日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑥

国王アレクサンダルは国内に山積する困難な問題をかかえながら、対外的にはフランスに依拠しつつ、20年代に成立した小協商(チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ルーマニア)に加えて30年代に成立したバルカン協商(ギリシャ、トルコ、ユーゴスラヴィア、ルーマニア)により、ユーゴの安全保障体制を築いた。しかし34年10月、パリへの外交訪問の途中マルセイユMarseilleで、国王は仏外相バルトゥJean Louis Barthouとともに、ウスタシャとマケドニアのVMROの両テロ組織に属する一青年に暗殺されてしまう。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Mala Antanta小協商(češki: Malá dohoda, slovački: Malá dohoda, rumunski: Mica Antantă; francuski: Petite Entente)Little Entente je naziv za regionalni vojni savez koji su 1922. godine sklopile Čehoslovačka, Rumunjska i Kraljevina SHS; predstavljao je prvi formalni vojni savez sklopljen u Evropi nakon prvog svjetskog rata.

*Hrvatskiクロアチア語⇒Balkanski paktバルカン協商Balkan Pact je bio vojno-politički savez koji je imao za cilj zadržati status quo na Balkanu nakon Prvog svjetskog rata. Ugovor je potpisan 9. veljače 1934. a zemlje članice su bile Kraljevina Jugoslavija, Grčka, Rumunjska i Turska.

*Македонскиマケドニア語⇒Величко Димитров КеринVlado Černozemski, повеќе познат под својот псевдоним Владо Черноземски — македонски револуционер и терорист од Бугарија, учесник во македонското револуционерно движење во првата половина на XX век, деец на Внатрешната македонска револуционерна организација.
*Hrvatskiクロアチア語⇒Banovina Hrvatskaクロアチア自治州 je bila teritorijalna jedinica unutar Kraljevine Jugoslavije, nastala kao rezultat težnje hrvatskog i srpskog naroda (s područja Hrvatske) za većom autonomijom te kao rezultat priznanja srbijanskih, beogradskih političara da je centralizam doveo do slijepe ulice.
息子のペータルが王位を継承したが、まだ青年に達していなかったので、いとこのパヴレ公ら3人が摂政職に就いた。以後、パヴレを中心とする摂政時代が41年まで続いた。パヴレは「第一のユーゴ」の存続にとって「クロアチア問題」の解決が最優先事であるとの認識に立ち、この問題に取り組む姿勢をみせた。さらに、30年代後半には、ドイツとイタリアの「現状打破」の行動が活発になり、ヨーロッパの国際情勢はいっきに緊張の度を強めた。パヴレにとって、国内の安定化が課題であり、クロアチア農民党のマチェクとは直接・間接の交渉が続けられた。

*ペータル2世・カラジョルジェヴィッチ(セルビア語: Петар II Карађорђевић、1923年9月6日 - 1970年11月3日)Petar II Karađorđevićは、ユーゴスラビア王国の第2代にして最後の国王である(在位:1934年 - 1945年)。

*パヴレ・カラジョルジェヴィチ(セルビア語: Павле Карађорђевић / Pavle Karađorđević、1893年4月27日 - 1976年9月14日)は、最後のユーゴスラビア王ペータル2世の摂政(1934年 - 1941年)。王族カラジョルジェヴィチ家の一員で、ペータル2世の父アレクサンダル1世の従弟にあたり、ユーゴスラビア公の称号を有した。
39年3月、チェコスロヴァキアを解体したドイツが、独立スロヴァキア国家を建設したことは、ウスタシャに多大な刺激を与えた。この事件を契機として、4月にはパヴレから委任されたツヴェトコヴィチ首相が「クロアチア問題」を解決すべく、マチェクとの会談に臨んだ。両者はクロアチアに自治を与えることで合意するが、自治単位の領域や自治の権限をめぐって交渉は難航した。結局、8月にツヴェトコヴィチとマチェクとの間に「スポラズム Sporazum(協定)」が調印された。
*スロバキア共和国(スロバキアきょうわこくRepublika Slovačka (1939–1945)、スロバキア語: Slovenská republikaは、1939年3月14日から1945年5月8日まで存在していた共和国である。ナチス・ドイツの同盟国かつ保護国であった。

*Српски / srpskiセルビア語⇒Драгиша Цветковић (Ниш, 15. јануар 1893 — Париз, 18. фебруар 1969)
Dragiša Cvetkovićје био српски и југословенски правник и политичар, последњи премијер Краљевине Југославије пре пуча од 27. марта 1941.
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Споразум Цветковић—Мачек/Sporazum Cvetković-Mačekツヴェトコヴィッチ=マチェク合意Cvetković–Maček Agreement je politički dogovor koji su 26.8. 1939. u Božjakovini sklopili predsjednik vlade Kraljevine Jugoslavije Dragiša Cvetković i Vladko Maček u ulozi vođe političke koalicije Hrvatske seljačke stranke i Seljačko-demokratske koalicije. 
この結果、ザグレブを州都とするクロアチア自治州が創設された。自治州はクロアチア固有の領域と考えられるクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアに加え、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部を含む広大な領域となり、「第一のユーゴ」において、総人口の約三分の一にあたる440万人を擁することになる。自治州は自らの議会を持ち、知事(БанバンBan)が任命された。ユーゴスラヴィアの「多民族性」が部分的に認められたのである。
この結果、クロアチア農民党のマチェクはツヴェトコヴィチ内閣の副首相に就任し、政府にこれ以上の譲歩を迫ることはしなかった。しかし、ウスタシャはなおも分離主義を掲げ、クロアチアの独立を主張してクロアチア人に勢力を拡大していった。
1990年に入って、クロアチア共和国がユーゴスラヴィアからの独立を宣言したことを契機に、クロアチア内のセルビア人が恐怖心を抱いて内戦に発展したことが想起されるが、クロアチア自治州の創設に当たっても、この地域のセルビア人は自らの存在そのものを否定されかねないという恐怖心を募らせた。
クロアチア以外の地域にも、「スポラズム」は大きな影響を与えた。セルビア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアにおいて、クロアチアと同様の自治を求める動きが見られた。こうして「国民国家」であることの矛盾はだれの目にも明らかとなっていく。

*ユーゴスラビアのパルティザン(partizani / партизаниYugoslav Partisansは、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、セルビア・クロアチア語:Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка војска и партизански одреди Југославије、マケドニア語:Народноослободителна војска и партизанските одреди на Југославија、略称:NOV i POЈ / НОВ и ПОЈ)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者としていた。
第三章 パルチザン戦争とは何だったのか
パルチザン戦争の評価
「第二のユーゴ」において、11月29、30の両日は建国記念日として最も重要な祝日であった。この両日は、1943年にパルチザン側で戦っている全土の代表が、ボスニア中部の町ヤイツェに参集し、第二回ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を開催した日である。AVNOJの決議が「第二のユーゴ」の基礎にすえられたため、この会議は戦後ユーゴのすべての出発点と考えられてきた。それゆえ「第二のユーゴ」では、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸軍に対して、果敢な抵抗運動を展開したパルチザンが神聖化される傾向さえ見られた。
*ヤイツェ(ボスニア語:Jajce、クロアチア語:Jajce、セルビア語:Јајце)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の中部に位置している。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Антифашистичко веће народног ослобођења Југославиј/Antifašističko vijeće narodnog oslobođenja Jugoslavije (AVNOJ; sl. Antifašistični svet narodne osvoboditve Jugoslavije, mak.Антифашистичко собрание за народно ослободување на Југославија)е
je bila politička organizacija narodnooslobodilačkih komiteta, uspostavljena 26. novembra 1942. radi upravljanja slobodnim teritorijama na području okupirane Jugoslavije.Anti-Fascist Council for the National Liberation of Yugoslavia
91年6月、スロヴェニアとクロアチア両共和国の独立宣言が出され、両国は独立へ向かって歩み始めた。この過程でクロアチアにおいて典型的にみられたのは、「第二のユーゴ」の存立基盤を否定し、自らのアイデンティティを中世までさかのぼって求め、あらたに歴史を作り上げようとする傾向であった。これにともない、ある種のパルチザン戦争の「相対化」がなされたことは確かである。
これまでパルチザン戦争は、勇敢かつ自己犠牲に基づく献身的な人々の集団であり、清貧で品行方正といったイメージで描かれることが多かった。たとえば、日本で公開されたユーゴの映画を取り上げてみると、60年代から70年代にかけて制作された「パルチザン映画」がその典型であろう。『ネレトヴァの戦い』や『風雪の太陽』といった映画がそれであり、ファシストに対して戦う勇敢なパルチザンの姿が描写されていた。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Битка на Неретви (филм)ネレトヴァの戦いBitka na Neretvi je jugoslovenski partizanski film iz 1969., snimljen u međunarodnoj koprodukciji sa Italijom i Zapadnom Njemačkom. Scenario za film su napisali Stevan i Veljko Bulajić, a režirao ga je Veljko Bulajić. Glavne uloge tumače Sergej Bondarčuk, Yul Brynner, Anthony Dawson, Milena Dravić, Boris Dvornik i Orson Welles. Film je zasnovan na istinitim događajima tokom iz Drugog svetskog rata, strateškog plana udruženog napada sila osovine na jugoslovenske partizane koji su se povlačili sa ranjenicima 1943.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Сутјеска (филм)風雪の太陽Sutjeska je jugoslavenski ratni film snimljen godine 1973. Povodom tridesetogodišnjice bitke na Sutjesci. Snimljen je u Nacionalnom parku Sutjeska i važi za jedan od najskupljih filmova u istoriji kinematografije SFR Jugoslavije.Battle of Sutjeska
これに対して、サラエヴォ出身の映画監督で『Otac na sluzbenom putuパパは出張中Papa est en voyage d'affaires』につづいて、95年に二度目のカンヌ映画祭グランプリに輝いたЕмир КустурицаクストリツァEmir Kusturicaの作品『アンダーグラウンド』では、従来とはかなり異なる「人間くさい」パルチザンが登場する。愚直でお人好し、酒と博打と女性に目がなく、血の気が多く愛国心が人一倍強い、典型的なセルビア人がパルチザンに加わる様子がよく描かれている。実際、パルチザンに加わった多くの人たちの動機は、指導的な役割をはたした共産主義者とは異なり、社会主義の実現というビジョンではなく、眼前の占領軍の統治に対する愛国主義に基づく反発であったといえよう。

*Српски / srpskiセルビア語⇒Подземље (енгл. Underground — АндерграундPodzemlje (1995.); познат и као Била једном једна земља) је југословенски (српски) филм из 1995. године.
このような人たちが加わったパルチザン戦争とは何であったのだろうか。「第二のユーゴ」時代の公式見解は反ファシズム人民解放戦争であり、パルチザンを中心とする愛国主義的で進歩的な反ファシスト勢力と、占領軍はその協力者(クロアチアのウスタシャ、後述するセルビアのЧетникチェトニクČetnikなど)とのあいだの戦争というものであった。こうしたパルチザン戦争の特徴づけは、善玉・悪玉の二文法に基づく「パルチザン映画」に反映されており、歴史研究の分野でも70年代初めまで続いた。
しかし、これ以後の歴史研究においては、パルチザン戦争は三つの性格を持っていたとされるようになる。ひとつは占領軍や対敵協力者からの解放を求めるゲリラ戦であり、ふたつは民族相互の内戦であり、三つには社会変革の性格である。パルチザン戦争はこれら三つの性格が複雑に交錯していたとみなされている。
その後、ユーゴスラヴィアの解体過程で内戦が展開され、先にふれたようにスロヴェニアやクロアチアでは、パルチザン戦争に対する関心がいちじるしく希薄になった。国家の資産や負債を含めて「第二のユーゴ」の継承を主張する新ユーゴ(正式名称ユーゴスラヴィア連邦共和国)のセルビア共和国においてのみ、歴史研究者や政治家のあいだでパルチザン戦争についての性格づけが問題にされている。Domovinski ratクロアチア内戦Rat u Hrvatskoj
Rat u Bosni i Hercegoviniボスニア内戦Рат у Босни и Херцеговиниとの関連で、パルチザン戦争の内戦としての性格、および対敵協力者すなわちチェトニクや「Влада Националног Спасаセルビア共和国政府Vlada Nacionalnog Spasa」の行動は、歴史的現象として是認できるのか否かが現在問われている。
実は、これらの問題はクロアチアにおいてスロヴェニアにおいても、避けて通ることのできないものなのである。戦後、「第二のユーゴ」において、こうした問題が国民レベルで十分に議論されず、”内面化”されてこなかったことが、ユーゴの解体へつながった大きな要因だと思われる。ドイツやオーストリアで進行している「過去の克服」はユーゴ諸国においても必須の課題であろう。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Силе Осовине/Sile Osovine枢軸国 ili Osovina, neformalni je naziv koji se upotrebljava za savez država koje su bile suprotstavljene Saveznicima, odnosno pobjednicima u drugom svjetskom ratu.
1 ユーゴスラヴィアの分割
枢軸軍の占領
1940年に入ると、ユーゴを取りまく国際環境は極度に悪化した。ナチス・ドイツのヨーロッパ進撃が開始されていたからである。バルカン地域においては、アルバニアを支配下においたイタリアPushtimi italian i Shqipërisëが10月にギリシャ攻撃に着手した。11月には、ルーマニアとハンガリーが相次いで三国同盟(ドイツ、イタリア、日本)に加わり、翌41年3月にはブルガリアが三国同盟入りした。ギリシャを除く近隣諸国がすべて枢軸国(ドイツ、イタリア)の影響下に置かれるなか、ユーゴの首相ツヴェトコヴィチも41年3月、ついにウィーンで三国同盟に加入した。
*ギリシャ・イタリア戦争Campagna italiana di GreciaΕλληνοϊταλικός Πόλεμοςギリシャ・イタリアせんそうGrčko-italijanski ratGreco-Italian WarGriechisch-Italienischer Kriegは、1940年10月28日から1941年4月30日まで、枢軸国のイタリア、ドイツと連合国のギリシャとの間で戦われた第二次世界大戦の戦争を指す。
しかし、ユーゴの場合、調印の知らせが国内に伝わると、首都のベオグラード、セルビアの工業都市クラグエヴァツ、スロヴェニアの中心地リュブリャナをはじめとする各地の住民は、三国同盟加入に反対の意志表示に立ち上り、共産党員を含む広範な人々のデモが多発した。各地の住民約10万人は、「裏切り政府は出て行け」「条約より戦争を」「隷属より墓場を」「ソ連との同盟を結べ」といった要求を掲げて練り歩いた。
*クラグイェヴァツ(セルビア語: Крагујевац/Kragujevac 発音: [krǎɡujeʋat͡s])はセルビアのシュマディヤ地方の中心的な都市および基礎自治体で、シュマディヤ郡の行政的な中心である。
こうした状況において、3月26-27日の夜半、ユーゴスラヴィア王国軍のシモヴィチ将軍を中心とする親西欧派将校団のクーデタが成功する。さっそく、シモヴィチを首班とする内閣が形成され、政策の面でも独裁的な政治手法の点でも、評判のよくなかった摂政のパヴレ公が廃され、ペータル二世が王位に就いた。このシモヴィチ政府は三国同盟への加入を正式に破棄することもせず、一方で4月5日にはソ連と友好不可侵条約を結ぶなど曖昧な姿勢を示した。ドイツ軍の報復攻撃についても楽観的な予測をしており、シモヴィチ首相は4月6日の日曜日に姉の結婚式を予定していたほどであった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Мартовски пуч/Državni udar u Kraljevini Jugoslaviji Vojni puč 27. marta 1941. je izvela zaverenička grupa prozapadno orijentisanih oficira Jugoslovenske vojske na čelu sa generalom Vojnog Vazduhoplovstva Borivojem Mirkovićem zbacivši s vlasti tročlano kraljevsko namesništvo, kneza Pavla Karađorđevića, dr Radenka Stankovića, dr Ivu Perovića i vladu Cvetković-Maček, koja je dva dana ranije, 25. marta 1941. potpisala protokol u Beču o pristupanju Kraljevine Jugoslavije Trojnom paktu.Yugoslav coup d'état

*Српски / srpskiセルビア語⇒Душан Симович (серб. Душан Симовић, 28 октября 1882, Крагуевац — 26 августа 1962, Белград) Dušan Simović— югославский военачальник, премьер-министр Югославии (27 марта 1941 — 12 января 1942; с апреля 1941 — в изгнании).

*ユーゴスラビアの挑戦的行為に激怒したヒトラーは、懲罰作戦(Strafgericht)の実行を命令した。

これに対して、4月6日、ドイツ軍は爆撃機400機と戦闘機200機をもってベオグラード攻撃を開始した。王宮、軍事省、最高司令部の建物、駅、発電所、郵送局を手始めに、町中が爆撃を受けた。これと同時に、ドイツ軍機甲部隊がユーゴ北部地域とブルガリア西部地域から侵入し、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍も侵攻を始めた。シモヴィチ政府の情勢分析の甘さがいっきょに表面化するとともに、強大な軍事力を備えた枢軸軍を前にしてユーゴ王国軍の貧弱な軍備もさることながら、軍隊としてのその基盤の弱さが露呈した。たとえば、ユーゴ王国軍のクロアチア人将校の多くは、4月15日に「クロアチア独立国」の創設が宣言されると王国軍を離れてしまった。ユーゴ王国軍は反撃を加える間もなく、4月16日には降伏するに至った。シモヴィチ政府は国王ペータル二世とともに国外に脱出し、この結果、ユーゴは枢軸軍の手で分割されることになる(地図7参照)。
*ユーゴスラビア侵攻(Априлски ратユーゴスラビアしんこうTravanjski rat)Invasion of Yugoslaviaは、第二次世界大戦中の1941年4月6日から同年4月17日にかけて、ドイツやイタリアを中心とする枢軸国軍とユーゴスラビアとの間で行われた戦い。ドイツ軍はフランス侵攻に次いで電撃戦を成功させ、わずか10日あまりでユーゴスラビア全土を制圧した。欧米では April War4月戦争Aprilski ratとも称される。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Nezavisna Država Hrvatska (NDH)クロアチア独立国 je bila marionetska država stvorena za vrijeme Drugog svjetskog rata u okviru poretka Sila osovine, pod utjecajem nacističke Njemačke i fašističke Italije. Vodstvo UHRO proglasilo je njen osnutak 10. travnja 1941.
セルビアはドイツの直接軍政下に置かれ、戦前の国防相ネディチを首相とする「セルビア救国政府」が設置された。スロヴェニアはドイツとイタリアの手で折半され、モンテネグロとダルマチア海岸部はイタリアの施政下に置かれ、マケドニアの西部とコソヴォはイタリア占領下Protettoratoのアルバニアに組み込まれた。

*ミラン・ネディッチ(キリル表記:Милан Недић、ラテン表記:Milan Nedić または、Nedici、1877年7月20日 - 1946年2月4日)は、ユーゴスラビアの軍人、セルビアの政治家。第二次世界大戦中のドイツの傀儡政権であるセルビア救国政府(Vlada Nacionalnog Spasa)の議長。

*セルビア救国政府(セルビアきゅうこくせいふ、セルビア語:Влада Националног Спаса / Vlada Nacionalnog SpasaGovernment of National Salvationは、第二次世界大戦時、ユーゴスラビア王国にナチス・ドイツが侵攻したユーゴスラビア侵攻の後、ナチス・ドイツによって1941年に設置された、ナチス・ドイツの傀儡政権である。
一方、クロアチア、スラヴォニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが、「クロアチア独立国」として、日本も含めた枢軸国側から承認された。この領域は11世紀の中世クロアチア王国の最大版図とされるクレシミルの統治期とほぼ同じであった。イタリアから帰国したファシスト集団ウスタシャの指導者パヴェリッチを、ムッソリーニに与えられた称号「ドゥーチェDuce(指導者)」に相応する「ポグラーヴニクPoglavnik」とする傀儡政権が形成された。また、ハンガリーとブルガリアもそれぞれ自国と接するパチェカ、バラーニャBaranyaとマケドニアの東部を占領した。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Владе Краљевине Југославије у егзилуユーゴスラビア亡命政府Jugoslovenska vlada u izbeglištvu je zvanična vlada Kraljevine Jugoslavije od aprila 1941. Jugoslovenska vlada se evakuisala iz Beograda nakon invazije Sila Osovine prvo u Grčku, zatim u Palestinu, zatim u Kairo u Egiptu, i konačno od juna 1941. u Ujedinjenom Kraljevstvu.Yugoslav government-in-exile
ロンドンの亡命政権
ポーランド、チェコスロヴァキア、ギリシャの亡命政権と同様に、ユーゴの亡命政権もロンドンに樹立された。この亡命政権はユーゴ国内が枢軸軍によって占領されるという事態に直面して、戦前の「スボラズム」期(73ページ参照)の主要政党すべてを糾合し、国家としての統一を連合国側に示すために形成された連立政権であった。そのため、クロアチア最大の政党であるクロアチア農民党も参画していた。連立政権に加わっている政党の政策は大きく異なっており、政党の寄せ集めの色彩が強く、見かけとは違って政権の基盤はきわめて弱かった。加えて、首相のシモヴィチは政治的な経験に乏しく、政治家だけでなく政党政治そのものを信用しない傾向が強かったのである。
こうした亡命政権の存立の法的基盤を1931年9月の憲法に置いていた。それゆえ、閣僚は相変わらず国王にのみ責任を持つことになっていた。国王が主権者であり政治的中心であったが、17才の国王ペータル二世には肩の荷が重かった。そのため、亡命政権内の対立が表面化してしまう。戦争の長期化と外国軍の占領という事態に直面して、国土の解放に全力を傾けるために、内政問題は棚上げにして挙国一致で事にあたることが亡命政権にとって共通にみられる了解事項であった。しかし、ユーゴの亡命政権においては、民族対立を棚上げしておくことはできなかった。
亡命政権内にはクロアチア人とセルビア人との対立が持ちこまれてしまい、両者の対立は絶えまなく続いた。ここでも、「クロアチア独立国」の創設は大きく影を落とした。この国家形成に続き、41年の夏にセルビア人の大量虐殺Progon Srba u Drugom svjetskom ratuが行われると、セルビア人の反クロアチア感情が増幅され、これが亡命政権内のセルビア人閣僚にも影響を与えた。一方、亡命政権内のクロアチア人閣僚はユーゴ王国という立場からではなく、もっぱらクロアチア民族の代表という立場から行動した。さらに、クロアチア人閣僚は多数決による政府決定を受け入れる必要はないと主張して、いわば亡命政権内で「拒否権」さえ獲得するのである。

*Српски / srpskiセルビア語⇒Током Другог свјетског рата извршен је геноцидクロアチア独立国内での(ウスタシャによる)セルビア人大虐殺Genocide of Serbs in the Independent State of Croatia над српским становништвом, у коме је између 900.000 (девет стотина хиљада) и 1.200.000 (милион и двјесто хиљада) Срба убијено на подручју НДХ и остатка окупиране Југославије.
42年1月、シモヴィチは解任された。かれが唱えるユーゴ統合政策は形を変えたセルビア中心主義にすぎないとして、とくにクロアチア人に不評であったからである。新首班にはセルビアの著名な歴史家ヨヴァノヴィチが任命された。ヨヴァノヴィチはセルビア人民族主義者の集団チェトニクの支持者であったため、この政権はチェトニクをユーゴ国内の抵抗運動の担い手と見なして密接な関係を保ち、42年1月にはチェトニクの指導者ミハイロヴィチを国防相兼「ユーゴ王国国内軍」の新司令官に任命している(チェトニクについては88頁参照)。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Slobodan Jovanović (Novi Sad, Austrougarska, 21. novembar/3. decembar 1869 – London, Ujedinjeno Kraljevstvo, 12. decembar 1958)Слободан Јовановић je bio srpski pravnik, istoričar, književnik i političar, potpredsednik Ministarskog saveta Kraljevine Jugoslavije (27. mart 1941 — 11. januar 1942), predsednik Ministarskog saveta Kraljevine Jugoslavije (11. januar 1942 — 26. jun 1943) u Londonu.

*チェトニック(セルビア・クロアチア語:Četnik、キリル文字表記Четник、英語:Chetnik、複数形:チェトニツィ、ČetniciЧетници、ChetniksTschetnikは、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。

*ドラジャ・ミハイロヴィッチ (Draža Mihailović,1893年4月27日 - 1946年7月17日)Драгољуб Михаиловићは、ユーゴスラビア王国の軍人。武装抵抗組織「チェトニック」の指導者。セルビア人・・・チェトニックは王国亡命政府と連合国の支援を受けていたが、1943年以降は枢軸国やセルビア救国政府との協力に転じパルチザン掃討を指揮。翌1944年にソビエト連邦軍が東欧へ侵攻すると戦況はパルチザン側に有利となり、また連合国や亡命政府の支援もパルチザン側に切り替わるなどチェトニックをめぐる状況は悪化。1945年5月8日にチェトニックが崩壊すると息子や部下とともに逃避行を続けるものの、翌年に逮捕されチトー政府によって救国政府の幹部ともども裁判にかけられた。彼に対しては連合国から助命を嘆願されたものの、チトーは応じず7月17日に銃殺刑が執行された。

「クロアチア独立国」と人権政策
ドイツは占領下に置いたユーゴ国内の民族対立を利用して、民族分断統治を試みた。1939年に創設されたチェコスロヴァキアの「スロヴァキア独立国」と同様に、「クロアチア自治州」の領域をさらに拡大し「クロアチア独立国」をつくり、承認したのである。
こうしたドイツの政策のもとで、クロアチア人の長いあいだの民族的願望であった「大クロアチア」が実現した。ドイツは国内に留まったクロアチア農民党党首マチェクにクロアチアの傀儡政権を担当するよう要請した。マチェクはこの要請を退けたが、占領軍に反対せず政府に協力するようにクロアチア人に呼びかける宣言を出している。クロアチア農民党はドイツに対する積極的な抵抗姿勢をとったのではなく、のちに述べるチェトニクと同様に、連合国軍や亡命政権に期待をかけ、待機主義の姿勢を示していたといえる。
結局、イタリアが強くおしていたウスタシャの「ポグラーヴニク」パヴェリッチが傀儡政権を形成した。パヴェリッチはヒトラーと同様の人権政策を進め、「純粋なクロアチア人」の国家を形成するため、ユダヤ人狩りやジプシー狩りと同様に「セルビア人狩り」に着手した。「クロアチア独立国」内に約190万人も居住していた政敵セルビア人は、「劣等で危険な人種である」という宣伝が行なわれていった。しかし、クロアチア人とセルビア人とを外見から区別することはできないし、言語の上でもほとんど違いはない。明確な違いは宗教と使用する文字だけであった。
そのため、セルビア人を象徴するセルビア正教会はその民族意識を保持する存在だとされた。セルビア正教会は弾圧され、セルビア人が使うキリル文字は禁止の対象となった。かれらは正教徒を意味する「pravoslavacプラヴォスラヴァッツправосла́вац」という言葉の頭文字Pをしるした青い腕章をつけなければならなかった。こうして、国家権力を背景に大量虐殺が実施されていく。
ナチス・ドイツにとって、テロと大量虐殺が「第三帝国」を保持するために必要であったように、「クロアチア独立国」の保持にとっても、テロと大量虐殺は必要と考えられた。この点で、両者は共通している。しかし、両者のテロには大きな相違点も見られた。ナチスはもっぱら自らのイデオロギーに従ってテロを行使したのに対し、ウスタシャは個人的な恨みを晴らすためにテロを行うといった側面が強かったようである。セルビア人に向けられたウスタシャの残虐行為が、セルビア人の多くをパルチザン参加へと促すことにつながる。
ドイツに対する果敢なパルチザン戦争が展開されるユーゴでは、第二次世界大戦期に犠牲となった死者の数は公式統計で170万人とされている。600万の犠牲者の大半がドイツ軍の手で殺害されたポーランドの場合と異なり、ユーゴの場合ドイツ軍の手で殺害された犠牲者の数は少なく、大部分がセルビア人とクロアチア人との「兄弟殺し」によるものであった。
1992年に始るボスニア内戦において、とくにセルビア人勢力による「強制収容所」の存在が問題とされたが、第二次世界大戦期に「クロアチア独立国」でウスタシャに逮捕され、強制収容所で殺害されたセルビア人犠牲者の数はかなり多い。1991年秋のクロアチア内戦当時、クロアチアとセルビア双方がマスメディアによる宣伝合戦を展開した。セルビア側は、約60万人のセルビア人が殺害されたという「クロアチア独立国」の典型的な強制収容所ヤセノヴァツに関する写真や資料を、連日のようにメディアにのせた。一方クロアチア側は、チェトニクやパルチザンによるクロアチア人に対する残虐行為を暴きたてた。
*ヤセノヴァツ(クロアチア語:Jasenovac、セルビア語:Јасеновац)は、クロアチア、スラヴォニア地方の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、シサク=モスラヴィナ郡に属する。

*ヤセノヴァツ強制収容所(クロアチア語・セルビア語:Logor Jasenovac / Логор Јасеновац)は、第二次世界大戦時に、ヤセノヴァツ付近のサヴァ川沿岸域に位置した、クロアチア独立国の絶滅収容所である。
第二次世界大戦期の犠牲者についてはいくつもの説がある。ナチス・ドイツの一高官によると、「クロアチア独立国」内で殺害されたセルビア人の数は75万人とされる。また、現在のクロアチア共和国大統領トゥジマンFranjo Tuđmanは、セルビア人だけでなく、ウスタシャに反対したクロアチア人、Romi/CiganiジプシーРоми/Цигани、ユダヤ人を含めて約6万人と記している。

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