日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)追加(2023/09/10)⑤


     社会観の戦場
 尾下さんは一年近く中原の警備に当った後、青島に戻された。12月1日、上等兵に昇格。12月8日、太平洋戦争へ突入。「中国にも勝てないのに、アメリカなんかと戦ってどうするんじゃ。馬鹿なことを始めおって」と、兵隊たちが話していたことを憶えている。
 青島で、ガスマスクをつけて毒ガス戦の訓練やアンパン地雷をもって戦車に肉迫する練習をつんだ後、42年2月末、台湾経由でフィリピン・ルソン島のリンガエンに上陸。バターン、コレヒドール島の激戦に参加。生きのびてネグロス島に上陸、7月には兵長を命じられている。
 同年11月末、マニラを経てハノイの北、中国国境地帯で抗日戦線ベトミン(越南軍)と戦った。この間、43年12月、伍長。45年3月、軍曹に進級している。45年9月1日、北ベトナム奥で敗戦を知り、ベトミン(ベトナム独立同盟、インドシナ共産党を中心とする民族統一戦線)に許されてハイフォンに出、46年4月に帰国したのだった。
①バターン半島(バターンはんとう巴丹半岛、英語: Bataan Peninsula)は、フィリピンのルソン島中西部にある半島②Españolスペイン語→La Batalla de Corregidor コレヒドールの戦いБитва за Коррехидор科雷吉多島戰役 (1942年) fue una batalla desarrollada durante la Segunda Guerra Mundial, entre el 5 y 6 de mayo de 1942 en Filipinas

③ネグロス島(ネグロスとう内格罗斯岛NegrosНегросは、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、フィリピン4番目の大きさの島である。特に、フィリピン一の砂糖生産で有名。
 五年五ヶ月にわたる軍歴を先に述べた上で、フィリピンの戦場にもどろう。
 日本軍がネグロス島の米軍を降伏させ、上陸したのが42年5月22日。二ヶ月間、解放軍とみなされた日本軍に対する住民の抵抗はまったくなかった。ところが、食糧を持たない日本軍が各地で収奪を繰り返した結果、全島にゲリラ戦が拡がっていった。待ち伏せをして、狙撃されるのである。それに対して日本軍は、疑わしい男を捕まえてきては暴行や水責めの拷問を加え、最後には穴を掘って突き殺した。中国占領で行った野蛮はそのまま、フィリピンに移入された。

 尾下さんはこの時、ひとりの婦人の発言を通して、日本軍の敗北を確信している。20歳になったばかりの青年は、国際情勢やアメリカの工業力について知っていたわけではない。ただ、自分と同じ普通の主婦が、「日本軍は必ず敗ける」と語った論理が納得いくものだったからだ。
 その婦人は良家に生まれた日本人であり、日本に留学してきていたネグロス島の農園地主の息子と結婚し、フィリピン国籍となって島に住んでいた。家を借りるために、彼女の屋敷を訪ねたことがある。こうして知りあい、好感をもたれた尾下さんは食事に招かれたり、娘に日本語を教えてほしいと頼まれるようになった。
 彼女から、「日本軍は略奪はする、火は放つ。私はそんなことするはずがないと弁護してきたが、私の家も同じ目にあった。連隊長に抗議しても、まったく無駄。住んでいる人を全部敵に変えていくような戦争をしていては、必ず敗けます」と言われた。
 彼女の判断は、中国の戦場を経験してきた彼の思いをそのまま言葉にしたものだった。ルソン島のバターン、コレヒドールの激戦を戦い、アメリカ軍の砲弾の力を骨の髄まで知る尾下さんだが、軍備力よりも軍隊と住民との関係の方が、長期戦の勝敗を決すると思われた。これは良識である。現実を直視し、明晰で単純な論理によって作られた良識である。彼は、戦争を知らずに暮してきたフィリピン在住の日本人女性に同じ判断を伝えられ、自分の良識を確信したのだった。
 日本人は先の戦争で、二つの戦場を持った。ひとつは、軍備力に基づく合理的思考に対して、自死を前提にすればいかなることも可能になると煽る非合理的精神主義の戦場。他のひとつは、民衆に受け入れられ民衆に支持されて戦おうとするか、民衆を支配の対象とみなし、結局は敵に変えていくか、社会観の戦場である。20歳の青年は前者の戦場においてそれほど透徹した意見を持たなかったが、後者の戦場において日本人の敗北をはっきりと見ている。
 それぞれの土地で、その環境にあった生業を工夫して人は生きている、というのが尾下さんの人間観である。岐阜の山里で林業を仕事にする故郷の人々も、中国大陸で農耕生活を送っている中国人も、熱暑のネグロス島で農耕にたずさわっている人々も、特に変わりはなかった。違っているのは環境への関わり方の差であった。
 相手を自分と同じ人と考える尾下さんは、相手を理解するために、まず言葉を覚えようとした。彼がとった方法は文化人類学者の言語学習とよく似ている。「これは何?」という文章を覚え、暇があればその他の人に問い、手帳にかきためていった。違う人にも同じ物について「これは何?」と尋ね、同じ答えならば確実だと思って、それを覚えた。そのうちに、「欲しい」「いくら」といった言葉を知り、名詞以外の語彙も増していった。中国では中国語を、フィリピンではネグロス島西海岸の人々が喋るビサヤ語を、ベトナムではベトナム語を覚えていった。
 兵隊は現地の人々を侮蔑したが、彼は仲良くしたかった。「仲良くするのは難しいことではない、普通にすれば仲良くなれる」と彼はいう。仲良くして、少しでも言葉を覚え、もし現役解除になれば、そしてもし可能ならば、その地に住んでもいいと思っていた。
  18歳で志願したとき、「早く軍隊に行けば、早く帰れる」と考えたのだが、帰るところはどこか、はっきりしていたわけではない。山里の次男坊、家を建てて分家する希望はほとんど持てなかった。岐阜の山村から、多くの少年が「少年義勇軍」に応募し、満州開拓に出て行った。彼もまた、どこかで現地除隊になれば、その地で暮してもいいと思っていた。そのためには、その地の人々を好きにならなければならない。好きになるためには、言葉を覚えて仲良くしたかった。それは、境遇のよく似た土屋青年(第12章)の野心と似て非なるものだった。土屋さんは満州で現地除隊になったら、植民地で成功したいと考えていたが、尾下さんはその地の人々と暮したいと望んでいた。相手を手段の対象とみるか、共に生きる人とみるか、大きな違いがある。
 尾下さんが現地の人と普通に接し、いかに仲良くしていたか、彼はひとつの思い出を伝えて胸を熱くする。 
 ネグロス島を離れるとき、10人ほどの子供がやって来て、訣れの言葉を贈った。
 「神はあなたという大変親切な人を私たちに与えてくれました。同じ神が大事なあなたを今、奪い去ろうとしています。しかしこれは致しかたありません。どこへ行かれても、体を大切にしてください」
 六つから12歳ぐらいの裸足の子供が、そう言ってくれたのだった。

Tiếng Việtベトナム語→仏印進駐Chiến dịch Đông Dương thuộc Pháp năm 1940 hay Chiến dịch Đông Dương lần thứ nhất là quá trình Đế quốc Nhật Bản tấn công vào Đông Dương thuộc Pháp năm 1940.Invasion japonaise de l'IndochineВторжение во Французский Индокитай

 日本陸軍は40年6月23日、日・仏印軍事細目協定の成立を待たずに、中国南部からベトナム北部のランソン方面に武力越境した。その後、協定によりベトナムは日仏二重支配となった。45年3月9日、日本軍はフランス軍に宣戦、フランス領インドシナを解体、バオダイ帝を立てた。日本軍は初めフランスからの解放軍とみなされたが、ここでも逆転、ベトミンによる激しい抵抗にあう。

①Tiếng Việtベトナム語→Bảo Đạiバオダイ (chữ Hán: 保大, 22 tháng 10 năm 1913 – 31 tháng 7 năm 1997)Бао-дай-де, tên khai sinh: Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy (阮福永瑞), là vị hoàng đế thứ 13 và là vị vua cuối cùng của triều đại nhà Nguyễn, cũng là vị hoàng đế cuối cùng của chế độ quân chủ trong lịch sử Việt Nam②The Việt Minh (Vietnamese; abbreviated from Việt Nam Độc lập Đồng minh, chữ Hán: 越南獨立同盟; French: Ligue pour l'indépendance du Viêt Nam, lit. 'League for the Independence of Vietnam') was a national independence coalition formed at Pác Bó by Hồ Chí Minh on 19 May 1941. В'єтмінь Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội — «Ліга боротьби за незалежність В'єтнаму»
 45年から46年にかけて、日本軍の食糧調達、南のメコン・デルタおよび北の中国雲南の穀倉地帯からの米の輸送途絶、水害などの原因により、北ベトナムで200万人の餓死者が出たといわれている。日本軍の侵入がひきおこした大災害である。そんな状況下、45年9月2日ー奥地にいた尾下さんらが敗戦を知った翌日ー、ベトナム民主共和国が独立宣言。再び植民地化しようとするフランスと独立戦争に入っていった。

*According to the Việt Minh, 1 to 2 million Vietnamese starved to death in the Red River Delta of northern Vietnam because of the Japanese since they seized Vietnamese rice and failed to pay/Selon le Việt Minh, 1 à 2 millions de Vietnamiens sont morts de faim dans le delta du fleuve Rouge, au nord du Vietnam, à cause des Japonais, qui ont saisi du riz vietnamien et n'ont pas payé.
 若い尾下さんも、ベトナムに上陸したときはすでに兵長。初年兵を教育し、多くの兵隊を掌握しなければならない地位になっていた。
 常日頃から彼は、将校が古参の下士官らを連れて外へ女遊びに行ったり、また営外居住する上級将校が現地妻を囲ったりしているのを、苦々しく思っていた。衛兵司令に当った夜、連隊の衛兵14、5人に向かって、「どんなに厳しい規則を掲げていても、都合よく曲げてしまう。主計中尉が兵隊を使って米を女のところに運ばせたとか、裏の話が多すぎる。これで戦に勝てるはずがない」と喋ることもあった。ある夜、その会話を週番司令の将校に立ち聞きされ、初年兵の教育係をはずされたこともあった。

 北ベトナムでは、45年3月、仏軍を降伏させた後、フランス人の捕虜を使役したが、彼は捕虜に暴力をふるったことはない。七、八人の捕虜を連れて陣地構築に行く。彼らは一度も「煙草をくれ」と言わなかった。だが日本兵が捨てた吸いさしをこっそり拾い、巻き直して吸っていた。尾下さんは敵に「くれ」と決して頼まないフランス人の誇りに感心し、それまで兵隊にやっていた配給の煙草を、フランス兵に渡すことに変えた。「メルシーMerci」と心から喜んでくれた。「腹がすいてしょうがない」と兵隊に伝え、飯盒一杯に飯を詰めさせ、汁しか口にしていない彼らに食べさせることもあった。
 北ベトナムの飢餓はすさまじかった。ハノイでは毎朝、大八車で餓死者を積み重ね、紅河にかかる鉄橋のたもとから投げていた。300人をこえる屍体が運ばれる日もあったという。
 尾下さんは、もらったおにぎりを手にしたまま、微笑むようにして死んでいった男の子の姿をいつも思い出す。四、五歳ほどのその男の子は、日本兵が借りている家の前に数日前から来ていた。痩せ、腹はふくれ、皮膚は土色に乾いていた。10歳以上の子は芋を掘ったり、盗んだりして、なんとか食物を探す。幼児は母親に連れられている。四、五歳の子供たちは頼る親も、食物を得る当てもなかった。この日、尾下さんはその男の子に気付き、おにぎりを渡した。その子はもはや食べる力もなく、握ったまま安らかな顔で死んでいった。尾下さんは、死顔に喜びがあるように思えたし、そう思いたかった。

      恩給拒否
 こうして尾下大造さんの戦争は終わった。五年五ヶ月の軍隊、18歳で入隊した青年は24歳になっていた。
 46年4月に帰郷、二ヶ月後の6月、田の草とりをしていると、「役場に印鑑をもってこい」と声をかけられた。「軍人恩給をもらう資格があるので申請しろ」という。敗戦後、軍人恩給は軍国主義を支える制度として停止されていた。だが、復活の動きは当初からあったのである。
 この時は、「戦に負けて、皆が飲まず食わずの有り様なのに、軍人恩給なんてとんでもない」と反論した。翌47年2月、彼は婿入りし、妻の親族の材木会社の仕事をするようになった。軍人恩給の話も忘れていた。
 それから六、七年後、「古川町の役場の二階に来てくれ、軍人恩給について話がある」と呼び出しがあった。
 行くと、小学校出で陸軍少佐となった町一番の出世頭が中央に座り、将校になった者がその横に並んでいた。そこで、「俺たちは軍人恩給を貰っている。君たちはまだ貰っていない。運動すれば貰えるようになるので、300円の公費を払って、軍人恩給連盟に入ってもらいたい。恩給が出るように俺たちがしてあげよう」と勧めるのだった。
 対日講和条約の発効後、「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」(1952年)が制定され、翌年に軍人恩給も復活していた。旧軍人は天皇の兵隊であり、天皇にどれだけ尽くしたかによって評価される。そのため階級によって額が大きく違う。復活した軍人恩給の評価基準は、戦前とまったく同じだった。
*The Act on Support for the War Injured, Sick, and Survivors of the War Dead戦傷病者戦没者遺家族等援護法 provides the spirit of national compensation for military personnel, civilian civilians, and paramilitary civilians for injuries , illnesses , and deaths in the line of duty. Based on this, the system was established in April 1952 to provide support by providing disability pensions to disabled people and survivors ' pensions, survivor 's allowances, and condolence money to the surviving family members of deceased persons .
 尾下さんは戦争に行って、良いことをしたとは思ってはいない。多額の軍人恩給が貰えるほど階級が上であるとか、あるいは永く軍隊にいたとは、それだけ悪事に携わったということだ。とりわけ中国人に対して、人間扱いをしていなかった。それを忘れたことのない彼は、反論した。
 「戦争中、階級にものをいわせて兵隊をいじめたあなたたちが、俺たちのために働く、と。體えばの話、俺たちが恩給を一万円貰えるようになれば、あなたたちは今一万円の恩給が二万円になるだけの話じゃないか。いつまでも俺たちを筏の樽にするなよ」
 「筏の樽」-木材を河川に流してきた岐阜の人らしい比喩である。筏の下に樽を入れて浮かすのである。
 こう反論しても、戦争体験について討論が深まる相手ではない。
 彼は「そんなものはいらん、俺は仲間にしてもらわなくてもいい」と言って帰ってきた。
 それから絶えず、年に二、三回、軍人恩給連盟、町役場、県民生部などから「軍人恩給をもらうように」と勧めてくる。旧陸軍の算定では、第一種の戦闘地帯は一年を四年に、次の警備地区で外地については一年を三年とみなすことになっている。尾下大造さんの五年五ヶ月は在隊が15年以上となり、軍人恩給の対象となるというのである。
 本人が説得不能となると、妻や義母に圧力をかけてきた。県民生部の担当者が商工会に勤めている妻の職場へ来て、「あんたんとこの人は、まだ改心せんのか」と迫る。
 軍人恩給連盟に入った者は、「銭が余るのなら、もらって町へでも寄付すりゃええのじゃ。付き合いの悪い奴だ」と妻をいじめた。「法律で決まっているものを貰わんのは、おかしな奴だ」とまで言われた。近隣から県へ、さらに全国レベルの軍人恩給連盟まで、均質に重なる村社会の生理ー異議を述べる者を排除して止まないーが働いたのである。
 軍人恩給は当時のカネで数十万(高級将校になると数百万)の高額である。林業不況でなんとかやりくりしている時に、「銭が余っているのなら」と言われるのは、極めて不快である。ましてや、妻を責められるのは辛かった。
 尾下さんは妻に、「これは俺の生き方だから、これだけは許してくれ」と頼んだ。そして、「法律で決まっているものを、貰わんのはおかしい」という圧力に対しては、70年12月、県の人権擁護委員会に「これ以上私たち家族に圧力をかけないよう、関係機関に連絡してほしい」と書状を出している。しかし委員会からは何の返答もなく、翌年再び、県民生部厚生世話課長より恩給履歴申立書が「記入のうえ必ずお返しください」と付記して送られてきたのだった。警察もまた、彼を反社会的分子として記録し、探索のために訪れてくるようになった。
 軍人恩給受給者は1980年3月末で213万人、他方、何人かの受給拒否者がいたのだろうか。今も、いるのだろうか。尾下さんのように「私は戦争の犠牲者ではない」、「本当の戦争犠牲者への救済が行われていない」、「侵略地、特に中国の被害者への救済が行われていない」といった理由で受給を拒んでいる多くの人がいるのであろう。それに対し、受給拒否者の存在は自分たち戦争遂行者の存在を脅かすと不安になる者も少なくない。
 尾下さんの軍人恩給拒否が新聞に報道されたりすると、戦争の罪責を語る人が必ず受けとってきた、嫌がらせの手紙が届く。名古屋市から偽名を使った手紙は、「戦争です。色々残酷なことがあっても止むを得ません。大切な青春時代を戦いの中でおくり、今、悪者扱いされてはかないません。全国の恩給受給者は、まるで肩身の狭い思いをしなければなりません」と述べ、「いい気になるな」と結ぶ。被害者意識を強調することによって、攻撃性に転じている。
 他の差出人不明の葉書は、「貴方だけ聖人君子、僧にでもなったらどうか」と書き殴っている。湯浅さん、土屋さんが受けとった手紙とほとんど同じ言葉遣い。私は多くの嫌がらせの手紙を読んできたが、いずれも示し合わせたかのように同じ主張を書き連ねている。しかも偽名か無記名である。日本人の多くが集団のなかの一人に隠れると、どのような欲望を表わすかを物語る。
 尾下さんは、自分の意志で残虐な行為はしなかったとしても、止めなかった責任があると考えている。
 「死んだ者を犬死にだと侮辱するのか、と怒る者がいる。そうではない。死んだ者は一番貧乏くじを引いたのだから、彼らに罪をかぶせず、生きて帰った者が背負うべきです。
 わしは貧しい戦争未亡人や、傷痍軍人の生活保障に反対しているのではないんです。青春を犠牲にし、社会に立ち遅れ、ずっと貧乏していることへの扶助が基準になっているのなら、分かります。だけど五年や六年家におらんかったって、みんな終戦後は一緒のスタートでしょう。世のなか楽になったら酒飲んで、軍歌を歌って、それは余裕のためのカネではないですか。戦争中にやってきたことを思うと、どこか間違っていると思います。
 内地にいた人は、自分たちもひもじい思いをしたと言います。しかし、日本人にはそんなことを言う資格はないんです。頭でっかちで骸骨のようになって、うずくまって死んでいったベトナムの子供・・・。そういうことを知らんから、自分たちも酷い目にあったと言えるんです。
 個人差はあります。非常な不幸にあった人も少なくありません。しかし全体を見ると、中国や南方の人たちより自分たちが不幸とは、絶対に言えませんよ」 
 雪の夜更け、老人は語りながら、何度となく死んでいった人の顔、声、姿を思い浮べているようだった。

    それでも言わなかったことが
 私は年の暮、飛騨古川を訪ね、大正期に建てられた和洋折衷洋式の古い木造の家で、長い時間、尾下さんの戦争体験をうかがった。奥さんも何度かお茶をつぎながら、私たちの話を聞いていた。
 泊めていたただいた翌朝、尾下さんは多くのことを思い出したのであろう。眠れなかったのかもしれない。朝食をいただいて、彼と私と二人だけになったとき、彼は私に「家内にも喋ったことはないんだけど・・・」と前おきして、ネグロス島での住民殺害について話し始めた。
 「将校は直接残虐なことはしないんです。そこらの疑わしい住民を引っぱってくると、拷問する。初めは縛って、やかんで鼻といわず口といわず水を注ぐ。水を五升も八升も飲ませると、そのうち腹が大きくなってくる。そうすると板にのせて、両脇に兵隊が乗って水を吐かせる。しまいには両手を後ろに縛って、炎天下に木に吊す。爪先立ちにして、木に縛るんです。こうなると、解放できなくなる。そこで、惨殺です。将校が『使役こい!』と命令すると、呼ばれた兵隊は穴を掘って、刺殺するんです」
 尾下さんは、拷問に決して加わらなかった。それを知っていたのであろう。ネグロス島の北、バコロドの奥、イザベラに駐屯していたとき、大隊長の小松少佐が尾下兵長を呼び出し、「おい、こいつを連れていって殺せ」と命令した。しかたなく、部下の市川と共に外に出た。

 「殺さないといけない、殺したくない、逃がしてやる勇気もない。葛藤のうちに、咄嗟にわしは一番卑怯なやり方をしたんです。『お前、やれ』と言ったんです。命令されて部下は男の胸を突いたが、突きそこなって泥水のなかに落ち、そのまま潜った。わしは銃をとって、頭を撃った。帰ってきて、大隊長に怒鳴られた。兵舎の近くで弾を撃ったから。
 二日たって、婆さんが『うちの息子がいなくなった、何かしたのではないか』と尋ねてきた。その対応も、わしが指名された。後ろめたさから、『知らん』と横柄に答えた。
 わしは戦争で悪いことをせなんだ、と言ってきた。違う。少佐の命令だから、わしに罪がないということにはならない。しかも二重の罪を犯している。殺した上に、老婆に嘘を言った。それからしばらく、食事のとき、箸をつけられなかった。良心があったから箸もつけられなかったのではない。本当の良心が、わしにはなかった」
 尾下さんは顔を赤らめ、何度かむせびながら私に語った。彼は私を通して、妻や戦後生まれの二人の息子に告白しているかのようだった。
 「アコー・ノー・パタイ」
 ビサヤ語で、「俺は死にたくない」と叫んだ男の声が今も聴こえてくる。泥水にぬれ、眼にかかる長い髪、そのまま泥のなかに沈んでいった後頭。
 尾下さんの語る使役されて死んでいった大男、強姦された姉妹や少女、北ベトナムでおにぎりを手に死んでいった子供、そして彼が殺したネグロスの男、どの人にもくっきりとした表情があり、苦悶があり、尾下さんの人間的な関わりのまなざしがある。相手は、殺されていく「もの」にはなっていない。
 彼は、戦争中も、戦後も、中国や東南アジアの人々を自分たちの常識の外に置き、ものとみなす態度に背を向けている。
 「国のために戦った、戦争に敗けたからといって、恩給が出ないのはおかしい」-こんな考えで恩給を受けとる。「それは日本では通るかもしれない。でも、中国や東南アジアの苦しめられた人から見れば、通る理屈でしょうか?」
 尾下さんは自分の判断で、戦中、中国の民家に押し入らなかったように、今も自分の判断で、侵略を肯定するカネは受けとらない。飛騨の山里がこんなに明晰な良識を育てたことに、私は驚く。


【追加参照資料Additional reference material】
「軍人恩給」と「戦後補償」についてAbout "military pension" and "war compensation"  家永三郎Saburo Ienaga
 日本国民に対して日本帝国が与えた損害については、国内法により、当時の日本国民の義務遂行の結果に過ぎずAccording to domestic law, the damage caused by the Japanese Empire to the Japanese people was merely the result of the Japanese people fulfilling their duties at the time、受忍する他ないものと仮定するとしてもeven if you assume that you have no choice but to endure it、また戦後の国内法により、ある身分・境遇の人々には一定の補償がおこなわれfurthermore, postwar domestic laws provide certain compensation to people of certain status and circumstances、そうでない人々にはなんらの補償もおこなわれないままに、政府はそれで一切の措置をすませたとしているにしてもeven though the government claims to have taken all measures without providing any compensation to those who did not、依然として責任問題の残る点では、旧敵国人・旧植民地人に対する場合と異なるところがないのであるin terms of the issue of liability that still remains, this is no different from the case for former enemy aliens and former colonists. しかし、公法人としての国家という、法律上の権利・義務の主体にとどまる抽象的存在のみに戦争責任をすべて吸収させて終わりとすることはできないHowever, the nation as a public corporation, an abstract entity that remains the subject of legal rights and obligations, cannot absorb all responsibility for the war. 法人を運営するものはその機関としての自然人であるからThose who operate a corporation are natural persons as an institution、当時の日本の国家機関の地位にあってin its position as a national institution in Japan at the time、違法・無謀の戦争を開始または遂行する権限を行使ないし濫用した自然人個々人にも、また責任あるのは当然であるNaturally, individual natural persons who exercise or abuse their power to start or wage illegal or reckless war are also liable.(『戦争責任War Responsibility』(1984年)岩波書店Iwanami Shoten)。



①「(中略Omission)太平洋戦争に入ると生活物資の不足はいっそう深刻となったWith the onset of the Pacific War, the shortage of daily necessities became even more serious. 17年(1942)1月から味噌・醤油・塩などが配給制となりFrom January 1942, miso, soy sauce, salt, etc. were rationed、2月から衣類が点数切符制from February, clothing will be subject to a point ticket system、やがて石鹸・煙草から野菜・魚などの生鮮食料品も配給の対象となりeventually, everything from soap and cigarettes to fresh foods such as vegetables and fish became subject to rationing、18年(1943)末にはほとんどの生活物資が配給制となったby the end of 1943, most daily necessities were rationed」。https://www.library.pref.nara.jp/collection_sentai/gallery/homefront_mobilization

ごはんのない食堂・ごはんのある食堂      家永三郎
 麦のはいったごはんに魚をのせたおすしを売る店があれば、そこに行列ができた。東京の代表的なさかり場であった浅草に、天丼を食べさせる店があるというので、長い行列ができ、1時間ならんでやっとありついたら、ぼそぼそしたごはんが少々ある上に、小さな魚の天ぷらがのっているものであった。
 しかし、それでも食堂が開いているうちは、まだよかった。1945年にはいると、ほとんどの食堂が店をとざした。そして、2,3時間もならんで、わずかに菜っ葉が浮んでいる醬油汁のなかに、ごはんつぶがまじっている雑炊にありつける雑炊食堂がはやった。1人1杯で20銭の雑炊食堂だった。

*Deutschドイツ語→Nagai Kafū (jap.永井 荷風, eigentlich: Nagai Sōkichi, jap.永井 壮吉; * 3. Dezember 1879 in Tokio東京都出身; † 30. April 1959 in Ichikawa) war ein japanischer Erzähler, Dramatiker, Essayist und Verfasser von Tagebüchern.

 しかし、その一方、軍人や役人の世界には、ありあまるほどぜいたくな食物があったHowever, on the other hand, in the world of soldiers and officials, there was an abundance of luxurious food.作家の永井荷風は、中国大陸の日本軍を慰問して帰ってきた女優の話を日記にしるしているWriter Kafu Nagai writes in his diary the story of an actress who returned from visiting the Japanese army in mainland China. 戦地の軍隊には、ようかん・まんじゅう・かんづめの類が、ありあまるほどありThe troops on the battlefield have a plethora of yokan (azuki(red)-bean jelly) , manju(steamed bun), and kanzume(canned goods)、まんじゅうはあんを食べて、皮をすてているというおどろくべき話をしているShe tells a surprising story about soldiers eating manju's (inside)bean paste and throwing away the skin.
 さらに、戦時ちゅう、会社の重役であった森輝はFurthermore, Mori Teru, who was a company executive during the war、1944年ごろ、用があってでかけた千葉県の松戸で、土地のボスから、いきなり酒5,6本とビール半ダースをだされておどろいたというaround 1944, when he went out for business in Matsudo, Chiba Prefecture, he was surprised when the local boss suddenly offered him five or six bottles of sake and half a dozen beers.
 これらは、けっしてめずらしい話ではないThese are not uncommon stories.だから、当時、ちまたでは、ひそかに狂歌がささやかれていたTherefore, in those days, Kyoka(comic tanka poem) was secretly whispered in the streets.
「世の中は星と碇に闇に顔The world is a star and an anchor with a dark face、馬鹿者のみが行列にたつOnly fools stand in line
 星は陸軍The star is the army、碇は海軍Anchor is the navy、闇は配給によらず物資を売買することDarkness is buying and selling goods without relying on rationing、顔は特別な権力や地位をもつ人々の力をさしているThe face represents the power of people with special power or statusそして、それらのいずれとも関係をもたない一般の庶民は、みな「馬鹿者」として、行列にならぶほかはなかったAnd ordinary people who had no connection to any of them had no choice but to stand in line as "idiots."戦争とは、けっして、国民を平等に苦しめるものではないWar does not cause equal suffering to all people.(『日本の歴史History of Japan』)

①「あーAh-ニシンにかつお節Herring and bonito flakes、干し芋にたーまごDried sweet potatoes and eggs. それに梅干し!And pickled plums! ぃゃあー!!!Oh-!!! これバターやないのぉ!?Isn't this butter!? 非常時ゆーてもあるとこにはあるもんや!Even if we say it's an emergency, there are some places! 軍人さんばっかり贅沢してOnly military personnel are lavish」②母Mother「清太さーん!Seita-san!節っちゃーん!Secchan! おいでー!おなかすいたやろ!カルピスも冷えてるよ!Come on! You must be hungry! Calpis is also cold!」 (ひやむぎ(冷や麦)Hiyamugi=Japanese wheat noodles cooled on ice)③節子Setsuko「天ぷらにな、おつくりにな、ところ天Tempura, Otsukuri(Sashimi=sliced ​​raw fish), Tokoroten(gelidium jelly). アイスクリームIce cream.それから、またドロップなめたいThen I want to lick the drop again」 ·


①「わりゃ、わりこんだな!うしろへならべ!You cut in line! Line up behind me!」「やかましい!Shut up! おまえのためにわしがぞうすいを食えなくなったらどうするんじゃ!What will you do if I can no longer eat rice porridge because of you?」「情けないのうThat's pathetic、だいのおとながぞうすいいっぱいであのざまだThe older adults are fighting over having one bowl of rice porridge.戦争を命令しているやつらはThose who are ordering war、うまいものくってふんぞりかえっているのにleaning back while eating delicious food」②「またAgain、イモの葉っぱいちまいのぞうすいかrice porridge made only with one potato leave」「みろよLook、先生たちは米のめしをいっぱい食うとるぞthe teachers are eating a lot of rice(マンガ『はだしのゲンBarefoot Gen』)



①Dec 29, 2013 — よしりん企画で忘年会をしたWe had a year-end party by Yoshirin Kikaku. フレンチレストランの個室をとって、 最初からワインで乾杯といきたかったが、 どうしてもスタッフはビールから入るWe took a private room at a French restaurant and toast with wine from the beginning, but the staff insisted on starting with beer(「こんな歪んだ『敵』に、よしりんが一喝!Yoshirin gives a shout out to such a distorted “enemy”!」)→「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?Are you going to war? Or do you want to stop being Japanese?」

②Dec 27, 2014 —よしりん企画の忘年会は、フレンチレストランに個室をとって、シェフのお任せメニューを楽しんだFor the year-end party by Yoshirin Kikaku, we took a private room at a French restaurant and enjoyed a chef-designed menu(「我らがよしりんが吼える!Our Yoshirin roars!」)→「我々はもう気づき始めているWe are already starting to realize. 戦争は悪ではない、やらねばならぬから戦うのだとWar is not evil; we fight because we have to」




Aug 19, 2023 —2006年に小説家としてデビューし『永遠の0』を発表すると、100万部以上を売るベストセラーとなり、V6・岡田准一が主演を務めた映画も大ヒットWhen he debuted as a novelist in 2006 and published "Eien no 0", it became a bestseller selling over 1 million copies, and the movie starring V6's Junichi Okada was also a huge hit→「百田尚樹氏の著書は非常に読みやすく、且つわかりやすいので憲法改正問題の入門書としてはとても良いと思いますNaoki Hyakuta's book is very easy to read and understand, so I think it is a good introductory book on constitutional amendment issues」

















     

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