日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『いざや、便出さん=Isaiah Ben-Dasan』式?('自己流'עבריתヘブライ語?)≪Zedaka/Tsedaka(tsedāqāh)≫「righteousness, fairness, or justice」צדקה (יהדות)⇔「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)「冒’瀆’」専門?自称「ユダヤ人」の正体《Fake Jews and Japanese /Sadao Asami》③


Asahi Shimbun Publishing (released December 1986)  Fake Jews and Japanese  Sadao Asami [Author]  עבריתヘブライ語→Asahi Shimbun (פורסם בדצמבר 1986) יהודים מזויפים ויפנים Sadao Asami [מחבר] 
イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』は、日本人論として超ベストセラーとなった。しかし、その論拠としているユダヤ学・聖書学・古典語学さらに英語についての知識は、いかに間違いだらけで、非常識なものか―。本書は、ベンダサンこと山本七平氏の世紀の詭弁師ぶりを、「ユダヤ人は全員一致の決議は無効」などというデタラメを始め、細かく例証をあげながら徹底的に論破した快著である。
instructions="The Japanese and the Jews" by Isaiah Ben-Dasan became a super bestseller in Japanese theory. However, how insane is the knowledge of Jewish studies, biblical studies, classical language, and English, which is the basis for this? This book is a wonderful book that thoroughly refutes Mr. Shichihei Yamamoto, also known as Bendasan, as a sophistry of the century, including a slapstick saying "Jews are invalid for unanimous resolutions" and giving detailed illustrations.

הוראות="היפנים והיהודים" מאת ישעיהו בן דסן הפך לרב מכר על בתיאוריה היפנית. אולם עד כמה מטורף הידע בלימודי יהדות, מקרא, שפה קלאסית ואנגלית, שהוא הבסיס לכך? ספר זה הוא ספר נפלא שמפריך ביסודיות את מר שיצ'יהי יאמאמוטו, הידוע גם בשם בנדאסאן, כחומר חכמים של המאה, כולל סלפסטיק שאומר "יהודים פסולים להחלטות פה אחד" ומתן איורים מפורטים.

第四に、この動詞の「がんらいの意味」が「汚れたものを清める」とは嘘を承知の上でついた嘘。「諸君!」の読者も本多氏もへブル語は知るまいと見てこういうことをする。全くのペテン師です。「正しくないものを正す」だって二重にうそです。「正す」はある程度ほんとうだが、「正しくないものを」というのは(イザヤ書53章の第11節の場合のように)目的語にそういう意味の言葉が来た時だけに生じる意味で(それなら日本語の「正す」だっておんなじです)tsdq という語自体にはそんな意味は絶対にない。さらに「正す」という意味だって、おそらく次のような類推の順序ではじめて出て来た、派生のまた派生の意味です(少々高級すぎて、七平さんにはチンプンカンプンかもしれませんが)。
 tsedeq >tsiddēq tsādēq>hitsdiq 
ああ、バカバカしい。しかしもうこれで、「正すこと・清めることが瀆すことだ」などと本多氏に喰ってかかっているその文章そのものが成り立たないことはおわかりいただけたでしょう。

(チ)次に「瀆れた」ですが、これは誤訳でもなんでもないけれども、ただ山本七平という人がよく漢文めいたものをもてあそぶので、ちょっと釘をさしておきます。もともと「瀆」という字は「瀆汚」「汚瀆」などという熟語もあるくらいで、「けがれ」「よごれ」の意味では「汚」の字と大して違いはないのです。(「汚」には「溜り水」の意味もあるとか「瀆」には「あなどる」という意味もあるなどということは、この際関係のない話。)それをなぜわざわざ当用漢字にもない「瀆」にするのか。このあと「古代にはいずれの民族もにも、経血は人を瀆すという迷信があった」などと書いているところから推測すると、山本氏の頭の中には「冒瀆」とか「瀆神」のような熟語の連想か何かがあって、そのため「瀆」という字を使えば本多氏の「正義」の主張(あそこでは事実を問題にしている本多氏が、そんな主張をしているのかしら?)を、ただの「よごれ」以上のひどい冒瀆行為として印象づけることができるのではないかという願望が働いたためと小生は思います。しかしお生憎さま。「瀆」という一字にはそんな意味はなく(漢字の無知)、また英語の filthy にもそんな意味はありません(英語の無知)。七平さんはここで二重にまちがっているのです。それどころか、ここのへブル語原典には実は「瀆れた」に当る語もない。あるのは「経血(の)」という単語だけで、英訳も邦訳もただ「経血の衣」では読者にわかるまいと「汚れた」を補って訳しているだけの話です(へブル語の無知)。ああ、何をかいわんや。
(リ) 次は「布切れ」ですが、これは推測も何もいらない。rags の純然たる誤訳です。英語といえども語の意味は文脈で決まるのであって、ここの文章の複数形 rags とは、in rags(ぼろを身にまとって)などという時の意味です。「月経時のあてぎれ」のような小さな布のことを言っているのではありません。明治の翻訳者はちゃんとそれがわかっていました。だから「衣」と訳しています(山本氏が英語のことで私に反論などできないことは、彼と私の間のある出来事から、彼としては骨身に染みて知っているはずです)。ところが漢字同様英語も我流の山本さん、たぶん英和辞典の 'rag' (単数)の項目を眺めているうちに、たしかに「小さな布切れ」という意味も(文脈によっては!)あるのを発見した(あるいは辞書を引かずにそう思い込んだ)。それと「瀆れ」の勝手な意味づけとが結びついて、とうとう「使用ずみのアンネ・ナプキン」などといういやらしい連想まで生まれたのでしょう。
ーいま山本氏の連想がいやらしいと言っているのであって、大兄御存じのとおり、小生はわが愛する妻や娘の生理を「いやらしい」などと夢にも思う人間ではありません。ところが山本氏にかかると、「使用ずみアンネ」の「この瀆れは、それにふれた人を瀆し、さらにその人にふれた人を瀆す、というようにまるで伝染病のように広まるという迷信」と相成り、イザヤはこの迷信を前提に預言をしていて、その預言の言葉を山本氏ーいや失礼、ベンダサン氏は、自分の主張のよりどころにしているわけです。そして本多勝一ごときは、「瀆れた」使用ずみのアンネを「口にくわえ」、あるいは「瀆れた」あてぎれを頭に「かぶ」っているのだというグロテスクな比喩にまで妄想は発展して行きます。ほんとうに、「瀆らわしい」人ですね。
ー旧約聖書にはたしかに経血を不浄とする考えがあります。しかし経血中の女性との性交を禁じるだけで、「あてぎれ」に触れた人にさらに触れた人も次々と「瀆れ」て行くなどという「瀆らわしい」迷信は、山本ベンダサン氏だけの妄想です(末尾の注を参照)。そうでなければ古代イスラエル人の子供は、母親の生理中の胸に抱かれて乳を飲むこともできないではありませんか。こういう女性蔑視の山本ベンダサン氏には、同じ預言者イザヤが少しあとの66章で神のことを傷心の子供を慰める母親にたとえている気持など、到底わからないでしょう。
(ヌ) 英文原稿を書くのに欽定訳の英語の意味がわからなかったベンダサンさん、あなたは山本さんに訳させたその「原文」の方にも「アンネを口にくわえている」などと書いたのですか。すると「ユダヤ人」であるあなたのへブル語も相当お粗末なものですね。あなたはへブル語の beged という簡単な単語の意味がわかっていません。旧約聖書中約200箇所の用例全部に当っても、「経血のあてぎれ」のような小さな布切れの意味は beged にはありません。あなたが御家庭で話しておいでのはずの現代へブル語でも「衣服」以外の意味には使わないことをあなたは御存じないー妙なユダヤ人ですね。
ーというわけで、あなたにへブル語のことを言っても始まりませんから、もういちど英語に戻りましょう。しかしそれも17世紀の欽定訳ではあなたにはむずかしすぎるから、先にあげた現代誤訳の①②③をごらんなさい。みな衣服の意味の garment, clothing となっているでしょう。これがへブル語の beged の意味なのです。④の  rags(複数)についてはもう教えました。残る②の a filthy rag ですが、この英訳の欄外にはちゃんと注がついていて、「字義どおりには 'menstruous garment' となっています。ベンダサンさんとちがって、この訳者たちは原典の意味を心得ている。心得たうえで、それに匹敵する効果を持つ訳語を、現代イギリス人読者のため便宜上えらんだだけの話です。 
ーついでに「訳者」の山本さんにもお教えしましょう。日本語訳としてはあなたの「布切れ」だけが誤訳で、あとは明治の文語訳も昭和の文語訳もみな正確です。中央公論社『世界の名著』12『聖書』の中の中沢洽樹訳「経血の汚れた衣」も正解、岩波文庫の関根正雄訳『イザヤ書』の「月の障りで汚れた衣」も正解、講談社「聖書の世界」別巻2の左近淑訳「月経によごれた着物」も正解。あなたが情報源にしている権威者がみな浅見と同意見では、困りましたね。
(ル) さて、またベンダサン氏にもどりましょう。あなたは英語の as の用法を御存じないせいか、このイザヤの言葉を「今日の日本人に最も適切と思われる表現になおせば」(英語・へブル語はからきしだめなのに、日本語には相当自信がおありのガイジンですね)、「人間の正義は使用ずみのアンネ・ナプキンに等し」となるのだとの仰せ(傍点は浅見)。また「正義=瀆れた布」と等記号も使っておいでですね。あなたは修辞学のABCもご存じない。比喩(たとえ)というものは、本来「等し」くないもの、イコールで結べないものを比較するためにこそあるのです。イザヤは「正すこと・清めることが(イコール)瀆すこと」「正義=瀆れた布」でないと知っているからこそ「ようだ」と言っているのです(こんな低次元なところで吉本隆明の「たとえ」論など持ちだしてもだめです)。
(ヲ) そこでこの「ようだ」の意味についてもひとこと言っておきましょう。イザヤ章64章のある言葉の文脈を、山本ベンダサン氏のデタラメ訳によってではなく口語訳によって引用してみると、次のように書いてあります。
見よ、あなた(神)は怒られた、われわれ(ユダヤ人)は罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく衣のようである。われわれは木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
ー他の日本語訳も大同小異です。そこで、傍点の部分に注意して下さい。つまりここで預言者は、ユダヤ人を代表して、「われわれは正しくあるべきだったのに、もう長いこと罪を犯して来ました。神よ、あなたの怒りも当然です」と言っているのです。正しくある、または正しくあるべきなのに「久しく罪のうちにあり」、「不義」を犯して来た。だから神のさばきを受けたのだと告白しているのです。正しくある、または正しくあろうとすること自体が不遜な罪だなどという寝言を言っているのではありません。正しくあるべきなのに「久しく罪のうちにあり」、「不義」を犯して来た。だから神のさばきを受けるのだと告白しているです。ですから問題の「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」の「ようである」は(原典の先行文の時制からして)、たとい訳文としては現在形を使っても、その意味は現在完了形なのです。先にあげた英語の②を参考にして下さい。邦訳の3氏も全員「なった」「なりました」と訳しています。「前には正しい行いがあったのに、今はすっかりだめになってしまっている」というのです。だいいち、「われわれの正しさイコール汚れ」なら、最後の行の「われわれの不義」は(義の反対なのだから)ユダヤ人を「風のように吹き去る」どころか、救ってくれなければいけないでしょう。
ー要するにここでイザヤは、皮肉にも山本ベンダサン氏とちょうど逆のことを言っている。つまり「正そうとすることをゆがめ、清めようとすることが瀆す」どころか、正すべきだったのに正さず、清めるべきだったのに清めなかった(あるいはかつてはそうしたが今ではしなくなってしまった)ことを懺悔しているのです。当たり前ではありませんか。
(ワ) このように「イザヤ書」ひとつ理解できない(のならまだよいのですが、片っ端から真反対の意味にしてしまう)山本ベンダサン氏は、ここだけでなく同じイザヤ書の5章7節の「正義」の意味も完全に逆さまにしています(同じく「イザヤ」といってもこの5章は64章と人物も時代もちがうものだということは、今はどちらでもよいことです)。氏はそこのところを引用して、「正義」を頭にいただけばいただくだけ・・・「正義(セダカー)ではなく叫喚(セアカー)」になり、「義(ミシュパート)ではなく流血(ミシュパーハ)」になって行く、などと御託を並べていますが、これまた片っ端からまちがい。
ーまずへブル音の表記の仕方を知らない。「セダカー」「セアカー」の「カー」のところを長く表記するのなら「ダ」や「ア」のところも長くしないとまちがいです(私は古代語の表記の規則を言っているのであって、現代ユダヤ人の発音がどう聞こえるかなどという主観的なことを問題にしているのではありません)。また「流血」のへブル語は「ミシュパーハ」ではない。「ミスパーハ」です。
ー次の文章の意味を全く逆にとっている。これまたこの言葉の出て来る文脈を口語訳で引用してみますと、
主(神)はこれ(ユダヤ人の支配層)に公平(山本ベンダサン訳「正義」)を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。
ーこんなにはっきりしたわかりやすい文章がありますか。誤解の余地などありません。人間(ユダヤ人)が正義を身につけると正にそのことによって瀆れるので神はそれを嫌った、というのに逆に、神はそれを望んだのです。神は正義(南京大虐殺やソンミ村事件のない状態)を望んだのに、その期待に反して、流血と虐げられる者の叫びがあるのはどうしたことかと言っているのです。ユダヤ人の支配層が「正義を口に」したことによってではなく、口にしないか、口にしても行なわないことによって、流血と叫びが起こっている事実を指摘しているのです。ですからこの5章を語ったイザヤは、第1章ではこうも言っています。
あなたがた(ユダヤ人の支配層)は身を洗って清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行なうことをやめ、善を行なうことをならい、公平を求め、しいたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。
ー山本ベンダサン氏のように「清めようとすることが瀆す」のなら、「身を洗って清くなれ」と神が言うものか。
(カ) さて、締めくくりとして、以上のバカバカしいペテンの詭弁を種明かしましょう。すべての事の始まりは「人間の正義は使用ずみのナプキンに等し」にありました。その命題を引き出すためにイザヤ・ベンダサン氏は、英語からへブル語まで、全部まちがえて動員しましたが、摩訶不思議、このガイジンさんは、実はその典拠として日本語の、しかも山本書店発行の『イエス時代の日常生活』なる本(ダニエル=ロブス著、波木居斉二、純一共訳)を使っています。その第II巻20章には、わがイザヤ書64章6節の訳として次のような文章が出て来るのです。「すべてわれわれの正義は汚れた下着にほかならない」(傍点は浅見)。それからもう一箇所、28頁にはこう書いてあります。「最良の法律もけっして人間の正義を完全に守るに十分でなかったーおお、イザヤよ、この「汚れた下着」よ」。山本ベンダサン氏はこのあたりから想を得たのにちがいありません。何しろ原著はフランス語なので、英語とへブル語しか知らないらしい「イザヤ・ベンダサン」氏がその原著を読んでいるはずがないのですから。
ーしかし、「にほかならない」の一点を除けば、このダニエル=ロブスさんも山本ベンダサン氏によってすべてねじ曲げられているのです。「下着」はそこの注を見るとただの linge または vêtement(これならむしろ「上着」だ!)となっていて、いずれにしてもここから「あてぎれ」だの「アンネ」だのは出て来ません。次に「最良の法律もけっして・・・」云々の文は、「人間の正義」を否定するどころか、かえって「守る」べきものと前提しています。また「最良の法律(正義)さえも不十分だった」と言っているのであって「最良の法律(正義)がすなわち人を瀆す」などと言っているのではありません。
ーすると、山本ベンダサン氏がダニエル=ロブスの邦訳から正確に借用したのは「にほかならない」の一句だけということになります。残念ながら小生は、この本のフランス語原著を持っていないので、原文がどうなっているかは確かめようがありません。しかしもしこれが誤訳でなく原書でも「にほかならない」( ne . . . que かな?)となっているのだとしたら、ダニエル=ロブスさんは、正に山本ベンダサン氏を勇気づけたその一点で、誤りを犯していることになります。へブル語原典では(先に示した邦訳・英訳のすべてからお察しいただけるとおり)、きわめて簡単明瞭に「のよう(になった)となっているのですから、小生の持っている数種類のフランス語訳聖書でも全部 'comme' (~のよう)となっています。
ーお粗末でした。小生も忙しい身なので、こういうバカげた相手に付き合うのはしみじみ時間の浪費だと感じますが、こうして大兄をダシに一例でもまとめておけば、何かの時少しは世のため人のためにもなろうかと、きょうはここまで一挙に書いてみました。しかし初めにも申したとおり、これは山本ベンダサン氏の数限りない書きものの中のほんの数頁を例に取り上げただけにすぎません。もしこの調子で彼のものを全部批評したら、聖書のことばではありませんが「世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」(ヨハネ福音書末尾)。だが幸い、そんな必要もありません。彼の書くものはすべて、本質的には今回の例と同じだとお考え下さい。ひとさまにも「浅見という男がそう断言していた」と言って下さって構いません。-ではお元気で。
(注)こんなことで本文の方を長々とケガスのも「S兄」に対して気がひけますので、よほど好奇心の強い読者だけ。以下の注をお読みください。経血に関して山本ベンダサン氏がうろ覚えしていたらしい聖書の箇所は、レビ記15章の19-24節です。私の言った性交の禁止というのは、そこの最後の24節のことです(7日間汚れるとある)。これに対して19節には、「すべてその女に触れる者は・・・汚れる」とありますが、「・・・」のところは実は「夕方まで」となっていて、こういう種類の汚れなら、なにも女性の経血だけではない。男性が「精をもらし」ても同じだと。すぐ前の16-18節にはっきり書いてあります。何とも律儀な平等主義に、現代人の私はユーモアさえ感じますが、とにかく七平さんのようなグロテスクな女性蔑視とくらべれば、こちらの方が幾倍か健全ではありませんか(もっともこれさえ、今日のキリスト教徒の立場からすれば、衛生上の問題以上に気にする必要のない戒律です)。レビ記に戻ると、続く20-23節には、経血中の女性の寝床と専用の坐り台(原語「ケリー」)にさわった者も汚れると書いてあります。しかし第一に、ここでもその「汚れ」は、「衣服を洗い」「身をすすげ」ば済むことで、それも「夕方まで」の話だと3度も断ってあります。基本的には衛生上のけじめなのです。「それにふれた人を瀆し、さらにその人にふれた人を瀆すというようにまるで伝染病のように広まる」(傍点は私)などという忌わしい意味では全然ありません。第二に、このレビ記15章は、他の病気による出血(従って男性の場合もある)を含めて、そういうとき本人が使う寝床坐り台だけを一貫して問題にしている章です。とすれば、このくらいの心得は現代における病人用ベット管理の常識と五十歩百歩ではありませんか。第三に、以上のような次第で、この章のどこにも、結局はメンスの当て切れがどうこうなどという、初老の七平さんの妄想が生んだ「瀆らわしい」戒律は実在しないのです。以上、本文末尾(カ)の種明かし同様、らっきょうの皮むきのお粗末でした。
以上で浅見氏が見せてくれた山本ベンダサン氏ペテン術とニセ知識の内幕の紹介を終わります。『諸君!』の読者諸君!それから『諸君!』の編集者諸君!それではこれで本当にさようなら。イザヤ・ベンダサン氏にもよろしく。
(追記1)この討論は、文藝春秋から刊行されたベンダサン氏著『日本教について』にも収録された(但し、最後の「『諸君!』の読者”諸君”への追伸」は無し)が、巻末でポイントを落として二段組み扱いだった。そこで同書が『文春文庫』に収録されるとき、本書のように堂々と双方同じ扱いで、討論形式をとって交互に読めるようにすることを要求すると、ベンダサン氏と編集者はこれを拒否し、本多の反論をすべて削除した。ベンダサン氏による自らの決定的敗北の告白にほかならなかった。
(追記2)E章でベンダサン(山本七平)氏の”知識”が片端から間違いであることを実証した浅見氏は、のちにさらに全面的なベンダサン(山本七平)氏の正体を解剖し、そのウソと詐術にまみれた姿を単行本『にせユダヤ人と日本人』として刊行した。本書の「文庫あとがき」参照。

①About Japanese religion (Bunshun Bunko 155-1) (Japanese) Bunko – 1975/1 Isaiah Ben-Dasan (Author), Isaiah Ben-Dasan (Original), Shichihei Yamamoto②Nihonkyo日本教 is a word coined by Shichihei Yamamoto that expresses the concept of 'a religion that is unconsciously ingrained in the Japanese people ' . Minoru Okuyama points out that Japanese religion has already been told by Ryunosuke Akutagawa .

The logic of the killer (Asahi Bunko) (Japanese) Bunko – 1984/1Katsuichi Honda  (Author)
                      初版跋文           本多勝一
ーほぼ1年前に『殺される側の論理』(朝日新聞社)という雑文集を発表しましたが、本書はタイトルが示しているように、その姉妹版篇ともいうべき雑文・論争集であります。この2篇と関連した雑文集としては、報道や新聞記者について論じたものを中心とする『事実とは何か』(未来社)があります。「殺す側の・・・」といっても、視点はもちろん「殺される側」にありますから、正確には「続・殺される側の論理」とすべきだたのかもしれません。この1~2年前、さまざまな論客が私に対して攻撃・批判・非難・罵倒をしておられますが、それらを大きく分類すると、次の3点になります。
① とくに深い論理的必然性があるわけではなく、なんとなく気がくわぬからやっつけようとする心理に由来する場合。これは職業用心棒としての武士のヤクザと似ていて、「論客」だから、従ってガンをつけなければ沽券にかかわるというタイプであります。
② 一部の極右的な極左グループ。ここに共通なのは、私が「ブル新」の記者だから、したがって、それだけですでに「人民の敵」だという論理です。
③ 帝国主義や独占資本の忠実な用心棒知識人の場合、いわゆる右翼文化人は、たいていこれに当ります。
右の中で、①については本書に収録した山口昌男氏(山口昌男(日语:やまぐち まさお,1931年8月20日-2013年3月10日),日本文化人类学家Масао Ямагути (яп. 山口 昌男 Ямагути Масао); 20 августа 1931 — 10 марта 2013) — японский антрополог, бывший ректор Университета Саппоро, эмерит Токийского университета иностранных языков)がほぼその代表に当りましょう。②については、有象無象たくさんあるけど、影響力は全くなく、いずれ消滅するか、または自分の誤りに気付く性質のものです。③は今後ますます盛大に攻撃してくるでしょう。イザヤ=ベンダサン氏などよい実例です。これはしかし、攻撃が激しくなるほど、喜ばしいことといわねばなりません。なぜなら、①や②とちがって、かれらは私たちの「正面の敵」の反動用心棒であることがはっきりしているからです。そして、「もしも敵に反対されないなら、それはよいことではなく」「もしも敵に反対されるなら、それはよいことであり」「もしも敵がやっきになってわれわれに反対し、われわれのことをまったくデタラメであるとか、なにもかもまちがっているというなら、それは一層よいことであり」「われわれの仕事がひじょうに成績をあげていることを証明している」(毛沢東)からであります。今後とも、自分の仕事が「ひじょうに成績をあげていることを証明」してもらうべく、こうした右翼文化人の攻撃が私に対してもっともっと激しくなることを念願いたします。
ーいっぽう私自身としては、前著『殺される側の論理』の 文でも書いたように、こうした「論客」知識人や用心棒知識人の声にではなく、「殺される側」としての一般民衆の声に、これまで同様、学んでゆきたいと思います。           1972年9月18日(北海道日高地方・浦河町西舎にて)
                文庫あとがき       本多勝一
ー本書は2部で構成されていて、書名は第1部の冒頭の論文に代表させました。「殺す側の・・・」とはいえ、第1部の内容は前著『殺される側の論理』の姉妹篇と申せましょう。初版の 文でふれられていますように、もとの単行本ではこのほかにもう2部あって4部から成り、その1部は山口昌男氏(文化人類学者)との公開討論(現題は「調査される者の眼」をめぐる公開討論)であります。しかしながら、これは山口氏が旅行中のため御了解を得られなかったことと、それよりもこの討論自体にあまり積極的意義が認められないことで、文庫本収録は見あわせました。テーマ自体は重大であるにもかかわらず未解決のままですが、日々害毒を流しつづけているベンダサンこと山本七平氏の場合とは異なりますし、山口氏は今では「有名」になられて当時のような欲求不満も消えたはずですから。(でも関心のある方はもとの単行本=すずさわ書店版=をごらんください。)
ー文庫収録を省いたもう1部は、原著第IV天皇(および天皇制)をめぐる論考です。これは私の意志に反する経過によって収録されなかったものですから、理由は賢明な読者には容易に察しがつかれることでしょう。よく「日本ほど自由な国はない」とか、日本には言論の自由がアメリカ合州国以上にあるかのようにいう人がありますが、噴飯ものといわねばなりません。(したがってこれも関心の深い方は、もとの単行本をごらん下さい。)
ー以上のように原著から2部が省かれましたが、第II部のベンダサン氏との公開討論が圧倒的部分を占めています。初版 文で予想しておきましたように、原著刊行後いわゆる右翼文化人は全精力を傾注して私を攻撃してきました。その代表格が、この第II章で敗北・崩壊したベンダサンの”身代わり”にかけつけた異名同人・山本七平氏であります。はて、ベンダサン氏はどこへ消えてしまったのでしょう。
ー『週刊朝日』が連載していた松本清張氏の日記には、1980年4月27日のものとして次のような一文があります。
「近ごろ、新聞・雑誌に山本七平氏の活躍あり。しかるにイザヤ・ベンダサンの論文に接せざること久し。世人、山本七平=ベンダサン同身説に傾く。 してベンダサン氏は本多勝一氏と論争せる人なり。この際、ベンササン氏の訳者・山本七平氏に、ベンダサン氏について説明を乞いたきものなり」(『週刊朝日』1982年11月19日号)
ー想えば、ベンダサン氏が崩壊して山本七平氏が”活躍”を始めてから、世間的にはこのころがその最高潮だったようです。本当はしかし、この身代わり人・山本七平氏も、すでに佐伯真光氏(相模工大教授・宗教学)によってもう崩壊していたのですが、「ウソも1000回つづければ」式に右翼雑誌やテレビで繰り返し利用されつづければ、世間的には「最高潮」でいられたのでしょう。佐伯氏による山本七平ダウンのリングは、その1部を『ペンの陰謀』(本多勝一編・潮出版社)に見ることができますが、全容は佐伯氏が近く刊行予定ときいている『イザヤ・ベンダサンはなぜ死んだか』(仮題=潮出版社)で明らかにされるはずです。

ー松本清張氏が「山本七平氏に、ベンダサン氏について説明を乞いたきものなり」と書いたのは1980年の日記です。今は1984年であります。読者には、ベンダサン氏と私との論争が行なわれた「1972年」という年を思い出していただきましょう。その3月号の『諸君!』でベンダサン氏は書きましたー「御返事は下さっても下さらなくてもけっこうです。また公開でも非公開でもかまいません。前述のように五年もたてばおのずと明らかになることですから、議論の必要はないと存じます。私としましては、御返事がいただけても、いただけなくても、それから十年後に、もう一度公開書簡を差し上げたいと存じます。」(本書164ページ参照)
ーこれほど高飛車・傲慢に「公開書簡」を予告しておきながら、満10年をとっくに過ぎても再起不能のまま立ち上がれないでいるベンダサン氏について、佐伯氏は満11年をすぎた段階の去年はじめに「イザヤ=ベンダサン死亡説」を発表し、次のように結論を下しています。「満10年目がすぎてから1年間、私は待ち続けた。それでも「十年後にまた公開書簡を」(『諸君!』見出しの言葉)という誓約が履行されないのを見て、とうとう私はベンダサン氏がすでに他界したものと判断したのである。謹んでイザヤ・ベンダサン氏の御冥福を祈る。」
(『月曜評論』1983年1月24日号)
ーベンダサン氏は1918年(大正7)に神戸で生まれた(『日本人とユダヤ人』の「著者略歴」から)そうですから、今年で65~6歳、まだまだ平均寿命以上のお齢のはずですが、どうやら亡くなられてしまったようですね。そう。それが一番いいのです。自らの無知と非論理性と詐術がバレてしまった以上、「再起」すればただ単に恥の上塗りをする以外のいかなる
意味もないのですから。”身代わり助っ人”の山本七平氏にせよ死んだベンダサン氏にせよ、その敗北後の生き方はただひとつ、戦線からひたすら逃亡しながら、敗残兵の正体をまだ知らぬ沿道の人々をだましつづけることしかありません。かつてチベット人をよそおったイギリス人が、ロブサン=ランパというチベット名で『第三の眼』というインチキ書を出してベストセラーになり、日本でも光文社がその翻訳を刊行しました。しかしまもなくチベット学の本当の専門家にその大ウソと無知が見破られ、筆者は詐欺師だったことが暴露されてしまいました(この経緯は長沢和俊著『チベット』=校舎書房・1964年=参照)。しかし、本書の読者の中にそんなことを知らぬ人がいて、かのチベットのことにもくわしい知識がなければ、いま古本屋か何かで『第三の眼』を手にして読んだとき、ロブサン=ランパにだまされる例も多いでしょう。山本ベンダサンもまた、そのように「正体に気づかぬ層」を相手に生きてきたわけですが、ごく最近になって、正にロブサン=ランパを完全に見破った専門家に相当する学者によって、だれにもわかる形で山本ベンダサンの全インチキが丸はだかにされました。
ーそれは、東北学院大学の浅見定雄助教授(旧約聖書学・古代イスラエル宗教史)による『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社)という本です。浅見氏は本書の中でも(262ページ以下で)山本ベンダサンの無知と非論理性を一部だけ紹介していますが、この『にせユダヤ人と日本人』はそれを彼の著作全篇について暴いてみせたものです。これを見ますと、山本七平氏の書いたものなどまるで全ページに嘘とインチキが充満していることが精密に指摘されていて、山本ベンダサン氏のあまりの無茶苦茶ぶりにもう抱腹絶倒、これほど痛快・痛烈な書物はめったにありませんから、知的スポーツとして御一読をすすめます。問題の本質は山本ベンダサン氏にあるのではなく、こんなものに大多数がだまされていたという日本の情況にあることも理解されましょう。いつの世にも、どこの国にも、インチキ人間はいくらでもいるのですから。
ー今後の彼は、それでもなお浅見氏の本の存在を知らなくて彼のインチキに気付かぬ人々と、気付いても利用価値のある間は利用する右翼出版資本だけを相手に生きてゆくことでしょう。だいぶ偽書・詐書の類がたまったようですから、そろそろ七平全集でも出せばおもしろいと思うのですが、いずれはあのベストセラー『第三の眼』のにせチベット人の場合と同様、ペテン師列伝上の1エピソードとして想い出されることになってゆくのでしょう。それでも彼がこれまでインチキ書でもうかっただろう何億円かの金は、今のところは読者に返却する気はないようですから、その意味での目的は達しているわけですが、もう一つのより重要な目的としての「日本の世論の反動化」にもかなり貢献したようですから、どうもこれはロブサン=ランパよりは成功したペテン師という”評価”も可能かもしません。
ーにせチベット人といい、にせユダヤ人といい、にせ知識による詐術はいずれ必ずほんものによって見破られ、崩壊するものであることを、ベンダサン(山本七平)氏の数々の本にだまされた方々も銘記されたことでしょう。                   1984年2月26日(京都にて)

山本 七平 - 全集・選書 / 文学・評論: 本 - Amazon.co.jp= Kompletaj Verkoj kaj Elekto : Shichihei Yamamoto

October 1997 Japanese and Jewish Shichihei Yamamoto Isaiah Ben-Dasan"Japanese people think safety and water are free."-Ben-Dasan's warning is still new. "Japanese and American" and "Japanese and Chinese" are recorded togetherעבריתヘブライ語→אוקטובר 1997 היפני והיהודי Shichihei Yamamoto Isaiah Ben-Dasan "האנשים היפנים חושבים שבטיחות ומים הם בחינם." - האזהרה של בנדסאן עדיין חדשה. "יפני ואמריקאי" ו"יפני וסינית" מוקלטים יחד 
「要するにこれは、「ユダヤ人」にことよせた、新手の国粋主義・軍国主義へのすすめ以外の何ものでもないIn short, this is nothing more than a recommendation for a new type of nationalism and militarism aimed at the "Jews"(↑浅見定雄Sadao Asami『にせユダヤ人と日本人』より)。

*山本七平の発言Remarks by Shichihei Yamamoto:①山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなったWhen I started Yamamoto Shoten, I often used the lobby of the Imperial Hotel for proofreading my manuscripts, and as a fan of Frank Lloyd Wright, I became friends with John Joseph Lawler and his friend Minsha Horenskyキリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』であるConcerned about why Christianity did not spread in Japan, the three of us gathered various materials and discussed them, and the result was the book "The Japanese and the Jews."(?_?笑②ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作であるAfter Lawler's departure from Japan, the work under the Ben-Dasan name was a joint work between Horensky and Yamamoto(?_?再笑

*「彼(ベンダサン氏)は神戸という港町で生まれた。彼の両親はもちろんユダヤ人で、エストニアからの亡命者だった。第二次大戦の勃発前に一家はみなアメリカへ移住した。青年イザヤは、戦争中陸軍の諜報活動に従事し、1945年日本へ戻り、数年後にはイスラエルの独立戦争で戦い、そして再び1950年に日本へ戻って来て5年間暮した。1955年には彼は特許のブローカーとして日本とイスラエルと合衆国との間を行き来するようになり、インディアナ州テリー・ポートで幸福に暮しているHe(Mr. Ben-Dasan) was born in a port town called Kobe. His parents were Jewish, of course, and refugees from Estonia. His entire family immigrated to America before the outbreak of World War II. Young Isaiah worked as an intelligence agent for the Army during the war, returned to Japan in 1945, fought in the Israeli War of Independence a few years later, and returned to Japan again in 1950, where he lived for five years. By 1955 he was a patent broker bouncing between Japan, Israel and the United States, living happily in Terry Port, Indiana」は何処へ?Where did he go?
山本七平賞(やまもとしちへいしょう)は、PHP研究所が主催する山本七平を記念する学術賞である。Deutschドイツ語→山本七平賞Der Shichihei Yamamoto Award ist ein akademischer Preis zum Gedenken an Shichihei Yamamoto, der vom PHP Institute organisiert wird. Gegründet 1991, begann 1992 . Wissenschaftliche Bücher und Dissertationen in den Geistes- und Sozialwissenschaften wie Soziologie , Politik , Wirtschaft , Geschichte , Philosophie , Religion und vergleichende Kultur , geschrieben und veröffentlicht in Japan. 
                          「殺す側の論理」(206~209ページから)
ーつぎに紹介するのは、神戸市の谷口弘行さんの例である。短い文章だが、ベンダサン氏の「追伸」に対する反論なので、私がお相手になってあげなかったことによるベンダサン氏の欲求不満を、いくらか解消してあげる役目を果たしているかもしれない。
                                                         <谷口弘行氏の手紙から>
-4月号の「本多勝一様への追伸」というベンダサン氏の文には、議論になれたインテリさえもまきこんでしまうような論理のまやかしがあると思われます。こういう議論には、例えば次のような反論、というより否定の論理が考えられ、参考の一つにしていただければ幸いです。(もっとも以前の『諸君!』での論争を読んでいませんので、4月号にでた文にかぎりです。)
第一は「正義とは瀆れた布」という論法です。だれもが自己の行動を「正義」と主張する。ゆえに「正義」とは相対的なものであって、絶対的な「正義」などありえないということを、彼は、言っています。故に貴兄の言う「殺す側の論理」が正義というのはおかしいという論理です。これは、国際政治の場でも、いわゆる「現実主義者」といわれる学者たちが「国際社会の中には常識のかずだけ正義がある」として、国際社会での理想を否定し、力関係のみを重視する論法と全く同じです。
ーしかし「生命や自由は侵されてはならない」。国家のために個人を犠牲にしてはいけない。人間はすべて平等である、等々。もっと具体的に言えば、天皇の名のもとに、実は一部の人間のためにあらゆる形の圧政がなされてきた事実、理想実現の名のもとに戦争とくに侵略戦争がなされてきた事実、こういうことは絶対に許されない」等ということは、ここ数世紀にわたり、人類が、つくりあげ、確信してきた絶対的な意味をもつ正義であり、そういう正義は存在すると考えられます。法律の世界から、たとえば、ナチのはなはだしい反人間性をみて、ラアーブルッフという法哲学者は、「数世紀にわたり人類がつくりあげてきた原理、具体的には、各国の人権宣言は、あらゆる法をこえた絶対的な意味をもつ」と言っています。時代(歴史)という試練にろ過された正義というものは存在するはずです。それがなければ人類は歴史から何を学ぶのでしょうか。このような単純なことを、ベンダサンは、自己の都合のいいようにごまかしています。
ーキリスト教や聖書というものは、時代・地域の産物であって、また、現代でも量的にも全世界的なものではありません。そういったものを絶対的大前提として議論しているところにまずもってごまかしがあります。(貴兄が4月号172頁で言っているとおりです。)昔々あるところで数人の人間が言った言葉と、全世界の歴史の中から生まれてきたものと、どちらを現代で正当性を持たせるかということは、明白なことだと思います。
ー第二に「喧嘩両成敗」という論法をベンダサンは使っています。こういうみんなの心の中にすんなりと入ってくることを、当然のこととして大前提としています。たとえば、ベトナムにおけるアメリカ、否もっと名実ともに明白であったフランスの植民地支配とそれに対する抵抗運動も、やはり「喧嘩両成敗」「争いはそれ自体罪悪である」とでも彼は言うのでしょうかね。政治社会という相対的な社会では、歴史の審判ということが、絶対的真理を、つまり正義を意味するのです。
ー宗教家とか、神学者とか、いわれる人間が、政治の議論をすると、きまって、このように、キリスト教か、聖書を絶対的な前提として、現実の問題を相対化することにより、保守反動を意味づけたり、正当化したりするものです。そして歴史的に、また常識的に「悪」だとされているものでさえ、それに対する攻撃を、このような議論で煙にまいてしまうものなのです。「殺す側」と、「殺される側」と規定すると、それ以上に第三者的立場をとり、こういうのも多くの考えのうちの一つとして、相対化してしまうのです。以上、ベンダサンのような論法に対する一部のしかも大まかなことだけをのべたにすぎませんが。 
Latviešuラトビア語⇒ Jesaja Ben-Dasan (dzimis 1918. gadā) ir Shichihei Yamamoto pseidonīms . Viņš kļuva slavens kā "Japāņu un ebreju" autors un kādu laiku turpināja izdot daudzas grāmatas uz Bendasan vārdu.
Françaisフランス語→impact social=Après que ce livre soit devenu un best-seller, non seulement la théorie japonaise comparative du titre "Japonais et OO people" est devenue populaire à un moment donné, mais un livre écrit par un Japonais se faisant passer pour un étranger ( Paul Bonne (Série Wonderland Nippon, etc.) ont également commencé à apparaître, et à terme, les auteurs de livres d'auteurs japonais écrits par de " vrais étrangers" peuvent être perçus comme étant japonais. Il existe un exemple de la méthode par laquelle les Japonais trompent le nom d'un étranger, tel que Jan Denman , qui avait été sérialisé pendant longtemps dans Weekly Shincho avant Isaiah Bendasan. De plus, lorsque l'auteur du " Ugly Korean " (Park Tae-hyuk) a été touché par un Coréen et qu'on lui a dit qu'il n'était pas coréen mais japonais Hideaki Kase , la partie coréenne a déclaré que Isaiah Ben-Dasan Un cas a été présenté (magazine SAPIO ), critiquant la communauté d'édition japonaise.

“Jewish Business Law” (Marvin Tokeyer (translated by Akira Sukegawa (Hideaki Kase)) – Japan Business Rationalization Association Publishing Bureau『ユダヤ商法』(マーヴィン・トケイヤー助川明(加瀬英明)訳)ー 日本経営合理化協会出版局 2000年)Marvin Tokayer マービン・トケイヤー(1936-) to amerykański rabin i pedagog . Od dawna mieszka w Japonii i jest znany jako Nippon Express. 

Марвин Токайерマービン・トケイヤー (1936-) - американский раввин и педагог . Он живет в Японии долгое время и известен как Nippon Express.Marvin Tokayerמרווין טוקאייר (געבוירן 1936) איז אַן אַמעריקאַנער רבי און מחבר וועלכער האָט געדינט אלס א פארייניקטע שטאטן לופט פאָרס טשאַפּלאַן אין יאַפּאַן.

שיעורי יהדות: איך ללמוד להיות "אדם גדול"猶太教訓:如何學習成為“大人物”加瀨英明[作者]Jewish lessons: How to study to become a “big man” Hideaki Kase(加瀬英明) [Author]유대인 수업: “큰 사람”이 되기 위해 공부하는 방법 [저](加瀬英明가세 히데아키著)。

朴 泰赫추한 한국인 - 우리는 '일제 지배 "를 외치며 너무 (카파 · 북스) (일본어) 신서 - 1993/3/1박泰赫  (저, 원저)Ugly Koreans-We Too Scream "Japanese Empire" (Kappa Books) (Japonais) - 1er mars 1993朴 泰赫 Parc Tae-hyuk  (Auteur, Original)醜陋的韓國人-我們也尖叫“日本天皇統治”(河童圖書) (日語) – 1993年3月1日

추한 한국인 역사 검증편 이것은 진짜가 아닌가 (카파·비즈니스)저자 朴泰赫 (저자) , 카세 히데아키 (저자)Ugly Korean History Verification Edition Isn't this true? (Kappa Business)author Ta'ae-hye Park (Author) , Hideaki Kase (Author)
누가 '한일관계'를 나쁘게 한 것인가. 일본 식민지 시대부터 현재에 이르기까지 다양한 형태로 존재하는 '반일 감정'을 검증한다Who made the "Japan-Korea relations" worse? We will examine the "anti-Japanese sentiment" that exists in various forms from the Japanese colonial era to the present.

Hideaki Kase (加瀬 英明, Kase Hideaki?), né le 22 décembre 1936 à Tokyo et mort le 15 novembre 2022, est un intellectuel japonais connu pour sa promotion du révisionnisme historique.

①Wonderland Nipponvol.1-yeux français au Japon(Kadokawa Bunko Write 275-1) (japonais) - 1982/6 
Wonderland Japan vol.1-French Eyes in Japan (Kadokawa Bunko White 275-1) (Japanese) Bunko – 1982/6
②ニッポン合衆国 不思議の国ニッポン(14)États-Unis États-Unis Pays des merveilles Japon (14)Auteur Paul Bonnet/United States United States Wonderland Japan (14)Author Paul Bonnet

①Françaisフランス語→Taisuke Fujishima 藤島泰輔( 1933 ( Showa 8) 9 janvier 1997 ( 1997 ) 28 juin) est un romancier japonais et critique . Il a publié de nombreux livres sous le nom de Paul Bonne.藤島泰輔( 1933年 ( 昭和 8)年1997年1月 9 日至( 平成 9年) 6月28日)是日本 小說家和評論家 。 他以Paul Bonne的名義出版了許多著作
②ポール・ボネ(Paul Bonet) は、在日フランス人で、日本で長期の経験を積んだビジネスマンと自称した作家。代表作は『不思議の国ニッポン』など。経歴未詳。実際は作家・評論家でメリー喜多川の夫で藤島ジュリー景子の父親の藤島泰輔のペンネーム。Françaisフランス語→Paul Bonnet ( Paul Bonet ), le Français du Japon à, le Japon chargé d'une longue expérience dans l' homme d'affaires s'est autoproclamé en tant qu'écrivain . Les œuvres représentatives comprennent "Wonderland Japan". Carrière inconnue. Il s'agit en fait du nom de plume(pseudonym) de Taisuke Fujishima, écrivain et critique, mari de Mary Kitagawa et père de Julie Keiko Fujishima.

Invisible Country Japan-Jan Denman's Tokyo Information Jan Denman [Author]/Onzichtbaar land Japan-Jan Denman's Tokyo-informatie Jan Denman [Auteur]
instructions: "Shukan Shincho" serialization "Tokyo Information" is now in one book! From a keen point of view, slash the common sense of "rich Japan". An unrivaled essay for salaried workers!

instructies: "Shukan Shincho" serialisatie "Tokyo Information" is nu in één boek! Schrap vanuit een scherp oogpunt het gezond verstand van 'rijk Japan'. Een ongeëvenaard essay voor loontrekkende!

斎藤 十一(1914-2000)自称オランダ人記者ヤン・デンマンは、斎藤の変名と考えられているNederlandsオランダ語→Juichi Saito (1914-2000), de zelfbenoemde Nederlandse verslaggever Jan Denman, wordt beschouwd als het pseudoniem van Saito.

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