日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑤


①Abolitionism in the United States: In the United States, abolitionism, the movement that sought to end slavery in the country, was active from the late colonial era until the American Civil War, the end of which brought about the abolition of American slavery through the Thirteenth Amendment to the United States Constitution (ratified 1865)②奴隷制度廃止運動(どれいせいどはいしうんどう、英:AbolitionismАболиционизмは、奴隷制度と世界的な奴隷貿易を終わらせようとする政治活動である。ヨーロッパの啓蒙時代に始まり、19世紀のヨーロッパとアメリカ合衆国で大きな世論となり、最終的にその目的の幾つかは達成できた。ただし、今日でも子供や大人の奴隷および強制労働は広がり続けている。

4 奴隷制廃止運動
アボリショニズム
植民地時代の奴隷制度には、まだどことなく家父長制的な要素があった。だが、南北戦争の奴隷制度になると、黒人奴隷はあからさまに主人である所有者の「動産」と化し、主人と奴隷とのあいだには、人間対人間の関係はすっかり影をひそめ、仮借なき重労働と鞭の強制による関係が全面的にそれにとって代った。
それとともに、奴隷制度に反対する動きも、そのもとで従来とは全く趣を異にした新しい様相をおびて展開され始めた。すなわち、クェーカー教徒や、しばしば「革命の父祖」のあいだにもみられがちだった人道主義的、改良主義的な漸進的奴隷解放論に代って、革命的で非妥協的な人びとによる奴隷の即時、無条件、全面解放を唱える奴隷制廃止主義が運動の基本に据えられるようになった。
このような奴隷制廃止運動は、WASP中心の排外主義的要素も含む一定の限界をもちながらもジャクソニアン・デモクラシーとして知られる当時のさまざまな社会改革運動、たとえば西部の農民運動、東部の労働運動、空想的社会主義運動、覚醒運動とりわけ女性解放運動などとも相互に絡み合って、その最も戦闘的な一側面を形成しつつ、ひとつのはっきりと組織された運動として発展した。奴隷制度に反対する人びとは、白人も自由黒人も黒人奴隷も、それぞれ自分たちがおかれていた諸条件の中で、ある場合には独自に、ある場合には互いに提携して、真剣にこの運動に参加した。

①ジャクソン流民主主義(ジャクソンりゅうみんしゅしゅぎ、英:Jacksonian democracy、ジャクソニアン・デモクラシー)Джексоновская демократияは、アメリカ合衆国の大統領アンドリュー・ジャクソンとその支持者の政治哲学のことである②アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson, 1767年3月15日 - 1845年6月8日)Е́ндрю Дже́ксонは、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主で、第7代アメリカ合衆国大統領。
そのさい、ラテン・アメリカ諸国を席巻した独立運動とこれらの国々における奴隷制度の廃止、1825年のフランスのハイチ黒人共和国の正式承認(アメリカ合衆国がこれを承認したのは、南北戦争によってこの国が自国の奴隷解放を宣言した直後の1864年になってからのことである)、1833年のイギリス領西インド諸島における奴隷制廃止(ただし、この場合、奴隷所有者には補償金が支払われ、奴隷はしばらく徒弟身分にされたうえで開放されるという漸進的かつ有償の方法がとられた)、さらにヨーロッパ諸国、たとえばトルコ、ギリシャ、イタリア、スペイン、フランス、ベルギー、ポーランドなどにおけるあいつぐブルジョア民主主義革命の進展等々ーこのような国際的諸状況がアメリカの奴隷制廃止運動に大きな刺戟と影響を与えていたことは見逃すことができない。

①ウィリアム・ロイド・ガリソン(William Lloyd Garrison、1805年12月12日–1879年5月24日)Вільям Лойд Ґаррісонは、アメリカ合衆国の奴隷制度廃止運動家であり、ジャーナリスト、社会改革者であった。急進的な奴隷制度廃止運動の新聞「リベレーター」の編集者として知られ、「アメリカ反奴隷制度協会」の創設者の一人である
こうして、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド・ガリソンの『解放者』がボストンで発行された。そのガリソンは、かつてはベンジャミン・ランディの漸進的廃止論にしたがっていたが、今や決然とこれと袂を分かつことになった。彼は「信条宣言」と題した『解放者』創刊の辞を「・・・私は真剣だ。私は曖昧な態度はとらない私は容赦しない。私は一インチたりともあとへ退かない。そして、私の言うことを聞き入れてもらうのだI am in earnest—I will not equivocate—I will not excuse—I will not retreat a single inch—AND I WILL BE HEARD」という有名な言葉で結んだのだった。

②Moral suasion《道德勸說》信条宣言 is an appeal to morality, in order to influence or change behavior. A famous example is the attempt by William Lloyd Garrison and his American Anti-Slavery Society to end slavery in the United States by using moral suasion③The Liberator (1831–1865) was a weekly abolitionist newspaper, printed and published in Boston by William Lloyd Garrison and, through 1839, by Isaac Knapp.
奴隷制廃止運動に熱心だったガリソンは、『解放者』の発刊とともに、ウェンデル・フィリップス(Wendell Phillips (November 29, 1811 – February 2, 1884)Уэнделл Филлипс was an American abolitionist, advocate for Native Americans, orator, and attorney)その他の多くの同志を糾合して、そのための組織活動に力を注いだ。1832年12月、ついにフィラデルフィアで奴隷制反対の全国組織であるアメリカ奴隷制反対協会が設立された。この集会には67人の代議員が出席し、アーサー・タッパンが議長に選ばれた。

④The American Anti-Slavery Society (AASS; 1833–1870) was an abolitionist society founded by William Lloyd Garrison and Arthur Tappan. Frederick Douglass, an escaped slave, had become a prominent abolitionist and was a key leader of this society, who often spoke at its meetings. William Wells Brown, also a freedman, also often spoke at meetings. By 1838, the society had 1,350 local chapters with around 250,000 members.
アメリカ奴隷制反対協会は、1840年までに地方支部2000、会員総数20万人を数えるにいたった。その活動としては、『解放者』や『全国反奴隷制旗』を中心に、多くのパンフレットや定期刊行物を発行し、奴隷制反対の講演会を開いたり、議会に大衆的な請願運動を行なったりした。こうした活動は、奴隷制寡頭権力の側から激しい抵抗や弾圧、さらにテロを受け、ガリソン、バーニー、タッパン兄弟などの奴隷制廃止主義者はいつも身の危険にさらされていたが、1837年11月にはイリノイ州のオルトンで、奴隷制廃止主義者のイライジャ・ラヴジョイが南部派の暴漢に襲われて殺されるという事件が起こった。ラヴジョイの殺害者たちは捕えられ罰せられるどころか、官憲の手で釈放された。

*Elijah Parish Lovejoy (November 9, 1802 – November 7, 1837) was an American Presbyterian minister, journalist, newspaper editor, and abolitionist. Following his murder by a mob, he became a martyr to the abolitionist cause opposing slavery in the United States.[1] He was also hailed as a defender of free speech and freedom of the press.
奴隷制廃止運動にたいする弾圧は、南部ではことのほか狂暴だった。多くの町や村では「自警団」が上からの力で組織され、団員たちは奴隷制度に反対する人なら誰かまわずにリンチを加えた。さらに、南部に奴隷制度に反対する各種の文書が入ってくるのを阻止するため、奴隷制寡頭権力の代弁者たちは郵便物検閲にかんする法律を議会でつくろうとやっきになり、他方、1836年には奴隷制廃止主義者の議会請願運動を封じるために、憲法に保障された言論の自由の権利を侵害してまで「箝口令Gag rule」を制定した。前者は大衆的な反撃にあって南北戦争にいたるまで長期にわたる闘争にもち込まれたが、じっさいは南部ではそのような権限が郵便局長に与えられ、「好ましからぬ郵便物」は配達されなかった。後者は1844年に廃止されるまで、八年間法律として施行された。
*In United States history, the gag ruleギャグ規則(箝口令) was a series of rules that forbade the raising, consideration, or discussion of slavery in the U.S. House of Representatives from 1836 to 1844.

*自由黒人(じゆうこくじんNegro libre、フリーネグロ (free negro) フリー・ブラック (free black)« noir libre »
など)は、アメリカの歴史において、法的に奴隷ではない黒人という地位にあった人々を指す。
自由黒人と植民運動
ガリソンらの奴隷制廃止運動には、自由黒人も積極的に参加した。『解放者』が発刊された最初の年の購読者450人のうち、400人が自由黒人だったとガリソン自身が述べている。1834年にも、2300人の購読者のうち1700人が、やはり自由黒人だった。
この自由黒人というのは、黒人奴隷制度が生みだしたひとつの矛盾的存在で、黒人奴隷にとってはそれが奴隷制度のもとにおいて、かれらに許された最大限の「自由」を意味したため、黒人奴隷の多くがこの「自由」を手に入れようとした。その方法にはいろいろあって、たとえば独立革命時にみられたように軍役に服することによって自由の身となった者や、勤勉と貯えによって主人から「自由」を購入した者、またなんらかの理由で奴隷所有者によって解放された者、さらに、このような合法的手段ではなく、逃亡によって非合法的に「自由」を獲得した者など、さまざまであった。
自由黒人の増加率が最も高かったのは独立革命直後の時期で、このときには、戦争に参加した黒人奴隷に自由が与えられたほかに、すでにみたような植民地時代の主要商品作物の生産を基礎にした黒人奴隷制度のゆきづまりと、革命中から革命後にかけての奴隷制廃止の風潮とが絡み合って、奴隷所有者による自発的な奴隷解放が行なわれたことが大きな原因になっていた。1790年に5万9557人だった自由黒人は1800年には10万8435人となり、この10年間の増加率は82・3%である。つづく10年間にも自由黒人の増加率は72%と依然として高かったが、1820-30年の36・8%という一時的上昇を別にすれば、綿花王国を中心にした黒人奴隷制度の確立とともに自由黒人の増加率は絶えず低下傾向を示し、1830-40年には20・9%、1840-50年には12・5%、そして奴隷制度の最盛期だった1850-60年には12・3%になった。
それにもかかわらず、自由黒人の絶対数は徐々に増加し、1810年には18万6446人、20年には23万3634人、30年には31万9599人、40年には38万6293人、50年には43万4495人、そして60年には48万8070人を数えるにいたった。こうしたことは、綿花という新しい商品作物を得て、黒人奴隷制度の強化に懸命になっていた奴隷所有者=プランターにとっては、大きな脅威であった。何故なら、ジョン・ランドルフの言葉に端的に示されているように、「自由黒人の存在そのものが、奴隷財産の安全を脅かす最大の源のひとつだったThe very existence of free blacks was one of the greatest threats to the security of slave property」からである。
自由黒人をアフリカに送還することを目的としたアメリカ植民協会は、このような事情のもとで、1816年に長老派の牧師ロバート・フィンリー(Robert Finley (1772 – November 3, 1817) was an American Presbyterian clergyman and educator who is known as one of the founders of the American Colonization Society, which established the colony of Liberia in West Africa as a place for free African Americans)が下院で提唱して結成された。その本質は、真の意味における奴隷解放ではなく、黒人はたとえ「自由人」であっても、白人社会の中で白人と一緒に生活することはできないという白人優越=黒人蔑視の人種的偏見に根ざしたもので、またその政策は黒人を「隔離」し「追放」することだったが、「植民Colonization」と「解放Emancipation」とが混合されて「革命の父祖」や奴隷制反対論者にまでその思想が浸透し、多くの白人や黒人の中からも賛同者があらわれるなど、奴隷制反対運動の戦列を混乱させた。たとえば、さきのガリソンでさえ一時はこの植民計画に賛成したほどで、彼が決然とこれと袂を分かったのは、1832年に『アフリカ植民についての見解Thoughts on African Colonization』と題するパンフレットを書いて、激しくこれを非難した以後のことである。他方、議会でもこの植民計画が具体的に検討され、その結果、1819年にはシェラ・リオン(シエラレオネ共和国Republic of Sierra Leone(シエラレオネきょうわこく)Республика Сьерра-Леоне、通称Sierra LeoneシエラレオネСьерра-Леонеは、西アフリカの西部、大西洋岸に位置する共和制国家でイギリス連邦加盟国である)とフランス領象牙海岸とのあいだにあった四万平方キロメートル余のアフリカ西岸の一地域が植民のための場所として用意された。まもなく入植が行なわれ、首都はジェームズ・モンロー(ジェームズ・モンロー(James Monroe、1758年4月28日 - 1831年7月4日)Джеймс Монро́は、アメリカ合衆国の政治家、軍人)大統領の名前にちなんでモンロヴィアと名づけられた。これが、こんにちのリベリア共和国の始まりである。だが、じっさいにアフリカに入植したアメリカの自由黒人の数は、奴隷所有者や政府の支援を受けたアメリカ植民協会の努力にもかかわらず、きわめて少なかった。
①アメリカ植民協会(アメリカしょくみんきょうかい、英: American Colonization Society、略号はACS, フルネームではThe Society for the Colonization of Free People of Color of AmericaАмериканское колонизационное обществоは、西アフリカ海岸の植民地リベリアを設立することに貢献した組織である。1821年、アフリカ系アメリカ人がアメリカ合衆国からリベリアに移動した②The Colony of Liberia, later the Commonwealth of Liberia, was a private colony of the American Colonization Society (ACS) beginning in 1822. It became an independent nation—the Republic of Liberia—after declaring independence in 1847.

③リベリア共和国Republic of Liberia(リベリアきょうわこく)Республика Либерия、通称LiberiaリベリアЛиберияは、西アフリカにある共和制国家。北はギニアRépublique de Guinée、西はシエラレオネ、東はコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はモンロビアMonrovia

白人社会から黒人を「隔離」するこのような植民計画は、その後も黒人解放のひとつの型として、幾度かこの国の歴史にあらわれ、たとえば、エイブラハム・リンカン(エイブラハム・リンカーン(英: Abraham Lincoln [ˈeɪbrəhæm ˈlɪŋkən] 、漢字:阿伯拉罕・倫古竜、1809年2月12日 - 1865年4月15日)Авраа́м Лі́нкольнは、アメリカ合衆国の政治家、弁護士)大統領も真剣に白人から黒人を「隔離」することを考えたが、逆に、それが黒人の民族主義と結びついて第一次世界大戦後のマーカス・ガーヴェイが唱えた「アフリカへ帰れ運動Back-to-Africa movement」(all black people in the world should return to their homeland in Africa, which should be free of white colonial rule)や、1960年代半ばの「Black Muslim Movement黒い回教徒運動Nation of Islam」などにむられるように、黒人指導者が率先してこうした「隔離」計画を唱導した場合もあった。

*マーカス・ガーベイ(Marcus Mosiah Garvey, 1887年8月17日 - 1940年6月10日)Ма́ркус Га́рвиは、黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家。世界黒人開発協会アフリカ会連合(UNIA-ACL)の創設者。ジャマイカの国民的英雄であり、20ジャマイカドル硬貨の肖像になっている。
アメリカ植民協会の自由黒人送還運動にはっきりと反対し、そのための闘いの先頭に立ったのは、ほかならぬ自由黒人の中の進歩分子だった。白人の奴隷制廃止主義者の多くが、やがてかれらと同じ戦列に加わった。こうして、アフリカ送還運動にたいする反対活動の中から、自由黒人が各地で大衆的な会合を開いた。いわゆる「集会運動」が、1817年のリッチモンドの集会を皮切りに、フィラデルフィア、ニューヨーク、クリーヴランドCleveland、さらにカナダでもといったぐあいに、とくに30年以降、大規模に展開されることになる。1830年にフィラデルフィアで開かれた集会では、黒人の最初の政治結社ともいうべきアメリカ自由黒人協会が結成され、奴隷制廃止運動の進展に大きな役割を果した。
集会運動をとおして、かれら自由黒人はアフリカ送還に反対したばかりでなく、黒人奴隷制度そのものに反対し、ときには逃亡奴隷に援助の手をさしのべるとともに、黒人の市民的諸権利たとえば選挙権や教育や仕事における平等の権利を要求して、肌の色こそちがえ、かれら黒人もまたアメリカ人以外のなにものでもないことを身をもって示したのである。

フレデリック・ダグラス
こうした運動は、当然、その中から黒人解放運動の多くのすぐれた黒人指導者を生みだした。とりわけ、フレデリック・ダグラスは、ひときわ傑出している。
奴隷の苦しみを、身をもって味わってきた人びとに 私は、言うことができます そうです。私も、また、それに耐えたのです 自由と同胞愛と公民権のために、闘ってきた人びとに 私は、言うことができます そうです。私も、また、そのために闘ったのですTo those who have experienced the suffering of slavery, I can say yes. I, too, have endured it.To those who have fought for freedom and brotherhood and civil rights, I can say yes. I also fought for it.
みずから、このような言葉を残したフレデリック・ダグラス。その名前で、やがてアメリカのみならず、世界に知れわたることになるフレデリック・オウガスタス・ワシントン・ベイリーは、1818年2月のある日、メリーランド州東海岸タルボット郡のタッカホーで生まれた。彼の母ハリエッド・ベイリーHarriet Baileyは黒人奴隷、父はエアロン・アンソニーAaron Anthony (allegedly)という名前で母ハリエットの所有者、そして1人の兄と4人の姉妹があった。20歳になった1838年の9月に北部に逃亡するまで、彼は奴隷として何人かの主人のもとで働きつづけた。
彼が他の奴隷とちがっていた点は、ボルティモアのヒュー・オウルドHugh Auldのところで働いていた8歳の少年時代に、女主人のソフィア・オウルドSophia Auldから奴隷でありながら読み書きを教えてもらって、「奴隷こそが学ばなければならないSlaves must learn」と決意したこと、そしてこの頃には早くも「何故、ある人びとは主人であるのに、他の人びとは奴隷でなければならないのか?奴隷とは、いったい何なのか?Why should some people be masters and others slaves? What is slavery?」という疑問にかられて、世間が非難してアボリショニストと呼んでいた人びとに大きな期待と関心を寄せていたことである。
彼が自分の名前をフレデリック・ダグラスと改めたのは、北部への逃亡に成功し、少し遅れて彼のあとを追ってきた自由黒人のアンナ・マレーとニューヨークで結婚した数日後、一緒に無事ニューベッドフォードNew Bedfordにたどり着いたときのことである。二人はこの地でネイサン・ジョンソンNathan Johnsonという自由黒人の温かいもてなしを受けたが、ダグラスという名前はこの人のすすめによるものだった*。

*Anna Murray Douglass (1813 – August 4, 1882) was an American abolitionist, member of the Underground Railroad, and the first wife of American social reformer and statesman Frederick Douglass, from 1838 to her death.
ニューベッドフォードにきてまもなく、ダグラスは、初めてガリソンの『解放者』を手に入れ、すぐにその熱心な定期購読者になった。「私の魂は、火のように燃えあがった。この新聞は、私の血となり肉となった。奴隷制度の鉄鎖のもとで呻吟する私の同胞にたいする心からの思いやりー奴隷を所有する者にたいする仮借ない非難ー奴隷制度のさまざまな悪の忠実な暴露ーこの制度を擁護する者にたいする強烈な攻撃ーすべてこれらが私の魂を歓喜でおののかせたMy soul burned like fire. This newspaper has become my blood and my flesh. A heartfelt sympathy for my brethren who groan under the chains of slavery--an unreserved condemnation of those who own slaves--a faithful revelation of the evils of slavery--a fierce attack on those who defend it. —all these things trembled my soul with glee」と、のちに彼はそのときのことを感激をこめて書いている。黒人を中心とするこの地の集会に、ダグラスの姿がみうけられるようになったのも、この頃からである。
1839年3月29日付の『解放者』に、初めて彼の名前が掲載された。それは、黒人をアフリカに送還することに反対するこの地の集会で、彼が行なった演説についての記事であった。ガリソンは、この演説が「われわれの支持と信頼に値するものWorthy of our support and trust」だと称賛した。こうして、ダグラスは奴隷制廃止主義者としての道に踏み込んだが、1841年8月にナンタケットで行なった彼自身の過去の奴隷生活にもとづいた奴隷制反対の演説は、すでに彼が奴隷制廃止運動の中で重要な人物の一人になりつつあったことを示している。
*このダグラスという名前を、ネイサン・ジョンソンは、ウォールター・スコットの小説『湖の麗人』(The Lady of the Lake, 1810)の中に出てくる勇敢な人物の名前からとったといわれる。ただし、そのダグラスの綴りはDouglasだが、フレデリック・ダグラスの場合は末尾のsが二つでDouglassと綴られている。

*The Lady of the LakeДева озера (поэма) is a narrative poem by Sir Walter Scott, first published in 1810. Set in the Trossachs region of Scotland, it is composed of six cantos, each of which concerns the action of a single day.
1845年5月、彼は最初の自伝**を公けにした。その後、1847年までイギリスに滞在し、そこで「自由」を購入してこの逃亡奴隷は正式に自由黒人としてアメリカに帰ってきた。白人に向かって黒人のことを知らせる従来のやり方の代りに、黒人の言葉で黒人自身に向かって話しかける必要を痛感したダグラスは、1847年12月3日にペンシルベニア州のロチェスターで、自分の週刊新聞『北極星The North Star (anti-slavery newspaper)』を発行した。サムエル・E・コーニッシュとジョン・B・ラスワームJohn B. Rathwormがこの国で最初の黒人新聞『フリーダムズ・ジャーナル』を1827年に発刊して以来、黒人の手になる新聞はいくつもあったが、とりわけ彼のこの新聞は、文字通り北極星の輝きをもって、長期にわたって奴隷解放の導きの星となった。
**彼は、自伝を三回にわたって書いた。それぞれの書物の表題と出版年は、次のとおりである。Narrative of the Life of Fredrick Douglass, 1845: My Bondage and My Freedom, 1855: Life and Times of Fredrick Douglass, 1881(最後のものは、1892年に増補改訂された。)
①The North Star was a nineteenth-century anti-slavery newspaper published from the Talman Building in Rochester, New York, by abolitionist Frederick Douglass.[1] The paper commenced publication on December 3, 1847, and ceased as The North Star in June 1851, when it merged with Gerrit Smith's Liberty Party Paper (based in Syracuse, New York) to form Frederick Douglass' Paper.[2] At the time of the Civil War, it was Douglass' Monthly

②Samuel Eli Cornish (1795 – November 6, 1858) was an American Presbyterian minister, abolitionist, publisher, and journalist③Freedom's Journal was the first African-American owned and operated newspaper published in the United States.[1] Founded by Rev. John Wilk and other free Black men in New York City, it was published weekly starting with the 16 March 1827 issue.
この『北極星』の発行は、奴隷制廃止運動を政治行動と結びつけようとした彼の見解とともに、中産階級の急進主義を信奉するガリソンやウェンデル・フィリップスら一部の非政治主義的でセクト主義的な白人奴隷制廃止主義者の反対を受け、以後ダグラスとガリソンとは奴隷制廃止主義者として異なった道を歩むことになった。ダグラスは奴隷制廃止運動を黒人だけの狭い運動に局限するつもりは全くなかったし、じっさい、そうしなかった。『北極星』のマスト・ヘッドには、「権利は性にかかわりなく/真理は肌の色にかかわりない/神はわれら万人の父であり、われわれはみな同胞であるRight Is of No Sex–Truth Is of No Color–God Is the Father of Us All, and All We Are Brethren」と記されていた。
ダグラスは南北戦争が勃発すると、ただちに「この戦争は、たんに奴隷制度のために起こった戦争であるばかりでなく、奴隷制度を制覇するための戦争であるThis war is not just a war for slavery, it is a war to conquer slavery」と指摘し、またリンカン政府が黒人の軍隊編入をためらっていると、「両手が必要なときに、片手だけで戦うべきではない。今は、貴下(リンカン)の黒い手を縛ったままにしておいて、貴下の白い手だけで戦うときでは断じてないYou shouldn't fight with only one hand when you need two. Now is not the time to leave your (Lincoln) black hands tied and fight with only your white hands」と黒人たちの気持を強く訴えた。彼の社会的活動は戦後もつづき、講演に文筆に多忙の日々を送ったが、首都ワシントンの式部官や、ハイチ共和国の領事をつとめるなど、この偉大な人物には不相応な地位について直後の国の政治にも関与した。ダグラスは、1895年2月10日、婦人平等獲得集会で講演をすませて自宅に帰ってきてまもなく、突然、心臓発作に襲われたままその生涯を閉じた***。
***ダグラスの生い立ち、長じてからの彼の思想と行動についての詳細は、拙著『私は黒人奴隷だったーフレデリック・ダグラスの物語I Was a Negro Slave - The Story of Frederick Douglass』(岩波ジュニア新書、1987年)を参照。

*黒人奴隷といえば『トム爺の小屋』が,奴隷解放の父としてはリンカン大統領が知られています.フレデリック・ダグラスは,同じ時代に奴隷から身を起こし奴隷制度に命がけの闘いを挑んだ果敢な人物です.合衆国を真に自由で平等な国にしようと献身した彼の生涯は,血の通ったアメリカ奴隷解放史といえましょうSpeaking of black slaves, "Old Tom's Cabin" is known, and President Lincoln is known as the father of slave liberation. Frederick Douglass was a brave man who rose from slavery in the same era and challenged slavery to the death. His life, dedicated to making the United States a truly free and equal nation, can be said to be a bloody history of American emancipation.
第二次世界大戦WW II後まもなく、十数年にわたってダグラスの講演、著作、書簡などを編集したフィリップ・S・フォーナー(Philip Sheldon Foner (December 14, 1910 – December 13, 1994)Филип Шелдон Фонер was an American labor historian and teacher. Foner was a prolific author and editor of more than 100 books)が述べているように、フレデリック・ダグラスの名前は「ジェファソンやリンカンの名前と並べておいかれて然るべきShould be placed alongside the names of Jefferson and Lincoln」であった。だが、黒人の最も雄弁なスポークスマンだったばかりでなく、19世紀アメリカが生んだ最大の黒人解放闘士だったダグラスの名前が、ようやく「忘却の中から救出された」のは、戦後の黒人解放運動の高まりの中で、黒人の歴史家自身が民主的な白人歴史家と協力して、長年埋没され歪められてきた自分たちの過去の歴史を発掘し、正しく再発見しようと努力し始めるようになってからのことである。近代黒人解放の父で、20世紀のダグラスともいうべきW・E・B・デュボイスは、「白人世界で黒人であることは、たんに個人としての侮辱や機会の欠如だけを意味するものではなく、このような不利な条件のもとで黒人がどれほど偉大なことをなし遂げようとも、それが未来世界から抹殺されるのがつねにあるということを意味している。というのは、黒人の行為を正しく記録する歴史がないからであるBeing black in a white world means more than just personal humiliation and lack of opportunity; is always erased from the future world. For there is no history that correctly records the actions of the Negro」と、感慨深く述懐している。
その意味で、ダグラスの取り扱いにみられる問題は、決してダグラス個人の問題ではないし、また、彼を正しく評価しようとしなかった個々の歴史家たちの問題でもない。近年、事態は大きく変ってきたが、当時のアメリカ社会は、黒人を白人と平等の地位におくことを固くなに拒絶し、そのため不滅の偉業をなし遂げていたダグラスさえ、忘却の中に押し込めておくことを必要としていたからである。したがって、ダグラスをめぐるそのような問題はすべてのアメリカ黒人の問題であると同時に、すべてのアメリカ人の問題、つまりアメリカ民主主義の根幹にかかわる問題だったのである。

*The Underground Railroad«Підпільна залізниця»Chemin de fer clandestin was a network of clandestine routes and safe houses established in the United States during the early- to the mid-19th century. It was used by enslaved African Americans primarily to escape into free states and Canada. The network was assisted by abolitionists and others sympathetic to the cause of the escapees.
地下鉄道と奴隷暴動
奴隷制廃止主義者の活動は、自由州の北部にかぎられ、奴隷州の南部にまではおよんでいないかにみえた。だが、奴隷制寡頭権力の残忍なまでの弾圧と必死の防備策にもかかわらず、かれらの活動と影響力は徐々に南部という堅固な「武装した奴隷収容所Armed slave camp」の奥深く浸透し、奴隷制度の基礎を内側から掘りくずし始めていた。
この国の憲法の中には奴隷制容認の条項を書き記すことに成功した奴隷所有者とその代弁者たちは、つづいて1793年には奴隷というかれらの大切な財産を守るための具体的措置として、逃亡した奴隷を取り戻すための逃亡奴隷取締法を制定していた。獰猛な犬どもと銃口の追跡を受けて、逃亡に失敗し捕えられた奴隷は二度と同じ罪を犯すことがないよう、また他の奴隷へのみせしめのために、数十回も激しく鞭打たれたうえ焼印を押されたり、耳をそがれたりすることもあった。なんとか逃亡に成功した奴隷のくびには、賞金がかけられ、生かすも殺すも、これを捕えたものの裁量にまかされた。逃亡奴隷取締法とは、このような残虐行為を法によって承認したものだった。
黒人奴隷制度が強化され、奴隷にたいする抑圧が激しくなればなるほど、かれらの反抗は偶発的なものから意識的なものに、個別的なものから組織的なものになった。病気をよそおったり、仕事をさぼったり、女奴隷が子どもを産むことを拒絶したり、そうしたプランテーションにおける日常的な黒人奴隷の抵抗は、つねに逃亡によって「自由」を獲得したいと願う強い衝動によるものであった。やがて、かれらの逃亡を援助するための非合法組織が、奴隷制廃止主義者やこれに同調したクェーカー教徒、博愛主義者、民主主義者たちの手で網の目のように作られていった。「地下鉄道」と呼ばれたこの非合法組織は、「機関車」と「客車」、各「停車場」と「終着駅」、それに「車掌」や「駅員」まで十分に備えていた。

地下鉄道の「停車場」は輸送中の逃亡奴隷が一夜の宿をとる宿泊所であり、「終着駅」は奴隷制度のない北部や、北部よりもっと安全な「Canaan約束の地כנען‎」カナダCanadaであった。逃亡奴隷を乗せた列車は、人目につくときや昼は湿地帯や山陰の繁みの中に憩い、夜になると北極星をたよりに北への長い旅をつづけた。輸送には錬達の「車掌Conductor」がついていた。「車掌」は文字通り、この輸送隊の「指揮官Conductor/Commander」である。彼は宿泊所の提供者だった仲間の「駅員」たちと巧みに連絡をとり、列車の輸送信号にはしばしば黒人特有の歌の調べをもってした。歌は、逃亡奴隷の最も実際的な武器のひとつだった。
かつて自力で逃亡に成功した自由黒人の中から、多くのすぐれたコンダクターたちがあらわれた。奴隷から「黒人のモーゼ」と慕われたハリエット・タブマンは、指揮官の中の指揮官、さしずめ「女性総司令官」ということができた。タブマンの生まれたのは、ちょうどダグラスが生まれたのと殆ど同じ頃で(正確にはわからないが、彼女自身はその生涯に決定的な影響を与えたある事件が起こった年から逆算して、自分が1820年頃に生まれたと信じていた)、場所も同じメリーランド州東海岸のダグラスの生地であるタルボット郡とはチョプタンク川Choptank Riverひとつ隔てた南のドーチェスター郡Dorchester Countyで、この二人の黒人奴隷が後年互いに励し合いながらガリソンの道徳的説得主義を克服して、ともに奴隷制廃止運動の歴史に最も偉大な足跡を残すことになった。

*ハリエット・タブマン・デイヴィス(Harriet Tubman Davis、1822年3月頃 - 1913年3月10日)Гарриет Табменは、アメリカ合衆国の元黒人奴隷、奴隷解放運動家、女性解放運動家。Араминта Росс (англ. Araminta Ross)
1849年のある日、彼女は、かつてのダグラス同様、逃亡に成功し、自由州ペンシルヴェニア州の土を初めて踏むことができた。「すでに、その境界線を越えたと知ったとき、私は、これがはたしてこれまでの自分と同じ人間なのかと、じっと手を見つめました。ものみなすべての上に、輝きが満ちあふれていました。太陽は木々のあいだから金色の光を送り込み、私はさながら天国にいる心地でしたWhen I realized that I had already crossed that line, I stared at my hands, wondering if this was the same person I had been. There was an abundance of brilliance over everything. The sun was sending golden light through the trees and I felt like I was in heaven」その日のことを、彼女はこう回想している。
タブマンが盛んに活動したのは南北戦争も間近の1850年代だったが、この10年間に南部の黒人奴隷制度はいちだんと強化された。1850年に前のものよりもいっそう厳しい逃亡奴隷取締法が制定されると、これまで逃亡奴隷にとって比較的安全だった北部の自由州も危険地域になり、安住の地は遠くカナダに求められるようになった。それとともに、コンダクターの仕事も従来よりもっと多くの危険や困難に直面した。こうした危険や困難が、かえってタブマンはじめ地下鉄道従業員の決意を強くし、結束させた。
「女性総司令官」タブマンは、1850年12月に彼女の二人の子どもと妹を逃亡させることに成功して以来、南北戦争にいたる約10年間に20回近くも南部に潜行し、およそ300人の奴隷を逃亡させたといわれる。奴隷所有者は彼女のくびに賞金4万ドルをかけて、タブマンの逮捕にやっきになった。地下鉄道には多くの白人の活動家たちも参加したが、タブマンのほかにも、ウィリアム・スティル、デイヴィッド・ラグルズ、ジャーメイン・W・ロウゲンJermain Wesley Loguenなど沢山の勇敢な黒人のコンダクターの名前をあげることができる。結局、これらの人びとを中心にした地下鉄道従業員に守られて「武装した奴隷収容所」から逃亡した黒人奴隷の数は、1830年から南北戦争にいたる30年間に、およそ6万人にのぼった。

①William Still (October 7, 1821 – July 14, 1902) was an African-American abolitionist based in Philadelphia, Pennsylvania. He was a conductor on the Underground Railroad, businessman, writer, historian and civil rights activist. Before the American Civil War, Still was chairman of the Vigilance Committee of the Pennsylvania Anti-Slavery Society, named the Vigilant Association of Philadelphia.

②David Ruggles (March 15, 1810 – December 16, 1849) was an African-American abolitionist in New York who resisted slavery by his participation in a Committee of Vigilance and the Underground Railroad to help fugitive slaves reach free states.
黒人奴隷にとって、逃亡は最も主要な抵抗形態となったが、かれらの中にはさらに大きく歩を進めて積極的な武力的反抗、すなわち暴動という抵抗形態に訴える者もあった。この奴隷暴動は、この頃になって突如としてあらわれたものではなく、奴隷制度という野蛮な制度が存在するかぎり、いつ、どこでも爆発せざるをえないものであり、事実、条件のあるところではつねにそうなった。アメリカの場合も同様で、植民地時代の奴隷暴動については、簡単にではあるが、すでにふれた。
1829年に、きわめて刺戟的な一冊のパンフレットがあらわれた。これを書いたのはボストンの自由黒人で、名前をデイヴィド・ウォーカーといった。そこには、次のような強烈な字句が書き記されていた。「・・・反対に、もしも、われわれ(黒人)が、かれら(白人とくに奴隷所有者)を奴隷にして残忍な奴隷制度の中に縛りつけるようなことをしたとしたら、かれらは、いったい、どんな気がするだろうか?On the contrary, if we (the blacks) were to enslave them (the whites, especially the slave owners) and keep them in a brutal system of slavery, how would they feel? I wonder?・・・私は、君たちにたずねたい。君たちの母親や妻や幼い子どもの生命を奪う暴君の奴隷となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望むのではないか?I want to ask you guys Would you rather be killed than be the slave of a tyrant who takes the life of your mothers, wives and young children?・・・信じ給え、君たちを殺そうとするような、そんな人間を君たちが殺すのは、喉が渇いたときに一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないかBelieve me, killing those who try to kill you is as natural as drinking a glass of water when you are thirsty」と。

①David Walker (September 28, 1796 – August 6, 1830)[a]Дэвид Уокер was an American abolitionist, writer, and anti-slavery activist

『ウォーカーの訴え』として知られるこのパンフレットは、奴隷暴動を神の意志として弁護し、奴隷の反抗をかきたてるとともに、奴隷所有者に大きな衝撃を与えた煽動の書であった。あたかもこれにこたえるかのように、『解放者』が発刊されたのと同じ年の1831年8月にはヴァージニア州のサザンブトンでナット・ターナーの大奴隷暴動が起こった。1800年のゲイブリエル・ブロッサー、1822年のデンマーク・ヴィージーなどの大規模な奴隷暴動計画につづいてひき起されたこのターナーの奴隷暴動は、その規模と影響力においてこの国の奴隷暴動の中でも最大のものだった。連邦軍まで出勤して100人以上の黒人が殺され、最後には16人の奴隷と3人の自由黒人、そして暴動の指導者ターナー自身の処刑をもって、結局は鎮圧されてしまったが、この奴隷暴動は全南部の黒人奴隷に激しい解放意欲をかきたてたばかりでなく、なによりもそれがあの熱烈な白人の奴隷制廃止主義者ジョン・ブラウンJohn Brownの心に大きな刺戟と衝撃を与えたことは記憶されなければならない。

②Denmark Vesey (also Telemaque) (c. 1767 – July 2, 1822)Де́нмарк, Телема́к Визи was an early 19th century free Black and community leader in Charleston, South Carolina, who was accused and convicted of planning a major slave revolt in 1822.

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