日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

プーチンの基礎知識Putin Russia『От Ельцина до ПутинаエリツィンからプーチンへFrom Yeltsin to Putin』Такаюки Наказав中澤 孝之Takayuki Nakazawa(CANADA)2017


エリツィンからプーチンへ:(中澤孝之「ユーラシア・ブックレット」・東洋書店・2000年)From Yeltsin to Putin (Eurasian Booklet)/От Ельцина до Путина (Евразийский буклет)/Von Jelzin bis Putin (Eurasisches Heft)
Looking back on the Yeltsin era, verifying its "negative heritage". After that, he approaches Putin's true face and explores the character of Putin's administration based on Putin's promises, dissertations and remarks made before the election
Оглядываясь на эпоху Ельцина, удостоверяясь в ее «негативном наследии». После этого он приближается к истинному лицу Путина и исследует характер путинской администрации на основе обещаний, бумаг и замечаний, сделанных Путиным перед выборами.
Rückblick auf die Jelzin-Ära, Überprüfung ihres "negativen Erbes". Danach nähert er sich Putins wahrem Gesicht und untersucht den Charakter von Putins Regierung anhand der Versprechungen, Papiere und Bemerkungen, die Putin vor der Wahl gemacht hat.
*中澤 孝之(なかざわ たかゆき(1935年1月 - )は、日本のジャーナリスト、ロシア・ソ連研究家。大連市生まれ。長野県南佐久郡佐久穂町に育つ。東京外国語大学ロシア語科国際関係課程卒業。時事通信社入社、本社経済部記者、シンガポール、クアラルンプール、モスクワ特派員、モスクワ支局長、外信部次長、整理部次長、外信部長、モスクワ勤務の期間は通算9年強。現在は、日本対外文化協会理事。時事総合研究所客員研究員。東京ロシア語学院理事。ロシア・東欧学会会員。ユーラシア研究所運営委員。日本記者クラブ会員など。
*Такаюки Наказав (Такаюки Наказав, 1935 января -), то Япония на журналисте , Россия , Советский Союз Исследователь. Takayuki Nakazawa (Takayuki Nakazawa, 1935 January -), the Japan of the journalist , Russia , the Soviet Union researcher.

はじめに:
血であがなわれた大統領の誕生(2000年のロシア):
ーロシア大統領選挙が2000年3月26日に実施され、その結果、プーチン大統領代行兼首相がエリツィン大統領に次ぐロシア第2代大統領に選ばれた。プーチン大統領は2004年までの4年間の任期を務めることになる。前任者エリツィンが高齢で病弱だったのに比べ、プーチンは47歳の若さと健康が強みである。大統領任期を7年まで延長する構想がプーチンの周辺にあるため、10年以上の長期政権のスタートを意味するかもしれない。選挙戦の段階で、プーチン候補は他の10人の候補を圧倒的にリードしており、事実上の「信任投票」であった。辛うじて投票数の過半数の票を獲得したプーチン候補の当選が第1回投票で決まった。最終集計によると、投票率は68・74%で、各候補の得票率は
ープーチン52・94%、ジュガーノフ(共産党委員長)29・21%、ヤヴリンスキー(「ヤブロコ」連合代表)5・80%、ジリノフスキー(自由民主党党首)2・70%となっている。
なお、プーチンの有力対抗馬と見られていたプリマコフ元首相(中道連合「祖国・全ロシア」代表)は2月4日、正式に出馬を取り下げた。プリマコフは「ロシアの社会はまだ本当の民主主義から程遠いことが分かった」ことをその理由に挙げた。プーチンは有権者に最もアピールする国営の全国テレビ(RTRとORT)を独占し、優位に選挙戦を戦った。また、テレビはじめロシアの主要マスコミが、プリマコフ批判を繰り返す一方で、プーチンの一挙手一投足を詳しく報じ、プーチン人気を煽り立てたことから、勝負は決まった。プーチンの「強い指導者」「タフで行動の人」としてのイメージは、ある意味ではマスコミによって作り出されたとも言える。ともかく、今回の大統領選挙結果の特徴は、第1に、ソ連、ロシア時代を通じて初めて、国民の投票による政権交代が実現したこと。第2に、前任者エリツィンが後継者に指名した人物が国民に支持されたという点だ。
ー新大統領就任式は5月7日クレムリンで厳粛に行われた。エリツィンはじめ千人を超える招待客の中には、予想外のことにゴルバチョフ元ソ連大統領の顔も見られた。プーチンは約10分間の短い宣誓スピーチの中で、「間違いは避けられないかもしれないが、オープンで正直に働くことを約束する」と誓い、「ロシアを自由で、繁栄した、強力で、文明的な国にしたい」と言明した。その直後、事前の予想通り、新大統領は42歳のカシヤノフ第1副首相兼蔵相を首相代行に任命、さらに10日にカシヤノフを首相候補に指名し、下院に承認を求めた。下院は17日、カシヤノフ首相を承認した。プーチン政権はエリツィンよりもさらに大統領主導型で、カシヤノフ首相の仕事は経済政策に限られるのではないかと見られている。
ー99年8月、当時の安全保障会議書記兼連邦保安局(FSB)長官だったプーチンはエリツィン大統領によって首相に指名されたとき、同時に後継者に認定された。その後、大晦日の突然のエリツィン辞任によって、プーチンは大統領代行を兼ねると同時に、憲法の規定に従って大統領選挙が3ヶ月繰り上げ実施されたのである。ともかく、わずか7ヶ月前には、政治的にほとんど無名だった人物が、疾風のように政治の表舞台に登場し、あれよあれよという間に、ロシアの最高指導者の座を射止めた。これはソ連解体後8年たっても混乱と混迷から脱しきれないロシアならではの現象と言えるだろう。
ープーチン政権はロシアをどの方向に導くのであろうか。エリツィンなきエリツィン路線を引継ぐのか、あるいは独自の路線、それもどのような独自色を打ち出せるのか、スターリン時代の再来、つまり、ネオ・スターリ二ズムの出現を予測する向きもある。隣国日本としても無関心ではおれない。有権者の多くは、無秩序と不安定な状況をいつまでも改善できないエリツィン政権に飽き飽きし、秩序と安定を保障してくれると毅然とした「強い指導者」を待ち望んでいた。90年代初め、ロシアではKGB出身者が上級公務員に就くことを禁じる法律を制定する動きがあった。チェコやドイツではこの種の法律があるが、ロシアにはない。確かなのはソ連の諜報機関委員だった人物が21世紀のロシアの舵取りを任されたということである。
ープーチンは大統領代行就任後、民主主義者および権威主義者としての2つの顔を国民に見せてきた。選挙前の発言で同氏は、言論の自由、良心の自由といった民主主義の基本的な要素を守ると約束し、「民主主義は法の独裁である」と説いた。一方、短期間のプーチン人気とかプーチン現象を支えていたのは、プーチンが首相に就任して本格的に始まった第2次チェチェン戦争であった。チェチェン独立阻止を目的とした第1次チェチェン戦争と違い、今回はテロリスト殲滅が大義名分だった。しかし、戦争は苛酷なものである。20万人以上ものチェチェン人避難民を出し、首都グロズヌイはじめチェチェンの町村は徹底的に破壊し尽くされ、廃墟と化してしまった。
ーそして、容赦のない空と陸からの猛爆の巻き添えに遇った一般市民の正確な死傷者数は、第1次戦争の場合と同じく、把握されていない。また、ロシア軍兵士の死者は、2000年3月現在、マニロフ参謀総長第1代理の公表発表では2036人だが、実際は3千人から4千人ともいわれる。その非人道的な無差別殺戮に対する国際世論の非難の大合唱にもかかわらず、プーチンはこれにほとんど耳を貸すことなく、断固としてチェチェン人テロリスト掃討作戦を遂行した。このチェチェン討伐こそが「強い指導者」の条件で、多くのロシア国民は「強い指導者」プーチン候補に投票したのである。硬軟2つの顔のうちどちらが本当の顔なのだろうか。とにかく「強い指導者」を具体化したチェチェン戦争が起きなければ、プーチン大統領の誕生はまずあり得なかったであろう。その意味で、彼は「(多数のチェチェン人とロシア軍兵士の)血であがなわれた」大統領と言うことができよう。
ーエリツィンがプーチンを選んだのは、両者が体質的に同類だったかもしれない。しかし、彼に投票した国民の期待に添う政策をとるとすれば、プーチンはエリツィンのアンチテーゼでなければなるまい。つまり、エリツィンの政治を否定しなければならないだろう。逆説的な言い方だが、もしそういうことになれば、エリツィンの先見性に敬意をあらわさなければならないだろう。国民の期待に安定をもたらすとの信念に基づいている。だが、「強い国家」とは何か。かつてのソ連のような中央集権国家か。マスコミを政府がコントロールする国家なのか。大統領の強権を基礎とする国家なのか。果たして、「強い国家」は民主主義と両立するのであろうか。ーロシア社会には強い「権力」が必要だとの俗論がある。
ー体制の安定と秩序のためには、権威主義的な手法を容認すべきだという議論さえある。ゴルバチョフ元ソ連大統領は5月15日の記者会見で、プーチンが採る最も可能性の高いオプションは「穏健な権威主義」だと述べた。しかし、強い手段や権威主義が非民主的な独裁体制に発展しないという保証はない。権威主義が独裁体制に向わないように国際的な枠組みの中で阻止することが望ましいという意見も聞かれるが、現在もいくつかの国に独裁体制が見られるように、実際は言うは易く、外部からの介入や干渉は至難だ。プーチンの場合、表面的にいかに洗練されたように見えても、16年KGBキャリアがあるだけに、その権威主義傾向が民主主義の限界を超え易い(既に超えたとの指摘もある)ことをわれわれは念頭に置くべきであろう。
ーモスクワではやっているアネクドート(1口語)を2つ紹介したい。
1、「ゴルバチョフとエリツィンは善行をしようと欲したが、そのやり方を知らなかった。プーチンは方法を知っているが、彼が何を欲しているのか誰にも分からない」
2、「プーチンは朝鮮を自分の目指す体制モデルと決めたが、それが北朝鮮なのか韓国なのかは、明らかでない」。
本書では、まずエリツィン時代を振り返り、その「負の遺産」を検証する。その後、プーチンなる人物の素顔に迫り、選挙前にプーチンが明らかにした公約、論文や発言を踏まえて、プーチン政権の性格を探ってみたい。「プーチノロノジー」(プーチン研究)に役立てることができれば幸いである。

1、エリツィン時代とは何であったか:
クーデターでクレムリン入りしたエリツィン 
ーロシア大統領ボリス・二コラエヴィッチ・エリツィンは1999年の大晦日に突然、テレビで辞任を表明した。エリツィンは91年7月、選挙によって当時のソ連ロシア共和国大統領に就任した。それ以来、ソ連解体を経て約9年間もロシア大統領に君臨した。ソ連最後の政権だったゴルバチョフ政権の寿命は6年9ヶ月であったから、エリツィンの政権担当期間は政敵ゴルバチョフの在任期間を2年以上も上回った。エリツィン政権の特徴を見る前に、はっきりさせておきたいことがある。それは、ゴルバチョフ革命、つまりペレストロイカ(再編)がなければ、エリツィン政権の誕生はあり得なかったであろうということだ。
-1985年3月に発足したゴルバチョフ政権が、その翌月、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)州ソ連共産党第一書記エリツィンを中央に招いたことが、それ以後のエリツィンの運命を決めた。エリツィンはペレストロイカの波に巧みに乗った。そして「改革派」の担ぐ神輿に乗って、ポピュリスト(大衆迎合政治家)の本領を発揮していく。彼の権力志向は止まることを知らず、ソ連最高指導者ゴルバチョフと真っ向から対立する。91年8月の保守派による反ゴルバチョフ・クーデター未遂事件を境に、エリツィンは一気に力をつけた。ついには、ゴルバチョフを含むソ連国民に隠れて、同年12月ソ連解体を密かに決め、ソ連大統領のポストをなくすことによって、ゴルバチョフを追い落とすことに成功したエリツィンは念願のクレムリンの主に収まったのである。
ーこの交代はまさに、慎重に計画が練られた反ゴルバチョフ宮廷クーデターによるものだった。この間の事情は拙書『ベロヴェーシの森の陰謀』(99年4月発行・潮出版社)に詳しく書いたので、同書を参照されたい。エリツィンは辞任演説の中で、「文明的で自発的な権力の移譲という最も重要な前例を私たちは作ろうとしている。1人のロシア大統領から、(選挙で)選ばれた別の大統領に権力を移すという前例を、である」と強調した。逆に言えば、これまでのソ連・ロシアの歴史で、そうした前例は皆無であったということ、つまり、ゴルバチョフからエリツィンへの「クレムリンの主」の交代において、自らも不法かつ非文明的な無血クーデターによってクレムリン入りを果たしたことを認めたに等しい。
エリツィンは改革派だったのか:
ーエリツィン政権は当初から、いわゆる「改革」を政策の中心に捉えた。日本も含めて、西側諸国の首脳や一部の専門家たち、それに大方のマスコミは、エリツィン政権はロシアの民主化を進め、改革を断行していると見なした。しかしそれは全くの錯覚であったことを強調したい。言葉での宣伝と実態がこれほど掛け離れた例は少ないのではないか。エリツィンの民主化は、ゴルバチョフのペレストロイカの水準を超えるものではなく、改革は少しも国民の生活を向上させるものではなかった。逆に生活水準は年々低下した。ロシアでは事実上「資本主義化」(エリツィンは市場経済化と呼び、決して資本主義化とは言わなかった)は進んだが、その「民主化」やグラスノスチ(情報公開)の程度は、後述するように、ゴルバチョフ時代の水準を超えず、エリツィンが抱える病気(主に心臓病)の進行に伴い、国民との対話欠如など、一部ではむしろ後退した感が強い。
ーまた、超法規的な大統領令の乱発も非民主主義的な現象と言える。しかも、時には相矛盾する大統領令まであった。エリツィン命令は、上意下達の、さながらソ連時代の共産党指令のような役割を果たした。さらに、側近政治もエリツィン時代の非民主的特徴だ。大統領府の権限が強まり、エリツィンの次女タチアナ・ジアチェンコやユマシェフ(エリツィンのゴーストライター)、それにペレゾフスキー、アプラモヴィッチといった「エリツィンの金庫番」らセミヤー(一家)である。タチアナ・ジアチェンコは大統領顧問(イメージ担当)という公職についた。エリツィンのそばにいる彼女を通さないと、何事もエリツィンの耳に入らないといわれたほどだ。
ーかつてゴルバチョフのライサ夫人の政治的活動を批判したエリツィンその人が、今度は娘を加えた側近政治を好んだのである。タチアナといえば、『独立新聞』編集長ヴィタリー・トレチャコフ氏は、2000年の大統領を彼女に継がせる計画が一時あったことを暴露するとともに、もし息子がいたら、エリツィンは引退後すぐに彼をクレムリンに入れるため全力を傾けたに違いないと推理した。
エリツィン・ファミリーと側近政治:
ー側近政治はクレムリンゲートなる1大汚職を生んだ。セミヤーの1人、大統領府総務局長のボロジンがクレムリン補修工事をスイスの小さな建設会社マベテクスに委託し、多額のキックバック(リベート)を受け取った疑惑である。エリツィンとエリツィンの長女エレーナ・オクロワ(夫はアエロフロート社長)、次女タチアナは外国旅行中にアメックスカードやユーロカードで万ドルの買い物をしたが、マベテクスが肩代わりして代金を支払ったとされる。スクラトフの解任を試みた(上院が3回も解任を否決したため、スクラトフは3月、停職中のまま大統領選に出馬した)。最高権力者の汚職、クレムリンゲートそのものは結局、もみ消しの強い圧力がかかって、うやむやのうちに幕を閉じる気配である。
ーエリツィン自身、冗談とはいえ、ボリス1世と自称し、人々にもそう呼ばせようとした。その権威主義的体質はゴルバチョフ以前のソ連時代と何ら変らなかったことを多くの人は見抜けなかった。先見性のない西側の政治家たちや一部専門家、マスコミ関係者は、エリツィンを「ロシア民主化の旗手」とか「改革者」とおだてあげた。「欧米で主流的な民主主義観では、その基礎に政治的なリベラリズムの考えがおかれるが、エリツィンはこれとはおよそ縁遠い人物である。・・・彼を「民主派」と呼ぶのは、彼の振りまいたデマゴギーに幻惑された幻想の産物だが、そうしたデマゴギーをも巧妙に利用して、権力闘争を勝ち抜いたそのしたたかさは、マキャベリスティックな権力政治家としてのエリツィンの強さを示している」(塩川伸明東大教授)との見方は正鵠を射ている。
ーソ連解体前、エリツィンが「重荷(他の共和国)を切り離せば、独立ロシアの経済は急成長し、先進国の仲間入りができる」と国民に希望を抱かせ、もし経済が上向かなければ、鉄道のレールに横たわる、と大見得を切ったのは有名な話だ。確かに、先進7カ国の仲間に加わり、G8(主要8カ国)の一員になったものの、経済は一貫して右肩下がりで推移し、実態は国際通貨基金(IMF)や世界銀行の融資に依存する開発途上国である。
再生されなかったロシア:
ー著名な政治評論家でもある「独立新聞」編集長ヴィタリー・トレチャコフ氏(2001年6月辞職)は「スヴェルドロフスクの成上がり者」と題する長大な論文(1月6日付け同紙)の中で、「ゴルバチョフは体制の枠を超えることができた。エリツィンはゴルバチョフ改革の道をたどったが、ショック療法のようなラジカルな改革は何も新しいものをもたらさなかった。彼はゴルバチョフの開けた扉から入り込んだだけだ」と説いた。リリヤ・シェフツァワ女史(モスクワ・カーネギー研究所上級研究員)も「エリツィン氏は言論の自由、市民の自由を一度も制限することはなかったが、それもゴルバチョフ氏から引継いだものの維持に過ぎなかった」と述べている。これは全く正しい。
ー言論の自由、民主化や市場経済化などをエリツィンの功績に挙げる向きが少なくないが、それらはすべてゴルバチョフが政治生命を賭けて端緒を開いたものであることをここで確認しておきたい。また、ゴルバチョフ政権末期、「エリツィンの改革」に何らかの意義を見いだそうとする試みが散見された。しかし、それは無駄な試みだったと言っても言い過ぎではない。ゴルバチョフと違い、指導者としての彼にはいかなるイデオロギーもなく、あるのはただ権力欲(あるいはオブラートに包んだ、あるときは剥き出しの)だけであったことを見抜けなかったからだ。善し悪しは別にしても、全体主義からの体制転換のイデオロギーというべき「ゴルバチョ二ズム」は欧米でも数多く指摘された。しかし、エリツィン独自のイデオロギーや政治理念を示した「エリツィン語録」は皆無に等しい。このことを、エリツィン時代を回顧するにあたり、特に強調しておきたい。
5つのエリツィン弾劾要件:
ー99年5月15日、ロシア下院で大統領エリツィンを弾劾しようという案件が採決に付された。結果的には、弾劾審議に必要な3分の2以上の賛成票が得られず、否決された。しかし、弾劾対象とされた要件5項目はまさにいずれも、エリツィン政権の本質をつく事項であり、最高指導者としての「エリツィンの罪状」である。1億4600万の国民こそ最大の犠牲者といえる。5項目はいずれもエリツィン時代を特徴づける性格をもつ、そこで1つ1つを簡単に検討してみたい。その5項目は(1)ソ連解体(2)ホワイトハウス(議会建物)襲撃事件(3)チェチェン戦争開始(4)国防力の崩壊(5)国民のジュノサイドであった。
(1)、91年12月7,8日のベロヴェーシの森での陰謀、すなわち、当時のエリツィン・ロシア大統領、クラフチュク・ウクライナ大統領、シュシケヴィッチ・ベラルーシ最高会議議長のスラブ3首脳によるソ連解体の決定である。詳細は前記の拙著を読んでいただくとして、彼ら3人は、極秘裏に大国を消滅させてしまった。より正確には、ソ連消滅を既成事実化し、独立国家共同体(CIS)創設構想を打ち出した。その善し悪しはともかく、ソ連憲法に基づかず、しかも大統領ゴルバチョフや国民を蚊帳の外に置いたまま、自国を解体した彼らの行為は明確な憲法違反であり、責任は問われなければならないだろう。もし違憲でなければ、堂々とベロヴェーシ会談の内容を明らかにすべきであるが、エリツィンはじめ関係者は肝心なことに口をつむり、いまだに数多くの謎に包まれているのだ。
ートレチャコフ編集長は前記論文の中で、「(ベロヴェーシ会談は)すべて秘密の闇に、より正確には、ウソの闇に包まれている」と決め付けている。正論である。強調されねばならないのは、そこで決まったソ連解体が「エリツィンのロシア」の出発点であり、したがって、エリツィン政権は始めから違憲性、違法性を土台としたものであったということである。トップが憲法に違反した国で、法律が守られるはずがない。ここにエリツィン政権の特質の1つを指摘することが出来る。
(2)、93年10月の武力による議会解散事件で、多数の死傷者が出た。これまた違憲行為であった。その年の12月に、大統領権限を強化した「エリツィン憲法」が制定され、エリツィンの強権政治に拍車がかかることになる。エリツィンは政治的な話し合いを放棄して、平時にもかかわらず、戦車の出動を命じ、砲弾を議会に向けて発射させた。エリツィンの武力依存の体質を如実に示した事件であった。このような事件がロシア以外の国で起きたら、最高責任者はどのように身を処するだろうか。エリツィンはその後、6年以上も権力の座に君臨した。
(3)、チェチェン独立阻止を大儀名分にして94年12月から開始された第1次チェチェン戦争による、多数のロシア国民殺傷事件だ。96年8月9日、大統領に再選されたエリツィンの就任式典当日、ロシア、チェチェン双方の停戦合意が成立した。8月31日、レベジ安全保障会議書記とマスハドス参謀総長がハサブユルト合意文書に調印。翌97年5月12日にはクレムリンでエリツィンとマスハドフ(同年1月27日チェチェン大統領に当選)との間で、「縣案採決に当って武力行使や威嚇を永久に追放する」と確約した平和条約が調印された。96年10月、下院報告の中でレベジは、ロシア軍の死者3826人、行方不明者1906人、負傷者1万892人と発表した。殺戮の対象となったチェチェン人もロシア国民であることに変わりはない。
ーレベジ報告によると、一般住民の死者は8万人ー10万人という。その正確な数字はエリツィンすら把握していない。これほどの大量の死者を出した最高指導者エリツィンの責任は重い。99年8月から開始された第2次チェチェン戦争は「チェチェン・テロリスト殲滅」を大義名分とした。
チェチェン・テロリストに武器横流し:
(4)、ロシア軍の腐敗・弱体化をもたらしたエリツィンの政策に対する責任を問うものである。かつては米国と張り合ったソ連軍を引継いだロシア軍だが、「軍改革」の名のもとに、兵力は削減され、装備は質的に低下した。軍事予算削減のあおりを受けて、将兵への給与未払い、電力会社への料金支払い滞納などが問題となった。軍人は大国の守護者としての誇りを失ったうえに、みじめな生活を強いられ、軍人の不満は募る一方だ。生活費を稼ぐための武器の密輸など軍人の犯罪が頻繁に話題となった。4月21日の独立テレビ(NTV)によると、過去数年間、チェチェンの武装勢力に武器を横流ししていたロシア軍将兵グループが北カフカス・クラスノダール地方で逮捕されたという。
ー筆者は98年12月訪露した際に、軍機関紙「赤い星」のエフェーモフ編集長、クザリ外部部長らと会見したが、ロシア経済が不振なので、軍の財政状況も苦しいと述べ、同編集長は個人的な見解だがと断りながら、「1917年の国営化と同じやり方で、90年代初めに民営化が行われたため、今日の悲しむべき危機がもたらされた」とエリツィンの経済政策を批判した。さらに「98年の国防予算800億ルーブルのうち実際に受け取ったのは660億ルーブルだった。国防費の30%が兵士の給与で、しかも12ヶ月も遅配だ。戦闘訓練や新兵器開発の資金が不足している。ルーブル価値の急落もあって、今の状況では兵力の半分しか維持できない。徴兵される新兵の質が低下している。病的なロシア社会を反映し精神的、肉体的な欠陥者、犯罪者、麻薬常習者が若者に多いからだ。社会は精神的危機に瀕しており、道徳面で全国民を導くイデオロギーがない。今のロシアは戦争直後のドイツや日本と似ている」と編集長は嘆いた。こうした状況は、エリツィン辞任の99年末までほとんど変っていない。
(5)、エリツィンが進めた「経済改革」のせいで、大多数の国民が疲弊し、死亡率が上昇、平均寿命も低下し、市民生活の状態が悪化したことによって人口が著減した責任を問おうというものである。99年現在の平均寿命は男性57歳、女性69歳となった。98年12月22日付け『ソビエツカヤ・ロシア』紙はこの項目の解説の中で、過去5年間で人口が800万人減少したと報じた。こうした事実がジュノサイド、つまり、虐殺と見なされた。2月21日発表の国家統計委員会資料によれば、2000年1月1日現在のロシア人口は1億4550万で、1年間に0・5%(約78万人)減少した。この減少率はソ連解体後最大。また過去8年間の減少率は約2%(280万人)だった。
ーこれらの5項目はすべて否決されたが、そのうち(3)のチェチェン戦争に関しては64・5%もの賛成票が集まり、弾劾審議開始賛成を決める300票にわずか17票足りなかった。ジリノフスキー率いる極右政党の自由民主党議員49人のうち47人が棄権したことで、エリツィンは救われたのであった。採決直後の世論調査によれば、回答者の7割以上が各項目についてエリツィンに責任があると答えている。エリツィンは辛うじて弾劾を逃れたが、取り上げられた「罪状」に対する道徳的責任からは免れることはできまい。
エリツィン時代の特徴:
ーエリツィン時代を特徴づける現象としては、このほかに、貧富の格差による国民の階層分化、つまり、ひと握りの桁外れの大金持ちとその他多数の貧困者の出現がある。99年末現在、金持ち層は国民の4・3%、最貧層は29・9%、月額平均賃金は1830ルーブル(7000円強)、同平均年金は612ルーブル(2400円弱)である(『論拠と事実』3月29日号)。前記のシェフツォワ女史は、ホワイトハウス砲撃事件、チェチェン戦争に加えて、「96年の病身の大統領とそれに続く政治といったことはすべて、自らが生き残り、権力を保持することと、さまざまな譲歩による外見上の安定を保つことが目的だった」とし、「エリツィン氏は新興財閥や知事などの地方のボスに権力を切り売りすることで、権力維持を図った」と分析した。
ーこの新興財閥とは、社会の資本化のプロセスで、経済混乱に乗じて財を成したオリガーキとか政商と呼ばれる金融寡占資本家とそのグループ(全体で7つか8つに過ぎない)で、その出現もエリツィン時代の特徴の1つだ。代表的なのが、バレゾフスキーである。彼は、中古車輸入を手始めに荒稼ぎをして巨額の富を手中に収め、当代随一の新興財閥にのし上がった。彼自身、99年12月の下院選挙に出馬して当選したが、それ以前にも政治的な発言を繰り返し、ロシア政治に関与していた。プーチン与党「統一」立ち上げの背後に彼の存在があるという。彼は公共テレビORT,コメルサント紙、独立新聞など主要マスコミを支配している。
ーこうした成金は、主に国の資産の民営化政策の恩恵にあずかって、不備な法律の網をくぐって、資産を増やした連中である。彼らは国内産業に投資するのではなく、税金逃れのために資産を国外の銀行に逃避させた。いわゆるキャピタル・フライトである。1989年の資本逃避額は250億ドルと推計された。99年になってやや減少したが、それでも、プーチンによれば、月に15億ドルつまり年間、180億ドルの資産が国外に逃避した。しかも、不法に稼いだ金を非合法的に外国銀行の口座に送金するマネーロンダリング(資産洗浄)が日常化している。また、国内総生産(GDP)の45%を税金逃れの闇経済(アングラ・エコノミー)が占めているとの指摘もあり、そこで稼いだ金のほとんどが、国外に逃避して行くのだ。
ーマフィアの跋扈もエリツィン時代の特徴で、国内では5400ルーブル約10万人(多くは元軍人や諜報機関出身者)が銀行、株式取引、情報産業、警備会社、兵器産業など主要産業約4万社を傘下においているといわれる。エリツィン政権黙認のもとで、ロシア国全体がマフィアの温床と化してしまった。こうした現象から、ロシアの資本主義はギャング(マフィア)資本主義とか略奪資本主義と呼ばれる。
20世紀のスムータ(動乱時代):
ー次に、エリツィン政権、エリツィン個人に関する識者の評価を紹介しよう。大統領選挙候補の1人だったトウレーエフ・ケメロヴォ州知事は「エリツィンとは個人のみならず、システムをも意味するので、エリツィン時代は、幸いなことに、終わったようだが、エリツィンとは個人のみならず、システムをも意味するので、エリツィン体制が残っている限り、その終焉について口にすることはできない」と語った。「エリツィンを国の破壊者と呼びたい」と言うのは劇作家ヴィクトル・ロゾフ氏である。人権活動家セルゲイ・コワリョフ氏はエリツィン時代を「偉大な期待とその挫折の時代」と定義し、その挫折にはエリツィンの責任が極めて大きいと強調、エリツィンが「市民社会の創設」に成功しなかったことを指摘した。
ーまた、前記シェフツォワ女史は『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙(1月6日付)とのインタビューで「1国の指導者たる者は辞任の時期だけでなく、社会に何を残すかを考えねばならない」と述べたうえで、エリツィンが残したのは「慢性的な危機と無数の政権の過ち」であったとし、プーチン人気には、逆説的だが、エリツィンの反面教師としての社会の期待があると分析した。さらに次のように述べた。「エリツィン氏は、最後はシェークスピアのリア王のようだった。民主主義の波に乗り、巨大な期待の中で政治を始めたが、社会を失望に陥れ、取引や闇関係で生き残り、過去へ逆戻りすることで、皆が一致団結する社会へと導いた。そして、経歴も政治的信条も不明な仮面をかぶった疑わしい人物を後継者にした。エリツィン氏は古いロシア帝国を壊したが、どこへ行くのか分からない方向へロシアを導いた。ある意味では原始的な生き残りだけを指し示したと言える」(毎日新聞2月2日)。
ーコンドラショフ『イズべスチア』紙政治評議員は新時代誌(1月23日号)寄稿記事の中で、19世紀の有名な詩人チュッチェフが故ニコライ1世に捧げた追悼詩を引用して、「君はツァーリ(皇帝)ではなく、リツェジェイだった」と書いた。リツジェイとは役者あるいは偽善者という意味だ。コンドラショフ評論員はまた99年の統計から、5900人、つまり国民の3分の1人に最低水準以下の生活を強いられ、平均実質所得がさらに15%減り、出生率が3分の1低下し、死亡率が4分の1増加したロシアの窮状を紹介した。同評議員は「私の考えでは、半世紀の間エリツィン時代はスムータの時代、国家(資産)の私有化、社会の無気力、舵も帆もない航海としてロシア人の意識の中で定着するだろう」と述べた。
ースムータ(あるいはスムートノエ・ヴレーミャ)とは17世紀初めにロマノフ朝が発足するまでの10数年の大動乱時代を指す。エリツィンの時代は「20世紀のスムータ」であった。ゲオルギー・サタロフ氏(民主主義のための情報基金総裁)は、エリツィンは「移行期に合った指導者だった」と次のように述べているが、元大統領補佐官らしいエリツィン評と言える。「エリツィン氏は自然発生的、直感的に改革者であった。直感的というのは、将来への明確なモデルを持っていたわけではなく、また、民主主義の理論家でもなかったという意味だ。改革への衝動は、ゴルバチョフ氏との対立や共産主義への個人的な憎悪など個人的歴史に説明されるかもしれない。・・・エリツィン氏は改革を行うという強い使命感を持った人物だった。権力の維持よりも、その使命の遂行の方が重要で、そのことは辞任の仕方に現れている」
ー「エリツィンは1度も、何らかの政治的、社会的なドクトリンの熱狂的な信奉者になったことはなく、この点に、エリツィンが長い間、最高権力者であり続けることのできた秘密の1つがある。エリツィンは時には、バリバリの共産主義者、共産主義的民主主義者かと思うと、ある時は、社会民主主義者、自由主義者であったり、さらには左派の急進主義者、特権との飽くなき戦闘者になったり、そして時には愛国主義者として振舞った。・・・言うまでもなく、エリツィンの最も優先すべき価値はイデオロギーではなく、権力であり、これが原因であらゆる方面から厳しい批判を浴びた。・・・エリツィンが1991年に権力を引継いだ時の国内状況は衰退の方向にあったが、その時の状況より今日の方がもっと悪くなっており、エリツィンは深刻化した状況を後継者に引き渡すことになった。
ー・・・ともあれ、エリツィンを20世紀の偉大な革命家のリストに入れることはできない。エリツィンは旧制度とドグマを破壊したけれども、何らかの新しいイデオロギーを作り上げることはしなかった。疑いようもなく、エリツィンは独裁者でも暴君でもなかった」(歴史学者ロイ・メドヴェージェフ「世界」3月号)「ロシアでは古くから「非リベラルな方法での西欧化」が試み続けられてきた歴史があるが、その代表は18世紀初頭のピョートル大帝であり、またスターリンのもとでの工業化・都市化についても同様の性格を指摘することが出来る。してみると、エリツィンは「非リベラルな方法での西欧化」という点で、ピョートル、スターリンの事業を引継ぐ、彼らの後継者という風に見ることも出来る」(塩川東大教授・読売新聞4月3日)。
ー1月半ば発表の世論調査によれば、エリツィン政権時代はソ連時代より悪くなったと答えた回答者が67%に上り、よくなったと答えた者はわずかに15%だった。悪くなった理由としては、36%が失業の増加、34%がチェチェン戦争、同34%が生活水準の低下を挙げた。ロシア国民の3分の2がエリツィン政治に否定的な評価を下したわけである。エリツィン支持率が辞任直前には、わずか2・3%という低さであったのも当然であろう。また、回答者の59%が「もっと早く辞任すべきだった」、45%が「エリツィン辞任後でも状況は変らない」と答えている。ロシア国民の大半は辞任を「エリツィンの新年の贈物」(政治評論家二コライ・ポポフ氏)と受け止めたようである。
エリツィンの「負の遺産」引継いだプーチン:
なぜ半年繰り上げて辞任したのか:
ーエリツィンは辞任演説の中で、「私は許しを請いたい。私たちの多くの夢が実現せず、ただ単につらく苦しかったことが明らかになった点についてだ。灰色で停滞した全体主義の時代から一足飛びに、輝かしく豊かな文明的な未来に飛び移ることができると信じた人々の希望を実現できなかったことを詫びたい。私自身も、そう信じていた。しかし、一気にうまくいかなかった。私はあまりにもナイーブ(無邪気)で、問題はあまりにも複雑だった。私たちは過ちや失敗を通じて、何とか前へ進んだ。多くの人々がこの困難な時代にショックを味わった」と述べた。
ーこのくだりで、エリツィンが左手で涙を拭うシーンがあった。自らの失敗を国民に詫びた初めてのロシア指導者として話題を提供したが、エリツィンは、他の共和国という重荷を外せば(ソ連を解体すれば)ロシア経済は急速に上向くと主張し、もしそうならなかったら「レールに横たわる」と公約したことを忘れたようだ。いずれにせよ、日頃エリツィンに対して冷たい国民もこの種のパフォーマンスには弱く、事実この辞任演説後の世論調査では、エリツィンの人気度が一時急上昇した。エリツィンは権力亡者だと言われ続けて来た。既に政治の舞台から姿を消したエリツィンの元側近たちは異口同音に、権力こそがエリツィンにとってすべてであると述べ、エリツィン自身も拙訳回想録「エリツィンの手記」(同朋舎出版)の中で、自分の権力志向の強さを自認している。
ーしたがって、一般的には、任期ギリギリまでエリツィンは大統領のポストを手放さないだろうと予測された。そのエリツィンが任期を半年残して辞任したのはなぜか。
1、99年8月初めプーチンを首相に任命し、しかも自らの後継者であると公表した時点で、早期辞任のタイミングを図っていたようだ。同年の早い時期に、当時のプリマコフ首相がエリツィン周辺の汚職解明に着手したことが、エリツィンとそのファミリーの危機感を抱き、信頼できる後継者選びが急がれた。
2、プーチンが是が非でも大統領に選出される環境作りの計画が練られた。その筋書きはチェチェン戦争の開始とプリマコフの追い落としである。
-1994年12月ー96年6月の第1次チェチェン戦争に次ぐ、第2次チェチェン戦争に関しては、一章を設けて論ずるべきであるが、スペースの都合上、詳細は省く。ここではただ、チェチェン戦争のきっかけとなったのは、8月のチェチェン武装勢力のダゲスタン侵攻と9月の相次ぐ爆弾テロ事件だったと指摘しておきたい。特に、モスクワなど3ヶ所で起きた爆弾テロ事件は、約300人もの死者を出したため、テレビの映像で悲惨な情景を見て激高した国民に「チェチェン憎し」の心情を植え付けた。ところが、真犯人は捕まらないどころか、連邦保安局当局が特定した犯人グループはチェチェンで訓練を受けたものの、その中にはチェチェン人は1人もいないとFSB自ら公表した。チェチェン側は爆弾テロへの関与を一貫して否定している。リャザンでの爆弾テロ未遂事件(9月23日)に対する当局の奇妙な対応を根拠にしたロシア治安当局の陰謀説が根強い。いずれにせよ、
ーこれらの事件をきっかけに、エリツィン政権(プーチン内閣)はマスコミを動員して「チェチェン・テロリストの殲滅」を戦争の大義名分としたのである。なお、アンドレイ・ピオントコフスキー戦略研究センター所長が、「ダゲスタン事件は明白に、新たなチェチェン戦争の開始を合法化するために、最高指導部(大統領と首相)の承認を得てロシアの秘密諜報機関が仕組んだもの」とするトレチャコフ論文(99年10月12日付「独立新聞」)を踏まえて、爆弾テロ事件も同じシナリオであったに違いないと断じていることを紹介しておく(「ロシア・ジャーナル」4月3日ー9日号)。また、プリマコフ追い落としの目的のために、クレムリンは下院選挙を控えた99年秋に、にわか作りの政治連合「統一」の立ち上げを主導し、これを全力で支持するとともに、プリマコフ・ルシコフ中道左派連合「祖国・全ロシア」へのネガティブ・キャンペーンを徹底的に行った。
ー結局、下院選ではプーチン与党「統一」が善戦して72議席(うち比例区64議席)を獲得、共産党(113議席)に次いで2位に食い込んだ。左派勢力の優勢な議会との対立を繰り返したエリツィン時代にはできなかった議会内与党多数派形成(議員の翼賛化)に道を開いたことで、プーチンへの政権移譲の条件が整ったのである。事実、1月18日、下院議員選出で、「統一」(会派代表はボリス・グリズロフ)と共産党が早速、歩調を合わせたため、セレズニョフ(共産党議員)の再選が決まった。プーチンの議会対策はまず成功したのである。
プーチン「大統領」実現のためのシナリオ:
ー第3に、チェチェン戦争の行方が明確でなく、当初予定の6月まで大統領選挙の実施を待てなくなったことである。プーチン人気がうなぎ登りに高まったのは、チェチェン憎しという作られた雰囲気の中で、人道・人権上国際的な厳しい非難を浴びながらも、プーチンが断固としてチェチェン戦争を遂行していることが大きな理由だ。ロシア軍に被害が出たり、その他の原因で厭戦気分や、戦争反対の声が高ままると、プーチン人気が急速に下落する可能性が大きい。そうならないうちに、大統領選挙を繰り上げて実施することが、プーチン当選につながるというわけだ。つまり、99年夏から年末までの内政の動きは、チェチェン戦争も含めて、すべて、プーチン大統領実現のためのシナリオであった。
ーエリツィンがプーチンに辞任の意思を伝えたのは、9日朝の12月22日だったといわれる。「ロシアをよろしく頼む」とエリツィンはプーチンに言ったそうだ。それを聞いた時の心境を聞かれたプーチンは1月4日、ロシア公共テレビ(ORT)のインタビューで、「次期大統領選での前大統領の希望と絡んでおり、私に有利な条件を与えてくれたのだと思う」と語った。
プーチンの初仕事はエリツィンへの免責特権付与:
ータイミングよく辞任してくれたエリツィンにプーチンは報いようとした。エリツィン辞任発表の数時間後、大統領代行となったプーチンは電光石火のごとく大統領令第1762号を発令した。これはエリツィンとその家族に対する法的、社会保障を規定している。具体的には、大統領給与の75%の生涯年金、身辺護衛、特別医療施設、政府別荘、政府通信サービスや政府公用車の利用などのほかに、あらゆる免責特権(法廷に召喚されたり、逮捕されたり、身辺捜索されたりしない特権を含む)がエリツィンに与えられることになっている。前大統領の年金は月額12250ルーブル(約4万1千円)で、年金生活者3500人の平均年金612ルーブルの約18倍だ。スクラトフ検事総長(クレムリンゲート捜査に乗り出したため職務停止中)は、この大統領令は「完全な違憲であり、違法である。最大の問題は、この特権や免責事項がエリツィン一家にまで適用されることだ」と言明した。
ー汚職疑惑に包まれたエリツィンとその一家にプーチンが早々と免責特権を与えたことについて、前記コンドラショフ評論員は「ソ連の党ノメンクラトウーラ(特権階級)の最高特権ー思えば、わずか10年前に、それとの闘いでエリツィンは全国民の寵児となったーをはるかに上回るものだ」と指摘した。辞任直後のエリツィンとその一家は1月早々、総勢130人の代表団を引き連れて大統領専用機でエルサレムを訪問し、同地のヒルトン・ホテルの150室を借り切ったという。早速、特権を行使したのであった。一行には、イワノフ外相、ヴォロジン大統領府長官のほか、ボリス・べレゾフスキー、ロマン・アブラモヴィッチら政商も含まれた。それにしても、かつて「そんな特権が一体何で必要なのかね」と、自らが蹴落としたゴルバチョフをあざけったエリツィン自身が今、超法規的特権に包まれることになったとは、皮肉なものである。
ー要するに、エリツィンとその一家はこのような特権を与えてくれる後継者を探し当てることに成功したわけだ。ロシアにとって90年代は「失われた10年」といわれる。ソ連解体の後、再生ロシアの誕生でエリツィン政権は「改革」政策を展開したものの、混乱と無秩序が国全体を覆った。「偉大な大統領」として歴史に名前を残したいというエリツィンの強い願望にもかかわらずー。要するに、エリツィンの行き当たりばったりで気まぐれな政策によって、ロシアは混迷と不安定の極に達した。多くの国民は日常、意識するとしないとにかかわりなく、生命の危険にさらされて生活することを余儀なくされた。政府高官はもちろん、会社経営者、銀行家や成金は屈強なボディーガードなしに町を自由に歩けないし、一般庶民は生活と健康の不安に絶えずおびえて暮した。
ー強大な大統領権限を規定したエリツィン憲法、国民の貧困化、拡大する一方の貧富の格差による社会階層分化、ギャング(泥棒)資本主義、闇経済の発展、オリガーキ(寡占資本家)の政治への関与、汚職・腐敗の野放し、マフィアの跋扈、そして病弱な大統領の行動の予測不可能性ーなどはエリツィン時代の特色として歴史に残るだろう。それらのほとんどは、エリツィンの残した巨大な「負の遺産」であり、このエリツィンの「負の遺産」を引継いだプーチンにとっては、早急に秩序を回復し、それらを1つ1つ克服し、国を安定の軌道に乗せることが重要な使命となった。
プーチンとは何ものか:
熊から狐に権限委譲:
ー1999年8月9日、ウラジミール・ウラジーミロヴィッチ・プーチン(当時・安全保障会議書記兼連邦保安局長官)はステバシンに代って首相に任命された(同月16日に下院が首相承認)。同時に、エリツィン大統領はプーチンを自らの後継者に指名した。ステバシン内閣はわずか3ヶ月の短命内閣であった。後任に指名されたプーチンの知名度は極めて低かった。首相任命直後の世論調査によるプーチン支持率はわずかに2%だった。「プーチンとは何者か」という疑問がロシア内外で飛び交った。どの人名簿にもプーチンの名前がなかった。英誌「エコノミスト」は「ザ・グレート・アンノウン」、米誌「ニューズウィーク」は「謎の男は皇帝か改革者か」との見出しをつけた。ロシアのマスコミに現れた彼のニックネームは「灰色の枢機卿」「理性的なターミネーター」「ラスプーチン」などである。
ーラスプーチンとは帝政ロシア最後の皇帝二コライ2世一家に親しかった怪僧ラスプーチンにちなんで名付けられた。得たいの知れない怪しげな人物の意味だ。「文字新聞」によれば、もともとはラスプーチンという名字だったが、プーチンの祖父が1927年に、それではイメージが悪いということで「プーチン」に改名したのだという(時事通信3月3日モスクワ特派員電)。エリツィンとプーチンの表情を動物にたとえたロシアのある新聞記事の見出しは「熊から狐に権限委譲」となっていた。確かに、プーチンの表情は何となく狐に近い感じがする。その目の鋭さから、まさにスパイ経験者の目付きだと評するロシア人もいた。大統領選挙を控えて、「プーチ二ズム」「プーチノミックス」とか「「プーチノマニア」といった新語が流行した。
ーまた、南米チリの独裁者として知られたピノチェトのような指導者になることを予測してか、早くも「ロシアのピノチェト」と呼称される。謎めいた人物ということで「黒い箱」との異名もある。公式の席で、大統領候補だったプーチンは「あいつら(チェチェン・テロリスト)を便所でぶち殺す」とマフィア隠語を使って識者の眉をひそめさせたことも紹介しておこう。
KGB要員で中佐:
ーさまざまな断片的な情報を集めて得られたプーチンの略歴を次に記しておこう。1952年10月7日レニングラード(現サンクトペテルブルク)の貧しい労働者の家庭に生まれた。前任者エリツィンとは22歳の年齢差がある。「コメルサント」紙記者とのインタビューをまとめた本「最高指導者の発言、ウラジミール・プーチンのインタビュー集成」の中で自ら、小、中学時代はスポーツに明け暮れた不良(フリガン)で、ピオネール(共産少年団)に入れなかったことを明らかにした。同インタビューによれば、15歳のときに第二次世界大戦中のソ連人スパイを描いた反ナチス映画「楯と剣」を見たワロージャ(ウラジミールの愛称)は、自分もスパイになりたいと、KGBのレニングラード支部に志願したところ、大学の法科を卒業して出直すように諭されたという。
ー75年レニングラード大学法学部を卒業し、「就職割当」によって、念願通り国家保安員会(KGB)に就職する。プーチン自ら、「客観的にみて、私はソ連の愛国主義教育がもたらした格好の産物だった」と認めている。大学時代のクラスメートによれば「彼はKGBに奉公するために生まれたような人物だ」という。プーチンは75年から91年までの16年間KGBに務める。長らくKGB第1総局に勤務するが、この部局は対外諜報部門で、同部員は外国に深く根を下ろして情報を集めたり、宣伝・諜報によりソ連に有利な状況を作る積極的な工作活動に従事した。80年代初めから担当したプーチンの仕事は、外国人スパイのリクルートと養成(1人の人間を別の人間にし立て上げる洗脳の任務)だったといわれる。この仕事はKGBの中でも汚れ役だったようだ。
ーまた、ドイツの新聞報道によれば、70年代初期に当時西独の首都だったボンでタス通信記者の身分を隠れ蓑にして工作活動を行っていた際に、国外追放処分を受けたことがあるという。この間、80年に諜報部門のエリート養成学校だったモスクワのアンドロポフ勲章大学に一時籍を置き、いかなるストレスにも耐えて常に冷静さを失わない強靭な精神をもつスパイとしての本格的な訓練を受けた。プーチン30歳の82年、レニングラード支部時代に知人の紹介で知り合ったカリーニングラードの国内線航空会社のスチワーデスで5歳年下のリュドミラさんと結婚した。彼女はフランス語とスペイン語を操る才女であった。プーチンは85年から90年1月まで東独のドレスデンに家族とともに定住していた。
ードイツ語はほぼ完璧といわれるのも現地仕込みだからだ。ドレスデンでは、ソ連文化交流センターに事務所を構えていた。88年2月7日には東独国家保安省「シュタージ」からブロンズ功労賞をもらっている。89年11月のベルリンの壁崩壊の時点、東独にいたプーチンは人生で忘れられない体験をする。民衆によってシュタージが襲われたのだ。現場で、プーチンは秘密文書を守るのに必死で、モスクワからの支援を要請したが、祖国のゴルバチョフ政権は冷たく、「ソ連はもはや存在しないと感じた。ソ連が病んでいることは明白だった」とインタビューで明らかにした。「彼にとって衝撃は余りに大きく、国益と世界秩序の保持のために自分が奉仕してきた祖国のふがいなさ、強い国家統制が欠落した民主主義(ゴルバチョフ改革)のもろさをプーチンは痛感した(政治評論家Y・アルバーツ女史)に違いない。
ーついでに言えば、ゴルバチョフ政権は既にこのときまでに、悪名高いブレジネフ・ドクトリン(主権制限論)を放棄し、東欧諸国への内政不干渉の原則を内外に宣言している。KGBでの最後の階級は中佐で、ソ連解体直前の90年に予備役(大佐)に編入された。90年から91年にかけて、レニングラード大学学長補佐官(国際交流担当)を務めた後、サンクトペテルスブルク(91年9月レニングラードから改名)市議会議長アナトリー・サプチャクの顧問となった。サプチャクはレニングラード大学時代のプーチンの恩師である。91年6月にサプチャクの顧問となった。サプチャクはレニングラード大学時代のプーチンの恩師である。91年6月にサプチャクが市長に選出されてからは同市対外関係委員会議長に任命された。
ー同市の輸出入業務担当最高責任者の役目である。注目すべきは、保守派によるクーデター未遂事件の起きた91年8月まで、プーチンはなおKGBに籍を置いていたことだ。さらに94年3月からは、サプチャク市長のもとで同市第1副市長兼対外関係委員会議長を96年6月まで務める。その間、95年5月には政党「われらの家ロシア」(NDR)のサンクトペテルスブルグ支部長に就任した。
プーチン・スキャンダル:
ーこのサプチャクとの二人三脚のサンクトぺテルスブルグ時代、91年から92年にかけて、対外経済関係の責任者だったプーチンが、希少金属や木材を輸出して食糧を緊急輸入した際に、不正取引によってヤミ資金を得たという汚職疑惑が、大統領選挙前に取り沙汰された。1991年当時、サンクトペテルスブルグは飢餓寸前の危機に見舞われていた。その最悪の食糧難は独ソ戦緒戦のレニングラード封鎖のころを想起させたという。そこで、市当局によって論じられた打開策が、豊富な天然資源を外国に輸出し、稼いだ外貨で食糧を輸入することだった。
ー「プーチン・スキャンダル」を詳しく報じた週刊紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」(3月13日号)は、「動かぬ証拠」として当時のプーチン議長署名入りの複数の書類の写真まで添付した。同紙によると、改めて告発したのは、92年1月設置された市議会調査委員会の一員として汚職追及にあたり報告書を作成したマリーナ・サリエ元市議会議員。同紙記者は、この疑惑話を最初は真剣に受けとらなかったが、同元議員に会い、書類を見せられて、この資料の信憑性に確信を抱いたという。当時、原料輸出にあたっては許可証が必要で、これは対外経済関係者だけが発行する権限をもっていた。ところが、プーチンは、自分の委員会も許可証を発行した。しかも、名も知れない中小会社や国際貿易業務の資格のない会社に許可証を出し、そうした会社は25%から50%もの仲介手数料を取っていたという。
ーさらに、プーチン委員会と仲介会社の間で取り交わした契約書類に、日付がないなどの不備も数多く指摘されている。フィンランド語で書かれていながらロシア語の訳がついていない書類や、登録番号が抜けている輸出入証明書もあった。こうした事実から、議会調査委員会は多くの契約書類や証明書は違法であると断定した。同紙はさらに、文書に記された材木、くず鉄、非鉄金属など輸出商品の価格が国際価格に比べて不当に安かったり、書類によって同一商品に価格差があったり、という実例を指摘している。また、サリエ氏によれば、契約額よりも実際の輸入食糧は少なく、プーチン委員会は市に多額の損失を与えたという。
ー特に興味深いのは、プーチン署名入りの日付のない第1号文書だ。15万トンの石油製品を西側に輸出し食料品を購入する契約の相手はコンツェルン「国際商品センター」という会社でもう1人の署名者はコンツェルン代表のG・M・ミロニシク。この人物は2回も服役した得たいの知れない男で、いかがわしい仕事のあめにロシアにおられなくなって出国、スペイン、ドイツ、米国(保険金詐欺でFBIに一時逮捕された)を転々とし、3月現在ギリシャに滞在しているが、パスポート偽造容疑で起訴されているという。
プーチン・インタビューとの食い違い:
ー議会調査委員会は当時、プーチンに一連の契約書類の疑問点を質し、説明を要求したところ、「所与のデータは商業上の秘密である」との理由で、回答を拒否したという。そこで、同委員会はプーチン議長およびアレクサンドル・アニキン副議長の解任を勧告するという事態に発展した。ところで、筆者はこの記事を読んだ後、インターネットを通じて、前記プーチン・インタビューに目を通して驚いた。「輸出入証明書を発行したのか」と聞かれたプーチンは「われわれには証明書を発行する権限がなかった。それを発行するのは対外経済関係省で、それは市行政当局と無関係な連邦組織だ」と答えているのだ。プーチン委員会はモスクワの承認を得ずに証明書を発行したというサリエ元議員の主張と完全に食い違っていることをここで指摘しておきたい。
ーまた、プーチン第1副市長がカジノやホテルの民営化に際し法律上の手続きに反して売却した疑いが持たれている。サプチャク自身も汚職疑惑で、退職後一時、当局の追及を避けるため外国への逃亡を余儀なくされたが、サンクトペテルブルクは今や、組織犯罪が横行するロシア有数の腐敗都市として知られる。いまだに未解決のスタロボイトワ女史(「民主ロシア」会派下院議員)暗殺事件(98年11月20日)など凶悪犯罪が後を絶たない。2000年の年初から4月6日の有力繊維会社社長暗殺まで126件の殺人事件(うち明確な嘱託殺人は10件以上)が発生した。サンクトペテルブルクは「嘱託殺人の町」とさえ呼ばれている。その根源はサプチャク・プーチン政策にあるといわれる。もしサンクトペテルブルク時代のスキャンダルが事実とすれば、そうして「前科」を持つプーチンが法治国家を確立できるのであろうか。
柔道の黒帯プーチン:
ー中央選管に提出した資産申告書によれば、99年までの2年間の所得(大統領副長官、FSB長官時代の給料や年金など)は26万5699ルーブル(約101万円)だった。これはロシア人平均所得の約6・5倍である。貯金は約38万7000ルーブル(約147万円)で、レニングラード、モスクワ両州に3ヶ所計約8300平方メートルの土地を所有している。なお、プーチンの家族の所得資産の申告個所で、サンクトペテルブルク市から南西約150キロのブスコフ州・チュード湖畔にある夫人名義の別荘の建物を届けていなかった事実が発覚した(「コメルサント」紙3月1日)。大統領候補の中には、家族所有の資産に関する申告漏れでいったんは登録取り消しを受けたケースがある(ジリノフスキー)。
ープーチンだけが別扱いされれば、プーチン自身が主張する「法のもとでの万人の平等」は絵に描いた餅に等しいことになるが、ジリノフスキーを最高裁が救済したことで、プーチンの申告漏れは結局、不問に付されてしまった。有名候補を法の外に置いた。いかにもロシアらしい「寛容さ」である。プーチンの執務室には、ピョートル大帝(在位1682-1725)の肖像画がかかっているという。ピョートル大帝は故郷サンクトペテルブルクの創設者(奴隷たちを酷使して作らせた)であり、いまだにロシア国民の心には「上からの革命」で率先してロシアの近代化(西欧化)を図った歴史の英雄として強く記憶されている。プーチンが心酔しているとしても不思議ではない。ついでながら、プーチンが理想とする政治家は、ドゴール(元フランス大統領)とエアハルト(元西独閣僚)だという。
ー家族はリュドミラ夫人との間に東独生まれのカーチャとマーシャの2人の娘がいる。彼女たちは父親が大統領代行に任命される前までは、モスクワのドイツ人学校に通っていた。プーチンはスポーツマンで、学生時代から格闘技サンボを習い、73年にサンボのスポーツマスターの資格を取得、75年には柔道のマスター(黒帯)を取った。下院選挙中に「統一」を支持したプーチンが柔道の乱取りをしているシーンを親クレムリンのテレビが放映して、首相の若さとエネルギッシュなイメージをアピールした。また、1月22日モスクワで開幕した柔道国際大会にプーチンが姿を見せ、約2時間半、試合を観戦した。アルペンスキーも得意らしい。日本には95年2月に外務省の招きで、グループの一員として来日したが、関係者によると、これといった印象は残っていないという。来日経験から柔道のほか合気道や日本食に関心があり、サンクトペテルブルグの日本レストランで寿司を好んで注文したといわれる
仕事中毒だったプーチン:
ープーチンとは何者か、大統領として彼はどのような政策をとるつもりなのか、またロシアはどうなるのか、といった疑問は尽きない。彼をよく知る人物や専門家のプーチン評を紹介する。まず、プーチンの実質的な後見人であったサブチェクは2月20日、プーチンのための選挙戦の演説先で急性心不全で急死したが、生前のインタビューでプーチンについて次のように語っている。「彼は私の教え子だった。勉強熱心で、それを見込んだ私は、市長になってまず顧問に、最終的には第1副市長として登用した。ワーカホリック(仕事中毒)とも言える働きぶりで実績を上げ、彼には全幅の信頼を置いていた」「彼自身は自分について話すことを好まないようだが、決して閉鎖的な人間ではない。狩りや釣りに行けば、よく冗談を言う社交的な性格だ」「彼は愛国者であり、国益に奉仕する指導者になるであろう」。
ー改革経済、個人の権利保護を堅持する一方、それらをすべて国家の管理に置こうとするはずだ。国益保護のあめなら誰をも恐れないであろうが、外国との対立が国益にならないことは熟知しており、国際関係はむしろ改善されると思う」(「マヤーク通信」1月27日)。「(プーチンが)大統領になれば、ロシアにも民主主義と市場経済が根付き、人々が落着いて暮せる時代になるであろう」(朝日新聞2月24日)。同じくサンクトペテルブルグ時代、サプチャクのもとで副市長として、プーチンとともに働いたビャチェスラフ・シェルバコフ同市第1副市長のプーチン評。「サプチャク氏は寝てばかりいたが、プーチン氏は1日16時間は働いていた。几帳面で謙虚、温厚な性格に加え、規律と礼儀を重んじ、部下や上司ら周囲の人を裏切ったことは一度もなかった。誰一人として敵はいなかった」「政策の立案や決定の過程では、必ず担当者や多数の専門家の意見に耳を傾けて判断していた(と、同じ権力者でも、ファミリーの言いなりだったエリツィンの手法と異なる点を強調)」「(大統領就任後プーチンは)共産党を含めた議会の全会派と協調し、経済、社会、軍事、国際問題などすべての領域で、サンクトペテルブルグ時代同様の民主的路線を鮮明にして、独裁者にはならない」「(KGB議長を長らく経験し、ブレジネフの後任共産党書記長としてブレジネフ時代の「停滞」に終止符を打とうと努めた」)アンドロポフを理想的な政治家であると強く尊敬していた。プーチン氏は第2のアンドロポフとして、国家の再建に取組むであろう」(産経新聞3月11日)。
目指すはペロン型の国家資本主義か:
ー有力な政治学者アレクサンドル・ツィプコ氏「プーチン氏の目指す体制は元アルゼンチン大統領ペロン型の「国家資本主義」だ。私有制と市場の枠組みは守りながら、権威主義的な統治形態のもとで、国家統制や国内産業の保護が重視される。この権威主義は「独裁」とまでは呼べないまでも、エリツィン時代以上のワンマン体制となることが予想される。プーチン氏は「家父長主義」の傾向が強く、(伝統的な)「民族の父」となる資格を持っている」(読売新聞2月15日)。ボリス・グリズロフ「統一」代表「(プーチンの基本的姿勢は)自由、民主主義、経済改革などエリツィン前政権の残した業績を重視しつつ「強い国」「強い地方」を目指している。強硬姿勢自体をプーチン氏の特徴とするのは必ずしも正しくない。
ー国民は(プーチンが)革命への野心はなく、必ず国家に安定をもたらす責任ある政治家であると確信し、そのような人物を待ち望んでいた。ゴルバチョフへの激しい批判で国民の支持を得たエリツィンとは基本的に異なる(産経新聞2月8日)。セルゲイ・ステバシン元首相「目立たない風采で、静かな低い声をもちながら、日常の仕事の中で、非常なエネルギー、強固さと優れた決断力を発揮したので、サンクトペテルブルク大学の金融関係者の間では「シュタージ」という温かく友好的なあだ名で呼ばれていた」(アンドレイ・ピオントコフスキー戦略研究センター所長の1月19日「ロシア・テウデー」所載小論より)。
「実行力のあるリーダー」とクリントン:
ークリントン米大統領「考え方が合わない場合もあるが、改革に対する強い意志を持っており、実行力のあるリーダーで、米国ともうまくやっていけるだろう。高い知性と強い意志の持ち主だ。とても強力かつ有能で、率直な指導者になる」(2月14日CNNテレビ)オルブライト米国務長官「極めてプラグマティック(実践的)で、問題解決能力がある人物だ。非常に情報に通じており、極めてよい対話者であり、ロシアの愛国者だ。ただチェチェン問題などでは否定定な側面がある」(2月9日記者会見で)前記インタビューの中でプーチンから「裏切者」呼ばわりされた元KGB将軍オレグ・カルーギン(在米中)「プーチンは「凡人」で、その統治スタイルは「ソ連方式そのもの」だ」(「ジ・エグザイル」3月30日ー4月13日号)。
プーチン政権の政策を占う:
サンクトペテルスブルグ閥とKGB閥:
ー前章によって、ある程度、プーチン政権の特質についてヒントが得られたと思うが、本章ではさらに、代行就任から大統領選挙までの約3ヶ月間のプーチン人事やプーチン論文、選挙網領、プーチン発言、プーチン政権の具体的な政策などを基に、政権の性格を占ってみたい。ソ連時代のブレジネフ、それにエリツィンは側近を同郷出身者で固めた(ついでながら、ゴルバチョフの場合は、こうした同郷閥を作らなかった)。彼らはドニエプル・マフィアとか、スヴェルドロフスク・マフィアなどと呼ばれた。プーチン人事に関しても、このような傾向が顕著である。プーチンは前述のように、サンクトペテルブルク出身であり、自らの周りにサンクトペテルスブルグ人脈を作り上げる傾向が見られる。また、エリツィン色を薄める人事がどれだけ行われるのかにも注目が集まった。
ープーチンは代行就任直後の12月31日、セチン官房第1副長官、メドヴェージェフ官房副長官の2人をそれぞれ大統領府副長官に任命した。プーチン人事の第一弾であった。この2人はいずれもサンクトペテルブルク出身者である。同時に、プーチンはヴォロシン大統領府長官を留任させた。第2弾として1月3日、プーチンはタチアナ・ジアチェンコ前大統領顧問(エリツィンの次女)とヤクシキン大統領報道官、および大統領府副長官3人を解任した。ヤクシキンはヴォロシン長官補佐官に任命され、解任された副長官のうちシェフチェンコ、セメチェンコの2人はプーチン代行顧問の資格が与えられた。次いで、プーチンは1月6日、代行就任後初めての閣僚人事に着手し、ミハイロフ連邦民族担当相を解任し、アレクサンドル・ブロヒン駐アゼルバイジャン大使を後任に任命した。
ー次に、主要な閣僚人事が1月10日断行された。ミハイル・カシヤノフ蔵相を第1副首相兼任に、ショイグ非常事態相を副首相兼任に、それぞれ昇格させた。従来のアクショネンコ第1副首相兼鉄道相は、第1副首相のポストを解任され、事実上の降格となった。したがって、第1副首相はカシヤノフ1人で、首相兼任のプーチン代行に代って、事実上の首相役を果たすこととなった。ついでながら、彼のニックネームは「2%・ミーシャ」(2%の手数料を取ることに由来)だ。アクショネンコは政商ペレゾフスキーに近く、絶えず汚職の疑惑に包まれた人物であり、この人事は、これまでクレムリン(エリツィン・ファミリー)に取り入ってきたベレゾフスキーにとって大きな打撃となろうと受け取られた。
ー同じ10日にはボロジン大統領府総務局長が解任され、ロシアとベラルーシの統合で創設される新連邦国家の事務総長に任命された。約6年間総務局長を務めたボロジンはエリツィンの側近中の側近で、クレムリン宮殿のほか、何千もの政府所有の建物、オフィス、住宅、別荘などの不動産、乗用車、病院を含む1大帝国を一手で管理していた。クレムリンの改修工事は請け負ったスイスの小さな建設会社マベテクスからのリベートを受けとった疑惑の中心人物だ。また、ボロジンは、サンクトペテルブルクからモスクワにやってきたプーチンが初めてクレムリンでの仕事に就いたときの上役でもあった。1月27日明らかにされたところによると、スイス検察当局はボロジンを資金洗浄容疑で国際手配した。ボロジン解任はジアチェンコ解任とともに、エリツィン・ファミリーからの距離を置くプーチンの姿勢を示したものという見方が強い。
ー大統領府総務局長は政権の金庫番であり、大統領が信頼する人物が充てられる。プーチンは1月12日、ボロジンの後任局長にウラジミール・コジン前連邦外貨輸出管理局長を任命した。コジンはサンクトペテルブルクでの動務が長く、同管理局勤務時代にプーチンと知り合ったといわれる。このほか、注目すべきブレーン人事としては、99年末に創設されたプーチンの経済問題シンクタンク「戦略策定センター」の所長にはゲルマン・グレフ国家資産第1次官が任命された。グレフはサンクトペテルブルク人脈に加えることができる。さらにレニングラードKGB人脈もプーチン人事の特徴である。「あらゆる種類の犯罪撲滅に旧KGBをフル動員する」(米ABCテレビとのインタビュー)と言明したプーチンはKGB人脈を「法の番人」にしようとする構えである。
安保会議書記のセルゲイ・イワノフ、連邦保安局(FSB)長官二コライ・パルとシェフ、同第1副長官ヴィクトル・チュルケソフらがそれを構成する。「プーチンの分身」といわれるチュルケソフはプーチンより2つ年長だが、レニングラード大学法学部を同じ1975年に卒業し、KGBに入った。プーチンFSB長官時代には、サンクトペテルブルクFSB支部長だった。ソ連時代の80年代、20人の反体制派知識人や人権活動家を逮捕・投獄したいわくつきの人物といわれる。
違法、違憲行為は断固阻止:
ープーチンは大統領代行に指名される前後に、あるいは正式な立候補登録(2月15日)以前に、政策理念を示した文書を発表したり、選挙網領に近い内容の発言を各所で行っている。このことが選挙違反ではないかと物議を醸した。プーチンはまず、99年12月30日の新年レセプションでの挨拶で、「ロシアの領土保全、ロシア人の誇りに対する脅威を容認してはならない」と述べるとともに、チェチェン武装勢力の殲滅作戦を断固遂行するとの姿勢を明確にした。またプーチンは翌12月31日夜の新年に向けたテレビ演説の中で、「私は警告したい。法律やロシア憲法の枠を踏み外そうとするいかなる試みも断固阻止されるだろうと」と、憲法と法秩序を守るように国民に呼びかけた。プーチンはさらに「言論の自由、良心の自由、マスメディアの自由、個人的所有の権利ー文明的社会のこれらすべての諸原則は国家によって確実に保護されるだろう」「国軍、連邦国境警備隊、法執行力は正常に機能している。
ー国家は常に警戒中であり、あらゆる個人の安全を守るために警戒し続ける」と言明した。次に、プーチンの政策のヒントを提供したのがプーチン論文「ミレニアムの狭間のロシア」である。12月28日にロシア政府のインターネットで流し、エリツィン辞任当日の31日付の「ロシア新聞」など4ページにわたって掲載された長大な論文だ。もちろん、これはプーチンのブレーンたちの共同作業によって出来上がった文書であるが、将来の「プーチン政権」の、主に経済政策に関する基本的な考えを披露したものといえる。同論文はまず90年代のロシアの置かれている否定的な現状認識を紹介・分析した後、その解決策を挙げている。その要点は次の通り。
ロシアの伝統的価値とは:
ー「ロシアは極めて大きな経済的、社会的諸問題に直面している。90年代に国内総生産(GDP)はほぼ半減した。ロシアのGDPは米国の10分1、中国の5分の1に落ち、国民1人当りのGDPは約3500ドルであるG7諸国平均の約5分の1に過ぎない」「ロシア経済はエネルギーおよび金属資源に大きく依存しており、これらの部門が輸出の70%以上、生産の50%、GDPの15%を占めている」「国内投資は着実に減少し、外国投資家はロシアへ投資を急いでいない。外国直接投資の総額は150億ドルで、中国の外国投資430億ドルを大幅に下回っている」「ロシア製品は国際市場で競争力がない。特に非軍事技術の生産部門で競争力は弱い。この部分でのロシアのシェア(市場占有率)は1%以下だ。米国の場合は、36%、日本は30%を占めている(筆者注・日本に関する言及はこの個所だけ)。
ー「改革が進められてきたこれまでの年月に、国民の所得は着実に減少した。98年の金融危機は状況を一段と悪化させた。99年に危機以前の生活水準を回復できなかった」。「ロシアの諸問題は単に経済の問題ではなく、政治的、イデオロギー的、精神的、道徳的問題である。70年間にわたるソビエト支配が悪い影響を残している」「ロシアは安全と節制を必要としている。政治的、社会的、経済的激動を吸収する能力は既に限界に達している」「ロシアは安定と節制を必要としている。政治的、社会的、経済的激動を吸収する能力は既に限界に達している」「ロシアが1人当りのGDPで現在のスペインやポルトガルの水準に達するには、最低8%の年間成長率を前提にしても、15年かかるであろう」「再生と繁栄の戦略を探らねばならないが、それにはまず、外国の教科書から取り出した抽象的なモデルや図式を単にロシアの土壌に移し替えるだけでは成功は望めない」
ー「ロシアにふさわしい経済戦力を策定するために99年末に、政府のイニシアチブの下に優れた知性を結集した「戦略策定センター」が創設された」「ロシア人の伝統的な愛国心、大国としての自覚、国家尊重の理念、個人主義に優越する社会的連帯意識(集団主義)を考慮することが不可欠だ」「ロシアの新しい思想は、普遍的、全人類的価値観との合金として、有機化合物として生まれかわるものと思われる」「ロシアは大統領に大幅な権限を与えている現行憲法を維持しなければならない。ロシアは民主的な枠組みの中で、強大な国家になることに努めるべきである」「われわれは国家権力、管理機構の弱体性のために、経済、社会政策が実施の過程で挫折することを経験した。ロシアは再生と発展のために強い国家を必要としている。それは民主的・法治的で執行能力のある連邦国家だ」。
強い大国ロシアの復活:
ー「国家は腐敗と闘い、官僚機構を簡素化し、説明責任を強化しなければならない。司法部門は強化され、これまでより効果的に犯罪と闘う方策が講じられるべきである」「自由市場は国家の規制によってバランスが取られなければならない。必要な場合には国家が介入すべきである。国家は計画経済制度への逆行なしに、社会的理由からの経済の中で積極的な役割を果たさなければならない」「経済改革は進めるが、国家管理は強化する。野放しショック療法は採らない」「国家による働きかけと市場メカニズムとを組み合わせた投資政策によって、外国資産家にとって魅力的な投資環境を作り出す。外国資本なしにロシアを発展させるのは難しい」「ロシアのGDPの40%を占める闇経済を駆逐するために、法擁護機関の活動を改善するとともに、許認可制度、税制、外務管理、輸出制度の分野での監督を強化する」
ー「税制改革、バーター取引の解消、文明化された市場の創設、銀行部門の改革を通じて効果的な金融制度を生み出さなければならない。国際的経済機関への統合推進も重要である」「ロシアは今、世界の2流国、ないし3流国に転落する現実的な脅威に直面している。われわれは危機の度合いを自覚し、一致団結して容易ならざる仕事に取り組まねばならない」。
ープーチン論文が訴えようとしているのは「強い大国ロシア」の復活で、これこそはロシア国民が待ち望んでいることだ。また「国による経済調整の役割強化」の考えが強調されているのは、経済混乱、経済不振をもたらしたりしたエリツィン時代の野放図な「経済改革」政策の反省から生まれたものだろう。2月15日、正式に大統領選挙で立候補登録した際プーチンは、経済の最重要点は「ロシアの精神的価値を復活、発展させることである」と強調、「大国ロシア」復活への決意を強調した。またエリツィン憲法の擁護に改めて言及しているのも、注目される。大統領権限が強すぎることがエリツィンの権威主義的な、気まぐれな政治を生んだ根源であるところから、99年12月の下院選挙前夜に、ロシアの政界では改憲議論が盛んだった。
ーしかし、プーチンの憲法擁護の見解が明らかになると、ぱったりと改憲を主張する意見が聞かれなくなった。経済政策との関連では、1月16日にプーチンは、ルーブル価値の防衛、未払い賃金の支払い、プラチナの輸出解禁(1年以上先送りされていた案件)など一連の経済措置を承認している。この中で特に注目されるのは、輸出企業に対して、外資収入の100%を公認レートで売り渡すことを義務づける中央銀行の計画を承認したことだ。これまで、主として石油、天然ガス、鉱物資源を中心とするロシアの大手輸出企業は外貨収入の75%を国内にとどめることを義務づけられていた。それを100%にしてたのである。資本逃避を抑制し、下落圧力にさらされているルーブルの価値を防衛するのが狙いだと見られている。40億ドルから45億ドルに上がる未払い賃金は4月15日までに解消される計画だという(フリスチェンコ副首相)。
ープーチンはまた、1月11日、ズラボフ連邦年金基金総裁との会談で、2月1日から年金を20%引き下げる方針を表明した。99年10月には12%の引き上げを約束していたから、それを上回る引き上げ幅だが、これは大統領選挙目当てのばらまき公約の1つと見られている。
法の独裁こそが民主主義:
ー大統領選挙を1ヵ月後に控えた2月25日、プーチンは「イズヴェスチヤ」紙はじめロシア各紙に基本的な政治目標を掲げた「ロシア有権者への公開書簡」を発表した。これは選挙網領である。プーチンはこの中で、法秩序の確立や国民生活の向上、国益重視外交などによる「強いロシア」の実現を改めて公約した。強権による経済再建の方向も明らかにするとともに、国益外交の推進を表明した。その要旨は次の通り。
「ロシアが抱える最大の問題は議題解決に向けた「国家責任の弱体化」である。これらが犯罪を助長した。最も危険な問題から取り組むべきだ」「国家が強くなればなるほど、個人は自由になる。強い国家の土台は法と秩序の確立と国民との団結である。国内の諸縣案の解決こそがロシアの国際的地位と威厳の向上に直結する」
ー「犯罪が広がっており、チェチェンがその例だ。犯罪者の要塞と化したチェチェンの武力勢力に対する軍事作戦は「法の独裁」樹立への現実的な第一歩だ」「国家の規則とは法であり、憲法上の規律、そして秩序である」「民主主義とは「法の独裁」であって、この法を守る義務のある人の独裁ではない。ロシアではかつて、わが国は豊かで秩序だけが欠けていると言われたが、今後は誰も2度とそんなことを言わなくなる」「貧困の克服が最先課題である。われわれはロシアの豊かさの自慢になれているが、自問自答すべきだ。ロシアは貧しい人たちの住む豊かな国ではないかと。わが国はパラドックス(矛盾)の国だが、政治的矛盾よりもむしろ、社会的、経済的、文化的矛盾の国だ」
ー「官僚や犯罪分子から市場経済を保護するために、国家の調整機能の強化が必要である。内外に秘匿された資産や税の徴収などで強硬手段をとる。オリガーキ(新興財閥)に対しても同様に厳しく対処する」「他国は強いロシアを恐れる必要はないが。ロシアの意見は聞くべきだ。ロシアを侮辱すると高くつく」「外交は国益の観点に基づくべきだ。対外目的より国内的目的が重要である。国民の利益にならないプロジェクトには参加すべきではない」「他国同様に、ロシアも死活的権益権を設定する。これは平和的発展の源になる」「この公開書簡のスローガンは「価値ある生活」である」。
エリツィンの「負の遺産」:
ーこの公開書簡の中で明らかにされた政治目標の特徴は、犯罪の蔓延や貧富の格差拡大などエリツィン政権の執政(負の遺産)の克服であると言える。エリツィンを名指してはいないが、エリツィン政治からの明確な転機を強調して、選挙民の支持を得ようという狙いは明白で、エリツィン政治に飽き飽きした国民の心情を巧みにつかんだ戦略である。また、この書簡でプーチンがオリガーキの特権や不正蓄財に毅然とした姿勢で臨むと強調している点が注目されるが、プーチンは2月28日、自らの大統領選挙運動に携わっている活動家の集会での演説でも、改めてオリガーキに触れている。プーチンは、ロシアは腐敗した当局者を排除しなければならなないでけではなく、だれをどのようにして除去するかを認識されなければならないと述べて、会場からの喝采を浴び、さらに「政府の政策はオリガーキのグループによって操作されている、と広く信じられている。
ー彼らは国民からさげすまされており、私は彼らの影響力を抑えるつもりだ。だれかが権力に密着して、自らの利益のために利用することを許さないように、万人に平等な条件を生み出すことが重要だ」と付け加えた。一方でプーチンは、民間資産の再国有化は考えていないとの見解を改めて表明し、財産権の保証はいかなる見直しの対象にもしないと言明した。プーチン発言は、エリツィン時代にクレムリンに癒着して財を成した政商ベレゾフスキー、アブラモヴィッチらのオリガーキと一線を画す姿勢を鮮明にしたものだが、同時に、天然ガス大手のガスブロムを含む独占企業体の分割に反対する発言もしており、一部の財閥が利権を独占する産業構造は依然として維持される見通しである。さらに2月後半明らかにされたところによると、大手石油会社シブネフチがクラスノヤルスク・アルミ、ブラーツク・アルミの、新興財閥「ロゴヴァスはいずれもベレゾフスキー、アブラモヴィッチが実質支配している。
ーロシア紙によると、この3社経営権獲得により、この2人はアルミ生産量でロシア国内では70%、世界でも20%のシェアを確保したことになるという。こうしたオリガーキによる特定商品の市場独占への動きはプーチンの力をもってしても押しとどめることはできない。まさに、資本主義のもと、ロシアでも「金は力なり」である。
軍事教練の復活:
ープーチンがソ連のような「強い国家」の復活を目指していることは明白だが、実際にはどのような形でそれが具体化されるのであろうか。大統領代行に就任してから大統領選挙までの2ヶ月半ばかりの間に既にいくつかその具体例を見ることができる。第1は、軍事力の強化で。富国強兵を実現するために、軍の近代化、軍需産業の振興を目指している。1月27日の閣議で、プーチンは2000年度の軍事産業向け発注額を5割、軍事技術研究費を8割、一挙に増額する方針を明らかにした。武力輸出にも力を入れていく計画で、クレバノフ副首相によれば、2000年度の武器輸出額が過去10年間で初めて40億ドルを超える見通しであるという(1月31日)。99年度は30億ドルであった。軍事力強化との関連で、プーチンは軍事教育を復活させた。
ー2月5日付のロシア各紙は、プーチンが99年の大晦日に、ソ連時代に学校で実施されていた軍事教育の授業を復活させる大統領令に署名したと伝えられた。大統領令によると、最上級の10年生(16歳)と11年生(17歳)の男子生徒に義務づけられる。18歳からの徴兵前に軍隊になじむのが目的だが、「コモソモリスカヤ・プラウダ」紙は「軍国主義化の恐れがある」と警告した。これとは別に、父親のいない14歳から16歳の男子高校生に対する軍事教練も復活された。2月半以上の学生は、9月から戦闘訓練と軍事史の授業を受けることになった。教育省の幹部によれば、技術的には91年に廃止されたソ連時代の計画に似ているという。少年たちはまた、徴兵への準備として、軍事基地で5日間過すことを義務づけられている。こうした新しい訓練の中で彼らはカラシニコフ銃の組み立て・掃除・発射方法を学ぶ。
ーこうしたソ連時代の計画の復活は、規律を強化し、ロシアを強くしようというプーチン構想の一環である。また、ロシア軍予備役2万人が10年ぶりに今年から訓練招集されることになった」(タス通信2月2日)。
核の先制使用も有り得る:
ープーチン大統領代行就任早々の大晦日、最高政策諸問機関の安全保障会議を主催したが、その席上、エリツィン路線の継承を表明した。ポスト・エリツィン外交についてプーチンは、「平等と相互理解、友好、相互利益を基礎に世界のすべての国との関係構築を目指す」と述べながらも、米国の一極支配に対抗する外交理念である「多極化世界」などエリツィン時代の外交路線を継承し、軍改革も継続していくと言明した。またプーチン代行署名の新しい「国家安全保障概念」全文が1月14日、「独立新聞」に掲載された。これは北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大、コソボ紛争後の状況を踏まえて、米国主導の一極支配体制に対抗しようというプーチン路線を明確にしている。同概念はまた、軍事技術、軍事力を近代化し、軍事産業を再建することによって国防力を強化して大国ロシアの復権を図るとともに、チェチェン戦争を念頭に領土保全の重要性を強調、「ロシアに対する領土要求」を主要な国際的脅威と明言している。
ーこれは北方領土問題でのプーチン政権のロシアの強硬な姿勢を示唆したもので、日本にとって、領土返還実現はほぼ絶望的な見通しになったと言ってよい。新しい概念で注目されるのは、核兵器使用について、改定前は「軍事攻撃され、独立主権国家としての存在に脅威が生じた場合」とされていたが、領土侵攻にも核兵器で対抗し得ると核兵器使用の基準を下げた立場を示し、「侵略に反撃するのに他の手段が尽きた場合か、他の手段が無効と分かった場合」核兵器使用を検討するとしていること、さらに、ロシアの国益を守るためには世界の戦略的地域へのロシア軍の展開の可能性を排除していないこと、である。
ーまた、2月4日、プーチン代行を議長とする安全保障会議は新しい「軍事ドクトリン」を採択(4月21日に最終承認)したが、新ドクトリンは「通常戦力による大規模な侵略により、ロシアやその同盟国の安全が危機に瀕した場合には、核兵器を使用する」と明記している。93年採択の旧ドクトリンは「核による侵略」を受けた場合のみ、核で反撃するとうかがっていたが、新ドクトリンの中で通常戦力に対しても核使用を宣言することによって、ロシアは「核の先制使用」に踏み切ったものと解釈されている。
連邦保安局が軍を監視:
ー第2は、KGBの後身で、プーチンの出身母体であるFSBの役割強化である。2月14日の「イズヴェスチヤ」紙は、プーチンがFSBによる軍の内部監視制度を復活させる大統領令に署名したと報じた。プーチンが情報機関を利用して軍の統制強化に乗り出したものだ。プーチンの新指令は「ロシアの安全保障を害することを目的とした個人による」活動を防止するようFSBに命じている。同紙は、今後、軍の将校、兵士らは酒席での発言も密告され、将校の解任などが容易に行われるようになると指摘した。ソ連時代は共産党が軍国主義化を政治的にコントロールするためにKGB要員(特務班)が配置されていた。彼らの主要な任務は外国スパイの摘発だったが、将校団や徴集兵のムードを監視し、共産党政権を批判する者がおれば、その情報を中央に伝えることも任務の1つであった。ソ連解体後も、このシステムは温存されていたが、事実上、機能していなかった。共産党に従属していた「政治コミッサール制」はソ連解体とともに廃止された。
マスコミ・コントロール:
ー第3は、特にチェチェン戦争報道との関連で、マスコミに対するコントロールが指摘されている。プーチンは大晦日の演説で、今後とも検閲はしないと言明したが、「マスコミ幹部は定期的にクレムリンに呼び出されており、これが圧力となって、自主検閲を促している」(「兵士の母親委員会メリニコワ事務局長)という。新聞やテレビの平の記者が熱心に取材しても、最終的には上司に握り潰されて、活字や放送にならないケースが少なくない。チェチェン戦争取材関連では、「ラジオ・リバティ」のロシア人記者アンドレイ・バピツキー記者拘束および捕虜兵士との交換事件、仏紙「リベラシオン」アンヌ・ニバ記者拘束事件などが起きている。「言論の自由」を保障するとのプーチン発言にかかわらず、警察内部の汚職・腐敗を追及していた「モスコフスキー・コムソモーレッツ」紙のアレクサンドル・ヒンステイン記者が1月、運転免許証偽造の容疑で精神病院に連行されようとした事件が起きた。
ー反体制派を精神病院送りにしたソ連時代の「伝統」が復活したと受けとられた。当局はマスメディアの報道が気に食わなければ、免許料を引き上げたり、防災上問題があるとして印刷所への立ち入りを禁止したり、新聞社の閉鎖を命じたりするケースが後を絶たない。ロシアの印刷所はほとんど国営管理なので、活字マスメディアの立場は極めて脆弱である(2月15日AP参考)。インターネット統制の動きも伝えられた。SORMという新しいシステムのもとで、秘密諜報機関はすべての電子メール交信を監視できるといわれる。FSBが地域プロバイダーの閉鎖を命じた例が既に報告されている(2月9日「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙)。また、治安当局はマスコミ人に対する電話盗聴活動を強めているといわれ、有力民間ラジオ局「モスクワのこだま」のべネディクトフ編集長は「受話器を取ったら、20分前の自分の電話の会話が聞こえた」ことを打明けた。
エリツィンのマスコミ管理体制引き継ぐ:
ーマスコミ・コントロールに関して特筆すべきは、エリツィン政権末期の99年7月6日の大統領令で設置の決まった新聞情報省(フルネームは新聞・テレビラジオ放送・マスコミ省)の存在である。同省は政府のマスコミ政策の立案と実施、情報伝達システムを支える技術的基礎の開発、電波管理などマスコミ統制の広範な権限を有する。あらゆるマスコミを登録制とし、テレビとラジオの放送枠やビデオと広告の流通に規制を加えることも大統領令に盛り込まれているところから、政府によるマスコミ管理強化を狙いとしているのは明白だ。初代大臣には国営テレビRTRの副社長ミハイル。レーシンが任命された。レーニンは96年の大統領選挙の際に、エリツィン再選委員会のマスメディア顧問として加わり、エリツィン再選に貢献した人物。ロシアのマスコミは早速、ロシアの言論の自由が危機に直面していると警告、改革派野党「ヤブロコ」のヤヴリンスキー代表は「政権側が選挙前に自分たちの利益のために第4の権力を私物化しようとしている。これは民主主義への脅威だ」と批判した。
ー国営テレビRTRと公共テレビORTは99年夏以降、第2次チェチェン戦争での反チェチェン「大本営発表」報道、下院選挙での「統一」支持キャンペーン、そして大統領選挙でのプーチン応援を積極的に展開したが、その背後にはレーシン率いる新聞情報省の大きな役割があったと信じられている。戦争の最中、レーニンは「マスコミはテロリストの宣伝をする権利はない」と言明し、チェチェン武装勢力を直接取材しないようマスコミに要求し、広く反発を招いた。RTRは、クレムリン汚職追及を試みたスクラトフ検事総長のセックス・スキャンダルの決定的な場面を放映したこと、8年間もエリツィンら政界人を巧みに批判してきた人気番組「サヴァルシェンノ・セレクトノ(完全に秘密に)」の放映中止を99年6月に決めたことで、そのあからさまな政権寄りの姿勢が話題となった。
ープーチンはこうしたエリツィンのマスコミ管理体制をそのまま引き継いだ。のみならず、プーチン政権はそれをさらに強化する方針で、5月11日、反政権報道を続けてきたメディア・モスト(グシンスキー会長)本部を、マシンガンで武装した覆面の武装特殊部隊が強制捜査したのはその手始めと言える。
「プーチン体制」に対する警告:
ーいずれにせよ、「プーチン体制」の政策は大統領就任以降に明確になるだろう。一般国民にはKGBアレルギーはほとんどない。東欧諸国では秘密警察出身者が89年以後の新しい時代の国造りの過程で要職に就くことは極めて稀である(1部の国(ルーマニア)では法律で禁止している)が、ロシアの場合、むしろKGB出身者であることへの抵抗は大きくない。ただし、スターリンの手先となって国民を弾圧したKGBの悪業を熟知し、ブレジネフ政権下にKGBによって直接虐げられたソ連時代の反体制派にとって、KGBは疑いなく唾棄すべき存在である。彼らのKGB出身者に対する警戒心は依然として強い。「ネオスターリ二ズムの誕生」と題する共同論文が、大統領選挙を控えた3月1日、英字紙「モスクワ・タイムズ」に掲載された。
ーブレジネフ時代の代表的反体制・人権活動家であった故アンドレイ・サハロフ博士の未亡人エレーナ・ボンネル女史、歴史家レオ二ード・バトキン氏、ジャーナリストのユーリー・ブルチン氏ら7人の知識人の署名入りで、「西側はエリツィン政権下の民主的市場経済を称賛していたが、一方では、改革の美名に隠れ、その結果として、近代化された形のスターリ二ズムがロシアで再建された」と断じた。同論文は「プーチンのもとで、近代化されたスターリ二ズム導入の新たな段階が始まり、権威主義が苛酷さを増し、社会は軍事化され、軍事予算は増え、FSBの「特殊部隊」が軍部隊に再建され、学校では軍事教育が導入され、予備役将校が訓練を受け、大学や高等学校卒業生が徴集されている」と指摘した。さらに、ロシア秘密警察の影響力は増大しつつあり、彼らはCHEKA,KGB、FSBの80周年記念日を盛大に祝い、1956年のハンガリー動乱の血の弾圧の張本人であり、反体制派の精神病院収容発案者であったユーリ・アンドロポフ(15年間もKGB議長を務め、ブレジネフの後継ソ連共産党書記長となった)の墓にプーチンが花輪を捧げた事実を挙げた。
ー赤の広場にあるアンドロポフの墓参りは99年6月15日、元KGB議長の生誕85周年にならんだものであった。そして、論文は近い将来「破滅的な動乱」が起きる恐れさえあると警鐘を鳴らし、西側諸国に次にようにアピールしている。「現政権のもとでは近い将来、近隣諸国にも影響を及ぼすような破滅的な動乱がロシアで発生することを恐れる。そしてわれわれは西側の当局と国民に訴える。クレムリン指導部に対する態度を再検討し、その野蛮な行動、民主主義の破壊と人権弾圧を中止させるべきだと。特に、チェチェン戦争をやめさせるわれわれの努力、報道の自由の回復、市民権組織と少数民族組織の活動に対する民主主義世界からの支持を期待する」と。
ー論文はロシア国民の置かれた生活条件(毎年100万人口が減少し、国民の3分の2が最低生活者で、医療サービスは極端に低下した)や報道の自由(マスコミ機関はほとんどオリガーキに牛耳られた)、指導者選出(エリツィン・ファミリーの内部だけで行われた)などの面で、エリツィン(そしてプーチン)のロシアはスターリン時代と同じか、より劣悪化していると断じている。これはエリツィン体制の継承者であるプーチンと体制に対する鋭い警告と言えよう。

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