィンランド王国Suomen kuningaskuntaを成立させた。しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政が崩壊。総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知された(ヨーロッパにおける民族自決)。1921年にスウェーデン人が多数を占めるオーランド諸島がスウェーデン王国との領有権問題に発生すると、両国の交渉により国際連盟に裁定が委ねられた。この結果、オーランド諸島は、フィンランドに属する自治領となった。オーランド諸島は、現代においてもスウェーデンとの重要な窓口の一つである。

第二次世界大戦では、ソビエト連邦と2度に渡って戦い、その結果カレリア地峡やペッツアモを失い、多額の賠償金を負った(ソ芬戦争。第1次は冬戦争、第2次は継続戦争と呼ばれる)。この時フィンランドは、スウェーデンに助力を求めたが、中立主義をとられ、やむなくナチス・ドイツに接近した。第二次世界大戦でのドイツの敗北と同じくしてフィンランドも敗戦国となり、ソ連から戦争犯罪に問われることになった。

①カレリア(英語:Karelia)は、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる森林と湖沼の多い地方の名前である。そこに住む人たちのことをカレリア人と呼ぶ。フィンランド、ロシア、スウェーデンにとって歴史的にも重要な地方である。カレリアは、カレリア語とフィンランド語ではKarjala(カルヤラ)、ロシア語ではКаре́лия(カリェーリヤ)、スウェーデン語ではKarelen(カレーレン)と呼ぶ。

②カレリア共和国(カレリアきょうわこく、カレリア語: Karjalan Tazavaldu、フィンランド語: Karjalan tasavalta、ロシア語:Республика Карелия)は、ロシア連邦、北西連邦管区に属する共和国の一つ。首都はペトロザヴォーツクПетрозаводскペトロスコイPetroskoi。

 ①レオン・トロツキー(1940年4月25日(約4ヵ月後に暗殺された)21 August 1940 (aged 60)Coyoacán, Mexico City, Mexico):フィンランドにおける諸事件に関してのバランスシート(貸借対照表)②Четвёртый интернационал第四インターナショナルFourth Internationalによって同年6月に出版された。                                                                           The Defense of the Soviet Union(ソ連邦の防衛)
Stalin’s assault upon Finland was not of course solely an act in defense of the USSR(スターリンのフィンランド襲撃は、もちろんソ連邦を防衛するだけの行動ではない). The politics of the Soviet Union is guided by the Bonapartist bureaucracy(ソ連の政治はボナパルティストの官僚たちによって指導されている). This bureaucracy is first and foremost concerned with its power, its prestige, its revenues(この官僚たちは何よりもはじめに権力、名声、収入(総利益)を心配している). It defends itself much better than it defends the USSR(ソ連邦を防衛するよりそれら自体をうまく守るであろう). It defends itself at the expense of the USSR and at the expense of the world proletariat(それら自体を、ソ連邦及び世界のプロレタリアートによる出費(費用)で擁護するであろう). This was revealed only too clearly throughout the entire development of the Soviet-Finnish conflict(これはソ・フィン紛争の進展すべてを通じて、あまりにもはっきりと明らかにされた) We cannot therefore either directly or indirectly take upon ourselves even a shadow of responsibility for the invasion of Finland which represents only a single link in the chain of the politics of the Bonapartist bureaucracy(したがって我々は直接的だろうと間接的だろうと、ボナパルティスト官僚たちによる政治の鎖内の一つの繋がりのみを代表(象徴)するフィンランド侵攻に対して、責任の影さえも取ることはできない).It is one thing to solidarize with Stalin(スターリンと連帯(団結)するのは一つのことである), defend his policy(彼の政策を支持すること), assume responsibility for it(その責任を負うこと) – as does the triply infamous Comintern(三重に悪名高い(不名誉な)コミンテルンが行うように) – it is another thing to explain to the world working class (それは世界の労働者階級へ説明するもう一つのことある)that no matter what crimes Stalin may be guilty of(どのような犯罪群によりスターリンが有罪であろうと) we cannot permit world imperialism to crush the Soviet Union, reestablish capitalism(我々は帝国主義がソ連邦を押しつぶし、資本主義を再確立すること)and convert the land of the October revolution into a colony(さらに10月革命の地を植民地へと転換することを許すことはできない). This explanation likewise furnishes the basis for our defense of the USSR(この説明は同様に我らによるソ連邦防衛への基盤を提供する). . . . 

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