日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing③

松井石根(華中方面軍)朝香宮鳩彥王(上海派遣軍)柳川平助(第10軍)中岛今朝吾(第16师团)谷寿夫(第6师团)末松茂治(第114師團=中将・福岡県出身・60年まで存命)吉住良輔(第9师团=中将・三重県出身・60年まで存命)山田栴二(步兵第65联队=少将)天谷直次郎(步兵第12聯隊=中将・福井県出身)鷹森孝(步兵第18聯隊=中将・三重県出身・68年まで存命)長谷川清(第三艦隊=海軍大将・福井県出身・A級戦犯容疑者・70年まで存命)百人斬比賽 向井敏明野田毅田中军吉

世界から非難され、東京裁判で裁かれた
戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判と略称)で南京事件が裁かれその最高責任者として松井石根大将が死刑を宣告されたのは、第2次世界大戦において、南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・野蛮性を露呈したものと見なされていたからである。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件が重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアルタイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからである。南京事件に対する世界の非難と抗議の集約が東京裁判であり、その判決であったにもかかわらず、「南京大虐殺は世界で非難されず、抗議もなく、問題にされてなかった」という否定派の人たちは、自分が歴史的な見方ができないことを告白しているようなものである。
連盟総会は日本の中国侵略非難決議を採択
南京大虐殺否定派の田中正明氏は、自民党国会議員の歴史・検討委員会(山中貞明委員長、板垣正事務局長、衆参両議院105名参加)が「各方面の有識者の方々の御意見を拝聴、議員側からの意見、主張等を表明する目的で開催した検討会」(山中委員長の言葉)に招かれ、『「南京大虐殺」の虚構』と題して講演を行なった。氏は自著『南京事件の総轄』(謙光社、1987年)の「第6章虐殺否定15の論拠」の「(第11の論拠)国際連盟も議題にせず」(第12の論拠)米・英・仏等から抗議もなし」(第13の論拠)米・英のマスコミ殆んど取り上げず」に基づいて否定論を展開したが、その中でこう述べた。

「当時、国際連盟というのがありました。国際連盟は殆んど全員をあげて反日援蒋で、中国の味方でした。a昭和12年8月、国連第8回総会の時シナは北支事変を提訴し、「日本に抗議する対日宣言文」まで採択されました。さらにb翌13年1月には、英・仏・ソ・中の4カ国による「支那事変問題の小委員会」をつくりまして、日本が広東・南京で軍事施設でないところに爆弾を落した、けしからんと言って抗議までしているんですが、しかし、一行も南京虐殺などということは書いていない」(歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社、1995年、265頁、傍線は引用者)。

Résumé de la Grande Guerre d'Asie de l'Est auteur Histoire / Comité de révision (éd.)
Considérant les principales questions sous le thème de base de la façon de résumer la guerre de la Grande Asie de l'Est. Tout au long du processus menant à la guerre de la Grande Asie de l'Est, à l'occupation et à la vérification du tribunal de Tokyo, nous avons approché la vérité et l'histoire correcte des Japonais eux-mêmes...


右の話は基本的事実に多くの誤りがある。先ず、傍線 aに 関する事実を記す。国際連盟(現在の国際連合を国連と略称するのと区別して普通は連盟と略す)は1937(昭和12)年9月13日から第18回総会を開催、中国政府はその前日に日本の中国侵略を連盟に提訴した。この時点で日本当局は「北支事変」ではなく「支那事変」と改称しているから「北支事変」というのは不正確。連盟総会は9月28日「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を全会一致で可決、日本海軍機による上海、南京、広東など無防備都市への爆撃を厳しく非難した。10月6日、連盟総会は日本の軍事行動が9カ国条約(注1)と不戦条約(注2)に違反しているという判定を行い、連盟は中国を道義的に支援することを採択した。そして同年11月3日から24日までブリュッセルで開催された9カ国条約会議では、日本の中国侵略を国際法違反であるとして非難、警告する宣言を採択した」(詳しくは拙著『日中全面戦争と海軍ーパナイ号事件の真相』青木書店、1997年、を参照のこと)。

抗日战争与海军-Panay事件真相 (日语)书– 1997年8月1日 笠原 十九司  (作者)The Sino-Japanese War and the Navy-The Truth of the Panay Incident (Japanese) Book – 1 Aug 1997 Tokushi Kasahara (Author)Sino-Japana Milito kaj la Mararmeo-La vero de la incidento Panay (japana) Libro - 1 aŭgusto 1997 Tokushi Kasahara (Aŭtoro)
このように、連盟総会で圧倒的に非難されながらも、国際道義的な孤立に動ずることなく、中国侵略を拡大し、南京攻略戦を強行していった日本のようなひどい国は、現在の国では譬えることができない。南京事件という1つの不法事件よりももっと根本的な日本の中国侵略戦争そのものが連盟総会で厳しく非難、抗議されているのを問題にすることもなく、非難決議に南京虐殺の1行がないと得意然としていう、田中氏ら南京大虐殺否定派の国際感覚のお粗末さには、愕然とする。世界は日本軍が南京を攻撃しようとしていることを抗議、非難したのである。日本がブリュッセル会議の非難と警告を受け入れて南京に侵攻しなければ、南京事件は起りようがなかった。
棒線 b の広東・南京爆撃への抗議の件は、1937年9月から10月に開かれた第18回連盟総会の時、日中紛争諮問委員会が組織された時の話である。田中氏はこれを南京事件後の話に作り変えて虐殺否定の根拠にしているのである。田中正明編『松井石根大将の陣中日誌』(芙蓉書房、1985年)で、重要な部分を勝手に改竄(かいざん)して、南京大虐殺否定の根拠につかい、『”南京虐殺”の虚構ー松井大将の日記をめぐって』(日本教文社、1984年)を書いた田中氏は、欧米諸国の言論・出版界ならば、あるまじき卑劣な行為をした作者として、当然放逐されていた人物であるが、日本では、なんと国会議員の研究会に「有識者」として招かれ、講演をしているのである。田中氏のウソ(他にもアメリカの新聞、世界中の新聞に南京大虐殺の記事はないと述べている)をお粗末な自民党国会議員が共感しながら「拝聴」している様を想像すると、喜劇というよりも日本の政治の悲劇を思わざるをえない。

“南京事件”的摘要[小学馆文库] 田中正明 Summary of "Nanjing Incident" [Shogakukan Bunko] Masaaki Tanaka Zusammenfassung des "Nanjing-Vorfalls" [Shogakukan Bunko]Masaaki Tanaka
This year, 70 years after the capture of Nanjing, many films were made to tell the story of the "genocide" that killed Japan, and anti-Japanese storms hit Japan. This book is an easy-to-read reconstruction of the book published 20 years ago by the author of the famous book Judge Pal's Japanese acquittion. Author of Matsui Iwane's secretary, who has been in the Asian liberation movement, is meeting Chiang Kai-shek and also to Nanjing at the time. A masterpiece whose author showed "the clear grounds for denial of slaughter" and revealed the actual situation of the Nanjing battle and the lie of the "Nanjing incident". 

①Matsui Iwane的Jinchu Nikki(日文)书– 1985年5月1日 松井石根(作者) 田中正明 (主编 )Matsui Iwane- ի Jinchu Nikki (ճապոնական) գիրք - 1 մայիսի 1985 թ Iwane Matsui (Հեղինակ), Masaaki Tanaka (խմբ. )  Matsui Iwane's Jinchu Nikki (japonų kalba) knyga - 1985 m. Gegužės 1 d Iwane Matsui (Autorius), Masaaki Tanaka (red. )Il n'y a pas eu de "génocide" dans le massacre de Nanjing. L'auteur, qui est une figure de proue de la "faction Maboroshi", cite une quinzaine d'arguments pour nier le massacre et aborde empiriquement et logiquement. Kenkosha réédité en 1987②January 1, 1984南京虐殺の虚構―松井大将の日記をめぐってThe fictional Nanjing massacre-a book about General Matsui's diary 田中 正明 (著)Masaaki Tanaka (Author)③松井石根的日记成书《战中日记》(松井石根大将の陣中日記),但因大量篡改粉饰或删除日记内容達三百多處而 Document Tampering Controversy=A Japanese World War II veteran, Tanaka served as General Iwane Matsui's secretary at the time of Nanking Massacre in 1937.[2] He was involved in a controversy in 1986 when he was found to have altered a key historical document, Matsui Iwane Taishō no jinchū nikki (松井石根大将の陣中日記, "General Matsui Iwane's Battlefield Diary"), in several hundred places (何百箇所も改竄していた)when serving as the editor for its publication in 1985.[3] He suffered academic ostracism(田中「先生」は学問研究からの追放、村八分、つまはじきをこうむった) after the controversy but remained an active author for the non-academic market.(しかし、非学問研究市場においては活動(積極)的な著者として留まった)
【追加参照】①改竄(かいざん、英: falsification, faking, alteration)は、文書、記録等の全部又は一部が、本来なされるべきでない時期に、本来なされるべきでない形式や内容などに変更されること、すること、をいう。故意の場合も過失の場合もともに含み、悪意の有無を問わないLa falsification ( falsification, trucage , altération ) signifie que tout ou partie d'un document, enregistrement, etc. est modifié dans un format ou un contenu qui ne devrait pas être fait à un moment où cela ne devrait pas être fait., Dites. Peu importe qu'il soit malveillant ou non, y compris les cas intentionnels et négligents②Nowa deklaracja gomanizmu SPECJALNA teoria wojny ” (Shingomanism Sengen Special Sensoron) to japońska manga autorstwa Yoshinori Kobayashi (小林よしのり). 「(中略)見たらしいが・・・便衣となった支那兵は同じ支那人から略奪し暴行し殺傷して阿鼻叫喚の地獄となったのだ」(P131-P132)これは、田中正明Masaaki Tanaka氏「南京事件の総括Résumé du massacre de Nanjing」(謙光社版)P112からの孫引であると思われます(ゆう様のページから)。
*国際連盟(こくさいれんめい、旧字体:國際聯盟、 英語: League of Nations, フランス語: Société des Nations, スペイン語: Sociedad de Naciones、略称:LN,LoN/SDN,SdN)は、第一次世界大戦後の1919年の協商国と、ドイツとのヴェルサイユ条約、および中央同盟国との諸講和条約により規定され、ヴェルサイユ条約の発効日である1920年1月10日に正式に発足した国際機関である。
Idoイド語→Ligo di Nacioni (Angle: League of Nations – LN; France: Société des nations – SDN) esis interstata, mondal organizuro kreita kom rezulto di la Konfero pri paco en Paris, 1919, qua deklaris la fino di l'unesma mondomilito. Un de lua precipua skopi esis impedar nova militi e solvar la konflikti inter la nacioni per arbitrajo. De la 28ma di septembro 1934 til la 23ma di februaro 1935 lu havis sua maxima nombro di membri: 58 nacioni.
*九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。
Portuguêsポルトガル語⇒O Tratado das Nove Potências (em japonês:九 カ国 条約, Kyūkakoku Jōyaku) ou Acordo das Nove Potências (em chinês: 九 国 公约) foi um tratado afirmando a soberania e a integridade territorial da China, de acordo com a Política de portas abertas, assinada por todos os participantes da Conferência Naval de Washington em 6 de fevereiro de 1922.

李秀英(1919年2月24日-2004年12月4日),山东郓城人,南京大屠杀幸存者。「李秀英さん、名誉毀損裁判」勝利判決=『「南京虐殺」への大疑問』(1998年展転社刊・松村俊夫著)

当時の国際連盟で南京大虐殺の非難決議がなかったから、虐殺はなかったという説は、東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社、1998年)でも繰り返され、同氏は、1938年5月27日の国際連盟の諮問委員会の決議文のどこにも「南京虐殺」は出てこない。「南京陥落から3ヶ月にわたって喧伝された「南京虐殺」が国連に提訴されたという痕跡すらない。これは戦時国際法の処刑(即ち南京虐殺)が事実無根であったことを意味するのである」とまで断言する(同書、342頁)。(それにしても日本軍の南京攻撃そのものが国際的・国際法に違反すると連盟総会で非難されているのに、戦時国際法違反はなかったと居直る東中野氏の厚顔無恥ぶりはいかがなものであろう。)
*1998/8/1「南京虐殺」の徹底検証 | 東中野 修道Thorough verification book of "Nanjing slaughter" Shudo Higashinakano⇔2007年11月2日東京地裁、三代川三千代裁判長の地裁判決文⇒「通常の研究者であれば(中略)以上述べた2点だけからしても被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」District Court Decision of Ms. Michiyo Miyokawa, " If he is an ordinary researcher ..." "From the above two points only However, it cannot be said that the interpretation of the defendant Higashinakano's original material is approximately valid, and it is not an exaggeration to say that it is not worth the results of academic research. "  la décision du tribunal de district de M. Michiyo Miyokawa, "S'il est un chercheur ordinaire ..." "Des deux points ci-dessus uniquement Cependant, on ne peut pas dire que l'interprétation du matériel original de l'accusé Higashinakano est approximativement valide, et il n'est pas exagéré de dire qu'il ne vaut pas les résultats de la recherche universitaire."(「通常の研究者」でもなければ「学問研究」でもない?)
【追加参照】①漫画家小林よしのりからは「最新の研究として一番信用できる」と評されているEs wird vom Manga-Künstler Yoshinori Kobayashi als "das zuverlässigste wie die neueste Forschung" beschrieben②産経新聞論説委員の石川水穂からは「南京虐殺における優れた研究者の1人」と評されているMizuho Ishikawa , ein Leitartikelschreiber des Sankei Shimbun , beschreibt ihn als „einen der besten Forscher des Massakers von Nanjing“③河村たかしは衆議院議員時代、東中野の研究結果を元に、政府が東中野の研究を把握して歴史の再検証作業を行っているか否か、南京大虐殺紀念館に東中野が疑問視する写真が展示されているが中国へどのように対応するのか等の質問主意書を内閣に提出したTakashi Kawamura stellte in der Nanjing Massacre Memorial Hall ein Foto aus , das in Frage stellte , ob die Regierung Forschungen über Higashinakano durchführte und die Geschichte auf der Grundlage der Forschungsergebnisse von Higashinakano überprüfte, als er Mitglied des Repräsentantenhauses war Absichtserklärungen an das Kabinett , wie zum Beispiel der Umgang mit China.

夏淑琴Xia Shukkin (1929年5月5日-),南京人,南京大屠杀幸存者=The Tokyo District Court's trial was decided on November 2, 2007, and Higashinakano was defeated ... A ruling was issued ordering the company to compensate a total of 4 million yen.  The Higashinakano side appealed, but on February 5, 2009, the Supreme Court decided to dismiss the appeal from Higashinakano and the exhibition transfer company, and as the first instance decision, a trial was finalized to order compensation of 4 million yen in total. .. This reparation was paid on April 16, 2009東京地裁の裁判は2007年11月2日判決が出て、東中野の敗訴となった・・・東中野と展転社に対し合計400万円の賠償を命じる判決が下った。東中野側は上告したが、2009年2月5日、最高裁は東中野と展転社からの上告棄却を決定、一審判決通り、両者に対し、合計400万円の賠償を命令する裁判が確定した。2009年4月16日にこの賠償金は支払われたLe procès du tribunal de district de Tokyo a été décidé le 2 novembre 2007 et Higashinakano a été vaincu ... Une décision a été rendue ordonnant à l'entreprise d'indemniser un total de 4 millions yen  La partie Higashinakano a fait appel, mais le 5 février 2009, la Cour suprême a décidé de rejeter l'appel de Higashinakano et de la société de transfert d'exposition, et en tant que décision de première instance, un procès a été finalisé pour ordonner une indemnisation de 4 millions de yens au total. . . Cette indemnité a été versée le 16 avril 2009.


田中、東中野両氏とも歴史事件はすべて当時の背景を踏まえて考察すべきであるという歴史学の常識を知らない人たちである。1938年前半の国際連盟がどんな歴史状況にあったか、ここで詳述する紙数がないが、1937年11月、イタリアが日独防共協定に参加したのにつづいて、翌月に連盟脱退、38年1月フランス人民戦線内閣は末期的危機を迎え、3月ナチスドイツのオーストリア併合等々、まさに欧州大戦が今にも勃発しそうな危機情勢に直面していたのである。そうした中国にとっては不利な国際情勢の中で、中国代表の顧維鈞は、中国が日本に全面占領され、国民政府が消滅させられる可能性のある危機的状況において、列強からの中国援助と対日経済制裁をいかに引き出すかという、国連をかけた大きな問題に忙殺されていたのである。顧維鈞にとっては南京事件よりも中国滅亡の危機を阻止することの方が最重要関心事であった。さらに日本の中国侵略行為そのものが連盟総会とブリュッセル会議ですでに非難決議されている事実を忘れるべきではない。このような歴史背景の大状況も考えずに、「南京事件が連盟に提訴されなかったから南京大虐殺はなかった」と平気で断定する両氏は、歴史学的思考のできない人たちである。
第二次世界大戦の歴史展開にそえば、日・独・伊の枢軸国に対抗して連合国 United Nationsが結成され、その連合国が東京裁判で南京事件を提訴して裁いたのであり、連合国が枢軸側に勝利した1945年に、戦前の連盟を継承・発展させるかたちで国際連合United Nationsになったという歴史の流れ、さらに1951年9月の連合国とのサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判の判決を受け入れ(第11条)、独立と戦後国際社会への復帰を果たしたという歴史事実を忘れるべきではない。
*《對日和平條約》,簡稱《對日和約》,通稱舊金山和平條約或舊金山和約,是第二次世界大戰的大部份同盟國成員與日本簽訂的和平条约,1951年9月8日由包括日本在内的49個國家的代表[a]在美國舊金山的戰爭紀念歌劇院簽訂[b],並於1952年4月28日[c]正式生效。起草人為日後擔任美國國務卿的约翰·福斯特·杜勒斯,正文以英語書寫,另有法語、西班牙語、日語等3種語言之正式譯本。

南京駐在の外交官は南京事件の報告を本国に送っていた
アメリカの国立公文書館の国務省文書の中には、当時の南京大使館から送信されてきた南京事件に関する膨大な資料が保存されている。その主要なものは『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』(前出)に翻訳、収録してある。その1つに、南京アメリカ大使館の外交官がまとめたエスピー報告『南京の状況』(1938年2月2日郵送)がある。同報告書には、日本軍の残虐、掠奪、暴行を記録した南京安全区国際委員会の記録も添付されており、南京事件に関するまとまった報告書である。アメリカが主導した東京裁判で南京事件が裁かれたのはこのようなアメリカ国務省記録による裏付けがあったからである。
当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルー(ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使。Joseph Clark Grew (May 27, 1880 – May 25, 1965) was an American career diplomat and Foreign Service officer. He is best known as the ambassador to Japan between 1932-1941, and as a high official in the State Department in Washington between 1944-1945, where he opposed hardliners, sought to avoid war, and sought a soft Japanese surrender in 1945 that enabled a peaceful American occupation of Japan after the war)は、1938年2月10日の日記に、「南京に侵入した日本軍の言語に絶した残忍と、彼らの放恣な米国諸権利の侵害が伝わって来た」「中国人は大体無差別に殺され、多数の中国婦人が凌辱された」「大量死刑や殺人や女子凌辱」が行なわれた、と記している(ジョセフ・C・グルー『滞日十年』上巻、321頁、毎日新聞社、1948年)。グルーは、南京の大使館員ジョン・M・アリソン(ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日アメリカ合衆国大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。约翰·摩尔·阿利森(英語:John Moore Allison;1905年4月7日-1978年10月28日),美国外交官、曾任远东事务助理国务卿、駐日本大使、驻印度尼西亚大使、驻斯洛伐克大使。1938年曾在中国南京见证南京大屠杀,并和日軍发生摩擦)が日本兵の婦女凌辱の現地調査に出掛けて日本軍将校に殴打された事件や、南京のアメリカ人財産の掠奪・破壊については、日本政府に強く抗議している(グルー大使―ハーバート大学ホートン図書館所蔵)。これだけ事実を紹介しても「グルー大使は南京大虐殺全体について日本政府に抗議していないではないか」という頑迷な否定派が必ずいるので、日本政府と外交関係を険悪化させてまで南京事件そのものに全体的に抗議をするのは、グルーの職権を逸脱しており、まずはありえなかったことを、蛇足ながら指摘しておく。
*アリソン殴打事件=日本軍が南京を占領したとき、日本軍の下士官がアリソンを殴打するというアリソン殴打事件(1938年1月26日)が起きた。アリソンの記録では、まず(1)武装した日本兵たちが安全区の金陵大学農学院作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所は、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンともうひとりアメリカ人がその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちもその家に入ろうとしたら、日本兵に押し戻されて侮辱され、殴打された、(5)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった[3]。
Allison incident=On January 26, 1938, during the period of the Nanking Massacre, John M. Allison, at the time consul at the American embassy in Nanjing, was struck in the face by a Japanese soldier.[2][3] This incident is commonly known as the Allison incident. Japanese Consul-General Katsuo Okazaki "apologized formally on January 30[4] (after the Americans demanded they do so). This incident, together with the looting of American property in Nanking that took place at the same time, further strained relations between Japan and the United States, which had already been damaged by the Panay incident less than two months earlier."[5]


南京事件に関するまとまった記録を本国に送信していたもう1つの国はドイツである。ドイツ大使館南京分館のローゼン書記官は、日本軍の南京における残虐行為を詳細に記録した報告書をまとめ、1938年2月10日付けでドイツ外務省に送っている。そのさい、アメリカ人牧師マギーが密かに撮影したフィルムを「身の毛もよだつようなドキュメントであり、総統にもぜひ映画を解説翻訳文とともにごらんになっていただきた」と送付した(報告書の概要は、本多勝一「ナチ・ドイツをも驚愕せしめた南京大暴虐事件」本多勝一集21))朝日新聞社、1997年、に紹介されている)。ローゼン書記官は膨大な南京事件の報告を本国に送付しており、両文書はドイツ連邦共和国文書館(ベルリン)に在華ドイツ大使館文書館として保管されいる。

ナチ・ドイツをも驚愕せしめた南京大暴虐事件Nanjing violence incident was allowed to startle even the Nazi Germany 本多勝一(Katsuichi Honda)

外国人が見た南京大虐殺 「ローゼン報告」が日本軍の暴行を暴露=5年目となる南京大虐殺犠牲者国家追悼日が過ぎたばかりだが、外国人が目にした南京大虐殺が再び注目されている。『ラーベ日記』により知られるジョン・ラーベの他に、多くの人には知られていない英雄がいる。彼はラーベに協力し南京を占領した日本軍に働きかけた。彼の「ローゼン報告」は世界に日本軍の暴行を暴露した。彼とは、ジョージ・ローゼン政務書記官(ドイツ大使館南京駐在)のことだ。
Deutschドイツ語→Das von Ausländern gesehene Massaker von Nanjing "Rosen Report" enthüllt japanische Angriffe=Nanjing Massacre Rosen Bericht GeschichteDer fünfte Jahrestag des Gedenktages der Opfer des Massakers in Nanjing ist gerade vorbei, aber das von Ausländern gesehene Massaker in Nanjing gewinnt wieder an Aufmerksamkeit. Neben John Rave, bekannt aus The Rave Diary, gibt es Helden, die vielen unbekannt sind. Er arbeitete mit Rabe zusammen und arbeitete an der japanischen Armee, die Nanjing besetzte. Sein "Rosen Report" enthüllte japanische Angriffe auf die Welt. Er ist Staatssekretär von George Rosen, einer deutschen Botschaft in Nanjing.

南京安全区国際委員会委員長として、日本軍占領下の南京に踏みとどまり、生命の危険を顧みずに、市民と難民、とりわけ女性を日本軍の暴虐から守るために獅子奮迅の活躍をしたドイツ人ジョン・ラーべ(约翰·拉贝(John Rabe;1882年11月23日-1950年1月5日)是生於汉堡市的德国商人,以其在1937年末至1938年初的南京大屠杀期间的人道主义行为和作为南京大屠杀翔实证据的《拉贝日记》而著名Esperantoエスペラント語→John H.D. Rabe (nask. 23-an de novembro 1882 en Hamburg; mortis 5-an de januaro 1950) estis germana komercisto, kiu estis nomata pro siaj humanitaraj helpoj dum la ĉina-japana milito ankaŭ kiel „Oskar Schindler de Ĉinio“ kaj la germana Buddho (fare de la ĉinoj))は、1938年2月末、ジーメンス本社の帰国命令で南京を離れ、4月にベルリンに到着した。ナチス党員であったラーベは、南京で目撃した南京事件の真相を、ヒトラーをはじめドイツ政府の指導者に知らせ、日独の緊密化しつつある関係を利用して、日本軍の不法、残虐行為を阻止する方法を模索した。そして最後はヒトラー宛に『南京事件・ラーべ報告書』(翻訳は片岡哲史訳で『季刊 戦争責任研究史』第16号に所収)を提出したのである。そのためラーべはヒトラーが同盟関係を推進しようとしていた日本軍の残虐行為を書いたかどでゲシュタポ(国家秘密警察)に逮捕、尋問されたが、南京事件について言論活動をしないことを条件に釈放された(詳細は、拙稿「発見された南京虐殺の証言―ヒトラーにあてたナチス党員ジョン・ラーべの報告と日記」(『世界』1997年9月号)。
ラーべは、敗戦後にナチス党員であったことが問われて審査にかけられ、不遇な生涯を終えるが、彼が人生を賭けた記録が『ラーべ日記』(エルヴィン・ヴィッケルト編・平野卿子訳『南京の真実』講談社、1997年)だった。
日本語訳の『南京の真実』が、日記原資料そのままではなくエルヴィン・ヴィッケルトの編集による上、訳出に省略をしたり厳密さを欠いたこともあって、詳細に原資料と照合すると記述の矛盾、齟齬がある。そこを針小大に取り上げて、ラーベが日記を書き替えて南京事件を捏造した反日陰謀家であるかのごとく主張してはばからないのが東中野修道氏で、それを受け売りして、「『南京の真実』は真実ではない」(『新ゴーマニズム宣言・第5集』小学館、1998年)を書いたのが小林よしのり氏である。ラーべの命と生涯をかけた人道的行為に対して、悪意をもって誹謗中傷するだけしかできない彼らの貧困な精神ぶりは、彼ら自身が人道主義や正義心、良心に基づいて行動する人間とは無縁な人々であることの証明であるといえよう。

Françaisフランス語→Nanjing Truth Rabe, John [Auteur] / Wickert, Erwin [Modifier] / Siroko Hiranoinstructions=Appelé "Nindjing Schindler", un Allemand qui a lutté pour sauver les Chinois. Son journal, qui décrit tout le cas de Nanjing, est maintenant descellé. Que diable a-t-il vu dans la tempête de violence? Un témoignage historique définitif bouleverse la «controverse de Nanjing» jusqu'à présent.

年鑑を「一等史料」という荒唐無稽な否定論
溪内謙『現代史を学ぶ』(岩波新書、1995年)は歴史学でいう 第一次史料について、こう説明している。
「歴史家は、「第一次史料」とよばれる史料がとくに基本的な史料である。「第一次史料」に基づかない歴史記述は信頼できない、とよくいいます。第一次史料とは、現史料あるいは根本史料といわれることからも分るのですが、歴史家によって加工される以前の原材料、引用される以前の「もとにある」史料のことであり、大体において歴史的出来事と同時代に作成された記録です(156頁)。
*溪内 謙(たにうち ゆずる、1923年9月2日 - 2004年2月13日)は、日本の歴史学者、政治学者。専門はロシア/ソ連政治史。東京大学名誉教授Pусский ロシア語→Кен Куниучи 溪内 謙(Юзуру Таниучи , 2 сентября 1923 г. - 13 февраля 2004 г. ) - японский историк и политолог . Специализируется на русской / советской политической истории . Заслуженный профессор Токийского университета)
本稿でもその一端を紹介してきたように、日本軍の占領下の南京にいて、南京事件を目撃したり、見聞した外国人ジャーナリスト、宣教師、外交官たちの記録文書こそ歴史学でいう「第一次史料」なのである。私はアメリカでそれらの史料を収集して前掲資料集にまとめ、それらを日本軍側史料、中国側史料と照合させながら厳密な資料批判を加えて、『南京難民区の百日』(前出)や『南京事件』(岩波新書、1997年)の歴史書を叙述した。
東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』の「第14章『南京虐殺」追跡調査』では、こうした歴史学研究の基本には無知なのか、英字年鑑『チャイニーズ・イヤーブック』を公式記録にもとづく「歴史学でいう一等史料」と独断的に決めつける。そして英字新聞や雑誌に記録されていた南京虐殺や虐殺数の記載が年鑑の記述の段階になって削除されていることが、「公式記録において南京虐殺は否定された」こと、つまり歴史事実としてなかったことを意味すると結論する。たとえば、東中野氏は、『チャイナ・イヤーブック』(中国語名は『中国年鑑』の版元の新聞社が発行する『ノースチャイナ・デイリーニューズ』の138年1月22日付けに1万人南京虐殺の記事が掲載されていたのに、1938年2月2日付け序文にある『中国年鑑』1938年版に、「1937年12月13日、日本軍南京占領」とあるだけで虐殺の記述がないから、前者は後者によって否定されたと断言する(335頁)。さらに同年鑑の「過去の主な出来事」に南京大虐殺の記述がないから「『南京虐殺』はなかったのである」とまで断言する(336頁)。

Learn modern history (Iwanami Shinsho New Red Edition) Author Yuzuru Taniuchi (Author)Lernu modernan historion (Iwanami Shinsho, Nova Ruĝa Eldono)

主張=東中野は自身の「南京大虐殺」における研究スタンスについて、著書のなかで「宇宙人がいないことを証明することと同じで、南京大虐殺を“なかった”と証明することは大変に難しく、“あった”とする証拠や証言に一定の不明瞭さも不合理さもないと確認されない限り、宇宙人も南京大虐殺も“ある”と言うことはできず、自身の研究スタイルはまさにそれ(世に出ている証拠や証言に不明瞭さや不合理さがないかの確認)だ」としている。南京事件の証拠とされている資料は全て四等史料と五等史料とで成り立っており、虐殺を裏付ける資料は存在しない。よって、南京で虐殺があったということはできないと主張している。ラーベの日記は三等史料であるので、虐殺を裏付ける史料とは言えないと主張している。Españolスペイン語→  Reclamación=Higashinakano describió su postura de investigación en la "Masacre de Nanjing" en su libro como "demostrando que no hay extraterrestres, y es muy difícil demostrar que no hubo Masacre de Nanjing". A menos que se confirme que no hay cierta ambigüedad o irracionalidad en la evidencia y el testimonio de que "hubo", ni un extraterrestre ni la Masacre de Nanjing pueden decir que están "allí", y mi estilo de investigación es exactamente eso. Que no hay ambigüedad o absurdo en la evidencia y el testimonio que se da) ”.Todos los materiales que se dice que son evidencia del Incidente de Nanjing consisten en materiales históricos de cuarta clase y materiales históricos de quinta clase, y no hay material para apoyar la masacre. Por lo tanto, no se puede decir que hubo una masacre en Nanjing Argumenta que el diario de Rabe es un documento histórico de tercera clase, por lo que no se puede decir que sea un documento que respalde la masacre 
【追加参照】"Nueva Declaración de Gomanismo ESPECIAL Teoría de la Guerra "(Shingomanism Sengen Special Sensoron) es un trabajo de manga japonés deYoshinori Kobayashi(小林よしのり)「新聞にまで載ったこの事件 当然安全区委員会のジョン・ラーベらの耳にも入ったはずなのに・・・不思議なことに安全区委員会の報告書にもラーベの日記にもこの事件の記述がない」(P137)ネタ元は明らかに、東中野修道Shudo Higashinakano氏「南京虐殺の徹底検証Vérification approfondi du "massacre de Nanjing"」です(ゆう様のページから)。

Dec. 15, 2007 — Mizushima's film is based on the work of Shudo Higashinakano, a professor at Asia University(水島総の映画(『南京の真実』第1部「七人の死刑囚」2007年)は東中野修道亜細亜大学教授の著作に基づいている)

南京事件(岩波新书) (日语)新书– 1997/11/20 笠原十九司 (作者)Nederlandsオランダ語⇒Nanjing Incident (Iwanami Shinsho) (Japans) Shinsho - 20 november 1997 Tokushi Kasahara (Auteur)




1937年12月16日の南京、左から①長谷川清Kiyoshi Hasegawa海軍中将②松井石根Iwane Matsui大将③朝香宮鳩彦王Prince Yasuhiko Asaka中将④柳川平助Heisuke Yanagawa中将

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