日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑩


ポパは、大統領に死刑を宣告したあの軍事法廷の裁判長。法務省の発表によると、ポパは90年3月1日、法務省の一室でピストル自殺した。自殺の動機は不明。裁判の真相を知る重要な人物が消えたことだけは確かだ。

*Românăルーマニア語→În 1990, Colonelul Gică Popa(ギカ・ポパ大佐), președintele completului de judecată care a condamnat pe soții Ceaușescu la moarte, a fost avansat la gradul de general de justiție. La 1 martie 1990, un comunicat al guvernului a anunțat că Gică Popa s-a sinucis în biroul său.
ミリタル将軍はСписок военно-учебных заведений ВС СССРソ連高級軍アカデミーSoviet military academies
を卒業し、1968年に首都ブカレスト軍管区司令官に就任。74年には共産党中央委員会に選出された軍最高幹部の1人である。しかし、4年後には軍務を外れ、続いて84年には党中央委員の地位も失っている。後述するが、ソ連で学び70年代に高位に上り詰めながら、80年代に事実上失脚するという経歴は、救国戦線議長イリエスクのそれと共通点がある。

スタンクレスク将軍
政変で一番重要な役割を果たしたに違いない軍人は、スタンクレスク将軍である。50年代に軍アカデミーを卒業したこの61歳の軍エリートは、軍需物資調達部門の専門家として頭角を現し、調達局長を務めたあと81年に国防次官に、85年に第一次官に昇進し、政変の時点ではミリア国防相に次ぐ軍実力者だった。
政変数ヶ月前の7月、トランシルバニアのハンガリー系住民問題と政治改革をめぐって、両国関係は緊張が続いていたが、両国の国防当局には、危機回避のため極めて緊密な連絡があり、政治的緊張とは裏腹に軍人の交流は途絶えてはいなかった。ミレア国防相が殺されたと電話でハンガリー国防相に明かしたのも、ルーマニア軍参謀次長だった。

*The Hungarian minority of Romania (Hungarian:Romániai magyarok; Romanian:maghiarii din România)is the largest ethnic minority in Romania, consisting of 1,227,623 people and making up 6.1% of the total population, according to the 2011 census.

12月22日の救国戦線結成の会議の席で、イリエスクが懸命にスタンクレスクとの電話連絡をとろうとしていたことは、既に触れた。会議のビデオでは、終わりに次のような箇所がある。
舞台監督のセルギウ・ニコラエスクが「この建物(党中央委員会)にこれ以上とどまるのは危険だ。急いで退出すべきだ。さあ、場所を変えよう。・・・閣僚会議の建物がいい。あそこは安心だ」と提案する。すると、「いや国防省に行こう」という声が出る。カメラの背後に立っているらしく、画面には登場しないが、声の主は、のち情報庁長官に出世するセクリターテ大佐マグレアヌだったといわれる。そして、彼の提案を受け、会議は実際に国防省に移るのである。スタンクレスクも、反乱の指導者たちを国防省で保護したのは自分だと認めている。

*Românăルーマニア語→Sergiu Florin Nicolaescu(n. 13 aprilie 1930, Târgu Jiu, România – d. 3 ianuarie 2013, București, România) a fost un regizor, scenarist, actor și politician român.
この事実から判明することは、国防省がこの時点で、「救国戦線」として大衆の前に姿を現す組織のメンバーにとって、身の安全を保障してくれる聖域だったことだ。ミレア国防相の亡き後、国防省全体を統制できる第一の実力者はスタンクレスク将軍であることからして、彼が早い段階から戦線側に与していたとみることができる。

軍高官たちと政変
参謀総長グサは短期間で救国戦線評議会を追われ、ミリタル将軍も新政権の国防相に就任したのも束の間、わずか1ヶ月後の90年2月、解任される。これに反し、スタンクレスクは経済相から横滑りし、ミリタル将軍の跡を襲って国防相に就任している。政治情勢が安定を取り戻していない時期にあって、国防相は最大の実権ポストである。政変とイリエスク政権の誕生にとって、スタンクレスク将軍の存在の持つ意味が極めて大きいことがこれで分かる。
おそらく、軍高官たちの政変へのかかわりは一様ではなかった。推測できるのは、イリエスク=スタンクレスクのラインがあったであろうということ、ミリタル将軍が政変前の「救国戦線」にいたとすれば、イリエスクはこれとは慎重に一定の距離を保っていたということだ。かつてミリタル将軍らが「イリエスクを新指導者に」と考えた時、イリエスク氏本人は関心を示さなかったーというミリタル証言は、両者の間に距離があったことを暗示している。

古参党員
6人衆の批判
文民によるチャウシェスク批判の動きとしては、1989年初めに公表された党古参幹部らの連署による体制批判の公開書簡がある。同年3月ごろ、西側に流出し公になったが、この種の文書が国外に流出することは、治安当局内部の支援があったことを裏付けている。書簡の署名者は元労働組合同盟議長ゲオルギエ・アポストル、元国家計画委議長アレクサンドル・ブルラデアヌ(いずれも元共産党政治局員)、元外相マネスク、1979年の党大会の席上、チャウシェスク退陣を要求した創立以来の最古参党員コンスタンチン・プルブレスク、同じく古参のイオン・ラチェアヌ、それにシルビウ・ブルカンの6人である。

*Românăルーマニア語→Scrisoarea celor șaseLetter of the Six este un document conceput de fostul demnitar comunist de rang înalt Gheorghe Apostol și semnat de alți cinci foști membri marcanți ai Partidului Comunist Român: Alexandru Bârlădeanu, Corneliu Mănescu, Grigore Răceanu, Constantin Pârvulescu și Silviu Brucan. Scrisoarea a fost publicată de posturile de radio BBC și Europa Liberă pe data de 11 martie 1989.

*Românăルーマニア語→Gheorghe Apostol (n. 16 mai 1913,Tudor Vladimirescu, Galați, România – d. 21 august
2010, București, România) a fost un politician comunist român și conducător al Partidului Comunist Român, principalul contracandidat al lui Ceaușescu la funcția de lider al partidului, după moartea lui Gheorghiu-Dej.

*Românăルーマニア語→Alexandru Bârlădeanu (n. 25 ianuarie 1911, Comrat, gubernia Basarabia, Imperiul Rus, astăzi în Republica Moldova – d. 13 noiembrie 1997, București, România)[1] a fost un economist și om politic român-găgăuz, membru titular și vicepreședinte al Academiei Române.

*Românăルーマニア語→Constantin Pârvulescu (n. 10 noiembrie 1895, Olănești, județul Vâlcea – d. 11 iulie 1992, București) a fost unul dintre fondatorii Partidului Comunist din România și un oponent activ al lui Nicolae Ceaușescu.
*Românăルーマニア語→Grigore Ion Răceanu (1906–1996) a fost un comunist român, politician, și oponent al lui Nicolae Ceaușescu.
書簡は党が政府で重要なポストを占めた人々による公然たるチャウシェスク批判の噴出として、西欧では大きな注目を集めた。当局は6人を自宅に軟禁したが、大物揃いであるだけに、抹殺はできなかった。
書簡はチャウシェスク体制下で社会主義の理念が信用を失った、と述べ、チャウシェスクの憲法無視を逐条的に批判していた。批判の内容は、①「システム化」と呼ばれる農村再編計画による農村破壊と住民の強制移住、②市民と外国人の接触を禁じた法律、③秘密警察セクリターテによる国民生活の監視、郵便物の開封、電話の盗聴ーなどの違憲・不法を指弾、東西欧州からの外交的孤立の深まりに危機感を表明し、これらの政策を即時中止するよう要求していた。
この書簡からうかがえるのは、共産党が改革のリーダーシップをとり、チャウシェスク体制による政治の歪みを正すことが可能だという強い信念である。ルーマニアには党外の反体制運動は存在しないに等しかった。改革は唯一、共産党の自己変革によるしかなかった。12月22日の救国戦線評議会メンバーには、6人のうちプルラデアヌ、マネスク、ブルカンの3人が名を連ねた。

マジルの報告
連署の6人衆とは別に、1989年、国連社会経済理事会の要請でルーマニアの人権問題について報告書を作成したドミトル・マジルがいる。一時、救国戦線評議会副議長に就任したマジルである。元外務省法制部長で、国連経済社会理事会の委員を務めた。マジルは「人権と青年」をテーマとする報告書を書いた。本人は報告のための出国を禁じられたが、「ルーマニアの場合に関する特別の考察」と題する特別報告が5月に国連に届き、痛烈なチャウシェスク批判文書として注目された。
報告書は「社会階層の頂点に立った一個人が、ただ一つの専門的研究も、ただ一つの経済的予測もなく大規模な経済施設の設立を命じ・・・その活動計画を作成」していると批判。国民は「圧政者たちの不朽の名声を確実にする威信昂揚計画を実行に移すだけの家畜」にすぎず「食物を得る権利や厳しい冬に家を暖める権利を否定されている」と慨嘆し、ルーマニア経済と国民生活の破綻に対する独裁者の責任を糾弾した。
ここには、70年代にその自主独立路線のおかげで、西側から”東欧の寵児”扱いされ、巨額投資による西側設備を無計画に導入、「外国企業を破産から救い、関係諸国に対する債務を数十億ドルも増やした」だけに終わった経済政策に対する批判と、そのツケを電力カットと食糧輸出による耐乏生活の形で国民に強要する一方、「もっとも贅沢な君主たちでさえ知らなかった豪奢な宮殿」「凝りに凝った料理」にうつつを抜かすチャウシェスクへの怒りが満ちている。
失脚者たちの怒り
さらに、この報告書は、秘密警察の監視と密告の網の目にもかかわらず、国内に反チャウシェスクの動きが芽生えてきた事実にも触れ、「多くの若いルーマニア人は先輩たちが被った野蛮な弾圧の恐るべき経験に学んで、闘いを放棄することなく、しかも生き延びる方法を学んでいる」と書いている。
チャウシェスク政権末期、閣僚の首のすげ替えが頻繁に行なわれたが、報告書は「公衆の注目を引く指導者、かなりの知性を持ち、とりわけ個人的資質、活動能力、人々に接する際の洗練された態度によって大きな人気をかち得た指導者は疑惑をかけられ、・・・重要な公職から解任され、社会機構の最も辺鄙な片鱗に左遷」されると述べていた。筆者マジル自身も含め、ルーマニア政変後、政治の表舞台に登場する人々がかつてチャウシェスク政権下で公職を追われた人々であった点を考え合わせると、ルーマニア政変には失脚者たちによる反逆という一面があったことは否定できない。
マジルは12月26日、救国戦線評議会副議長に就任するが、1ヶ月後の90年1月26日、セクリターテの元幹部だったとの隠された経歴が発覚したことから辞任した。過去を暴いたのは『ルーマニア・リベラ』紙で、以前治安将校だった経歴があり、内務省学校長などを務めたと伝えた。マジルは弁明することなく職を辞した。「事実上の解任」と伝えたマスコミもあったが、むしろ辞任は本人の意思だろう。旧政権とのかかわりを問題とすれば、救国戦線そのものが存在し得なくなろう。先の国連への報告書の中でマジルは、1848年の反トルコ・ロシア蜂起の指導者で、今もブカレストの目抜き通りに名を残す民族的英雄である二コラエ・バルチェスク(1819-52)の「民主主義」を定義した言葉を引き、「公僕は・・・自らが職務を引き受けた期間が終われば、自らに委ねられた職務を返上する用意ができていなければならない」と書いている。こうして、12月政変で登場した指導者がまた1人舞台を去った。

*Românăルーマニア語→Revoluția de la 1848 din Țara Românească a fost o revoltă românească liberală și naționalistă din Țara Românească. Parte a revoluțiilor de la 1848 și conectată strâns la revolta eșuată din Principatul Moldovei, a urmărit să răstoarne administrația impusă de autoritățile imperiale rusești sub regimul Regulamentului Organic, și, prin mulți din liderii săi, a cerut abolirea privilegiilor boierești. Condusă de un grup de tineri intelectuali și ofițeri ai forțelor militare, mișcarea a reușit să-l răstoarne pe principele conducător Gheorghe Bibescu, pe care l-au înlocuit cu un guvern provizoriu și o regență; de asemenea, au votat o serie de reforme progresiste, prima anunțată în Proclamația de la Islaz.

*ニコラエ・バルチェスク(羅:Nicolae Bălcescu、1819年6月29日 – 1852年11月29日)は、ルーマニアの軍人、歴史家、ジャーナリスト。1848年のワラキア革命(英語版)の指導者として知られる。

ゴルバチョフとイリエスク
浮沈の激しさ
政変により復活した政治家の筆頭は、いうまでもなく、かつての党書記で将来の書記長候補といわれたイオン・イリエスクであった。イリエスクとはどういう人物なのか。
1930年生まれ。53年共産党入党。56年から60年まで、共産党青年組織であるUniunea Tineretului Comunist共産青年同盟Union of Communist Youth書記。68年、30代で中央委員に就任。67年ー71年は共産青年同盟第一書記兼青年問題教育相を務め、71年2月には宣伝・教育担当書記に抜擢されたが、5ヶ月後の7月、解任され、ティミス郡党委員会書記として地方に転出させられている。この間69年には政治執行委員(政治局員)候補に昇格するが、ルーマニア代表団を率いてソ連・モルダビア共和国(現モルドバ)を訪問した直後の79年11月、政治執行委から外され、84年11月には中央委からも解任されている。その後、政変までは国営技術者専門の出版社の社長の地位に甘んじていた。
*Românăルーマニア語→Uniunea Tineretului Comunist (cunoscută și prin acronim U.T.C.) a fost organizația de tineret a Partidului Comunist Român. În timpul Republicii Populare Române, s-a numit Uniunea Tineretului Muncitor (acronim U.T.M.).
*モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、モルドバ語:Република Советикэ Сочиалистэ Молдовеняскэ Republica Sovietică Socialistă Moldovenească、ロシア語:Молда́вская Сове́тская Социалисти́ческая Респу́блика、英語: Moldavian Soviet Socialist Republic、略称はモルダヴィアSSR)は、ソビエト連邦構成共和国の一つ。現在のモルドバ共和国、沿ドニエストル共和国(国際的に独立は未承認)にあたる。
*モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova [molˈdova] )は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。
この経歴の浮沈の激しさはどうだろう。71年、41歳の若さで宣伝・教育担当書記に就任した当初は、チャウシェスクの有力後継者とみなされていたが、8年後には風向きが大きく変わっている。失脚の理由はいくつか挙げられる。一つは、マジルが報告で指摘しているように、チャウシェスクが自らの独裁を脅かすような有能な人物を排除したことである。70年代後半から露骨な親族支配を強めたチャウシェスクは、候補者に次男ニクを想定していた。イリエスクの存在は、一族支配を維持するうえで、大きな危険要因だった。

*ニク・チャウシェスク(Nicu Ceaușescu、ルーマニア語発音: [ˈniku tʃe̯a.uˈʃesku]、 1951年9月1日 – 1996年9月26日)は、ルーマニア社会主義共和国の物理学者、政治家。同国の指導者であったニコラエ・チャウシェスクと妻のエレナの末子で、父のニコラエの政治的側近であり、大統領職の後継者候補とみなされていた・・・ドキュメンタリー番組"Videograms of a Revolution"は、1989年12月22日に子供を誘拐したなどの容疑で逮捕され、囚人として国営テレビに映ったニクを紹介している。1990年にも、父の政権下で政府資金を不正に使用したことで逮捕され、懲役20年の判決を下された。1992年11月に肝硬変のため釈放されたが、ニクはその4年後、45歳でウィーンの病院にて死去した。

失脚
チャウシェスクは71年6月、中国を10日間にわたり長期訪問し、毛沢東、周恩来と会談、文化大革命の毛沢東崇拝を目撃して、強い関心を示したといわれる。帰国後、青年問題担当だったイリエスクに「ルーマニア版の文革」に青少年を動員する構想を検討するよう指示し、イリエスクの抵抗に遭っている。

イリエスクの親ソ連傾向も、チャウシェスクの体質と合わなかった。イリエスクは50-53年の間、Московский энергетический институтモスクワのエネルギー工科大学Moscow Power Engineering Instituteで学んでいる。留学中、ルーマニア人留学生団体の書記を務め、後のソ連大統領ゴルバチョフとも当時から面識があったといわれる(イリエスク自身はこのエピソードを否定しているが)。いずれにせよ、イリエスクがゴルバチョフの眼鏡にかなう人物であったことは間違いない。85年のゴルバチョフ政権誕生が、世間から忘れられていた政治家の復活に道を開く。
87年5月末、ゴルバチョフは夫人のライサを伴ってブカレストを訪問したことがある。ゴルバチョフは友好集会での演説で、ソ連の改革について説明したが、この中でブレジネフ時代のネポチズム(身内びいき)と個人崇拝、中央集権主義、国民からの党の遊離を激しく批判した。演説はソ連指導部の自己批判の体裁をとってはいるが、チャウシェスク独裁支配への攻撃であることは明らかだった。

ゴルバチョフのシグナル
この訪問の際、ゴルバチョフは密かに、改革を促すための、より重要なシグナルを送っていた。ソ連国営テレビのニュース番組『ブレーミャВремя(時)』と週刊紙『ネジェーリャ(週間)』は、ゴルバチョフがカーロイ・キーライと会談した、と背景説明抜きで簡単に伝えた。
*ヴレーミャ(ロシア語: Время ヴリェーミャ、英語: Vremya)は、ソビエト連邦・ロシア連邦のニュース番組である。ソビエト連邦中央テレビ(1968年 - 1991年)・チャンネル1(1994年 - )で放映されている。

*Magyarマジャール語→Király Károly (Dicsőszentmárton, 1930. szeptember 26. – Budapest, 2021. november 4.) közgazdász, romániai magyar politikus.Românăルーマニア語→Károly Király (n. 26 septembrie 1930, Diciosânmartin, în prezent Târnăveni, județul Mureș – d. 4 noiembrie 2021) a fost un politician maghiar din România.

キーライとは、イリエスクと同年配のハンガリー系の元共産党幹部で、ティルグムレシュ共産青年同盟の元書記。チャウシェスクの民族同化政策に抗議し72年に政治執行委員候補を、75年には国家評議会員を辞任、家具工場の社長に転身した。生まれ、党内での活動分野ともイリエスクと全く同じであり、イリエスクと旧知の間柄であったことは間違いない。90年2月、救国戦線評議会が衣替えした国民統一暫定評議会の副議長の1人でもある。
*トゥルグ・ムレシュ (ルーマニア語: Târgu Mureș; ハンガリー語: Marosvásárhely, (Székely-)Vásárhely; ドイツ語: Neumarkt am Mieresch; ラテン語: Novum Forum Siculorum)は、ルーマニア、トランシルヴァニア地方の都市。ムレシュ県の県都。
ゴルバチョフはキーライを非公式会談に招待し、ブカレスト訪問の最終日、ティルグムレシュの自宅にソ連大使館の公用車を差し向け、ブカレストで密かに会談した。会談の内容は不明だが、チャウシェスクが不安感をつのらせたことは想像に難くない。
キーライはこの会見から2ヶ月半後の8月16日、チャウシェスク政権の失政を全面批判する公開書簡を書いている。書簡はチャウシェスク政権下のルーマニアの「嘆かわしい経済状態と、国家政策の基礎と化した当局による虚偽」を手厳しく批判し、「人間と人間の必要をかくも無神経に無視することが、いったいどうして可能なのか」「国民の口からパンの最後の一切れまで輸出に回され、商品はその生産のために汗した人々の要求を顧みず、系統的に輸出されている」と、チャウシェスク政権に”飢餓輸出”を即時停止するよう要求していた。キーライはまた、74年に辞任した元首相マウレルと文通があることも明らかにし、元首相とも完全に意見が一致していると述べ、チャウシェスク不信が今や党内良識派の間に広く深く広がっていることを示唆していた。

呼応したイリエスク
キーライと同じ境遇にあったはずのイリエスクが、ゴルバチョフと会ったかどうかは分からない。しかし、キーライ書簡から約2週間後の9月3日、当時のルーマニアで最も権威があった作家同盟の週刊機関誌『ルーマニア文学
Literatura română』に、「創造と情報」と題する長大な論文が掲載された。筆者はイリエスクだった。論文は、現代の経済、社会の発展の中で科学・技術が果たす決定的な役割を強調、「情報源へのアクセス、知識の普及と公表の重要性」を訴え、ルーマニアの情報閉鎖社会に批判の矢を向けている。内容はキーライ書簡よりはるかに理論的で、チャウシェスク政権の本質に鋭い批判のメスを入れている。権力による情報の独占は社会進歩の停滞を招く。論文は言う。
「・・・原則として保守的なものである権力、意思決定機関に内在するところの諸要因に、会衆のコントロールを加える効果的形態を発展させることが重要である。それら(権力、意思決定機関)は既存の秩序と安定を守る道具として、公衆生活に立ち現われ、したがって、社会的疎外現象の元凶、惰性の道具としてふるまう。・・・」
イリエスクはフランシス・ベーコンの「知は力である」という言葉を引用し、「逆は必ずしも真ならず」と述べることによって、チャウシェスク体制の権力支配を半ば公然と皮肉っている。論文は、ゴルバチョフが進める「ГласностьグラスノスチGlasnost(情報公開)」への連帯表明であると同時に、チャウシェスク体制への”闘争宣言”であった。この論文が検問を通過した理由は不明だった。ゴルバチョフの訪問直後という時期が幸いしたのか、検閲当局に支持を得ていたのか。いずれにせよ、この時から西側専門家の間では、イリエスクを再び次期指導者に擁する観測が生まれていた。
*初代セント・オールバン(ズ)子爵フランシス・ベーコン(英: Francis Bacon, 1st Viscount St Alban(s), PC, QC、1561年1月22日 - 1626年4月9日[1])は、イギリスの哲学者、神学者、法学者、政治家、貴族である。イングランド近世(ルネサンス期、テューダー朝(エリザベス朝)からステュアート朝)の人物。「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)の名言や、「idolaイドラIdol(philosophy)」の概念で有名。

『革命』の終焉
共産党の扱い
救国戦線評議会は1990年1月12日、共産党の非合法化を発表した。国民は政変後、革命の不徹底と旧支配層の復活の兆しを敏感に感じ取り始めていた。「喪服の日」とされたこの日の集会で、約1万人の群衆は、チャウシェスク体制下の支配者を裁くため、いったん廃止された死刑の復活と共産党粉砕を叫んでいた。
共産党は政治執行委員会(政治局)の幹部全員が逮捕され、組織は事実上機能を停止していた。しかし、このことは党の壊滅を意味しなかった。新たな共産党が再建される可能性は依然残っていた。市民の不安に応えるため、イリエスクは同日、「共産党の非合法化」を発表したのだった。
しかし数時間後、その方針は軌道修正され、死刑復活の是非とともに28日の国民投票にかける方針が明らかにされた。この国民投票も18日、中止が決まり、共産党の扱いはうやむやにされてしまった。
東欧諸国の共産党は、89年10月のハンガリー社会主義労働者党を皮切りに、党決定により旧指導部を解任し、西欧型社会民主主義を基礎とする新党綱領と党内民主主義を保障する組織規約を採択して路線転換のけじめをつけた。多くの党は党名も変更し、新生の党として出発した。ルーマニア共産党には、過去を”清算”するこうした過程がなかった。政変の中で、指導部が逮捕され、党は壊滅したというのがその理由だ。共産党は果たして雲散霧消してしまったのだろうか。

政党化した救国戦線
救国戦線評議会が、イリエスクをはじめ旧共産党活動家を核にした組織であることは既に明らかだった。暫定権力機関であったはずの評議会の母体である救国戦線が、1月23日、来る総選挙に独自候補を擁立することを決定したことから、救国戦線の「政党」としての顔が浮かび上がってきた。救国戦線による独裁の再来に懸念を強めた野党、全国農民党、国民自由党、社会民主党などは評議会の即時解散と、選挙までの暫定権力機関としての連合政権「国民統一評議会」の設立を要求し、28日にブカレストで大集会を開催した。アナ・ブランディアナ女史ら、チャウシェスク時代の反体制活動家らは救国戦線評議会を去った。首都では学生らが「救国戦線による革命の乗っ取り」に対し、デモと集会で抗議に立ち上がった。

*Românăルーマニア語→Partidul Național Țărănesc Creștin Democrat (PNȚCD) キリスト教民主国民農民党este un partid politic de centru-dreapta din România, care se consideră continuatorul Partidului Național Țărănesc ce a activat în România între 1926 și 1947. A făcut în trecut parte la nivel european din Partidul Popular European, iar în martie 2020 a fost primit în Mișcarea Politică Creștină Europeană (ECPM).[1]
*国民自由党(こくみんじゆうとう、Partidul Naţional Liberal、略称:PNL)は、ルーマニアの自由主義政党。2003年9月29日から2007年4月5日まで民主党と政党連合「正義と真実」を結成していた。2014年に民主自由党と合併した。

*社会民主党(しゃかいみんしゅとう、ルーマニア語: Partidul Social Democrat; PSD)は、ルーマニアの中道左派、社会民主主義政党。ルーマニア革命の際に結成された救国戦線評議会の後継のひとつ。社会主義インターナショナル加盟。

*Românăルーマニア語→Ana Blandiana (Otilia Valeria Rusan, născută Coman), (n. 25 martie 1942,Timișoara, România) este o scriitoare (autoare a 26 de cărți publicate în română și a 60 de volume apărute în 26 de limbi) și luptătoare pentru libertate civică din România.
与野党交渉の結果、2月1日、各党が参加する「国家統一暫定評議会Consiliului de tranziţie unitatea naţională」の設立が決まった。救国戦線側が野党要求に譲歩した形だが、救国戦線は事実上の権力を維持しながら、同時に「政党」として活動するフリーハンドを獲得することになった。
多数派工作
与野党交渉が始ったのは28日だが、救国戦線が譲歩して暫定評議会の設立が決まるまでの間、実に奇妙な現象が起きた。交渉が始ったとたん、群小政党が続々と設立され、暫定評設立の時点で、救国戦線を含めた政党数は30を超えていた。野党が非難したように、群小政党の多くが救国戦線の「衛星党」だったとすれば、戦線による巧妙な多数派工作といえる。
与野党合意によると、暫定評議会の構成は各党代表90人、地方評議会代表42人、救国戦線の指名によるメンバー48人を加えた180人だった。これだけでも、救国戦線の権力維持は保証されていたが、実際に選出された暫定評は253人に膨れ上がっていた。内訳は、救国戦線が112人、その他37政党代表が111人(各党3人ずつ)その他少数民族代表など30人だった。救国戦線は過半数に達していたとみられ、暫定評は13日、イリエスクを議長に選出した。副議長5人のうち、カーロイ・キーライ、”闇の商人”として財を成したカジミル・イオネスクら3人が救国戦線、残る2人が自由党党首のクンペアヌら野党出身者だった。

*Românăルーマニア語→Benedict Cazimir Ionescu (n. 14 martie 1946, Caracal[1], România) este un om politic român.

*Românăルーマニア語→Radu-Anton Câmpeanu (n. 28 februarie 1922, București, România – d. 19 octombrie 2016,[1] București, România) a fost un om politic român, primul președinte al PNL după căderea regimului comunist. A deținut funcția de președinte al PNL din 1990 până în 1993.
*1990年ルーマニア総選挙(1990ねんルーマニアそうせんきょ)Alegeri generale în România, 1990は、1990年5月20日にルーマニアで実施された国政選挙。大統領と議会(元老院・代議院)の全議席を改選した。

疑惑の自由選挙
暫定評議会は次期総選挙で新国家体制が整うまでの臨時国家機関だった。その意味で、5月20日に実施される上下両院総選挙と大統領選挙こそ、”チャウシェスク後”のルーマニアが新生民主国家として東欧諸国に追いつけるのか、バルカン的後進性をなお引きずるのかを賭けた分水嶺だった。
投票結果は、予想通り救国戦線の圧勝に終わった。救国戦線は下院(全396議席)で263議席、上院(全119議席)で92議席を獲得した。大統領選ではイリエスクが85%をさらって当選を決めた。イリエスクは6月20日、正式に大統領に就任するとともに、新内閣の組閣を首相ロマンに要請、圧倒的多数による議会支配に支えられた救国戦線の単独内閣が成立した。
だが、選挙結果について、野党側は重大な異議を申し立てた。選挙運動期間中、国営テレビTeleviziunea Românăは完全に救国戦線が支配、選挙番組には連日イリエスクが登場し、演説をぶった。その半面、野党側は宣伝の手段を全く欠いていた。ハンガリーやポーランドの選挙では、国営電波の政党への割り当てについて、厳格に平等原則が守られたのとは対照的であった。
*ルーマニア・テレビ(Televiziunea Română、TVR)はルーマニアの国営テレビ局。
西欧各国の保守政党で構成する「Alliance des démocrates et des libéraux pour l'Europe欧州民主連盟(EDU)Grupul Alianței Liberalilor și Democraților pentru Europa」など、選挙にオブサーバーを派遣した組織も投票のあり方に疑問を投げ掛けた。記入済みの投票用紙を渡された有権者もいたし、地区選管や投票所の職員は、各党代表から成っておらず、地方行政機関の職員すなわち救国戦線のメンバーだった。公正を欠く、と批判されても仕方がない選挙だった。
*欧州自由民主同盟(おうしゅうじゆうみんしゅどうめい、欧州自由民主連盟[5]とも、英: Alliance of Liberals and Democrats for Europe group、ALDEFraktion der Allianz der Liberalen und Demokraten für Europaは、欧州規模の政党である欧州自由民主改革党と欧州民主党の連合体。
ルーマニア野党の脆弱性も、救国戦線の勝利を助けた。ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドには、共産党支配時代から知識人を核とする強力な反体制運動が存在し、これが政党組織に成長していったが、チャウシェスク政権はいかなる異端派組織の存在も許さなかった。野党が生まれるのは、チャウシェスク政権の崩壊後である。事実上、チャウシェスクの国家行政組織を受け継いでしまった救国戦線に比べると、組織づくり、資金、宣伝手段のあらゆる面で野党の劣勢は動かしようのない事実だった。救国戦線の大勝により、複数主義への道は遠のいてしまたかにみえる。

弾圧
選挙圧勝で「正統性」を得たイリエスク政権の自信は、学生らの抗議デモへの対応に、直ちに現われた。選挙より先の4月中旬から、反政府派の学生、市民らはブカレストのど真ん中にあるブカレスト大学に面する大学広場で座り込みを続けていた。広場といっても実際には主要道路が交差する市内交通の要衝で、当局は対応に手を焼いていた。学生らの要求の核心は、①イリエスク退陣、②政権からの旧共産党指導部の排除、選挙への立候補禁止ーの二点にあった。
選挙勝利を受けて、当局は弾圧手段に訴えた。6月13日未明、警官隊が不寝番の占拠グループ数百人の実力排除に乗り出し、263人を逮捕。続いて、大統領就任が決まっていたイリエスクの”呼び掛け”で、ティルグシュの炭坑労働者約2万人が翌14日未明、ブカレストに乗り込み、反政府運動の拠点だった大学や野党事務所、政府批判色が強い『ルマニア・リベラ』紙編集局などを急襲、棍棒で通行人も含めた無差別のテロを加えた。同紙は発行中止に追い込まれた。この事件では6人が死亡し、500人以上が負傷、1200人が逮捕された。

*Românăルーマニア語→Mineriada din iunie 1990 a fost cea de a treia acțiune de acest gen întreprinsă în România postdecembristă. A avut loc în perioada 13-15 iunie 1990 în București, când forțele de ordine, susținute de mineri, au intervenit în forță împotriva protestatarilor din Piața Universității și a populației civile. A fost considerată cea mai sângeroasă, cea mai brutală ca stil și anvergură dintre toate acțiunile minerilor (vezi articolul Mineriadă).
炭坑労働者らの無法は、法治国家であれば、刑事責任を問われるところだったが、それはなかった。逆に、イリエスクは公然と炭鉱労働者に感謝を表明しており、政権側には、警察によるデモ鎮圧に加え、労働者投入で反対派を一掃する狙いがあったことは明らかだ。

↑북한北朝鮮Coreea de Nord チャウシェスク歓迎歌Welcome Song For Ceausescu북한노래 차우쉐스쿠 환영가

*Românăルーマニア語→Farsa !! Beat Takeshi vs Nadia Comăneci ~ Dialog Istoric ~《たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグun gag din ”Comăneci!” Cunoscut ca gagul reprezentativ al lui Takeshi 》ビートたけしBeat Takeshi(東京都足立区出身)『その男、凶暴につきOmul acela este feroce』 - 【国民的英雄erou național】北野武Takeshi Kitano『アウトレイジ』(OUTRAGE) (Takeshi a venit, 1947 < Showa 22> 18 ianuarie -) , 『かなりの大御所un om destul de mare』The Japonia a comicului , regizor - actor .《全員悪人Toată lumea este un tip rău》《下剋上Gekokujo、生き残りゲームun joc de supraviețuire》
*民度(みんど)とは特定の地域・国に住む人々または、利用者(ユーザー)・参加者・ファン等のある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度の程度を指すStandard cultural (Mindo=(High?)Degree of people) care trăiește în anumite regiuni și țări și oameni, sau, nivelul intelectual mediu al utilizatorului (utilizatorului), participanților fani ai unor astfel de grupuri, niveluri de educație, standarde culturale, maniere , Se referă la gradul de maturitate, cum ar fi modelele comportamentale.

↑「人民、チャウシェスク、ルーマニア」当局側が作成・撮影・編集した「官製(プロパガンダ)宣伝番組」
チャウシェスクは政権獲得当初こそ国民から高い支持を得ていたものの、1980年代にはその人気は低下していった。1989年頃になると、チャウシェスクはもはやルーマニアの現状を受け入れることすらままならなかった。1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、それらの手紙を受け取ると、それをすぐに秘密警察の人間に渡した。

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