日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11①


①笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年 - 1998年9月28日)は、日本のジャーナリスト、評論家。第二次世界大戦前後のヨーロッパに特派員として滞在し、多くの知見を得た。1912年台湾Taiwan基隆Keelung生まれ。1935年京都帝国大学文学部を卒業後、外務省に入省After graduating from the Faculty of Letters at Kyoto Imperial University in 1935, he entered the Ministry of Foreign Affairs. 1938年に渡欧He moved to Europe in 1938.  通算五十年近くにわたってチューリヒ、ブダペスト、イスタンブール、ベルリン、パリ、ボンなどに住み、文筆活動を続けたFor nearly 50 years in total, he lived and wrote in Zurich, Budapest, Istanbul, Berlin, Paris, Bonn, etc. この間朝日新聞、東京新聞、静岡新聞などの特派員、NHK解説委員等も務め、晩年はボンとチューリヒを拠点に静岡新聞などに執筆していた。中でも第二次世界大戦前後の生の欧州情勢の報道は貴重な記録として残り、後に『第二次世界大戦前夜』などにまとめられた。その外、主な著書に『ベルリンの壁崩れる』、『スイスを愛した人びと』などがある。1998年9月28日、ドイツのデュッセルドルフで死去。86歳Died on September 28, 1998 in Düsseldorf, Germany. He is 86 years old.

②Shunji Sasamoto (1912 - September 28, 1998) was a Japanese journalist and critic. He stayed in Europe as a correspondent before and after World War II, and gained a lot of knowledge.

[1969]Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/L'Europe pendant la Seconde Guerre mondiale/Европа во время Второй мировой войны                         笹本 駿二Сюнджи Сасамото
ーFor five and a half years, all of Europe was engulfed in terrible war until peace was restored in May 1945 with the collapse of the Nazis. The author spent all of this time in Europe, traveling as a journalist under the clouds of war, from Berlin to the Eastern Front, Nazi-occupied Paris, Istanbul, and Rome. A valuable report on Europe following ``The Eve of World War II.''ナチスの崩壊によって一九四五年五月平和が甦るまで,五年有半にわたりヨーロッパ全土は凄惨な戦火に覆われた.著者は,この間を終始ヨーロッパで過し,ベルリンから東部戦線,ナチ占領下のパリ,イスタンブール,ローマ等々,戦雲の下をジャーナリストとして縦横に駆けめぐった.『第二次世界大戦前夜』に続く貴重なヨーロッパ報告Fünfeinhalb Jahre lang war ganz Europa in einen schrecklichen Krieg verwickelt, bis im Mai 1945 mit dem Zusammenbruch der Nazis der Frieden wiederhergestellt wurde. Der Autor verbrachte die ganze Zeit in Europa und reiste als Journalist unter den Wolken des Krieges, von Berlin an die Ostfront, in das von den Nazis besetzte Paris, Istanbul und Rom. Ein wertvoller Bericht über Europa nach „Am Vorabend des Zweiten Weltkriegs“ー


                 まえがき
 ドイツの降伏とともに、ヨーロッパの砲声が絶えてから25年になる。五年八か月もつづいた、ヨーロッパ史最大の戦争もいつの間にか遠い昔話となり、この大戦争に直接の思い出を持つひとびとはいまでは少数派になってしまった。ここの大戦争の残した”きずあと”ー単に”きずあと”というよりは、ヨーロッパ史上空前の大変革というべきだがーに対してさえ、これを”きずあと”とは実感しない若い戦後世代が多数派を占める今日、この戦争に随伴した問題などつい忘れがちになるのは当然であろう。その上、戦争終結直後におこった”冷戦”のために、この戦争の提起した諸問題の公正な検討が妨げられるという不運にも見舞われた。今日といえども、”冷戦”のひきおこした”ひずみ”は完全に解消してはいない。しかし、ひところに比べれば、”冷戦的興奮”がかなりさめてきたことはまちがいない。それに25年という長い年月がたってみれば、冷静な”歴史の立像作業”というものもしらずしらずのうちに進んでいるのである。その意味では、”第二次世界大戦”-厳密にいえばここでは”第二次ヨーロッパ大戦”-のもたらした諸問題を、公平に検討するときがいまようやく訪れたということができよう。
 戦争のつづいた五年八か月の間、わたくしはベルン、ブダペスト、イスタンブール、ベルリン、チュウリッヒなどを転々として移り住んだ。また、そのほかにも、日本のジャーナリストとして旅行できる地域をかなり広く歩いてまわった。ドイツの衛星国となったバルカン諸国や占領下のパリ、または東部戦線のある地域などがそれである。英米の爆撃と戦う”ベルリン戦場”や、ソビエトの迫撃砲に洗礼されたクルスク戦線では、わたくしはヨーロッパ戦争をきわめて身ぢかに経験したし、イスタンブールやチュウリッヒでは戦争をはるか遠くに眺めることができた。つまり、いろいろな形で、ヨーロッパの大戦争とおつきあいしてきたことになる。そのおつきあいを通じ、ひとりのジャーナリストが自分の目と耳でつかまえたものをここに綴ってみることにした。いうまでもなく、叙述の中心となるのは戦争の大きな推移で、これはいわば、その物語の太いたて糸となる。そしてこのたて糸のわきに細いよこ糸が何本も結びつく。もちろんこの小著で、大戦争の全貌をえがくことなど思いもおよばぬところである。戦争の主な推移といっても、それはほんのスケッチ程度にすぎない。戦争に随伴する重要なできごとや問題も、すべてを網羅するわけにはゆかない。その割りには、余計な個人的見聞が多すぎる、とおとがめを受けることであろう。それを覚悟の上で、わたくし個人の見聞や感想に大きすぎるスペースをあえてあたえることにした。
 その意味では”第二次世界大戦下のヨーロッパ”という書名は立派すぎる。ほんとうは、”一ジャーナリストの見た”という副題をつけるべきであるが、それでは書名として長すぎる。しかし、わたくし個人の見聞や考えを我慢して読んでいただければ、その中の、いくつかは、第二次世界大戦の知られざる側面を理解する若干のヒントを提供してくれよう。わたくしはひそかにそう念じている。
 きたる5月9日はヨーロッパに平和がよみがえってから26周年にあたる。しかし、ヨーロッパでは今日なお多くの問題が未解決のまま残っている。
 また8月15日、アジアは平和回復25周年を迎える。周知のとおりアジアでも多くの問題が残っており、とくに日本にとっては、最大の問題である中国との関係が片づいていない。片づいていないどころかその解決の曙光さえ見えない。25年という長い年月の無為をわれわれは深く恥じなければなるまい。小著によって、ヨーロッパ戦争を回顧する機縁を得る読者があれば、同時にアジアの戦争を想起され、また、われわれにとっていま大切なことは何であるかを誠実に検討されるよう心から願いたい。
 なお、わたくしは昨年8月おなじく岩波書店で”第二次世界大戦前夜”と題するものを出した。今度の小著は、前者に続く時期を叙述したかたちだが、そのスタイルも、また本として性格もかなり趣きの違ったものになっている。
                           1970年2月 笹本駿二

[1969]The eve of World War II/Der Vorabend des Zweiten Weltkriegs/La veille de la Seconde Guerre mondiale/Накануне Второй мировой войны                                                              笹本駿二Shunji Sasamoto
ーEn septembre 1939, l’Allemagne nazie envahit la Pologne, ce qui amène la Grande-Bretagne et la France à déclarer la guerre à l’Allemagne, et la Seconde Guerre mondiale éclate. L'auteur, qui vit en Europe depuis la veille de la guerre, explore les tactiques et les décisions des dirigeants de divers pays, dont Chamberlain, Daladier et Staline, qui étaient étroitement liés les uns aux autres à propos d'Hitler, en particulier la vérité derrière le pacte de non-agression germano-soviétique et découvre les facteurs décisifs qui ont conduit à la guerre. Expliquez sous plusieurs angles一九三九年九月ナチ・ドイツのポーランド侵入は英仏対独宣戦となり,ここに第二次世界大戦が勃発した.大戦前夜からヨーロッパにあった著者は,ヒトラーをめぐって複雑にからみ合ったチェンバレン,ダラディエ,スターリンなど各国首脳の駆け引きや決断の跡,とくに独ソ不可侵協定の真相を追求し,戦争の決定的要因を多角的に解明するВ сентябре 1939 года «Аллемань нацистов» вошла в Полонь, и она стала частью Великой Бретани и Франции, объявив войну во Франции и «Вторую мировую войну». Дайверы платят, не Чемберлен, Даладье и Сталин, которые действительно являются сторонниками Гитлера, и, в частности, верят в существование советско-германского пакта о ненападении и определяют факты принятия решений, которые будут проводниками в войне. Expliez sous plusieurs angularsー

①Deutschドイツ語→Der Überfall auf PolenInvasion of Polandポーランド侵攻 am 1. September 1939 war der Angriff des nationalsozialistischen Deutschland auf die Zweite Polnische Republik, mit dem der Zweite Weltkrieg in Europa begann. Nach mehrmonatigen diplomatischen Spannungen und dem zur Rechtfertigung des Angriffs vorgetäuschten Überfall auf den Sender Gleiwitz befahl Adolf Hitler der Wehrmacht den lange geplanten Polenfeldzug, der von Truppen des Slowakischen Staats unterstützt wurde (siehe slowakische Invasion Polens).

②Polskiポーランド語→Kampania wrześniowa (inne stosowane nazwy: kampania polska 1939, wojna polska 1939, wojna obronna Polski 1939) Польская кампания вермахта (1939)– obrona terytorium Polski przed agresją militarną (bez określonego w prawie międzynarodowym Wikiźródła wypowiedzenia wojny) wojsk III Rzeszy (Wehrmacht) i ZSRR (Armia Czerwona); pierwszy etap II wojny światowej. Od 3 września 1939 wojna koalicyjna Polski, Francji i Wielkiej Brytanii przeciw Rzeszy Niemieckiej.
               1 奇妙な戦争ーポニー・ウォー
 ポーランド電撃戦
 1939年9月1日の夜明け、ドイツ軍は東プロシャ、ポメラニヤ、シレジアースロバキアの三つの方面、すなわち、東のソビエト国境を除く北、西、南の全方角からポーランドに侵入した。ドイツ軍地上兵力は、機械化部隊九コ師団を中心とする精鋭部隊56コ師団で、それに新鋭機1500を擁する当時世界最強の空軍が密接に協力した。
 これを迎え撃つポーランド軍地上兵力は約30コ師団、機械化部隊はわずかに一コ旅団にすぎないという劣勢で、勝敗ははじめから問題にならなかった。その上約700機のポーランド空軍の半ば以上が、開戦とともに奇襲を受けて飛行場で叩きつぶされた。そして二日目にはポーランド空軍は事実上姿を消してしまった。
 新鋭爆撃機、大量の戦車隊の協力による、いわゆる電撃戦によって、ドイツ軍は一週間でポーランド軍の主力をつぶした。二週間たったときには、第二線兵力を含めて約200万のポーランド軍は、もはや組織された戦力としては存在しなくなった。そのあとドイツ軍は、無人の野をゆく勢いで全ポーランドを席巻し、三週間でポーランド軍の抵抗は終ってしまった。
*電撃戦(でんげきせん、独: Blitzkrieg、ブリッツクリークLightning WarБлицкригbewegungskriegとは、一般に機甲部隊の高い機動能力を活用した戦闘教義である。「電撃」のように迅速に短期間で決着を付けたためこの呼称がある。
 文字どおりの電撃戦のあと、9月の末にはポーランド戦争は終結していた。はじめから勝敗の明らかだった戦争であった。二週間目のことである。ポーランドの騎兵隊12コ旅団が、ドイツ精鋭部隊の前進を阻もうとして、戦車陣に切り込み、殲滅されたという嘘のような話が伝わっている。ポーランド兵がいかに勇士といえ、剣と槍のみをもってしては、敵の戦車にかすり傷さえも負わすことができなかったにちがいない。ドイツ・ポーランド戦の実体を、なによりもよく物語る話であろう。 
*【追加参考資料Additional reference materials】「ポーランド軍が時代遅れの騎兵になおも愛着を持ち、騎兵の大軍をもってドイツ軍機械化部隊の進撃を阻止しようとしたのは、まさにお笑い草であったIt was a joke that the Polish army remained attached to its outdated cavalry and tried to use a large army of cavalry to stop the advance of German mechanized troops(野田宣雄Nobuo Noda『ヒトラーの時代(下)The Age of Hitler (Part 2)』 (講談社学術文庫Kodansha Academic Library)1976年)。
 ドイツ・ポーランド戦争の一週間前、フランスの参謀総長ガムラン元帥(開戦とともにフランス軍総司令官となった)が、「半年は頑張るだろうThey will work hard for half a year」と予想したポーランド軍は三週間で消え去ったのである。

*Françaisフランス語→Maurice Gustave GamelinМорис Гюстав Гамеленモーリス・ギュスターヴ・ガムラン , né le 20 septembre 1872 à Paris et mort le 18 avril 1958 dans la même ville1, est un général français, grand-croix de la Légion d'honneur et médaillé militaire.
 あまりにもあっ気ないポーランドの敗北について、「ポーランドは作戦をあやまった。ポーランドは、全国境線を守ろうとしたため、防衛陣は薄くなってしまった。もっと防衛線を短くして、重点主義の作戦をとるべきだった
Poland made a mistake in its strategy. Poland's defenses became thin as they tried to protect all of their borders. They should have shortened their defense lines and adopted a focused strategy」というような批評も出てきたが、ほんとうのところは、戦略や戦術がいくらかでも物をいうには、ポーランドの戦力はあまりにも貧弱だったのである。
 それよりも、ポーランドにとって致命の誤算となったのは、ドイツが、虎の子として大事にしていた機械化部隊と空軍の主力を、ポーランド作戦に一度に注ぎこんでくるとは予想していなかったことであろう。この誤算の裏には、ドイツがポーランドに攻めこんでくれば、英仏は必ず西部戦線で牽制行動に出る、したがってドイツは、機械化部隊、空軍の相当部分を西部戦線に残さざる得ない、という判断があった。ところがドイツはポーランドの予想に反して、機械化部隊、空軍のほとんどをポーランド作戦に注ぎこんだのである。
 もっとも、ポーランドとしてはこう判断する根拠は十分にあった。ドイツ軍侵入の一週間前の8月25日に調印されたポーランドとの同盟条約の中で、仏英は「ポーランドが攻撃を受ければ、あらゆる手段によってポーランドに軍事的援助をあたえるIf Poland is attacked, we provide military assistance to Poland by any means possible」と約束しているし、その三ヵ月前パリでおこなわれたフランス・ポーランド両軍首脳による作戦会議では、「開戦第一日フランス空軍は即時ドイツを爆撃する。第三日には地上兵力による小規模の攻撃を加える。15日となれば大規模の攻撃を開始するOn the first day of the war, the French Air Force immediately bombed Germany. On the third day, a small-scale attack by ground forces will be carried out. On the 15th, a large-scale attack will begin」ことを約束しているのである。

*Françaisフランス語→En 1939(Alliance franco-polonaise/Sojusz polsko-francuski/Franco-Polish alliance)Enfin, une nouvelle alliance fut signée en 1939. La convention Kasprzycki-Gamelin fut signée le 19 mai 1939 à Paris et est nommé après le ministre polonais de la guerre, le général Tadeusz Kasprzycki, et du commandant de l'armée française, Maurice Gamelin. Les deux pays s'engagèrent à fournir une aide militaire à l'autre en cas de guerre avec l'Allemagne nazie. En mai, Gamelin promit une "offensive de secours franche" dans les trois semaines suivant une attaque allemande5,6. Des discussions des états-majors des deux armées furent également incluses dans le traité. Enfin, il fut complété par un volet politique, signé à Paris le 4 septembre 1939.
 ポーランドとしては、英仏が西部戦線で何ほどかの牽制行動に出ることを期待したのは当然だった。ところが英仏はまるっきり動こうとしなかった。ドイツ空軍の猛爆を浴びてたまらなくなったポーランドからの、「ドイツの飛行場を爆撃して、すこしでもポーランド空襲を鈍らせてもらいたいWe would like you to bomb German airfields to slow down the German air raids on Poland」という火急の訴えにも、英仏はまったく応えなかった。こうして、ドイツ軍がポーランド軍を存分に叩き、撃滅するのを英仏は拱手傍観するばかりだった。それは文字どおりの”見殺しabandoned”だった。また、だれの目にも明らかな、同盟義務の違反Violation of alliance obligationだった。
 何故か?それについては戦後いろいろの説明や解釈がおこなわれている。しかし、英仏の責任ある筋からの答えというものはついに出ずに終っている。つまり、うやむやにされたままなのである。
 第二次世界大戦については、戦争当時の責任者たちの書いた無数の回顧録が出ているが、この疑問に明白に答えているものは、寡聞のせいか、わたくしには見当らない。この問いに答えるにはもっとも適格者であると思われるウィンストン・チャーチルも、どういうわけか、この問題の説明はあいまいである。参考のためにチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』の中で、この問題に関する部分を紹介してみよう。

①The Second World War《第二次世界大战回忆录》Вторая мировая война (серия книг) is a history of the period from the end of the First World War to July 1945, written by Winston Churchill. Churchill labelled the "moral of the work" as follows: "In War: Resolution, In Defeat: Defiance, In Victory: Magnanimity, In Peace: Goodwill".
 「なぜポーランドが破壊されるまで待っているのか、というわかり切った質問が出るThe obvious question is, why wait until Poland is destroyed? しかしこの戦闘は数年前に負けていたのであるBut this battle was lost several years ago. 1938年、チェコスロバキアがまだ存在していた間は、勝つ見込みも相当あったIn 1938, while Czechoslovakia still existed, it had a good chance of winning. 1936年なら、ドイツは抵抗らしい抵抗をしなかったであろうIn 1936, Germany would not have offered any semblance of resistance. 1933年なら、ジュネーブの勧告(国際連盟のこと。国際連盟本部はジュネーブにあった)が血を見ずして、ドイツを承服させることができたであろうIn 1933, the Geneva Recommendation (referring to the League of Nations; the headquarters of the League of Nations was in Geneva) would have been able to bring Germany into compliance without bloodshed. 1939年に危険を冒さなかったからといって、ガムラン将軍だけを責めることはできないGeneral Gamelan cannot be blamed solely for not taking risks in 1939. この冒険は、イギリス、フランス両国政府が、それまでに尻ごみした冒険よりも遥かに大きくなっていたのであるThis adventure was far greater than any that the British and French governments had previously undertaken.」(『第二次世界大戦回顧録』邦訳三巻120ページ*注:(他も含め)邦訳からのGoogle英訳ですので、意味はほぼ同じながら原文とは若干文体は異なっていると思いますThis is a Google English translation from a Japanese translation (including others), so I think the meaning is almost the same, but the writing style is slightly different from the original. ご了承いただければ幸いでありますI appreciate your understanding.2024/03/14 Sammy
 これでは問題の解答になっていないばかりでなく、チャーチルとしては珍しく歯切れの悪い調子で、問題をすりかえようとしているのである。

②Sir Winston Leonard Spencer Churchillサー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルСер Ві́нстон Леонард Спенсер-Че́рчилль(30 November 1874 – 24 January 1965) was a British statesman, soldier, and writer who twice served as Prime Minister of the United Kingdom, from 1940 to 1945 during the Second World War, and again from 1951 to 1955.
 1936年3月、ドイツがロカルノ協定を破ってラインラントRheinlandbesetzungに軍隊を入れたときには、西欧側にはドイツを負かす力があった。しかし、いまとなってはおそすぎて、冒険はやれないのだ、というのがチャーチルのいい分なのである。しかし、これでは、何故ポーランドを援けるために軍事行動をとらなかったのか、という問いに正面からの答えにはなっていない。
 ポーランドに対して「ドイツが攻めてくれば必ず援けるIf Germany attacks, we will definitely support you」と約束し、結果からみれば、ポーランドをけしかけてドイツに挑戦させておきながら、いさとなればポーランドを見殺しにして知らん顔の英仏には、この問題に対してはもっと明白に答える義務がある。
 チャーチルは、大戦勃発直後海軍大臣という要職に就き、その上War Cabinetの一員として戦争遂行の最高責任をわかつことになっていたし、ポーランドからの援助要請にどう応えるかを決める相談にも参加したはずである。だから、「ガムラン将軍だけを責めることはできない」などとよそごとのような言葉でごま化そうとしているのは、偉大なチャーチルのためにまことに惜しいと考えるのはわたくしひとりではあるまい。
 しかし、チャーチルが、この問いにまともから答えようとしていないのはそれだけの理由があるからである。英仏には、ポーランドを軍事的に援助するという意志ははじめからなかったのである。その証拠からひとつお目にかけよう。
 ドイツ軍のポーランド侵入の二ヵ月半前、パリで英仏作戦会議なるものが開かれた。そのとき、ポーランドに対する援助についてつぎのような決定が下されている。
 「ポーランドの運命を決めるのは戦争が終結したあとのことであって、戦争のはじめにおいて、ポーランドが受ける軍事的圧力を軽くしてやるということはそれとは関係のないことであるPoland's fate will be decided after the war ends, and it has nothing to do with easing the military pressure on Poland at the beginning of the war.
 つまり、ドイツ軍の攻撃を受けているポーランドに側面から軍事援助をすることぐらいでは、ポーランドを助けることはできない。しかし戦争が終ったときにはポーランドを助けてやれるのだ、という考えで、これは”ポーランド見殺しPoland desertion”が冷静な計算の結果であることをはっきりと説明している。こういう英仏の方針はポーランドには隠しておかねばならなかったことはいうまでもない。
 しかし、もしもポーランドが、英仏の肚が公式な援助の約束にもかかわらず、真実はこのようなものであることを知っていたならば、ドイツに対してあれほど強く抵抗しなかったにちがいない。当時のポーランドの指導者たちは、ベック外相、リヅースミグリ参謀総長などいずれ劣らぬ誇大妄想の徒であったにしても、はじめから独力でドイツと戦う決意を決めるほどの馬鹿者ではなかったであろう。

①ユゼフ・ベック(Józef Beck、1894年10月4日 - 1944年6月5日)Юзеф Бекは、ポーランドの政治家、外交官、軍人。大佐Polskiポーランド語→Józef Beck (ur. 4 października 1894 w Warszawie, zm. 5 czerwca 1944 w Stănești) – polski polityk, dyplomata, bliski współpracownik Józefa Piłsudskiego, pułkownik dyplomowany artylerii Wojska Polskiego.

②エドヴァルト・リッツ=シミグウィ(ポーランド語:Edward Rydz-Śmigły, 1886年3月11日 - 1941年12月2日)
Э́двард Рыдз-Сми́глыは、ポーランドの軍人、画家、詩人。1939年のナチス・ドイツとソ連によるポーランド侵攻時のポーランド軍総司令官Polskiポーランド語→Edward Śmigły-Rydz, także: Edward Rydz, Edward Rydz-Śmigły, ps. „Śmigły”, „Tarłowski”, „Adam Zawisza” (ur. 11 marca 1886 w Brzeżanach, zm. 2 grudnia 1941 w Warszawie) – polski wojskowy, polityk, marszałek Polski, generalny inspektor Sił Zbrojnych, Naczelny Wódz Polskich Sił Zbrojnych w wojnie obronnej Polski w 1939.
 ポーランドが、ダンチヒDanzig返還を拒み、ダンチヒ回廊Danziger Korridorの調整を拒否したのは、英仏の強い後押しをあてにしていたからであり、もしも英仏の保障や援助がなかったとしたならば、ポーランドの対独態度も大きくちがっていたにちがいない。したがって、第二次世界大戦はああいう形では開始しなかったであろう。歴史にIfを仮定することは妄想であるが、英仏がポーランドに対して偽りの援助を約束した、ということは否定すべくもない事実であるし、この、単に事実というよりは、明らかな道義的欠陥がうやむやにされたままでいるのは一体どういうことであろうか?「人間の歴史は不正の堆積であるHuman history is a pile of injustices.」というヴォルテールの言葉の証拠がここにも見られるのである。
①ポーランド回廊(ポーランドかいろう、ドイツ語: Polnischer Korridor、ポーランド語: Korytarz polskiPolish CorridorПольський коридорは、第一次世界大戦後のポーランド国家復興の際にドイツ国から割譲された領土のうち、自由都市ダンツィヒFreie Stadt Danzig(現グダニスクWolne Miasto Gdańsk)とドイツ領プロイセン州Provinz Preußenに挟まれ、バルト海に面した回廊地帯を指す。ポーランド第二共和国II Rzeczpospolita(1918–1939)時代においての、バルト海への往来を確保するための回廊であった②ヴォルテール(VoltaireВольтерこと、本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日) Франсуа́-Мари́ Аруэ́は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。

*マジノ線(マジノせん、仏: Ligne Maginot、独: Maginot-Linie、英: Maginot LineЛиния Мажиноは、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線である。当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot、1877年 - 1932年)の名を冠してマジノ線と称する。
 英仏の対独作戦
 ポーランド援助が、はじめから英仏作戦に含まれていなかったことは右に述べたとおりである。しからば英仏の対独作戦とはそもそもどういうものだったか。また、ポーランド戦争のおこなわれていた時点では、英仏軍は一体どれほどの戦力を持っていたのか、この二つの点に光をあててみる必要がある。英仏の対独戦略、というよりはフランスの対独戦略というべきであるが(英仏の戦力といっても、主力はフランス軍で、戦略の決定権はもっぱらフランスの手にあった)、それはひとことでいえば”防衛”を主眼とするものだった。すなわち”攻撃”をまったく考えない戦略だったのである。
 その土台には、第一次世界大戦の苦い教訓があった。第一次世界大戦では、フランス軍は、はじめの二年間、遮二無二攻勢をとりつづけた。その結果200万という大きな死傷を出したにもかかわらず戦果はすこぶる貧弱だった。大きすぎる流血がひき合わなかったのである。それを教訓として、その後のフランス陸軍の対独戦略は”防衛主義”一本鎗に変ったのである。巨費を投じて”マジノ線”要塞を築いたのもこの作戦のあらわれである。それは、この強固な要塞にとじこもって、ドイツ軍の出撃を待ちこれを叩く、というすこぶる消極的なもので、まったく機動性を欠く作戦である。第二次世界大戦が勃発したときも、フランス軍首脳はこの戦略にしがみついたのである。そのため、こちらから出撃してドイツ軍を叩く、という考えははじめから封じられていた。フランス軍がとったこの”防衛姿勢”は、総司令官ガムラン元帥の決定によるものといわれる。そのガムラン戦略構想によれば、フランス軍は開戦二年後にようやく攻勢に出ることになっており、たとえその間に、ドイツ軍に痛打をあたえるチャンスが出てくることがあるように見えた場合にも、冒険は極力避ける、という消極戦法に徹するものだった。ところで、フランス軍が攻勢に出るという、そういうチャンスはあったのであろうか?ニュールンベルク裁判Нюрнбергский процессでのヨードル大将(ドイツ国防軍総司令部Oberkommando der Wehrmacht(OKW)作戦指導本部長)のつぎのような証言はこの問いにはっきりと答えている。
 「1939年にドイツが崩壊をまぬがれたのは、ひとえに仏英軍が西部戦線でじっとしていてくれたからである
The only reason Germany was able to avoid collapse in 1939 was because the French and British forces stayed put on the Western Front.


*アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(ドイツ語: Alfred Josef Ferdinand Jodl、1890年5月10日 - 1946年10月16日)Альфред Йозеф Фердинанд Йодльは、ドイツの陸軍軍人。ドイツ国防軍の最高幹部の一人。最終階級は陸軍上級大将。
 「ドイツの崩壊」というヨードルの証言はいくらか割引かねばならぬとしても、仏英軍の時宜を得た攻撃がおこなわれていたなら、それはドイツに相当な痛手を負わせたにちがいない。実際に、ポーランド戦争の間、西部戦線のドイツ軍はおどろくほど手薄だったのである。
 総兵力は34コ師団90万、そのうち戦闘装備完了戦力は三分の一だけでそれ以外は使いものにならなかった。機械化部隊は戦車50台を中心とする貧弱な一コ旅団だけ。空軍は戦闘機、偵察機あわせて数十機にすぎなかった(地上兵力を別とすれば、これでは小規模の演習にようやく間にあう程度の戦力だった。ところがフランス側諜報は、西部ドイツ軍の評価を大幅に誤っていた。フランス側の評価によれば、ドイツ軍地上部隊は56乃至90コ師団。150万、戦車1500乃至1800となっている。また、全ドイツ軍については150コ師団400万、戦車3500乃至4200と評価していたが、実際は88コ師団260万、戦車2600だった。フランス側諜報は実際のドイツ軍戦力を過大評価していたのであった)。
 この貧弱な兵力で仏独国境戦線約400キロ(その上ルクセンブルク、ベルギー、オランダ国境を守るとなれば、さらに300キロはのびる)を守ろうというのだから、まったくひとを食った話で、軍事専門家はもちろん素人にも信じがたい手薄ぶりだったのである。
 何故こういうことがおこり得たのか?そこに”賭けの天才betting genius”ヒトラーの真骨頂を窺うことができる。ポーランド戦にふり向ける戦力の決定に当って、ヒトラーと軍首脳との意見は大きく食いちがった。ヒトラーは、短期決戦のために全戦力を投じよと命令した。これに対して、軍首脳は、西部防衛の必要からこれに強く反対した。戦闘主力の相当部分を西部戦線に残さなければ危険であるというわけである。ところがヒトラーは、「仏英軍が西部戦線で攻勢に出る可能性は絶無であるThere is absolutely no possibility that the French and British forces will launch a offensive on the Western Front. 問題はポーランド作戦を一刻も早く終了することであるThe problem is to end the Polish operation as soon as possible. そのためには全戦力を投じて即戦即決を計るべきであるTo that end, we should use all our strength to make an immediate decision.」と頑張り、ちゅうちょする将軍たちを押し切ってしまった。

 ヒトラーの予想は的中し、ドイツ軍は手薄な西部戦線を心配することなく、ポーランド戦に全力をあげることができた。開戦一ヵ月でポーランド戦争は終った。ワルシャワに入ったヒトラーは”歴史に前例のない輝かしい勝利A brilliant victory unprecedented in history”と有頂天だったが、ヒトラーにとってこの勝利は、”将軍たちにも勝ったI also won against the generals”という意味をも含めて二重の喜びだったのである。
 十月上旬からドイツ軍主力は西に向って移動をはじめ、五週間後にはその大部分が西部戦線の位置についた。西部のドイツ軍が、フランス軍の攻撃を怖れないで済むようになったのは11月半ばをすぎてからのことである。フランス軍にとっての対独攻撃のチャンスはこうして空しく消え去ってしまった。そこで、もしも9月の下旬、フランス軍が第一線戦力の配備を完了してから、ドイツ軍主力のすくなくとも半数が東部からの移動を終った十月下旬までの約一ヵ月の間に、ことにその前半において、フランス軍が対独攻勢に出たとしたならばどういうことになっていたのだろうか?
 「もし9月の下旬にフランス軍が攻撃を開始していたなら、ルール工業地帯やザール炭田などは一週間で占領されたであろうIf the French had launched their offensive in late September, the Ruhr industrial area and the Saar coalfields would have been captured within a week. 二週間目からは、フランス軍にとっては、どの方向に進むかの選択は自由だったはずだFrom the second week onwards, the French army would have been free to choose which direction to proceed.
 戦後、ドイツの軍事専門家の一致した意見はこうである。参考までにフランスが西部戦線に集めた戦力を記しておこう。
 地上兵力は動員総数102コ師団、400万のうちやく80コ師300万(20コ師団近くをイタリア国境にまわす必要があった)。戦車は総数2900台のうち2500台、空軍は戦闘機、爆撃機あわせて約1200機。その上にイギリス軍三コ師約20万も当時西部戦線に送られていた。手薄だったドイツ軍留守部隊に対しては、すくなくとも三対一の圧倒的優勢だったのである。この圧倒的優勢は9月下旬から10月中旬までは確実に維持され、それ以後はドイツ軍主力の西部戦線復帰で急速に崩れて行った。
 同時に、約一ヵ月間フランス軍の目の前にぶら下っていた対独攻撃のチャンスも消えて行った。フランス軍がちょっと手を動かせば掴むことのできたチャンス、フランス軍にあたえられた唯一のチャンスをフランスはむざむざ逃してしまったのである。
 当時フランス参謀本部にも、この好機を掴んで攻撃すべしと主張した若い将校がぜんぜんいないわけではなかったこと、しかしきわめて少数だったこの主張は、ガムラン総司令官その他の最高首脳からは一顧もあたえられなかったこと、というような事実が戦後になって明らかになった。その若手将校のひとりだったリヴエ大佐Colonel Livueが次のように述懐しているのは大へん興味深い。

 「1939年9月下旬から10月中旬までの間に、フランス軍が大規模な攻勢に出れば、ドイツ軍の西部戦線に大穴をあけることができたことはまちがいないThere is no doubt that if the French army had launched a large-scale offensive between late September and mid-October 1939, it would have been able to blow a huge hole in the German army's western front. そのあとの戦局がどう発展したかについては確信はできないが、つぎの二点だけはたしかであるI am not sure how the war situation developed after that, but two things are certain. フランスは、ポーランドに対する同盟義務を果たし、同時にフランスの名誉も守ることができたFrance was able to fulfill its allied obligations to Poland and at the same time protect its honor. また、ポーランド戦争があんなに簡単に片づくこともなかったであろうNor would the Polish war have been resolved so easily. これが第一点であるThis is the first point. つぎに、フランス軍は、緒戦においてドイツ軍を撃破することによって大いに士気を高めることができたはずだSecond, the French army could have greatly boosted their morale by defeating the German army in the opening stages of the war. これは、ドイツ軍に対してフランス軍のいだいていたコンプレックスを除くに役立ったし、その後の戦闘をある程度自信を以て進めることができたにちがいないThis helped remove the complex that the French had with the Germans, and must have allowed them to proceed with the ensuing battle with a certain degree of confidence. またドイツ領内に前進基地を持ったフランス軍は、八か月あとの、あの電撃戦を食いとめることもできたであろうし、すくなくともあのぶざまな敗北を喫することは避けることができたはずであるMoreover, the French army, which had forward bases in German territory, would have been able to stave off the Blitzkrieg eight months later, or at least avoid that brutal defeat.
 すべては”後の祭”となった。しかし、”フランスの名誉”、”対独コンプレックスの解消”、”戦勢の転換”というような言葉を読んでみると、若き積極論者の無念のほどがよくわかるような気がする。この一派の中には、当時アルザス方面、第五軍戦車隊司令官だったドゴール大佐もいたことをつけ加えておこう。

*Русскийロシア語→Шарль Андре́ Жозе́ф Мари́ де Голльシャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール (фр. Charles André Joseph Marie de Gaulle французский: о файле; 22 ноября 1890, Лилль, Франция — 9 ноября 1970, Коломбе-ле-Дёз-Эглиз, Верхняя Марна, Гранд-Эст, Франция) — французский военный, политический и государственный деятель, бригадный генерал. Во время Второй мировой войны стал символом французского сопротивления.
 また”フランスの名誉”に触れたついでに、ひとつのエピソードを伝えておきたい。
 9月中旬、ドイツ軍のポーランド殲滅戦が終盤戦に向かったころ、フランス軍総司令官ガムラン元帥は、ポーランド軍総司令官リヅースミグリ元帥に向ってつぎのようなメッセージを送っている。
 「東北フランス戦線では、わが軍の主力の半分以上が目下戦闘に入っているMore than half of the main forces of our army are currently engaged in combat on the northeastern French front. ドイツ軍は猛烈な抵抗を試みているがわが軍は前進をつづけているThe Germans are making fierce resistance, but our forces continue to advance. しかし、陣地戦となることは避けがたいと思われるHowever, it seems inevitable that it will become a positional battle. 他方わが軍は、ドイツ空軍の相当部分をひきつけていると考えられるOn the other hand, our military is thought to be attracting a significant portion of the Luftwaffe. われわれは、総動員開始後15日目にはフランス軍の主力による攻撃開始を約束したが、この約束は以上のとおり実行されているWe promised to launch the attack with the main force of the French army on the 15th day after the start of general mobilization, and this promise has been carried out as described above. いまのところはこれがせい一ぱいであるThis is the best we can do for now.
 これは、ポーランドに対する同盟義務を考え、またポーランドからの援助要請に応えるための苦しい弁解だったが、”主力の攻撃”というのは真赤な嘘“Attack with the main force” is a complete lieで、ほんとうのところはわずか二、三コ大隊の動きmovement of just a few battalionsにすぎなかった。それもドイツ軍と正面からぶつかって砲火を交える、というようなものではなく、2000人そこそこの小部隊が、ドイツ戦線のまぢかまでチョロチョロ出かけ、すぐまた引返しただけのことだった。
*【追加参考資料Additional reference materials】「ポーランドとフランスの軍事協定では宣戦15日後には攻撃を開始することになっており、フランス軍はザール地方へ8Kmほど進撃したAccording to the military agreement between Poland and France, the offensive was to begin 15 days after war was declared, and the French army advanced about 8 km into the Saar region. しかしドイツの要塞線「ジークフリート線」を攻撃しようとはせず、しばらくすると特に理由もなく「マジノ線」に後退してしまったHowever, they made no attempt to attack Germany's fortified line, the Siegfried Line, and after a while retreated to the Maginot Line for no particular reason.(青木茂Shigeru Aoki『第2次世界大戦全戦線ガイドWorld War II All Fronts Guide』(新紀元社Shinkigensha)1998年)。
 また”敵の有力な空軍enemy's powerful air force”というのも”幻想fantasy”だったことは、さきに述べたように、西部戦線にはもともとドイツ空軍らしきものは配備されていなかった、という事実からも明らかである。
 以上紹介したいくつかの事実から見て、フランス軍首脳に、対独戦争を命がけでやろう、という気魄の欠けていたことは明瞭である。これはイギリスとてもおなじことで、1939年の秋、開戦直後の時点においては、英仏は西部戦線で積極的に攻勢に出る気はまったくなかったのである。千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまったこともおどろくにはあたらないということであろう。
 こういう消極戦略で指導された英仏の兵隊が、士気すこぶるふるわなかったことも当然である。たとえば前線における兵隊指導方針の第一項が、「敵に向ってこちらからさきに発砲するなDon't fire at the enemy first. 応射の場合にもまず命令を待てEven in the case of response fire, wait for orders first. 戦線を越えてくる敵兵に対しても、いきなり射たず、警告射撃のあとで捕虜にしなければならぬEnemy soldiers crossing the front line should not be shot suddenly, but should be captured after a warning shot.」と命じているように、ドイツ兵を挑発するなと戒めていることにも、軍指導層の考えがよくあらわれている。

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