日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【A Life in Canada】Boxing (☆Kronk Gym観賞記Detroit☆)Again=In Canada both native rabbits belong to the genus Sylvilagus≪The G-Man≫☆Gerald Allen McClellan☆/☭Сергей Викторович Артемьев☆/☭衣冠冢★Александр Викторович Мирошниченко

みなさん、こんにちは☆ 「ボクシング」関連に人気があるのは本当に嬉しいです(謝謝☆)。気をよくして、またはじめますのでよろしくお願いしますね。徐々に付け加えていきます。2018年7月14日(土)Samdi(Saturday)安息日


(1)、1981年12月4日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者ヒルマー・ケンティ(アマ106勝30敗+22連勝(15KO)無敗=29勝(18KO)2敗)VS挑戦者1位ショーン・オグラディ(74勝(66KO)2敗=81勝(70KO)5敗)アトランティック・シティー
ーオグラディーが2回と8回にダウンを奪い15回判定勝ちで王座奪取(この前に、敵地ロンドンでWBC王者サウスポーのワット(37勝(27KO)7敗)に挑戦。優勢に試合を進めながら傷による出血で12回ストップ負け)。ケンティの初黒星、4度目の防衛に失敗。ここで師匠のクロンクジム故エマニュエル・スチワードはケンティに引退を薦めた。現役続行を望むケンティ。2人の間はこじれ、ケンティはクロンクを離れて再起。さらにこれが2人にとって最後の世界戦になってしまう(オグラディーはこの後、紆余曲折でタイトルを剥奪されてしまった)。贔屓のケンティ敗戦を『ボクシングマガジン』で知りがっくり(苦笑)。東京テレビによる録画放送で拝んだ。
(2)1989年6月25日 WBO世界ライト・ヘビー級タイトルマッチ 王者マイケル・モーラー(アマ48勝16敗+15連勝(15KO)無敗=30連続ノックアウト勝ち(ヘビー級に転向・2階級制覇)52勝(40KO)4敗1分)VS挑戦者元WBA王者レスリー・スチワート(トリニダード・トバゴ+27勝(18KO)4敗=31勝(20KO)12敗)アトランティック・シティー
ーモーラーの8回TKO勝ち。↑のケンティの同門、後輩である。高度な技術を交えた、緊迫した打撃戦。2人ともスピードがあり、特にサウスポーのモーラーは切れ味鋭さ抜群の新鋭時代。この1戦以降、スチワートは一層負けが込み「噛ませ」的存在(すでにその兆候があったながら)におちぶれたのは残念だった。忘れられない名勝負でした。モントリオール時代、『KOマガジン』で結果を知った。



(1)、1996年10月4日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者アイク・クォーティー(ソウル五輪ガーナ代表(50勝4敗)+32連勝(28KO)無敗)VS挑戦者1位オバ・カー(アマ168勝6敗+39勝(25KO)1敗=54勝(31KO)6敗1分)ニューヨーク
ークォーティーが2-0ながらカーを圧倒し判定勝ち。しかし仕留め損ねて、評価を落とした(連続KO防衛も5でストップ)。カーは’モーターシティー’の異名とおりケンティ、ハーンズの弟弟子。モーラーと同門、デトロイトのクロンクジム出身(もうずっと前に離れた)。IBF王者のトリニダード(40連勝(33KO)無敗=42勝(35KO)3敗)に挑戦して、2回に先制のダウンを奪いながら。後はワンサイド、2度倒されて8回KO負け。2度目の世界挑戦だった(この後、WBC王者のデラホーヤに挑戦。善戦しながらも11回KO負け。3度王座奪取ならず)。カーはクォーティーのスタイルをよく研究した様子。クォーティーは終始前へ出て、優勢だったとはいえお構えなしにガードの上を叩き、固いブロックの隙間をぬってパンチを命中させた。クォーティーは、’バズーカ’ジャブから次につなげない(攻防分離の傾向あり)。トロント、ライブ放送で見ました。

(2)、2006年12月2日 ノンタイトルミドル級12回戦 元WBA&IBF世界スーパーウェルター級王者ロナルド・ライト(50
勝(25KO)3敗1分=51勝(25KO)6敗1分)VSアイク・クォーティー(37勝(30KO)3敗1分) フロリダ州タンパ
ーサウスポーのライトが2度ダウンを奪い、大差の12回判定でクォーティーを破った。元同僚(フランスのアカリエス傘下。当時はメインがクォーティー、セミがライトだった)。クォーティー(のラストファイト)はよく攻めたが、再び体格負けした面もあり(ライトはミドル級の選手)。双方、ブロックの固い選手同士。ミドル級ではそれほどの強打ではないライト。ながらクォーティーのパンチはあまり効かず、逆にライトはハードパンチャーに見えた。両者ともそうは簡単にクリーンヒットを許さず。相手の力を吸収するようなブロックのライト。一方、クォーティーは弾き返すようなガード。トロント、有料TVKOで観賞。



(1)、1987年2月14日 WBA世界J・ヘビー級タイトルマッチ 王者イベンダー・ホリーフィールド(ロス五輪銅(準決勝(対バリー(ニュージーランド)戦)において、ブレイクのときに打ち込みノックアウトしてしまったため失格負け)160勝14敗)+13連勝(10KO)無敗=44勝(29KO)10敗2分1NC)VS挑戦者ヘンリー・ティルマン(ロス五輪優勝金メダル(48勝6敗)+14勝(11KO)1敗=25勝(16KO)6敗)ネバダ州リノ
ーホリーフィールドが2回にダウンを奪い7回KO勝ち。ティルマンの、短かったプロ全盛期の試合だった。元ロス五輪代表同僚による一戦(試合後、「ヘンリーはこれからも友だちさ」(ホリーフィールド言))。一般になじみのある、ヘビー級転向後のホリーフィールドを考えれば別人のようにほっそりとしている。この階級では何をしようが強く(体の力、パンチ力、切れ味鋭さ申し分なし)無敵。後に統一王者となる。東京テレビの放送(もうアメリカ行きが決定していた当時だった。弱冠18歳、今から回想すれば感慨深いです)。
(2)、1987年12月5日 WBA世界J・ヘビー級タイトルマッチ 王者イベンダー・ホリーフィールド(15連勝(12KO)無敗)VS前二階級王者ドワイト・ムハマド・カウィ(旧姓ブラクストン+28勝(19KO)4敗1分=41勝(25KO)11敗1分)ニュージャージー州アトランティックシティ
ーホリーフィールドが前王者カウィを4回KOに破り返り討ち。痛烈なKO劇だった。カウィ初のノックアウト負け。この試合後、一度引退を表明したが、後にヘビー級で再起(ボクサーの「引退宣言」ほど当てにならないものはない笑)。アメリカ、ポートランド。ながらこの試合は見過ごした(かなり後に、アメリカ人マニアから試合を入手)。




(1)、1981年6月21日 ノンタイトル10回戦 故デビー・ムーア(モスクワ五輪米代表(96勝7敗)+6連勝(4KO)無敗=(後に日本で三原正(元アマ全日本選手権覇者(28勝10敗)+15連勝(11KO)=24勝(15KO)1敗)からWBA王座奪取=6回KO勝ち(三原の初黒星)18勝(14KO)5敗)VSケビン・ルーニー(13連勝(5KO)無敗=21勝(7KO)4敗)アトランティックシティ
ームーアが7回ストップ勝ち。ルーニーはタイソン以上に典型的な「ダマトスタイル」であった。ニューヨークブロンクス出身のムーアは、88年に事故死してしまった(享年28歳)。自宅前の坂道に停車した自家用車が路面の凍結により、滑りはじめたのを後ろで押さえようとして、巻き込まれてしまった。後に、ハーンズをKOしてタイトルを奪取したバークレーが記者会見で、繰り返し「この勝利を親友のムーアに捧げたい」と泣きながら語っていたのを思い出す。
(2)、1982年7月31日 ノンタイトル10回戦 故アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア+71勝(59KO)6敗=77勝(62KO)8敗=三階級制覇)VSケビン・ルーニー(17勝(7KO)1敗)アトランティックシティ
ーアルゲリョの2回KO勝ち。右ストレート一発でルーニーを沈めた。若きトレーナー、テディ・アトラス(後にマイケル・モーラーのトレーナー)がセコンド。
(3)、
キャッツキル時代のタイソン(15歳)。テディ・アトラスやケビン・ルー二ーとのトレーニングなど。亡きダマトも出て来る。

ー1988年、在りし日のソ連アマチュアチーム強化合宿(憩いの一時)。1、ユーリ・アルバチャコフ(世界選手権(89年モスクワ大会)優勝金メダル(165勝21敗+23勝(16KO)1敗)2、コンスタンチン・ジュー(世界選手権(89年モスクワ大会)銅メダル(91年シドニー大会)優勝金メダル+ソウル五輪ソ連代表(259勝11敗+31勝(25KO)2敗1分)3、オルズベック・ナザロフ(世界選手権(86年リノ大会)銀メダル(153勝12敗+26勝(19KO)1敗)4、ヴィアチェスラフ・ヤノフスキー(ソウル五輪ソ連代表優勝金メダル(286勝43敗+30勝(16KO)1敗1分)5、セルゲイ・アルテミエフ(全ソ連&欧州王者=195勝18敗+18勝(12KO)2敗1分)6、故アレクサンドル・ミロシニチェンコ(世界選手権(89年モスクワ大会)銀メダル+ソウル五輪ソ連代表銅メダル(211勝24敗+21勝(15KO)1敗)他 旧ソ連のトップアマ選手たちの映像です。画像はもうひとつながら、背後で故マイケル・ジャクソン氏が流れている辺り「ペレストロイカ」時代の象徴たるところ。後に多くの選手たちが、世界各国へ散りプロデビュー。感慨深いです。

ー1988年、ソウル五輪スーパーヘビー級準決勝 リディック・ボウ(銀メダル(決勝でルイス(イギリス出身+カナダ代表)にTKO負け)+後の統一世界ヘビー級王者(無敗対決でホリーフィールドに判定勝ちでタイトル奪取))VSアレクサンドル・ミロシニチェンコ(カザフスタン=日本(では4試合(4勝(2KO))しか戦わなかった)のリング名=ミロシニ・アレキサンダー) 初回にミロシニチェンコはボディブローで2度、先制のダウンを奪う。けどボウは合計3度ダウンを奪い返し判定勝ち。1度判定負けしているミロシニチェンコに雪辱した。
Aleksandr Viktorovich "Alex" Miroshnichenko (Russian: Александр Викторович Мирошниченко; 26 April 1964 – 19 May 2003) was a Kazakhstani professional boxer. As an amateur he represented the Soviet Union at the 1988 Summer Olympics, winning a bronze medal in the super-heavyweight division+ロシア語⇒Алекса́ндр Ви́кторович Мирошниче́нко (26 апреля 1964 года, Кустанай, Казахская ССР — 19 мая 2003 года, Костанай, Казахстан) — советский и казахстанский боксёр, трёхкратный чемпион СССР (1986, 1988, 1989), двукратный призёр чемпионата Европы (1983, 1989), призёр чемпионата мира (1989), призёр Олимпийских игр (1988) в супертяжёлой весовой категории. 

ヴィアチェスラフ・ヤノフスキー(ベラルーシ語: Вячаслаў Яўгенавіч Яноўскі、ロシア語: Вячеслав Евгеньевич Яновский、英語: Vyacheslav Evgenyevich Yanovskiy、1957年2月8日 - )は、ベラルーシ・ヴィーツェプスク出身の元プロボクサー。ソウルオリンピックスーパーライト級金メダリスト。日本でスラフ・ヤノフスキーのリングネームでプロデビューした。第23代日本スーパーライト級王者。第3代PABAスーパーライト級王者+ベラルーシ(白ロシア)語=Вячаслаў Яўгенавіч Яноўскі (24 жніўня 1957, Віцебск) — беларускі і савецкі баксёр, адзіны савецкі баксёр — алімпійскі чэмпіён XXIV гульняў у Сеуле 1988 года. Заслужаны майстар спорту СССР (1988). Ганаровы грамадзянін Віцебска (1988). Пасля 1989 года завяршыў кар'еру ў аматарскім боксе і перайшоў у прафесіяналы, дзе асаблівых тытулаў не заваяваў, але да 1997 года, пасля завяршэння кар'еры, ён меў вынік: 30 перамог, 1 нічыя і толькі 1 параза. З іншых дасягненняў варта адзначыць заваёву ў 1987 годзе Кубка свету па боксе. Вячаслаў Яноўскі таксама бронзавы прызёр першынства Еўропы 1985, срэбны прызёр першынства Еўропы 1987 і чэмпіён СССР 1987—1988 гг. ў 1988 годзе Яноўскі ўвайшоў у спіс лепшых спартсменаў Беларусі. 






(1),1990年7月17日 ライト級6回戦 ボビー・ブリューワー(10勝(7KO)3敗)VSセルゲイ・アルテミエフ(5勝(5KO)無敗1分)モンタナ州バット
ーアルテミエフ(サンクトペテルブルクСанкт-Петербург(旧レニングラードЛенинград)出身)の初黒星。3-0の判定負け。
(2)、1992年7月9日 セルゲイ・アルテミエフ(16勝(11KO)1敗1分)VS元世界ランカーケ二ー・ベイスモア(20連勝(18KO)=27勝(23KO)4敗2分=28勝(24KO)13敗2分)アトランティックシティ
ーアルテミエフが5回、滅多打ちにしてストップ勝ち。ベイスモアは元世界王者(2階級制覇)ロジャー・メイウェザー(20勝(14KO)2敗=59勝(35KO)13敗+フロイド・メイウェザージュニアの叔父(トレーナー))との正念場で3回KO負け。続いてホープ同士の対決でハロルド・ナイト(14連勝(11KO)無敗=19勝(15KO)1敗(ロックリッジに挑戦し判定負け(ラストファイト=肩の故障が原因)+元ヘビー級王者レノックス・ルイスの全キャリアを通して、ずっとセコンドについていた)に7回ノックアウトで敗れた。躍進目覚しい新鋭アルテミエフの圧勝だった。
(3)、1992年11月3日 ライト級ノンタイトル10回戦 セルゲイ・アルテミエフ(17勝(12KO)1敗1分)VSレイ・オリベイラ(15勝(10KO)2敗=47勝(22KO)11敗2分)マサチューセッツ州フォックスウッド・リゾート
ーアルテミエフが2-1ながら10回判定勝ち。
(4)、1993年3月21日 北米ライト級王座決定戦 世界ランカーカール・グリフィス(25勝(11KO)2敗2分=29勝(13KO)6敗2分)VSセルゲイ・アルテミエフ(18勝(12KO)1敗1分)アトランティックシティ
ーアルテミエフのラストファイト。10回にTKO負けしたアルテミエフは意識不明となり、担架で退場。手術を受け、幸い一命はとりとめたものの再起不能になってしまった。闘争心旺盛なアルテミエフは、2回から積極的に打って出た。破壊力抜群のパンチを叩き込む。しかし、外側からの強打。徐々に派手さはないけど、内側から着実に当てるグリフィスが優勢になる(特にボディーブローが有効だった)。この試合についてはモントリオール時代。仕事前に「KOマガジン」でじっくり読み込んだのを覚えています(通勤路にある、駅内の誰もいない元「カフェ」みたいなところに1人座って)。痛ましくて、寿司を作りながらずっと考えていたのを記憶している。
(5)、引退したアルテミエフ(ニューヨーク在住)のドキュメンタリー
http://archive.boxing.media/forgiving_and_not_forgetting_sergei_artemiev.html
“I’m alive and I have a son,” said Artemiev. “My son has said to me, ‘I know you’re my dad, but you’re also my friend.’ I am a blessed man…” On March 21, 1993, Sergei Artemiev, a red-hot lightweight prospect who hailed from St. Petersburg, Russia, but was fighting out of Brooklyn, New York, squared off against the capable Carl “Stuff” Griffith at the Taj Mahal Hotel and Casino in Atlantic City. The bout, which was televised live by ESPN on a Sunday night, was meant to be a springboard for the 24-year-old Artemiev. He was a longtime member of the lauded Soviet amateur program who, along with several other blue chip Russian prospects had been brought to the United States three years earlier by the late Lou Falcigno to make their marks in the professional ranks. What should have been a showcase for Artemiev, who held an amateur victory over Shane Mosley and was 18-1-1 (12 KOs) as a pro, turned into a near tragedy of epic proportions. In a contest that was much more spirited than it was intended to be, the 23-year-old Griffith, 25-2-2 (10 KOs), who had previously defeated former champions Harry Arroyo and Livingstone Bramble and was known for having everything but a big punch, stopped Artemiev in the 10th round of the 12-round bout for the vacant USBA lightweight title. Within an hour of the stoppage, Artemiev was admitted to the Atlantic City Medical Center hospital, where surgeons worked feverishly to remove a blood clot from his brain・・・





(1)、1991年(豪州シドニー大会)世界選手権決勝 コンスタンチン・ジューVS故バーノン・フォレスト
ージューが判定勝ち
(2)、1994年1月11日 ライト級ノンタイトル10回戦 コンスタンチン・ジュー(10連勝(8KO)無敗)VS故へクター・ロペス(ロス五輪メキシコ代表銀メダル(アマ戦績不明)26勝(16KO)2敗1分(★追悼★2011年に死去=享年44歳)=41勝(23KO)7敗1分)フロリダ州タンパ
ー実力者同士の接戦となるも、ジューが10回判定勝ち。豪州移住後の生活紹介も含まれている興味深い映像。
(3)、1995年1月28日 IBF世界スーパーライト級タイトルマッチ 王者ジェイク・ロドリゲス(プエルトリコ=26勝(7KO)2敗2分=28勝(8KO)8敗2分)VS挑戦者コンスタンチン・ジュー(13連勝(10KO)無敗)ラスベガスMGMグランド
ージューが合計6度のダウンを奪いKO勝ち。新王者に就く。初回開始直後、突進したジューの右フックがサウスポーロドリゲスの顎に命中。チャンピオンはダウン。その後はややてこずった面もありながら一方的。6回に3度ダウンを奪いノックアウトした。
(4)、1996年9月14日 IBF世界スーパーライト級タイトルマッチ 王者コンスタンチン・ジュー(17連勝(13KO)無敗)VS挑戦者ヤン・ベルグマン(南アフリカ=32連勝(28KO)無敗=44勝(33KO)5敗)豪州ニューキャッスル
ージューが6回に2度倒し、無敗のベルグマンをしとめた。ジューの左から右を受けロープ際へ吹っ飛ばされ、仰向けに倒されたベルグマンは、しばらく起き上がれなかった痛烈なKO劇。この頃、協栄ジムのアレクサンドル・ジミンコーチは「彼(ジュー)のスタイルは少し古いような気がします」と語っていた。
(5)、1998年11月28日 WBC世界スーパーライト級暫定王者決定戦 コンスタンチン・ジュー(21勝(17KO)1敗1分)VSディオベリス・ウルタド(ジュニア世界選手権(90年リマ大会)キューバ代表(221勝20敗(94年、国内大会でカサマヨール(バルセロナ五輪金)に勝った)+28勝(19KO)1敗=(ウィテカーに挑戦。初回と5回にダウンを奪いながらも、10回逆転TKO負け)43勝(26KO)3敗1分)ラスベガス
ーダウン応酬の末、ジューが5回KO勝ち。初回、まずジューがロープに詰めて、右のクロスカウンターをウルタドのこめかみに炸裂させダウンを奪う。とどめを刺しに出たところにウルタドの右がカウンターで命中。ジューは前に膝をついてダウン。立ち上がってさらにKOを狙って突っ込んだとき、またウルタドの右ストレートがカウンターになり、ジューは再びはいつくばった。立ち上がったジューは間合いを測り、攻撃を緩めず。たちまち左フックのカウンターを叩き込み滅多打ち。すさまじい打撃戦となる。3回辺りから、ジューはウルタドの右ストレートの軌道と距離を見切ったようだ。ボディー攻撃を中心にパンチを出す。だんだんワンサイドになり5回、ボディーブローで2度ダウンを奪いノックアウト勝ち(ウルタドは急遽選ばれた代役で、2週間前に試合をしたばかりだった)。
コンスタンチン・チュー(Konstantin "Kostya" Tszyu、1969年9月19日 - )は、オーストラリアのプロボクサー。元WBA・WBC・IBF世界スーパーライト級スーパー王者。チューはソビエト連邦の貧しい家庭に生まれた。父親は朝鮮人とモンゴル人の血を引いており、母親はロシア人である。幼少の頃から父に連れられてボクシングを始めた。直ぐに頭角を現したチューは、ソビエト連邦のナショナルチームに招集される。彼は、当時社会主義の優秀さをアピールするためにアマチュアスポーツの強化を国策にしていたソ連でボクシングのエリート教育を受けることになる。チューはソ連代表として1987年・1989年・1991年の世界選手権大会に出場する。1989年の世界選手権モスクワ大会ではライト級銅メダル、同年ヨーロッパ選手権では金メダルを獲得。1991年の世界選手権シドニー大会ではスーパーライト級金メダル、同年ヨーロッパ選手権では金メダルを獲得している。1988年にはソウルオリンピックにも出場し、3回戦まで進出している。ソビエト連邦崩壊後の1992年にチューは、1991年に世界選手権で訪れたオーストラリアに現在の妻とともに移住し、そこで家庭を築き、同年3月1日にプロデビューする+ロシア語⇒Константи́н (Ко́стя) Бори́сович Цзю (англ. Kostya Tszyu; род. 19 сентября 1969, Серов, Свердловская область, РСФСР, СССР) — советский, российский и австралийский  боксёр, трёхкратный чемпион СССР (1989—1991), двукратный чемпион Европы (1989, 1991) и чемпион мира (1991) среди любителей, абсолютный чемпион мира (по версиям WBC/WBA/IBF) среди профессионалов. Заслуженный мастер спорта СССР (1991). Выдающийся боксёр СССР (1991).




(1)、1993年10月30日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者ディンガン・トベラ(南アフリカ=29勝(17KO)1敗=40勝(26KO)14敗2分け)VSオルズベック・ナザロフ(17連勝(14KO)無敗) 南アフリカ
ーナザロフが判定勝ちで新王者に輝いた。トベラが4回にサウスポーのナザロフから先制のダウンを奪い一進一退。ながらも次第にナザロフのペースになり、後半倒し返した。なお、本人によればアマ時代、ライバルだったジューとは1勝(1KO)1敗だそうである。
(2)、1994年3月19日 再戦
ー再び前王者の地元。ながらダウンを奪い、大差の判定勝ち。トベラを返り討ち。「日本選手がいま、われわれの練習法をとりいれていますが、あまり効果をあげていません。日本人はなぜ練習するかを考えません・・・要は考えることです」(ナザロフ言)
(3)、1994年12月10日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者オルズベック・ナザロフ(19勝(15KO)無敗)VS挑戦者ジョーイ・ガマチェ(36勝(22KO)1敗=55勝(38KO)5敗1分)メイン州ポートランド
ーナザロフのベストファイト。敵地で前王者を3度倒し、痛烈な2回ノックアウト勝ち。3度目の防衛に成功。同僚のユーリがキルギス国旗を掲げリング入り。会場の市民会館は私が働いていた日本食レストランの隣にある(滞在中は何度も足を運んだ+このときはモントリオールにいた)。2~3年後に遊びに行った時、すでに故人の兄貴分や店主からポートランドの住民ファンたち(ガマチェは地元の英雄)のこと。さらに協栄ジムのスタッフがみんな食べに来た裏話を聞きました(リラックスしていて、自信満々=「1~2ラウンドで終わりますよ。是非見に来て下さい」といわれたそう(笑))。
(4)、1997年5月10日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者オルズベック・ナザロフ(23連勝(17KO)無敗)VS挑戦者故リバンダー・ジョンソン(26勝(21KO)1敗1分=34勝(26KO)5敗2分)フロリダ州ココナツグローブ
ー強敵指名挑戦者ジョンソン(WBC王者ゴンザレス(東京三太=ナザロフの元同僚)に挑戦=10回TKO負け)をナザロフが合計4度倒して7回にノックアウト。日本の協栄ジムを離れ、フランスのアカリエス傘下に入り主戦場を欧州に移した最初の試合(この試合は指名挑戦だったからアメリカ+取りまきに同僚のライトもいた)。7度目(5KO)の防衛に成功。ジョンソンの強打にてこずりながらも、ナザロフのベストファイトのひとつといえる。ナザロフはこの次の防衛戦において、サウスポー対決。ジョン・バチスト・メンディ(仏・黒人)に判定負け(本人は現役続行を望んでいたが目を痛めており引退勧告。これがラストファイトとなった)。メンディからタイトルを奪ったジョンストン(米サウスポー・黒人)が来日(坂本博之に12回判定勝ち=滞在中のジュー(ユーリとも再会)が観戦していた)。
☆追悼☆レバンダー・ウィリアム・ジョンソン(Leavander William Johnson、1969年12月24日 - 2005年9月22日)は、アメリカ合衆国の男性元プロボクサー。元IBF世界ライト級王者。自身の獲得したIBFライト級タイトルの初防衛戦で、WBC世界スーパーフェザー級王者ヘスス・チャベスの挑戦を受け、挑戦者の連打を浴び、リング禍に見舞われて試合の5日後に急死した。
オルズベック・ナザロフ(Orzubek Nazarov、1966年8月30日 - )は、キルギス共和国・カント出身のタジク人のプロボクサー。元WBA世界ライト級王者。1989年秋、勇利アルバチャコフ(後のWBC世界フライ級王者)等と共にソ連(当時)から来日。協栄ボクシングジムにスカウトされた6人のアマチュアエリートボクサーの1人であった+タジク語⇒Orzubek Poʻlatovich Nazarov (qirgʻizcha: Орзубек Пулетович Назаров, 1966-yil 30-avgust Qirgʻizistonnnig Qand shahri)SSSR va Qirgʻiziston bokschisi, qirgʻizistonlik oʻzbek. Professional bokschi, jahon chempioni.


(1)、1992年6月23日 WBC世界フライ級タイトルマッチ 王者ムアンチャイ・キティカセム(20勝(13KO)1敗(カルバハル(ソウル五輪銀)にアメリカで7回KO負け(IBF王座喪失)=25勝(17KO)4敗)VS挑戦者ユーリ・アルバチャコフ(12連勝(11KO)無敗) 東京両国国技館
ーユーリが8回にムアンチャイをKO、王座奪取。初回の終了ゴングと同時にユーリの右クロスカウンターが炸裂。ムアンチャイダウン。さらに3回、ダウンの応酬があり、打ち合いとなる。ムアンチャイも中盤から俄然攻勢に転じ、前進(積極的にボディーブローを放つ)。ながら最後は右のカウンター一発でノックアウト。そして、ユーリの勝利者インタビュー通訳を務めたのは金平桂一郎元協栄ジム会長(故金平正紀氏の長男(90年、当時はまだレニングラードЛенинград)サンクトペテルブルクСанкт-Петербургのレスガフト記念体育大学Университет имени Лесгафтаへ留学、ロシア語に堪能)である。
(2)、1993年3月20日 再戦
ーユーリが敵地バンコクで合計4度のダウンを奪い。前王者を9回にノックアウト。2度目の防衛に成功(初防衛戦は韓国の陳潤彦に判定勝ち(3度のダウンを奪いながらも大苦戦だった)「彼はストロングでした」)。ムアンチャイはこの試合は足を多用し、待機戦法。ひたすらユーリを軸に旋回。緊迫した睨み合いが続いた。5回から打って出てきたが、ユーリの右ストレートのカウンターが飛んでくる。7回にユーリはワンツーを炸裂させ最初のダウンを奪い。9回に3度倒してけりをつけた(全て右ストレート及びカウンター)。ユーリは「ペドロ・レイエス(注)などに比べれば、ムアンチャイはそれほどの選手ではない」といっていた。(注)ペドロ・レイエスPedro Orlando Reyes(キューバ+サウスポー)1、ロス(金メダルのスティーブ・マクローリーはレイエスに負けている)・ソウル五輪代表(双方、キューバがボイコットしたため出場ならず)2、世界選手権(86年リノ大会)優勝金メダル(決勝でデビッド・グリマン(ベネズエラ+井岡弘樹の挑戦を、10回TKO勝ちで退けた)に完勝)世界選手権(89年モスクワ大会)銀メダル(決勝でユーリに判定負け)3、ワールドカップ(83年ローマ大会)優勝金メダル
勇利 アルバチャコフ(ゆうり アルバチャコフ、1966年10月22日 - )は、旧ソ連のロシア共和国ケメロヴォ州タシュタゴル出身のアジア系ロシア人(民族名、テュルク系ショル人)のプロボクサー経験者及びプロボクシング・トレーナー経験者。本名はユーリ・ヤコヴレヴィチ・アルバチャコフ (Юрий Яковлевич Арбачаков, Yuri Yakovlevich Arbachakov)。協栄ボクシングジム所属。元WBC世界フライ級王者で、9度の防衛に成功。。元アマチュアボクシングの世界王者で、ペレストロイカ政策の折、スラフ・ヤノフスキー、オルズベック・ナザロフらと共に日本の協栄ボクシングジムに入門。1990年2月1日、「チャコフ・ユーリ」というリングネームでバンタム級でプロデビュー。ヘビー級などの重量級の選手に注目が集まり、来日当初はさしたる注目を浴びていなかったが、アラン田中を3ラウンドTKOで下したデビュー戦は衝撃的で、当時の専門誌では今すぐにでも世界で通用するのではないかと言われるほど評価される。当初の注目とは裏腹に試合内容がぱっとせず、プロ不適格とされ早々に解雇される重量級の選手達をよそに、圧倒的な実力を示し続けペレストロイカ軍団の中で最後まで日本で闘い続けることになるロシア語⇒Юрий Яковлевич Арбачаков (род. 22 октября 1966, Усть-Кезес, Кемеровская область, РСФСР, СССР) — советский боксёр. Чемпион СССР (1989). Чемпион Европы (1989). Чемпион Мира среди любителей (1989). Чемпион Мира среди профессионалов (WBC; 1992—1997). Заслуженный мастер спорта СССР (1989). Выдающийся боксёр СССР (1989).




(1)、1991年11月20日 WBO世界ミドル級王座決定戦 ジェラルド・マクラレン(アマ全米ゴールデングローブ制覇+22勝(20KO)2敗)VSジョン・ムガビ(モスクワ五輪ウガンダ代表銀メダル(106勝6敗)+37勝(37KO)3敗=42勝(39KO)7敗1分)イギリス、ロンドン
ーマクラレンが3度のダウンを奪い、戦慄の初回KOでムガビを葬った。ゴングが鳴ってしばらく経過したとき、マクラレンの右ストレートが豪快に命中。あっという間、立て続けにぶっ倒す。晩年のムガビ(ハグラー戦以降、打たれ弱くなった)相手だったとはいえ、衝撃のノックアウト劇。ムガビは何もできなかった(この頃は、マクラレンがあまりに’強すぎて’逆にアンチ(ムガビは大贔屓)だったんです(苦笑)。
(2)、1993年5月8日 WBC世界ミドル級タイトルマッチ 王者ジュリアン・ジャクソン(46勝(43KO)1敗=55勝(49KO)6敗)VSWBO王者ジェラルド・マクラレン(27勝(25KO)2敗)ラスベガス
ーマクラレンの5回KO勝ち。初回開始直後、マクラレンの打ちおろしの右が炸裂。ジャクソンはかなり効いて、危なかったが、逆に左フックのカウンターを命中させ、攻勢に転じた。乱戦模様ながら、だんだんジャクソンペースになってきた5回、またマクラレンの右ストレートから左フックが当りジャクソンはロープ際に吹っ飛び。仰向けに倒れた。再開後、また右ストレートで顎を打ちぬかれたジャクソンは前のめりにダウン。なんとか立ち上がったが、レフェリーストップ。
(3)、1993年8月6日 WBC世界ミドル級タイトルマッチ 王者ジェラルド・マクラレン(28勝(26KO)2敗)VS挑戦者ジェイ・ベル(17勝(16KO)1敗1分=20勝(19KO)2敗1分)バヤモン・プエルトリコ
ーマクラレンが初回に、左フックのボディーブロー一発でベルを沈めた。開始後、僅か29秒でノックアウト(新記録)。故スチワードとのコンビ最後の試合となる。
(4)、1994年7月5日 WBC世界ミドル級タイトルマッチ 王者ジェラルド・マクラレン(30勝(28KO)2敗)VS前王者(2階級制覇)ジュリアン・ジャクソン(49勝(45KO)2敗)ラスベガスMGMグランド
ーマクラレンが前王者ジャクソンとのリマッチを初回で片づけた。圧倒的な強さを発揮。開始早々、右ストレートのカウンターを叩き込み、猛攻。滅多打ちにし、たちまちダウンを奪う。辛うじて立ち上がったジャクソンを、強烈な左ボディーブロー(肝臓打ち)でえぐりダウンを追加。カウントアウトした。3連続初回KO防衛。「ボクサーによっては王者になったほうがより活躍できる選手もいる。マクラレンはまさしくだろう」(解説のチェズ言)。ただ、もうクロンクのスチワード傘下から離れた2試合目(試合後のインタビューでも、ちょっと自信過剰気味だった)。いまさらながら、まさか次のベン戦(アマ時代に勝っているジョーンズ(ソウル五輪銀・4階級制覇)との数十億円ファイト夢の王者対決を控え、その前哨戦に過ぎないはずだった)がラストファイト(しかも悲劇的な事故)になってしまうとは・・・(涙)*なお、綴り McC'lellan'のとおりマク’レラン’が正確な発音と表記。

Gerald McClellan est un boxeur américain né le 23 octobre 1967 à Freeport, Illinois.
WBC世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者ナイジェル・ベン(40勝(33KO)2敗1分→42勝(35KO)5敗1分+デビュー以来22連続KO勝ち・”The Dark Destroyer”(暗黒の破壊者)の異名 )VS挑戦者ジェラルド・マクラレン(31勝(29KO)2敗+14連続KO勝ち中)イギリス・ロンドン
1995年2月25日、敵地でWBC世界スーパーミドル級王者ナイジェル・ベン(英国)に挑戦。初回、開始から1分足らずでいきなりダウンを奪う好スタートを見せたが、2回以降は王者も持ち直し、一進一退。そんな中、8回には右の強打で王者から2度目のダウン。しかし、その後の追撃はならず。迎えた10回、王者の右の強打をまともに浴びて遂にダウン。辛くも立ち上がったものの、王者のさらなる追撃にさらされ、程なくして2度目のダウン。ここから立ち上がることができず、そのまま10カウント。よもやの大逆転KO負けを喫してしまう。KO時は自力で歩いてコーナーに戻ったが、その直後に意識不明に陥り、すぐさま会場近くの病院へ搬送。検査の結果、脳内出血が確認され、緊急手術が施された。幸い一命は取りとめたものの、半身不随・失明、24時間の看護が必要な状態となってしまった。この試合でベンはマクレランに度々ラビットパンチ(後頭部打ち)を行ったとされ、それを注意しなかったレフェリー(加えて、初回ダウンを奪った(試合開始から僅か30秒後)マクラレンの追撃を妨害し(ロープ外に叩き出されたベンは完全にグロッキーだった)、何度も押しとどめた=趨勢からいって本来ならここでノックアウト勝ち(+ベンの防御方法(攻撃を避けるために→1、ロープの反動を利用2、相手のベルトライン以下に体を沈める)は反則です)と共に非難されることになった。
Announcer: Nigel Benn is down!! (ベン、ダウンです!) Oh what an incredible start(信じられないはじまりです). . .He sais get out my way to the referee(レフェリーにどけっ(道を開けろ)といいました)right hand by McClellan(マクラレンの右) Benn Continues to be in dire trouble!!(ベン、まだものすごいピンチ!) Dr. Pacheco: . . .and the referee is giving him time!?  What is he doing!?(レフェリーが(ベンに)時間をあげてる、何やってるんだ!?) Announcer: McClellan is fighting the referee off then fighting Benn!!(マクラレンはベンと戦う前にレフェリーと戦っています!) Dr. Pacheco: What is this guy doing?? ((また押しとどめた)この男は何やってるんだ?) Announcer: The referee Alfredo Asaro from Paris keeps on stepping in no one know reason(レフェリーが理由不明なまま、引き続き割って入っています). Announcer: Again, the referee steps in. (また割って入りました)Dr. Pacheco: What does he think he is doing!?  An amateur fight!?(この男は何考えてるんだ。アマチュアの試合だとでも思ってんのか?)満員総立ちになった会場。リング・サイドのドン・キング(横には同胞のブルーノ、ハメドと続く)が繰り返し、猛烈に抗議していた(「もし」はないとはいえ、「アメリカ」で行なわれていればと残念です)。


①故エマニュエル・スチワード=Late Emanuel Steward: Gerald McClellan and I had separated because he had been convinced that he could survive without having a manager(ジェラルド・マクラレンと私は離れた。なぜなら、彼はマネージャーなしでもやって行けると確信したからだ). . . He was virtually on his own overthere making all his decisions(彼は事実上(実質的には)1人だった。すべての決定を自分でしていた). . .but, that’s the decision he had been made(しかしそれを彼は選んだんだ). . .If I had been with Gerald McClellan, I don’t think tragedy would have happened(もし私がついていれば、悲劇が起こったとは考えられない)②HBOライブ放送(ベン戦の翌日)Announcer: Gerald McClellan from the United States he is fighting for his life((イギリス・ロンドンの病院にて)マクラレンは生きるために戦っています)⇒故パーネル・ウィテカー(4階級制覇を目指したバスケスへの挑戦(判定勝ちでタイトル奪取)を控えて)Late Pernell Whitaker:  Well. . .That’s not just boxing((危険なのは)ボクシングだけではない). . .I feel sorry for the fighter, I feel sorry for Gerald McClellan. . .(ボクサーには気の毒だと思う。ジェラルド・マクレラレンは気の毒だと思う・・・)






(1)、1981年10月3日 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・ウィバー(23勝(16KO)8敗=41勝(28KO)18敗1分)VSジェームス・ティリス(アマ92勝8敗+20連勝(15KO)無敗=42勝(31KO)22敗1分)イリノイ州ローズモント
ーウィバーが15回判定勝ちで2度目の防衛に成功。試合内容は競っていたながら、凡戦だったといえる。ティリスは消極的で足を使って、旋回。下がってばかり「ランニング?ボクシングと言ってくれ」(試合後のティリス言)。
(2)、1982年6月12日 ヘビー級ノンタイトル10回戦(世界ランカー同士の一戦)ジェームス・ティリス(21勝(16KO)1敗)VSアー二ー・シェーバース(67勝(63KO)10敗1分=74勝(68KO)14敗1分)ラスベガス
ーティリスがダウンを奪われながらもベテランの古豪、強敵シェーバース(アリに挑戦(判定負け))を判定で破る。
(3)、1982年8月14日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 ジェームス・ティリス(22勝(16KO)1敗)VSピンクロン・トーマス(19連勝(15KO)無敗=43勝(37KO)7敗1分)オハイオ州クリーブランド
ー新鋭トーマス(後のWBC王者)がティリスを7回にストップ。
(4)、1981年6月12日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 故グレグ・ペイジ(アマ94勝11敗+15連勝(14KO)無敗=58勝(48KO)17敗1分)VSアルフレド・エバンヘリスタ(40勝(32KO)5敗3分=61勝(41KO)13敗4分)ミシガン州デトロイト
ー無敗のホープペイジが元世界ランカー別名’スペインのロッキー’エバンヘリスタ(ウルグアイ出身+アリ(判定負け)、ホームズに挑戦=7回KO負け)を2回、豪快にノックアウト。
(5)、1982年6月12日 ヘビー級ノンタイトル10回戦(世界ランカー同士)グレグ・ペイジ(19連勝(16KO)無敗)VS故トレバー・バービック(カナダ(モントリオール五輪ジャマイカ代表)+21勝(17KO)2敗1分=49勝(33KO)11敗1分)ラスベガス
ー実力者バービックが10回判定勝ち。無敗のペイジに初黒星をなすりつけた(アリ戦(判定勝ち)に続く金星)。
(6)、1982年11月26日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 グレグ・ペイジ(19勝(16KO)1敗)VSジェームス・ティリス(22勝(16KO)2敗)テキサス州ヒューストン
ーペイジがダウン応酬の末、ティリスを8回にノックアウト。再起を飾った。ティリスはこの一戦以降、「噛ませ」「踏み台」的存在になる。

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