日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Route vers la démocratisation de la Corée/Road to Democratization of Korea/한국 민주화의 길/韓国民主化への道・Di-Myonkuwan지명관池 明観③


韓国では日韓会談に対する国民的な抵抗が大きく盛り上がった。それは朴正熙政権下で日韓会談が始まった1963年以来くすぶっていたものであったが、65年4月3日、日韓条約仮調印を前後して戦いはピークを迎え、全国が騒然とした。朴正熙政権は武力的弾圧を加え、大学や高校を強制的に休校させ、学生たちを逮捕、投獄し、大学から追放したりした。そのころの新聞の見出しを拾ってみただけでもそのすさまじさをかいまみることができるであろう。
「野党、即時無効を主張、建国後最大の院内外闘争展開 明」「京畿高校生デモ、約千名警察阻止で校庭で連座」「東国大生金仲培君死亡、警官に打たれ踏みつけられて」「4・17事態、暴動と見なす」「繰り返される大学街の休校令、校門を開け」「野・民衆党声討大会、犠牲覚悟で最後まで闘争」「批准同意案不意打ち発譲、与党壇上バリケード、昨夜本会議最大の集団乱闘で修羅場」「民衆党籠城・壇上占拠、連日院内戦略樹立奔走」・・・

数え切れないほど反対声明が出され、ソウルの町は連日のごとくくり出すデモ隊と催涙ガスに包まれた。ここでは357名が署名したソウルの大学教授団宣言文(65年7月12日)の冒頭の一部をあげておきたい。
大韓民国の主権者は厳然と国民である。国民は政府の政策をいつでも自由に批判する権利を持つ。にもかかわらず政府は国民の沸きたぎる世論を、催涙弾と警察棒による暴圧と仮飾に満ちた宣伝で封鎖する一方、日本に対しては理解できないほど焦り伏して、乞うように屈辱的な協定に調印してしまった。
このような宣言文の作成にも危険がともなうために、批判的な人びとは隠れて活動しなければならなかった。内村鑑三の下に学び、韓国のガンジーといわれた咸錫憲(1901-1989年)は無期限断食に入りながら「同胞に捧げます」(1965年7月1日~2日)という一文を新聞に寄せた。「いかなる時よりも今は国家の危機」であるがために「最後の一人まで、最後の一刻まで戦わなければならない」。「民族は民族自身が救うもの」であり、「生き残って奴隷となるよりは人間らしく死ぬのが栄光」。これほど戦いのトーンが高まっていた。
*우치무라 간조(일본어: 内村鑑三, 1861년 3월 26일 - 1930년 3월 28일)는 일본의 개신교 사상가이다. 서구적인 기독교가 아닌, 일본인들에게 말씀하시는 하나님의 가르침 즉, 일본적인 기독교를 찾고자 한 사상가로 평가받는다.
*Ham Seok-heon(함석헌咸錫憲, né le 13 mars 1901 dans le village de Yongchon, dans l'actuelle Corée du Nord, et mort le 4 février 1989 à Séoul, est un penseur religieux, un historien et un journaliste indépendant coréen.
8月14日国会議員辞退書を提出した。それが受けいれられないと、そのうちの6名は脱党することで議員職を失う道を選んだ。8月26日にはソウル地区一円に衛戍令が発動され、治安が軍人の手によって握られることになった。この衛戍令は1ヶ月で解除されたが、それは癒されえない傷跡を残し、その痛みは長いこと疼き続けることになった。



いま思う日韓条約
日韓条約の反対運動が大々的に展開されたのは、日本の朝鮮植民地経営の歴史からすれば、やむをえぬことであったといえる。しかしこの条約締結以前から、黒い日韓癒着が大きく新聞を賑わしていたのだから、国民のあいだにはこの条約は再び日本の支配、今度は経済的侵略を招くものだと警戒心が強かった。
日韓会談中における日本の姿勢は、決して新しい日韓関係とか東アジアの平和を展望するというものではなかった。謝罪どころかいかにすれば会談を日本に有利に導くことができるかと、ただそろばんをはじき、駆け引きをする姿勢であった。差別的な態度がしばしばあらわになり、韓国国民の憤激を買った。今にして思えばそれは実に愚かなことであった。今日におけるような日韓関係、アジアの新しい時代などまったく展望できなかった。
理想的なことといえば、日本側は東アジアの新時代に向けて、未解決の問題に一つ一つ政治に取り組む積極的な姿勢を持つべきであった。韓国側も抑圧的な、国民が猜疑の目でながめるような政治権力ではなく、たとえば日本の支配に抵抗した民族的正統性を持っている勢力が、新しい時代のために、耐えることは耐えながら、新日韓関係を打ち立てようと、堂々と国民に訴えることができたなら、事態は違っていたであろう。韓国国民の目には、日韓条約締結の過程は密室における取り引きであった。これは今後への教訓として日韓条約が残した課題であるといってよい。

日韓条約はまた、背後にあったアメリカの圧力によって、それこそ非自主的に結ばれたものであった。朴正熙政権はその延命策として、日本は経済的利益のために、多くの矛盾をはらんでいても、条約を取りまとめた。そして多くのことを積み残したために、いまでもいくたの問題がくすぶり続けている。
この条約は冷戦体制下において強要されたものとして、いつか公平な立場から再検討されねばならないであろう。特に朝鮮半島が統一される日には。
それにもかかわらず、その後の日韓関係と交流、そして韓国の経済発展のことを考えると、このとき日韓のあいだで国交を正常化したことは、肯定的に評価されねばなるまい。日韓関係を正常化して、国交を持つことは早ければ早いほどよかったに違いない。ただそれがもっと理想的な形でなされていれば、今日の日韓関係、東アジアの状況にとってはるかにいい結果をもたらしていただろうと思うのである。
何よりも1965年の日韓条約は、韓国の経済発展に大きなはずみをつけたことは事実である。経済統計の面から見ても、この条約による対日請求権資金は、1966年から75年に至るあいだ、韓国の経済運営においてかなりの比重を占めた。固定資本形成に対するその寄与度という面から見ると、製造業3・9パーセント、建設業3・8パーセント、農林水産業3・7パーセント、電気水道は21パーセント、運輸通信は1パーセントであった。
このような統計よりもさらに重要なことは、韓国はそれから経済のすべての面において日本から学びながら、日本をキャッチ・アップしようという道を歩むようになったことであろう。このような意味においては、この条約の結果は、それを推進した人びと、それに反対した人びとの予想を超えたものであった。政治的なスローガンとしてよくいわれているが、日韓のあいだに「競争的同伴者」という関係が、育つようになったのである。
三選改憲
1966年の韓国の人口は2919万4379名であった。その年に第二次経済開発五ヵ年計画が発表され、経済成長率はこの期間中平均9・7パーセントを記録した。しかし政治は、いっそう強権的な傾向を強めた。
67年の5月の大統領選挙で朴正熙はまた大統領の座についた。しかしそれも行政選挙、不正選挙であった。全国的に学生たちの不正選挙糾弾デモが起こり、多くの大学と高校が休校になった。こんな時には中央情報部はスパイ事件のようなものを発表して、いわゆるショック療法で大衆を操作し、時局を乗り切ろうとした。
この年の7月8日「東ベルリンを拠点にした北韓(北朝鮮)対南工作団事件」というものが発表された。それには国内外の知識人学生315名が関連しているといって、西ドイツやフランスに在留している韓国人を不法連行してきた。そのなかには西ドイツで活動していた音楽家尹伊桑、フランスで活動していた画家李応魯なども含まれていた。彼らは無期懲役を宣告されたが、外交問題となったためにやがて釈放されて西ドイツやフランスに戻った。


*동백림 사건(東伯林[1]事件) 또는 동베를린 사건(東Berlin事件)은 1967년 7월 8일, 중앙정보부에서 발표한 간첩단 사건이다.

*윤이상(尹伊桑, 독문명: Isang Yun, 1917년 9월 17일 ~ 1995년 11월 3일)은 서독과 통일 독일에서 활동한 대한민국 출신의 독일 현대음악 작곡가, 바이올리니스트, 기타리스트, 첼리스트이다.

* 이응노(이응로, 李應魯, Ung-no Lee, 1904년 2월 27일 ~ 1989년 1월 10일)는 대한민국 출신의 프랑스 화가이다. 본관은 전의(全義)이고 호는 고암(顧庵, 顧菴)·죽사(竹士, 竹史)이다.

このように中央情報部は国内外において傍若無人であった。事件をデッチ上げては国民を驚愕させたが、たいていの場合は竜頭蛇尾、時には声もなく事件は消えていった。朴正熙は早くから3期目の大統領を目ざして、工作を命じていた。すでに69年の6月から、三選改憲反対の学生デモが起こった。特に日韓条約反対の戦いによって大きく鍛えられた学生勢力は、暴力によって一時的に鎮められることはあっても、ますます強くなる一方であった。朴正熙が暴力的になればなるほど、体制に対する国民の嫌悪感は増していった。
朴政権下において経済開発計画は強力に進められたとはいっても、1960年には1人当りの国民所得が82ドル60セントであったのが、1966年には126ドルに達した程度であった。1973年には373ドルであった。しかも開発によって潤ったのは一部の階層の人びとであって、労働者などはスラム生活を強いられた。隅谷三喜男は『韓国の経済』(岩波新書、1976年)にこのように記した。
「国連統計によっても、70年には(賃金が)日本は韓国の4・5倍となっているが、73年には、その後の春闘による大幅賃上げが続いたため、7・4対1と格差がいっそう開いている。ともあれ、やや甘くみて韓国の賃金水準は、アメリカの15分の1、日本の7分の1弱、台湾よりやや低い水準にある、とみてよいであろう。」
多くの製造業労働者たちは飢餓線上の暮らしをしていた。社会の分権化が問題になり、ネオ・コロニアリズム的な大国支配の下では経済発展は望めないといわれ、従属理論がはやり出した。こういった観点から反日はもちろん反米のナショナリズムが台頭し始め、南北統一のみが民族の生存の道であると、ひそかに考える若い層が増えた。こういった状況のなかで実に衝撃的な事件が起こった。

全泰壹(韓語:전태일,Jeon Tae-il,1948年8月26日-1970年11月13日),生於韓國慶尚北道大邱市(今大邱廣域市),勞工與勞工運動家。在22歲時,在漢城(今首爾特別市)東大門市場自焚,以抗議惡劣的工作環境以及雇主對勞工的壓迫。紀錄片《美麗的青年全泰壹》。
全泰壱焼身自殺事件
この事件は、以後20年余に及ぶ軍部政権との戦いにおいて、数十名が焼身自殺をもって抵抗する先がけとなった。それは労働運動に火をつけただけでなく、学生や知識人の目を労働運動に向かわせ、反軍部政権の戦いにおける知識人・学生・労働者の連帯を生み出すきっかけとなった。その後多くの学生たちは身分を隠して工場に入って体験学習をなし、労働者たちを運動に目ざめさせるといく、いわゆる「意識化」作業を展開した。政治権力側はこのような若い人たちをさがし出して、労働者と学生の連帯運動を妨げるために、あの手この手を動員した。
全泰壱は800余りの零細縫製工場が密集しているソウルの平和市場で裁断工として働いていたが、1970年11月13日、勤労条件改善要求を叫びながら、全身に石油をかぶり、火をつけて焼身自殺した。彼の一生は22年3ヶ月であった。彼は勤労労働者の小冊子を手にして炎の中でつぎのように叫んだ。
勤労基準法を遵守せよ!私たちは機械ではない!日曜日は休日にせよ!労働者たちを酷使するな!
この当時の平和市場縫製工たちの勤労状況はみじめそのものであった。
賃金 裁断工・・・おもに男性(23-50歳)、1200余名、1ヶ月平均給料3万ウォン ミシン工・・・おもに女性(18-23歳)、1万2000余名、1ヶ月平均給料1万5000ウォン した・・・幼い少女(13-17歳)、1万2000余名、1ヶ月平均給料3000ウォン
作業時間 1日の作業時間・・・平均午前8時―夜9時(1日平均13-14時間)1ヶ月の作業時間・・・平均28日(第1、第2日曜日は休日)月平均総作業時間・・・336-372時間(国際勤労基準の2倍に該当)
(韓国キリスト教教会協議会韓国教会産業宣教25周年記念大会編(『1970年労働現場と証言』)
平和市場というのは3階の建物で、1階は店舗、2階と3階は工場であったが、天井の低い、腰をかがめないと立ち居振るまいもままならない屋根裏部屋であった。換気装置などまったくなく、むせびながら働き、昼休みの1時から2時までの休み時間にも日向ぼっこする場所もなかった。1970年の終り頃の都市労働者の月平均5年程度、幼い身で長時間労働に苦しまねばならなかった。これが67年に始まった第二次経済開発五ヵ年計画によって年成長率9・7パーセントを誇った時間における、工場現場の実態であった。
全泰壱の生前の労働運動は、その雇用主はもちろんのこと労働庁を始めとした行政当局も、制度上の上部組織である韓国労働総同盟をも動かすことができなかった。言論も、軍部政権と戦っていた政治勢力すらほとんど耳を傾けなかった。しかし彼の死はあらゆる方面に衝撃を与えた。特に全泰壱が書き残したものによって、彼自身は裁断師と呼ばれ、比較的恵まれていたことがわかった。それにもかかわらず、彼は年少の労働者の悲惨な生活を見かねて自分の生命を捧げたのであった。その人間愛に多くの人びとは感動した。2日後『労総報』はようやく「全泰壱意向志の犠牲を無駄にすることのないように」という文章をつぎのようなことばで始めた。
労・使及び政府はみな責任を感じて解決のために努力しよう。日当100ウォン内外の低賃金にしばられ、幼い身で生地獄のような屋根裏部屋に閉じこもり、1日13時間以上のきつい労働をしている数万名の同僚を救出しようとしてその意を達成できず、正義の十字架を自らおおいからだを燃やし、死でもって故全泰壱同志の最後は、われらにあまりにも大きな衝撃を与えてくれた。
こうして1970年代は韓国の歴史上もっとも熾烈な労働運動の時期となった。71年に起こった労使紛糾事件は165件を数えたが、それはその前年度の165件の10倍を上回るものであった。それはゆくゆくは朴正熙政権を倒し、軍部政権の独裁的支配を終わらせることになる。ほかのいくたの反体制勢力と連帯することによって。


71年の大統領選挙
朴正熙は69年10月17日、大統領三選を認める憲法改正案を国民投票にかけ、いつもの行政的操作を行い、77・1パーセントの投票率で、投票数の3分の2をやや上回る賛成をえたと発表した。そして1971年4月27日、新民党の金大中候補を破って大統領に当選した。

しかしそれは不正選挙の泥にまみれたもので、国民の不満と学生たちのデモが直ちに湧きあがった。そこでその年の5月25日の総選挙では、露骨な不正をややひかえると、与党の共和党が113、野党の新民党が89、その他の2議席と、野党が大きく進出した。そこで政局は与党の独走を許さないもののように見え、朴正熙も今後は与野党の対話によって政局を運営すると宣言せざるをえなかった。
*민주공화당(民主共和黨)은 대한민국의 보수주의, 협동조합주의[8] 정당으로, 1963년 2월 26일 5·16 군사 정변을 주도한 군부 세력이 자유당, 민주당 등 기성 정당 출신 세력, 정구영 등 학계와 시민사회단체 일부를 흡수하여 창당하였다.
反体制的な学生運動は弱まる気配も見せなかった。そこには司法界も司法権独立のために動き、ソウルの南部の広州団地では、3万余の住民が分譲地払い下げの価格に不満を抱き、かなり暴力的な示威行動に出た。その一方で、南北赤十字代表が分断26年ぶりに予備会談のために板門店で出会った。南北に別れた家族の消息をたずねる会談が始まった。しかし朴正熙政権は反体制の動きが鎮まらないと、71年の10月にはソウルを中心に衛戍令を発動し、12月6日には国家非常事態を宣言した。
朴正熙政権は、野党の批判と国民の不満そして反体制勢力の動きを前にして、政権維持が困難であることを内外に示すことになった。国民のあいだでは政権側がひそかに社会的な混乱を操作して、それを口実に強権的な体制を強化しようとしているという噂がしきりに流れた。朴正熙が71年の金大中との対戦で涙を流しながら、これが最後の出馬であると訴えても、国民は冷淡であった。彼は自分が国民の支持を失っていることを十分知っていた。
しかし権力の座から退くということは朴正熙の念頭にはなかった。権力を失えば、その瞬間、彼の不正があばかれて、すべてを失うことを恐れていた。選挙戦でも、金大中候補は、政治的報復は決してしないと、ことあるごとに言明したのであった。といっても朴正熙と彼の取巻き連中が、政権の崩壊を極度に恐れる心情には変りがなかった。彼らは、是が非でも永久執権の夢を実現しようとした。すべての政策がただその一点に集中していくといってもよかった。

第3章 「10月維新」と民衆
南北共同声明と10月維新
72年4月、全国的にセマウル(「新しい村」)運動を大々的に展開する計画が発表された。5月にはこの運動に消極的であるとしてソウル市の、隣組ともいうべき統(トン)や班(バン)の長、1万8000名を解任した。セマウル運動は実は朴正熙の永久執権の基礎を固めるためのものであった。

새마을 운동(영어 표기: Saemaul Undong 또는 New Village Movement) 혹은 신향촌운동(新鄕村運動)은 1970년 초 대한민국 농촌의 현대화를 위해 시작되어 박정희 정부 주도로 시행된 운동이다.[1] 새마을 운동은 풀뿌리 지역사회개발운동으로 정의[2] 되기도 한다. 새마을 운동 계획자는 양찬우 전 경남도지사이다.[3]


その年の8月30日、南北赤十字会談が平壌で開幕し、9月13日にはソウルで開かれた。国民は涙を流してその成果を期待した。しかしソウルでの第二次会談が終ると、国民の関心は急に冷えて行った。10月には平壌、11月にはソウルと第三次、第四次会談が続いたが、国民の無関心のなかでただ空転をくり返しただけであった。赤十字会談はもともと南北に別れた家族や親戚の住所と生死の確認から始まって、相互訪問と再会、書信の往復、自由意志による再統合などと、人道的な問題の解決を目ざしたものであった。しかし会談を重ねれば重ねるほど、成果は望みえないものであることが明らかになった。
南は維新憲法(72年2月27日)による1人永久執権体制へと進み、北もまた社会主義憲法(72年10月17日)による1人支配体制を築く方向に走った。南北赤十字会談は、生き別れになった愛する家族との再会とはなんら関係のない、政治的なショーか諍いとなって終った。それは1972年2月のニクソン米大統領の中国訪問という世界的な雪融けムードに乗じて、南北の独裁体制が示した小さな政治的ゼスチュアに過ぎなかった。

*ニクソン大統領の中国訪問닉슨 대통령의 중국 방문은 1972년 2월 21일 미국의 대통령 리처드 닉슨이 중화인민공화국을 방문한 사건이다. 미국의 주 방문 목적은 베트남 전쟁에서 공산국가인 중국의 지원을 줄이고. 베트남 전쟁에서 하루빨리 손을 빼기 위한 목적이 컸다. 이 방문에서 상하이 코뮈니케가 발표됐다.

1972年7月4日、歴史的な南北共同声明が発表された。それは「祖国平和自立統一原則」など7項目を含んだものであった。しかしそれも、南北政治勢力が南北関係または南北統一について発表したほかの声明や文書と同じように、実質的な結果を伴うことのない空手形に過ぎなかった。ことばは美しいが実践の意志はひとかけらもないのであった。
南北共同声明では第一には、民族統一は外部勢力に依存したり、それに干渉されることなしに自主的になし遂げられなければならないとした。第二には、統一は武力行使によらずに平和的な方法でなされなければならない。第三には、思想と理念、制度の差異を超えて、単一民族として民族的大団結をはからなければならない。統一の大原則として自主・平和・大団結が掲げられた。
このような原則に立って、おたがい相手を中傷したり誹謗したりしないこと、多面的な交流を行なうこと、赤十字会談の成功のために努力すること、常設直通電話を架設して軍事事故を防止し、南北間に提起された問題に迅速に対応すること、合意事項を推進させるために南北調節委員会を設置することに、合意した。そしてこの合意事項が同胞の念願であることを確信して、それを誠実に履行することを「全民族の前におごそかに約束する」といった。こうしてそれ以後、このような理念が実現できないでいるのは、ひとえに相手のせいであると、南北政権がたがいに非難しあうことになった。
これを契機にしていかに体制固めを急ぎ、1人永久執権をもくろんだかについて、ここでは南の韓国の場合だけをあげることにしよう。それがまさに維新体制への道というものであった。
72年10月17日、突然、朴正熙は大統領特別宣言を発表して国会を解散し、全国に非常戒厳令を布いた。大学は休校、新聞、通信は事前検閲、11月21日には憲法改正のための国民投票を実施し、賛成91・5パーセントと、圧倒的に支持された。しかしそれは戒厳令下で反対意見を封じ、操作した数字であった。そして統一主体国民会議という御用機関をつくり、それによって選出されたということを根拠に、12月27日、朴正熙は新たに第8代大統領に就任し、「維新憲法」なるものを公布した。
この一連の政変を朴正熙政権は「10月維新」と名づけた。なぜこれを日本の明治維新になぞらえて維新と名づけたのか、今に至るまで謎である。朴正熙は満州軍、日本軍としての前歴からして明治維新ということばに憧れていたのかもしれない。あるいはそこに、日本における旧満州派とのあいだになんらかの共感があったのだろうか。すべて不明である。確かなことは「10月維新」は朴正熙を中心にした、軍部のもう一つのクーデターであったということである。
維新体制という、もっと暗い日々が続くようになった。しかし韓国国民は軍部政権の予想を裏切って、もっと激烈に戦い、ついには朴正熙の命が尽き、民主化の日が訪れてくる。しかしそれまではまだまだ長い過程。それはほんとうにいばらの道であった。

*統一主体国民会議통일주체국민회의는 1972년 10월 17일 10월 유신으로 제4공화국이 출범하면서 헌법에 따라 구성된 간접민주주의 기관이다. 가장 중요한 기능은 유신헌법의 핵심인 대통령의 간접 선거 기능을 담당한 것이다. 1973년 8월부터 약칭은 국민회의로 정해졌다. 국민회의는 전국의 각 지역구에서 국민의 직접 선거로 선출된 대의원들로 구성되었는데, 통일주체국민회의 대의원들은 비공식적으로 통대라는 약칭으로 불리었다.

*김대중 납치 사건(金大中拉致事件)은 일본으로 망명 중이던 대한민국의 정치인 김대중이 1973년 8월 8일 오후 1시경 일본 도쿄도의 그랜드 팰리스 호텔 2210호실 부근에서 대한민국 중앙정보부 요원들에게 납치되어, 8월 13일에 서울의 자택 앞에서 발견된 사건이다.

金大中事件
10月維新とともに朴正熙「1人独裁」を強化するために、やつぎばやに多くの法律が改正されたり、制定されたりした。その一方で野党や知識人の弾圧と投獄が続いた。このなかで最大の事件は、なんといっても、71年の大統領選で朴正熙と対決した金大中を白昼、東京九段のホテル・グランドパレスから拉致した事件である。1973年8月8日のことであった。
彼が拉致されたことも大きな驚きであったが、その彼が8月13日、顔面に傷をおい、弱り果ててソウルの麻浦区にある彼の自宅に現われて、全世界を驚愕させた。誰が彼をホテルから連れ出してどのような経路でソウルに連行したか、それは今でも謎に包まれている。
金大中は麻酔をかけられ、眼を封じられていたので詳細は記憶していない。船に乗せられ、海に投じられそうになったところを急に救出されたようであるが、なぜそういうことになったのかもわからない。そのような恐るべき事件は、国家のような巨大な権力が介在しないでは起こりえない。それでは彼を救出したのも、どこかの巨大な権力であるといわねばならない。その後一部明らかになったことからしても、韓国の中央情報部が関与したことは間違いないと見られるが、それが誰の命令によって、誰が実行したのかも知られていない。それに対する推測は数多いが、事実は不明である。
韓国も日本も、事件を調査して全貌を明らかにするといっていたが、今に至るまで実行していない。両国政府は政治的妥協によって一件落着してしまった。今日、韓国が民主化されたといいながらも、この事件は霧の中に閉ざされている。このことが、韓国の民主化に疑念を抱かせるといってもいいであろう。そして日韓関係がいまだに透明でないことを示しているともいえよう。日韓癒着の非難を免れえない歴史を、今も引きずっているわけである。
このミステリアスな事件によって、日本国民も韓国の政治状況がどういうものであり、韓国の国民がいかなる状況の下におかれているかをかいまみた。韓国は決して遠い国ではなく日本の政治にも大きく影を落としている。日韓癒着は、そのように根深いものであった。
この事件は日本国民の対韓意識に多くの影響を与えた。韓国の民主化は日本人が隣人として関心を持たざるをえないこととなった。それは日韓関係に一大転機をもたらした事件であった。
一方、韓国内では、この事件は維新体制下における民主化運動に対して決定的な引き金となった。朴正熙政権の正体が今や明白になった。国民のあいだに、この政権は多くの犠牲を払っても打ち倒さねばならない権力である、という認識を広めた。こうして維新体制の殺気立った空気のなかで沈黙を余儀なくされていた学生たちが、再び動き出した。73年10月2日、ソウル大文理部学生たちが、決起した。この日の午前、ソウル大学生たちは、校内の4・19記念塔の前に集まって学生総会を開き、つぎのように宣言した。

今日われらは全国民大衆の生存権に脅威を与えるこの残酷な現実をこれ以上坐視することができないために自らの良心の命令に従って、今までの無言の抵抗を打ち切り憤然と立ち上がった・・・。
学友よ!自由と正義そして真理は大学の使命である。今日われらはあまりにも悲痛な、惨憺とした国民の現実を直視し、社会に蔓延した無気力と挫折感、不義の権力に卑屈にも命を乞うすべての敗北主義、投降主義、無事安逸主義とすべての屈従の自己欺瞞を断乎と押しのけて、毅然と悪と不義に抗拒し、この地に正義、自由そして真理を実現することを期し、歴史的な民主闘争の初の烽火に火をつける。絶対に屈服せず、絶対に妥協せず、絶対に躊躇せず、果敢に抗拒するわれらの闘争は、またとない熱い正義の炎であり、またとない民衆の喚声であり、またとない高貴な民族生存の活路である。われらの叫びを抑えこむ者、それは誰か?
そして「決議事項」としてつぎのような4項目を掲げた。
1、 情報ファッション統治を即時中止し、国民の基本権を保障する自由民主体制を確立せよ。
2、 対日隷属を即刻中止し、民族自立経済体制を確立して国民の生存権を保障せよ。
3、 中央情報部を即刻解体し、万人が怒りを発している金大中事件の真相を即刻明らかにせよ。
4、 既成政治人と言論人は覚醒せよ。
300余名の学生は「政権の維新か、国民の奴隷化か」とうプラカードを立てて大学のキャンパス内で「独裁打倒」を叫んだ。これは不意打ちの命がけの行動であった。ほどなく乱入してきた警察によって180余名の学生が連行された。これが先がけとなって、全国的にあらゆる階層の良心的な勢力が立ち上がり、維新体制に名をかりた軍部政権の「1人独裁」に刃向って戦うようになった。
金大中事件を、日韓両国政府が単なる政治的事件として政治的に決着したということは、両国が人権感覚においていかに後進的であるかを示す明白な事例であったといえよう。
もう一つつけ加えておきたい。朴正熙政権が東南部の慶尚道地方に対して庇護政策を採ってきたことはすでに触れた。西南部の全羅道地方はこれに抵抗したが、抑えられ、いっそう革命意識を高めたといえる。そこで全羅南道木浦出身の金大中が、朴正熙に対抗して、東京から拉致され、その後も受難の道を歩むようになると、彼は疎外された全羅道民の苦しみのシンボルのように見られた。このことは朴正熙後、全斗煥、盧泰愚と軍人支配をへて、今日、金泳三政権下でも続いている。地球感情による対立という政治的悪遺産がまだ尾を引いている。


緊急措置の時代
維新憲法では、大統領に緊急措置権が与えられていた。
この緊急措置権は天災地変、戦時における緊急措置権のような一般的な性格のものではない。それは事態が起こる前に予備的措置としても発動することを可能にしたものであり、国会や法律の統制をほとんど受けないで、大統領1人の意志によって制限なしに発動しうる非常大権であった。
しかも実際に発動された緊急措置の内容を見ると、それは朴正熙自身が宣布した維新憲法にすらもとるものであった。たとえば第1号(74年1月)では、憲法改正について議論することさえも禁じた。第4号(74年4月)では、文教部長官に廃校の権限まで与えた。第9号(75年5月)は、憲法を誹謗したりそれに反対することも禁じたもので、朴正熙政権の崩壊後まで4年7ヶ月も続いた。
緊急措置は大学、言論、キリスト教会などの反体制運動を封じこめるためのものであった。それがあまりにも強硬なものであったがために、運動は潰え去るように見えたが、実際は逆に全面に拡散していった。言論の場合は完全に統制下に置かれ、政治側の一方的発表のみが許された。
こうなると反体制運動は、マス・メディアに対する批判と抵抗をくり広げ、真実の報道は、海外のマス・メディアに期待した。中央情報部は、海外の報道が国内に流入するのを禁じるだけではなく、その報道に圧力を加え、その源泉を封じこもうとした。海外における反体制運動にもひそかに干渉し、これを妨害しようとした。
ここで国内と海外の運動を結び、国内で報道されない情報を海外へ運び、海外で報道されたことを国内に運んで国内外の運動を連帯させ、活性化させる必要が生じた。それは命がけの行動であったが、まさに情報の密輸出入の時代であったといえよう。
維新体制は、ほとんど7年間も続いたが緊急措置統治の時代、政治はなく治安のみの暗黒時代であった。1961年から続いた軍部政権、特に朴正熙政権末期の維新体制がどのようなものであったかを、もっともよく象徴しているのが、大統領緊急措置である。ここにその第一号の全文をあげてみることにしたい。
1 大韓民国憲法を否定、反対、歪曲または誹謗する一切の行為を禁じる。
2 大韓民国憲法の改正または廃止を主張、発議、提案または請願する一切の行為を禁じる。
3 流言蜚語を捏造、流布する一切の行為を禁じる。
4 上記の第1、2、3項において禁じた行為を勧誘、扇動、宣伝したり、放送、報道、出版、その他の方法でこれを他人に知らせる一切の言動を禁じる。
5 この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は、法官の令状なしに逮捕、拘束、押収、捜索し15年以下の懲役に処する。この場合は15年以下の資格停止を供給することができる。
6 この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は非常軍法会議において審判処断する。
7 この措置は1974年1月8日17時より施行する。

この第1号とともに第2号が公布されたが、それは非常軍法会議に関するものであった。これとともに「維新の課業にいっそう精進」するようにという朴正熙の談話も発表された。「国民が圧倒的に支持した」維新憲法によって「非能率と浪費を除去しながら国家培養の道を着実に前進」してきたのにもかかわらず、このような「国家的現実」を理解しないでまだ「誇大妄想症にとらわれている一部人士と不純分子たちが、昨年の暮れからはしたない扇動と悪意的な流言蜚語を流布させ、社会的混乱を造成し、憲政秩序である維新体制を否定しこれを転覆させようと」しているというのであった。
それで「国家の安全保障と公共の安泰秩序」が脅かされていることを「憂慮」して「迅速な措置」を取らざるをえないといった。ここに、政治権力の意に反することはすべて「流言蜚語」の罪に問われる、全国民を敵に回した政治犯大量生産の時代に入ったわけであった。この維新体制下で大学や職場を追われた人の数は5万名を超えた。しかし、それで反体制の戦いが休息したのではない。それまでとは違って職業的革命家ともいえる人びとが大量に増え、組織化されるようになった。

*전국민주청년학생총연맹 사건(全國民主靑年學生總聯盟事件), 줄여서 민청학련 사건(民靑學聯事件)은 1974년 4월 대한민국에서 발생한 시국 사건을 말한다. 전국민주청년학생총연맹(이하 민청학련)의 관련자 180여 명이 불온세력의 조종을 받아 국가를 전복시키고 공산정권 수립을 추진했다는 혐의로 구속·기소된 사건이다. 2009년 9월 재판부는 민청학련 사건에 대하여 무죄를 선고하였다.
民青学連事件

韓国における革命運動の図式ともいえるものがある。抵抗運動は暴力的に弾圧されると、一時的にひるんだかのように見える。しかし運動は地下に潜行するだけである。やがて少数の知識人がヒロイックに立ち上がって強権にたてつき、逮捕、投獄される。しばらくすると再び学生たちが再結集して大々的な集会を開き、宣言文を朗読し、街頭デモを展開する。
また大きな弾圧があって、学生たちは大学から追放されたり、投獄されたりする。そういうことがくり返されるあいだに、権力はその存立の正統性を失い、国民に対して最悪のイメージを与えることになる。
ついに国民の多くが反体制運動をサポートし、市民が、学生に対する弾圧に抗議し始め、やがてその一部が学生のデモに合流する。そうなれば暴力的な権力はその限界に達し、最終段階を迎えることになる。そのようなときに、まったく予想できなかった事件が起こり、それがきっかけとなって、政権は崩壊する。これが韓国において知識人・学生と民衆の連帯によるほとんど非暴力的な、いわば無血革命が成就されていく歴史的過程であった。
ここに1974年の緊急措置によって、学生運動は沈黙を強いられ、少数の知識人の自己犠牲的な抵抗が続いた。そのなかでも1月17日に起こったキリスト教の都市産業宣教会所属の牧師11名の抵抗は、実に劇的なものであった。
彼らはその日の午前、ソウルの中心街、鍾路 五街の基督教会前に集まって「時局宣言文」を発表し、国民を愚弄する緊急措置の撤回、民意による自由な改憲議論の展開、民主的秩序の回復を要求した。彼らはその1枚の短い宣言文のために、非常軍法会議で10年から15年までの重刑を宣告された。その1人は逮捕を覚悟して「私は釈放されることを望まない。私の犠牲で韓国に民主主義が花咲くことと正義の炎上が燃え上がることを祈る」と書き残していた。
その後朴正熙政権は反体制人士の逮捕と釈放の悪循環をくり返した。学生を大学から追放しては時期をみては復学させた。それはアメとムチの政策であり、追放や重刑によって情勢がいっそう悪化すること、増え続ける政治犯がいっそう急進化することを恐れたからであった。独裁政権の末路は強硬と穏健の両政策を交互に使いながら、どの政策によっても成功することなく、その崩壊を進めるというものである。
軍法会議の法廷においては、裁判官が硬い表情で緊張し、被告の方が堂々としていた。起訴から刑の宣告まで1週間しかかからなかった。量刑は5年、7年、10年、12年と、事前に中央情報部の指示によって決められていたので「正礼制判決」と皮肉られた。被告の方は少しも怖じないで「神の教えの通りに行動しただけ」と答えた。このような法廷が軍事政権の総退却まで続いた。遠からず釈放されるものと、みんなは事態を見抜いていた。何よりも勝利に対する確信があった。
法廷も政治闘争の場であった。そこには感動的な精神的高揚があった。被告は強権体制を攻撃し、権力の下僕に堕落した法廷を告発し、傍聴人たちは大いにこれを支援した。法廷から退廷を命じられたり、あるいは法廷冒瀆罪で逮捕されることを恐れなかった。裁かれるのは政治犯の被告ではなく、裁く側の検事や裁判官であるといわれた。被告の道徳的優越性は政治犯を裁く法廷において明らかであった。こういう様相は、いくら強硬政策を採ってもエスカレートするばかりであった。不公正な法廷であることが明白であるとき、法廷はその尊厳を保ちえないばかりではなく、法廷内の形式的な秩序すら保つことが難しかった。

このような戦いを続けていると、大きな大衆行動が起こるのであった。73年末の大学キャンパスにおける運動は、繰り上げて実施された冬休みによって下火になったように見えたが、春になり、74年3月の新学期とともにまた燃え出した。
4月3日の午前、ほとんど同じ時期にソウル大学、成均大館大学、梨花女子大学などでデモが火を噴いた。「民衆・民族・民主宣言」「知識人・言論人・宗教人へのアピール」そして「決議文」が発表されたが、それらはみな「全国民主青年学生同盟」の名義のものであった。「民衆・民族・民主宣言」から最後の数節をここに引用してみたい。
見よ!自由を剥奪し奴隷状態を強要する彼らの暴力輩集団を!見よ!豪華・放蕩をこととして民衆の肉と骨をしゃぶって肥えたための盗賊の群を!見よ!この地を新植民主義者たちにいけにえとして捧げたあの売国奴らを!
われらは、腐敗特権族閥が犯したこのような破壊状態を、これ以上座視することができない。彼らの下で奪われ、苦しむもろもろの民主勢力が民主・民権・民族の旗じるしの下に続々と集まっている。いかなる弾圧や暴力をもっても、怒濤のように渦巻きながら流れるこの 々とした流れを差し止められないであろう。
ここにわれらは、反民主的・反民衆的集団を打ち砕くために、崇高な民族・民主義列の先頭に立って、われらのからだを燃やし尽くそうとする。
彼らは彼らの「主張を貫徹させるために最後の一人まで、最後の一刻まで戦うことを歴史と民族の前に厳粛に宣言する」といった。実際これから1979年に朴正熙が倒れるまで、彼らは60年前、1919年の3・1独立宣言において彼らの先達が誓ったように、「最後の一人まで、最後の一刻まで」戦ったといえるであろう。
この時に発表された「知識人・言論人・宗教人へのアピール」は朝鮮近現代史において抵抗を貫いた知識人・民衆連合の形成を訴えるものであった。これさえ達成できれば、いかなる政治権力も後退するであろうという確信があった。その最後は「卑怯者よ、その名は傍観者である」という一節で結ばれた。その日の夜10時、緊急措置第4号が発動された。その第1項にはこのように記されていた。

全国民主青年学生総同盟とこれと関連する諸団体(以下団体)を、組織するかまたはこれに加入したり、団体やその構成員の活動を称賛、鼓舞またはこれに同調したり、その構成員と会合、通信その他の方法で連絡するか、その構成員の潜伏、会合、連絡その他の活動のために場所、物品、金銭その他の便宜を提供するか、その他の方法で団体や構成員の活動に直接または間接に関与する一切の行為を禁じる。
運動関係の文書や歌のレコードを所持しても処罰された。彼らと関係のあった者は、「捜査・情報機関に出頭、隠すことなく告知しなければならない」ともいわれた。学生たちの大学内での政治的行動を禁じただけでなく、文教部長官に緊急措置違反者のいる大学を廃校処分にする権限まで与えた。この緊急措置に違反する者は非常軍法会議に回して、無期刑死刑まで科することにした。こうして、無期刑死刑が濫発され、実際処刑したケースまで現われた。
この緊急措置を公布するに際して朴正熙は特別談話文を発表して、反政府運動は共産主義者たちの革命的な戦いの一環であると決めつけた。中央情報部は直ちに、民青学連には「共産系不法団体である人革党再建委組織と在日朝鮮総連及び日本共産党そして国内左派革新系人士」がかかわっており、前大統領尹漕善、カトリック教会の池学淳司教、詩人金芝河などの批判的な人々がこれを激励したり、これに資金援助をなしたと発表した。日本の朝鮮総連や日本共産党までかかわったといっては、2人の日本人留学生を検挙するという、それこそ暴挙をほしいままにした。
中央情報部の発表によると、この事件の関連者として関係この事件の関連者として関係機関の調査を受けた人びとは1204名に及んだ。約3ヵ月後、軍法会議は180名の被告のうちで14名には死刑、13名には無期懲役、そして28名には15年から20年の刑を求刑した。宣告は求刑通りの「正札制判決」であったが、国防長官の量刑確定において、死刑宣告を受けた5名が無期に減刑された。尹漕善前大統領の場合は、内乱扇動の罪に問われたが、懲役3年に、執行猶予5年がつけられた。その時の軍事法廷の模様はつぎのようなものであった。
公判廷は、被告人家族よりも多い機関員及び軍裁関係者によって満たされていた。一般人の傍聴は許されなかった。国防部出入りの記者たちが報道席に坐って<取材>に臨んだが、自由な報道が不可能であったために取材というよりはただ<傍聴>するだけで、後になって、国防部代弁人による発表文をそのままデスクに伝達するという有様であった。(李林国『秘録朴正熙時代』)

法廷で被告たちは「われわれが裁かれているのではなく、あなたたちが裁かれているのだ」と検察官と裁判官に抗議した。法廷の権威など、かれらも残っていなかった。77歳の尹漕善は最終陳述において「私を刑場に引っぱって行くか、釈放してくれるかはあなたたちの自由であるが、民主主義の道を行くという私の所信を奪うことはできない」とのべた。
重刑の判決を受けた人びとのなかで、1975年4月8日、北朝鮮と関係しているとされた8名が死刑確定宣告を受けた。その翌日死刑が執行された。朴正熙政権の恐怖政治はその絶頂に達していた。その一方で重刑を科せられた学生などがやがて刑執行停止で釈放された。民青学連事件で投獄された詩人金芝河は75年2月に刑執行停止で出獄したが、死刑に処せられたいわゆる人革党関係者の無実を主張したというので、3月に再び逮捕され投獄された。


「東亜日報」の白紙広告
騒乱の毎日が続いた。74年8月15日大統領朴正熙の夫人陸英修が1945年の解放を祝う光復節記念式典の最中、在日韓国人文世光の発射した銃弾に当たって死去した。文世光の正体は知られていない。北朝鮮が日本を通して工作して、朴正熙の暗殺を企てたが、当たりそびれたというのが捜査当局の発表であった。これはいまだに謎の多い事件とされている。

*陆英修(韓語:육영수,1925年11月29日-1974年8月15日),前韩国第一夫人,韩国第5至9任总统朴正熙的妻子,亦是韩国第18任总统朴槿惠的母亲。

*文世光(1951年12月26日-1974年12月20日),又名南条世光,是出身大阪的朝鮮裔日本人,文世光事件的主角,也是朝鮮的間諜。
この事件が直ちに政治的に利用され、全国的に激しい反日運動が展開された。日本政府が北朝鮮側の工作を野放しにしたというのであった。維新体制によって抑圧されていた民心が、反日運動にカタルシスを求めたのかもしれない。韓国人のあいだにおいては、反日といえば、潜在意識をなしていて、きっかけさえあればいつでも噴出するように見える。
陸英修の通夜のときや葬儀の列が通るとき、嗚咽する人びとが少なくなかった。これに気をよくした朴正熙政権は危機を乗り切ったと思ったのか、8月23日には緊急措置第1、第4号を解除し、投獄した人びとの多くを釈放した。しかしそれもつかの間のショック療法的なものに過ぎなかった。その反動がやってきた。

言論自由の戦いという、もう一つの戦いが始まった。民主化運動勢力は、事あるごとに言論、特に新聞の無気力を、激しく非難してきた。知識人や学生の戦いが勝利するためには、国民が連帯して立ち上がることが必要であり、それには新聞の公正な報道は必須のものであった。
維新体制の下で新聞は沈黙するのではなく、政府の一方的な情報のみを流して、事実を隠蔽し、歪曲して、権力の侍女ぶりを遺憾なく発揮していた。それでデモや籠城すなわちシット・イン、断食すなわちハンストのときなど、取材にやってきた新聞記者たちがしばしば運動側によって閉め出された。民主化宣言などのときには決まって「言論は権力から独立せよ。とりわけ自主的な編集を妨害する中央情報部員を新聞社から追放せよ」などと叫ばれた。
実際、新聞社には情報部員が常駐していて記事を事前に検閲していた。この記事はのせ、ある記事は削除せよなどと中央情報部の指示を伝え、製作を監視した。
このような状況に恥じていた『東亜日報』の記者たちが動き出した。1974年10月24日のことである。ソウルの中心、光化門の交差点に位置している東亜日報社で180名の記者が「自由言論実践宣言」を発表した。それはこのようなことばで始められた。
われらは、今日わが社会が当面している未曾有の難局を克服しうる道が、言論の自由な活動にあることを宣言する。民主社会を維持し、自由な国家を発展せしめるための基本的な社会的機能である自由言論は、いかなる口実によっても抑圧することができないし、誰であろうともこれに干渉することはできないことを宣言する。
われらは教会や大学など言論界の外で言論の自由回復が主張され、言論人の覚醒が促されている現実に対して骨にしみる痛さと恥を感じる・・・
こうして彼らは「機関員」の新聞社への出入りを拒否し「言論人の不法連行を一切拒否」して、不法連行があった場合には「彼が帰社するまでは退勤しないこと」を誓った。これに全国の新聞が歩調を合わせた。民主化運動を展開していた野党または在野のすべての勢力が快哉を叫んだのは、いうまでもない。
しかしやがて権力側の反撃が開始された。新聞社の経営に圧力を加えてきた。その年の12月20日頃から政府の圧力で、企業が広告契約の破棄を通告してきた。そこで『東亜日報』は白紙広告、すなわち広告面を白紙にした新聞を発行せざるをえなかった。この白い面は直ちに市民たちの意見広告欄に変った。市民たちのカンパで広告欄を埋めたのであった。
それは偉大な戦いであった。しかし1975年に入り経営側は権力に屈服してしまった。3月8日、東亜日報社はこの戦いの中心にあった18名の記者を解雇し、これに抗議した者を続々と解雇した。東亜放送でも同じよな事態が起こった。3月末までに132名の記者、アナウンサー、プロデューサーが解雇された。そうすると広告解約という事態もいつのまにか消えてなくなることになった。
『東亜日報』とともに有力紙である『朝鮮日報』でもほとんど同じような事態が進行した。解雇された記者たちは警察力によって排除され、新聞社で彼らは路頭の戦いを通して抗議しなければならなかった。やがて「東亜自由言論守護闘争委員会」「朝鮮自由言論闘争委員会」を結成して、苦しい生活を強いられながらも、長期的な戦いに備えなければならなかった。この戦いによって一生を政治的戦いに献身するようになった人びとがいる一方で、この中からのちに市民の株主運動によって『ハンギョレ新聞』(1988年5月15日創刊)が生まれ、進歩的な新聞として活動するようになったことは特筆すべきであろう。
しかし歴史とはこんなものであろうか。新聞社は今になってあの戦いを輝かしい誇るべき歴史であると、機会あるごとに大きく取り上げる。しかし屈服した事実については触れようとしない。多くの記者を追放したことに対しても口を閉ざし悔いもないようである。

*《동아일보》(東亞日報, Dong-A Ilbo)는 신문 발행 업체인 동아일보사가 발행하는 대한민국의 일간 신문이다. 1920년 4월 1일 김성수를 대표로 '민족의 표현기관으로 '자임', '민주주의 지지', '문화주의 제창'이라는 사시 아래 창간되었다. 초대 사장은 박영효였고, 초대 주필은 김성수였다. 일제 강점기에는 브나로드 운동, 연정회, 신간회 운동 등을 지원하였다. 일장기 말소 사건을 계기로 동아일보가 강제 폐간이 된 그 해인 1940년 초 일제가 동아일보의 민족주의적 성향을 우려했음을 보여주는 비밀 문건들이 공개되기도 했다.[2]
*《조선일보》(朝鮮日報)는 대한민국의 대표적인 언론사인 조선미디어그룹의 조선일보사가 발행하는 조간일간지이다. 1920년 3월 5일에 창간되었으며, 현재까지 존재하는 한국어 신문들 중 가장 역사가 깊은 신문이다. 2020년 기준, 국내에서 유료 부수 100만부가 넘는 유일한 신문이자,[2] 대한민국에서 가장 영향력 있는 미디어 중 하나로 손꼽힌다.
金相鎮の死
民青学連事件で小休止に入っていた学生運動が、その事件1周年になる1975年4月3日にまた火を噴いた。まずソウル大学と延世大学でデモが起こり、高麗大学でも火がついた。学生の投石と警察の催涙弾発射が連日続いた。4月7日に発表された高麗大学の「石塔宣言文」から一節を引用してみることにしよう。
真の光は暗闇のなかでよみがえる。われらは決して絶望しない。絶望できないのだ。ついに失意を打ち破り、希望は芽を吹かねばならない。真の歴史はつねに明日を準備するものだ。今日の苦難は明日のために準備された十字軍ではないか。真理はいつも死のなかからよみがえる。真理よ!われらをして語らしめよ。自由よ!われらをして行動せしめよ。正義よ!われらをして信ぜしめよ。
4月8日、高麗大学の学生2000余名が校門をはさんで警察と対峙しているとき、大統領緊急措置第7号が発動された。これは高麗大学1校を対象にしたものであった。高麗大学の休校を命じ、この大学における一切の集会を禁じ、これに違反すれば3年以上10年以下の懲役、10年以下の資格停止を科するというのであった。そして必要であれば軍を動員するといった。実際午後5時頃には1個中隊の兵力が完全武装してキャンパスに入ってきた。
それでも集まっては抵抗する大学が跡を絶たなかった。4月10日にはすでに21の大学が休校を命じられて、軍が大学封鎖の任に当たった。こういう状況下のなかで11日ソウルの南、水原に位置しているソウル大学農学部で維新撤廃、民主回復を叫んで1人の学生が割腹自殺する事件が起こった。これが学生の民主化運動にまた大きな刺戟を与えたのはいうまでもない。在学中に入隊、3年間の軍服務を終えて、4年生に復学したばかりの26歳の青年金相鎮が死をもって抵抗したのであった。彼が読み上げた「良心宣言文」の冒頭はこう始められていた。
学友よ、知っているのか。民主主義は知識の産物ではなく闘争の結果であることを。今日われらは痛嘆する前に、明日を諦念する前に、緻密な理性と固い信念でこの凄惨な一党独裁の牙城に向かって不退転の決意で進撃しよう。民族史の新しい日が明け始めているのだ。・・・
多数の国民が立ち上がりさえすれば独裁政権は倒れると、彼は信念に燃えていた。そのためには自分の死が要求されていると決意したのであった。その宣言文を読んで最後のくだりにきたとき、彼は20センチほどの、登山ナイフで腹を切った。学友たちが彼を車に乗せるまで彼は「愛国歌(国歌)を歌ってくれ」とせがんだ。翌日の朝、意識の回復を果たせず彼は息を引き取った。民主化の叫びのなかでの壮烈な死であった。その死、彼の自死は、たとえ報道は禁じられていても、口づてにまた秘密のチラシで多くの人びとに知れ渡った。
そのような死は、義憤による1人の死であるとともに、多くの人びとに義憤を促すものであった。そして暴力を使う権力の道徳的正統性にダメージを与え、それを窮地におとしいれる。朝鮮近代史にはこのような数多くの「殉死」が跡をとどめている。それらは革命史的考察において重視されねばならないものであろう。

5月13日には緊急措置第9号が発動された。これは今まで発表された緊急措置を集大成したともいえる。14項目にわたるものであった。流言蜚語、憲法改廃の主張、不正集会などの政治的関与を禁じ、主務長官は違反者追放の権限を各機関の長に与えるというものであった。
これで各機関の長は所属の職員、教員、学生をその一存によって追放することができるようになった。報道機関の場合も同じであった。しかもそのような措置は「司法的捜査の対象」にならないと規定した。また市長や道知事など各地方長官の要請によって兵力を動員することができると決めた。これで戒厳令や衛戍令を発動する必要もなくなった。軍が全体的に動き出すと、クーデターが起こる可能性があるので、軍の局地的移動が決められたのであった。
時あたかも南ベトナムが崩壊した直後であった。朴正熙は北朝鮮がこの事態に「便乗」して「南侵」できると「誤った判断」をするかもしれないから「総和団結」して「安全保障」を強固にするためにこの第9号を宣布する、と強調した。またしても北朝鮮の存在をもって、恐怖政治を正当化しようとしたわけである。
3・1民主救国宣言事件
76年3月1日、3・1独立運動記念日に、ソウルの明洞カトリック聖堂における3・1記念ミサのなかで、電撃的に「3・1民主救国宣言」が発表された。これは3・1民主救国宣言事件または明洞事件と呼ばれるが、この宣言は尹潽善、金大中のような政治家とともに在野の良心と呼ばれた成錫憲など宗教家や代表的な知識人、17名が署名した。朴正熙政権にまっ向から挑戦するものであった。その冒頭の一部を引用してみよう。
今日、3・1節57周年を迎え、1919年3月1日、全世界にとどろいたこの民族の喚声、自主独立を呼んだあのおたけびが強く響いてくる。このまま坐っていることは救国先達たちの血を土に葬ってしまう罪になるように思えて、志を集めて<民主救国宣言>を国内外に宣布しようとする。
宣言文は「緊急措置を直ちに撤廃し・・・投獄されている民主人士と学生を釈放」すること、「形だけの議会政治」を廃棄して民主政治を回復すること、「司法権の独立」などを求めた。この事件について新聞は一行も報道することを許されなかった。ようやく3月10日になって、一方的に検察側の発表だけが報道された。

検察はこの事件関連者を20名にしぼり、「政府転覆扇動」の罪を問うて、金大中、文益煥など11名の身柄を拘束し、尹潽善、金大中は懲役5年、資格停止5年であった。しかし朴正煕政権がその刑を彼らに最後まで負わせることができるだろうとは、国民の誰も信じていなかった。もうすでにショック療法ともいえる朴正煕政権の緊急措置もその効力を失いつつあった。
「3・1民主救国宣言」は朴正煕政権が続く限り、毎年の如く3月1日になれば、新しく継承された。77年の「第2民主救国宣言」は、朴正煕個人への公開書簡の形式をとり、彼の退陣を強く求めた。彼が退陣しなければ大きな不幸がやってくるであろうと、警告してはばからなかった。「そうすれば国と貴下がともに喜ぶ日を迎えることができるが、もしもそうしなければ冷酷な歴史の法則はそれを放置しないでありましょう。貴下と国にとって大きな不幸となるでありましょう。断じてそのようなことをなされることなきを願います」といった。
しかしすでに時は遅すぎた。朴正煕は人間的にも頽廃していた。夫人を失ってから彼の心はいっそう荒んできたといわれた。

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