日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☭Четвёртый интернационал☆『BOXING/Antid Oto』《Из Канада с любовьюカナダより愛をこめて‎》Pray for Peace and Freedom in Ukraine and Russia/Sunday(Dimanche)Special(2022/04/10)Велика Британія【Британська імперія大英帝国の誇りБританская империя】Великобритания②




(1)1983年3月15日 WBC世界フライ級タイトルマッチ15回戦 王者故エレオンシオ・メルセデス(ドミニカ(モントリオール五輪代表)+12勝(3KO)6敗2分⇒14勝(3KO)12敗2分)VS挑戦者チャーリー・マグリ(イギリス+モントリオール五輪代表(13勝1敗)27勝(20KO)2敗⇒30勝(23KO)5敗) イギリス・ロンドン
ー英才マグリが遅まきながら7回TKOでメルセデスを下し、王座奪取。アフリカのチュニジア(旧仏領)生まれ(フランス系)のマグリはデビュー以来23連勝(19KO)を記録するが、伏兵ファン・ディアスJuan Diaz(メキシコ)によもやの6回KO負けを喫し、初黒星(両手をついたまま立ち上れず、啞然としていた表情もよみがえる)。その後、2連勝するが再び強打のホセ・トーレスJose Torres(メキシコ)に9回ノックアウトで敗れた(ロープ際で右フックを浴び(この時は長髪だった)今まさに倒れんとする写真が載っていた=再戦では、10回判定勝ちし雪辱)。やや遠回りし過ぎた感もあったが、抜群のセンスと強打そして’グラスジョー’を合わせ持った選手だったといえる。このハンサムな貴公子マグリも専門誌の国際欄によく現われており、ずっと期待していたので嬉しかったです。メルセデス(★追悼★1985年に死去(警官に射殺された)享年28歳)はメキシコのフレディ・カスティーヨFreddy Castilloに判定勝ちし、獲得したタイトルの初防衛に失敗した。この一戦以降は、負けが込んでしまう。またマグリを育てたのもマネージャー故ミッキー・ダフである(ワット、ブルーノや↓のマクギガンなども同じく)。
*Françaisフランス語→Charlie Magri est un boxeur britannique né le 20 juillet 1956 à Tunis en Tunisie.
*Españolスペイン語⇒Eleoncio Mercedes (12 de septiembre de 1957 - 22 de diciembre de 1985) fue un boxeador dominicano, primer dominicano campeón mundial de boxeo del peso mosca y primer boxeador dominicano en unos Juegos Olímpicos.
(2)1983年9月27日 WBC世界フライ級タイトルマッチ15回戦 王者チャーリー・マグリ(28勝(21KO)2敗)VS挑戦者フランク・セデニョ(フィリピン+30勝(13KO)6敗3分⇒43勝(23KO)10敗3分)イギリス・ロンドン
ーマグリ、初防衛に失敗(地元ファンの声援に応えられなかった)。セデニョにほぼワンサイドの6回KO負けで王座転落。この試合はまったくいいところがなかった。セデニョは周知のとおり、初防衛戦において来日。小林光二(東日本新人王(サウスポー対決)西日本新人王の渡辺二郎Jiro Watanabe(日本拳法(空手)四段・岡山県出身・大阪帝拳ジム)に初回KO負け)Koji Kobayashi(東京都出身・角海老ジム)に2回KO負けで敗れ(サウスポー対決)、王座を失った「小林の左ストレートは強烈だった」。大分あとに、日本においても知名度の高い故ヒルベルト・ローマンGilberto Roman(メキシコ)に挑戦するが、判定負け。王座復帰は果たせなかった。ローマン(★追悼★1990年に自動車事故死=享年28歳)は3度来日(①渡辺二郎に判定勝ち。タイトル奪取②畑中清詞Kiyoshi Hatanaka(全日本新人王・日本王者・愛知県出身・松田ジム)に判定勝ち(畑中の初黒星)③強打の内田好之Hiroyuki Uchida(全日本新人王・小林光二を7回にノックアウト・埼玉県出身・上福岡ジム)に4回ダウンを奪われながらも、5回TKO勝ち=内田のラストファイト)。
*Deutschドイツ語⇒Frank Cedeno, de son vrai nom Franklin Sedenio, est un boxeur philippin né le 16 mars 1958 à Talisay City. 
(3)1985年2月10日 WBC世界フライ級タイトルマッチ15回戦 王者ソット・チタラダ(タイ+7勝(5KO)1敗⇒26勝(14KO)4敗1分)VS挑戦者前王者チャーリー・マグリ(29勝(22KO)3敗)イギリス・ロンドン
ーマグリ、王座奪回ならず。新王者若きソットに4回TKO負け。ご他聞にもれず、元ムエタイ(キック)王者だったソットの1敗は장정구張正九Jung Koo Chang(韓国)のWBCJ・フライ級タイトルに挑戦し、健闘しながらも判定負け(しかし一気に注目が集まった)したもの(晩年に両者は再戦。凡戦となるも判定勝ちで雪辱した)。そして階級を上げ、日本にて小林を壮絶な2回ノックアウト(サウスポー対決)で葬った新王者ガブリエル・ベルナルGabriel Bernal(メキシコ)からフライ級タイトルを奪ったばかり(①「(物静かに慎ましく)小林は偉大なチャンピオン」②「大橋(秀行)Hideyuki Ohashi選手(高校選手権制覇・神奈川県出身・ヨネクラジム)は非常にパンチが強く、ガブリエル・ベルナルと並んでベストのパンチの持主だった」リカルド・ロペスRicardo López )。この当時のソットは強い左ジャブを突き、ストレート主体の正統派ボクシングをしていて強かったです。試合前、生まれてはじめてみたという「雪」をつかみながら、満面の笑顔だった写真も思い出す(またファイトマネーの「小切手」を落としてしまい。拾った親切な人がいて無事、返還されたという逸話もあった)。88年に来日し、無敗のサウスポー神代英明Hideaki Kamishiro(福岡県出身・グリーンツダジム)の挑戦を7回TKOで退けている(神代のラストファイト)。一方、マグリ(すでに全盛期は過ぎていた)は同国人のデューク・マッケンジーDuke McKenzieに5回TKO負けしたのがラストファイトとなる。
*ソット・チタラダ(Sot Chitalada、1962年5月5日 - )は、タイ王国の元プロボクサー、元ムエタイ選手。チョンブリー県出身。元WBC世界フライ級王者。タイ王国では少数派のムスリム初の世界王者でもある。



(1)1985年6月8日 WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦 王者故エウセビオ・ペドロサ(パナマ+38勝(24KO)3敗1分⇒42勝(25KO)6敗1分1ND)VS挑戦者バリー・マクギガン(アイルランド+モスクワ五輪代表(21勝6敗)26勝(23KO)1敗⇒32勝(28KO)3敗)イギリス・ロンドン
ー新旧交代劇。『The Clones Cycloneクローンズの竜巻』の異名を持った若さ漲る英雄マクギガンがペドロサ20度目の防衛を阻止。7回にダウンを奪い、新王者に輝く。マクギガンは前WBC王者ファン・ラポルテJuan Laporte(プエルトリコ+ペドロサに判定負け)に10回判定勝ち。意気あがっていた。かたや、ペドロサは周知のとおり二度来日している(①ロイヤル・小林Royal Kobayashiに13回TKO勝ち②スパイダー・根本Spider Nemoto(福島県出身・草加有沢ジム)に判定勝ち)。ペドロサはバンタム級時代、WBA王者アルフォンソ・サモラAlfonso Zamora(メキシコ)に挑戦したが、2回ノックアウト負け(この階級は体格が合わなかった様子)。しかし階級を上げ、王者セシリオ・ラストラCecilio Lastr(スペイン)に13回TKO勝ち。見事戴冠したタイトルを19度防衛していた。早々たる強敵を撃破⇒老いたりとはいえルーベン・オリバレスRubén Olivares(メキシコ)に12回TKO勝ち(オリバレス最後の世界戦)、故ロッキー・ロックリッジRocky Lockridge(★追悼★2019年に死去=享年60歳)に2勝、さらに元WBAバンタム級王者ホルヘ・ルハンJorge Lujan(パナマ)にも判定勝ちしている。ペドロサは2019年に死去(★追悼★享年62歳)。元WBA世界J・バンタム(スーパーフライ)級王者ラファエル・ペドロサRafael Pedroza(二度来日⇒①具志堅用高Yōkō Gushiken(高校選手権制覇・沖縄県出身・協栄ジム)に挑戦し15回判定負け(しかし具志堅の連続KO防衛を「6」でストップした)②渡辺二郎に15回判定負けでタイトルを奪われた)は従弟だった。
*Gaeilgeアイルランド語⇒Dornálaí as Cluain Eois ba ea Barry McGuigan agus ina bhainisteoir agus ina phoiblitheoir ó shin.
*Русскийロシア語⇒Эусебио Педроcа (исп. Eusebio Pedroza; 2 марта 1953, Панама, Панама — 1 марта 2019) — панамский боксёр-профессионал выступавший в полулёгкой весовой категории. Чемпион мира по версии WBA (15 апреля 1978 — 8 июня 1985) и претендент на этот же титул (1976).
(2)1985年9月29日 WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦 王者バリー・マクギガン(27勝(23KO)1敗)VS挑戦者バーナード・テーラー(アメリカ+モスクワ五輪代表(481勝8敗)33連勝(16KO)無敗1分 ⇒45勝(23KO)4敗2分)北アイルランド(イギリス領)ベルファスト(首府)

ーマクギガンのベストファイト。難敵テーラー(ペドロサに挑戦し善戦(テーラーが勝っていたという関係者も多い)引き分け)を圧倒。8回終了TKOで破る。テーラーはコーナーから立ち上がれず、棄権した。 マクギガンはこのまま突っ走ると信じて疑わなかったが・・・。上記のとおり、驚異的なアマ戦績を持つ元トップスター(頻繁に雑誌に登場していた+以前にもどこかで触れた覚えがある関東地方だけ映り、海外の試合を放送していた’謎の’UHFチャンネルの「ボクシング番組」でも見た(さすがのスタイル完成度。きびきびしたボクシングは迫力があり、強かった)3回TKO勝ち)だったテーラーはこの敗北以降、へクター・ロペスHector Lopez(アメリカ+ロス五輪銀)に9回TKO負け。さらにジョン・ジョン・モリナJohn John Molina(プエルトリコ)のIBFJ・ライト(スーパーフェザー)級タイトルに挑戦するが8回TKO負け(次戦で判定負けしたのがラストファイトとなる)。
*Bernard Taylor (born June 26, 1957) is an American former professional boxer. As an amateur, he won a gold medal at the 1979 Pan American Games and a silver at the 1975 Pan American Games.
(3)1986年6月23日 WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦 王者バリー・マクギガン(29勝(25KO)1敗)VS挑戦者スティーブ・クルス(アメリカ(アマ全米ジュニア五輪・ゴールデングローブ制覇)25勝(13KO)1敗⇒37勝(19KO)8敗)ネバダ州ラスベガス

ーマクギガン、まさかの王座転落。三度目の防衛に失敗した(二度目はダニロ・カブレラDanilo Cabrera(ドミニカ+WBCJ・ライト級王者時代のチャべスJulio Cesar Chavez(メキシコ)すら倒せなかったタフガイ)に手こずりながらも14回TKO勝ち(王者の両目は腫れあがり、完全に塞がっていた)アイルランドの首都ダブリンにおける試合) 。恐ろしい熱気とむし暑さのシーザーズ・パレス屋外特設会場における一戦。ドナルド・カリーと同郷出身(テキサス州フォートワースFort Worth)のチームメイト、クルスに10回と最終15回にダウンを奪われ(採点は競っており、これがなければマクギガンが勝っていた)、判定負け(王者は試合を通じて鋭い左を連発し、終始優勢だったとはいいながらも、挑戦者(僚友カリーと同じカウンターパンチャー)の反攻に脅かされていた)。判定が下された瞬間(マイケル・バッファーMichael Bufferのアナウンス'From the Great state Texas of the 'NEW'!!'が響きわたり)クルスのはにかんだ笑顔が素晴しかった(胴上げされ(取り巻きの一人としてリング上にいたカリーも大喜び。見事な勝利を祝福し、微笑ましく握手)夕暮れのラスベガスとライトに照らされた人生最高のモーメント)。潔く完敗を認め、歩み寄ってきた前王者マクギガンにも謙虚な表情と態度で応じ。健闘を讃え合っていた光景も記憶に刻まれている。『ワールドボクシング』誌にカリーと二人で、チャンピオンベルトを巻いたカラーの特集記事は忘れられない。とはいえクルスは初防衛戦にて、アントニオ・エスパラゴサ Antonio Esparragoza(ベネズエラ)に12回TKO負けでタイトルを失ってしまう(クルスは戴冠後も、引き続き「工場Factory」で働いていた。世界王者になっただけでは(しかも「軽量級」)ボクシング一本で生活はなりたたないんです)。 クルスはその後、IBFJ・ライト級王者ホルヘ・パエスJorge Paez(アメリカ+判定負け)及びWBA王者ポール・ホドキンソンPaul Hodkinson(イギリス+3回TKO負け)に挑戦するが、再び世界チャンピオンに返り咲くことはできなかった。晩年の92年に来日。強打のホープ渡辺雄二Yuji Watanabe(東京都出身・斉田ジム)に(東京水道橋後楽園ホールで)2回KO負けを喫している。マクギガンは二年後に再起。二連勝するがジム・マクドネルJim McDonnell(イギリス+WBA王者ブライアン・ミッチェルBrian Mitchell(南ア+判定負け)とWBC王者Azumah Nelson(ガーナ+12回TKO負け)に挑戦)に4回TKO負けしたのを最後に引退した(この三試合はすべてアメリカで見ました)。後年、史上初のプロボクサーの労働組合Labor Unionを創立し、会長に就任している(ルイス、ハニガンLloyd Honeyghan(ジャマイカ出身)、ユーバンク、マグリなどなどの真ん中にたち、一緒に笑顔のガッツポーズ写真を思い出す『ワールドボクシング』誌)。
*Deutschドイツ語⇒Steve Cruz (* 2. November 1963 in Fort Worth, USA) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Boxer im Federgewicht.


(1)1990年4月29日 WBO世界ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者ダグ・デウィット(アメリカ+32勝(19KO)6敗4分⇒33勝(19KO)8敗5分)VS挑戦者ナイジェル・ベン(25勝(23KO)1敗)ニュージャージー州アトランティック・シティー
ー強打のベンが8回に二度倒し、タフなデウィットを豪快にノックアウト。ベンは2回に先制のダウンを奪われながらも、3回に倒し返し、得意の右フックを再三放ち肉迫。この当時のベンは、豪腕荒れ狂うといった感のスラッガーだった。デウィットは後に、WBCウェルター級王者となるミルトン・マクローリーMilton McCrory(アメリカ)や兄弟子トーマス・ハーンズといった大物どころすら倒せなかった選手。頑丈さには定評があった(アメリカ時代、よく(伏兵に3回KO負けした試合も含め)デウィットの試合はみました)。わがカナダ・ケベック州モントリオール出身のマシュー・ヒルトンMatthew Hiltonとの決定戦において、11回TKO勝ちで奪ったタイトルの初防衛に失敗した。ラストファイトはジェームズ・トニーJames Toney(アメリカ)に6回TKO負けした試合となる。
*Deutschドイツ語⇒Doug DeWitt (* 14. September 1961 als Douglas Anthony Ittaglio in Youngstown, Ohio) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Profiboxer und ehemaliger Weltmeister der WBO im Mittelgewicht.
(2)1990年8月18日 WBO世界ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者ナイジェル・ベン(26勝(24KO)1敗)VS挑戦者アイラン・バークレー(アメリカ+世界選手権(82年ミュンヘン大会)銅メダル(95勝4敗)25勝(16KO)6敗⇒43勝(27KO)19敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーベンが初回に3度倒し、難敵バークレーをストップ。けれどもダウンした相手に対する繰り返しの加撃は、問題視されてしかるべきだったと考える(解説者もしきりに’減点’さらに’失格’負けさえ示唆していた)。ゴング早々、ベンは強烈な右フックからチャンスをつかみ。続いて左フックを炸裂させ、たちまちダウンを奪う。フィニッシュを狙って追撃するが、バークレーの左フックがカウンターとなり、大きく体が泳ぐ(ベンは案外打たれ脆いところもあるボクサー。もともと攻撃一辺倒で、防御は甘い)。すかさずバークレーはロープに詰め、連打を浴びせる(逆転KOもあり得た)。すさまじい打ち合いとなるが、ラウンド終了間際。ベンは再びバークレーをとらえ、2度のダウンを追加。遅いストップでも有名なレフェリーのカルロス・パディーリャ・ジュニアCarlos Padilla Jr.(フィリピンの元俳優)は全般的に判断が曖昧で、処置も甘いところがある。「似たもの同士の一戦(特集雑誌)」と表現されていたけど、ひたすら大きなスウィングを振り回すベン相手だと、’荒法師’バークレーも意外にまとまったスタイルに見えた(パンチも小さく、的確)。試合前、自信満々の睨みを利かすベンに対し、バークレーは下を向き(いつもと違い)しきりに目をあちこちギョロつかせていた(ひるんでいるようにも見えたが、何やら闘志を抑え込むような、奇妙な顔つき)。ちなみにこの頃、ベンはアメリカで売り出そうとしていた。元WBCミドル級王者(ハーンズを大番狂わせの3回ノックアウトに葬り戴冠)のバークレー(デュラン Roberto Duran(パナマ)に判定負けで王座転落)は前戦にて無敗のサウスポー、IBF王者マイケル・ナンに挑戦し、判定負けしたばかり(次代のスター候補として地歩を固めていたナン(マネージメントの混乱もあった)はこの試合の消極戦法及び無気力ファイトで、がっくりと評価が急落)。ベンにしろバークレーにしろ、キャリアはまだまだこれから。
*Беларускаяベラルーシ語⇒Айрэн Барклі (англ.: Iran Barkley; 5 мая 1960) — амерыканскі баксёр-прафесіянал, які выступаў у сярэдніх вагавых катэгорыях. Чэмпіён свету ў сярэдняй (версія WBC, 1988—1989), 2-й сярэдняй (версія IBF, 1992—1993) і паўцяжкай (версія WBA, 1992) вагавых катэгорыях.


(1)1990年4月14日 WBA世界ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者マイク・マッカラム(アメリカ+モントリオール五輪ジャマイカ代表(240勝10敗)37勝(31KO)1敗⇒49勝(36KO)5敗1分)VS挑戦者マイケル・ワトソン(22勝(18KO)1敗1分⇒25勝(21KO)4敗1分)イギリス・ロンドン
ーマッカラムが強敵ワトソンに11回TKO勝ち。二度目のタイトル防衛に成功。マッカラムはデビュー以来無敗の32連勝(29KO)を記録(後の二階級王者ジュリアン・ジャクソンJulian Jackson(アメリカ)を2回、元ウェルター級王者の二人マクローリーを10回、カリーを5回にノックアウト)。二階級制覇を賭けてWBA王者スンブ・カランベイSumbu Kalambay(イタリア(アフリカのスーダン出身)バークレーとの決定戦に12回判定勝ち=アメリカ時代にテレビ観戦)に挑んだが判定負け(同じく)で初黒星(再戦においては判定勝ちし、雪辱=ただしカランベイはナンとの統一戦で、初回KO負けした後)。ながらも空位となった王座を下で紹介するヘロール・グラハム(カランベイに判定負け=初黒星)と争い、12回判定勝ち(タイトル奪取)。初防衛戦はスティーブ・コリンズに12回判定勝ちしていた。かたや、ワトソンは当時無敗の22連続KO勝ち中だったベンを6回にノックアウトしたばかり。高度な技術合戦となったがマッカラム(後に三階級を制覇する名王者)にはもう一歩、及ばなかった。ワトソンは世界王者となる資質と実力は、十分以上に兼ね備えいていた。本当に運に恵まれず、不幸な選手だったといえる。
*Eestiエストニア語⇒Michael (Mike) McCallum (sündinud 7. detsembril 1956 Kingstonis Jamaical) on Jamaica endine poksija.
(2)1995年3月18日 WBO世界スーパーミドル級タイトルマッチ12回戦 王者クリス・ユーバンク(41連勝(19KO)無敗2分)VS挑戦者スティーブ・コリンズ(29勝(16KO)3敗⇒36勝(21KO)3敗)アイルランド・ミルストリート
ー 前WBOミドル級王者(防衛戦を行なわず返上)のコリンズが判定勝ちで新王者に就く。ユーバンクは18度目の防衛に失敗した(連勝ストップ、初黒星)。コリンズの3敗はマッカラムのWBAミドル級タイトルに挑戦し判定負け。欧州ミドル級王者カランベイ(元WBA王者)に判定負け。さらに空位となったWBAミドル級王座をレジー・ジョンソンReggie Johnson(アメリカ・サウスポー)と争い、判定負けした試合である。  それからWBOミドル級王者クリス・ピアットChris Pyatt(イギリス)に判定勝ち(初のタイトルを獲得した)。ユーバンクは「防衛疲れもあったんでしょう(小泉氏)」8回にダウンを喫する。しかし10回には奪い返す(採点は競っており、2-1のスプリット・デシジョンだった)。接戦であったとはいえ、ユーバンクは「王者」としてはもう限界だったのかもしれない。すでに例の’歌舞伎’「パフォーマンス」(「ユーバンクの’やり方’(浜田氏)」)がすっかり定着してしまっていた(「一旦ピエロを演じはじめたら演じ続けなければならないんですよ(小泉氏)」(92年の3度目の防衛戦(3回KO勝ち)以来(「あ~あ、ホントにい~やりたい放題ですねえ~(浜田氏)」サム・ストーリーSam Storey(イギリス=7回KO勝ち)との試合まで)ほぼ3年間ノックアウトはなかった)。アイルランドの英雄コリンズは、一発パンチはそれほどないタフな(KO負けは一度もない)技巧派ボクサーだったといえるだろう。そして↓に添付した追加情報(アイルランド人の象徴)。コリンズも同じく。
*Gaeilgeアイルランド語⇒Dornálaí Éireannach, a bhí ina churadh domhanda trom-mheánmheáchan, is ea Steve Collins (a rugadh ar an 21 Iúil, 1964). Tá aithne air mar The Celtic Warrior.
①シャムロックSeamróg(英: shamrock)は、マメ科のクローバー(シロツメクサ、コメツブツメクサなど)、ウマゴヤシ、カタバミ科のミヤマカタバミなど、葉が3枚に分かれている草の総称である。アイルランド語でクローバーCloverの意味のseamairまたは、若い牧草を意味するseamrógを、似た発音で読めるように英語で綴った語である。アイルランドで432年ごろに聖パトリキウス(パトリック)は「シャムロックの葉が3つに分かれているのは「三位一体」を表しているのだ」と説明し、キリスト教の布教に利用した②聖パトリックの祝日Lá Fhéile Pádraig(せいパトリックのしゅくじつ、英: St. Patrick's Day、セイントパトリックス・デー)は、アイルランドにReligio Christianaキリスト教An Chríostaíochtを広めたSanctus Patricius聖人聖パトリックNaomh Pádraigの命日。3月17日。Ecclesia CatholicaカトリックEaglais Chaitliceach Rómhánachの祭日であり、Poblacht na hÉireannアイルランド共和国Republic of Irelandの祝祭日。
(3)1995年9月5日 再戦 アイルランド・コーク
ーコリンズが12回判定勝ちで前王者ユーバンク(敗れてから、2連続KO勝ち中)を返り討ちにした。初防衛に成功。 ユーバンク(すでに晩年)は後に、空位となったWBOタイトル(引退したコリンズが返上)の決定戦を同国人王者ジョー・カルザゲJoe Calzaghe(イタリア系ハーフ(46戦無敗のまま引退)サウスポー)と行なったが、判定負け(王座復帰はできなかった)。


 (1)1996年7月6日 WBO世界スーパーミドル級タイトルマッチ12回戦 王者スティーブ・コリンズ(32勝(17KO)3敗)VS挑戦者前WBC王者ナイジェル・ベン(42勝(35KO)2敗1分)イギリス・マンチェスター
ーコリンズが4回TKO勝ち(4度目の防衛に成功した)。大振りの右フックを空転させたベンは、弾みでこけて足首を捻挫してしまい、続行不可能(そのまま棄権してしまう)。ピンクのスーツを着て目立ち’まくってた’親友ブルーノが介抱(ベンは靴を脱いで、氷で冷やしていた)。ベンはマクラレンとの激戦を制した後(この試合は「オールド・スタイルOld Style」で臨んだといい「相手によって戦法を変える」とも語っていた)、元トップアマ(ソウル五輪イタリア代表)だった強敵ビンチェンツオ・ナルディエッロVincenzo Nardiello(旧西ドイツ生まれ+三回戦で金メダルの박시헌朴時憲Park Si-Hun(決勝で同じく問題のある判定でロイ・ジョーンズ・ジュニアRoy Jones Jr.(アメリカ・銀メダル)を破った)に(これも「世紀の茶番」と言われた)議論を呼ぶ判定負け)に8回TKO勝ち。続いてダニエル・ペレスDaniel Perez(アメリカ)を7回に沈め、9度目の防衛を果たす(ただ↑の言明とは裏腹にすっかり旧来の「荒っぽい」スラッガーに戻っていた)。しかし次戦において一度ノンタイトルで判定勝ちしているスレーン・マリンガThulani Malinga(南アフリカ)に3-0の判定負けで王座から滑りおちた。南アフリカの英雄であるマリンガ(故ネルソン・マンデラNelson Mandela大統領とのツーショットも懐かしい)は初防衛戦にて↑のナルディエッロに判定負けし、王座転落(すぐ奪回するが、以前ユーバンク(判定負け)とジョーンズ(6回KO負け)には敗れている)。ベンはリング上で引退を表明(腫れ上がった顔面が痛々しかった)。それを覆して再起。この一戦を迎えた(とはいえ体が硬直しており、バランスが悪かった)。試合としてはうまく戦う王者コリンズではあったが、ベンは3回には強烈な右ストレートを炸裂させる。さあ、これから、というとき↑の有様になり不本意な結末となってしまう。加えてベンはスター候補だったマクラレンに勝ったとはいえ(十分伝えたよう、本来なら「(初回KO)負け」ていた)、ジョーンズなどとの「スーパーファイト」を行なうには役不足だった感はいがめない。
(2)1996年11月9日 再戦 イギリス・マンチェスター
ーコリンズが6回終了TKO勝ち(ベンのラストファイト)。すでに初顔合わせも含め、別の頁で紹介したようにベンはスタミナ切れ。自滅した形で棄権してしまった(ベンは再び引退を発表)。アナウンスされた場内は、さすがに激しいブーイングの嵐が巻き起こる。勝者コリンズはふがいないベンに対して怒り狂う観客をなだめるため、必死にベンの功績を讃え、その偉大さを強調していた。「第一戦に続き、なんとなく終ってしまった感じですが(高柳氏)」「なんとなく終ってしまった、でしょうねっ(浜田氏)」。小泉氏もWBC王者時代のベンはバランスがよくなっていたが(ストレート主体のボクサーファイター)マクラレン戦以来「元の木阿弥」(「最初から(つんのめるように)ガンガン打って行く」)に戻ってしまったと解説していたのも印象深かったです。実際、非常にオーソドックス(正統派)なスタイル(その分KO勝ちは減り(階級を上げ、相手が大きくなったこともある)「牛の角を折ったように(小泉氏)」凄みは失せていた)になり、防衛を重ねていたのも事実。一発パンチの威力があった豪打者ジョーンズにしろ、マイケル・モーラーMichael Moorer(アメリカ(クロンク)サウスポー・30連続KO勝ち)にしろ階級を上げてからは、ノックアウト勝ちはめっきり減った。



(1)1986年2月5日 欧州ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者アユブ・カルレ(ウガンダ+モントリオール五輪代表(祖国がボイコットしたため不参加)世界選手権(74年ハバナ大会)優勝金メダル(241勝9敗)46勝(23KO)3敗)VS挑戦者へロール・グラハム(イギリス+(ジュニア世界選手権優勝金メダル)34連勝(19KO)無敗⇒48勝(28KO)6敗)イギリス・シェフィールド
ーカルレのラストファイト。再び新旧交代劇。サウスポー対決となったが、躍進目覚しいグラハムが10回にカルレをストップ。颯爽新王者に輝いた。 カルレは周知のとおり(「独裁者」として知られる故イディ・アミンIdi Amin大統領(79年に失脚)の恐怖統治下にある故国を離れ、デンマークに移住。首都コペンハーゲン
を主戦場(敵地に遠征した東洋王者羽草勉Tsutomu Hagusa(福岡県出身(本籍地鹿児島県)新進ジムから北九州ジム)を3回にストップしている)としていた)79年に来日。無敗対決となったが、王者の地元で工藤政志Masashi Kudo(秋田県出身・熊谷ジム)に大差の15回判定勝ち。WBAJ・ミドル級タイトルを獲得(工藤(三度防衛)のラストファイト)。そのタイトルをレナードに(9回KO負け)奪われるまで、四度防衛した(痛恨の初黒星(テキサス州ヒューストン=ハーンズ(セミが三原)とのダブルメイン)無敗の35連勝(18KO)中だったが、すでに全盛期は過ぎていたといえる)。そして タイトル奪回を目指して、日本で三原正から王座を奪取(6回KO勝ち)した故デビー・ムーアDavey Moore(アメリカ・モスクワ五輪代表)に挑戦。ながら10回TKO負け。続いてマッカラムに7回TKO負けするが、その後6連勝(4KO)。この一戦を迎えた。グラハムはそのまま38連勝(22KO)(ミドル級ランクもWBA「1位」に上昇)を記録するが前王者カランベイ(カルレに判定負け。王座転落)に初回ダウンを奪われた挙句、12回判定負け。思いもよらぬ初黒星を喫した(下馬評はグラハム有利だった=欧州タイトル喪失)。さらに5年後にカランベイにもう一度挑戦しているが、再び判定負け。すでに述べたよう、ハグラーに勝って新王者となったレナード(四階級制覇達成)が返上したため、空位となったミドル級三団体のタイトル。一連の「王座決定戦」について、私がアメリカに着いたばかりの頃、『KOマガジン』誌などで特集されていたのがよみがえる。対戦予想①WBA1位このグラハムVS2位バークレー(3-1でグラハム有利(もし戦っていれば(結果論とはいえ)バークレーに分があったかもしれない)グラハムは一歩抜きんでており、「最有力」候補の一人とみられていた)②WBC1位オラジデVS2位故ファン・ドミンゴ・ロルダンJuan Domingo Roldan(アルゼンチン★追悼★2020年に死去=享年68歳)だった(2-1でオラジデ有利(こちらも(同じく、結果論になるけど)ロルダン(ニックネームは『MartilloハンマーHammer』元1位のランカー強敵フランク・フレッチャーFrank Fletcher(アメリカ・サウスポー)を6回、右一発で豪快に沈めた)のノックアウト勝ちに終ったように思える)オラジデもこうして前評判は高かった)。終ってみれば、ここに載っていなかった選手ばかりが王座を獲得したといえる。そしてこの周辺に関しては、よく触れる「相性」が大きく作用したように感じる。別格だったハーンズ(四階級制覇達成)とのWBC王座決定戦にロルダン(ハグラーに挑戦=10回KO負け)は4回KO負け。ハーンズはバークレーに3回KO負け(再戦もダウンを奪われ、判定負け)。オラジデはテートに敗れ、生き残りを賭けた試合で(ダウン応酬の末)バークレーに5回TKO負け(ハーンズにもダウンを奪われ、判定負け)。カランベイはグラハム、バークレー、マッカラムに勝ちながらカルレには敗れており、ナン(ロルダンに8回KO勝ち)にもKO負け。こうしてやり始めると(他同様)どこで止めればいいかわからなくなってしまうのはいつものこと(苦笑+失礼しました)。
*Herol Graham (born 13 September 1959) is a British former professional boxer who competed from 1978 to 1998. A three-time world title challenger, he is generally acknowledged as one of the best British boxers of the post-war era to have never won a world championship.
*Українськаウクライナ語⇒Аюб Калуле (англ. Ayub Kalule; 6 січня 1954) — угандійський боксер, чемпіон світу з боксу серед любителів (1974) та чемпіон світу серед професіоналів за версією Всесвітньої боксерської асоціації WBA (1979–1981).
(2)1989年5月10日 WBA世界ミドル級王座決定12回戦 1位マイク・マッカラム(35勝(32KO)1敗)VS2位へロール・グラハム(41勝(25KO1敗)イギリス・ケンシントン
ーマッカラムが僅差ながら2-1の判定で際どくグラハムを退け、二階級制覇。IBF王者ナンとの統一戦のため(バークレーから奪った王座を3度防衛(①ハグラーの異父弟スイッチヒッターのロビー・シムズRobbie Sims(デュランに判定勝ち・ベンに7回TKO負け)に判定勝ち②↑のデウィットに7回TKO勝ち)した)カランベイが返上したため空位となったタイトル。両者ともにカランベイに初黒星をなすりつけられ、連勝をストップされたあと3連続KO勝ち中であった。テクニシャン同士によるハイレベルな技術戦となり、競った内容(勝敗は、どちらに転んでもおかしくなかった)。なおグラハムは『Bomber爆撃機』という異名ほどは、パワーのある選手ではなかった。師匠である故ブレンダン・イングルBrendan Ingleマネージャーに鍛えられた、技巧派の変則(ハメドNaseem Hamedの先輩)ボクサー。
(3)1990年11月24日 WBC世界ミドル級王座決定12回戦 1位元WBAJ・ミドル級王者ジュリアン・ジャクソン(アメリカ領ヴァージン諸島United States Virgin Islands+⇒40勝(38KO)1敗⇒55勝(49KO)6敗)VS2位へロール・グラハム(43勝(26KO)2敗)スペイン・ベナルマデナ
ージャクソンが4回にグラハムをノックアウト。見事な勝利により、二階級を制覇(バークレーからダウンを奪い、判定勝ちで四階級制覇を達成したデュランが返上したタイトル)。初回ゴングからその瞬間まで、グラハムの一方的なペースで試合は進んでいた(「すべてのパンチをもらい続けた(小泉氏)」)。ところが、ジャクソンは一撃の右フック(強烈なカウンター)で逆転KO(仰向けにぶっ倒した)。グラハムはそのまま失神(体を硬直させたまま)立ち上がれず、テンカウントを聞く(ジャクソンのパンチ力は、まさに戦慄すら覚えるほどだった「全部倒そうとするパンチ(浜田氏)」)。 ジャクソン(29連勝(27KO)無敗)はマッカラム(26連勝(23KO)無敗)に敗れた後、東洋無敵を誇る韓国の백인철白仁鉄In Chul Baek(デビュー以来、無敗の26連続KO勝ちを記録)との決定戦に3回TKO勝ち。続いて元IBF王者の古豪バスター・ドレイトンBuster Drayton(アメリカ)を3回にノックアウト(この一戦も(最後はジャクソンの左フックが炸裂。ドレイトンも仰向けに倒された)すさまじいKO劇)。さらにテリー・ノリスTerry Norris(アメリカ)にも2回KO勝ち(この試合も初回は打ちまくられていたが、一発の右フックで劣勢をひっくり返し。さらにもう一発叩き込み(前のめりに倒れた)若きノリスを深々と沈めた)。グラハムについてはこの選手も、もう一つ運に恵まれなかったかもしれない(加えてこの時代のミドル級は層が厚かった)。晩年にクリス・ジョンソンChris Johnson(ジャマイカ)に8回TKO勝ちし、マイナーながらWBCインターナショナルスーパーミドル級王座を獲得(初防衛戦では元二階級王者ビニー・パチエンザVinny Pazienza(アメリカ)に判定勝ち)。その勢いを駆ってIBF王者チャールズ・ブリューワーCharles Brewer(アメリカ)に挑戦しながらも、10回TKO負け(この試合を最後に、引退した)。ジャクソンはマクラレンに連敗しながらも(①「That was good fight Julian! ジュリアン、いい試合だったな!(5回にノックアウトした前王者に敬意を払うマクラレン)」②「I'm gonna continue man!俺は続けるぜ!」(雪辱ならなかったジャクソン(初回KO負け)試合後、快勝に意気あがる王者マクラレンに笑顔で語りかけていた)」)、空位(階級を上げたマクラレンが返上)のWBC王座をアゴスティノ・アルダモネAgostino Cardamone(イタリア)と争い、2回に右フック一発を顎に命中させ(またまた、アルダモネは’仰向け’に倒される)仕留めた(とはいえ、全盛期は過ぎていた)。初防衛戦にてサウスポーのクインシー・テーラーQuincy Taylor(アメリカ)にいいところなく8回TKO負け(再び王座を失う)「マクラレンのことを忘れないで欲しい」(重度の障害者になってしまった元ライバルのことを、試合前の記者会見で(タイソンVSマクニーリーPeter McNeeley(アメリカ)のセミ)しきりに訴えていた)。 それから4連勝(2KO)するも、後のWBO王者バーノ・フィリップスVerno Phillips(アメリカ+元WBC王者アキノに7回TKO勝ち=モントリオールでテレビ観戦)にワンサイドの9回KO負け( これもテレビでみましたが、もはやジャクソンのパンチには切れがなく(結構当たっているのに、フィリップス(タフな選手とはいえ)はびくともしない)威力もなかった)。ラストファイトはアンソニー・ジョーンズAnthony Jones(アメリカ・元クロンクの選手)に6回TKO負け(同じく、とっくに峠を越えたロートル(後のIBFスーパーウェルター級王者ヨリボーイ・カンパスYori Boy Campas(メキシコ)にも2回KO負け)選手)。スイッチヒッターのジョーンズ(①元WBC世界ウェルター級王者ホルヘ・バカJorge Vaca(メキシコ)に7回TKO勝ち②元同門であるオバ・カーOba Carr(アメリカ)と引き分けている)はライト級出身の選手(当時無敗の28連勝(19KO)中だったビンス・フィリップスVince Phillips(アメリカ)にも7回TKO勝ち①故エドウィン・ロサリオEdwin Rosario(プエルトリコ)とのWBA王座決定戦で6回TKO負け②統一王者ウィテカーに挑戦し、判定負け)であり、往年のジャクソンを知る者にとっては、哀しい(寂しい)ファイナルSad Finalだった。
*Русскийロシア語⇒Джулиан Джексон (англ. Julian Jackson; 12 сентября 1960 года, Сент-Томас, Американские Виргинские острова) — американо-виргинский боксёр-профессионал, выступавший в 1-й средней и средней весовых категориях. Чемпион мира в 1-й средней (версия WBA, 1987—1989) и средней (версия WBC, 1990—1993 и 1995) весовых категориях. Считается одним из сильнейших панчеров в истории бокса. Журнал «Ринг» в 2003 году поместил его на 25 место в списке величайших панчеров в истории.

*Русскийロシア語⇒Джеральд Макклеллан (англ. Gerald McClellan; род. 23 октября 1967, Фрипорт, Иллинойс, США) — американский боксёр-профессионал, выступавший в средней и второй средней весовых категориях. Чемпион мира в средней весовой категории (версия WBO, 1991; версия WBC, 1993—1994).

Завершил карьеру в 1995 году после тяжёлой травмы мозга, полученной в поединке против Найджела Бенна. В 2003 году журнал The Ring поставил его на 27 место среди 100 лучших панчеров в истории бокса[2]. Лидирует по соотношению побед нокаутом в первом раунде среди боксёров всех весовых категорий, когда-либо выходивших на ринг, в связи с чем известный промоутер Дон Кинг называл Джеральда «Миниатюрным Майком Тайсоном» (хотя Макклеллан опережает Тайсона по проценту нокаутов в первом раунде).




(1)1986年3月4日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 元WBA王者ゲリー・コーツィー(南アフリカ+30勝(18KO)4敗1分⇒33勝(21KO)6敗1分)VSフランク・ブルーノ(27勝(26KO)1敗)イギリス・ロンドン
ーランカー対決はブルーノが圧勝。元王者の強敵コーツィーを初回にノックアウト。ウィザスプーンへ挑戦する世界タイトルマッチの前哨戦を飾った。コーツィーのニックネームは『The Boksburg Bomberボクスブルクの爆撃機』及び『Seer Handjies(Sore Little Hands)The Bionic Handサイボーグ(並はずれた力)の手』であった。パワーがあり、タフな選手だった(南アの白人選手も、頑丈でパンチがある選手が多い)。コーツィーは、元王者レオン・スピンクスLeon Spinks(アメリカ・モントリオール五輪金メダル)に初回KO勝ち(あっという間に3度倒した)。 実力者のランカーだったレナルド・スナイプスRenaldo Snipes(アメリカ+①ホームズに挑戦(ダウンを奪いながらも、11回TKO負け②挑戦者決定戦においてペイジに12回判定負け)には判定負けしたが、スコット・レドーScott LeDoux(アメリカ(の白人選手)①ホームズに挑戦し7回TKO負け②ペイジに4回TKO負け)には8回KO勝ち。モハメド・アリMuhammad Ali(アメリカ・ローマ五輪金メダル) が返上したWBAタイトルを故ジョン・テートJohn Tate(アメリカ・モントリオール五輪銅メダル)と争うが15回判定負け。さらにその当時無敗だったテートに最終15回、逆転KO勝ちした新王者ウィバー(ホームズに12回KO負け)に挑戦(序盤は優勢だったながら)したが、13回KO負け。しかしそのウィバーを初回にストップした新王者(再戦は引き分け防衛)無敗のドークスを10回にノックアウトして、念願のチャンピオンベルトを腰に巻いた。そうとはいえ、初防衛戦においてペイジに(いわくつきの試合だったながらも)8回KO負け(王座転落(6回終了ゴング後のペイジによる加撃のダメージで、7回にダウン)そして実は8ラウンドの終了後、38秒も経過していた)。いつもどおり、遠回りしてしまいました。挑戦者決定戦でもあったこの試合にてブルーノに負けたことにより、王座復帰への望みは断たれてしまう。97年、ヘビー級にまで増量していた元二階級王者バークレーに10回TKO負け(この試合を最後に、引退した)。このコーツィーも、アンラッキーな選手の部類に入るかもしれない。
*Afrikaansアフリカーンス語⇒Gerhardus Christian Coetzee (gebore 8 April 1955 in Boksburg), beter bekend as Gerrie Coetzee, is 'n oud-bokser en Suid-Afrika se beste swaargewigbokser tot nog toe.
(2)1986年7月19日 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者ティム・ウィザスプーン(アメリカ+24勝(16KO)2敗⇒55勝(38KO)13敗1分)VS挑戦者フランク・ブルーノ(28勝(27KO)1敗)イギリス・ロンドン
ーウィザスプーンが11回にブルーノをストップ。最後は右の大きなスウィングを連続して炸裂させ、ブルーノはコーナーに座り込んでしまう。ブルーノはスミスに初黒星を喫した後、7連勝(6KO)中(全国民の期待を一身に担っていた)。『Terrible恐怖の男』の異名を引っさげたウィザスプーン(デビュー以来15連勝(11KO)を記録。WBC王者ホームズに挑戦し判定負け=でも大健闘により(あと一歩まで追い詰めた)一気に注目される)はペイジとの決定戦に12回判定勝ちでタイトルを獲得。しかし初防衛戦にて無敗のトーマスに判定負け。ながらも新王者タッブス(ペイジに判定勝ちしてタイトルを奪った)に判定勝ち。再び就いた王座の初防衛に成功した。ブルーノはファンの声援に応え、強打を武器に盛んに前進。中盤までは優勢に試合を進める。けれども、ウィザスプーンは底力を発揮。地元の英雄を見事に撃退(ブルーノは潔く、完敗を認めていた)。加えて、この時代のヘビー級(86キロ以上)はご覧になれば分かるように、いわゆる’自然体’(締りが足りず)「ポテポテ」とよく’肥えて’いる選手たちが多かったと、改めて実感します(特にペイジやタッブス(二人ともアマ出身の新星として現れながら)は’太り過ぎ’をよく批判されいた)。若い世代の新しいファン層の方々には、馴染みがないと思います。長期に渡りWBC王者だったホームズ(この頃を代表する’体型’)が地味だったせいもあり(ちょうどアリをはじめとする花形スターたちが去り、世代交代の時代)人気も余りなかった(一般受けしない)。試合自体も判定勝負が多く(大男同士による)’押し合いへし合い’の凡戦も少なからず(個人的にはそれなりに好きで、おもしろかったんですけど笑)。そんな中、このブルーノはその豪腕ぶりといい「ヘラクレスHeracles」のような肉体といい、ひときわ異彩を放っていたといえる。そこへタイソンが登場(一連の’旧世代’選手たちはみな一掃。薙ぎ倒される)新時代がはじまった。この両者に戻れば、まだまだ長いキャリアはこれから(ウィザスプーンは晩年、再浮上してくる)。
*Русскийロシア語⇒Тим Уизерспун (англ. Tim Witherspoon; 27 декабря 1957, Филадельфия, США) — американский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории. Двукратный чемпион мира в тяжёлой (версия WBC, 1984; версия WBA, 1986) весовой категории. Чемпион Северной Америки по версии NABF (1983;1985). Чемпион США по версии USBA (1991). Троюродный брат боксера Чазза Уизерспуна. Введен в Пенсильванский зал боксерской славы (2008).
(3)1987年10月24日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 フランク・ブルーノ(31勝(30KO)2敗)VSジョー・バグナー(イギリス+61勝(37KO)11敗1分⇒69勝(41KO)13敗1分 イギリス・ロンドン
ー英国全土を湧かせた新旧英雄対決は、ブルーノがバグナーを8回にストップ。バグナー(ハンガリー出身)は『Aussie Joe豪州人ジョー』のニックネームどおり前年、オーストラリアに移住。84年にステファン・タングスタッドSteffen Tangstad(ノルウェー+マイケル・スピンクスMichael Spinks(アメリカ・モントリオール五輪金メダル)に4回KO負け)に判定負けしたのを最後に一度は引退していた。ながらカムバック。古豪ティリス、デビッド・ベイDavid Bey(アメリカ+①ペイジに判定勝ち②ホームズに挑戦し12回TKO負け③ビッグスに6回TKO負け)、ペイジを連破(3連勝を記録)。かたや、ブルーノはウィザスプーンに敗れてから3連続KO勝ち中。とはいいながらも、生粋の英国人であるブルーノとは対照的に、バグナーはいわば「祖国を捨てた」(悪く言えば「裏切者」)と見られていたので、人気と声援は圧倒的にブルーノに集まっていた。下馬評もむろんのことブルーノ有利であり(バグナーはとっくに全盛期は過ぎていた)内容もほぼワンサイド。この試合については、当時講読していた『リング』『KO』マガジン誌上において盛んに取り上げられていたのを覚えている。ブルーノは、二度目の世界戦となるタイソンへの挑戦に駒を進めた。バグナーは11年後に、スミスに初回TKO勝ちしている。
*Русскийロシア語⇒Джо Ба́гнер (англ. Joe Bugner, урождённый Йо́зеф Кройль Бу́гнер, род. 13 марта 1950, Сегед) — английский боксёр. Чемпион Европы в тяжёлом весе. Был одним из сильнейших тяжеловесов профессионального бокса в 1970-х. Чемпион Европы среди профессионалов в 1972—1975 и в 1976. Провел два боя с Мохаммедом Али в 1973 и в 1975, в которых сумел продержаться все 12 и 15 раундов и проиграл по очкам. В 1977 году эмигрировал в Австралию, где несколько раз становился чемпионом.


(1)1993年5月8日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者レノックス・ルイス(22連勝(20KO)無敗)VS挑戦者前IBF王者トニー・タッカー(アメリカ+ワールドカップ(79年ニューヨーク大会)優勝金メダル・モスクワ五輪代表(115勝6敗)48勝(39KO)1敗1NC⇒57勝(47KO)7敗1NC)ネバダ州ラスベガス
ー注目された好カードは、ルイスがタッカーから3回と9回にダウンを奪い3-0の判定勝ち。いきなり強敵相手となったが、初防衛に成功した。タッカー(クロンク出身、故スチワードが育てた子飼い選手。秘蔵っ子のひとり)はWBC王者タイソンとの統一戦(無敗対決)に敗れ(34連勝(29KO)1NC)IBFタイトル( ジェームス(バスター)ダグラスJames( Buster) Douglasとの決定戦に10回TKO勝ち(スチワード傘下から離れたのも手伝い)やや回り道した感がある)を失って以来14連勝(10KO)を記録。なかには前WBAクルーザー級王者オーリン・ノリスOrlin Norris(アメリカ+テリー・ノリスTerry Norrisの兄)に判定勝ちして、北米タイトルを奪取した試合も含む(再戦では判定負けで雪辱された)。さらに後のWBC王者マッコールに2-1の僅差ながら判定勝ち(マッコールは納得せず、不満たらたら)。試合は、アマエリート出身の両者らしく、緊迫したにらみ合いが続く。9回もはじめにいいパンチを当て、攻め込んだのはタッカーだった(しかし、ルイスの逆襲を受け、倒される)。試合後のインタビューでタッカーは苦々しい面持ちで、しきりに「油断し過ぎたToo careless」と語っていたのを覚えている。今から回想しても、この当時のルイスは危なっかしいスタイル(もともと、あまり器用な選手ではない)だった(スチワードと組んでから(右の破壊力は維持したまま=左もよく使い)多彩になり、安定する)。タッカーはこの後、フォアマンが返上したWBAタイトルをセルドンと争うが7回終了TKO負け。そしてボウにKO負けした後のハイドと、空位のWBO王座を争い、2回TKO負けした(私見ながらやや「ハート」が小さい面があり、スター性にも欠けていたかもしれない)。
*Русскийロシア語⇒Тони Такер (англ. Tony Tucker; род. 27 декабря 1958, Гранд-Рапидс, Мичиган, США) — американский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории. Чемпион Панамериканских игр в полутяжёлом весе (1979). Чемпион США среди любителей (1979). Победитель Кубка мира в полутяжелом весе (1979). Чемпион мира среди профессионалов в тяжёлом весе по версии IBF (1987). Чемпион США среди профессионалов по версии USBA (1986). Чемпион штата Калифорния (1991). Чемпион Северной Америки среди профессионалов по версии NABF (1992—1993, 1996). Один из сильнейших тяжеловесов 80-х годов.
(2)1993年10月1日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 王者レノックス・ルイス(23連勝(20KO)無敗)VS挑戦者フランク・ブルーノ(36勝(35KO)3敗)イギリス・ウェールズ・首府カーディフ 
ー英国ボクシング史上、最大のスーパーファイトはルイスがブルーノに7回TKO勝ち。2度目の防衛に成功した。再び、国民的英雄同士の対決となったが(会場にはナショナル・スタジアムNational Stadiumが選ばれた),、↑のブルーノVSバグナーはもちろんのこと、ベンVSユーバンクすら凌駕する世紀の一戦。テレビ放送においても冒頭、どちらが勝つか?故ウェールズ公妃ダイアナDiana, Princess of Wales(旧姓(本名)ダイアナ・フランセス・スペンサーDiana Frances Spencer)も含む(ちなみに妃は「ブルーノ」と答えていた)市民たちの予想が紹介されていた。ながら、↑のバグナーとは背景が若干異なるにせよ、ルイスもカナダに移住した選手(五輪はじめアマ時代の国際大会もカナダ代表)。だから大多数の英国人の贔屓はブルーノであり、応援も上回っていた。5回、ブルーノは右ストレートをルイスのテンプルに叩き込み(ルイスの巨体は大きく泳ぎ、足ががくがくになる)チャンスだった。ブルーノ優勢のまま7回を迎えるが、ルイスは強烈な左フックのカウンターからチャンスをつかみ。一発一発、力を込めたパンチを炸裂させ、グロッキーのブルーノをストップした。ブルーノは後に、ルイスからWBCタイトルを奪ったマッコールに判定勝ち(ようやく王座に就く)。だが、すでに全盛期は過ぎており、遅すぎたといえる。


(1)1999年6月26日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者ハービー・ハイド(31勝(28KO)1敗)VS挑戦者ビタリ・クリチコ(ウクライナ+世界選手権(95年ベルリン大会)優勝金メダル(195勝15敗)24連勝(24KO)無敗⇒45勝(41KO)2敗)イギリス・ロンドン
ークリチコがハイドを2回にノックアウト。王座を強奪した。ハイドはタッカーとの決定戦に勝って奪回したタイトルの3度目の防衛に失敗(ボウに負けてから、5連勝(4KO)中だった)。まだあどけなさが残る、新鋭時代のビタリは旧「ソ連仕込み」(特にコンスタンチン(コスタヤ)ジューKonstantin "Kostya" Tszyu(ロシア・ソウル五輪ソ連代表・世界選手権(89年モスクワ大会)銅メダル(91年シドニー大会)金メダル)などに共通したところがある)のアップライトスタイルからの「空手殺法」的な右を打ち込み、ダウンを奪う。立ち上がったハイドをもう一度倒し、仕留めた。この当時はアマスタイルをどっぷり残し、小泉氏によればなかなかの「頑固者」だそうであり、アマ時代のトレーニング方法に固執していたらしい。それは別にしても、とにかく巨体(ちょうど2メートル)から繰り出すクリチコのパンチは、豪快で破壊力があった。そして前述のよう、ハイドはこれから素行が乱れ始めてしまう。
*Deutschドイツ語⇒Vitali Wladimirowitsch Klitschko (russisch Вита́лий Влади́мирович Кличко́, deutsche Transkription des Vornamens eigentlich Witali; ukrainisch Віталій Володи́мирович Кличко́ ‚Witalij Wolodymyrowytsch Klytschko‘; * 19. Juli 1971 in Belowodsk, Kirgisische SSR, Sowjetunion) ist ein ukrainischer Politiker, promovierter Sportwissenschaftler und ehemaliger Profiboxer.
(2)2003年6月21日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者レノックス・ルイス(40勝(31KO)2敗1分)VS挑戦者ビタリ・クリチコ(32勝(31KO)1敗) カリフォルニア州ロサンゼルス
ールイスのラストファイト。『Dr. Ironfist鉄拳博士』難敵クリチコに6回終了TKO勝ち。傷の悪化によるストップだったとはいえ(ビタリは猛然と抗議していた)ペースはルイスがつかんでおり「あのまま続いていたとしても、時間の問題だった(ルイス言)」。有終の美を飾った。クリチコはクリス・バードChris Byrd(アメリカ・バルセロナ五輪ミドル級銀メダル(弟ウラジミールWladimir Klitschko(アトランタ五輪金メダル)には二連敗(①判定負け②7回KO負け)している)に9回終了TKO負け(27連続KO勝ち)思いもよらぬ連勝ストップとなり、タイトルを失ってから。大物食いで鳴る(ホルヘ・ルイス・ゴンザレスにも7回TKO勝ちした)ロス・ピュリティーRoss Puritty(アメリカ+ウラジミール(同じく198センチの巨体)に9回KO勝ち(24連勝(21KO)無敗)初黒星をなすりつけた)に11回TKO勝ち(この兄弟と対戦者についても、例の「相性」は大きい様子)。さらにドナルドにも10回TKO勝ちしていた。一方、ルイスはハシム・ラクマンHasim Rahman(アメリカ)に一度タイトルを奪われながらも(4回KO負け)再戦は5回KO勝ちで雪辱。タイトルを奪回し、すでに主だった選手はことごとく退けていた。クリチコはしきりに再戦を要求していたが(初回は強打を命中させ、窮地に追い込んだ)ルイスはこの試合を最後に引退した(いい引き際だったと思う)。 クリチコはこの後、カーク・ジョンソンKirk Johnson(カナダ・ジュニア世界選手権(89年バヤモン大会)金メダル)に2回TKO勝ち。弟が無惨な2回KO負けを喫した豪打のサウスポー、WBO王者コーリー・サンダースCorrie Sanders(南ア+ラクマンに7回TKO負け)とルイスが返上したため空位となったWBCタイトルを争い、8回TKO勝ち(弟の仇を討った)。 一度引退するが、カムバック。いきなりWBC王者サミュエル・ピーターSamuel Peter(ナイジェリア)との世界戦に臨み、8回TKO勝ち(IBF王者である『Dr. Steelhammer鉄槌博士』ウラジミールといっしょに、兄弟同時世界王者となる)。初防衛戦では元WBCクルーザー級王者のサウスポー、ファン・カルロス・ゴメスJuan Carlos Gómez(キューバ・ジュニア世界選手権(90年リマ大会)金メダル)にも9回TKO勝ち(ただしゴメス(37連勝(31KO)無敗)は初黒星(同国人のヤンクイ・ディアスYanqui Diazに初回TKO負け)を喫した後)。このタイトルを8度防衛。2013年に引退した(2005年に続き二度目となる)。また、もともとキックはじめ異種格闘技兼業の選手であり、95年に来日。柳澤龍志Ryūshi Yanagisawa(青森県出身)から五度のダウンを奪い判定勝ちしている。周知のとおり、現キーウ(’キエフКиев’はロシア語読み)市長(二度出馬し、落選。三度目に当選)Київський міський голова(仕事場のテレビニュースでも、頻繁に目にしています)そしてウクライナの政党「ウクライナ民主改革連合(UDAR)Український демократичний альянс за реформи Віталія Кличка」の党首でもあり、2012年にはウクライナ最高議会Верховна Рада України選挙に当選した。「博士」の異名どおり(体育学博士号)兄弟(双方大男ながらスピードがあり、動きが俊敏だった)とも数ヶ国語に堪能な英才でもある(ウラジミールは片言ながら「日本語」も話す)。
*2022年2月24日、ロシアの侵攻に直面し、キーウ市長として「武器を手に取り戦う」と徹底抗戦を宣言した。

イギリス帝国(イギリスていこくBritisches Weltreich、英語:British EmpireEmpire britanniqueは、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。

『女王陛下万歳Гимн Великобритании』(じょおうへいかばんざい)または『神よ女王を守り給えБоже, бережи королеву』(かみよじょおうをまもりたまえ、God Save the QueenQue Dieu protège la Reine ou Que Dieu garde la Reineは、多くの英連邦王国(旧イギリス帝国構成国・地域の一部)およびイギリス王室属領で使用されている賛歌(アンセム)である。

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