日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑦

*Češtinaチェコ語→チェコ事件Invaze vojsk Varšavské smlouvy do Československa(ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻) Ввод войск в Чехословакию (1968)(Vstup spojeneckých vojsk, Operace Dunaj, Okupace Československa) Warsaw Pact invasion of Czechoslovakia byl vojenským vpádem pěti komunistických zemí Varšavské smlouvy do Československa (ČSSR), podpořený žádostí konzervativního křídla Komunistické strany Československa (KSČ), který se uskutečnil 21. srpna 1968.

*ビロード革命(ビロードかくめい、チェコ語: sametová revoluce、チェコ語発音: [ˈsamɛtovaː ˈrɛvolut͡sɛ]、英語: Velvet Revolution)は、1989年11月17日にチェコスロバキア社会主義共和国で勃発し、当時のチェコスロバキア共産党による全体主義体制を倒した民主化革命である。スロバキアでは静かな革命(スロバキア語: nežná revolúcia、英語: Gentle Revolution)と呼ぶ。この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。

*ヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel、1936年10月5日 - 2011年12月18日)は、チェコの劇作家、チェコスロバキア大統領(1989年 - 1992年)、チェコ共和国初代大統領(1993年 - 2003年)。プラハ生まれ。

*チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika、英: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパ[注釈 1]の共和制国家。首都はプラハである。国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
*チェコ人(チェコじん、チェコ語: Češi)は、現在のチェコを中心に居住しているスラヴ系民族。西スラヴ語系のチェコ語話者である。Češtinaチェコ語→Češi (archaicky Čechové) jsou západoslovanský národ, žijící převážně na území Česka.
*チェコ語(チェコご、čeština, český jazyk)は、スロバキア語やポーランド語、カシューブ語(ポメラニア語)、ソルブ語(ソラビア語、ヴェンド語とも)などと共に、西スラヴ語の一つである。チェコ共和国の人口(約1030万人、2007年3月現在)の9割以上を占めるチェコ人と、周辺国やアメリカ合衆国、カナダ等にコミュニティを作るチェコ系住民に話されている言語である(共和国の国内外合わせて約1200万人の話者が存在する)。Češtinaチェコ語→Čeština neboli český jazyk je západoslovanský jazyk, nejbližší slovenštině, poté lužické srbštině a polštině.

*スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、スロバキア語: Slovenská republika)、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。
*スロバキア人(スロバキアじん、スロヴァキア人、スロバキア語: Slováci (スロヴァーツィ))はヨーロッパ中東部、現在のスロバキア共和国を中心に居住しているスラブ系民族。西スラブ人に分類され、スロバキア語を用いる。現在はスロバキア共和国の多数民族であり、他には隣国のチェコ共和国やハンガリーの他、移民によるアメリカ合衆国やカナダ、あるいはセルビアなどでの居住者が多い。Slovenčinaスロバキア語→Slováci sú slovanský národ, ktorý tvorí väčšinu na Slovensku a menšinu v USA, Česku, Srbsku (Vojvodine), Maďarsku a v niektorých ďalších krajinách.
*スロバキア語(Slovenčina, Slovenský jazyk) またはスロヴァキア語は、スロバキア人の典型的母語であり、スロバキア共和国の公用語である。インド・ヨーロッパ語族、スラヴ語派に属する。スラヴ語派ではチェコ語、ポーランド語などと同様西スラヴ語群に属し、とりわけチェコ語には近く、チェコ語の話者とスロヴァキア語の話者とが互いの言語で会話が成立する程である。Slovenčinaスロバキア語→Slovenčina patrí do skupiny západoslovanských jazykov (spolu s češtinou, poľštinou, hornou a dolnou lužickou srbčinou a kašubčinou).

*アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček, 1921年11月27日 - 1992年11月7日)は、チェコスロバキアの政治家。チェコスロバキア共産党第一書記(第2代)を歴任し、改革運動プラハの春を率いた。またビロード革命時の民主化の象徴の一人となった。「ドゥプチェク」を「ドプチェク」と表記することもある[1]。
ドプチェクの挑戦
早過ぎた春
「ポーランド10年、ハンガリー10ヶ月、東独10週間、チェコスロバキア10日間・・・」。チェコ政変の際にプラハ市民が口にした合い言葉が示すように、かつて中部欧州の工業国であり、東欧の優等生でもあったチェコスロバキアの共産党支配は、あっけないほど短期間に崩壊に追い込まれた。1968年の民主化「プラハの春」の苦い洗礼を受けたチェコ党指導部は、東欧でも最も保守的な体質を持つ党の一つであり、改革には終始及び腰であった。
チェコの党の保守性は、第一書記ドプチェクが指導した、21年前の早すぎた改革とその挫折によって決定づけられた。党は「プラハの春」の恐怖と呪縛からついに解放され得なかった。
ドプチェクの改革を策定した当時の共産党行動綱領は、集会・結社の自由と検閲の廃止、議会の強化、社会主義的市場経済の導入、西側諸国との関係緊密化など、政治・経済改革と冷戦の終結を先取りする内容を盛り込み、「Socialismus s lidskou tváří人間の顔をした社会主義Socialism with a human face」を志向した。しかし、党万能の支配体制を根本的に改めようとしたこの路線は、たちどころにソ連指導部の疑念を呼び起こし、ワルシャワ条約機構軍の軍事介入という衝撃的結末を迎えた。
当時のソ連・ブレジネフ指導部は「社会主義共同体の利益は一国の利益に優先する」という論拠で、介入を正当化した。「Доктрина ограниченного суверенитета制限主権論The doctrine of limited sovereignty」とも「Brežněvova doktrínaブレジネフドクトリンBrežnevova doktrína 」とも呼ばれたこの論理は、その後、東欧諸国の対ソ従属を組織化する根拠となった。
「プラハの春」が潰された後、ソ連の肝煎りで第一書記に就いたフサークは、党内改革派に近かったと目される党員約50万人の追放など、改革の芽を徹底的に摘みとる「正常化」路線を進めたが、本家のソ連にゴルバチョフが登場し、改革がいよいよ本格化するにおよんで、逆に窮地に追い込まれた。対東欧関係の合理的再編を目指した「社会主義の多様性」の容認と「歴史の空白の見直し」は、ドプチェク追放後のチェコ指導部が目指した異端排除の論理と真っ向から衝突するものだった。「歴史の空白」の見直しは、「プラハの春」の再評価につながる可能性を秘めており、チェコ指導部の立場を一層かたくなにしていた。チェコにおける党権力の崩壊には、外的要因が決定的な役割を果たしたのだ。
*正常化Normalizace(せいじょうかNormalization (Czechoslovakia)Нормализация (Чехословакия)とは、より正常な状態にして行くあらゆる過程のこと。典型的には、何らかの秩序やルールがある状態にしていくこと、あるいは、異常な状態から回復すること。様々な領域で特定の意味を有する。政治や思想などの問題では、何をもって正常とするかでしばしば対立が起こる。

*グスターフ・フサーク(Gustáv Husák, 1913年1月10日-1991年11月18日)は、チェコスロヴァキア共産党第一書記(1969年~1987年)、大統領(1975年~1989年)。
ペレストロイカの光
チェコ社会には「プラハの春」以降の正常化が重くのしかかっていた。自由を奪われた市民の間には無気力、無関心が蔓延し、人権擁護団体「憲章77」に集まる一握りの知識人らを除けば、体制批判を公然と口にするものはいなかった。
秘密警察の監視機構が網の目のように張りめぐらされ、中世の古都プラハの街は陰鬱な空気が支配していた。そうした沈黙の社会に一条の光が見えてきたのはソ連にゴルバチョフが登場する85年以降のことである。停滞との決別を決意した新指導者ゴルバチョフは、社会の活性化のため、党・政府を含めたグラスノスチを掲げ、チェコ国民にも新鮮な印象を与えた。ゴルバチョフの登場は、保守派指導部に改革を迫る強力な援軍と映った。「憲章77」は85年8月、「68年の改革を圧殺した同盟諸国指導部さえ、今やより強力的な措置を講じているとする声明をさっそく発表し、改革気運の波及に期待を込めた。
*憲章77(けんしょう77、チェコ語・スロバキア語:Charta 77)は、チェコスロバキアの反体制運動[1]、およびそれを象徴する文書(Charta 77というスウェーデンのパンクバンドもある)。発起人は、ヴァーツラフ・ハヴェル、ヤン・パトチカ、ズデネク・ムリナーシ、イジー・ハーイェク、パヴェル・コホウト。
*Češtinaチェコ語→Perestrojka (zřídkavěji pěrestrojka, zvuk перестро́йка, česky: přestavba) byla skupina ekonomických reformních kroků zahájených v 80. letech 20. století v SSSR tehdejším generálním tajemníkem KSSS Michailem Gorbačovem. Slovenčinaスロバキア語→Perestrojka (rus. Prehrať перестро́йка) je pôvodom ruské slovo označujúce ekonomické reformy z júna 1987 v Sovietskom zväze.
「憲章77」は劇作家ハベルや元外相ハエクらが77年1月に創設した知識人の反体制組織である。当局はこれに徹底的な迫害を加え、大衆的な広がりを封じ込めていたが、第一次大戦後のチェコスロバキア独立を記念した88年10月のプラハ集会には5000人規模の市民が参加し、軍事介入1周年の69年8月のデモ弾圧以来、初めての街頭争乱に発展した。

*イジー・ハーイェク(Jiří Hájek、1913年7月6日 - 1993年10月22日)は、チェコスロバキアの政治家、弁護士。外務大臣(1968年4月-9月)。反体制運動「憲章77」の発起人の一人。

この年11月、「プラハの春」の指導者ドプチェクはイタリアのUniversità di Bolognaボローニャ大学Università di Bolognaでの名誉博士号授与式のため、18年ぶりに出国した。ボローニャは伝統的にイタリア共産党Partito Comunista Italianoの地盤だった。ユーロコミュニズムの旗手イタリア共産党が、追放された指導者ドプチェクの支援に果たした役割は大きい。この年の初め、イタリア党機関紙『ウニタl'Unità』はドプチェクとの長いインタビューを掲載することによって、チェコ党指導部への批判の場を提供した。

ボローニャでの受章演説で、ドプチェクは党追放後の長い沈黙を破り、改革派指導部を断罪した党の公式見解の撤回と党員としての復権を訴えた。社会主義者ドプチェクは、まだ党への信頼を断ち切ってはいなかった。演説では、テキストにあった指導部批判の下りを慎重に落とした。ペレストロイカを先取りしたドプチェク改革は、ゴルバチョフ改革とは多くの共通点を持っていた。ソ連が変わりつつある今、なぜチェコが改革の道に復帰できないことがあろうか。それには、まず、追放された社会主義の同志たちの名誉回復が成されなければならない。
68年以降、党は分裂したというのがドプチェクの認識であり、かつての党員を迎え入れて再統合を急ぐことが真の改革をスタートさせる大前提であった。『ウニタ』とのインタビューは、全党員へのアピールだった。
「傷を癒すことは可能です。それには単なる見せかけではなく良薬が必要です。党の新しい政治綱領とともに、率直かつ誠実に歴史の真実に目を向けることにより、党を再び一体化し、社会の亀裂を修復する必要が築けるのです。68年事件の結末をどう克服するか、この努力はわれわれだけの関心事ではないのです。

1月事件
89年の波瀾の幕開けとなった。年明け早々の1月15日、「憲章77」が呼び掛けた、軍事介入に抗議して焼身自殺したカレル大生の追悼記念集会に、当局は警察力をもって介入し、催涙ガスや放水車を投入した。事件をきっかけに、逮捕者の釈放を求める運動が盛り上がった。後の大統領ハベルも、この時逮捕された1人だった。ハベルら指導的メンバー9人が起訴され、煽動罪に問われたハベルは2月、懲役9ヶ月の実刑判決を受けた。裁判は国民の強い反発を引き起こした。西側諸国ばかりか、東欧の一部からも批判の声が上がった。
*カレル大学(カレルだいがく)またはプラハ大学(プラハだいがく、チェコ語: Univerzita Karlova v Praze、ドイツ語: Karls Universität、英語: Charles University)は、1348年に神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)によって創立された、チェコのプラハに所在する同国屈指の総合大学であり、中欧・東欧において最も歴史を有する。
*ヤン・パラフ(Jan Palach, 1948年8月11日 - 1969年1月19日)は、チェコスロバキアの大学生。1969年、ソ連の侵攻に対する抗議として焼身自殺したことで知られる。
プラハの抗議デモは5日間にも及び、政治的無関心に陥っていた国民を長い眠りから目覚めさせる効果を持った。強権による弾圧で大衆を沈黙させるという従来の手法は、限界に近づいていた。当局は3月の控訴審で、ハベルの量刑を懲役8ヶ月に減刑、さらに5月には仮釈放せざるを得なかった。
1月事件を機に、新しい組織が発足した。「プラハの春」後に追放された元共産党員らは2月、社会主義の再建を目指すクラブ「オブロダObroda(再生)」を旗揚げした。創設メンバーには、「プラハの春」当時の首相チェルニーク、党書記ツィサーシらのほかに、元外相ハエクら「憲章77」の活動家が積極的に参加していた。元の指導的党首による反体制組織の設立は、現指導部の正統性に対する公然たる挑戦だった。
*Češtinaチェコ語→Obroda (plným názvem Klub za socialistickou přestavbu Obroda) byla opoziční iniciativa v Československu, která vyvíjela činnost v letech 1989–1990.

*オルドジフ・チェルニーク(Oldřich Černík、1921年10月27日 – 1994年10月19日)は、チェコスロバキアの政治家。1968年の「プラハの春」当時のチェコスロバキア首相。
設立趣意書は「68年の党行動領に沿って、わが国もまた、社会的変革を経験できる希望が出てきた」と述べ、20年前に断ち切られた改革への回帰を目標に据えていた。共産党の同志たちの主導のもとに、ソ連をはるかに凌ぐ大胆な民主化に突き進み始めた隣国ハンガリーとポーランドの動静に触発された動きだった。思えば50万人といわれる追放党員は、一国の党組織に匹敵する数である。チェコ党は、68年以降、党員をそっくり入れ替え、全く別組織に変貌したと考えることもできる。

低迷する経済
党指導部は改革に踏み切れずにいた。ゴルバチョフがプラハを初訪問した後の87年12月、フサークは健康問題を理由に党書記長を辞任し、後継者ヤケシュは党統制委員会議長として、改革派追放の指揮をとった人物であり、この人事は路線の転換を意味しなかった。

*ミロシュ・ヤケシュ(Miloš/Milouš Jakeš[1]、1922年8月12日 - 2020年7月10日[2])は、チェコスロバキアの政治家、チェコスロバキア共産党書記長(1987年 - 1989年)。
実際、経済は低迷を続けていた。40億ドルに満たない対外債務は、東欧で最低の水準であったが、新規投資を抑制してきた余り、生産設備の老朽化、技術革新の立ち遅れは無視できない状況に陥っていた。88年は生産国民所得が計画を上回る3%の伸びを示したが、消費財不足が目立ちはじめた。政治的抑制の代わりに、比較的高い消費水準を保障するアメとムチの「正常化路線」は、経済面からもほころびかけていた。
このため、88年10月、保守派指導部の中にあって改革派といわれた首相シュトロウガルが辞任、代わって企業管理の実務経験を持つ党幹部会員アダメッツが首相に就任した。


*Češtinaチェコ語→Lubomír Štrougal (* 19. října 1924 Mezimostí nad Nežárkou, dnes část Veselí nad Lužnicí) je bývalý komunistický politik, ministr zemědělství a ministr vnitra a pozdější československý premiér v letech 1970–1988.

*ラディスラフ・アダメッツ(Ladislav Adamec, 1926年9月10日 - 2007年4月14日)はチェコスロバキア社会主義共和国の首相(1988年10月12日 - 1989年12月7日)。ビロード革命の際に政府側の窓口として民主化勢力と折衝を行い、非共産政権への平穏な政権移譲を果たした。

党への公開状
「プラハの春」の見直し要求を強めていたドプチェクは、正面から闘いを挑んだ。89年6月23日の党中央委あての公開書簡で、ドプチェクは「党中央委員会が68年に関する歪曲と虚偽を止めない限り、社会主義の発展はない」とし、党が「’前衛’について語るなら、まず党の改革から着手すべきである」と訴えた。ドプチェクは「過去の見直しや対話に抵抗を続けていると、社会主義をさらにそこなうことになる」と述べ、自分の出身母体である党の再生を、だれよりもまず党員に訴えた。
ドプチェクは時代の変化を敏感に嗅ぎ取り、政界復帰を決意していた。ドプチェクは党に「プラハの春」の再評価を迫った公開状に先立ち、当時の軍事介入に加わったソ連はじめ五カ国の共産党中央委員会と政府に対しても「勇気ある歴史的見直し」を訴えた。事件当時首相だったチェルニークとともに送った書簡は、10ページにわたり、いま始まった新しい改革の流れを逆戻りさせないためにも、改革が本物であることを示すためにも、「制限主権論」を明確に否定しなければならない、と主張した。書簡は「モスクワ、ワルシャワ、ブダペスト、ソフィア、ベルリンの政権の座にある人々が当時の指導者ではなくなっているとしても、事件の批判的評価を迫られているのであります。そうでなければ、あの時と同様、軍事介入が改革の試みを殺すことになりかねないのです。欧州との信頼と協力を目指す信用ある政策は、チェコスロバキア問題を解決することと不可分に結び付いているのです」と述べることによって、ソ連・東欧で進む改革の試金石として、「プラハの春」の再評価を求めた。ハンガリーの変革がハンガリー動乱の見直し抜きには進まなかったように、チェコでも68年事件の評価が改革と停滞を分かつ分水嶺であった。
侵攻事件の21周年記念日が近付くにつれ、8月のプラハの街には緊張が漂いはじめた。高まる民主化要求の圧力に対し、当局はまたも力で封じ込む構えを見せていた。ドプチェクの公開書簡はこうした状況の下で公表された。
党が路線を転換する兆しは全くなかった。チェコ事件後の「正常化」が完了したことを確認する党の総括文書「危機的時期からの教訓」は、ワルシャワ条約軍による民主化圧殺を、同盟国の支援による反革命の撃退だったとの立場を公式化していた。この文書は71年の第14回党大会以来、党指導部を支える支柱であった。89年に至っても、プラハ市党委のボスである党幹部会員シチェバンは、「市民は平静を望んでいる」と繰り返し、軍事介入21周年にかこつけた無秩序や混乱は容赦しないと警告していた。チェコ当局は東独とともに6月の中国の天安門事件で、中国指導部の強硬措置に支持を表明していた。人権活動家の劇作家ハベルらは、実際、プラハでも天安門事件が再現されることになるのではないか、と真剣に恐れていた。

*Češtinaチェコ語→Masakr na náměstí Nebeského klidu (název náměstí čínsky 天安门广场, český přepis Tchien-an-men Kuang-čchang) bylo násilné potlačení demonstrací konaných v čínském hlavním městě Pekingu mezi 15. dubnem a 4. červnem 1989. K hlavnímu zásahu armády proti lidovému povstání došlo v noci ze 3. na 4. června 1989.
同盟国の圧力
だが、党は国際情勢の厳しい変化にさらされてもいた。既にみたように、6月の総選挙で「連帯」が大量に進出したポーランド国会では、軍事介入記念日の8月21日前後に、上下両院が介入を初めて批判する決議を採択した。ハンガリーでこれより先、党幹部会員ボジュガイ、首相ネーメトがいち早く介入を批判していたのは言うまでもない。同じくソ連軍が武力介入した56年動乱の再評価を完了したハンガリーが、ドプチェクの改革「プラハの春」を高く評価するのは当然のことであった。
ソ連からも同じシグナルが聞えてきた。ゴルバチョフ外交のシンクタンクともいえる世界経済国際関係研究所のアンバルツィーモフが「ゴルバチョフが68年にとられた手段に同意していないのは明らかだ。ゴルバチョフは後になって同盟国の指導部から拒否されるような立場をいま打ち出すわけにはいかないだけだ」と語った。つまり、ゴルバチョフも「プラハの春」を肯定する立場だが、チェコ指導部への配慮から発言を控えているだけだというのだ。ドプチェクが介入当事国に求めた歴史の見直しは、いよいよ現実のものとなってきた。
内外から高まる事件の見直し要求に対するチェコ指導部の動揺は、21周年記念日当日の対応にも現われていた。厳戒体制にもかかわらず、プラハ中心部のバツラフ広場にはデモ禁止命令を無視した反体制派市民2000人が集まった。集会にはポーランド新国会の「連帯」議員やハンガリー野党の活動家も参加した。国会多数派の「連帯」を「反社会主義分子」と決め付けるわけにはもはやいかない。ハンガリー野党も今や公認の政党である。当局は機動隊を動員して集会を蹴散らし、数百人を検挙したが、多数の負傷者を出した前年の20周年記念日ほどの大事には至らなかった。危惧されていた”第二の天安門事件”は回避された。

奇怪な事件
架空の死亡事件
ハンガリーやポーランドの急激な変革に、金縛りにあったかのように動こうとしない指導部への怒りが10月28日、ついに飽和点に達した。北西の隣国東独では10日前、最後まで残ると思われていた頑迷派ホーネッカーさえ、退陣に追い込まれていた。この日、「憲章77」などが共催したプラハの独立記念日集会には、前年を上回る約1万人が参加し、「ヤケシュ退陣」と対話要求を叫んだ。当局は機動隊を投入し、再び多数の逮捕者を出した。
ヤケシュ指導部にとって、致命的な誤算が生じたのはその後だ。11月17日、ナチ占領下の学生虐殺事件を記念するデモ行進は、党の下部組織である社会主義青年同盟Socialistický svaz mládežeが主催したもので、学生組織も加わった当局公認のデモだった。プラハ市当局は市中心部のバツラフ広場を行進のコースから外すことを条件にデモを認めた。ところが、予定の行進を終え、学生集団の一部がこの広場に向かおうとしたところ、行方を遮る機動隊と衝突、143人が逮捕される騒ぎに発展してしまった。東独建国記念日の夜、官製の祝賀デモがゴルバチョフの名を叫ぶ反ホーネッカーのデモに発展したのと酷似している。
*Češtinaチェコ語→Socialistický svaz mládeže (zkratka SSM) byla organizace v ČSSR sdružující mladé lidi ve věku 15–35 let, fungující mezi lety 1970 až 1989. 
チェコ政変に直結する不可解な事件が起きたのは、この時だ。衝突の渦中、デモ学生の1人が死亡したという噂が流れ、怒った市民が連日、万単位で参加する政治デモの口火となったのだ。
ここに、連邦議会の事件調査委員会がその後作成した中間報告書がある。死亡した数学科学生(マルチン・シュミートMartina Šmída)は架空の人物であり、実際は以前から学生グループに潜入していた国家治安警察Státní bezpečnost(StB)の警官だった。むろん、彼は死んだふりをしただけである。学生のデモ隊がバツラフ広場に向かうよう誘導したのも、StB側のスパイであった。学生らが広場少し手前の国民通りに差しかかった時、遮断された通りの両側から機動隊が襲いかかり「シュミート」が’死亡’。’遺体’は直ちに運び去られた。

*Češtinaチェコ語→Fáma o smrti Martina Šmída sehrála velkou úlohu v sametové revoluci v roce 1989.
*Češtinaチェコ語→Státní bezpečnost (zkratka StB, hovorově estébáci, slovensky Štátna bezpečnosť, ŠtB) byla československá politická policie.
調査委は問題の警官を含め、多数の内務省高官や実働警察部隊の指揮官、デモ参加者から事情聴取している。事件の真相についてはなお不明な部分があるほか、一部の調査結果は国益に反するとして報告書に盛り込まれなかった。しかし、報告書に示されたデータだけからでも、政変のきっかけとなった17日事件が、民主化要求デモに対する当局の弾圧といった単純な様相ではなかったことが容易に理解される。

*Češtinaチェコ語→Alojz Lorenc (* 21. červen 1939 Trenčín), je bývalý československý policista slovenské národnosti.
KGBとStB
報告書は、治安警察長官兼内務次官アロイス・ロレンツが事件のカギを握る人物だと結論している。ロレンツは10月末、モスクワを極秘に訪問し、KGB議長クリュチコフKrjučkov、副議長グルシコと会談している。調査委委員長が明らかにしたところでは、ロレンツがプラハ駐在KGB主任テスレンコとともに、ヤケシュ追い落としの計画をモスクワ側に説明したことを示すKGBの秘密文書が見つかっている。
ロレンツは事件当夜、3日前からプラハに来ていたKGB副議長グルシコと夕食を共にしていた。実務会談を兼ねた夕食であり、部下のチェコ内務省第二局(防諜活動)局長が同席していた。この夜の街は騒然としていたはずであり、ロレンツと彼の部下は約1時間半の会談の間、約20回の電話連絡を受けていた。
プラハの市党委第一書記シチェパンは、ロレンツとプラハ市警に対し、あらゆる手段を行使してデモを抑えるよう指示していた。そして、実際に弾圧は実行されたのだが、議会の調査結果は、それがシチェパンの指示によるものではなく、全く別の指令に基づくものだったと結論している。デモ弾圧の目的が、StB、KGBの陰謀でヤケシュ落としに転換されたのだ。

*Češtinaチェコ語→Miroslav Štěpán (5. srpna 1945 Louny – 23. března 2014 Praha) byl český a československý politik Komunistické strany Československa, vedoucí tajemník Městského výboru KSČ v Praze a poslanec České národní rady a Sněmovny lidu Federálního shromáždění.
しかも、17日の後、調査報告書が「実に不可解」とする現象が起きた。17日に強硬手段に訴えた治安当局は、事件に触発されて市民運動が拡大するや、手のうらを返すように一切の活動を停止してしまったのである。「市民フォーラム」結成の動きも熟知していたはずだが、これを防止する努力もしていない。反体制運動をいきなり放任してしまったのだ。報告書は、一つの理論として、治安幹部の奇妙な動きは現指導部を引きずり下ろすのが狙いだったと記している。

*市民フォーラム(しみんフォーラム、チェコ語: Občanské fórum、略称:OF)は、チェコスロバキア社会主義共和国における民主化運動(ビロード革命)を主導した勢力によって1989年11月19日に結成された非共産党系政治運動の名称である。
だとすれば、チェコ政変は広範な市民運動を背景としながらも、実は国家警察が表面的に「助産婦」の役割を果たしたことになる。この点、報告書には意味深長な箇所がある。
「17日とその後の日々の出来事は、まだ生々しい。それを解明することは、チェコスロバキアの現在の脆弱な国内的・国際的安定に潜在的危険となる可能性がある」
調査および報告書作成に参画した学生代表は当初、治安関係者らの証言も含めすべてを明らかにするよう主張したが、「市民フォーラム」の代表委員がこれに反対したという。「市民フォーラム」を中心とする「ビロード革命」の神話に、汚点がつくことを嫌ったのだろうか。

もう一つの圧力
「17日事件」が退陣のきっかけになるとは、ヤケシュにとっては思いもよらないことだった。ヤケシュは後に、「(事件の展開は)全くの予想外だった。改革は避けて通れないし、党が率先して進めていた。警察部隊が学生を襲ったのは挑発だったように思う」と語っている。議会の報告書は「当時の党指導部はStBを掌握していなかった」と付け加えている。ヤケシュの与り知らないところで、追い落とし作戦が密かに進行していたことは十分考えられる。
ソ連KGBの影がちらつくこの奇怪な事件が起きたのと同じ日、イデオロギー担当のチェコ党幹部会員フォイチークはソ連指導部に呼び付けられてモスクワを訪問し、ソ連・党イデオロギー担当書記メドベージェフと会談していた。この日夜、チェコ国営通信がモスクワ発で流したフォイチークとの会見記事は、ソ連側が「プラハの春」見直しで公然と圧力を加えたことを物語っていた。フォイチークはモスクワ会談に絡み「過去と現在の諸問題に関するいかなる微妙な問題をも避けるべきではない」と発言し「68年の出来事は、チェコばかりでなく(軍事介入した)五カ国にもかかわる」と述べた。フォイチークは、わずか4日前の13日、「68年危機を見直すべきことは何もない」と国営テレビで明言したばかりだった。これは、ソ連が事件見直しの方向にある時、ひとりチェコのみが抵抗することはできないこと、ソ連からそのような圧力がかかったことをはっきり示していた。ゴルバチョフはヤケシュを見限っていた。

*Češtinaチェコ語→Jan Fojtík (* 1. března 1928 Milotice nad Bečvou) je bývalý český a československý novinář, pedagog a politik Komunistické strany Československa, poslanec Sněmovny lidu a Sněmovny národů Federálního shromáždění v období normalizace, dlouholetý člen Ústředního výboru Komunistické strany Československa a šéfredaktor Rudého práva.

独裁の終わり
ドプチェク帰還
「17日事件」から2日後の19日、後に政権の受け皿となる「市民フォーラム」が旗揚げした。「憲章77」をはじめとする反体制組織の活動家に、一部共産党員まで糾合した横断的組織で、ハベルを代表に据えた。ハベルは、①ヤケシュおよび68年の軍事介入に関与した党幹部の辞任、②17日事件に関する調査委員会設置、③全政治犯の即時釈放ーを即座に要求した。
首相アダメッツは21日、「憲章77」の代表らとの会談に応じ、党の指導的役割の再定義と非共産党員を加えた内閣改造を断行すると伝えた。
バツラフ広場では連日、集会が開かれていた。ドプチェクは23日、プラハの集会あてにメッセージを送り、党執行部の退陣を真っ向から迫った。本人はこの日、出身地であるスロバキアの首都ブラチスラバで市民を前に演説していた。公の場に姿を見せたのは実に20年ぶりだった。そして、24日、20万人の市民で埋った厳冬のバツラフ広場に登場し、歓呼に迎えられた。

*ブラチスラヴァ(スロバキア語: Bratislava, スロバキア語発音: [ˈbracislava] )は、スロバキアの首都で同国最大の都市である。旧称はドイツ語 : プレスブルク (Pressburg/Preßburg)、マジャル(ハンガリー)語 : ポジョニ (Pozsony)、スロバキア語 : プレシュポロク (Prešporok/Prešporek)、チェコ語 : プレシュプルク (Prešpurk) で、チェコスロバキア第一共和国建国後の1919年に現名称に改称した。
「われわれは余りにも長い間、暗闇の中にいました。かつては光の中にいたのです。これを取り戻したいのです」-68歳の誕生日を間近に控えたドプチェクの顔には、追放生活20年のシワが深く刻まれていたが、声の張りは失われていなかった。
ドプチェクは「市民フォーラム」とともに誕生したスロバキアの姉妹組織「暴力に反対する大衆Verejnosť proti násiliu(VPN)」に創設以来加わっていた。トルコ駐在大使を最後に公職を失い、ブラチスラバの営林署に勤務していたが、常時治安当局の監視の目が光り、社会から隔離されていた。だが、今はこんなに多くの群衆が前にいる。「プラハの春」が再来したかのようであった。
*暴力に反対する公衆(ぼうりょくにはんたいするこうしゅう、スロバキア語:Verejnosť proti násiliu、略称:VPN)は、チェコスロバキア社会主義共和国における民主化運動(ビロード革命)を推進したスロバキア社会主義共和国内の非共産党系勢力によって、1989年11月19日にブラチスラヴァで結成された政治運動組織である。
87年4月のゴルバチョフのプラハ訪問では失望を味わった。ゴルバチョフはブラチスラバにも足をのばした。待望の対面を期待し、ドプチェクは自宅前で長い間待機していたが、時計の針は空しく回り、来客は現われなかった。だが、この訪問こそは改革へのシグナルになる、とドプチェクは自らの言い聞かせてきた。
その時はようやく巡ってきた。あとは党の決断だけである。群衆からは「ドプチェクを大統領に!」という声が上がった。

ヤケシュ退陣
ドプチェクがプラハ市民の歓声に包まれている時、党中央委は緊急総会を開催していた。総会は午前8時に始まり、ヤケシュの情報報告を受け、政治危機の克服をめぐって人事問題を含めた対応を協議していた。ヤケシュは基調報告で「ポーランド、ハンガリー、特に東独での事態と、それがわが国に及ぼす影響を正しく評価できなかった」と述べ、党指導者として対応の遅れを自己批判した。しかし、一方でヤケシュは連日の街頭デモを「特定のグループによる明白な反社会主義活動」と弾劾し、「社会主義社会の利益の侵害に対しては、法的手段を行使しなければならない」とも述べ、あくまで強行突破の構えを示した。総会は激論となり、夜にまでもつれ込んだ。
ヤケシュは前日、プラハでソ連大使ロマキンと会談している。ソ連のマスコミはプラハのデモやドプチェク演説を好意的に伝えるなどし、ソ連指導部がヤケシュへの圧力を強めていることは隠しようのない事実だった。
結局、妥協策として、書記長ヤケシュを含め幹部会員ら指導部25人が全員いったん辞任、秘密投票による指導部選出で、鉄道員出身のウルバーネク幹部会員を新書記長とする9人から成る強権体制を発足させた。ヤケシュは2年半余りで退陣に追い込まれた。同時にフサーク、インドラ、カレル・ホフマンKarel Hoffmannら保守派幹部会員も辞任した。
*カレル・ウルバーネク(Karel Urbánek、1941年3月22日 - )は、チェコスロバキアの政治家。ビロード革命の間のチェコスロバキア共産党の指導者(書記長)だった。1989年11月24日に行われた選挙の後、ミロシュ・ヤケシュに代わりチェコスロバキア共産党の書記長として、同年ラディスラフ・アダメッツに引き継がれるまで、党首として残った。

*Češtinaチェコ語→Alois Indra, někdy psáno též Alojz Indra (17. března 1921 Medzev na Slovensku Československo – 2. srpna 1990 Praha) byl československý politik Komunistické strany Československa, ministr vlád ČSSR, poslanec Národního shromáždění ČSSR, České národní rady a Sněmovny lidu Federálního shromáždění. Byl jedním z autorů tzv. zvacího dopisu a představitelů období normalizace.
反体制派との対話のパイプ役だった首相アダメッツも幹部会から退いた。アダメッツは過去にも6月と10月の二回にわたり、ヤケシュに改革の遅れを批判する書簡を送り、三週間ほど前には、ヤケシュへの批判から大統領フサークに首相ポストの返上を申し出ていた。外部からの圧力に加え、党内からの批判で、ヤケシュは指導部を引きずりおろされたのだった。
中途半端ながら、党の自浄過程が始まった。だが、これは同時に、巨大党組織の崩壊過程でもあった。先の「17日事件」に直接責任があると目されていた保守派のプラハ市党委第一書記シチェバンが幹部会に留任したことは、反体制派からと同様、党内にも強い批判があった。17日の弾圧事件がシチェバンの指示にほかならなかった事情は、議会調査にみる通りだが、当時一般市民の知るところではなかった。


保守派一掃
中央委は二日後、再度総会を開き、シチェバンら留任した幹部会員3人を切り、社会主義青年同盟議長モホリタらを加えることにより、保守派一掃を一応完了した。ウルバーネフは「市民フォーラム」の存在を「一つの事実」と認める立場を表明し、行動綱領を決定する臨時党大会の1月開催を予告した。党内では、地方組織が自立現象を起こし、党中央より先を進み始めた。「プラハの春」をめぐっても、プラハ市党委やスロバキア共産党が見直しを求める決議を採択した。チェコとスロバキアの両共和国から成るこの国の共産党組織には、チェコ共和国に対応する党組織はなかった。プラハ市とスロバキアからの突き上げは、党下部の大半が、党中央より一歩踏み出したことを意味した。
*Češtinaチェコ語→Vasil Mohorita (* 19. září 1952 Praha[1]) je bývalý český a československý podnikatel, politik Komunistické strany Československa. Po nástupu Michaila Gorbačova a zahájení perestrojky v Sovětském svazu se stal předsedou Ústředního výboru Socialistického svazu mládeže a poslancem České národní rady. Po sametové revoluci byl místopředsedou KSČ a poslancem Sněmovny lidu Federálního shromáždění. Později byl členem Demokratické strany práce a předsedou Strany demokratického socialismu.
党下部組織の中で真っ先に指導部に反旗を翻したのは、党書記モホリタが率いる社会主義青年同盟だった。17日の公認デモが弾圧事件に発展すると、プラハの党組織は直ちに政府の即時退陣を要求。モホリタは事件以後「非党員との対話が不可欠」との立場に立った。党の翼賛組織である国民戦線Národní frontaも、これに加わる人民党、社会党もヤケシュへの批判を強めていた。
*Češtinaチェコ語→Národní fronta Čechů a Slováků bylo sdružení politických stran (později byly do něj přijaty i další organizace), které bylo založeno za účelem převzetí řízení státu po druhé světové válce. V podstatě se jednalo o nejdéle fungující politickou koalici na území Československa.
*キリスト教民主同盟=チェコスロバキア人民党(キリストきょうみんしゅどうめい=チェコスロバキアじんみんとう、チェコ語: Křesťanská a demokratická unie – Československá strana lidová,KDU–ČSL)は、チェコの政党。1919年以来の歴史を持つ古参のキリスト教民主主義政党である。
*チェコスロバキア国民社会党( - こくみんしゃかいとう、Československá strana národně socialistická、ČSNS)は、チェコスロバキアの中道左派政党[1]。

ヤケシュ、インドラら「プラハの春」を否定した保守派を党から追放したことにより、党をめぐる環境はがらりと変わった。今度は「正常化」路線そのものが逆否定されることになった。党の絶対性を維持する根拠は失われた。
連立内閣
共産党が支配する連邦議会は11月29日、憲法改正案を可決し、「党の指導的役割」を削除し、マルクス・レーニン主義に基づく教育に関する規定を廃止した。チェコでもやっと政治舞台に複数主義を導入する法的条件が整った。共産党もヤケシュを解任した翌日25日の中央委で「党以外の政党や個人が幅広く政府に参加するよう」呼び掛け、自由選挙までの間「対等な政党の連合」を結成しようと提案していた。
アダメッツは翌26日、「市民フォーラム」との対話の席で、政治犯の釈放、検閲の廃止などに応じる姿勢をみせた。混乱の収拾が急務であった。
12月3日、アダメッツは公約通り、非共産党員5人を含む新内閣名簿を発表した。閣僚は首相を含め21人のうち無所属が3人、体制内小政党である人民党、社会党から各1人という内訳だった。これでは最大勢力である「市民フォーラム」が納得するわけはない。アダメッツの判断は甘かった。改革派共産党の政策が、その善意にかかわらず既に客観情勢に遅れをとっている例は、他の東欧政変にも共通してみられた現象だ。「フォーラム」は直ちに拒否声明を発表、再組閣を要求してゼネストを構えた。
組閣に失敗したアダメッツは7日、大統領フサークに辞表を提出、政権を投げ出してしまった。これを受け、フサークは後任に第一副首相チャルファを指名し、チャルファは10日、戦後共産党独裁が成立したあと初の非共産党多数内閣を組閣した。新内閣の内訳は共産党がチャルファを含む10人(のち首相ら3人は離党)、社会党、人民党各2人、外相ディーンストビール、蔵相クラウスら「フォーラム」系無所属7人となった。共産党独裁はここに終了した。
前日夜のテレビ演説では辞任を表明していたフサークは、新閣僚の宣誓式を最後に辞任、政治生活から完全に身を引いた。

*マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová チェコ語発音: [ˈmartɪna ˈnavraːcɪlovaː], 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の元女子プロテニス選手・・・1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。

*イワン・レンドル(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者・・・1968年、ソ連のチェコスロバキア侵攻、いわゆる「プラハの春」が彼の人生、そして後のアメリカ移住、帰化に際して大きな影響を与える。またその後に起こったマルチナ・ナブラチロワのアメリカ亡命も、彼のその後に大きく影響している。

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