日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움/獄中19年―韓国政治犯のたたかい/19 ans de prison - Combattre des criminels politiques coréens/獄中十九年:韓國政治犯的鬥爭XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos/Suh Sung (서승徐勝)⑤

李在汶先生は人革党関連者として指名手配された。74年に逮捕されていたなら恐らく死刑だったろう。逃走生活をつづけながら77年に反帝民族解放と民族統一を綱領とする「南民戦」(南朝鮮民族解放戦線)を結成した。人革党死刑者の遺品の上着を解放戦線旗としたことから分かるように、「人革党」をデッチ上げた独裁政権にたいする政治的復讐が一つの動機だった。当時勝利をおさめた南ベトナム民族解放戦線の活躍に示唆されたところもあったようだ。都市ゲリラ戦術を採用した武装闘争までも視野に入れた大胆な運動を進めたが、朴正煕が死ぬ直前、アジトが襲われ、3年にして組織は崩壊した。起訴されたのが84名で、朝鮮戦争以後最大の地下組織として発表された。死刑宣告をうけた李在汶先生は病死し、申香植先生は死刑執行され、無期刑5名など多数の重刑者をだした。81年、大邱特舎には10余名が入ってきた。若くて闘志あふれる彼らは特舎に新しい血を供給し、闘争の先鋒となった。知的探究心にあふれる<南民戦>戦士たちとの交友からは大いに知的刺激をえた。彼らは以前の学生たちとは異なり、マルクス・レーニンの理論を学び社会主義思想をもっていた。
*남민전 사건(南民戰事件)은 1979년 대한민국 유신 말기 최대 공안 사건이자 논란은 있지만 민주화운동으로 기록된 일이다. 1978년부터 1979년 4월 동아건설 회장 최원석의 자택 등 서울 강남 일대에서 벌어진 강도·절도 사건을 수사하는 과정에서 확대됐다.


監獄の春
83年、光州矯導所で全南大学の朴寛鉉氏が40日間の断食闘争の果てに死んだ。これを契機に学生たちはデモに立ち上がり、「光州虐殺」以後沈滞していた運動圏は活気を取り戻した。全斗煥はこれに懐柔策を用い、官制の学徒護国団を解体し、選挙による学生会を復活させるなど「宥和局面」が作り出された。獄中でも看守は弾圧の先頭に立って責任を問われるのを嫌い、断食を恐れて政治犯の要求を大幅に受け入れた。
83年から84年は監獄の春だった。運動時間は1時間半になり、面会時間も30分以上になった。書籍もほとんど許可された。国内の週・月刊誌は許可されなかったが、おかしなことに、制限的ではあれ外国語は許可された。『中央公論』や『文藝春秋』は、日帝時代に師範学校をでた崔盛吉教務課長の愛読書で、親日反共の彼の教養と知識の源だったので、反共教育に有益であるという理由で許された。『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』『エコノミスト』『ナショナル・ジオグラフィック』『フォーリン・アフェアーズ』などが許されたのは、工作官たちのアメリカへの、あるいは英語で書かれたものにたいする絶対的な信頼に起因するのだろうか。ともかく雑誌や情報に飢えていた私にとってありがたいことだった。
ランニングシャツ、パンツ、タオル、冬下着、チリ紙、歯ブラシ、練り歯磨き、石鹸のような官給品も規定どおりでるようになった。支給規定に変動があり、後には質量的によくなったが、当時はランニングシャツ、パンツ、タオルは6ヶ月に1枚、冬下着は2年に1着、チリ紙40日に1巻、歯ブラシ、練り歯磨きは3ヶ月に1個、石鹸2ヶ月に1個だったと記憶している。私のように差し入れがあったり自弁できる者にも同じように出たし、長期囚は物を大切に使ったので余ることもあった。私が使えば2ヶ月ももたないのに王永安先生は一つの歯ブラシを5年以上も使った。「どうしてそんなに長く使えるんですか?」「歯をみがくときにブラシが減らないようにソロソロこすって、終わればブラシがへらないように毛並みをちゃんと揃えておくんだよ」と、歯ブラシの毛をいとおしげに撫でながら黄色い歯を出してニッと笑った。
物品の支給そのものに劣らず大切なことは、獄中で<定量>と呼ばれる支給規定が公開されたことだった。それ以前にも思い出したように石鹸をくれたり、せがめばようやく歯磨き用の荒塩をくれたりしたが、在所には、そもそも何がどれだけ自分たちのために支給されるのかが分からなかった。日帝時代に新義州監獄で1年半くらした金錫享先生は「日帝はそれでも支給するものは規定どおりに出した」と言い、半年ほど永登浦の米軍501軍事情報団の特殊収容所にいた崔夏鍾先生は「洗面道具など使いきって窓からカラを出しておけば、下士官が巡回して交換してくれた」と言った。受刑者の権利を知らしめないのが韓国の監獄の基本方針でもあったが、矯導官が官品の横領や横流しをしていたため、予算とその執行状態を知られるのを嫌った。
給食改善闘争でも最も難しかったのは、メニューを公開させる闘争だった。メニュー表には魚何グラム、野菜何グラム、トウガラシ何グラムと出ており、ごまかしが効かない。配食されるキムチには塩とトウガラシしか入っていなかった。「監獄のだから、そんなもんかな」と思っていたが、メニューを見て驚いたことに、キムチには、ニンニク、生姜、塩辛、ネギなどの薬味も入る
ことになっていた。当局は「毎週メニューが変わるのにいちいちどうして知らせるのか?」「配食をすれば各個人の食器に正確に定量どおり入らないので喧嘩になる」などと言い立てて公開を拒んだが、最後に持ち出したのは、公文書は対外秘であるので受刑者に見せるわけにはいかないという理屈だった。これは<密行主義>とならんで監獄を不正官僚たちの伏魔殿にするのに愛用された理屈だった。しかし、メニューが対外秘の公文書であるわけがない。はなはだしくは、差し入れの受け取りも対外秘の公文書だと言い張った。家族が面会にきてパンやリンゴのたぐいを差し入れすると矯導官が房に持ってきて、受け取り証に指紋を押していく、あるいは本や下着類を差し入れすれば、領置係の担当が指紋を取っていく。後に疑問があって台帳を見せてくれと言えば、「受刑者に公文書は見せられない」と拒まれた。<定量>の公開は監獄行政の透明度を高め、受刑者の権利意識を強め、不正追放の一助となった。
裏庭や運動場には花壇が作られ、花やヒョウタン、ヘチマ、花カボチャだけでなく荏胡麻、チシャ、キュウリ、トウガラシ、ニンニク、大根、春菊、白菜のような野菜作りも黙認された。老人たちは仕事を楽しみ、私たちは新鮮な野菜をふんだんに食べる幸福にひたった。
通房は黙認され、放任状態だった。特舎にはほとんど自治制がしかれ、特舎の問題について直接処理すれば衝突が起きるような場合は、看守は政治犯代表に相談し、代表を通じて政治犯に告示事項を認知させたりした。幹部は要求事項を聞かされたり、論戦に巻き込まれたりするのを嫌って特舎の巡視を続けた。
83年には、後にも先にもない越冬監査があった。新任法務長官が「獄中で1人の凍傷者も出すな。もし凍傷者が出れば関係者を処罰する」と厳命を下した。監査は長官指示が施行されているかどうかを確認するもので、所長以下矯導官たちは戦々競々とした。凍傷調査票が作られ、凍傷経験の有無が調べられた。凍傷予防留意事項が舎棟と房に張り出され、繰り返し放送された。凍傷薬が常備され、治療も丁寧だった。それまでいくら寒くても許されなかった手袋と防寒帽子も支給された。老人たちになによりもありがたかったのは、湯タンポと新しい毛布2枚ずつが支給されたことだったろう。何の暖房もなかったところに湯タンポを入れて寝た夜は、骨が蕩けそうだった。翌朝、残った湯で顔を洗う贅沢もできた。独房の冬はひとしお過ごしやすくなった。舎棟のすべての透き間はビニールでふさがれ、房の窓は二重にビニールが張られた。廊下には練炭が三つも入る大型暖炉が四つ設置された。
温度を15度以上に維持するために房内と廊下に温度計をかけ、看守は2時間ごとに温度をチェックして保安課に報告した。黒いゴムシン(ゴムぐつ)は運動靴と交換され、受刑者が裸足で廊下を歩けば担当矯導官が問責された。受刑者は解放後30年間、冬がくるたびに恐怖に震えた。酷寒を堪え忍ぶのは宿命だと観念していた。韓国の監獄が短時日で変化するとも思えなかった。しかし、一長官の命令で、一朝にして問題が氷解した。改革は民衆の力と支持する基礎に、下からおこなわねばならない、というのが原則論ではある。だが官僚社会で責任者の力がいかに大きく、改革意志の有無がいかに重要かを思い知らされた。人は食わんがために職を得て、職を守るためになんでもする。その平凡な事実を、学生当時から監獄に入り社会生活を経験しなかった私が実感できなかったせいもあっただろう。ただ下から支えられていない変革であっただけに、変革意志(あるいはジェスチャー)を持った責任者が交替すれば、すべて元の木阿弥になる傾向はあった。
桑田碧海の変化は食生活にも現われた。83年、李享洙所長は「家で食べるのと同じおかずを作れ」と命じた。メニューには監獄でこれまで見たこともない明太子、チゲ鍋、いか汁、カレー、卵蒸し、鯖の煮付けなどが登場した。ちょうど牛乳が過剰になり価格が暴落して川に捨てる「牛乳波動」が起こったせいもあって、週1回、牛乳が1パック支給された。食いしん坊の私には、まったくありがたい話だった。
「監護の春」のなかで、それまで私たちが考えられなかったようなことも起こった。70年代に矯導所では、房内で歌をうたうことはもちろん、歌の本も許可しなかった。歌をこのうえなく愛す朝鮮人が一緒に10年も暮らしていても、お互いに歌がうたえるのかどうかも知らずに過ごしてきた。それが、学生たちが特舎にきて忘年会をやろうということになった。老人たちは戸惑いぎみだったが、若い連中がおしきった。1982年の暮れだったか、看守に閉房のあとに2時間ほど「のど自慢」をするから目をつむってくれと談じこんだ。優しくて大きな声ひとつあげたことのない都相淳本務担当は、顔をぱっと赤らめて「通房も禁止されているのに、あけっぴろげにのど自慢までねえ」と、渋った。「担当さんに迷惑がかからないように小さな声でやりますから。それに今日は大晦日じゃないですか。正月を監獄で過ごす私たちの気持も分かってくださいよ」と食い下がると、担当はため息をつきながら「しょうがないですね。私は退勤しますから、夜勤の担当と適当にやってください」と言った。
南民戦の若者たちの歌声もすばらしかった。人民軍の文化宣伝隊にいた崔善黙先生の民謡「夢金浦打鈴」もよかった。任俊烈先生の「奪われた土地にも春はくるのか?」も日帝時間の国を奪われた民族の怒りと悲しみがうたわれていて意味深かった。しかし、私たちの魂を揺すぶり深い物想いへと引き込んだのは李公淳先生の「白い雪が降るよ」という歌だった。
李先生は忠清南道の田舎で生まれ、朝鮮戦争のときに北に行って鉄道の仕事をしていた。先生は美男子だったが、胃腸が悪いせいもあって痩せて青黒い顔をして、無口な陰りのある人だった。ある日、先生は私に身の上話をしてくれた。父親が早く死んで、母が3人の飢えた子供を食わさんがために身を売るように3回も嫁にいったという。「田舎のことだからまともに嫁に行ったんじゃなかったんだ。妾というか女中というか、3人も子供を連れて主人や本妻の顔色を窺いながら追い出されまいと必死だった。それでも我々が大飯を喰らうといって、追い出されてどこにも1年といられなかった。農家をまわって飯を恵んでもらって乞食のような生活をして、しょうがないからオモニがまた誰か捜して嫁に行っては追い出されたもんだ。腹が減るって辛かったな。オモニはもう亡くなっただろうな」
初めて聞く歌だった。パルチザンがうたった歌だろうか?先生が作った歌だろうか?すばらしい美声だった。それよりもうめくように、泣くように、高く低く大晦日の凍てつく空気を貫く歌声は、体の芯をギュッと絞り上げて、つかの間の慰みから目覚めさせ、私たちを苦難に満ちた民族の歴史への想いへと駆り立てた。

新しい思想転向工作
思想転向工作も様相を新しくした。暴力の使用が難しくなったので、懐柔策をとるようになった。釈放の約束や入病舎、書芸班、園芸班への出役のような所内での優遇、物品提供、宗教関係者などとの姉妹結縁、帰休、社会見学など利益で誘導しようとした。もちろん、脅迫や陰湿な家族へのイジメがなくなったわけではなかった。
「姉妹結縁」とは、面会のこない無縁故の長期囚に家族の代わりをする篤志家を結び合わせることをいう。結縁者は弁当やおやつなどをもって面会に訪れ、手紙を書き、金や木や生活必需品を差し入れ、非転向囚との人間的関係を築き、長期的に態度の変化を期待する。出獄後の身元引受人となり、就職を斡旋するなど生活の安定を助けた。はじめは拒んでも、何年にもわたってこんな関係がつづけば人間関係が作られていく。社会安全法では、思想転向をしても職業がなく住居地が定まらない者は監護処分にすることができるとしている。身寄り頼りのない長期囚にとって、出所後の生活保障が得られることは大きな誘惑だった。この方法はかなり効果があった。
「帰休」は行刑法で1,2級の優良囚や獄中結婚などの特別な事由がある受刑者に3~7日間、家に帰ることを許可する制度だ。非転向囚はこれに該当しないが、1
泊2日ほどの工作上の帰休はよく実施された。ただし非転向囚の場合、家で泊まることは許されず、最寄りの矯導所で泊まらねばならなかった。あらかじめ工作班で根回しをして、非転向囚自身の還暦の宴、息子の結婚式、父の古稀、母の誕生日などの機会に、工作官1名と看守2名がついて帰休に行く。数十年ぶりに家に戻った息子や夫を迎えて、家族親戚が集まり山海の珍味をとりそろえ宴会をする。家族が抱き合って嬉し涙にひたり宴たけなわのころ、全員がとりすがって「どうか転向しておくれ」と、口説きおとす手順だ。そこで工作官が転向書を取りだし、その場で捺印させる。本人が抵抗すれば、皆で抑えつけて捺印を押させたりもした。
社会見学も元来、優良囚を対象にするものだが、工作手段としてよくつかわれた。「自由大韓の発展する姿を見せ、資本主義の優越性を認識させ、自由の味を味わわせて古く誤った思想を捨てさせ、自分たちがだまされてきたことに気づかせること」を目的とした。見学場所は高速道路、工場、名勝古跡、教会、百貨店、公園、遊園地などだった。ほとんど大邱市内だったが、たまに慶州、蔚山、釜山、南原、亀尾工業団地などに進出することもあった。
特舎からひと月に2,3度、市内見学に行った。ふつう一度に4,5人ずつ行ったが、転向工作行事なので順番に行くわけではなく、誰が行くか分からなかった。集中工作対象になっていれば月に2,3度も行くこともあるが、何年たっても1度も行かないこともある。平均すれば1年に1人2度くらい見学に出た。
かりに5人が大邱市内に社会見学に行くとしよう。受刑者が手錠も補縄もつけずに外出するときには、受刑者1名に看守1名がつく単独警護が原則なので見学者の数だけ看守がつき、工作官も2,3人行くのでは1行は15人近くなる。できるだけ囚人であることが目につかないように、まず囚衣を作業服のようなセマウル服に着替え、帽子をかぶる。看守も私服に着替え、拳銃を見えないように身につける(囚人に武器を奪取されることを恐れるから、構内勤務の時は望楼の監視兵を除いて丸腰だ)。
9時ごろバスで出発をして工場を見物する。昼食には焼肉か魚のメランタン(辛い鍋物)、ときには補身湯(大汁)などを食べ、ビールや焼酎など1、2杯飲みながら自由の味を味わう。矯導所ではもちろん酒はないし、こんな上等な料理も口に入らないので、特別な日だ。午後には大邱 百貨店か達城公園をのぞいて、靴下やハンカチなどの簡単なみあげものを買って4時ごろ戻ってくる。転向工作である点と、帰ってきて感想文を書かされる点を除けば、社会見学は楽しみであった。普通の人々の平凡な日常生活に社会の本質とその変化の兆しを見出そうとして、バスの窓から過ぎ去っていく光景を食いいるようにながめた。運がよければ、食堂で新聞の1枚も読めることもあった。舎棟に戻ってきてから皆に、街のようす、食事の内容、看板や垂れ幕の標語、看守や工作官の対話にいたるまで、その日あったことを細大洩らさず話し、評価した。

私が初めて見学に出たのは、大邱にきて7年目の80年秋だった。単独で崔盛吉教務課長と市内に出た。映画を見て昼飯を食べ、お茶を飲んで百貨店をのぞいて帰ってきた。大邱本駅の近くに中央通りという繁華街がある。中央通りに日帝時代からある萬景館という小さな映画館があるが、そこでアンソニー・クイン主演の“The Passage”という映画を見た。ピレネーの山男アンソニー・クインが、ナチスの手から逃れた核物理学者をポルトガルをへてアメリカに逃亡させるために、レジスタントと協力して雪のピレネー山脈を越える苦闘のストーリーである。見せ場は雪のピレネーでアンソニー・クインとSS(ナチスの親衛隊)が追いつ追われつする場面だが、秀麗なピレネーの雪景色がすばらしかった。学者の逃亡先を聞きだすために、SSの将校がレジスタントのメンバーの手をまな板に固定して、2本の包丁を両手に持ち、野菜をミジン切りにするように指を切り刻む場面があった。包丁のリズムと、苦痛に絶叫し目が飛び出したレジスタンスの恐ろしい苦悶の表情は、私に拷問の恐怖を蘇らせた。

*《페세이지》(The Passage)는 영국에서 제작된 J. 리 톰슨 감독의 1979년 액션, 드라마, 전쟁 영화이다. 안소니 퀸 등이 주연으로 출연하였고 모리스 바인더 등이 제작에 참여하였다.
大学院にいたころ、同級の車興奉兄と社会調査をしに大邱を訪れたことがあった。車氏の父は萬景館のすぐ裏で畳屋をしていた。大邱には古い日本家屋が残ってはいたが、畳を入れる家はだんだんと減っており、小さな店には貧困の色が歴然としていた。一間しかない小さな部屋には父母と弟が寝て、私たちは仕事場の上に板を張って作った座れば頭がつかえる薄暗い天井部屋で寝た。車兄は「オモニ!親友を連れてきたから牛一頭つぶしてよ」と、明るく声をかけた。オモニは「よし、よし」と、言いながらネギを切らないで長いまま入れ、トウガラシの利いた辛くて汗がドッと出る大邱湯(大邱式の牛肉汁)を煮て、貧しいながらも精一杯もてなしてくれた。
春の大邱近郊には薄緑のベールのように柳が芽ぶき、青麦が風にそよぎ、真っ白いリンゴの花と梨の花、紅色の桃や杏の花が雪のように咲きみだれていた。韓国農村の貧困や民族の未来について熱っぽく語り合いながら、石ころだらけの田舎道づたいにバスにゆられて調査してまわった青春の日の思い出、萬景館は胸をしめつけられるように美しかった学友との日々を思い出させた。

監獄に生き埋めに
81年末、尹潽善前大統領夫妻が全斗煥から夕食に招かれた。その席で夫妻は、私たち兄弟を釈放するように要請した。全斗煥は「この兄弟は転向もせず、大変な頑固分子なので釈放できない」と答えた。孔徳貴大統領夫人は、岩波新書の『徐兄弟 獄中からの手紙』を見せながら、「この本をお読みになりましたか?よい本です。共産主義者なんかではありません。こんな兄弟を獄に繋いでおいていいのですか?ぜひ一度読んで下さい。読めば分かります」と再び頼んだが、黙々として返事がなかったという。

*尹潽善(朝鮮語:윤보선/尹潽善 Yun Bo-seon,1897年8月26日-1990年7月18日),韓國的政治家,獨立運動家。 字敬天,号海葦(해위),為大韓民国第4任總統,在任僅9個月便被朴正熙發動5·16軍事政變推翻。基督教指導者尹致昊的從侄子。本貫海平尹氏。

*공덕귀(孔德貴, 1911년 4월 21일 ~ 1997년 11월 24일, 경남 통영)는 일제 강점기와 대한민국의 교육자, 사회사업가이자 여성운동가, 신학자, 종교인, 사회기관단체인, 야당운동가이며, 대한민국의 제4대 대통령 윤보선의 배우자이다. 동래여자고등학교를 졸업하였다.[1] 1940년 일본 요코하마 공립여자신학교를 졸업하고 김천 황금동교회의 전도사로 부임하였다. 이후 전도사와 신학 강사로 활동하였으며 창씨개명을 거절하여 조선총독부의 요시찰 인물로 지목되었다.
日本で私たちの釈放を求める声が高まり、84年7月、韓日外相会談の席で、安倍晋太郎外相は韓国政府に私たち兄弟の釈放を要請した。韓国政府は実務者に問い合わせると約束し、保安司に検討を指示した。保安司本部と大白公社(保安司大邱支部の表向きの看板)の実務者は、「徐兄弟を釈放してはならない。特に徐勝は顔に傷があり、韓国政府の残虐性の証拠として敵性団体(北朝鮮)に利用されるから絶対だめだ」と報告した。84年夏から私は転向工作対象者から外された。崔漢桂工作官は「徐勝氏は転向しても釈放されない」と言った。彼らは私を獄中に生き埋めにするつもりだった。転向工作をしないことにはセイセイしたが、一方、釈放の可能性なしに一生監獄で暮らさねばならないという暗澹とした想いが重くのしかかってきた。
*아베 신타로(일본어: 安倍 晋太郎(東京都出身、 1924년 4월 29일 ~ 1991년 5월 15일)는 일본의 정치가이다.
アボジの死
「この兄弟のオモニは80年にすでに亡くなっています。そして今また、アボジが重い病いで床についています。せめてアボジの臨終を見守れるように裁判長のご温情があらんことを切にお願いいたします」と、李敦明弁護士は弁論をしめくくった。社会安全法による第三次の監護処分決定を不当とし、俊植が起こした法務長官を被告とする行政訴訟裁判で、私の証言を聞くための移動法廷が83年4月8日に大邱矯導所保安課職員待機室で開かれたときのことだった。
前年、アボジは直腸癌の手術をして、人口肛門を脇腹から出していると、英実から聞いていた。アボジは71年に私たちが捕まった直後、2度ばかり韓国を訪れた。オモニも72年初めには保安司に連行され尋問をうけ、拘束すると脅かされたことがあった。アボジがくれば、尋問されたり拷問される危険性が高かったので、それから10年あまり、息子たちを気づかいながらも韓国にこられなかった。手術のあと最後の面会にこようとしたが、結局、それは決断されないまま意識不明の状態に陥ってしまった。
83年4月30日、アボジの最期を予感して送った手紙は、もはや昏睡状態に陥ったアボジの目に届くことはなかった。アボジも5月9日、この世を去ってしまった。

―アボジ
この3月に面会に来た英実が平素めったに見せない涙を見せたときに、アボジの病状への暗い直感をしました。そして手紙をもらって今、病床に疲れていることを知りました。籠のなかの鳥のように飛ぶこともできない私は、ただアボジの恐ろしい苦痛が和らぐことだけを祈る無力な存在です。・・・
過ぎ去った歳月をどうしてすべて想い出せるでしょうか?想い出したとしても私たちの血と肉に刻み込まれた喜怒哀楽の襞を筆舌に尽くせるでしょうか?流れ去った日々はただただ美しく思えます。多分に理想主義的で人好きで、良心的生活基準を守られたアボジでした。アボジは父母への至誠の孝心と我が民族への強い愛着を持っておられました。祖父が亡くなられ異国日本で臨終にも立会えず、墓参りもできないまま家でチェサ(祭祀。法事)があった日、竹杖をつき粗末な麻の喪服を着た馴染みのない姿に驚きました。「オーイ、オーイ」と、哭(儒教式葬礼の儀式)をして悲しまれるアボジの顔から吹き出ていた豆粒ほどの汗もまぶたに残っています。・・・
アボジは若者を愛し理解されました。息子たちと盃を傾け、談論夜深にいたったこともありました。目上の人にはどこまでも伝統的倫理で自らを律し、若者には自由と人格を強調された寛容で開放的なアボジでした。・・・
父親と息子はお互いに男として見、また見せようとするものです。母と子のように無条件な包容ではありません。正直にいうと、獄中でのアボジとの対面を想像して気はずかしい思いをしたものです。しかし、アボジが息子たちに深く配慮され、濃い愛情を持っておられたことを私はよく知っています。
アボジは苦難の時代に生きた在日朝鮮人として種をまき、ハッキリとした生活の轍を残されました。(1983年4月30日)

アボジは1922年忠清南道青陽に生まれ、幼くして日本に渡った。オモニの一家もこのころ日本に渡ってきたのは、植民地下の朝鮮で農村の生活がますます苦しくなってきたころの反映だったろう。アボジは京都で屑屋や自転車屋に丁稚奉公をして大きくなり、繊維関係の仕事をし、後には小さな紡績工場を経営した。しかし、アボジは、金を貸しても厳しく返済を迫れず、返す能力のない人にも頼まれればいやと言えずに金を貸してしまう。優柔不断でお人好しなところがあり、商売人にはあまり向いていなかった。どちらかと言えば、理想化肌、芸術家肌の人だといえる。アボジの話では、丁稚奉公していたとき、屑の山から出てくる本を読むのが楽しみだったそうだ。酒が入れば議論を好み、エスキモーを「エモスキー」と言ったり、存在を「ぞんざい」と発音するといった誤りはあったが、「人生論」「認識論」「存在論」などと、人をつかまえては哲学議論をしたり、祖国と民族の現状をうれい悲憤慷慨する面もあった。また、美術が得意で、高等小学校で絵を描いて賞をもらったそうだ。私の幼かったころ、天の橋立に家族で遊びにいったとき、夏休みの宿題に絵を描いていた私たちの絵筆を取って、サッと絵を描いてみせたアボジを憶えている。
アボジも植民地時代の在日朝鮮人として、才能を育てる満足な教育の機会を得られなかった。儒教の伝統に立つ朝鮮の封建的家族制度のなかで、生活力のない祖父をふくめて、貧しい家族を養わなければならない二重の軛は重すぎた。町工場の<大将>で人生を終えたが、良心的で、学問・芸術に理解を持っていたことは、私たちが育つ環境に影響をあたえた。自己抑制が弱く、優柔不断なアボジにも毅然とした面がなかったのではない。私が大学に入りタバコをおぼえたころ、事業に失敗してアボジの工場は倒産してしまった。それまで大きな失敗がなかったアボジには衝撃だった。内心をうかがうすべはないが、それまで1日に「いこい」を3箱吸うヘビースモーカーだったアボジが、誰の勧めもなしにタバコをプッツリとやめてしまった。私はアボジのまえでタバコをぷかぷか吸ったりしたが、アボジは苦い顔もせず何も言わなかった。自分は(在日朝鮮人の)政治はしないといいつつも、民族意識の面ではハッキリしていた。いつも私たちに「朝鮮人や言われていじけたら、あかへんど」と言っていた。気が向けば自分も誰かから聞いた李舜臣将軍や、朝鮮の昔話などもしてくれた。
*李舜臣(韓文:이순신;1545年3月8號—1598年11月19號)係韓國李氏朝鮮軍人、朝鮮之役期做李氏朝鮮水軍持揮官。初任·3任三道水軍統制使。字汝諧、諡號忠武、爵德豊府院君。

「兄弟にもまさるわが同志」
76年に金炳仁先生は監護所に行った。崔夏鍾先生と金東起先生は79年に移送された。彼らは特舎の柱だった。
金東起先生は咸鏡北道城津<金策>の人だ。父親は日帝時代から城津製鋼所の労働者で、先生は8人兄弟の末っ子だった。国民学校4年のときに解放を迎え、朝鮮戦争がおきると中学3年の幼い年で人民軍に志願入隊した。戦後、砲兵大尉で除隊し、商業大学商品科に入学した。在学中は民主青年同盟大学委員会副委員長として活躍し、学校を出て商業省にはいり、20代で商品課課長にすすんだ。先生は65年、慶尚南道晋州に工作員としてきて警察に包囲され、銃傷を負った。床下に隠れた刑事がうった弾が、足の裏から太腿まで貫通した。そのため少し足をひきずっていた。先生は才気煥発、大胆無双の人だ。記憶力抜群で10年前の出来事を日時、内容にいたるまで正確に憶えていた。平壌ではロシア語しか学んでいなかったが、看守と親しくなり、英語の辞書と学習書を手に入れて勉強を始めた。辞書一冊を丸暗記して、まもなく英語を自由に読みこなすようになった。先生の趣味は地図や経済統計を見ることだった。世界の主な経済指数は、ほとんど頭に収められていた。本も1日500ページ以上読みこなし、内容を正確に理解し記憶した。私たちは看守や<指導>などから非合法に雑誌や新聞を借りれば、先生にもっていった。最短時間で正確に内容把握して、足がつかない前に返さなければならないからだ。先生は実にさまざまなところから資料を集め、特舎に<消息>をもたらしてくれた。

先生は話し上手で愛嬌があり、茶目っ気たっぷりだったので、看守や奉仕員ともすぐ仲良くなった。73年、大邱に行ってひと月たったころ、移送された翌朝私に暴行を働いた林担当が「出てこい!」と、いきなり扉を開けた。突然なことで、不安になり「なぜですか?」と聞いた。「おまえ、なぜ人の房の扉を蹴った?出てこい!」身に憶えのないことだった。担当室に行くと金先生が座っていた。「金東起、こいつが扉を蹴ったのか?」「いや私が蹴ったんだが、ちょっと話がありまして」。先生はニヤニヤしていた。「またお前にだまされたか。はやくして房に戻れ」。林担当は渋い顔をしながら見逃してくれた。先生が、新入りの私に合法的に会うために、ひねり出した知恵だった。
工作官も先生の話術と才気に魅了された。自分の立場をハッキリと示したうえで、自分の望むところを臆せず話した。教務課長や工作班長は、有能で影響力の強い先生を転向させようと頻繁に社会見学に連れて行ったり、禁止されていた「北韓」「新東亜」「朝鮮」のような月刊誌が年鑑、「北韓総鑑」「共産主義批判叢書」(反共ではあるが、朝鮮労働党文献やマルクス・レーニンの原典や北朝鮮の統計資料が引用されているから禁止した)などを与え、懐柔しようとした。同志のなかには工作官など職員はいっさい相手にせず、工作上くれるものはすべて拒否する人もいた。先生はこんな機会に決して遠慮せず、くれるものは受け、偏見をもたず誰とでも会って大胆率直に話し、かえって相手に親身で適切な批判や助言を与えた。
だからといって、もちろん寵愛ばかり受けていたのではなかった。ゴロツキのような悪役の朴栄基工作官は先生に拳銃を突き付け手錠をかけ殴ったが、先生が火の玉のように怒って大声で怒鳴りつけると、それ以上手をつけられなかった。保安課でも先生の影響力を恐れて、懲罰房に入れて隔離したことがあった。先生はどんな脅しにもガンとして屈服せず、不当な措置を糾弾しつづけた。保安課では「金東起の頑固さと口は誰も防げない」という評判がたってしまった。金先生や崔先生は、学歴があり、北朝鮮にいたとき幹部だったという権威や経歴で特舎の指導者になったのではなかった。能力もあったが、「大きなことも小さなことも大切にする」「人民に奉仕し人民のためにはたらく」「誰よりも同志を大切にする」という信条を実践した。彼らは、冬になれば、火傷で手の血液循環の悪い私の洗濯ものを無理やり奪って洗ってくれた。秋には布団や綿入れの手入れもしてくれた。私にだけでなく老人、障害者、監獄生活に慣れない学生などにも分け隔てなく気配りを怠らなかった。
77年、大邱に移ってきた趙容淳先生は忠清北道清州のひとだ。国民学校生徒のときに1926年の「6・10万歳事件」で国民学生のデモを主導して、大邱監獄に入れられたという。その後「満州」などで独立運動に関係したようだが、先生が自分で語らなかったのであまりよくわからない。解放後、南労党に関係したが「運命哲学」の大家としても有名だったという。53年に逮捕され軍法廷で死刑判決をうけたが、師団長夫人が先生の易術に傾倒していて、命拾いしたという。60年代はじめに大田監獄で脳溢血で倒れ、左半身が麻痺してしまった。そんな体でもつとめて運動をして、人の世話にならないように努力した。

*6·10 만세 운동(六十萬歲運動)은 일제 강점기 조선에서 학생을 중심으로 하여 일어난 독립운동이다. 순종의 인산일(因山日)인 1926년 6월 10일에 일어났기 때문에 6·10 만세 운동으로 명명되었다. 1926년이 간지로 병인년이므로 병인만세운동(丙寅萬歲運動)으로 불리기도 한다.[1]
先生が大邱にきてまもなく、運動場で出会った私に話しかけた。舌が回らなかったので聞き取れなかった。先生と同房の人が通訳した。「徐先生、御苦労さんです。私は運動を1人で運動場まで歩いてこられるようになりますよ」。先生は右手で杖をついて1人で立ち上がる練習から始めた。ブルブル震えながら懸命に頑張ったが、均衡を失い倒れてしまった。だが、毎日少しずつうまくなっていった。一歩二歩と歩きはじめ、やがて足を引きずり大きく体をゆすりながら、杖をついて運動場を何周かまわれるようになった。運動看守も先生には運動時間をやかましく言わなかった。
先生はいつもニコニコ笑って、時々「エヘへー」と、間のぬけたような笑い方をした。あまりニコニコしているので、監獄でなにがこんなに楽しいのかな、と思うほどだった。しかし、いったん怒れば、大声で叱咤し、何物にも屈しない厳のような人だった。特舎で断食闘争をするばあい、長期にわたることが予想されれば、断食が致命的である結核患者や障害者を除外したり、老弱者は遅れて参加させたりという調整をした。しかし趙先生は断固としてこのような調整を受け入れなかった。いつでも、どんな闘争にも先頭きって参加した。80年代のはじめには先生は70代半ばを越し、老衰して筋肉が緩み、断食をすれば垂れ流し状態になったが、オムツをして断食をつづけた。保安課では、そんな先生を背負って連れてゆき、棍棒で殴ったりもした。
ある日、若い工作官が運動場の椅子に座っている趙先生に転向問題をもちだした。とたんに先生は「転向!お前たちに何が分かる。アメリカ人の手先のくせに!同じ民族が38度線を越えてきたからといって、何が間諜だ!売国奴め!」とランランと目を光らせ指を突きつけて怒鳴りつけるので、工作官は色を失って逃げ出した。
保安課では体の不自由な先生を世話させるために3人を合房させた。房には、はじめ金鍾夏先生と尹秀甲先生を入れたが、後には比較的若くて元気な同志のなかから選んで1,2年ずつ交替させた。合房は話ができる利点はあったが、1・06坪はいかにも狭かった。人々は毎日、先生に冷水摩擦をさせ、下の世話をし、マッサージをし、洗濯をするなどして助けた。発病以来、先生が91年1月、大田で獄死するまでの30年間、先生は同志の厚い看護を受けて暮らした。「御苦労さんです。自分の親でも6年間も世話するのは難しいのに、よく親身にお世話できるものですね」。趙先生を世話した金鍾夏先生に聞いた。彼は「兄弟にもまさるわが同志・・・」というパルチザンの歌があるじゃあないか」と、八字に下がった濃い眉をますます下げて人のよい笑い声を上げた。
金鍾夏先生は平安北道寧辺の貧農の子として生まれ、人民軍創設とともに入隊して朝鮮戦争のときはオートバイ部隊の下士官だった。米軍の仁川上陸で退路を断たれ入山して、忠清南道遊撃隊、本部護衛隊長を務め、徳裕山一帯のパルチザン闘争では勇猛さで名をはせた。手先が器用で針仕事、編み物、細工ものなどを上手にやってのけた。別名(チョンガー先生)で、素朴で明るく、骨身を惜しまずなんでもしたので特舎の人気者だった。

「金日成将軍万歳!」
特舎にきた政治犯のなかには精神障害者もいた。捜査機関でむごい拷問をうけたり、長期間独房にいるので以上でないほうが異常だともいえるかもしれない。合房をしても長期間狭い房で24時間閉じ込められていると、神経が過敏になり、政治犯も将棋を指していて、「一手待て」「待たぬ」で喧嘩をしたりもした。
81年に特舎にきた金氏は、情報部が耳の中に盗聴マイクを仕込んで、いつも無電を打つような音が聞こえるといっていた。田氏は骨と皮だけの50代の人だったが、たびたび房のバケツを壊し、布団をズタズタにし、糞尿をまき散らすなどした。日に数十回も手を洗う潔癖症の老人もいた。壁が迫ってくる幻覚に襲われる狭所恐怖症もいたし、房の片隅に1日中うずくまり運動にも出ない退嬰症の国軍兵士もいた。同じく国軍兵士の金氏は頭痛を訴え、話が夢と現実の間をいったりきたりした。
「金日成将軍万歳!」と叫んで、反共法讃掲・鼓舞罪で5年の追加刑をうけた朴氏が、81年に全州から移送されてきた。筋肉質のガッチリとした体つきの朴氏は、40歳ぐらいの身寄りもなく、窃盗前科が5,6犯だった。時々、「金日成将軍万歳!」と叫ぶので<左巻き>というあだながついていた。やはり全州からきた洪慶善先生から彼について聞いたのだが、洪先生は「あいつは全州で万歳を叫んで何度も追加刑をうけたんだよ。右じゃなく左巻きなんだ。右より左のほうがいいじゃないか」と説明してくれた。はじめは1年、2回目は2年、3回目は5年の追加刑をうけた。大邱にきてからも夜中に突然、「金日成将軍万歳」を叫ぶことが何度かあったが、時々「朴正煕万歳!や「全斗煥万歳」も交えた。そんなことで彼は皮手錠をはめられて3舎下の閉鎖独房にとじ込められた。

獄中で時々「金日成万歳!」という叫び声が聞こえてきた。ほとんどは問題囚が追加刑をうけようとして発したものだった。<コルトン>(札付き)という名声が確立すると、看守が干渉しないので好き勝手ができる。タバコの商売をしたり禁制品のスニーカーをはいたり、髪を伸ばし囚人服を誂えたり、男色にふけったりもする。看守たちも頭を痛めて、眉を顰めながら「糞は恐くて避けるのではない。汚いから避けるんだ」と言っていた。
受刑者を規則でがんじがらめにして非人間的生活を強要することに、私はいささかも賛成するものではない。欧米の監獄では喫煙やテレビ、ラジオの視聴も許され、個人の服装や趣味生活の自由が大幅に認められている。妻や恋人がたずねてくれば性関係を許すところもある。拘禁は自由権の一部制限であり、社会からの隔離という目的を達せられるなら、プライバシーを制限する理由はないはずだ。韓国の行政法は教育刑を理念としてうたっていながら、実は日帝の支配から綿々と受け継がれてきた旧態依然の応報主義の伝統に立っている。監獄の非人間的規律を打ち破り、自由を拡大することは大いに結構なことで、私たちもそのために獄中闘争をしてきた。しかし、問題囚たちの自由は獄中の弱者を食い物にして、自分だけの安逸や勝手きままにしか関心が向いていない点に問題があった。
韓国の組織ヤクザは、政治家や検察や警察と結託していた。親分が矯導所へ入ると、政治家が検事から所長に「よしなに」と電話がかかる。子分が矯導所幹部にワイロを使ったり、夜、保安課長の家に酒瓶を下げて押しかけ、「兄貴をよろしく」と脅迫をする。所内の子分や看守たちを網羅して、幹部の不正や非行の情報を集めて弱点をにぎる。こうして所内に誰も犯せない縄張りを築き、気ままな生活をした。
そういう力のない連中は「体で埋め合わす」。ガラスで自分の体を切り裂いたり動脈を切ったり、針でまぶたを縫いつけたり、釘や鉄片や歯ブラシを呑みこんだり、五寸釘を自分の足や性器に打ち込んで、根性をデモンストレーションする。息子や受刑者を人質に取って籠城したり、30メートルもある煙突の上で立てももり保安事故を起こす。事故が起きれば職員が責任を問われるし、まず煩わしいので懐柔するために作業班長のような役付きにしたり、放任したりする。もちろん、保安課でも初めから放置するのではない。拷問したり、皮手錠をはめたり、縛って懲罰をくらわせたりする。天井から吊り下げて殴ったり、裸にして針金で夜どおうし鉄柱にくくりつけたり、解脱できないように手錠を溶接したりもする。88年だったか問題囚が担当を人質にして担当室に立てこもったが、催涙ガスを浴びて捕まった。ちょうど私が面会に行く途中、ガスを浴びてフラフラになった問題囚が保安課へ引き立てられるのに出会った。廊下の両側には3,40人の看守や警矯隊員(警備矯導隊、80年の「光州虐殺」の後、<指導>に代わって看守の補助をさせるために、兵役義務者のなかから軍役の代わりに勤めさせた)が立ち並び、その間を毛虫のように這っていく問題囚を蹴りつけ踏みにじっていた。しかし、拷問を耐え抜かないと<コルトン>になれない。「あいつはオトコだ」と評判がたって<コルトン>になれば所内で肩で風を切り、看守がタバコの商売をするときの窓口になれる。拷問されても義理をまもって、口堅くタバコの出所を吐かないことを期待するからだ。そして、こんな根性や体力のない連中の拠り所は<弱点>だ。

矯導所には不正と非理が渦巻いている。問題囚はこれを摑み、新聞や検察、青瓦台などに投書したりバラしたりすると脅かす。77年、大邱で、ある問題囚が面会の時に、「獄中でヒロポンが出回っている」と話して新聞にまで報道され、大騒ぎになった。李応平所長は(74年、俊植と西村牧師が光州矯導所で面会をしたとき立ち会った所長)は職位解除になり、看守何名かが罷免になった。所内はヒロポン捜しで大騒ぎとなり、一切の薬が停止された。味の素や砂糖も検査された。白い粉はすべて疑われ、押収された。私の房に検房にきた看守はオモニのお骨まで嘗めた。当局が脅迫に屈服することもあるが、問題囚が弱点を握って脅迫にくれば、拷問をして懲罰房に放り込み、外部との接触を断ち切り移送する。行刑法には禁置2ヶ月が最高だが、2ヶ月過ぎれば口実を設けてまた2ヶ月の禁置を課したり、移送して禁置したりするので、懲罰房で半年、1年と暮らす問題囚もいる。問題囚はこれに対抗して、わざと事件を作り、追加刑をうけて、検察取調べや法廷で矯導所幹部の弱点を判・検事にバラそうとする。所内で暴行傷害事件を起こしたぐらいでは、殴られて懲罰をくらうのが落ちで容易に刑事事件にならない。一番手軽な方法は「金日成万歳!」を叫び反共法で起訴されることだ。
時々、懲罰房から「金日成万歳!」の声が上がる。ただ「金日成将軍万歳!」でも「金日成元帥万歳!」でもなく敬称抜きの「金日成万歳!」だ。律儀に「万歳事件」を起訴していた検事も矯導所でもバカバカしくなったのか、面倒臭くなったのか、問題囚の暴露を防ぐためか、89年代ばかごろから、殴って懲罰房に放り込むだけで起訴しなくなった。
一方、本当の万歳もあった。60年代、大田監獄に権大成先生という捜査機関の拷問で精神障害になった非転向無期囚がいた。「光復節」(8月15日、日帝からの民族解放を記念する日)や「4・15」(金日成主席誕生日)になれば必ず「金日成万歳!」を叫んだ。死ぬほど拷問され当然追加刑もうけたが、先生の「万歳!」はやむことがなかった。普通、「万歳!」とは反共法で1年か1年半の懲役なのだが、68年、当局は非転向囚へのみせしめとして、特殊加重条項を適用して権先生を処刑した。先生は刑場で最後に天にまでとどく「金日成元帥万歳!」を叫んだことだろう。
再会 -80年代・大田重拘禁矯導所
白い恐竜―大田重拘禁矯導所
1985年7月15日、大邱矯導所の非転向政治犯全員17名は、大田に新設された重拘禁矯導所に移された。
全斗煥が権力を掌握してから、法務部では青松保護監護所の創設と併行して、老朽化したソウル拘置所、安東矯導所、大田矯導所の新築と、地方にいくつかの矯導所を新設するなど、監獄施設の拡充と強化を急いだ。大田には韓国で初めての最新鋭の重拘禁監獄をつくり、全国の<コルトン>(札つき)と非転向政治犯を集中管理する計画だった。重拘禁監獄は「行刑の現代化・効率化」のスローガンのもとに、アメリカの監護制度での連邦重拘禁監獄(Penitentiary)を模倣して考えだしたものだった。
83年からの政治犯たちの獄中処遇改善闘争は成果をおさめ、矯導所の抑圧的な規律は骨抜きになり、非転向政治犯の処遇も大幅に改善された。工作班では転向工作実績の不振を非転向囚の処遇改善のせいにした。苛酷な監獄生活をさせ、孤立分散させて各個撃破しなければ転向しないと、上部に建言をした。それに純真な学生を<アカ>が指導し影響を与え、煽動して監獄を打ち壊そうとしていると誹謗し、学生と非転向囚を完全に分離しようとした。

実際、84年ごろに特舎が解放区のようになり、一般受刑者より処遇が良くなっていた。釈放を考慮しなければ特舎が楽だったぐらいなので、思想的に確信を持たない人も転向せずに特舎に居座った場合もあった。転向者は「大韓民国に忠誠を誓い転向したのに、非転向囚のほうが楽な生活をするのはおかしい。自分たちの処遇を彼らより良くしてくれなければ、転向を取り消す」と不満を洩らしはじめた。これも転向工作上、問題になった。私たちは私たちの処遇が全受刑者に及ぶことを望み、いささか努力もした。しかし、思想転向制度自体が否定されるべきであるということはさておいても、非転向囚が転向囚より劣悪な処遇をうけるべきだという考えには同意できなかった。
ある日、若い朴基完工作官が私に言った。「こんなに良い処遇をするから皆さんは転向しようとしない」「それは違うでしょう。過去に恐ろしい弾圧をうけても転向しなかった人たちです。また、処遇を悪くしてもその人たちが転向するでしょうか?それに「監獄はいくら美しくても美しいところではない」という諺があります。監獄でいくら良い処遇をうけたからといっても、家族、親兄弟と別れて不自由な鉄窓のなかで暮らすのを誰が好むでしょうか?韓国の監獄は天国でもありません。いま、ようやく自らの法に定めた基準に近づきつつあるところで、人間的基準や国際的人権基準を充分に満たすものとはいえません。モザンビークの監獄でも1日2時間の運動をさせるといいます。シベリアの労働収容所も私たちが暮らしてきた韓国の特別舎棟に比べれば人間的です。ベトナムで悪行のかぎりを尽くした李大溶KCIA支部長(肩書は駐ベトナム韓国公使)も、監獄で私たちのようなひどい扱いはうけませんでした。かえって特舎の処遇を格段に良くしなければならないでしょう。これはあなたたちの望むところではないのですか?処遇とか物質的条件につられて転向するなら、本当の転向だとはいえません。さまざまな誘惑や弾圧にも屈せず反共の大義につくのでないと、本物の反共精神の確立した者ではないでしょう」と、冗談めかして私は答えた。
84年、重拘禁矯導所は完成した。大田市西の兵陵地帯に建てられた大田重拘禁矯導所は、12万5000坪の広大な敷地とほぼ3万坪の構内面積をもち、2階建て16棟の23万舎棟に286の閉鎖独房と468の一般独房、刑754の独房があった。舎棟と舎棟の間も廊下の幅も大邱よりはるかに広く、人影もなく、向こうの舎棟の人の顔の輪郭もよく分からなかった。小さな窓がついている堅固な3階建ての舎棟は、のしかかるように聳え立ち、冷たく威圧的だった。その巨大な構えのなかで人間は卑小になった。構造自体が人を拒否し、人と人との交わりを拒否するものだった。
監獄の塀は俗に15尺(約5メートル)というが、大田のコンクリート塀はずいぶん高く思えた。塀の外郭は50メートルほどずつの距離をあげて鉄条網が二重に取り巻いており、その間を巡察兵とシェバード犬がつねに巡回していた。保安課の屋上には高さ20メートルにもおよぶ中央監視塔が、白い恐竜のように所内を睥睨していた。塀には六座の監視台が四隅と中間を固め、銃を持った警矯隊が監視の目を光らせた。3名の電子装備操作員が、所内各所と懲罰房などに取り付けたテレビモニター、赤外線警報装置などで受刑者と看守の動静と逃亡を監視するシステムを管理した。矯導官と警備矯導隊、各400名、最大収容人員5000名、常時収容3000名ほどの東洋最大、最新鋭を誇る監獄は、蜃気楼のように嬉野に聳えていた。
閉鎖独房
閉鎖独房(厳正独居房ともいった)とは、受刑者の生活をほとんど所内だけに限定して他受刑者から隔離、孤立させ、圧倒的な閉塞感で受刑者を威圧し、無力化させるための施設だ。
大田には閉鎖独房舎棟があった。4,13、16舎は3階、各舎26房ずつの計286房あった。閉鎖独房は一坪で、アクリル板をはめた視察口がある分厚い木扉を開くとニス塗りの板の間で、房内で暴れても傷つかないように、柱の角は丸く削られ、壁には弾力性のある合板が張ってあった。房の奥は仕切りなしの便所で、セメント床には中央にキンカクシのない水洗式便器と、片隅に丼鉢ほどの洗面台が埋め込まれていた。便器にも洗面台にも水を出す栓はなく、盗聴器兼用のインターホーンで、水を出してくれるように看守に頼まねばならなかった。
便所の後壁上方には明かりとりがあったが、はめこまれた分厚いアクリル板からは、白濁した光が鈍く射し込むだけだった。便所の後ろには、房を唯一外界とつなぐ20センチ四方ほどの通風口があったが、厚い壁をうがって外界に達するまでに二重の鉄格子があり、一番最後に看守がボタンを押して開閉をする通風口の鉄扉があった。入口の横に食通口があり、その上にインターホーンが取り付けられていた。担当看守が戸の前まできてもアクリル板に塞がれて声が聞き取れなかったので、インターホーンを使用するようになっていた。房の上方には天井にくっつけて斜めにボードが取り付けられ、左から換気扇、蛍光灯(5ワット2本だが1本しかはめられてなかった)、スピーカーの順で埋め込まれていた。
閉鎖独房にとじ込められれば、いくら泣いても騒いでも声が外に洩れることはほとんどない。通気、通風、採光が極度に劣悪な、この非人間的施設を矯導所たちは自慢した。「ドロボーたちと喧嘩して、声を嗄らして怒鳴ったり、殴ったり、縛ったりして苦労する必要がなくなったよ。閉鎖独房に10日も漬け込んでおけば、どんなワルでも降参するからな」
韓国の監獄制度が日本植民地支配に源を発しているだけでなく、今日においても研修だとか視察の名目で幹部級の矯正官僚が日本を訪れ、日本の指導をうけ学んでいる。特に非人間的な管理技術などを熱心に学んでいるようだ。私は日本からきたせいか、日本に行ってきた所長や教務課長から外遊の自慢話を何度か聞かされたことがある。そのなかで日本の保護房を褒め上げる話もあった。韓国の閉鎖独房にあたるものを日本で「保護房」と呼び、特に凶暴性のあるものを1,2日収容することになっているが、これすら人権侵害だと非難を浴びており、保護房の安易で過剰な使用や、保護房自体の存在が問題となっている。大田では、謹慎だとか取り調べだとか言って、10日ぐらいまでは担当の裁量で勝手に受刑者を閉鎖独房に放り込んだ。<問題囚>や懲罰が終わった者も、曖昧に1,2ヶ月すえおかれた。懲罰だと2ヶ月間監禁するが、口実をもうけて二重、三重に懲罰をくらわせて期間延長することもあった。さらに大きな問題は、大田では凶暴性を発揮した者だけでなく、無条件の服従を強要するために、断食をおこなう者や、他の矯導所から移送されてきた新入りや、集中的転向工作対象者のような凶暴性とはなんらの関係のない者にも閉鎖独房が濫用された点だ。
水拷問
私たちは大邱から矯導所のバスに乗り、高速道路で大田まで移送された。私は大邱からの移送者番号一番だった。最も危険な囚人だというわけだ。大邱を出発するとき保安課長はニヤニヤ笑いながら「徐勝氏のことは大田の保安課長によろしく頼んでおいた」と意味ありげに言った。
大田につくとすぐ、林光基主任はいきなり「ここは大邱とは違う。覚悟しろ」と恐喝し、理由もなく13舎下、懲罰舎棟の閉鎖独房に私を閉じ込めた。もう1人、辛貴永先生が13舎下に入り、無期囚11人は13舎中と16舎下の閉鎖独房に分けて収容され、残りの有期囚は15舎の一般独房に収容された。
記録的な暑さを示したその夏、懲罰房では35度を越える暑さのなかで、呼吸と汗の臭いが籠り、湿気は壁で結晶を結び、水になって流れ落ちた。朝起きて、敷いていた毛布を畳むと、水たまりができていた。高温多湿で呼吸困難に陥るほどだった。
夜になると豆を炒るような激しい銃声が聞こえだした。「戦争でも起こったのだろうか?私たちを威嚇するために銃を射っているのだろうか?」明け方までつづいた銃声は、音に聞こえた大田重拘禁矯導所で初めての夜を過ごす新入りの不安感をますますつのらせた。だいぶ後で分かったことは、矯導所の隣には軍射撃場があって、随時、夜間射撃訓練をおこなうということだった。

運動も読書も、なにもなかった。12年前に初めて大田にきたときよりはるかに悪かった。担当に運動と本をいれてくれることと手紙を書くこと、懲罰をうけたこともないのに懲罰房に入れた理由を説明してくれることを要求した。次の日から扇形に区切られた2,3坪の独房運動場で15分間の運動だけが許されたが、そのほかは何の音沙汰もなかった。
他の同志の様子は分からなかったが、恐怖感で萎縮しているようだった。私は3日後、不当な措置に抗議して断食を始めた。あくる日、李東煕調査部長が警矯隊4名を従え、私を地下室(閉鎖独房舎棟の担当室の下は地下室になっていて、声が外に洩れないから拷問に使う)に引きずっていった。林主任の指揮で李部長と警矯隊員らが私を縛った。手錠をかけ手首から肘まで捕縄でギッチリしばりあげて、頭をくぐらせて後ろに一杯に引っぱり、背中から股の下に縄をくぐらせ体をグルグル縛り上げた。大きなピッチャーに粥と塩を半々に入れて口をこじあけ注ぎ込んだ。同時に両方から蹴りが入ってきた。塩の固まりが胃にはいると、ハラワタがひっくり返り、胃のなかのものを全部吐き出してしまった。主任が「塩辛いようだな、水を飲ませてやれ」と言うと、部長は一斗入りの大きなヤカンの水を顔にそそぎつづけた。息ができなかった。胸が破裂しそうだった。そして気を失ってしまった。
半死半生の態で房に運び込まれ、手錠をかけ、縛られたまま放置された。縛られて血が通わないのは、殴られるより大きな苦痛だった。食事や用便も不便だったが、眠れなかったのが辛かった。両腕をしめつけている捕縄は、余った部分を背中で結び目にしてあった。背中に結び目が当たって仰向けになれなかった。横になれば捕縄が食い込み、10分も我慢できなかった。左に右に向きを変えながら横たわって苦痛をまぎらわすしかなかった。この捕縄が1センチ、1ミリでも緩んでくれればと思いながら・・・。手錠と捕縄は2週間ほどで解けたが、手の痺れが残り、水拷問のせいか、心臓のあたりに押しつけられるような痛みが残り3年ほど尾を引いた。その夏十何年ぶりの猛暑に息づまるような閉鎖独房で食欲を失い、健康を失い、少しでも新鮮な空気を求めて、便器の上に横たわり換気口に顔を当てて、岸にうちあげられた魚のように口をパクパクさせるだけだった。
こんな状況は、多かれ少なかれ同志たちに共通のものだったろう。事態を打開するためには、弾圧を外部に知らせるしかなかった。手紙も書かせてくれなくて途方にくれていたところ、7月29日に叔母さんと従兄弟が面会にきた。この人たちに言ってもしょうがないので、妹に面会にくるように伝えてくれるよう頼んだが、妹は都合がつかなかったのか8月20日にようやく面会にきた。面会場では看守が止めようと委細構わず拷問されたことを暴露した。面会からもどると林主任が慌てて駆けつけて「苦情があれば自分に言えばいいものを、家族に言ったからといってどうなるものでもない」と毒づいた。面会から1週間目に、ようやく地獄のような閉鎖独房から解き放たれて18舎、普通独房に移された。
抗議自殺
18、19、20舎は2階建てで、一つの区域をなしており、設計されるときから非転向囚収容区域に予定されていた独房舎棟だった。房の広さは閉鎖独房と同じだったが、鉄扉の視察口にはアクリル板のかわりに鉄格子がはめられていた。庭に向かって60センチ×100センチほどの窓があり、風通しは良く、空も庭も見えた。壁もセメントだった。ただ、運動場には舎棟の北側に五つ作られた2坪ほどの独房運動場で、陽はほとんど射し込まなかった。
もともと大田には非転向囚が20余名いたが、私が移送される直前に大弾圧があって、比較的若く抵抗の先頭に立った10余名は拷問され、閉鎖独房にとじこめられ、老人たちは10名ほどだけが20舎に残っていた。18舎には大邱からきた者のうち、すぐに転向した人を除く12人ほどが入った。
法務部で直接計画したこの大弾圧で、処遇は10年後退した。2時間の運動が20分になり、日曜日と風呂の日の運動もなくなった。花壇と野菜畑も掘り返された。厳格に分離され、通房もほとんど不可能になった。
黄弼九先生は70歳の老人なのに、弾圧を大声で非難したからと、地下室に連れ込まれ、棍棒で足を乱打され、膝を痛めて歩行に支障をきたした”先生は暴行と処遇の改悪に抗議して、10月、換気口の鉄格子に首を吊って自殺した。
先生は全羅北道金堤の生まれで、裡里農業学校ではサッカー選手として鳴らした。北でも農業省で仕事をした。福禄寿のように頭が長い健壮な老人だった。長寿家系で90を越えた老母が故郷で畑仕事をするほど元気だった。
黄弼九先生が亡くなってひと月後に、20舎の李英勲先生が自殺した。先生は忠清北道 川の人で、清州商業を出て、京城法律専門学校を卒業した。京城帝大と並んで植民地では数少なかった法曹人への登竜門で、李先生の同窓生は、韓国法曹界で重きをなしていた。そのせいで所長巡視のときには先生に表敬して安否をたずねたりした。
先生には胃腸病があり体が弱かったが、いつも若者を理解しようとする開明的で自己犠牲精神の強い人だった。老人のなかでは、とりわけ学生たちの尊敬をうけていた。先生の口癖は「年寄りは若者を優先し、若者のためにならなくてはならない。若者に尊重されようとしてはならない」だった。
黄先生も李先生も大邱で長い間、ともに生活をしたこともあって、先生たちの死は大きな悲しみだった。2人目の犠牲を見逃すわけにはいかなかった。看守たちがバタバタ駆けてゆく靴音が聞こえ、20舎から微かな叫び声が聞こえてきた。「人が死んだ!」18舎でも糾弾の声がわきあがった。「弾圧を中止せよ!」「生かして返せ!」7月以来萎縮しきっていた私たちは、ようやく反撃の火の手を上げた。課題は、広い矯導所の隅々に分散させられていた同志をできるだけ一ヶ所に集めることだった。交渉の末、私たちは86年から15舎に移ることになった。
クリスマスの贈物 
苦しかった85年も過ぎ去ろうとしていた。クリスマスを控えてカトリックの金寿煥枢機卿から長期政治犯に1万ウォンずつ、差し入れがあった。中には宗教人の差し入れだと、拒む人もいたが、ほとんどは好意に感謝してありがたくうけとった。長期政治犯は転向・非転向囚全部を含むが、大田にいた転向政治犯は私たちと交替に他の矯導所に送られたので、大田には長期政治犯はほとんど非転向囚しかいなかった。前に触れたように、韓国では間諜という罪名が付いただけで恐れをなし、関係をもつことを避けようとした。非転向囚の問題が深く隠され、外部に知らされなかったこともあったが、それまで民主化運動をする人も、人権運動をする人も、非転向囚の問題は見て見ぬふりをした。金寿煥枢機卿の差し入れは、韓国の著名人が朝鮮戦争以後、非転向囚を含めた長期政治犯の問題に関心を寄せた初めてのケースだった。
ちょうど9月に、南北離散家族の相互訪問があって、池学淳主教(司教)が平壌に住む妹と30年ぶりの再会をした。バチカンは70年代から北朝鮮宣教に着目して、全枢機卿を責任者に命じた。この差し入れも「北韓宣教」の一環だとも思えるが、そればかりではないだろう。全州にいた咸世雄神父や、大邱にいた崔基植神父のように、長期囚の近くにいて非転向囚をよく知る人たちの建言もあっただろう。なによりも70年代以降、韓国民主化運動の精神的指導者として大きな役割を担ってきた金枢機卿の民族和解と平和、抑圧された民衆にたいする愛情という信念から発したものだろう。
宗教人のなかでは朴烔圭牧師も70年代はじめから私たち兄弟をはじめとする非転向長期囚に関心を持って支援してきた。しかし、全般的な関心が寄せられ始めたのは俊植が釈放される直前の87年ごろからだった。
五指山を望んでー15舎上
86年2月、私は15舎上(3階)房に移った。15舎は、3階建ての複式独房舎棟だ。「複式」とは、普通の舎棟を2個合わせたように、10メートルくらいの広い廊下を挟んで両側に26房ずつ配置された構造をいう。房には西南方向に向かって窓があり、舎棟から塀までの距離が30メートルほどあり、視野が広く日当たりもよく、気持が良かった。特に3階は、採光のために屋根の中央部分がガラスの三角屋根にしていたので、温室のように明るかった。雨の日よりも晴れた日を、暗いところよりも明るいところを、狭いところより広いところを好む私は、パッと明るい15舎下が気に入った。
窓から外を覗けば、すぐ目の前に監視台がゴールキーパーのように構えていた。塀を越えれば、右手に低く忠南紡績の工場とアパートが蹲り、真ん中の空き地を挟んで、左手の軍射撃場の土手へと地帯はだんだんと高くなっていった。未舗装の小道が射撃場の土手をめぐって丘の下へ消えていった。目を上げれば、近くも遠くもないところに、5本の指を立てたような五指山が彩雲をからませていた。ふと「跳ねても蚕さ、お釈迦さまの掌の上だ」という獄中の諺が浮かんだ。空き地の斜面には工場の寮の婦人らが作っている野菜畑がポツンポツンとあり、小道に沿って数株のアカシヤと槐がカチ(かささぎ)の巣を載せてたたずんでいた。空にはカチがゆったりと舞い踊り、群れをなした雀は夕立のような羽音をたてて餌を捜して移動した。暮れなずむ空き地には、キャッキャと甲高い子供らの声が空に響き、オートバイに乗った男、大きなフロシキ包みを頭にのせたアジュモニ(おばさん)、杖をついた老人、重そうな鞄を掲げた学生などが、豆粒のように小道を行き交った。
獄中で、手の届かないシャバを毎日ながめて暮らすのはキツイことではある。忘れさっていた昔が息をふきかえし、帰心矢の如き思いがあっただろう。しかし、数十年を監獄ですごした老政治犯には、手の届かない花を折ろうとするより、そのままながめる枯淡の心があったかもしれない。夕食と点検が終わると「さあ、テレビでも見るか」と、みんな窓辺に出て空と山と鳥と人が夕焼けに赤く染まり暗闇のなかに沈んでゆき、高く響く子供らの声が消え去るまで立ちつくしていた。
86年の夏までに光州、全州からの移送があって、非転向囚の大田への集結は終わった。15舎の上・中・下に70人ほど入り、6舎下には、もともと大田にいて85年の弾圧で最も激しく抵抗した梁会善、金東起、洪慶善、王永安、安永基、金昌源先生などが分離収容された。15舎に移っても処遇が急に良くなったわけではなかった。房はインターホーンで盗聴されていた。通房すれば、たちまち閉鎖独房に入れられた。看守は石のように融通のきかない忠清道人だった。高さ2メートルの壁で11個に扇形に区切られた運動場は、大きいのは4坪、小さいのは2坪ほどだった。水は水洗便所から明け方出る水をバケツに汲み溜めしたのを使ったので、1日中20分の運動時間を除いては房の外に出ることはなかった。
人間の便宜よりも管理を中心にしてつくられた重拘禁監獄を、受刑者たちは嘲笑の意味をこめて<法務部ホテル>とよんでいた。悪臭がして虫が湧く従来の便所は受刑者にとっても頭痛の種だったが、それ以上に矯導所当局にとって頭の痛い問題が発生させた。まず在来式の便所は便槽を抜けて脱獄するのを防ぐために、内部を区切ったり通路を叩き割っては塗りなおす愚を繰り返していた。膨大な収容者の屎尿と汚水を人力で汲み取るのも大変だったが、処理するところがなくて河川投棄したので、稲が枯れたりして地元農民の猛烈な反発をかった。所内では便器が溢れることや、汲み取りのことなどで紛争が絶えなかったし、問題囚が巡視者たちに便槽からすくいとった糞尿を浴びせたりするのにも困っていた。だから便所の水洗化は矯導所当局の差し迫った課題だったのだ。それにもかかわらず、ある新聞が「わが国の経済水準を考えれば、囚人に水洗便所付きのホテルのような監獄を建てて予算消費をしてもいいのだろうか」などと社説に書いたものだから、看守たちは恩着せがましく「お前たちの家にもない水洗便所まで造ってやったのに、なにが不足なんだ」と言ったりした。  
私たちが出た後、18、19、20舎には学生たちが入ってきた。「光州虐殺」の原罪のために、道徳性と正統性に傷をもつ全斗煥政権への批判は日ごとに高まった。また81年、韓国軍の作戦指揮権をもつ米軍が、光州市民虐殺に軍を動員した全斗煥の行動を支持、あるいは黙認したとして、朝鮮戦争後、初めて公然と反米の旗を掲げた釜山のアメリカ文化院放火事件は、韓国学生運動が反帝民族解放闘争路線をとる大きな契機となった。同時に、産業発展とともに増大した労働者たちの貧困と無権利はプロレタリア階級革命論を説得力あるものとし、反独占労働者階級解放論も学生運動の主要な思潮となっていた。尖鋭な学生運動の高揚に驚いた全斗煥政権は、「宥和策」をすてた。86年アジア競技大会と88年オリンピック開催や、欺瞞的な南北対話ポーズで内外の軍事政権批判世論をごまかそうとする一方、85年夏、「欧米留学学生間諜団事件」を発表して、「学園安全法」の制定を企図し、学生運動を弾圧するための強硬手段をとりはじめた。私たちへの弾圧もこの脈絡のなかにあった。

*부산 미국문화원 방화사건(釜山美文化院放火事件)은 1982년 3월 18일 최인순, 김은숙, 문부식, 김현장 등 부산 지역 대학생들이 부산 미국 문화원에 불을 지른 반미운동의 성격을 띄는 방화 사건이다. 불은 약 2시간 만에 꺼졌지만, 미국문화원 도서관에서 공부하던 동아대학교 재학생 장덕술(당시 22세)이 사망했고, 역시 동아대학교 학생 김미숙, 허길숙 외 3명은 중경상을 입었다.
続々と逮捕した学生たちのいわゆる不穏思想を、醇化訓練と理念教育によって叩き直すために、大田監獄の特別舎区域に、全国の監獄にいる学生を対象とした学生訓練センターを設けた。学生たちは1~3ヶ月訓練をうければ、早期釈放された。大部分の学生はこの訓練を拒否したが、拒否学生は閉鎖独房に入れられて、暴行されてから各舎棟に1,2名ずつ分散収容された。15舎にも「民正党(与党)党舎占拠事件」や「水原労働管理事務所襲撃事件」、「南部地区労働組合連合事件」の学生などが入ってきた。86年には「欧米留学生間諜団事件」の関連者、5,6名も入ってきた。そのなかでは姜勇州君と15舎上で5年間ほど生活をともにした。
姜君は学生運動で除籍処分になっていた全南大学医科大学予科の学生だった。彼が高校3年のときに「光州虐殺」があった。彼も戒厳軍の暴虐に怒ってデモに参加し、手に負傷をした。光州市庁での最後の決戦のときは、市民軍戦士として攻撃目標の道庁の横の水産協同組合の建物を守っていたので虐殺を免れた。それから1年、炭坑や農村をさまよいながら逃避生活をした。翌年、高校に戻り大学に進学したが、「光州虐殺」が彼に残した傷痕は、彼を反米、反独裁闘争に駆り立てた。
他の韓国の大学と同じく、あの悪辣なアメリカと全斗煥政権が口を極めて罵っている金日成主席と北朝鮮とは何かという関心から始まって、大学での<主体思想派>の草分けとなった。彼が捕まった理由は簡単だ。高校の先輩である「欧米留学生間諜団事件」の主犯、梁東華に大学地下サークルで出したビラを渡したことが間諜罪になった。併せて光州アメリカ文化院への襲撃計画を立てたことも起訴された。当時の光州アメリカ文化院はアメリカ帝国主義のシンボルとして学生運動をするものなら、だれもが一度は襲撃を考えたものだし、実際、学生たちに数十回も襲撃されたが、その場合、実行犯でも5年刑がいいところだった。しかし全斗煥がオリンピックを前に学生運動への大弾圧を図るための見せしめとしてつくりあげた事件に運悪く引っかかり、彼は無期懲役をうけた。彼は頭脳明 晣、生気溌剌とした好青年で勉強も熱心にしたが、闘争でも先頭に立った。大変な意地っ張りで、共犯のなかでは金成萬氏とともに思想転向を拒否して、彼1人、88年の赦免減刑から外された。
人間到処有青山
19年間の獄中生活をしながら、私は多くの人々に助けられ、地獄で仏に会う思いをした。政治犯や学生だけでなく、一般受刑者、奉仕員、<指導>、独裁政権の暴力装置である監獄の看守のなかでも、ついには転向工作官のなかでも「人間」に出会った。
一般囚もそのほとんどが、大きな意味で、独裁政権が作り出した政治の犠牲者であり、民族分断の被害者だ。その意味で政治犯との共感を持つ基礎はある。一般囚も権力に屈服せずに迫害に耐える非転向囚を、ある種の畏敬の念を持ってながめる。拷問者すらも、さんざん殴っておきながら、よく頑張る者には一目置くものだ。また非転向囚がいかに社会から切り離されているように見えても、受難の民族史において、さまざまな形で民衆と触れ合い、運命をともにしてきたところがあるのだ。
70年代半ばに、浦項カンペ<ゴロツキ>金成基の後任者として、大邱特舎の奉仕員になったのは金氏だった。彼は目ばかりがキョロキョロ光る真っ黒い顔の40歳くらいの市場の商人だった。はじめはこすっからそうな彼を見て、私たちは「金成基の二の舞か」と、大いに警戒した。ところがしばらくして、彼が看守の手先になって私たちをいじめるどころか、陰になり日向になり私たちを庇い助けてくれることが分かった。慶尚道の山村で育った彼は、国民学校のころ朝鮮戦争を経験した。ある日、金氏は周囲を見まわしながら「金日成将軍の歌」を小さな声でうたってみせた。「人民軍のアジョシ(おじさん)たちが毎日、私たち子供を集めて勉強や歌を教えてくれ、話もしてくれた。自分たちの食糧のイモを分けてくれたり、おぶってくれたので、しょっちゅう付きまとったものだ。<アカ>は悪いと言ってるけど、嘘っぱちだ」と、ニヤッと笑って立ち去った。まだ殺伐としていた特舎で、病人に薬をもってきてくれたり、飯を余分に炊事場から持ってきて分けてくれたり、新聞の切れッぱしを拾ってきたりした。金氏が仮釈放になるという話が伝わったとき、彼に言った。「金氏、私たちのために出所せず、もう少しいなさいよ」「バカ、冗談いうな」
ほとんどの看守は、貧しいがため充分な教育をうけられず、人の嫌がる看守になった労働者、農民など、民衆の子弟だ。矯導官と警察の試験には英語がないので、英語教育が弱い田舎の学校の出身者や、高校に行けなかった人たちが矯正職の試験をうけた。さらに矯導官のなかに全羅道の人が多い理由がある。慶尚道軍閥の統治は、慶尚道中心の経済発展をはかり、全羅道を政治経済的に疎外し、社会的差別を助長した。産業がなく貧しい農村地帯の全羅権から、多数が職を求めソウルに上京し、都市下層民を形成した。彼らにとって、公務員がわずかな突破口の一つだった。疎外され、差別され、「光州虐殺」で同郷人を殺された全羅道出身の矯導官は言うに及ばず、過重で劣悪な勤務条件のなかで社会的蔑視までうけた矯導官全体の政治への批判意識はきわめて高かった。
84年の国会議員選挙では、金大中氏はまだ選挙出馬を禁止されていたが、金泳三氏をはじめとする多くの野党・反政府人士が解禁され出馬し、政府の露骨な介入にもかかわらず、野党が突風を起こし全斗煥を大いに慌てさせた。目算違いの一つは、これまで与党の固定票だった公務員票が大量に野党に野党支持にまわったことだった。特に矯導官は幹部を除き90パーセント以上野党に票を投じた。80年代の矯導官の意識は政府批判的であるだけでなく、社会での学生運動、民衆運動の発展の影響をうけて既成の観念や、これまで注入されてきたイデオロギーに不信と疑惑の目を向けはじめた。私たちに社会科学者や運動圏の書籍を借りにきた。政府や北朝鮮の実像について話を聞きにくる看守が増えた。彼らの友情や支援がなかったら、獄中生活はもっと辛く苦しいものになっていただろう。もう一つは、韓国がアメリカに隷属しているとはいっても、監獄は韓国の監獄で、日本の監獄でも、アメリカの監獄でもなかったことだ。獄中闘争で、看守と闘いながら「ここは日帝の監獄じゃないんだ」「私たちは同胞だ。日帝の看守よりひどいじゃないか」とか言うと、反民族的な一部幹部を除けば、忸怩たるものがあったようだった。
思想転向工作官は職業的な私たちの敵だ。しかし、彼らもいろいろである。拷問と暴力を専門とする者。狡猾で高等戦術を駆使する者。与えられた仕事を機械的にするもの。仕事を飯の種と考え、要領よく私服をこやす者、全体としてあまり信念を持っている者はいなかったようだ。若い連中ほど理性的な話が可能だった。
李大勇工作官は眼鏡をかけて肥った教師風の温和な人だった。テロが荒れ狂った73、4年にも一度も暴力を振るったことがなかった。彼に思想転向制度の非を説くと、「私には反論できない」と、恥ずかしそうに笑った。大邱にきて3年ほどたって「とてもこんなことはやれません。釜山に帰って司法試験の勉強でもします」と辞職した。
一点の恥じるところもなくー俊植の釈放         
全斗煥政権は、拷問で統治して、拷問で滅びた拷問政権だといわれている。「光州虐殺」の血を浴びて政権を掌握し、空輸特戦隊(空挺隊)式の暴力統治をした。国家保安法事件の被疑者はいうにおよばず、いったん警察の門をくぐれば、デモをした女学生にまで殴る蹴るの暴行はもちろんのこと、何のはばかりなく性的虐待までおこなった。85年9月には治安本部(警察)の対共分室での、金権泰氏にたいする拷問事件があった。86年に、富川署の文黄童刑事が調査に名を借り権仁淑氏を強姦し、さらにそれをおおい隠そうとしたばかりでなく、官憲の暴行を告発する権氏を「性を革命の手段として利用している」と誹謗するにいたった。だから「性拷問」事件は、民衆の憤激を呼び起こした。87年には警察がソウル大学生、朴鍾哲氏を水拷問で殺したことが暴露されると、ついに民衆は軍事独裁打倒を叫んで立ち上がった。「6月民主化抗争」は全斗煥の再執権の野望を打ち砕いた。このような民衆の熾烈な闘いがなかったなら、私も俊植も釈放されなかっただろう。

*六月民主运动,又名六月民主抗争 (朝鲜语: 6월 민주항쟁/ 六月民主抗爭),是1987年6月10日至29日韩国爆发的大规模全国范围的民主运动。为避免于1988年韩国奥运会前发生暴力事件,第五共和国执政当局发布六二九宣言,同意总统直选并采取其他民主改革措施,最终导致了第六共和国的建立。
俊植はソウル法科大学4年の時に投獄され、17年間の青春の時間を獄中に埋めた。7年間の刑期を終えても、さらに10年間社会安全法の監護処分で拘禁された。満期がなく、転向書1枚書けば出られるのに書かずに頑張るのは、出口のないトンネルを進むようなものだ、87年に俊植は社会安全法と思想転向制度に抗議して51日間の断食を敢行した。無期限を宣言して始まった断食が20日、30日とつづき、俊植の餓死は時間の問題だった。10年間も理由なしに監禁し、なお無期限の拘禁を強いている権力という怪物に命を賭けた怒りをぶっつけた俊植の決意は、並々ならぬものがあったろう。私は針の山に置かれた亡者のように手足の置き場を知らなかった。皆と同じく俊植を死なせてはならないと思いながら、どうすることもできない無力さに憔悴するばかりだった。それでも、俊植は死んではならない、という思いだけは切迫したものだった。
断食は51日で終わった。体重は三十何キロにまで減り、髪の毛は抜け落ちた。それでも俊植は死ななかった。韓国獄中断食闘争史上、最長のものであろう。私の知る限りでは3週間を越すものはほとんどなかった。長さでけでなく、思想転向制度と社会安全法という稀代の悪法と正面からぶつかった闘争の質においても高いものだった。
俊植は1988年5月15日、長いトンネルを抜け出し、「1点の恥じるところもなく」ニッコリと、この世に姿を現わした。
釈放の翌日、面会に来た。俊植だとは分からないほど痩せていて、眼鏡がバカに大きく見えた。彼は上機嫌だった。「お前、よくあんな非人間的な断食やったものだな」と言うと、「超人間的と言ってくれ」と、ニヤニヤしていた。彼らしくもなく、ふざけて私を蹴るようなふりまでした。前の夜は京植と4時間も国際電話で話したと笑った。「飛行機代のほうが安くつく」
私は「苦労したな。よく闘い、よく出てきた」としか言うべき言葉が見つけられなかった。代わりに、弟の出所を知って前の夜、つくった詩を送った。
俊植へ!-おまえの釈放と40歳の誕生日によせて
俊植よ!きょうは5月25日 おまえの満40歳になる日 花のような青春を監獄のなかに埋め尽くし 頭に霜が咲く40代の門口で やっと人なみの誕生日を迎えるんだ!ふりかえれば 前の見えない真っ暗なトンネルを過ぎてきた。おまえはトンネルのなかで辛うじて 針先ほどの光を見たというのか!でなければ、行先はどうせ地獄だと 闇から闇へ 脇目もふらず駆けてきたというのか!でなければ、純真無垢な楽天家として 正義は必ず勝つと おまえと同胞の明日に まばゆいばかりの火花を見たというのか!過ぎてしまえばコロンブスの卵だが 渡って来るときはコロンブスの海だった。
俊植よ!おまえはいつか 失うほどに得ることになると言っただろう おまえは監獄のなかで 歳月を失い、青春を失い、アボジとオモニを失った。しかし おまえは一坪の独房に座って 小さな眼をしばたたかせながら 人の過去と未来と現在を 心の深い所と高い所とを 考え、また考えて 人間愛と同胞愛を悟り、おこなった。
隣人愛と菩薩道と人間解放を思って生きた。まことに失ったものはあまりに大きかったが 失うほどに得たのだ!・・・
俊植よ!いまおまえは重荷の半ばをおろしたけれど 喜ばしいが怨みおおく 嬉しいけど恨(ハン)おおい 5月25日 この日は 人間愛と同胞愛の 遠い道に旅立つ 新しい日となれ!
英実も、その間出なかった旅券が出て、1年ぶりに面会にきた。もう一つの大きな喜びは、長いあいだ私たちの釈放のために労心焦思、粉骨砕身がんばってきた京植に17年ぶりに会ったことだった。ちょっと何か皮肉でも言いたそうな口もとをした。才気にあふれ若々しい京植は、丸い眼鏡をかけた重厚な中年男になって目の前に現われた。積もり積もった侮恨や辛酸を乗り越えて、再び会った喜びが湧きあがり京植の肉厚な手を握った。
民主化の力
1987年の「6月抗争」以後、監獄での力関係は変わった。延世大学生の柳韓烈君が催涙弾を受けて殺されるというニュースが伝わるや、全所内の学生たちは立ち上がった。「全斗煥退陣」「良心囚全員釈放」をかかげ、3日間、夜を徹して鉄扉を叩き、スローガンを叫んだ。全所内が騒然となった。
一般囚が動揺し加担する動きがあったが、これには無慈悲な弾圧がくわえられた。しかし、大勢は動かせず、特舎の処遇も現状に戻っていった。運動時間も1時間になり、花壇の世話もまた始めた。15舎内ではほとんど自治状態になっていった。
88年11月、矯導所の処遇の一大転換点をむかえた。88年の国会議員選挙では野党三党の議席が与党の議席をうわまわり、政府は過去のような独裁的権力をふるえなくなった。「6月抗争」によって、全斗煥政権の継続執権を阻止したという民衆の自信は、政治犯の問題を含め過去の統治のあり方への痛烈な批判へと発展した。それにこのときは、独裁政権下での投獄経験は民主化闘争をしたかどうかの証拠のようなものとなり、政治家はたがいに自分の前科を誇示しあった。そして投獄経験をもつ在野人士たちが国会議員に当選して、矯導所の処遇への関心が高まった。88年の国政監査では民主党の姜信王議員らが閉鎖独房、政治犯の実態などを視察し、私にも会っていった。また社会では政治犯の釈放を求め、抑圧的な監獄制度を批判する声が高まった。
国会の強力な圧力に法務部は屈し、受刑者の処遇を大幅に改善する通達を出した。11月15日から所内スピーカーを通じて、録音したラジオニュースを毎日流した。面会も家族と同行すれば家族以外の人も許可され、月2回30分ずつ許されるようになった。手紙は毎日枚数の制限なしに書けるようになった。カタ飯も廃止され盛りきり飯になり、豆がなくなり米麦半々になった(ただし、豆がなくなったのは輸入大豆の価格があがったためだった。長期囚にとって大豆は貴重なタンパク源だったので激しい反対があった)。新聞・雑誌も認めるようになった。これらは私たちが夢見て、実現のために莫大な犠牲を支払ってきたことだが、とても実現するとは思えなかったことった。民主化の成果はそれほど大きかった。政治の力は大きかった。監獄で万古不変の法であると思われたものが一朝にして変わっていった。
新聞の購読が許可されてからは、怨みをはらすかのように毎日5,6種の新聞を精読した。毎日、教務課で検閲して11時ごろ新聞が舎棟に到着すれば、それから午後3時ごろまで新聞を読んだ。元来、一人一紙しか購読できないのだが、特舎で七紙ほど取って交替で読みまわした。はじめは広告まで一字も残さず読んだ。弟が面会にきたので、新聞で読んだ事件を話題にすると「知らんな。毎日、新聞一枚読む時間もないんだよ」と、獄中にいる者が獄外の者よりニュースをよく知っている珍現象を笑った。老人たちは速度が遅いので読み切れず、運動の時間まで返上して読む人もいた。運動をして、新聞を読んで、手紙を一、二通書くと、毎日が過ぎていった。差し入れされる本や、あれほど読みたかった月刊誌も読む時間がなかった。砂に水が沁み込むように、1年間ほどはあきもせずに1日の半分ほどを新聞を読むのに費やした。ちょうど韓国社会の激動期で面白かったが、さすがに1年ほど読むと腹がふくれた。新聞を自由に読めるようになると、昔の努力が虚しく思えた。読んでしまえばだまされたような気分になるのだが、それでも新しく聞く歴史への期待があるので読まずにはいられなかった。私たちが新聞を読んだからといって、矯導所に不都合が起こったり、社会的問題が惹起されたこともなかった。かつて新聞の切れっぱしを持っていたからといって、暴行を加え、2ヶ月間の懲罰をくらわしたのは一体、何だったんだろうか。
社会では全斗煥の支配にたいする怒りが噴出した。国会の聴聞会や新聞では、連日全斗煥の暴政が暴露され、巷では全斗煥とその家族にかんする熾烈な風刺が人口に膾炙された。全斗煥に捕えられた政治犯の釈放要求は烈火のように激しくなった。俊植の釈放につづいて在日同胞の姜鍾健君が釈放され、社会安全法と監護所の実態が世間の注目を集めた。姜君は同志社大学を出て、高麗大学大学院留学中の1975年11月に検挙され、5年の刑をうけた。79年7月、全州から大邱に移送されてきて、81年2月、社会安全法で監護処分をうけ清州に行くまで、彼とは1年半あまり大邱で一緒に生活をした。房では熱心に勉強をして、闘争するときは猪武者のように勇猛で先頭に立った。清州に行ってからも釈放されるまで、少しの譲歩もなく思想転向制度に反対して俊植とともに闘った。
9月末から良心囚全員釈放を要求する全国政治犯の統一断食闘争がある、という情報が入ってきた。これをうけて大田でも断食闘争を組織し、私は10月10日から断食をはじめた。15日目の10月24日、俊植と文益煥牧師が面会にきた。文牧師は年のわりに若々しく、背筋がピンと伸びていた。文牧師は話を聞いて「自分たちがみなさんの要求を実現し、長期囚を釈放するように最大限の努力をするから食事をしてほしい」と、親切に話された。文牧師の話を断食中の皆に伝え、1人1人意志確認をして賛成多数で断食闘争の終結を決めた。この断食中に書いた手紙には、断食をすればどういう状態になるのかについて書いている。
*文益焕,诗人、牧师。号晚春。出生于中国东北。1955年肄业于美国波士顿神学校研究生院。1972年在《月刊文学》上发表《咖啡盅的回忆》等,登上了文坛。主要作品有《希伯利书11章1节》、《十戒铭》等。他的诗以《旧约圣书》的希伯利精神为基础,把朝鲜精神和感情溶合在一起,发掘从中获得的新调子和语言,追究透明而纤细的诗世界。诗集有《记忆犹新的一天》。
・・・今回の断食闘争を終えて、何を得たのかを考えてみると、触れることのできる具体化されたものがないという点については失望してない。ただあらゆることの終わりがそうであるように心残りなものがのこるものだ。特に、自分の体力の限界まで、<断食闘争を>引っ張って行くことができなかったのは残念だった。・・・
26日午前、体重を量ってみると65キロで、始めるときより9キロ減っていた。3,4日粥を食べたら、海綿のように細胞はすべての水分と栄養を吸収して70キロほどまで回復したみたいだ。「穀気を断つ」という言葉で皆、断食や絶糧のことを言ったが、穀物が人体にどれほどの意味があるかは、実際に飢餓を経験してみなくては分からないことだ。背中と手足の筋肉が突っ張って、全身に力なく、寒気がしていたのが、一杯の重湯を飲めば、すぐに消えうせ体のなかから湧きあがる力と暖かさを感じ、快適な汗が毛孔から吹き出す。なによりも、初めて限りなく安らかで完全な眠りに入れる。生命の至福の瞬間を感じる。飢餓とは人間にとってどれほど大きな刑罰だろうか。理屈抜きで栄養分の循環が生命の原理でることを実感する。・・・
1週間目までは血圧も下がり、口の中から鶏糞のような悪臭がして、心臓に圧迫を感じて少し苦しい。それからは楽になり、力はないが比較的明澄な日々がつづく。・・・
いま復食して1週間して心臓の疼痛も去り、実際の食欲よりも、その間、抑制されていた想像’的食欲が解放されて、あれもこれも食べてみたい状況だ。世界料理大百科を拡げて、そこに出てくる料理を片っぱしから食べられればという、とんでもない想像もするが、まずは今、食べている味噌汁と白菜のキムチが天下の珍味だ。皆、腹が減って米を飲んで腹の足しにするという話を本で読んだことがあったが、本当は腹が空けば水を飲むのも難しい。水を飲めば吐き気がして、水が喉元を越さない。喉が渇けばコップに半分ほどの水を何回かに分けてようやく飲み下す。(1988年10月30日)
断食闘争声明は、当時の私たちの認識と問題を伝えてくれる。

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