옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움/獄中19年―韓国政治犯のたたかい/19 ans de prison - Combattre des criminels politiques coréens/獄中十九年:韓國政治犯的鬥爭XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos/Suh Sung (서승徐勝)⑥
声明書
いま世界は和解と平和の時代に入り、我々(我が民族)は分断時代から統一の時代に入っている。米帝によって強要された分断は、平和と繁栄と幸福を夢見る同胞の望みを踏みにじり、以後半世紀に及ぶ血と涙と残酷の時代をもたらした。
しかし、我が民衆の巨大な勇気で受け継がれてきた粘り強い反米・反ファッション民族統一・民主化のための闘争は、4・19学生革命、5・18光州民衆抗争を経て6月民主化大抗争の勝利を生み出し、民主化と統一への転機を迎えた。それにもかかわらず、米帝と軍事独裁政権はこの勝利の成果を歪曲して軍政の継続を取り繕い、民主化と統一の熱望をあらゆる手段で封鎖しようと狂奔している。
民族の血と涙を吸う狂暴な圧政者米帝と軍事独裁は、統一と民主化をささやきながら、旧時代の遺産をそっくりそのまま温存しようと画策している。統一か分断か、民主化か独裁かの重大な分かれ道に直面している我が同胞、すべての民衆は、いま決然とした覚悟をもって民主化と統一の道、永久の繁栄の道に進み出さねばならない時である。ここに、分断時代半世紀を通じてずっと変わらないファッション抑圧の現場、ここ獄中で我々は次のように主張しつつ断食闘争を展開する。
1 思想転向制度は、半万年のわが国の歴史において、我が民族の奴隷化の極致として、良心・思想―内面精神世界さえも奴隷化するために、日帝がこの地に持ち込んだもっとも凶悪な抑圧装置である。日帝敗亡以後、米帝とその手先たちは、民族の分断統治のためのもっとも有用な手段として思想転向制度を引きつづき発展させた。転向という言葉と創出した当事者日本では、敗亡以後すぐに思想転向制度は軍国日本のファッション統治のもっとも凶悪な装置として指弾され、姿を消したにもかかわらず、この地では日帝統治の亡霊として生き返り、反統一・反民主の怪物に成長した。転向は、人間の良心と自主性、天賦人権の尊厳性の放棄を意味するものであり、転向制度に反対するかしないかの問題は、まさに人権と良心の自由、民主主義と民族良心を守るのか守れないのか、の試金石である。
2 国家保安法は、国家と民族のためではなく、数多くの捏造劇を通じて政権安保を保障する装置として、民衆を抑圧し、民族統一を阻害してきた。社会安全法は、日帝とナチの悪法の精髄を再復活させたものであり、政治的犯罪行為、違憲行為であって、裁判手続きなしに権力者の恣意によって罪のない者を無期限拘禁をする現代世界に類例のない悪法である。民主化の熱火のなかで悪法廃止が叫ばれてから1年近くが経ったにもかかわらず、第6共和国のありとあらゆる華麗な化粧、装いのもとに、第3・4・5共和国(朴正煕政権―全斗煥政権)軍事ファッションの醜悪な胴体はそのまま覆い隠されている。憲法は必ずや廃止されねばならない。
3 盧泰愚は良心囚釈放、大赦免を万人の前で公約しつつ誕生したが、数次にわたる詐欺劇によって公約は地に落ち、期待は不信に変わった。民心を誘導するための彌縫策は、軍事政権継承の本質をよりいっそう浮かび上がらせるにすぎない。さらに、捏造された間諜の罪名や未転向にことよせて、我が大田矯導所の良心囚は釈放の対象から徹底して排除されているのが実情である。刑法の間諜の罪名は、捏造のために意のままに適用されてきたのであり、我々は国家および軍事機密を探知、漏洩した事実もなく、間諜の汚名は反共とヒステリーを誘発させるためのスケープゴートを作りだすためにデッチ上げられたものである。転向制度の不当性はすでに述べたとおりであるが、転向を通じて独裁権力にたいする奴隷的盲従を釈放の条件にすることは、近代法精神に反し、民主国家と称する資格さえも失うものである。まして未転向を理由に身体障害者、病人、80歳近い老人まで30-40年を越えて死ぬ時まで懲役に服させるのは、非人道、反民族の醜悪な本質を露わにするものである。
4 我が国の行刑法は、日帝の朝鮮監獄令にその母胎を置き、歴代独裁政権の民衆弾圧の道具となってきた非民主的、反人権的法である。獄中の人権―生命・健康の保障、良心・学問・芸術の自由―の保障を基礎として、運動、執筆、読書、書信、面会、学習器材使用、健康診断、診察、投薬治療などの問題が大幅に改善されねばならない。特に未転向にことよせて数十年もの間、良心囚にもっとも非人間的かつ不利益な処遇を適用している現在の行政制度は廃止されねばならない。
1、 日帝残滓、分断と民族憎悪の道具、良心の自由を蹂躙する思想転向制度を撤廃せよ!
1、 非人道、反民主、ファッション統治の悪法国家保安法、社会安全法を廃止せよ!
1、 我々は間諜ではない。良心囚を全員釈放せよ!
1、 人権を蹂躙する日帝遺産の行刑法を改正せよ!
1、 真の民主化と民族統一を勝ちとろう!
統一念願44年(1988年)10月15日 大田矯導所良心囚一同
88年12月、第5共和国(全斗煥政権)清算の一環として政治犯の赦免が断行され、非転向囚や一定の服役年数を満たさない転向政治犯などを除外する200名ほどが釈放された。私はこのとき無期刑から20年の有期刑に減刑された。赦免のあった12月21日、公州矯導所から釈放されたばかりの張棋杓氏が朴勲 先生と李富栄氏とともに面会にきた。9年振りに会った張氏は私を抱擁した。そして大邱で1時期ともに過ごした老人たちの安否から問い出した。私と彼は再会した。彼はいつか老人たちとも再会するだろう。私は逮捕されたとき「間諜」の汚名を着て、<アカ>い標識をつけて韓国できわめて孤独な存在だった。深く分裂をしていた私たちは、誰が民族分断の被害者かという認識の深化によってお互いを知り、私たちの敵との闘いのなかで、お互いが同じ民族として、同じ民衆として再会した。わが国のアイロニーは全国土が監獄化されて、監獄が監獄でなくなったことだ。政治犯が監獄に溢れて人々は政治犯でないことを恥じ、政治犯は政治犯でなくなった。
「新東亜」1990年5月号で、金容沃教授は私のことにふれて次のように書いている。「・・・彼は間諜から、間諜であることを通して間諜でない無罪人になった。その歴程こそがわが民族、民衆の認識体系の転換の偉大な象徴である。間諜を間諜でない<人間>として見られるように私たちを変えてくれ、私たちを<人間>にさせてきた偉大な苦難の歴史を実現した勝者なのだ」。これは私にたくして間諜と呼ばれた政治犯たちのことを語っているのは言うまでもない。
統一への願い、自由への夢
さて、私が減刑され、自由の身になるのが時間の問題になると、まだ当時残っていた60余名の非転向囚の釈放への願いを再び考えざるをえなかった。非転向囚はいかなる理想的妥協をも拝し、「純潔性」や「志操」を守って獄中で果てる覚悟をしていた人たちだった。しかし、彼らとて自由や解放を望む心がなかったのではなかった。長い獄中生活でいく度も解放への期待に胸踊らせたこともあった。故郷で待つ愛しい人との再会を願って身を焦がしたこともあった。彼らは革命家として民族が解放され、統一が実現され革命勝利の裡に釈放されることを最も望みはしたが、釈放のさまざまな可能性を決して排除するものではなかった。
85年、私が蒸籠のような閉鎖独房に閉じ込められていたとき、弾圧の総指揮者、襄応燦所長はスピーカーで「独房で意地を張っている左翼囚の諸君は、戦争でも起これば北傀が助け出してくれると思っとるかも知れんが、とんでもないことだ。大韓民国は昔と違う。北傀が攻めてくれば、緒戦で粉微塵だ。早く「赤化統一」の妄想を捨てて自由大韓の国民になれ」と放送した。しかし、これこそ所長の妄想だった。戦争が勃発すれば、まず誰よりも先に<処分>されるのは非転向囚であることは、朝鮮戦争のときの経験からしても明らかであった。戦争を想定した非常訓練がある時ごとに<処分>のシナリオが練習されていた。76年に板門店でポプラの木を米兵が切り倒したことから朝米の中立地帯警備兵の間で衝突が起こり、米兵が殺された。第7艦隊が出勤しグアムからもB52が飛来して軍事的緊張が高まったときには、特舎の周辺に武装看守たちが配置された。毎月おこなわれた「民防衛訓練」では、爆撃機の襲撃を想定して防空壕に待避させるものだが、特舎では逆に錠をかけた扉を鎖で繋いでしまったこともあった。「爆撃や火災があればどこにも逃げられずに、死ねとということか。なにが待避訓練だ」と、政治犯は皮肉った。非転向囚たちは、こんなときにはいつも<処分>の影に怯えなければならなかった。だから非転向囚ほど平和を願うものはいなかった。
*판문점 도끼 살인사건(板門店-殺人事件, 영어: Korean axe murder incident) 은 1976년 8월 18일 판문점 인근 공동경비구역 내에서 조선인민군 군인 30여명이 도끼를 휘둘러 미루나무 가지치기 작업을 감독하던 주한 미군 장교 2명을 살해하고 주한 미군 및 대한민국 국군 병력 절대다수에게 피해를 입힌 사건이다. 판문점 사건, 판문점 도끼 만행 사건, 8·18 도끼 만행 등으로도 불린다.
かつて<民族解放・統一>、他方で<滅共統一>を目指して朝鮮戦争という内戦が熾烈に戦われた。その後、何度も武力紛争の危機を経てきた。38度線は、南北どちらにとっても国境ではない。いまなお休戦ラインであり、その意味では戦争はつづいている。しかし、国際間における、そして南北間のパワーバランスと政治情勢、さらに南北同胞の平和への願いによって戦争の再発は阻止されてきた。朝鮮戦争以後、朝鮮半島では戦争や地域紛争といえるものがなかったことから見ても分かるように、人々の固定観念や先入観とは違って、朝鮮半島の状況は第三世界のなかでは意外と安定的であったと思われる。特舎の政治工作員のほとんどが71年の「7・4南北共同声明」以前に南にきた人であることから分かるように、南北の相互浸透も、それ以後は激減して、客観的には南北間の現状固着度が高まったといえるだろう。
非転向囚が切望したのは、平和統一による「解放」である。統一こそが彼らの願いであり、生涯をかけてきた目標だった。統一こそが最も美しい自由を彼らにもたらしてくれる。しかし、その美しい夢を果たせないまま、多くの政治犯が獄中で死んでいった。統一は、近づけば遠のいていく蜃気楼のようにも思われた。
過去、分断国や敵対国の間で捕虜や政治犯の交換がなされたことがしばしばあった。南北朝鮮は朝鮮戦争から半世紀の間、いかなる交換もしなかったことできわめて例外的である。非転向囚の間では、釈放の大きな可能性の一つとして、これを考えたこともあった。68年にアメリカのスパイ船プエブロ号が北朝鮮に拿捕され、80余名の米兵が抑留されたときや、ベトナムで戦争が終わり韓国兵や情報機関員が捕虜になっていて北朝鮮に引き渡されるという噂があったときには、彼らと交換されるのではないかという期待が高まったこともあった。
*미 정보함 푸에블로호 피랍 사건 (Pueblo Incident)은 미 린든 B. 존슨 행정부 시절이던 1968년 미 해군 소속 정찰함 USS 푸에블로 (AGER-2)가 동해 공해상(동경 127 °54.3 ', 북위 39 °25 ')에서 북한 해군에 의해 나포되어 82명의 미 해군 승무원들이 11개월이나 붙잡혀 있다가 풀려난 사건이었다.
78年9月には中央情報部本部から、かなり高位にみえる要員2名が矯導所にやってきた。彼らは非転向囚全員と次々に面談して、健康や収容生活で困ったことなどを聞いた後、もし釈放されればどこに行きたいかを聞いた。そして「いい便りがあるかもしれませんから、御健康に」と、立ち去った。これにたいする私たちの判断は、政治犯の交換、あるいは南北関係を打開するために政治犯を北に送還あるいは国外追放するのではないかということだった。当時、韓米関係が悪化して、韓国が独自安保体制を築くために鎮海の軍港をソ連に貸与するとか、核開発をしているとかいう話が、巷に流れていた。北側も南北対話の条件として常に駐韓米軍の撤退、国家保安法の廃止とともに政治犯の釈放を挙げていたので、交換や送還の話は現実性があるようにも思えた。
しかし、冷戦時代の終結の決算としての非転向囚の釈放は、1994年にいたる今も、まだ南北間で解決されるにいたっていない。80年代に韓国で反米民族自主の気運が高まるなかで、北朝鮮の人々を同胞としてみる見方や政治犯を民族自主化、統一運動の先駆者として再認識する見方が現われた。また、保安処分に名をかりた裁判なしの無期限拘束という苛酷な刑罰を課す社会安全法や、70-80歳にもなる病弱者を何十年も投獄する非人道性が内外の批判を浴び、私の釈放以後、70歳以上、あるいは危篤の患者など、非転向無期刑の政治犯の一部釈放が実現された。93年2月には朝鮮戦争中に捕まり34年間監獄と監護所で非転向を通した李仁模先生が、人道上の理由で北朝鮮に送還され、家族と再会した。そしてこれは民族の心をうつヒューマンストーリーとして韓国の多くの人々から支持をうけた。この地上で最も隠された所、南北分断の最も深い狭間である政治犯特別監獄にいた私たちにとって、予想もできなかった大きな変化であった。
*리인모[1](李仁模, 표준어: 이인모, 1917년 8월 24일 ~ 2007년 6월 16일)는 조선인민군 언론인이다. 종군기자 출신으로, 남한에서 34년간 비전향 장기수로 있다가 석방된 후 1993년 3월 19일 최초로 조선민주주의인민공화국으로 송환된 사람이다.
*비전향 장기수非転向長期囚는 공산주의 사상을 포기하지 않고 대한민국의 감옥에서 장기간 생활한 국내 빨치산, 남로당, 조선인민군 포로와 남파 간첩을 지칭하는 말이다. 또 다른 명칭으로는 ‘미전향 장기수’가 있는데 이는 '아직 전향하지 않은 장기수'라는 의미로 미전향 장기수를 곧 전향해야 할 대상으로 보고 전향을 강요하거나 유인하겠다는 뜻이 담겨 있어서 현재는 ‘비전향 장기수’라는 명칭이 주로 사용된다. 비전향 장기수를 다룬 매체로 영화 《송환》과 《선택》이 있다.
1919年3月1日の正午 起きろう 上げ潮の様な大韓独立万歳 太極旗は国中で三千万がひとつになり この日は我が義よ、命よ、教訓である 漢江の水はまた流れ、白頭山は高かった 烈士よ、この国を御覧なさい 同胞よ、この日を永く輝かそう
いよいよ釈放が決定した。釈放の前日、教務課長が私を呼び出して言った。「金をもうける方法を教えてあげましょう。明日の朝、出所すれば報道陣があなたを待ち構えているはずです。みんな、あなたの写真を撮りたがっています。頭巾をかぶって報道陣に顔写真を撮らせないようにして、「写真を撮りたければ、1億ウォン出せ」と言いなさい」「誰が1億ウォンも出して、私の写真を撮るもんですか」「それじゃ頭巾をしたまま、まっすぐ日本に行って入院して形成の手術をうけなさい」と、最後のコメディを演じた。
2月28日の朝4時、房の扉は開かれた。外はまだ真っ暗だった。舎棟の同志たちは、夜どおしまんじりともせず、まるで自分らの釈放を待つように私の釈放の瞬間を待っていた。扉が開くと、各房から声があがった。「徐先生、健康で!」「徐勝先生、タシマンナヨ(また会いましょう)!」
3階から2階へと降りながら、1房ずつ食通口を開けて同志たちと1人ずつ握手を交わした。「徐同志!(一路平安)!」
それから
身寄りのない釈放者の出所風景は、明け方、獄門から古靴のように放り出されれば、再び監獄の世話にならないようにとの縁起かつぎに豆腐を踏んづけ、矯導所に向かって唾を吐きかけ足早に立ち去る、といったように侘しいものだという。しかし、私の出所のための舞台づくりは、ずいぶんと大掛りで姑息なものだった。
ソウルにある俊植のアパートまで私を送るために、護送車両団が仕立てられた。私は乗用車に乗せられ、教務課長と保安課長が両脇を固め、ソウル西部署の対共課長が助手席に陣取った。先導車のジープには工作官と刑事が乗り込み、後のバンには荷物を積んで、部長と担当が乗り込んだ。「ふん、ちょっとしたVIPじゃないか。なんでこんなに物々しいんだ?」と言うと、教務課長は「徐勝氏を無事に送り届けるためです」と、慇懃無礼に言いわけをしながら、サングラスを準備したから掛けろとか、窓の外を見るなとか、こうるさく注文をつけた。
矯導所の外部の外正門には、私の出所を取材するために報道陣が夜を徹して待ちかまえていた。報道陣をまくために、私を乗せた車は正面を出ると塀にそって左に折れて、鉄条網に作りつけられた職員が出入りする小さな戸を出て、射撃場の土手に沿った小道へと向かった。その小道までの登り斜面には、出退勤する職員たちが自然に踏み固めたような道がついていたが、車を通すために前日、急遽、道を拡張したという。道はデコボコして、ぬかるんでいたので、車は横転しそうに大きく傾いたり、スリップしながらようやく前進した。斜面を登りつめると、さっきまで私がいた15舎上の11房が朝日を背にして現われた。あの房の鉄格子の間から日がな眺めた風景のなかに、私は、いまいる。大きな風景に容れていた小さな窓は膏薬のように白亜の獄舎に貼りついている。あの窓から私の新しい世界への旅立ちを見守っているに違いない獄中同志たちの顔を見分けるすべもない。
絶え間なく無線で本部と連絡を取りながら、護送車両団は京釜高速道路をソウルへと進んだ。おおよそ2時間、緩やかな兵陵を越えると高層建築が林立するソウルが視野に入ってきた。混雑した市内を抜けて、ソウルの西北の高台にある俊植のアパートの駐車場に進入した。車から降りると英実が泣きながら抱きついてきた。その後には、京植と従兄弟のスンジョンが、そして少し離れて半身に構えた俊植が私を迎えた。それからはフラッシュが光り、マイクが前後左右から突き出され、豆腐が口に押し込まれ、狂乱の人波の渦に巻き込まれてしまった。京植とスンジョンは人波に揉みくちゃにされながらも、私をやっとの思いで人の渦の中から引き抜いてアパートの9階へと導いた。お祝いに訪れた出所政治犯、在野運動の指導者などで一杯だった。卓上には、心づくしの料理が所せましと並べられ、私たちは祝の盃を挙げた。人々はなんでも聞きたがった。「出所して初めて飲む酒の味は?」「すこし水っぽいみたいで・・・もうすこし強いのがいいかな」。爆笑が沸き上がった。20年近くもアルコールをほとんど口にすることのできなかった私を慮ってワインを準備したようだった。しかし生きて再びこの世に戻ってきたという感慨。また再び兄弟が抱き合った喜び、良き人々との再会の感動を祝うのにワインはいかにも薄く、取り澄ましすぎているように思えた。しばしの祝宴の後、休息の暇もなく、午後からの記者会見のために、私は光化門にあるプレスセンターへと向かった。
やはり興奮していたのだろうか?足が地に着かなかった。左右の安全も確かめずに車道を突っ切ろうと足を踏みだした私を、京植がハタと取り押さえた。「危ないじゃないか。よく確かめて渡れよ」。車も信号も横断歩道もない獄中で19年をすごした私は、文明社会の約束ごとや初歩的な生活習慣も忘れ去っていた。19年の間に面目を一新したソウルの街並みは、私にとって別に驚異ではなかった。獄中でも本や伝聞によって、ソウルがどんなものかという概念はつくられていたし、うわっつらの繁栄にたいする否定的心性もあったからだろう。しかし、当時はハッキリと自覚はしなかったが、シャバに住んでいる大勢の人たちが道を行き交いながらお互いにぶつからず、適当な距離をとっていることのほうが、はるかに馴染みのないことだった。籠のなかで長いあいだ飼いならされた鳥が、飛ぶすべを忘れてしまうように、人と人の心の距離をどう取ればいいのかよく分からないことがあった。
プレスセンターは100名ほどの新聞・放送・テレビ記者、カメラマンなどで溢れていた。こんな記者会見をしたのも生れて初めてのことだった。過ぎ去った苦痛の歳月、私たち兄弟の釈放をあれほど待ち望みながら、「その日」を見ずにこの世を去ってしまった父母のことを思うにつけても喉の奥から熱いものがこみあげて、しばしば絶句せざるをえなかった。しかし、私は獄中に残された同志と祖国分断の現状を想い、気をひきたてて話をつづけた。①19年間、多くの困難にあい、そのなかで多くの迷いを繰り返しながらも、良心を守り非転向で出所したことは、私の小さな成果だった。②出所するまで一番大きな助けを父母からうけた。自主的人間として、卑屈でない人間として、心も体も健康に生きよという父母の言葉を忘れることはできない。③冷戦分断体制の骨格をなしている国家保安法をはじめとする悪法を廃止し、民族和解を実現して統一を成し遂げなければならない。④多くの年老い病んだ政治犯を残したまま、私が1人釈放されたことは遺憾だ。⑤思想転向制度は良心・思想の自由に反し、・・・民族を分断している体制のイデオロギー的装置であり、分断体制を最終的に支えているものだ。統一を念願するものとして、これを受け入れることはできない。
つづいて記者たちの質問があった。そこでは多くの記者が、私の火傷へのセンセーショナルな興味を示したり冷戦的黒白論による断罪には関心を持ちながら、分断の狭間でなおも呻吟する政治犯や民族の絶叫、分断された民族の不条理な運命と非人間的な状況という、より本質的な問題に関心が薄いことに気づき失望せざるをえなかった。
人と人とが利と得をもって入り乱れて争い、支配と抑圧が多層化され、偽装された、縄のようにからみあう茫々とした世の中に再び足を踏み入れた。目まぐるしく変わり行くこの世の奔流の真っただ中へ、19年たっても変わることなく分断された民族と人間という重荷を乗せて、私は新しい船出をした。
解説 水野直樹
水野 直樹(みずの なおき、1950年10月31日 - )は、日本の歴史学者。立命館大学客員教授。京都大学名誉教授。専門は朝鮮近代史(植民地朝鮮)、東アジア関係史。「日本の植民地支配を肯定的に評価しようとする日本学界の流れに対抗し植民地近代化論を批判してきた」として、韓国の全南大学校から後廣賞を受賞した[1]。八木晃介、上田正昭らと共に「朝鮮学校を支える会」の呼びかけ人も務めている[2]。京都府出身。
미즈노 나오키水野直樹 (미즈노 나오키, 1950 년 10 월 31 일 -)는 일본의 역사 학자 . 리츠 메이 칸 대학 객원 교수. 교토 대학 명예 교수 . 전문은 조선 근대사 ( 식민지 조선 ) 동아시아 관계사. "일본의 식민지 지배를 긍정적으로 평가하려고하는 일본 학계의 흐름에 맞서 식민지 근대화론을 비판 해왔다"며 한국의 전남 대학교 에서 후 히로 상을 수상했다 [1] . 야기 코우스케 , 우에다 마사아키 들과 함께 ' 조선 학교 를지지하는 모임'의 대변인도 맡고있다 [2] . 교토 부 출신.
本書は、1970-80年代韓国の政治犯監獄を、そこにとらわれた政治犯の立場から記録した希有の書である。
すでに1981年、同じ岩波新書の一冊として「徐兄弟、獄中からの手紙」(徐京植翻訳)が刊行されている。私たちはそれを通じて監獄にとらわれている徐兄弟の精神の営みを知ることができたのだったが、獄中から家族にあてた手紙という制約のために書き記すことのできないことも多かった。徐勝氏が釈放されて4年後の今、私たちは獄中の様子を克明に記した本書に接することになった。そこには、私たちが想像すらできなかった政治犯の状況が、悲惨さとある時にはユーモアすらともなって記録されている。
多くの政治犯が獄中で死に追いやられる悲惨さ、一方で、政治犯と監獄の役人とのやりとりに感じられるユーモア。非転向政治犯専用の獄舎が「大韓民国で最も思想と言論の自由がある」という逆説。-これらのことは、19年にもおよぶ獄中生活を体験した徐勝氏でなければ書けないものである。
徐勝氏は在日朝鮮人として、1945年4月、京都に生まれた。日本が戦争に敗れたのは、その4ヶ月後のことであった。日本の植民地として支配されてきた朝鮮は解放されたが、米ソ両国によって南北に分断され、それぞれに正統性を主張する政権が成立するという事態が生じた。それは現在まで続いている。
植民地時代に日本に移り住んでいた朝鮮人の多くは、解放直後帰国したが、さまざまの事情から日本にとどまる人も多かった。戦前から引き継いできた日本社会の朝鮮人に対する差別という環境のなかで、在日朝鮮人は南北統一、祖国帰還への期待を抱きながら、戦後日本に生れてきた。日本に定住することを考える人が増えたのは自然であった。
このような状況に一つの変化が生じたのは、1965年の日韓基本条約が結ばれてからである。日韓の国交樹立によって両国の関係はさまざまな面で緊密になったが、在日韓国人も祖国とのきずなを強めることになった。”母国留学生制度”が設けられ、若い世代の在日朝鮮人が祖国に長期滞在し言葉・文化・歴史などを学ぶ機会を持った。徐勝氏が日本の大学を卒業した後、ソウル大学に学んだのは、このような状況を背景としていた。徐勝氏をはじめ多くの若い在日朝鮮人は、新たな生き方を切り開くことに大きな希望を抱いていたのである。
しかしながら、在日韓国人を迎えた韓国の人々の見方・認識は、それとは異なる方向に作用することが多かった。在日韓国人の”日本化”された生活習慣や言葉に対する違和感・反発、南北の支持者が同じ家族や親戚として同居したり交際したりする在日朝鮮人社会への理解の乏しさのために、在日朝鮮人を異なる存在とみなす傾向が強かったことは否めない。それが、多くの”在日朝鮮人留学生スパイ事件”を生む背景にもなり、1970年代の韓国では在日朝鮮人政治犯に対する関心がほとんど見られなかったことにもつながった。ただし、本書に描かれているように、獄中では在日韓国人を含む反国家政治犯と学生ら反政府政治犯との共同の闘いが70年代の半ばに始まっており、それがのちに在日韓国人政治犯への関心のひろがりを生み出したことも指摘しておかねばならない。
徐勝氏が祖国に留学した1960年代末から70年代初めは、朴正煕政権が転換期を迎えていた時期である。日韓条約以後、日本をはじめとする先進資本主義国から資本と技術を導入して経済開発をすすめていた朴政権は、政権を維持し長期化させるために独裁的な体制に再編成する過程を歩んだ。朴大統領は、大統領の三選を禁じていた憲法を改正したうえで、1971年4月の大統領選挙で野党候補金大中氏を押さえて三選を果たした。徐兄弟の事件が発表されたのは、ちょうど大統領選挙投票日の一週間前のことであった。
さらに翌72年には大統領の権限をいっそう強化した維新憲法を制定して、いわゆる維新体制を築いたが、その下で労働者の権利は制限され、政権を批判する野党政治家や学生、宗教人の民主化運動は厳しく弾圧された。
このような朴政権の独裁強化は、国際情勢によっても正当化された。ベトナム戦争の長期化、韓国のベトナム派兵、そして米国の敗退に示されるように、東アジアにおける東西冷戦がもっとも厳しい局面を迎えていた時期である。それが朴政権に独裁体制の口実を与えた。1972年に南北朝鮮が「自主的・平和的統一」を原則とする7・4南北共同声明を発表し、しばらくの間南北交流がおこなわれたが、人権を抑圧する独裁体制には変化をもたらさなかった。
日本による植民地支配の遺産、朝鮮戦争の分断固定化にともなう南北の軍事的緊張、東西冷戦と経済開発を背景とする独裁体制の強化、これらの要因が積み重なって抑圧的な維新体制が成立し、その下で数多くの政治的事件が生み出されることになったのである。監獄では政治犯に対して暴力をともなう思想転向強要がなされたことは、本書に描かれるとおりである。
韓国で政治犯・思想犯と呼ばれる人々を裁く代表的な法律が、国家保安法である。これは、李承晩政権が成立した1948年に制定された。北朝鮮などを「反国家団体」と規定して、それら「反国家団体」との一切の接触を禁じることによって、朝鮮半島の南北分断を固定化し、韓国の政治・経済・社会・文化・思想など国家と社会のすべての側面を律してきた。朴政権の時代につくられた反共法が1980年に国家保安法に統合されるなど、国家保安法は何度かの改定を経て現在に至っているが、その基本的骨格には変化がない。韓国の憲法が政権交替などのたびに改正され、大きく変化してきたのに比べてみるとき、国家保安法こそが南北朝鮮の関係を規定する韓国の”基本法”という性格を持っていることがわかる。
しかし、私たちが忘れてはならないことは、国家保安法に見られる人権抑圧の制度が戦前の日本の法律・制度を引き継いだものであることである。戦前日本の治安維持法と韓国の国家保安法の類似性はしばしば指摘されるところであるが、本書では、特に思想転向制度や監獄の制度そのものが戦前の日本のそれを受け継ぐものであることが指摘されている。朝鮮に対する植民地支配がこのような形でいまも爪痕を残していることを、本書を読んで感じさせられる。
徐兄弟の事件は、日本をはじめ世界の各地で多くの人々の関心をよびおこし、救援の声があげられた。徐勝氏が大火傷を負ったこと、そして第一審で徐勝氏に死刑判決が下されたことが人々の関心を強め、救援運動を活発なものにした。徐兄弟、とりわけ徐勝氏は韓国の政治犯の代表的存在として広く知られることになった。
70年代には、詩人金芝河氏の逮捕・投獄、金大中氏の拉致事件、2人の日本人を含む多数の被告が裁かれた民青学連事件、相次いで発表された”在日韓国人スパイ団事件”、そして80年代にも、光州事件、金大中氏をはじめとする”内乱陰謀事件”など、韓国では多くの政治犯が生み出されたが、徐兄弟に対する関心は絶えることがなかった。それは、彼らの生き方、主張が法廷での陳述や獄中からの手紙を通じて伝えられる一方、監獄で思想転向が強要されていること、徐俊植氏が刑期終了後も投獄され続けていることによって、むしろ広がり強まったといえるかも知れない。
日本や世界での救援運動は、たしかに死刑判決を無期懲役に減刑したり、徐勝氏の入院加療を実現したりする効果をもった。また、徐兄弟への関心の持続が、暴力的な思想転向の強要を手控えさせる役割を果たしたといえるかもしれない。しかし、釈放を実現するには韓国そのものの民主化運動の高まりを待たねばならなかった。
1979年に朴政権が崩壊した後、民主化への期待が高まったが、この”ソウルの春”は再び軍部によって踏みにじられた。光州での民衆虐殺を経て登場した全斗煥政権は、部分的な手直しをしながら独裁体制の維持を図った。しかし、70年代から弾圧に屈することなく展開されてきた民主化運動は、83年前後には再び力を取り戻し、次第に幅広い民衆をまきこんでいった。学生・労働者のなかには社会主義をめざす急進的な動きも見られた。何よりも、一定の経済成長を遂げた韓国で労働者の権利を抑え続けることはもはやできないことだった。
ソウル・オリンピックの開催決定、”漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長などによって、韓国が世界的な注目を浴びつつあったなかで、政治犯を取り巻く状況も少しずつ変わっていった。徐勝氏は1983年から84年の時期を「監獄の春」と名づけている。その後、揺れ戻しの時期もあったが、韓国社会の全体的な民主化への動きが監獄にも及んだことは確かである。
民主化の運動がもっとも高まったのは、1987年の”6月抗争”である。全斗煥大統領が政権を盧泰愚氏に引き継ぐ形で強権体制を維持しようとしたことに対し、韓国各地で広範な民衆のデモが続き、盧泰愚氏は「民主化宣言」を出して事態を収めねばならなかった。この民主化の約束がすべて実行されたとは言い難いが、民主化運動の高まりは確実に政治犯の運命に影響を及ぼした。
刑期終了後10年にわたって投獄されてきた徐俊植氏は、1988年5月、17年ぶりに釈放された。翌年9月には、徐俊植氏投獄延長の根拠となっていた社会安全法が廃止された(代わって釈放後の政治犯を監視するための保安観察法が制定された)。そして、徐勝氏が懲役20年に減刑された後、1990年2月に釈放されるにいたったのである。
70年代には、詩人金芝河氏の逮捕・投獄、金大中氏の拉致事件、2人の日本人を含む多数の被告が裁かれた民青学連事件、相次いで発表された”在日韓国人スパイ団事件”、そして80年代にも、光州事件、金大中氏をはじめとする”内乱陰謀事件”など、韓国では多くの政治犯が生み出されたが、徐兄弟に対する関心は絶えることがなかった。それは、彼らの生き方、主張が法廷での陳述や獄中からの手紙を通じて伝えられる一方、監獄で思想転向が強要されていること、徐俊植氏が刑期終了後も投獄され続けていることによって、むしろ広がり強まったといえるかも知れない。
日本や世界での救援運動は、たしかに死刑判決を無期懲役に減刑したり、徐勝氏の入院加療を実現したりする効果をもった。また、徐兄弟への関心の持続が、暴力的な思想転向の強要を手控えさせる役割を果たしたといえるかもしれない。しかし、釈放を実現するには韓国そのものの民主化運動の高まりを待たねばならなかった。
1979年に朴政権が崩壊した後、民主化への期待が高まったが、この”ソウルの春”は再び軍部によって踏みにじられた。光州での民衆虐殺を経て登場した全斗煥政権は、部分的な手直しをしながら独裁体制の維持を図った。しかし、70年代から弾圧に屈することなく展開されてきた民主化運動は、83年前後には再び力を取り戻し、次第に幅広い民衆をまきこんでいった。学生・労働者のなかには社会主義をめざす急進的な動きも見られた。何よりも、一定の経済成長を遂げた韓国で労働者の権利を抑え続けることはもはやできないことだった。
ソウル・オリンピックの開催決定、”漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長などによって、韓国が世界的な注目を浴びつつあったなかで、政治犯を取り巻く状況も少しずつ変わっていった。徐勝氏は1983年から84年の時期を「監獄の春」と名づけている。その後、揺れ戻しの時期もあったが、韓国社会の全体的な民主化への動きが監獄にも及んだことは確かである。
民主化の運動がもっとも高まったのは、1987年の”6月抗争”である。全斗煥大統領が政権を盧泰愚氏に引き継ぐ形で強権体制を維持しようとしたことに対し、韓国各地で広範な民衆のデモが続き、盧泰愚氏は「民主化宣言」を出して事態を収めねばならなかった。この民主化の約束がすべて実行されたとは言い難いが、民主化運動の高まりは確実に政治犯の運命に影響を及ぼした。
刑期終了後10年にわたって投獄されてきた徐俊植氏は、1988年5月、17年ぶりに釈放された。翌年9月には、徐俊植氏投獄延長の根拠となっていた社会安全法が廃止された(代わって釈放後の政治犯を監視するための保安観察法が制定された)。そして、徐勝氏が懲役20年に減刑された後、1990年2月に釈放されるにいたったのである。
本書には、1970-80年代に監獄にとらわれていた政治犯・思想犯の生々しい姿が描かれている。なかには朝鮮戦争以来40年間も獄中生活を強いられている老人もいる。徐兄弟その他の政治犯が釈放された後、いまだに監獄にとらわれている人も多い。徐勝氏は、彼らの自由を願って、その1人1人の名前、経歴、獄中での生活を記録している。彼らは朝鮮半島の分断の“犠牲者”である。そしてその背後には、何十倍、何百倍もの“犠牲者”が存在している。すでに世を去った人を数えれば、何千倍、何万倍にもなろう。いまも朝鮮半島の暗い片隅に囚人としてとらわれている人々の存在を忘れることはできない。
1993年にあh、朝鮮戦争以来非転向政治犯として投獄されていた人民軍従軍記者李仁模氏が、北朝鮮の家族のもとに送り返された。韓国で広く知られるようになった政治犯・思想犯を、南北分断の苦難をともに生きてきた同族・同胞として受け入れようとする動きの表れである。
本書は、徐勝氏自身の獄中記録であると同時に、新しい未来をめざす動きを監獄の中で希望を持って見つめてきた、そしていまも見つめている人々の記録でもある。(みずのなおき・京都大学助教授)