日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11②


①Françaisフランス語→La « drôle de guerre »奇妙な戦争 (en anglais : phoney war, « fausse guerre » ; en allemand : Sitzkrieg, « guerre assise » ; en polonais : dziwna wojna, « guerre étonnante ») est la période du début de la Seconde Guerre mondiale qui se situe entre la déclaration de guerre par le Royaume-Uni et la France (les Alliés) à l'Allemagne nazie le 3 septembre 1939 et l'offensive allemande du 10 mai 1940 sur le théâtre européen du conflit.
 このようなフランスの態度を見抜いたヒトラーは、「奴らはデモンストレーションをやりプロテストをやり、また同盟を結んだりするだろうThey will hold demonstrations, protests, and form alliances. しかし、決して進軍はしないのだBut they never march.12年間もマジノ線の要塞にもぐっておれば、ドイツの西部要塞に向って突撃する気にはなれるものではないAfter 12 years holed up in a Maginot Line fortification, there's no way they'll feel like attacking Germany's western fortifications.」と侮蔑の念をこめて断言していたのである。
 それに、フランス将兵の士気昂揚を妨げるもうひとつの原因があった。それは、”フランスは何のために戦うのかWhat is France fighting for?”という重大な点、つまり”戦争の大義名分just cause of war”がはっきりしなかったことである。開戦と同時に、ドイツは、西部戦線のフランス兵目がけて猛烈なプロパガンダ攻勢をはじめた。
 「ダンチヒのために死ぬほど君たちは馬鹿ではないはずだI'm sure you guys aren't stupid enough to die for Danzig.」「ダンチヒのために死ぬのと、フランスのために生きるのと、君たちはどちらを選ぶのかWhich would you choose: die for Danzig or live for France?
 ポーランド戦争の終わったあとでは、
 「ポーランドの戦争はもう終わったのだThe war in Poland is over. ドイツ兵はフランス兵と戦うつもりはないGerman soldiers are not going to fight French soldiers.」「鉄砲を撃つのをやめたまえStop shooting guns. ぼくらも鉄砲は撃たないWe don't shoot guns either.
といった調子のよびかけが、ラウド・スピーカーを通じ全線にわたって放送された。


②Deutschドイツ語→Als Sitzkrieg座り込み戦争, früher auch Seltsamer Krieg (französisch Drôle de guerre ‚komischer, seltsamer Krieg‘; englisch Phoney War ‚unechter, vorgetäuschter Krieg‘)«Странная война», «Сидячая война»«Дивна війна», wird der Zustand an der Westfront des Zweiten Weltkrieges zwischen der Kriegserklärung Großbritanniens und Frankreichs an das Deutsche Reich am 3. September 1939 infolge des deutschen Überfalls auf Polen und dem Beginn des deutschen Westfeldzugs am 10. Mai 1940 beschrieben, in dem beide Seiten militärisch weitgehend passiv blieben.
 またその間には”パレ・モア・ダムールParlez‐moi d’amour(聞かせてよ愛の言葉を)”の甘いメロディーや、”ジェ・ドゥ・ザムールJ'ai deux amours(二つの愛)”のやさしい声がひびきわたるという風だった。そして夜になれば、「戦争はもう終った。帰り仕度をしようではないか。フランスの仲間たちよThe war is over. Let's get ready to go home. Friends of France.」という点火信号がラインの向う岸からよびかけてきた。そのうち、最前線のノーマンドランドNo Man’s Land(「所有者のいない土地」「無人地帯」「軍事対立の中間の、いずれの勢力によっても統治されていない領域」)では、どちら側からともなく兵隊たちがあらわれ、煙草やポンポンを交換し合う、という光景さえも見られた。”Im Westen nichts Neues西部戦線異状なしÀ l'Ouest, rien de nouveau”どころではなく、のんびりムードが全線をおおい、”奇妙な戦争”あるいは”ポニー・ウォー”と呼ばれるこの状態はそのまま八ヵ月もつづくことになる。
 わたくしはある日、この”奇妙な戦争”の一断面を遠く望見することができた。

*Deutschドイツ語→Berlin [bɛr'li:n]ベルリンБерлин Audiodatei abspielen ist die Hauptstadt und ein Land der Bundesrepublik Deutschland. Die Großstadt ist mit rund 3,8 Millionen Einwohnern die bevölkerungsreichste und mit 892 Quadratkilometern die flächengrößte Gemeinde Deutschlands sowie die bevölkerungsreichste Stadt der Europäischen Union. Die Stadt hat die dritthöchste Bevölkerungsdichte im Land. In der Agglomeration Berlin leben rund 4,8 Millionen Menschen, in der Metropolregion Berlin-Brandenburg rund 6,3 Millionen.
 ベルリン・ローマ・カプリの旅
 ポーランド戦の大勢が決した9月中旬、わたくしはベルリンに出かけた。ドイツの首都の戦争風景をのぞいてみようというわけである。
 ところが、ベルリン行きの汽車がスイス・ドイツ国境のバーゼルを離れて間もなく、”ポニー・ウォー”のミニチュアをわたくしの目はとらえた。
 ドイツ領に入ると、汽車はラインのそばをまっすぐ北上する。そのラインの向うはフランス領で、河幅は狭いところは200メートルほどしかない。その向うに中洲がいく重にも入り乱れていて、対岸の土手までは500メートルから600メートルの距離だろうか、わたくしの目に入ってきたのは、その中洲の一ヵ所で動いているフランス兵の一群だった。よく見ると銃も持たぬ丸腰で、中には服もシャツも脱いで上半身裸の姿も見えた。ぶらぶら歩いているのや、中洲の草の上にねそべっているのや、まるで遠足にやってきたお行儀のわるい中学生といった光景である。おそらく、そう遠くはなれてはいない陣地から散歩にやってきたものだろう。秋のはじめというよりは晩夏の暖かいひる下りで、このフランス兵たちは、ラインの水浴びとしゃれたものと見えた。ラインのこちら側は、ヒトラー自慢のジークフリート要塞線のつづきである。汽車の窓からは見えないが、機関銃の銃眼はいたるところに配置されていたはずである。そのまん前で、半裸になってねそべっているフランス兵。”ポニー・ウォー”を描くにはこれ以上の好画材はあるまい。

*ジークフリート線(ジークフリートせんЛінія Зігфрида、独: Siegfried-Linie)または、西方の壁(せいほうのかべ、独: WestwallЗападная стенаLigne SiegfriedЛиния Зигфридаは、1930年代後半にドイツのフランス国境地帯を中心に構築されたドイツの対フランス要塞線。第一次世界大戦中に構築された防衛線(Siegfriedstellungヒンデンブルク線The Hindenburg Line)に端を発する。ドイツの伝説上の英雄ジークフリートの名を冠してジークフリート線と呼ばれた。
 汽車は一時間ほどラインに沿って走る。その間中、見えかくれする対岸にはフランス兵ののどかな日なたぼっこ姿が見えた。それは、戦争とはおよそかけ離れた泰平無事な光景だったが、やがて電撃戦の餌じきとなるフランスの悲劇はこののどかさに胚胎するものだった。『Le Fil de L'épéeドゴール回想録The Edge of the Sword』の中にはつぎのような言葉が陰うつな調子で記されている。
「フランスは、犠牲者として登場する自分の出番を待っていたのだFrance was waiting for its turn to appear as a victim.

*『剣の刃』(つるぎのやいば、Le Fil de l'Epee)は、1932年にフランス将校軍人だったシャルル・ド・ゴールによる軍事理論書。ただし、具体的な理論が述べられているのではなく、彼が理想とする軍人像、および軍隊と国家との関わりなどが抽象的に論じられている。
 開戦からまだ二週間しかならぬベルリンでは、戦争のあたえたショックの跡がまだ生々しく感じられた。”とうとう戦争になってしまった。こんなはずではなかったのに、ヒトラーはAt last, war broke out. Hitler wasn't supposed to be like this”という失望感。”一体どうなるのだろうか、戦争は何年もつづくのだろうか?What will happen? Will the war continue for many years?”という不安と焦燥。それに、食糧も衣料も、その他何もかもがきびしい統制となった。だれを相手にようもない不満。そういう、生活というよりは生存そのものを脅かす否定要素にとりかこまれて、ベルリン市民の顔つきもどこかゆがんで見えた。ベルリン人は、思い切りがよくてあまりくよくよしない性分だといわれる。そのベルリン市民の表情の何と暗かったことだろう。
 それに、ドイツ人に一番こたえたのは”夜”が奪われたことであろう。Blackout燈火管制Light controlでベルリンにも明るい夜がなくなってしまったのである。燈火のない夜、それはもう”夜”ではなく”闇”にすぎない。”夜”には生活があり歓びがあるが、”闇”は”死”のように冷たく、”無”のように虚しい。まっくらなベルリンの町を歩きながら、こんなことをわたくしは考えていた。ベルリンは、ヨーロッパ第一の近代都市であり、その宏壮な規模においてはロンドンやパリをはるかに抜いている。その大ベルリンが”くらやみdarkness”に沈んでしまっているのは、何とも名状しがたく不気味なものだった。後日わたくしは15ヵ月もベルリンに住み、この”くらやみ”にもいつの間にか慣れることになったが、はじめて燈火管制下のベルリンですごした二晩に味わった不気味な印象は、長くわたくしの頭から去らなかった。それは、戦争の馬鹿らしさとか無意味さというようなものとはちがった、説明しがたい、ただ気味の悪い圧力、不可抗力的に人間を、その中に沈めてしまう、無限に厭わしい”くらやみ”だったのである。
 しかしこの”くらやみ”の中をベルリン市民たちはぞろぞろと歩いていた。グルグルーン、と奇妙な音を立てるモーターつき懐中電灯をともしながら、黙々と歩いていた。どこかの家から、大本営の特別発表でポーランド戦争の輝やかしい戦果を告げるラジオ放送が聞こえてきたりしたが、立ちどまって聞耳を立てるひとはいないようだった。ポーランドで戦争が終りにならないことはみんな知っていたし、ポーランド戦局の特別発表など何の足しにもならぬことをドイツ人は直感していたのであろう。ドイツ国民全体は、まっくらなベルリンを黙々と歩いているベルリン市民のように、戦争という”大きな闇big darkness”の中に不意に落ちこんでしまったのである。そしてこの”大きな闇”からは簡単に脱出できないことをドイツ国民は予感しているように見えた。戦争は長くなることをドイツ人は観念しているとわたくしは受けとった。
 二晩まっくらなベルリンを歩いて、すっかりゆううつになったわたくしは、ベルンに帰ってきて、戦争なき国の幸を身に沁みて感じた。この小さい町いっぱいを照らしているともしび、それはヨーロッパを照らすともしびでもあったのだ。

*ベルン(標準ドイツ語:Bern[bɛrn] (、スイスドイツ語ベルン方言:Bärn[b̥æːrn](ベァールン)、フランス語:Berne[bɛʁn](ベルヌ)、イタリア語:Berna[ˈbɛrna](ベルナ)、ロマンシュ語:Berna[ˈbɛrnɐ] (ベルナ)、英語:Bern、Berne[bərn]、[bɛrn] (バーン、ベアン))Бернは、スイス連邦の首都。
 スイスでも9月1日総動員がおこなわれ、総人口の一割以上にあたる43万人が召集された。国境地帯の警備が厳重になり、入国がむつかしくなったが、市民生活にはこれという変りはなかった。隣りの二つの大国が戦争をはじめたのだから、スイス国民も平然としてはおられなかったが、まさかスイスの中立が、開戦と同時に犯されるようなことはあるまい、というのが大方の考えだった。しかし、万一攻めこまれるようなことがあれば、断乎として戦かう、という決意はありありと見えた。
 五年八ヵ月の戦争を通じて、独仏どちらからか、侵入(戦略上スイスを通過する必要のために)を受ける危険はまるでなかったわけではないが、スイス軍40万を敵にまわしては割にあわないという計算が、この冒険をたじろがせることになったようである。国民ひとりひとりが自分の国を誇りとし、心から愛し、また満足しているスイスでは、”国を守る気概Spirit to protect the country”は指導者のお説教を待たず、国民の間から自然に生まれてくるのである。スイスの例は、”国を守る気概”というものが上から押しつけられるものではないことを教えている。

①ローマ(伊/羅: Roma、英/仏: RomeРимは、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州Lazioの州都。
 ベルリンから帰ってひと月ほどあと、わたくしは今度はローマに出かけた。9月の末に、ベルンの公使だったAさんが大使になってローマに転任し、”あそびにこないか”と招いて下さったからである。当時ベルンに滞在していたロンドン大学学生のT君兄弟もこの旅行に同行した。
 ローマは、ベルリンとは打って変って賑やかで、陽気で活気に満ちていた。戦争に参加せず中立を守ったイタリアが、これからどう動くかが世界中の注目を集めていた。そのためか、ローマには、英仏はもちろんアメリカからもウインクが送られ、外交界もなかなか活発だった。報道界もローマの取材を重要視し各国から特派員が集まっていた。ムッソリーニの株が急騰したひとときで、”粘土細工の独裁者clay work dictator”も、しばらくは国際関係バランスを握る位置にあるように見えた。しかし、それは見せかけだけで、イタリアにはそれだけの実力はなかった。それをよく知っていたムッソリーニは、第二次世界大戦勃発にあたって、「イタリアが戦争準備を完了するまではあと三年はかかる。それもドイツから十分の資材の援助をもらってのことであるIt would take another three years for Italy to complete its preparations for war. This was done with sufficient material assistance from Germany.」と率直にヒトラーに申し入れている。

②Deutschドイツ語→Benito Amilcare Andrea Mussoliniベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ (* 29. Juli 1883 in Dovia di Predappio, Provinz Forlì; † 28. April 1945 in Giulino di Mezzegra, Provinz Como)Бені́то Амілька́ре Андре́а Муссолі́ні war ein italienischer Politiker. Er war von 1922 bis 1943 Ministerpräsident des Königreiches Italien. Als Duce del Fascismo („Führer des Faschismus“) und Capo del Governo („Chef der Regierung“) stand er ab 1925 als Diktator an der Spitze des faschistischen Regimes in Italien.
 そのムッソリーニが八ヵ月あと、フランス敗戦の最中あわてて参戦したのは、ゴール間近と見て勝馬に賭ける下司根性まる出しunderdogs who are showing off their guts as they bet on the winning horse when they think the goal is near、あるいは火事場泥棒looter(thief) at a fireのかせぎ急ぎと同断である。

 参戦を宣言したヴェネチア広場での大演説で、ムッソリーニは大声で叫んだ。
 「いまにして参戦せずんば、イタリアの地位は、二等国以下に蹴落とされんIf Italy does not participate in the war now, its status will be reduced to below second-class country.
 しかし、ひとときの火事場泥棒のかせぎはあったとしても、所詮、イタリアはドイツやイギリスの大勝負に仲間入りする柄でなかったことは、その後のイタリアの辿った運命が何よりよく証明している。
 大戦勃発に際しては、せっかく冷静な計算のできたムッソリーニが、途中で目さきの小利に眼が眩んでしまったのは惜しいことである。それにしても、賤しい火事場泥棒や、自分の実力を忘れた他力本願rely on othersがきびしい罰を受けることは、ポーランド(ポーランドはZerschlagung der Tschechoslowakeiチェコスロバキア解体Německá okupace Čech, Moravy a Slezskaに便乗してTicinoテッシンTessin地方を掠めとった)、イタリアのふたつの例が示しているように、第二次大戦の教える戒しめといえよう。可哀そうなのはポーランド国民、イタリア国民だったI feel sorry for the Polish and Italian people.
 さてこの辺で話を変えて、別なイタリアについて語りたい。
 陽気で、開けっぴろげなイタリア。夜は明るく、イタリア料理cucina italianaはうまいし、キャンティChiantiもふんだんに飲めるイタリアは、気楽な旅人にとってはまことに快適な国だった。
 ワインケラーWine cellarでは、面白いイタリア民謡canzone popolare italianaをふんだんに聞かせてくれた。気分が乗ると聴衆がみな声を揃えて歌いはじめる。肩を組み、身体を大きく振りながらの大合唱となる。プログラムの合間にはお客の中から飛入りが出て美声をきかせる。それはまことに楽しい雰囲気だった。このワインケラーの合唱を聞いておれば、「戦争どころではないIt's not even about war.」というイタリア人の気持がよくわかってくるのだ。
 わたくしたちは、ローマのあとナポリNapoli、ポンペイPompeiiをまわりソレントSorrentoから船に乗ってカプリCapriに向った。11月はじめの南欧は秋晴れの空も高く、暖かく、しかも爽やかでこの上もなく快い季節だった。戦争のせいでツウリストの影はまばら、ポンペイの遺跡も訪ねるひとはほとんどいなかった。

*カプリ(イタリア語: CapriКапріКаприは、イタリア共和国カンパニア州Campaniaナポリ県Città metropolitana di Napoliにある、人口約7200人の基礎自治体(コムーネ)。
 カプリの小さなホテルでは合客がひとりもいなかった。レストランのおやじは、「魚なら何でもあるし、何でもつくるWe own any fish, and we can make anything.」というので車エビPenaeus japonicusとスズキJapanese sea bassの塩焼Grilled with saltを注文した。おやじはいけすからすくいあげてきた、生きたままのエビとスズキを、かごごと見せたあとそれをわたくしたちの目の前でグリルにかけて焼いてくれた。30年前のカプリではそんなこともできたのである。
 翌日はゴルキーМакси́м Го́рькийの住んだ家、リルケRainer Maria Rilkeの滞在した邸などを探して歩いた。「カプリには豪華な邸がたくさんあるが、みな外国人の別荘だ。イタリア人は金がないのでねThere are many luxurious mansions in Capri, but they are all vacation homes for foreigners. Italians don't have money.」とカプリの住人がいっていた。スイスからくれば、確かにイタリアの貧乏は目につく。ことに南イタリアでは貧乏がひどい。しかし、ここでは貧しさに打ちひしがれている、という感じはほとんど見えない。ひとびとの表情は陽気でくったくがなく、また、人なつっこい。貧乏は昔からのことにちがいないが、この地方にあのすばらしい民謡が生まれた、ということは、Mezzogiorno (Italia)南イタリア人Southern Italyが生活を楽しむ楽天家optimistであることを証明するのではあるまいか?また、イタリア人が戦争ぎらいItalians hate war、というのもこのことと関係があるのではないか?そんなことを論じながらすごしたカプリの夜のことが追憶される。
 追憶のついでにもうひとつ思い出されるのは、ナポリのホテルで、ワルシャワから逃げ出してきた(Japanese Ambassador to Poland)S大使にひょっこり顔をあわせたことである。ワルシャワ爆撃Warsaw bombingがどんなにひどかったかをひとくさり聞かしたあとSさんは、「ヒトラーのごろつき奴、あいつは必ずこの戦争で滅びるのさHitler's thug, he's definitely going to die in this war.」と憎しみのこもった調子で語ったが、これはわたくしが聞いた”ヒトラー没落説Hitler's fall theory”第一号First issueだった。
 ここで当時ヨーロッパにいた日本外交官Japanese diplomatの時局認識というものを二つの例で紹介しておこう。ひとつは前述のイタリア大使Japanese Ambassador to ItalyAさんの見解である。Aさんはヨーロッパ戦争勃発を日本にとっての”Kamikaze神風Камикадзе”と見ていた。そしてつぎのように論じた。
 「この戦争は、勝敗は別として相当長びくにちがいないRegardless of whether who win or lose, this war is sure to last quite a while. 日本はその間に急いで日支事変を片づけねばならないIn the meantime, Japan must quickly put an end to the Japan-China Incident. そしてヨーロッパ戦争には絶対中立を守り、その間世界貿易でうんとかせがねばならないし、かせぐことができるAnd while maintaining absolute neutrality in the European war, we must and can earn a lot from world trade. そういう大きなチャンスをもたらしたヨーロッパ戦争は、日本にとってはまさに神風であるThe European war, which brought such a great opportunity, was truly a kamikaze for Japan.」
 これは理性的な、健全な見解といっていいだろう。しかし、外務省の出先がみな理性的、健全だったとはいえない。もうひとつの例は、それから九ヵ月ほどあとのことで、当時ブダペストの公使Japanese Minister in BudapestをしていたIさんの見解である。このときはフランスは降服しオランダもドイツに占領されていて情勢には大きなちがいが出てきていた。Iさんは、フランス、オランダが敗退しイギリスが孤立無援の状態にある今日こそは、日本にとって南進のときであるWith France and the Netherlands defeated and Britain left alone and without help, today is the time for Japan to advance south、として「仏領インドシナIndochine française、蘭領インドシナNederlands-Indiëに向って日本が勢力をのばす絶好の機会が訪れたA great opportunity came for Japan to expand its influence towards French Indochina and Dutch Indochina.」と主張する。
 Iさんの主張は、Aさんに比べるとずっと荒っぽい帝国主義的膨張論Imperialist expansion theoryである。両者ともいわゆる”ナショナル・インタレストnational interest”に出発しているが、その目標は大きくちがっている。平和主義pacifismかパワー・ポリテックスpower politicsか、そのいずれかをえらぶかで日本の運命は決まったのであった。
 さて、わたくしの”ヨーロッパ・ヴァガボンドEurope Vagabond”は、1939年秋のイタリア旅行を最後として、それからあとは、もっぱら”戦雲の下under the war clouds”に明け暮れることになった。それだけに、平和で明るくまた陽気で楽しかったローマやナポリ、ソレントやカプリ、ワインケラーの歌声はひとしお懐かしまれるのである。

*Françaisフランス語→L’armistice du 22 juin 1940Компьенское перемирие独仏休戦協定Waffenstillstand von CompiègneКомп'єнське перемир'я 1940 рокуRozejm w Compiègne「1940年6月22日の休戦協定」 est une convention signée en forêt de Compiègne entre le Troisième Reich, représenté par le général Wilhelm Keitel, et le dernier gouvernement de la Troisième République, dirigé par le maréchal Philippe Pétain et représenté par le général Charles Huntziger, afin de suspendre les hostilités ouvertes par la déclaration de guerre de la France envers l'Allemagne le 3 septembre 1939, marquées notamment par la bataille de France déclenchée le 10 mai 1940, la fuite de l'Armée britannique et son rembarquement à Dunkerque à partir du 26 mai 1940 et la chute de Paris, déclarée ville ouverte le 14 juin.
                2 フランス敗戦を遠く
 フランス敗れる
 フランスがドイツの電撃戦に敗れたという悲報を、わたくしはハンガリーの首都ブタペストで聞いた。
 ”ドナウの女王Queen of the Danube”と呼ばれるこの美しい町が、一年を通じて一番晴れやかに装う初夏の1940年6月14日、ドイツ軍パリ入城を伝えるラジオ・ニュウスが告げられた。
 ルントシュテットKarl Rudolf Gerd von Rundstedt将軍のひきいるドイツ軍機械化部隊主力が、アルデーヌArdennesの森を突き抜け、セダンの守りを破ってからひと月になるかならぬ、まことにあっ気ないフランスの敗北ぶりだった。

*Deutschドイツ語→Der Westfeldzug der deutschen Wehrmacht im Zweiten Weltkriegナチス・ドイツのフランス侵攻Французская кампания или Падение Францииフランスの戦いLa bataille de FranceBattle of France ou campagne de FranceFrench Campaign, unter Bezug auf das Hauptziel auch Frankreichfeldzug genannt, war die überraschend schnell erfolgreiche Offensive vom 10. Mai bis 25. Juni 1940 gegen Frankreich und die dortigen britischen Expeditionstruppen (Fall Rot), unter Verletzung der Neutralität aller dazwischenliegenden Beneluxstaaten (Fall Gelb). Die Nordflanke der Offensive wird auch als Überfall auf die Niederlande, Belgien und Luxemburg bezeichnet.

 フランス軍は、ドイツ軍主力の攻撃をオランダーベルギー戦線と予測していて、防衛主力もその方面にまわしていた。東北フランス目がけて攻撃してきたドイツ軍の作戦は文字どおり意表を突くものだった。アルデーヌの森を全速力で駆け抜けたドイツ軍機械化部隊は、そのまま北仏ピカルディ平原を西に向って突進し、二週間後には大西洋岸に達した。このためベルギー国境方面に集結していたフランス軍の主力とイギリス軍全部が南方との連絡を断ち切られてしまった。イギリス軍30万は厖大な武器、弾薬、車輛の山を棄てて命からがら逃げ出すことができた。”ダンケルクの敗走”として有名なできごとである。

①Русскийロシア語→Битва за Дюнкеркダンケルクの戦いSchlacht von DünkirchenBataille de DunkerqueBattle of Dunkirk— сражение Второй мировой войны между войсками Союзников и Германии, произошедшее 26 мая — 4 июня 1940 года во время Французской кампании Вермахта②The Dunkirk evacuationダンケルクからの撤退Évacuation de DunkerqueДюнкерська евакуація, codenamed Operation Dynamoダイナモ作戦Операція «Динамо» and also known as the Miracle of Dunkirk, or just Dunkirk, was the evacuation of more than 338,000 Allied soldiers during the Second World War from the beaches and harbour of Dunkirk, in the north of France, between 26 May and 4 June 1940.
 フランス軍主力は、オランダーベルギー戦線を突破して、北フランスに侵入してきたもうひとつのドイツ軍との挟撃を受け、支離滅裂となり、緒戦の十日で大勢は決してしまった。フランス軍敗北の最大の原因は、仏軍の意表をついたヒトラーの奇襲作戦、アルデーヌ突破作戦によって防衛線のまん中を打ち抜かれたことにあった。アルデーヌの森というのは、北フランス国境の中央にあたるセダンと、ドイツ西部国境の南端に近いアアヘンを結ぶベルギー領の一帯、ここは長さ約130キロ幅50キロの深い森林地帯で、その間に兵陵の起伏が多いため、戦車を中心とする機械化部隊の行進には不向きと見られていた。フランス軍作戦当局でも、ドイツ軍機械化部隊主力がこの地域を抜けてくるとは夢にも予想していなかった。
①Українськаウクライナ語→Арде́нниアルデンヌ (фр. Ardennes) Арденны (горы)— гірська система і лісовий масив у Бельгії, Франції та Люксембурзі; західне продовження Рейнських Сланцевих гір②Battle Of France 1940 - What You Should Know: With British and French troops rushing into Belgium to meet the German attack, German forces invaded France through the dense forests of the Ardennes.
 フランス軍作戦当局は、ドイツ軍は第一次世界大戦のときと同様に、平坦な地形のオランダーベルギー方面に出てくるものと確信して疑わなかった。その方が、優勢な機械化部隊の威力を発揮するため有利で、機械化部隊の行動に不利なアルデーヌの山道など通るはずはない、という常識的判断を下していたのである。フランス軍の防衛主力も当然オランダーベルギー戦線よりに配置されていた。そしてそれ以外の戦線では、マジノ線の要塞の守備を固めたほかは、ずっとうしろに下り、アルザスからフランドルにかけて約800キロの長い防衛線を布いていた。ところがヒトラーの奇襲によって、マジノ線は背後から突かれることになり、まったく無用の長物となった。またフランスの長い防衛線は東西に南北に切断され、四分五裂、ずたずたにちぎられてしまった。この混乱したフランス軍に対してドイツ軍は、機械化部隊の集中的活動、急降下爆撃機の掩護などで効果的な攻撃を加えることができた。フランス軍はその反対に、数量的にも劣勢だった戦車隊は方々に分散されたままで、集中的活動ができなかった。
 この作戦のちがいは、戦争に臨む根本姿勢のちがいにもとづくもので、はじめから防衛一本槍に決めていたフランス軍は、一度も主導権をとることができなかった。その結果フランス軍は完全にドイツ軍のペースにひきこまれてしまった。こうして、ひとたび切り崩されたフランス軍防衛戦線は、ふたたび立ちなおる間もなく、そのまま総崩れとなっていった。三色旗Tricoloreがドイツ兵の泥靴で踏みにじられたのである。
 第一次世界大戦で、ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff(当時のドイツ軍参謀総長German Army Chief of Staff)が、四年という長い年月をかけ、全力をあげて戦い、ついに成功しなかった”西部戦線突破Breaking through the Western Front”、”フランス軍主力の撃滅Destruction of the main French army”という難事を、ヒトラーは、わずか五週間で成しとげた。しかもそれに払った犠牲は微々たるものだった。ヒトラーの威信は一きょに高まり、総統に対する国民の信頼はいまや無限といってよかった。それだけの理由はあったといってよい。アルデーヌ作戦に疑いを抱いていたドイツ軍首脳も、ここにいたってはかぶとを脱がざるを得なかった。”Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt独ソ不可侵協定Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом”によって”外交の名手master of diplomacy”ぶりを発揮したヒトラーは、今度は”戦略の大天才great genius of strategy”と見られるにいたった。
 ここで、アルデーヌ作戦決定までの由来を述べておく必要がある。
 ドイツ軍の西部戦線というのは、北はオランダ・ベルギーとの国境から南はスイス・フランス国境まで厄00キロの長大なものである。これを北から南に向ってA,B,Cの三つの軍団に分け、右の端にあたるオランダーベルギー戦線はボックMoritz Albrecht Franz Friedrich Fedor von Bock大将のひきいるB軍団、中央正面はルントシュテット大将のA軍団、その左手、アルザスからスイス国境まで、いわゆるジークフリート線を受けもつのはレープWilhelm Josef Franz Ritter von Leeb大将の指揮するC軍団となっていた。
 ポーランド戦終了後に樹てられたはじめの作戦計画では、攻撃主力はB軍団がひき受け、したがって攻撃主力となる機械化部隊主力もこの軍団に配属されることになっていた。そしてこの軍団が突破主動力となって、オランダーベルギー戦線を突き破りフランスに進攻するという構想だった。ところが1940年の春になって、A軍団参謀長マンシュタインFritz Erich von Lewinski genannt von Mansteinから新しい作戦案が提出された。マンシュタインは、「既定の作戦では、戦闘開始からフランス領に入るまでに時間がかかりすぎるUnder the default strategy, it would take too long from the start of the battle to the time they entered French territory. それだけフランス軍の防衛準備に多くの時間をあたえることにもなるので、開戦と同時に、フランス軍とぶつかってこれに殲滅的打撃をあたえることは不可能となるThis would give the French army more time to prepare for their defense, making it impossible to collide with the French army and deal a annihilating blow at the start of the war. したがって、もしもフランス軍を、緒戦において決定的に叩こうとするならば、不意打ちを食わせなければならない
Therefore, if we were to decisively attack the French army in the early stages of the battle, we would have to deliver a surprise attack. そのためには、機械化部隊の行進には不向きと見られ、それゆえにフランス軍の防備も手薄なアルデーヌの森をとおり、ここから北フランスの中央部に進み、大西洋岸まで一きょに走り、オランダーベルギー方面に近い北フランスに配備されたフランス軍主力を背後から突くのがもっとも効果的な作戦だTo do this, they had to pass through the Ardene Forest, which is considered unsuitable for marching mechanized troops and therefore poorly defended by the French army, advance from there to the center of northern France, run all the way to the Atlantic coast, and travel all the way to the Atlantic coast. Lander: The most effective strategy is to attack the main force of the French army, which is stationed in northern France near Belgium, from behind.」と説くのである。


*Deutschドイツ語→Fritz Erich von Lewinski genannt von Mansteinフリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン (* 24. November 1887 in Berlin; † 10. Juni 1973 in Irschenhausen)Фриц Э́рих Георг Эдуард фон Манште́йн war ein deutscher Berufsoffizier, ab 1942 im Rang eines Generalfeldmarschalls.
 この新しい作戦案に対して軍首脳は同意をあたえなかった。ところがヒトラーはこの構想に深い関心を示した。そして、いよいよ西部戦線攻撃のまぎわになって、独断でアルデーヌ作戦に切り替えてしまった。ボック大将などは猛烈に抵抗したが、ヒトラーは将軍たちに有無をいわさずこの切替えを決行した。

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