日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争★本多勝一的战争理论“侵略” /Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" /本多勝一の戦争論「侵略」をとらえる目②


中国や朝鮮への日本の侵略に関しても同様です。たとえばドイツの場合だと、教科書を作るのにポーランドと一緒に作っています。つまり自分たちが侵略した国と相談しながら作っている。日本でいえば、隣の韓国と相談して(教科書を)作るようなものです。これに比べたら、日本はもう全然話になりません。もちろん、いろいろな暴虐行為やひどい虐殺は日本だけがやったのではないと、これはハッキリ言えます。いろんな国の歴史にそういうことはあります。しかしその後で、それに対してどう対応したかが問題になるのではないか。

時間もありませんが、たとえば南京大虐殺にしても三光作戦にしても、私自身はそのころ小学生、いや南京事件のときは小学生にもなっていませんでしたから、私には責任はないと思います。しかし、それをそのまま放置すると責任は出てくる。南京の否定派の活動は、虐殺などが第一の犯罪だとすると、いわばセカンド・レイプ、第二の犯罪になる。戦後の日本が犯した第二の犯罪です。そして、私たちがそれを放置することは、第二の犯罪の共犯者であり、「第三の罪」になると思うのです。そういう意味でも、これを放置することはできないと思っている次第です。どうもありがとうございました。 会場からの質問に答えて

アイリス=チャン著「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」の功罪をどう考えるか?
これは大きな(問題で)、まずアイリス=チャンの本のプラス面についてです。この点(アメリカ人に知らせたこと)は、その意味は確かにあったでしょう。しかし、非常に不幸な状況の中で出版されたと思うのです。一つにはアメリカ側の状況もあります。(彼らは)ドイツについては始めの頃から延々と糾弾していたのに、ではなぜ日本についてはやらなかったのか。そういうチャンスが無かったわけでは決してなかったのに、です。
たとえば、私自身の経験で言いますと、南京大虐殺の私のルポが、アメリカで去年(2000年)の今ごろ出版されました。実は翻訳会社、つまり日本の本を外国に紹介する日本著作権センターという所があるのですが、これがもう10年以上前から、もっと前かもしれませんが、私の「南京大虐殺」のほか「アイヌ民族」ともう一つ、計三つくらい紹介してあったのです。こういう本があるが、アメリカで出版しないかと。しかし、(アメリカの出版社は)全然とびつかなかった。そのかわり面白いことに、彼らはアイヌのほうを先にやりたいと言った。「アイヌ民族」の翻訳を出したいとといって、まずそれが進行したわけです。翻訳というのは結構時間がかかりますから、これがまだ出ないうちに、アイリス=チャンの本がベストセラーになった。そのときになって初めて、「南京大虐殺」を先にやりたいと言ってきた出版社があったのです。つまり関心がないという、そういう状況がありました。「この順序が逆だったらよかったのに」と、アメリカのアジア問題の専門の学者たちは言うのです。アイリス=チャンの本が逆に後で出ていたら、つまり誤解だらけの本であっても後で出ればまだ良かったのにという意味です(そのようになった理由、背景はいくつかあると思います)。

一つはまず、ご存知かと思いますが、最近「日本たたき」という現象が大分ありましたが、その中でもアメリカにおいて南京大虐殺の告発が準備されたという背景があったと思います。
もう一つは、アジアへの差別があるのではないか(ということです)。つまり、アメリカはドイツについてはもう沢山やりました。しかし「アジアのことなんかどうでもいいんだ」という差別があるのではないか。その一つの例はカンボジアだと思います。あれはすごいことです。一国の何分の一が消えてしまう。殺してしまうという、すごい虐殺が1970年代後半にあったことは、はっきりしています(ルポ『カンボジア大虐殺』=本多勝一集第16巻・朝日新聞社)。あれに対する欧米の関心が、どうもたいしたことはなかった。欧米諸国であったこの種の問題よりもはるかに関心が低いのです。そのようなアジア差別の中に、南京もあったのではないか。

*カンボジア大虐殺(カンボジアだいぎゃくさつ、英: The Cambodian genocide、クメール語:ហាយនភាពខ្មែរ または ការប្រល័យពូជសាសន៍ខ្មែរ)は、カンボジアで急進的に共産主義を推し進めたカンプチア共産党中央委員会書記長(英語版)のポル・ポト率いるクメール・ルージュが引き起こした組織的迫害かつ虐殺である。1975年から1979年の間に150万から200万人が犠牲となり、これはカンボジアの1975年当時の人口(約780万人)の約4分の1に相当する。

それから、日本の周辺の状況もあります。一つはあの頃、つまり日本が第二次大戦で負けた5年後、朝鮮戦争が始まります。延々とひどい戦争があって、朝鮮の人たちにとってはそれどころ(日本の侵略戦争の告発)じゃなかったのですね。さらに中国には革命戦争がありました。また革命戦争の後は文化大革命など混乱が延々と続くわけです。そういう状況にあったと思います。それからもう一つ、国連の中に有力な、この問題を追及しようという有力な国が(ありませんでした)。中国は国連(常任理事国)なのですけれども、それどころじゃなかったのです。
もう一つは、アジア諸国のレベルの問題です。つまりヨーロッパの場合、ドイツに侵略された周辺のフランスや、周辺政権の政治家たちのレベルがかなり高かった。ところがアジアの場合、東南アジアも含めていろんな国がありますけれど、残念ながら日本に対しては、日本政府に一種の買収をされるような、そのレベルの政権が非常に多かった。フィリピンとかインドネシアその他の国です。ベトナムはああいうふうにベトナム戦争になってしまいましたけれども、南ベトナム(の政権のレベル)もそうでした。腐敗政権が多かったわけです。腐敗政権が日本から援助をもらっていたら、そんなこと(戦争責任)を追及できるはずがない。だから日本の責任を追及する周辺諸国の力もヨーロッパに比べて弱かったという状況があったと思います。こうした状況の中で、アイリス=チャンの本が突然注目されたという、そういうこと(不幸な事情)があったのではないか。
日本政府が今(2000年現在)なぜ躍起になっているのか。これはもう、現在の日本全体の反動化といいますか、憲法を「改正」しようとか、去年の国会みたいにいくつもの悪法を次々に通しましたけれども、これらはそういう状況の中での一つだと言えましょう。


南京事件の歴史事実を広げていくためにはどうすればよいのか?テレビ討論会などはかえって肯定派にとっては不利なのかどうか?
これはやり方だと思います。本当の対決をやったらいいと思います。よく『朝まで生テレビ』とか何とかの番組で、5,6人対5,6人と大勢でやりますが、あれは駄目です。1対1でやったらいいのです。向こうの代表とこっちの代表が、1対1で(対決する)。(彼らの中にも)研究者は何人かいますが、事実をモトにして1対1でやれば必ず彼らは敗北します。それから、問題を徹底的に追究しなければ駄目です。何か言ってすぐ次のテーマに移ったりしないで、徹底的に議論しなければ「討論」ではありません。そうすれば必ず彼らは敗北します。
しかし、テレビはそんなことをやりません。あんな『朝まで生テレビ』なんていいかげんなものです。私は初めのうちは見ていたけれど、ああいう議論の方法ではちっとも追及できませんから、関心を全く失くしてしまいました。それぞれ言いたい放題を適当に言うだけです。ああいうやり方でなしに、ちゃんと正面から深く対決をすべきです。事実で勝負すれば必ず彼らは敗北しますから。

《讨论到天亮》(日语:朝まで生テレビ!/あさまでなまテレビ asamade nama terebi */?,直譯為「直播电视到天亮」)是日本朝日电视台的长寿深夜政論節目 主持 田原總一朗

天皇の出自についてどう考えるか?
天皇の出自がどうだということについては、私の専門ではないので詳しいコメントは出来ませんが、常識的にはもう分かっているのではないでしょうか。要するに朝鮮半島から来たのでしょう。非常に大雑把なことを言えば、縄文系の人々というのは沖縄やアイヌにつながる人々で、そこへ弥生系と天皇家およびそれに関連する人々がだんだん入ってきたのでしょう。初めからその中に天皇がいたのかどうか私は知りませんが、宮内庁が天皇陵への部外者の立ち入りを禁じているため、考古学者がそれを自由に深く追究できない状況にあるのです。いわゆる天皇の墓、御陵をほじくるとそれが全部明らかにできるでしょうが、分かってしまう(のは具合が悪い)からほじくりません。そしてそのことが公然と教科書には出てきません。その辺が面白いというか、日本の悲しいところだと思います。
最近の事件で、60万年前か70万年前かの石器のすごいでっち上げがありましたが(2000年に明るみになった旧石器時代の遺跡・遺物の捏造事件)、一方ではこんなものが教科書に載るのです。あれは『週刊金曜日』でも取り上げましたが、あれに関する学術論文は何も無いそうです。学術的論文も何もないのに教科書に出た。つい最近、講談社から出た『日本の歴史』の第1巻にもあれが出ています。非常に恥ずかしいことだと思います。学者はこんな場合こそまっさきに指摘すべきでしょう。
*旧石器捏造事件(きゅうせっきねつぞうじけん)とは、日本の前期・中期旧石器時代の遺物(石器)や遺跡とされていたものが、それらの発掘調査に携わっていたアマチュア考古学研究家の藤村新一が事前に埋設しておいた石器を自ら掘り出すことで発見したように見せていた自作自演の捏造であることが2000年(平成12年)に発覚した事件である。

Bei der paläolithischen Befundfälschung (jap. 旧石器捏造事件, Kyū-Sekki Netsuzō Jiken, wörtlich: „Skandal um die Lüge über paläolithische Steinwerkzeuge“) handelt es sich um die Fälschung jung- und mittelpaläolithischer Artefakte auf japanischen Ausgrabungsstätten durch den Amateurarchäologen Fujimura Shin’ichi. Die Befundfälschungen wurden durch einen Artikel in der Mainichi Shimbun am 5. November 2000 bekannt. Die Entdeckung führte zu einem Skandal, der die Reputation der japanischen Forschung zur Altsteinzeit bis heute überschattet und der zudem eine Vielzahl von Fundstücken für die Forschung entwertete. Bis heute wird auch aus diesem Grund die Datierung des japanischen Jungpaläolithikums kontrovers diskutiert.
*藤村新一(1950年5月4日-),日本業餘考古學者,宮城縣出身。原東北舊石器文化研究所副理事長。作為舊石器捏造事件的主角而知名。1970年代以來,藤村新一以極高的效率,在日本發現多處舊石器時代遺址,出土大量文物。然而,這些發現後來被證實為捏造。事件曝光後,藤村新一改用再婚妻子的姓氏,不再使用舊姓「藤村」。
再び中国へ行ってルポを書くのか?
やりたくても、一杯やるべきことがありすぎて、とても時間がありません。あと50年くらい生きないと全部やりきれません。死ぬまでにあといくつできるかと思いますが、ただ中国について同じ(戦争との)関連でいえば、南京攻略戦とはどういうものだったかということを非常に精密に再現できたらいいな、という願望はあります。例えばフィリピンでの戦争について大岡昇平さんが『レイテ戦記』を書いていますが、あの手法によって、上海戦から始まって南京占領あるいは南京大虐殺までの事件を細かく再現したいということです。中国側の取材だけではなく、日本側の精密な取材もして(全体を再現する)。ただ、日本側(の人たち)の多くからは、私にはもう協力してくれないかもしれません。いずれにしても時間があればやりたいという気持ちはあります。
(『「ノーモア南京」2000年東京集会報告集』2001年12月1日実行委員会発行)

南京大虐殺関連の裁判で否定派は三連敗
2007年12月は南京大虐殺の70周年にあたるため、関連する新刊書が多数出ました。しかしその中のかなりのものは、南京大虐殺の事実を否定する側、いわゆる”右翼”による国辱的作品なのですが、この歴史的大事件は日本のマスメディアが正確かつ相応の規模で扱ってこなかったせいもあって、いわば平均的日本人の意識、とりわけ今の若者のそれには、この事件は「本当はどちらが真相なのか」と今なお思っている例も少なくないようです。
けれどもこの事件に関しては、すでに最高裁の判決(家永教科書裁判ー1997年8月29日)によって、大虐殺が組織的に行われたことが、おびただしい強姦事件の発生とともに最終的に確定しています。だから事件をめぐる”論争”の類いも否定勢力の完敗で決着ずみです。日本の歴史学者でも「南京」は定説であって、事典などでも当然のこととして記述されています。ついでながら、1983年からの取材をまとめた拙著『南京大虐殺』(朝日新聞社・1997年、第2刷は2001年)は、ほとんどが生存体験者からの直接の聞きとり調査です。
*Saburō Ienaga (家永三郎, Ienaga Saburō?), né le 3 septembre 1913 et mort le 29 novembre 2002, est un enseignant, historien et historien de l’art japonais, ainsi qu’un militant pacifiste et pour la liberté d’expression. Il a été nominé pour le prix Nobel de la paix en 20011.

Nanjing Massacre 23 Written by Katsuichi Honda Release date: September 24, 1997  Katsuichi Honda <23> Nankina Masakro (Japana) Libro - 1997/9/1  Katsuichi Honda (Aŭtoro)
”右傾化”に便乗か
ところが1990年代後半になって、決着ずみのこの事件に対して、論破された勢力によってまたしても否定論が繰り返されはじめました。世のいわゆる”右傾化”に便乗した側面もありましょうが、そうした中で『週刊金曜日』でもとりあげた李秀英さんや夏淑琴さんに対する名誉毀損行為がひきおこされたわけです。
しかしながら、まさに”売国奴”と呼ぶべき否定勢力に対して法廷で終始対決してきた弁護士の一人・渡辺春巳氏が言うように、南京大虐殺をめぐる最近の裁判は「三連勝」に終わりました。否定勢力の三連敗ということです。おもしろい、というよりありがたいことに、私も被告にされたりしてかかわったこれらの裁判のおかげで、大虐殺の資料がたくさん出てきました。彼らにとっては文字どおりヤブヘビだったことになります。


来月の70周年には、南京市で大規模な記念行事が予定されており、会場の記念館『侵華日軍南京大屠殺遭遇同胞記念館』も三倍ぐらいに大増築されたようです。記念行事には私も講演を依頼されているので、この「裁判での三連勝」について語ろうかと思います。渡辺弁護士の話から三連勝を要約すればー
①李秀英名誉毀損事件ー否定派の1人・松村俊夫氏は著書『「南京虐殺」への大疑問』で、李秀英さんは「仕立てられた」だけのニセの被害者だと記述した。これは事件当時の被害に加えて二重の被害をうけたことになり、松村氏と出版社を提訴。上告書まで争われて勝確定(44ページ参照)。
②「百人斬り競争」事件ー南京への日本軍進撃の途上、2人の少尉が「どちらが先に百人を斬るか」を競争し、『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)が報道した。戦後になってこのことをルポの中で書いた本多と、それを出版した朝日新聞社を、二少尉の遺族が「事実無根」と提訴。これも事実だったことが証明されて勝訴確定(61~77ページ参照)。
③夏淑琴名誉毀損事件(78ページ参照)。
これら三例について、否定派に共通する特徴は非合理性にあることや、不利な事実はひたすら無視する点など、渡辺弁護士の分析は星徹氏によって『週刊金曜日』で報告されました。

Thorough verification of "Nanjing massacre" Higashinakano Shudo東中野修道
Based on the official documents of the countries concerned, foreign literature, foreign news reports, and other original records, the "truth of Nanjing" has emerged after thoroughly examining all issues. Put an end to the barren controversy.

Big question about "Nanjing massacre" -Thorough analysis of foreign materials on massacre
Toshio Matsumura 松村俊夫[Author]
instructions:The more you read the material written by foreigners on which the genocide advocates are based, the deeper the question becomes. Was the looter really a Japanese soldier, was there a civil slaughter, how many mixed-race children were born by rape, why did the victim's (self-proclaimed) testimony change from time to time? "The truth of Nanjing" that the author arrived at after reading carefully to answer many questions.
かくて否定派が三連敗した風景を見つつ想起するのは、日本の同盟国でやはり敗戦となったヒトラー政権のドイツです。南京大虐殺としばしば比肩されるアウシュビッツ。ドイツについてはとりわけ旧東独を中心に私もルポを書きましたが(朝日新聞社『ドイツ民主共和国』=『本多勝一集』第29巻)、アウシュビッツについてドイツ人の認識にもよく接しました。南京に対する日本人のそれとは、まさに「雲」と「泥」の差、これでは比較の対象にさえなりません。

Ost-Deutschland Katsuichi Honda [Autor] East Germany Katsuichi Honda [Author]
Anleitung=Am 3. Oktober 1990 verschwand Ostdeutschland mit der Integration von Ost- und Westdeutschland jenseits der Veteranen. Was für ein Leben lebten die Menschen in diesem Land auf der anderen Seite des Drahtzauns und der Mauer und woran dachten sie?
instructions=On October 3, 1990, East Germany disappeared beyond the veterans with the integration of East and West Germany. What kind of life did the people of this country live on the other side of the wire fence and the wall, and what were they thinking about?
*ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、ドイツ語: Deutsche Demokratische Republik; DDR)、通称東ドイツ(ひがしドイツ、独: Ostdeutschland)または東独(とうどく)は、第二次世界大戦後の1949年に旧ドイツ国のソビエト連邦占領地域に建国された国家。旧ドイツ国西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧:西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年、ドイツ連邦共和国に領土を編入される形で消滅した。


*Holokaŭsto (aŭ Ŝoaho) estas la nomo, kiun oni kutime donas al la amasmurdo, alinome genocido, de milionoj da homoj farita de la naziisma germana registaro en ĝiaj ekstermejoj kaj koncentrejoj dum la dua mondmilito.


*ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、ドイツ語: Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(ドイツ語: Deutschland)は、中央ヨーロッパ西部に位置する連邦共和制国家。首都および最大都市はベルリン州。
いかに三連勝とは申せ、今ごろこんな裁判や”論争”があること自体、日本および日本人のかなしさということに・・・。

*いわゆる”右翼”と表現した背景は、『週刊金曜日』2002年11月29日「俺は、”右翼”ですからね」03年7月18日「南京大虐殺を全否定したい偽右翼集団の総攻撃を受けて」(本書収録)04年12月3日「偽右翼の脅迫に屈した集英社」、05年9月2日「「百人斬り」をめぐるドイツと日本の歴史認識」など参照。
(『週刊金曜日』2007年11月3日)

南京大虐殺を否定する勢力との対決
ー意見書「松村本の支離滅裂さについて」(平成11年(ワ)第20837号=甲第40号術)
「南京大虐殺」について私がルポとして最初に報告したのは、1971年暮れでの『朝日新聞』紙上だった。この大事件の被害者に直接会っての証言が日本の主要メディアに発表されたのは、これが初めてのはずである。翌1972年に『中国の旅』と題する単行本にまとめられたが、350頁ほどの中で関連する部分は第15章「南京事件」の計46頁だけだった。しかしそれ以前に書いてきたルポルタージュの中で「今回のルポほど深刻な反響が返ってきたことは、予想されたこととはいえ、初めてでした」(同書跋文から)。
反響は毀誉褒貶さまざまだが、南京事件に関しては教科書事件(1986年)その他でしばしば問題にされ、外国でもとりわけ中国や韓国で注目されてきた。日本では、反戦勢力には高い評価をうけたが、いわゆる「右翼」とか”愛国”勢力からは批判や脅迫まがいの言動が激しくなった。「それならば」と私の方も腰をすえて、以後は「南京」にしぼった取材を何度も重ねることになり、現在それらは『本多勝一集』(朝日新聞社)第23巻『南京大虐殺』(1997年、第2刷は2001年)にまとめられている。
以後は「南京」に対する批判や否定論は絶えず続いたが、私のルポに関して事実関係をもとに否定した例は絶無であった。そんな中で、「南京」の被害者として文字通り九死に一生を得た証人の1人・李秀英さんが、松村俊夫という日本の「研究者」によって、”ニセ被害者”扱いされたのだ。これほどひどい冒瀆があろうか。李秀英さんの提訴(1999年10月)は当然、いや必然だったと言えよう。
以下はその裁判で私が提出した「意見書」である。
1、はじめに
『「南京虐殺」への大疑問』という松村俊夫氏の著作が出たとき、まず私の名が見出しで出ている二つの節(第5部第2章中の「本多勝一の夏淑琴」および同書3章中の「本多勝一のオーラルヒストリー」)を読みました。
ところが、これはもはや日本語を解する基本的能力に疑いを抱かせられる代物であることがわかりましたので、まともに相手にする人物ではないと判断し、他の部分を読むことはやめた次第です。その具体的実例を書く前に、原告・李秀英にかかわる件を一言ふれておきます。
被告席の準備書面「三の2」に、私の著書『中国の旅』が李秀英の名を初めて日本に伝えたことに触れた上「『中国の旅』が伝聞のために内容が正確でなかったことを認めてゐる。従って、同書中のその他の証言も、同様の直接間接の伝聞で埋ってゐるから正確でないことになる。」などと書かれています。
これ自体すでに日本語読解能力がないことを示しているようです。私の『中国の旅』の中で、李秀英の部分は当人に直接会ったのではなく、姜根福という名の南京港湾局員が語ったものですから、もちろん「伝聞」で、したがって文庫版のわずか1頁にもならぬ量の文章として触れただけです。その中に1ヵ所年齢の間違い(私に伝えた姜氏の間違い)があったので、それが判明したあとの第16刷から訂正してあります。それだけのことで、要するに間違いはただされているのです。それがどうして「同書中のその他の証言」も「正確ではない」ことになるのですか。訂正しない方がいいのですか。また「同様の直接間接の伝聞」とはどういう意味ですか。「直接の伝聞」などというものがあるのですか。伝聞は間接に決まっているから「間接の伝聞」というのも「馬から落ちて落馬して」の類いでしょう。
しかも、『中国の旅』の南京の章では、取材した4人はすべて被害者当人であって、直接の体験談(いわゆる証言、以下同じ)です。なぜこれらが「伝聞」になるのですが。その中の1人たる姜根福が、自分の体験のほかに李秀英のこともかんたんに紹介しただけです。だから私のこの本では、当人の直接体験部分(証言)は非常にくわしく書いています。被告側の弁護団は原文をちゃんと読んだのでしょうか。裁判所側も、『中国の旅』の「南京」の章だけでも読んで下されば、この準備書面のいいかげんさが理解されましょう。
では次に、前述のように私の名が見出しに出ている二つの節(本件著作物の365頁以下と378頁以下)について説明しましょう。
2、松村本は誤りに満ちている
1、順を追って書きますと、松村氏はまず365頁で私の報告について『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社)の夏淑琴からの聞き書きをとりあげ、これを「後述するオーラルヒストリーである」(378頁参照)と断定しています。そこでその378頁を見ると、見出しからして「本多勝一のオーラル・ヒストリー」とした上で「彼(本多)はこのような証言を記録した歴史を「オーラル・ヒストリー」と呼んでいるが・・・」と記述しています。
裁判長、ここに添付する当の『南京大虐殺の現場へ』の原文(資料①)をごらん下さい。私は夏淑琴の聞き書きについて報告する前の序文「5人の体験史」(同書170頁)で、はっきりと「これは決して口承史(いわゆるオーラルヒストリー)ではありません」と明言しています。「体験史」としたのはそのためです。ところが松村氏は、私が「「オーラル・ヒストリー」と呼んでいる」と、正反対のことを平気で書く。
これは一体どういう神経ですか。松村氏が①この本を読まないでいいかげんに書いたか②読んでも日本語が理解できないか(他の言語ならわかるのか?)③すべてわかっているが、読者をだますために確信犯としてやったかーの三つのどらかだろうと私は推測しますが、いずれにしても私の著書の原文を改竄(かいざん)していることになり、法的な意味でも明白な名誉毀損行為であることに変わりありません。
そういう基本的大問題の上での松村氏の著書(以下「松村本」と略す)ということになりますが、一応順次説明しておきます。
2、次いで松村本には、私の前記『南京大虐殺の現場へ』から夏淑琴の体験史の一部を引用(366頁)されていますが、夏淑琴の家の見取り図について「彼女は詳細な見取図を示し」とか「驚いたのは、幼いころの家の見取り図を書ける彼女の記憶力」などと書かれています。
責任ある文章が書けず、読解能力もない(またはあっても確信犯的に改竄する)人物に伝える努力は空しいのかもしれませんが、私の原文のどこに、この見取図を夏淑琴が書いたとありますか。
これは私が書いたのです。私は取材や聞きとりのとき、いつも図を書けるまで詳細に、根ほり葉ほり聞きます。「その部屋の横はなに?」「部屋の入り口はどこ?」「死体の位置は?」等々。それによって、見えるか見えないか、といった矛盾も解決してゆくし、映画を見るように風景が再現できるからです。
この点を理解していただくのには、私の聞き取りの方法をくわしく紹介した著書『調べる・聞く・書く』(朝日新聞社)の<付記1「体験史」としての聞き書きをめぐって>(421頁以下)の章をごらん下さい。この中で夏淑琴の場合について、もとの取材ノートの実物が7頁にわたって示され、その見取図の原型も示されています(資料②)。
3、次に松村本は「日本軍占領1日目に彼女たち一家が悠々と平常通りの生活を始めようとしていた」と断定しています。
これにしても、私の原文のどこにそんなことが書いてありますか。長屋にいた6,7家族のうち、避難していなかったのは夏淑琴の一家と隣の4人の二家族だったこと、7歳だった夏淑琴には事情がよくわからないが、老人と幼児が多くて動きがとれなかったらしいという想像が書かれているとおりで、「悠々と平常通り」などとんでもない。これも悪質な改竄です。
これは当時の南京について取材した私の推察ですが、日本軍が迫って緊張していたに違いないとはいえ、まさか日本軍がこれほどまでにひどいことをやる集団とは、想像を絶していたことも一因かもしれません。
4、つづいて松村本は「その上、『マギーの遺言』での夏淑琴の話をシナリオで読み、本多の聞き取り証言とのあまりの相違に再び驚いたのである」と書いています。
なるほど、たとえば強姦現場を自分の目で直接見たか見ないか、といった違いはある。だが事実についての基本、すなわち殺されたのがだれで、強姦されたのだがだれで、生き残ったのはだれか、といった根幹に食い違いはありません。それでは、なぜ細部に違いが出てくるのでしょうか。
これを理解する好例として、前述の拙著『調べる・聞く・書く』(朝日新聞社)の472頁以下で紹介した「陳光秀の場合」があります。
多くの場合、体験者が自分で最初に語るときは、全体の流れを主観的に要約してしまいます。文筆家やアナウンサーやニュースキャスターなどのプロではありえない庶民はそんなものです。(松村氏はどうですか。)その中で、この部分は直接見た、この部分は直接聞いた、この部分はあとで見てわかった、などと詳細に区別して語る庶民など、まず千人に1人もないと言ってよいでしょう。だからこそ、聞き書きのときの「技術」が重要になってくるのです。松村氏も著書を公刊するのであれば、書く前にこの本(『調べる・聞く・書く』)くらいは読んでおくことをご忠告しておきます。
そこで、陳光秀の場合を見てください。「証言集」として本(『侵華日軍南京大虐殺屠殺史料』第3部)になっていた中で彼女が語っている内容のうち、日本軍への非難や感情吐露の部分を除いた自分の体験部分は、それを全文引用した私の本『調べる・書く・聞く』の中でわずか1頁たらずです。その中で父が殺され、弟が殺され、知人の妻が強姦され、その養女も輪姦され、兄嫁が山中に避難中にお産をし、産後の病気でまもなく死に、母も夫や子を殺された悲しみのあまりまもなく死んだーとされています。
この中で彼女が直接見たのはどれか、などということは出てきません。そこで長時間かけて私が聞きだした結果が、同著の490頁以下5頁にわたって、見取図つきで書かれています。その聞き方の技術もその前の頁で紹介されていますから、松村氏も参考にしてください。
その結果、①直接見たこと②直接聞いたこと(自分のかくれたベッドの上で知人の妻が強姦されている騒ぎの音)③直接に見聞したことーといった区別がわかり、兄嫁のお産で生れた赤ちゃんは泣き声が日本兵に気づかれないようにと殺されたことなどもわかってきた。実に悲惨です。そういった細部の違いは、プロが聞き書きしないと出てこないし、本人の一方的な話だけでは矛盾しているかにみえる部分も出てきましょう。母親が「悲しみのあまりまもなく死んだ」のも、実は深夜に外へ出て大声で叫ぶような発狂状態になったあとの死です。
当人が直接体験も家族からの体験もまじえて要約的に語る証言は、怒りや悲しみの感情で、「声涙」ともに下りながらのことが多いので、こうしてじっくり聞き書きしたことと比べると、細部に違いが出てくるのはむしろ当然であり、ごく普通のことにすぎません。したがって私が「反対尋問にも耐え得る」としたのは、私が当人から直接聞いた場合の1人として夏淑琴を挙げているのです。ところが松村氏は、『マギーの遺言』での簡略な「シナリオ」の方と違うからといって、私の聞いた直接証言の方を疑問視し、「何がどこまで妥当なのか」と書いた上、それを「李秀英の話の不備と変わることはない」と結論づけています。
裁判長、こういう記述と、裁判長が判決文を書かれるときの常識を比べてみて下さい。私は前述のように李秀英から証言を直接聞いたことが一度もありません。それを松村本は私が直接聞いた夏淑琴の場合と比べて、夏淑琴の簡略版『マギーの遺言』のシナリオと食い違いがあるから、したがって李秀英も同様だーと強引に牽強付会しているのです。いかに幼稚な松村本とはいえ、公刊された以上はこれを私に対する名誉毀損行為と言わねばなりません。
5、次は松村本378頁の見出し「本多勝一のオーラル・ヒストリー」の部分についてです。
前述の通り、私は同じ本『南京大虐殺の現場へ』の中で、これはオーラルヒストリーでは「ありません」と前置きしていますから、ここで松村本に書かれている部分全体がすでにナンセンスになるわけですが、もうひとつの私の本『裁かれた南京大虐殺』(晩聲社)を持ちだしていますから、一応説明しておきましょう。
私の聞き書きによる旅行記やルポについて、松村本は「『中国の旅』以降の資料について、国の代理人である秋山弁護士との問答のうちで、それらは訪問の趣旨を受けた中国政府の役人、委員会、新聞記者から聞いたことが大部分である、と答えている」と書かれています。
これも原書を見て下さればわかりますが(*1)、全くの改竄です。私が聞き書きする証人達を紹介してくれたのが政府の役人や委員会や新聞記者だと言っているのですから、全然意味が違う。たとえば裁判長が紹介してくれたAという人に私が話を聞いてその内容を書けば、松村本だとそれは裁判長が話した内容になってしまう。こういう恐るべきスリかえを平気でやる。これまた法的に明白な改竄・捏造です。
さらに松村本は「聞き書きは歴史の資料として特設文献と区別する必要はないし、それらも100年たてば史料になる、文献になる、と確認している(同書53頁)。」と書いた上で「私(松村)はこれを読んで背筋が寒くなった」「彼は自分が歴史を作るような気持ちでいる。恐ろしいことである。」とまで書いております。
私はこの松村本を読んで、「背筋」ばかりか腹や股まで寒くなりました。松村氏は「自分が歴史を作る」どころか、歴史を捏造・歪曲しているではありませんか。まさに「恐ろしいことである」。いったい日本語を正確に読みとれぬ人物による右のような勝手な要約で、私の主張する内容が読者に伝わるものでしょうか。この部分をくわしく説明すれば意見書が単行本に近い量になってしまいますから、ここでは単に「こんな要約をされては、私の意図と全く関係ない」と述べて、くわしくは次の関係部分を原著で見て下さるよう、掲げておくにとどめます。
①『裁かれた南京大虐殺』(晩聲社)の第1章(本多勝一証言)前半の主尋問(渡辺春巳弁護士担当)と、最後の補足尋問(同)。
②『調べる・聞く・書く』(朝日新聞社)の<付録1>B「「体験史」としての証言と現代史」。
この中で私の提言は、近代歴史学の方法論に対する批判でもある点、歴史学者たちとの共同作業たる『オーラル・ヒストリーと体験史』(歴史学研究会編・青木書店・1988年)をごらんになれば理解していただけると思いますが、松村本にかかわる今回の場では、そんな「高度な」主題とはむろん次元が異なります。
以上のような改竄・捏造などによる名誉毀損行為を重ねた上で、私について松村本いわく「自分の本は同調者しか読まないだろうと思っての独善である」
これはそっくり松村氏にお返し申し上げます。

Judged Nanjing Massacre Katsuichi Honda Bankoesha (1989/04 release)  Juĝita Nankina Masakro  Katsuichi Honda Bankoesha (eldono 1989/04)


3、おわりに
最後に、ぜひつけ加えたいことがあります。日本軍が中国などで言語に絶する暴行を実行したことは、もはや世界周知のことですが、問題はそのあとです。同じ過ちを犯したドイツが、誠意をもって被害諸国への謝罪をつづけ、たとえば歴史教科書もポーランドなど旧被害国と協力して編集するように態度でそれを示してきたのに比べると、日本は実に対照的でした。このことは国家レベルであれ個人レベルであれ言えるでしょう。国際社会におけるドイツが周辺諸国との間で評価されてきたのに比べ、日本はむしろ時とともに孤立化してきたのは、かつて侵略した国や人への誠意の有無が最大の原因ではないでしょうか。
一例をあげると、戦争中に「日本兵」として志願兵になり、ビルマの最前線に送られて爆撃で右腕切断、迫撃砲で左足も不自由な身となった韓国の金成寿氏は、戦後「外国人」として一切の恩給等から切り捨てられてきました。あまりのことに金氏は、1990年になって日本政府への損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴しましたが、金氏はしかし、カネの問題ではないと言います。先祖の墓参りに、片手片足で這うように行く姿とともに訴えるのですー「日本政府がちゃんと法廷で陳謝してくれたら、訴訟はとりさげてもいい」と。(ビデオドキュメント『戦争を教えてください・韓国編』影書房・1996年)
要するに「誠意」の問題なのです。
ところが、松村本はどうでしょう。言葉に尽くせぬ非道をうけた被害国の人々に対して、ひたすらその被害の否定に躍起となるばかり、同情の片鱗さえもありません。こういうことをしているから、日本はドイツのようには尊敬されず、国際的孤立を深めてゆくことになるのです。
裁判長には、日本が国際的に信用される国になることを、その判決によって示されるように望むものであります。

*1『裁かれた南京大虐殺』の中での法廷問答(反対尋問)で、本多の回答に「オーラル・ヒストリー」という言葉があるが、これは1987年9月22日現在の、まだこの単語の歴史学者における用法に対する検討以前のことであり、松村本が引用している『南京大虐殺の現場へ』はその後の検討・分析をへて1988年末に刊行されたものである。したがって本書の内容に何の矛盾もない。
例えば具体的に述べると、松村本の約10年前(1988年)に出版された前記『オーラル・ヒストリーと体験史』において、私は「このさい断固として「オーラル・ヒストリー」と区別する言葉を考えようではありませんか。さしあたって「体験史」でいかがでしょう。生きている実体が、「無形資料」で、そこから筆談なり口述なり自筆なりで表現されたものが「体験史」です口承史(オーラル・ヒストリー)というジャンルはむろん大いに重要だけれど、私としては「体験史」の中からそれを排除することによって法廷にも耐えうるルポを成立させようとしています。したがって、「口承史」「体験史」はたぶん解釈や範囲の大小の違いではなく、まったく別次元のものと規定するほうがよいと思います」と述べ(同書176頁)、これを受けて歴史学者吉沢南氏が「あとがき」のなかで「私たちの企画の趣旨を理解され、多忙な記者活動にもかかわらず最大限の協力を惜しまなかった本多m勝一氏に深く感謝したい。私たちは、同氏の仕事と話し合いから多くを学んだが、とくに興味深かったのは、対談でも明らかなように、氏が「オーラル・ヒストリー」という用語と範疇にむしろ批判的であったことである。本多氏は、歴史研究者の考えのように「オーラル・ヒストリー」が「伝承史」も含むものであるなら、「オーラル・ヒストリー」という用語を拒絶し、氏自身の「聞き取り」の仕事(たとえば、南京事件の聞き取り)は、体験者からの実体験の証言であり「体験史」であり「裁判の証拠集めに近い作業」だ、と強く主張されたのである」と指摘して居る(同書186、187頁)。






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