日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Canada=厳冬の国(☆Snow covers the ground☆初雪+銀世界)→亡霊たちからの導き?=Incident des monts Hakkōda☆八甲田雪中行軍遭難事件是在1902年(明治35年)☆

フランス語→Incident des monts Hakkōda(八甲田山遭難事件)En 1902(1902(明治35)年)), un groupe de soldats de l’armée impériale japonaise(大日本帝国陸軍の部隊) s'est retrouvé piégé dans une tempête(気温) de neige(雪) alors qu'il traversait les monts Hakkoda(八甲田山系に入り) pour se rendre à la station thermale de Tashiro(到着地田代(元湯(温泉の湧出は続いているが、宿泊施設は廃業している)と新湯(こちらも同じく+行軍隊が目指したのはこっち=前者より遠い)あり)に向け出発). C’est l’accident de montagne le plus grave de l’histoire : 199 morts(歴史的な山岳遭難事故となり199人が死んだ). Histoire(歴史)[modifier | modifier le code] Le 5e régiment d’infanterie (歩兵第5聯隊)appartenant à la 8e division de l’armée(陸軍第8師団(立見(中将)師団長=小説(立川中将)「映画」には出てこない+「一体、軍人は早く退却したといふ譏りを受くるより、進み過ぎたといふ譏りの方を甘んずる」(青森聯隊遭難「雪中行軍」)に属する(第4旅団友近(少将)旅団長=小説「映画」友田少将)青森歩兵第5聯隊(津川(中佐)聯隊長=小説及び「映画」津村中佐(故小林桂樹)+弘前歩兵第31聯隊児玉(大佐)聯隊長=小説「映画」児島大佐(故丹波哲郎) impériale japonaise est à Aomori et a besoin(大日本帝国は青森へ。さらにそれは必要だった) de repérer un chemin(道(進路) de retraite dans les monts Hakkōda(八甲田山を越えて) en cas de destruction de routes et de chemins de fer par des canonnades de la marine impériale russe(帝政ロシア(注)海軍による艦砲射撃で鉄道路線が破壊された場合を想定) mais également pour s’entraîner à se déplacer dans la neige(雪) pour se préparer(準備) à un éventuel conflit avec la Russie(最終的(結果としては)には対ロシア紛争(戦争). C’est ainsi que le projet de traversée des monts Hakkōda a été formé(八甲田を踏破). Le 23 janvier 1902 à 6 heures 55 du matin(1902年1月23日朝、午前6時55分), 210 soldats du 2e bataillon(第2大隊、210名の兵隊は屯営を出発) sélectionnés parmi les 3 000 soldats du 5e régiment d’infanterie (歩兵第5聯隊3000名から選抜された)partent d’Aomori(青森) pour se rendre à la station thermale de Tashiro à 20 km de distance dans les monts Hakkōda(田代まで八甲田山の距離→山道20キロの道程).À 16 heures(午後4時), ils arrivent au sommet du mont Umatateba (八甲田山系(前岳・大岳(標高約1500メートル)など)への入口→上り坂)最標高=馬立場に到着=732 m(ここから田代までは下り(ながら鳴沢(橇を放棄)、平沢(この近辺の森が第一露営地となる(新湯まであと1・5キロ)という難路を踏破しなければならない(ここで進路を見失い、同時に天候は悪化した). Il ne reste alors plus que 4 km jusqu'à la station thermale de Tashiro(田代まであと4キロ), la destination initiale(当初からの目的地(到達点), lorsque le temps change brusquement(その間に天候は激変). Sous une tempête de neige(気温急降下と大暴風雪) et dans une épaisse couche de neige, ils errent pendant quelques jours(数日) sur le versant nord-est des monts Hakkōda(八甲田山系北東). 199 soldats sur 210 y meurent de froid(210名中199名が凍死). L'écrivain Jirō Nitta écrit l'ouvrage (新田次郎の小説)« Marche vers la mort sur le mont Hakkōda »(<八甲田山死の彷徨>), une semi-fiction de l'incident(遭難事件の半フィクション) 映画化された原作は「八甲田山死の彷徨」新田次郎(新潮文庫・1978年)。著者が取材を終えた夜、蔦温泉に宿泊。夢に次々現れたという全身、氷に覆われた兵士たち。わたしも1度泊まりました(十和田湖(美しく水も清らか、きれいだった)と紅葉が懐かしい)。真夜中の「温泉」でひとり(今も入りたい(苦笑))。行軍隊の兵士たちのことを考えていた。けど、「亡霊」はむろん現れず(^_^;出発地点から先頭が馬立場(予行演習及び昼食をとった小峠から5キロ)に到着(頂上=標高732メートル)田代平一帯を遠望(これが午後3時=ここから3キロ先の田代が見えたからには雪(この時点までは地吹雪が主)はそれほど強く降っていなかったことになる)。ここで行李(橇)隊(輸送部隊)の遅れが報告される(最後尾は2キロも後方にいた=2個小隊88名を軽装させ応援(つまり彼らは無駄に先行したことになった)に赴かせる)。午後5時に行軍再開(目的地の手前で浪費したこの「2時間」(神成中隊長は、夏に田代に行った経験がある藤本曹長(小説「映画」藤村曹長)以下15名を「設営隊」として先行させた(田代新湯に到着したら「喇叭」で合図する手筈)=発見できず、迷歩中(環状彷徨)。本隊が鳴沢(山口大隊長は、水野中尉(第3小隊長・小説「映画」小野中尉)以下3名を「斥候」(偵察)に派遣=再び成果なし)に入ったとき、偶然後尾に追いついた)は、不幸な結果を招くことになる)。「月明ヲ利用スル」と記録されている(そう考えたからには田代がみえた2時間前とさほど状況は変わっていなかった)。直後に方向を失い、同時に天候は悪化(暗夜の猛吹雪の中、露営が決定されたのは午後8時過ぎ+すでに糞尿はたれ流し状態)。経路を歩きました(第一露営地(平沢森=写真で見ただけ)・第二露営地(鳴沢=同じく)・後藤伍長発見現場(大滝平+馬立場(実際に行ったのはここまで)に銅像直立=太平洋戦争中、寺院の鐘そして伊藤博文の銅像まで軍需用に接収(徴発)され(連合国(アメリカ)による経済制裁=屑鉄・石油全面禁輸のため)工場での飛行機、艦船さらに戦車。大砲や銃弾製造・生産に使われたのに日本軍の象徴たる「軍神」ということで免れた)=すべて立て札がたっていた(ろくに木が生えておらず(八幡平(を帰り道に通った記憶)も同じ)夏でも風が吹き荒れていて寒かった)。「馬立場」に小さな掘立小屋(現在は有料記念館?=「北の国から=資料館ツアー?」(嘆息+冷笑)があった。むろん「無人」(’入場券’も何も不必要)=誰でも入れた。殺風景な内部に写真や資料が展示、陳列してあったのもよみがえる。閑散(79?年が最初、82年(合計=2回)としていたのが懐かしい(涙)。20年ほど前に聞いたところによれば、「観光地化」(道路が拡張されバスすら側まで入ってくる)され。お得意の日本式「行楽地」まがい(登山(遊歩)道が整備(開拓)され近辺にはスキー場(90年代から、悪化する一方の「地球温暖化」により。積雪も著しく減った)=お決まりザ「我国型」そして「管理」(自然破壊など眼中にない)に侵食されてしまったらしい(残念で悲しいかぎり)(注):当時のツァーは最後の皇帝ニコライ2世(アフリカーンス(ブール(ボーア)語(南アフリカ)→Nikolaas II Aleksandrowitsj (Russies: Николай II Александрович; Nikolai II Aleksandrowitsj) (Tsarskoje(皇帝) Selo, 6 Mei 1868 (1868年5月6日)– Jekaterinburg(エカテリンブルグ), 17 Julie 1918(1918年7月17日) was die laaste keiser van Rusland(ロシア) en die laaste heerser van die Romanof-dinastie (ロマノフ王朝⇒1613–1917). Hy het van 1 November 1894 (1894年11月1日、即位)regeer tot met sy gedwonge abdikasie op 15 Maart 1917(1917年3月15日退位)アレクサンドル3世(ロシア語⇒Алекса́ндр III Алекса́ндрович (26 февраля [10 марта] 1845(1845年3月10日), Аничков дворец, Санкт-Петербург — 20 октября [1 ноября] 1894(1894年11月1日), Ливадийский дворец, Крым) — император Всероссийский, царь Польский и великий князь Финляндский с 1 [13] марта 1881 года(1881年3月13日、ロシア帝国皇帝を継承). Сын императора Александра II (1881年、父のアレクサンドル2世暗殺)и внук Николая I; отец последнего российского монарха Николая II(ニコライ2世の父).父はナロードニキ(人民の意志)党員に暗殺された(1881年)アレクサンドル2世スペイン語⇒Alejandro II de Rusia (en ruso: Алексáндр II Николáевич; Moscú, 17 de abriljul./ 29 de abril de 1818(1818年4月29日モスクワ出身)greg-San Petersburgo(サンクトペテルブルグ), 1 de marzojul./ 13 de marzo de 1881greg.1881年3月13日暗殺死) fue zar del Imperio ruso desde el 3 de marzo de 1855 hasta su asesinato en 1881.)1861年に農奴解放令) チェコ語→Vojenské neštěstí v pohoří Hakkóda 23. ledna 1902 došlo k rozsáhlé tragédii, když 199 z 210 vojáků 5(1902年に起った惨劇。歩兵第五聯隊=210名中199名が死亡). pěšího pluku japonské císařské armády (日本軍)umrzlo během cvičného zimního přechodu pohoří Hakkóda(八甲田). Jedná se o historicky(歴史) nejhorší tragédii spojenou s horskými výstupy.Průběh neštěstí[editovat | editovat zdroj] Lednového cvičení se měly účastnit dva pluky císařské armády(軍) z měst Hirosaki a Aomori(弘前と青森)[1]. 31. pluk z Hirosaki(弘前歩兵第31聯隊) splnil svůj úkol jako první. 23. ledna 1902 (1902年1月23日)se o traverz pohoří jinou cestou pokusil i 5. pěší pluk s 210 muži z Aomori (青森隊は総員210名)ovšem pouze jeden z vojáků z této oblasti opravdu pocházel). Cesta sestávala z 20 km(行軍20キロの全長) dlouhého pochodu z Aomori(青森) k teplému prameni Tashiro(田代). Výprava započala v 6:55 ráno(午前6時55分、屯営を出発). V 6 hodin večer stanula skupina na vrcholu hory Umatateba(馬立場), pouhé 4 kilometry(4キロメートル) od cíle cesty. Krátce na to se strhl silný blizard doprovázený extrémním přívalem sněhu. Celá skupina následně několik dní bloudila na severovýchodní straně pohoří. Vysílení vojáci začali postupně(立場(姿勢)? umrzat. 24. ledna se měla jednotka ohlásit po splnění svého úkolu. Ačkoliv se tak nestalo, velení zůstávalo optimistické(楽観的). Téhož dne byla naměřena nejnižší teplota v historii Aomori -12,3 °C(青森で’最高’気温ー12℃を記録). O den později padl také japonský rekord, když byla ve městě Asahikawa naměřena teplota -41 °C(同日、旭川で日本歴史上、最低であるー41℃が記録された)[2]. Teprve 26. ledna byla do pohoří vyslána 60členná pátrací skupina(26日、三神少尉率いる60名の捜索隊(小説「映画」三上少尉(森田健作が出発). Ta 27. ledna nalezla desátníka Fusanosukeho Gota(後藤房之助伍長), který stál zasypaný ve sněhu a neschopný pohybu. Gotó(27日、後藤伍長発見) své zachránce informoval(情報) o neštěstí, které jeho jednotku potkalo(PS:改めてチェコ語はほとんど認識できない(苦笑).八甲田雪中行軍遭難事件是在1902年(明治35年)1月發生於日本青森县八甲田山的山難事件當時的日本帝國陸軍第8師團的歩兵第5連隊,為了進行寒冷天氣的軍事訓練,由青森县青森市出發前往八甲田山的田代新湯,在雪中行軍途中遇難。 參加此次訓練的210人中有199人死亡(其中6名為救出後死亡),是日本的冬季軍事訓練史上最多死傷者的事故,也是近代史上最大規模的山岳遭難事故雪中行軍[编辑]日本陸軍在1894年(明治27年)參與甲午戰爭(日清戦争)時,曾在冬季寒冷地陷入苦戰。由於日軍預計將會在更寒冷的地方(如西伯利亞)作戰,所以在甲午戰爭結束後,便編排了一系列的緊急冬季訓練以作準備。後來在此事件發生兩年後(1904年),日本與沙俄果然爆發了日俄戰爭,證明了日軍原來的預想。此次的雪中行軍參與成員包括:從青森出發的歩兵第5連隊210名士兵,從弘前出發的歩兵第31連隊37名士兵,和1名民間的從軍記者。其中遇難的是歩兵第5連隊的成員。行軍的目的青森步兵第5連隊是在假想沿著青森海岸的火車如果遭遇到俄國軍隊的進攻而不能行駛的情況下,在冬天要用雪橇搬運物資從青森經由田代、三本木到達八戶的可能性為主,在這段路程當中,最大的難處是青森到田代溫泉當中大約20公里的路程,青森步兵第5連隊預計在1月23日展開兩天一夜的演習計畫。弘前步兵第31連隊的計畫則是在雪中的行軍方法以及相關服裝如何穿著,花了3的時間準備和調查,才開始這次雪中行軍的演練,路線是弘前→十和田湖→三本木→田代→青森→浪岡→弘前,預計從1月20日開始12天11夜總距離224公里的行程。行軍的準備 弘前第31連隊 福島大尉(群馬県出身・日露戦争の激戦地黒溝台で戦死)進行事前準備時,儘可能以不攜帶過多隨身物品為原則,請沿路的村落提供嚮導與糧食補給,全體人員一律配發灑過辣椒粉的雪地用草靴,並準備一條粗麻繩繫住所有人, 防止人員脫隊。 青森第5連隊 青森第5連隊出發後會經過溫泉,所以連隊人員的寒冷天候裝備極度不足,並未請當地居民擔任嚮導工作, 只攜帶地圖與指北針。青森第5連隊的糧食與炊具是自行準備, 並使用雪橇搭載。生存者  最終生還者包含倉石一大尉山形=小説「映画」倉田大尉(加山雄三)、伊藤格明中尉(山形=小説「映画」伊東中尉(故東野英心(東野英治郎(水戸黄門ジジイ)の嫡男(苦笑)、長谷川貞三特務曹長(秋田=鳴沢の炭焼き小屋で発見(1名生存(後藤一等兵)他2名は病院で死亡)=小説「映画」谷川特務曹長)、後藤房之助伍長(宮城=大滝平にて人事不省。1月26日、救助隊に発見された=小説「映画」江藤伍長)、小原忠三郎伍長(岩手=1980年代まで存命=小説「映画」大原伍長)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城=田代元湯付近で救出された=小説「映画」村山伍長(故緒方拳)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手=長谷川特務曹長とともに救助された)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)等11人。 山口少佐,三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐佐木二等卒、小野寺二等六人之後於醫院過世(救出後、病院で容態悪化。死亡した)除倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外、其他人都遭到截肢。 生還者中狀況最好的倉石大尉,日俄戰爭時1905年1月27日死於黑溝台會戰(=戦死伊藤中尉,長谷川特務曹長則身負(=重傷)(また倉石大尉と伊藤中尉(将校)及び長谷川特務曹長(ゴム長靴使用)以外の生き残り隊員は、ほとんどが凍傷により「両手足切断」「義手義足」を強いられた)。 山口鋠少佐的死因[编辑] 2月2日死亡的山口少佐,官方公布的死因為心臟麻痺,也有山口少佐生前心臟就不好的證言。 另外也有著為了將所有的責任推卸給山口少佐而被軍部暗殺的陰謀論,另外也有使用手槍自殺的說法


Nov/10/2017 Good afternoon everybody and Snow covers the ground this morning. . .おはようございます☆昨夜は「暴風」とみぞれ。今朝起きて外に出たら一面銀世界でした(笑)。また風が強くなって今日は冷たく寒い(涙)。昨夜のザ「悪夢」もおかしな内容で参りました(泣顔)+なんか疲れが一気に出た様子で節々が痛い・・・。ちょっと昼寝してまた起きたら再開したいと思いますのでよろしくお願いしますね☆いつもありがとうございます☆PS:福神皆様、こんばんは☆一気に「雪景色」の外(あっという間に「棺桶に氷の花」(笑)に変貌(車が走ったタイヤの跡が凍りついてる(「アイスストーム」(3年前の冬=この一帯、停電が長かった)が心配)。現在 Richmond Hill, ON + A few clouds -7°C 一気に極寒温度へ急降。つい数日前まで芝刈りをしながら、落ち葉集めをしていたのが嘘のよう。そういえばあの傷つき瀕死だったアライグマ・・・一週間後に行った時、同じ場所に死んだまま放ってありました(涙)。どうにもならない実情(自然環境・保護と「人災」の共存?北キツネはじめあらゆる野生?動物の宝庫ザ我国「北の国」は?(嘲笑+嘆息)。今年はホワイトクリスマスになるらしい。ともあれ2年前の冬、とくに年末から年明けにかけてはすさまじい寒さだった(大晦日は暴風雪気温ー25℃)。正月に雪かきで右耳を凍傷でやられました(大雪とー28℃)。そんなこんなながら。↑八甲田山、「史実」(記録・回顧・証言とか)関係の文献や画像と「小説」の設定=そしてそれを一応基礎にして作られた「映画」+テレビ「ドラマ」(神田大尉(村野武範+未亡人(映画・栗原小巻)音無美紀子)徳島大尉(中山仁・妻(映画・加賀まり子)酒井和歌子)山田少佐(高橋幸治))。すべて独自に異なります。個人的には「小説」(中学生が最初=以後、数え切れないほど再読)に親しんで以来、「映画」(むろん「ドラマ」も)は受け付けなくなった。少ない研究家たちが年月をかけて探った総意=遭難事件の「真相」(及び推論)についてはいずれ紹介したいと考えています(同じ経路を逆方向から来た31聯隊と案内人たち。何をみたか?(遭難者たちと接触した可能性+遺体となった5聯隊の兵士発見(従軍記者の東海氏(小説「映画」西海記者)も記録していた)また何をしたか(ここは「推測」だけで、解明はされていない)。「反証」として福島大尉の甥にあたる高木勉氏著の「われ、八甲田より生還すー弘前隊・福島大尉の記録」(サンケイ出版・1978年)がある(しかし内容は「史実」にそぐわない(福島大尉が軍(聯隊)に提出した「記録」(報告)及び「日誌」にのみ立脚)最後に神成大尉が放った絶望の叫び「天は我々を見放したようだ」(小説「映画」では「見放した」)がお得意。我国日本式「流行語」とやらになり、その連動でテレビドラマまで作られた(ため息)。そんなところで一応☆おやすみなさい Nov/10/2017 Richmond Hill Sam  史実との違い[編集] 詳細は「八甲田雪中行軍遭難事件」を参照原作もそうだが、青森と弘前の両連隊の雪中行軍で八甲田で会う約束をしたことはない。またお互いに連絡しあったこともなく、たまたま偶然に3日違いで出発している。 弘前の連隊と青森の連隊との競争意識の中で、編成などが後手に回った青森側が無理をしたことが原因の一つと設定されたが、史実では二つの連隊間で競争を行ったわけではない。三國連太郎演じる山田少佐(史実では山口少佐)が無謀な上司として描かれている点は創作で、そのことからも登場人物はすべて仮名となっている。青森の連隊の硬直した組織が遭難原因のひとつとされている点も創作である。神田大尉と徳島大尉とが酒を酌み交わしながら八甲田での再会を約すシーンはフィクションである。弘前隊が青森隊の遺体を見る場面は実際には無かったとされていたが、のちに福島(徳島)大尉が遺体発見を捜索隊に報告した記録が発見され、当時発行直後に訂正された(訂正させられた)「五連隊の惨死者を発見」という、弘前隊に同行した東奥日報の記事も本当であったことが分かった。神田大尉と徳島大尉とも雪中行軍の経験があることになっているが、神成(神田)大尉は実際は経験がなく、また雪中行軍の指揮をとることになったのは行軍の直前であった。
青森隊最高責任者であった山田大隊長は生還後ピストルで自殺したが、公的な記録では心臓マヒで死去している。両手とも凍傷で指が使える状態では無かった。また発見されて病院に入って、次の日に亡くなっていることから、クロロフォルムを使った薬殺説もある(
ここでも「史実」は弟の発見、生存を知った実兄(退役軍人)の成澤知行中佐(山口少佐(旧姓:成澤鋠)は養子として出された人)が、東京から青森まで来訪。病院で山口少佐と面会した。その直後に死亡している(「拳銃自殺」は凍傷で無理=心臓麻痺とも薬殺ともいわれている=「雪の八甲田で何が起こったか」(川口泰英・北方新社・2001年)+「吹雪の惨劇」(上・下→故小笠原孤酒氏(元新聞記者→両部隊の計画(構想)立案までの過程。そして出発までの背景。さらに全行程を再現(未完成のまま。1989年に死去)生存者の小原伍長(とは入魂の仲だったそう)村松伍長他数名から直接取材もした+新田氏ともむろん面識があり新田氏の夢に「亡霊」が現れた話を伝えると「そんなのしょっちゅうですよ」と笑っていたという→小説の巻末に添付)著)→彷徨中、何度も死に掛けながら山口少佐(一度完全に死亡が確認された)は生きのび「不死身の大隊長」と表現されている)また神成大尉の「凍死」についてもはっきり(発見時は生きていて、「歩いた」との情報も存在)とは証明されていない)きりがありません(苦笑)
原作では、徳島大尉と衝突した案内人達の悲壮な末路が描写されているが、映画では案内人との揉め事はあまり重点を置いて描かれず、逆にさわ女(注)(
実在の人物(記録にも出て来る)です)=秋吉久美子に対して敬礼する場面が描かれるなどされていた。しかし実際は福島(徳島)大尉は案内人に対してかなり厳しい態度で接したと見られ、八甲田で見たことは喋ってはならないと脅された上に、田茂木野で休息なしで引っ返して、凍傷に苦しめられ、生還後の補償も無いままであった。軍はあくまで軍内部で処理して、外部には一切洩らさなかった。
雪中行軍隊が到着したかを青森連隊から三本木警察に電話で問い合わせるシーンがあるが、この当時に電話はなく、実際には電報を用いた。+
「小説」「映画」ともに出て来る第31聯隊雪中行軍隊の斉藤伍長(前田吟)が神田大尉の「従卒」(長谷部二等兵=架空の人物)である弟の遺体を雪中で発見する場面。これもフィクションです。神成大尉の従卒は雪中行軍に参加しなかった。そして福島隊の一員である伍長の弟が5聯隊にいたというのも史実ではありません。また「さわ女」については、「映画」(難関である犬吠峠越え(しかも悪天候)の際)では隊長が感謝し、部隊を整列させ「敬礼」した。「原作」はそれどころかまったく逆=徳島大尉は「案内人は最後尾につけ!」(目的地の近郊)と大声で命令する。さわ女は「もう用はねえってわけかね」(各到着地の「道筋」(迷う心配なくなった)がはっきりした途端にこうなるのは他の経路もいっしょ)と呟き。隊員全員の胸を打った(彼女にすまないと思った)と描かれています。また↑で徳島(福島)大尉が案内人に「口止め」
「箝口令」を布告した場面は「カット」(DVDの編集版で最後に添えられているのもあり)。さらに案内人たちを酷使(史実を知ればひどい実情
小説では書かれている=例:1、徳島隊が三本木(現十和田市)から増沢、田代を経て田茂木野へ向け出発。天候は悪化するばかり。しばらくして案内人は中止して引返すことを進言した。すると突然、徳島大尉は大声を上げて怒鳴り飛ばした「無理か無理でないかは行ってみないことには分からないではないか。案内人ともあろう者がこれくらいの吹雪でびくびくしているとは何事だ」「何を愚図ついておるか。さっさと歩け!」渋々行軍を再開しながらも凄まじい猛吹雪により進路は不明。案内人はもうこれ以上は進めないと具申。徳島大尉は激怒し馬鹿者。田茂木野まで案内する約束で来たのに、いまさら何をいうのだ、このぐらいの吹雪がなんだ・・・どうしてでも案内してやるぞという気持ちになってやってみろ」「弘前歩兵第31聯隊雪中行軍隊の名誉ある蕎導の役を自ら放棄するというのか。貴様達がそうすることは、わが大日本帝国陸軍に向って反逆行為を働くことになるのだぞ。そのことが分かって、言っているのか」村人は諦めて続行するしかなかった2、最難関の鳴沢を踏破するとき、隊長と案内人のやりとり中、ひとりの返答がおかしかった。他の村人たちが笑った(小屋で暖をとり、白湯を飲み、温かいものを食べたのでそれほど元気になっていた)。その笑いが徳島大尉の癇に触れ「余計のことを言うな!訊いたことだけを答えればいいのだ」と一喝を食らわす+史実においても田代平で方向を失う。福島大尉は廃棄された元牧場の「炭焼き小屋」をみつけ(たのも案内人)避難した際、案内人数人を暴風雪の中。温泉(新湯)管理人を呼んでくるよう命じる(発見できず彷徨、遭難寸前に追い込まれてしまう)。善意の村人たちは沈黙を強いられた。だが何十年を経て重い口を開き証言=「29年目の証言」として発表された(五聯隊兵士の凍死体を発見するところも克明に回顧されている=「どんな馬鹿が銃を捨てたのか」(雪原に三八銃が逆さに刺してある(小説・映画ではこの下に弟「従卒」が眠っており、兄伍長(前田)が掘り起こす=PS:ここ(周辺)で2名の遺体をみつけたのは史実=他の案内人はその後「さらに数名」の凍死者を発見ともある)のが目に入ったとき、福島大尉が放った独語)。まあ、しょうがないことなんでしょうけど「映画」は日本式「浪速節」調(お得意’劇的’「お涙頂戴」)に粉飾してある=ブーム?(流行)。あげはじめたらドラマ「電車男」?じゃないけど、まさにきりがない(苦笑)。「映画」をみたら「原作」もお勧めします(小説と「映画」はまた発言や内容も異なる→「実施となればお互いに大変ですな」(門間少佐(31聯隊)故藤岡琢也)「決まった以上仕方ないでしょう」(山田少佐(5聯隊)故三國連太郎)「原作」「大変、何がです。少しも大変なことなどないではありませんか」(これで門間少佐が気分を害すところはおんなじ(笑)=こちらはフィクション(架空の話)ながら、よくまとまった内容(感想)も読んでみることをお勧めします。最後に山口大隊長(及び中隊長(神成大尉)から「解散命令」(行軍3日目=要するに各個、独自に帰路を発見し帰営を目指すよう(方針転換)=遭難し山中を彷徨した部隊は壊滅。兵員損失、減少)が出たとされている=しかし生存者伊藤中尉は否定していた)倉石大尉(と神成大尉は途中で分かれた=しかしこちらは間違い(駒込川の渓谷にどんずまって動けなくなる)で神成大尉の方向こそあっていた皮肉=1月26日、救助隊が後藤伍長を発見(ここで伍長から大隊長他が存命中(31日に救出された)との報告あり)そして伊藤中尉加えて小原伍長など9名(4人が病院で死亡)が崖下の谷間で発見され救助。田茂木野村(から小峠→大峠→大滝平(ここで鈴木少尉(第4小隊長・小説「映画」鈴森少尉=平民出(下の村出身)で田茂木野に一番近いところまで戻っての凍死)及び及川伍長(宮城県出身・小説「映画」押川伍長)の遺体発見。さらに生存者後藤伍長(の発見時も諸説がある)、そして神成大尉の遺体(大尉の軍服ポケットから出てきた「日程表」(公式には「一泊行軍」(田代温泉が到着地)には2泊3日(田代新湯ー増沢ー三本木(ここから汽車で青森に帰営する)の予定が書き込まれていた)がみつかった)→賽ノ河原→按ノ木森→中ノ森→「馬立場」→鳴沢(水野中尉と永井三等軍医(小説「映画」永野軍医)が凍死+第二露営地=大隊本部の興津大尉(小説「映画」沖津大尉)も凍死してしまう)→平沢(第一露営地)→田代温泉→増沢→三本木の経路)とりいそぎPS:ほぼ全部の遺体は「手套」(手袋)なく「裸足」(軍靴或いは地下足袋(の上に藁靴)で出発したものもいた)だったそう(中には目から「出血」している凍死者すらいた=「軍の記録」(歪曲、改竄、誇張表現と文体)と「民間人の手記」(捜索隊→見たままが記録され。ほぼ史実と同じ)隔たり在在+遺体捜索には北海道から、アイヌ人の一行を招いたときもあった)♪雪の進軍氷を踏んでどれが河やら道さえ知れず馬は斃れる捨ててもおけず此処は何処ぞ皆敵の国~ままよ大胆一服やれば頼み少なやタバコが2本~焼かぬ干物に半煮え飯になまじ命のあるそのうちは堪えきれない寒さの焚火煙いはずだよ生木燻る渋い顔して功名談「すい」というのは梅干ひとつ~着のみ気ままな気楽な臥所背嚢枕に外套被りゃ背の温みで雪溶けかかる結び兼ねたる露営の夢を月は冷たく顔覗きこむ~命捧げて出て来た身ゆど死ぬる覚悟で突貫すれど武運つたなく討ち死にせればどうせ生かして還さぬ積もり~♪ 運命の昼食・休憩そして将校会議 「十一時三十分、小峠丘上二達シ・・・此時、風雪漸ク強ク、寒気従テ加ハリ・・・」(「遭難始末」より)出発地田茂木野村から10キロ(上り坂・山系への入口・1902年1月23日午前11時30分)「小峠」で昼食及び休息中。天候は悪化しはじめ軍医から中止勧告を受け、「進退」を決める「将校会議」が開かれた。「中隊長殿ッ、この激変した異常天候が続く中での行軍はどうも無理かと思います。気温もぐんぐん下がる一方で、只今は零下11℃を記録しとります。風速1米毎に体感温度が1度ずつ加算されますから、隊員の体感温度はもう限界にきている様であります。もしこのまま行軍を続行致しますと、奥地に入るほど積雪量も多くなり、寒気も一層厳しさを増してくることは間違い御座いません。そうなりますと、当然のことながら、凍傷患者の続出してくることも充分予想されます。それが現実のものになりますと、われわれ4名だけの衛生員では到底手のつけようが御座いません。どうぞ一刻も早く適切な御処置をお願い申し上げます」「もう小官の手足も感覚を失いつつあります」(永井三等軍医・石川県出身(;_;凍死)「君の考えは原隊に引き返したほうがいいということだね」(中隊長神成大尉・秋田県出身・自決(凍死)「はい、そうであります。そうすることが軍医の立場として、最も賢明な策と信じます。具体的に申し上げますとここで一旦原隊に引返し、さらに重装備に身を固めてから出発しなおした方が、現在のまま進みますよりは、はるかに成功の確率が高いと考えるからであります」「君はこの意見をどう受けとめたか」(山口少佐(大隊長)・東京都出身・病院で死亡)「こうした悪天候で御座いますから原則としては永井軍医には賛成で御座います。しかし先程留守部隊から盛大な歓迎を受け、堂々と踏破を期して営門を出発してきた事情なども考慮してみますと、出発して5時間足らずで易々と引返すわけにも参りません。それに途中幾人かの民間人とも擦れ違っておりますから、当然軍の威信ということも充分考えてかからねばなりません・・・いずれに致しましても、この悪天候の中では、一刻の猶予も許されません。この際小官は指揮官では御座いますが、大隊長殿の適切な御裁断と御命令に従います」(神成大尉)「明治7年1月23日、近衛歩兵第1連隊及び・・・日比谷練兵場の原頭に於いて。卑しくも今上天皇より軍旗各一流を親授されたのでありますが・・・大日本帝国陸軍最初の連隊に軍旗を・・・」(今泉少尉(見習士官・宮城県出身)凍死)「そんなこと誰でも知っとる!こんな一刻を争うような非常時に士官学校で夢見とるようなこと通用せんぞ。もっと具体的に発言せいッ!」(大橋中尉(第2小隊長・山形県出身)凍死)「小官は全面的に永井三等軍医の意見を支持致します。軍医は軍医という専門的な立場で具申しているのでありますから、当然その意見には従うべきだと存じます・・・ましてや、日露間に風雲急を告げる昨今、なおさらで御座います。こうした非常の時に、一兵なりとも無駄にしてはなりません。この際、軍の威信だけに拘ることなく、指揮官の面子は一切捨てて、このまま一旦、原隊に引返すのがなにより賢明な策だと存じます。このままの天候が続きますと、31連隊も容易には踏破出来んと思います」(中野中尉(特別小隊長・宮城県出身)凍死)「この悪天候では到底目的地の田代までは予定通り到着することは不可能ですなァ。とにかく、凍傷患者を出さないうちに中止命令を出すべきだと思います。どうかその様に御処置願います。一刻も速やかに・・・」(興津大尉(大隊本部・熊本県出身(;_;凍死)「一言いっておくが、今回の行軍については諸君も承知の通り、本官には指揮権がないが、行軍を続行するか、または原隊に一旦引返すかについては、神成中隊長に委されておるから、諸君の意見を充分聞いたうえで、本官が決定する」(山口少佐)「大隊長殿ッ、いずれの決定でも構いません。速やかに命令を出して下さい。兵たちは皆寒さに凍えております。この烈風の中での長時間の休憩は危険であります。とにかく、一刻も早く兵に行動を起させませんと、凍傷を招く恐れが御座います。これほどの荒れ模様で御座いますと、普段より日没をむかえるのが1時間乃至2時間は早くなります」(倉石大尉(大隊本部・山形県出身・生還)「われわれ行軍隊は、今より5時間前、千数百名の留守部隊の盛大な歓送のもとに、勇躍田代を目指し・・・これしきの吹雪で引返したのでは軍の威信にかかわります・・・本計画は続行すべきであります」(今泉少尉)「只今の今泉見習士官の意見に賛成であります・・・それに目的地は温泉でもありますから、疲労も充分回復できます。どうか速やかに出発の御命令をお出し下さい(田中少尉(見習士官・秋田県出身)凍死)「貴様等はまだ士官学校を出たばかりで実際の冬山の恐ろしさを知っておらん!あまり躍起にはやるな!」(水野中尉(第3小隊長・神奈川県出身(;_;凍死)「我々将校団は200名の兵士の命を預かっとるんだ。君たちの言動は少し軽率に過ぎる。何が何でも目的を達成すればいいというもんではない。もっと慎重にかからにゃいかんぞ」(伊藤中尉(第1小隊長・山形県出身)生還)結局・・・死の行軍は再開されてしまった「此日午後一時頃、風雪烈シク頗ル進行二困難セル」(倉石大尉の手記より)さらに「夕方ヨリ大吹雪二変ジ、到底進行ノ難キヲ認メ・・・」「天候俄カニ変ジテ雪ハ頻リ二降リツノリ、風ハ烈シク吹キ荒ビ・・・」「寒気激烈、手套ヲトルコト能ハズ」(五聯隊の「遭難始末」より)「風雪はいよいよ激しく、地吹雪の音は薄気味悪く、積雪は胸を没し、人間は歩くというのではなく雪の中を泳いでいるという状態であった。又吹雪のため視界がきかず前列の者がようやく見える程度で息もつまりそうであった」(生存者小原・村松伍長の言葉)
                   屯営の怪:
行軍隊が帰営予定の日を過ぎても戻らず、ほぼ遭難は間違いないとされた頃から、聯隊の営門に立つ兵士を震え上がらせるような事件が起きていた。雪の降る夜、それは八甲田山の方からやって来るという。中隊規模の一群が、隊伍を乱さず整然として帰営を目指しているらしい。当初は嬉しい誤報とも言えるものであった。しかし、時日が経過し、行軍隊の死体が続々と発見されるに及んで、それは言い知れない恐怖に変わった。田代街道の彼方に始まるその気配は、次第次第にはっきり感じられるようになり、帰営を告げる喇叭の音が聞こえると、これを察知したのか、近くの犬が盛んに吠えた。部隊を率いる指揮官の声も聞こえ、一行には到着間近かという安堵の雰囲気さえ広がっていたという。この衛兵の報告はすぐさま連隊内を駆け巡り、噂が噂を呼ぶ事態にまで発展した。そこで、聯隊長は意を決して自らその収拾を図ることにし、一夜、衛兵の詰所に待機してその出現を待った。底冷えのする夜であった。雪が盛んに降りしきり、凍雲月を覆い隠した闇の奥からその気が漂って来たのは、深更も過ぎ、夜明けも間近と思われる頃であった。血相を変えた当番兵の報告を受け、聯隊長は覚えず急行して営門に立った。果たして衛兵の告げた通り、田茂木野方面から部隊が近づいて来るような気配がする。喇叭の音に混じって軍歌も聞こえた。先頭に立つのは某大尉だろうか、足音と共に隊員達の息づかいまで感じられ、そして今まさに姿を現さんかと思われた時、聯隊長はおもむろに抜刀するや、闇に向かってこう言い放った。「雪中行軍の隊員達よ、よっく聞け。お前達は勇戦奮闘して見事な最後を遂げた。今や無情雪裡の鬼と化すとも迷ってはならぬ。お前達の死は決して無駄ではなかった。軍装及び厳寒期の戦術には一大改革が施されることになったぞ。来るべき戦役に於いて未然に軍の損失を防いだその功績は大きい。行軍隊員はみな戦時死亡の扱いを受け、靖国神社に合祀されることになったのだ。迷うな。心安くして眠れ。ここはお前達の来る所ではない。帝国軍人として見苦しい振る舞いはこの聯隊長が許さんっ」と叫ぶなり、指揮刀を大きく振りかざして。「青森第五聯隊の雪中行軍隊、回れ右。前へ進め!」と号令を掛けた。すると足音はピタリと止まり、折り返し八甲田山に向かって静かに遠ざかって行った。それからというもの、二度と屯営に現れることはなかったという。
        屯営の怪(2)・となりの部隊の証言(凍死軍隊の幽霊)
かの二百有余の人々ゲ風雪怒号の間に在りて無残無念の最後を遂げたる二十四日の夜以来、殆ど毎夜の如く、青森なる五聯隊 特に第二大隊(即ち山口大隊)兵舎の電燈ハ、一時に消えて また明るくなると思へば やゲて聞ゆる数十人の靴音どうどうと廊下を踏み鳴らし、今帰つた今帰つたといふ声何処ともなく起るに 人々驚いて起き出て見れハ、惣ちに物音絶えて人の影もなし。又、時としてハ鉄砲を持出す音俄りに各室にひびく、と思へば進軍々歌の声の雪に埋もる 広庭にびびくなど余りの怪しきに、居残りの兵士等ハ静心なく夜の明るを待ちて戸外に出て見れど、何の名残もとどめぬに、却って気味わるく、臆病なるハ一睡も貪り得ぬ程なりと、こハ同隊に信用ある某将校の直話なり・・・・(川口泰英・「雪の八甲田で何が起こったのか」北方新社・2001年)

遭難を招いた理由(個人的分析(見解):
1、未曾有の異常気象(大暴風雪・寒冷前線・空前の気温低下(青森で”最高”がー12℃・山中はー31℃までおちた)。
2、一週間前に行った日帰り予行演習(小峠まで)。晴天にめぐまれ、橇隊(行李兵)はシャツ一枚で汗をかいた。のどかな雪の遠足。楽観と過小評価、油断がまんえん。
3、案内人を断ったこと。道中、村人たちは必死に危険を訴え中止を願った(「山の神様の日」(迷信というより北国山中の土着民たちの「知恵」だとする研究家もいる)。どうしても決行するなら「案内人」が必要だと力説(4年前に8人と13年前は12人、村の若者たちが同じ日に田代温泉を目指して遭難=合計20人が全員凍死)「
此の賽河原と聞へしは生地獄とも称すべき所にして、既に明治二十二年二月二十二日には十二名の苦力氷の小屋にて無惨の凍死を遂げて幽魂宇宙に迷ひければ、人々恐れて近づかず。然るに後に至り無鉄砲なる苦力八名、幽魂などがあるものか死神を見付たら引捉へてやろうと勇気に任して賽の河原に露宿せしに、今迄晴天なりし空、夜半頃より掻曇りて吹雪となり、小屋は忽ち吹倒されて八名とも無惨の凍死を遂げたるより、土地の人々も恐れおののきて近かず、類ひ稀なる魔所として知られたるなり」(「青森聯隊遭難「雪中行軍」)。しかし罵声を浴びせて、まともに取り合わなかった。磁石と地図でなんとかなるとした。「番外編」⇒小池百合子東京都知事への贈物?⇒「孫氏の兵法」には次のような一節がある=「山林・険阻・沮沢ノ形ヲ知ラザル者、軍ヲ行ル能ハズ。嚮導ヲ用エザル者、地ノ利ヲ得ル能ハズ」(山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。嚮導を用いざる者は、地の利を得ること能わず)。孫武がこれを書いたのは2400年前だとされる。この古人の英知を行軍隊は生かせなかった。案内人( 嚮導)を用いるは死活問題だったのである。
5、軍医の中止提案を却下したこと。盛大な見送りを受け数時間前に発った連隊屯営。とちゅうの沿道に日の丸の旗をふって歓迎した村民たち。「軍の威信問題」と「勇気ある退却」を天秤がけ。結局「温泉でも入って気楽にやろう」と行軍継続を決定。日本陸軍に「退却」「撤退」はなく。大惨事に転じる「蛮勇」を誇ったに過ぎないこと。冬季の山脈を踏破し補給・兵站・部隊の移動を行わなければならない。つまり主眼は食糧、弾薬その他を満載して運ぶ「行李隊」(輜重兵)研究・調査(「平地用」の橇を使ったので「横滑り」がひどくて進まなかった(途中で放棄して’歩兵’部隊員(⇒輸送・兵站は任務(専門)じゃない)が背負った)が目的。とかく「攻撃一辺倒」(「作戦計画」優先第一主義)「討ち死」だ「斬り込み」云々と戦闘部隊ばかり重宝。後方担当の特に「補給」「輜重兵」を軽視する日本軍の本質はすでにこの頃姿を現していた。結果として199名(召集兵が大半)を犠牲にすることに。ただし小説及び映画と違って徳島大尉(故高倉健・福島泰蔵大尉・黒溝台で戦死・31連隊(3年間の周到な調査・準備(岩木山予行演習込み)期間=全員「羅紗」(ラシャ=冬季用)軍服着用)と神田大尉(北大路欣也・神成文吉大尉・凍死・5連隊(慌しい立案・計画及び雑多な編成=いわば急ごしらえ)=兵卒は「小倉」(こくら=木綿の夏服)の軍服着用)に面識はなく。通信を交わした記録もない「フィクション」である。さらに小説・映画の設定では徳島大尉は「士族出身」となっているが福島大尉は平民出である。また神成大尉(平民出身)は自らを別に卑下していた様子もない。加えて頑固な猪突猛進将校に描かれている山田少佐(三国連太郎)も実際の山口鋠少佐は温厚な性格だった。生存者・倉田大尉(加山雄三・倉石一大尉)も黒溝台で戦死。伊東中尉(東野英心・伊藤格明中尉)も重傷を負った。倉石大尉は肝臓を病んでいたけど。10日近い雪山で何も食べなかったから治ったという逸話。
PS:映画は栗原小巻女史(神田大尉の未亡人)が深雪。「酒が凍る」ほど寒い’ハズ’⇒山麓の村(-20℃)。暖房もない「遺体収容所」(現れた高倉健は氷まみれ)に’喪服’(着物一枚)姿ですわっとる(~__~;あーたいつからおったん?+ ’草履’はいてどうやって来たんだよ??(いずれにせよ「凍死」したはず)・・・なんかしらけたけど(苦笑)。Richmond Hill Nov/12/2017 ☆怒羅権☆Osama  (注)☆秋吉久美子さま☆(はじめまして(苦笑)ずっとファンでした☆比較的最近ならドラマ「電車男」古くはむろん「八甲田山」(その中間ならドラマ「とんぼ」(「内容」と「設定」はともあれ(長渕氏は極道・ヤクザもの(不自然)にみえない(イチ視聴者の感想)=第2部?哀川翔氏(+ドラマ「クイズ・ショー」)「小川さん・・・」の方がうまかった(「妻たちの犯罪」(「香取さん、かっこいい」+あの日系ブラジル人恐怖の連続暴行魔?「痴漢男」(途中から俄然’いい人?’になっちゃったけど(苦笑))役(伊藤英明氏)⇒AKBのPV「涙サプライズ」でDearest銀ブチめがね愛しのあっちゃん☆(像でお誕生日花束進呈ハンサムなあこがれ?「英語」先生役(びっくりした(苦笑)田中美佐子(さま☆古畑「でもとだってはいわない約束だ」+(夕飯用に鰈(かれい)を買って来て料理したやさしい若奥さま)「・・・オムライスでいい」(市役所職員)「それって**したいってこと?」「はあ~??」(~__~#「怪獣たちとお幸せに」「ただいまっ!」「ブースカブースカ、ブー、ブー、ブッ、ブッ、ブ~~スカあああ~~!!」(*O*;&あのドラマ「ひとさらい」(モントリオール時代に見ました)なんか心に残ってる(苦笑)・柄本明(氏は「南京のシンドラー」で確か松井石根大将役+杉本哲太氏(中島今朝吾中将=『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(ジョン・ラーベ なんきんのシンドラー、原題:John Rabe)は、2009年公開のドイツ・フランス・中華人民共和国合作による映画ドイツ語→ジョン・ラーべJohn Rabe ist ein Spielfilm des deutschen Regisseurs Florian Gallenberger aus dem Jahr 2009(2009年1月公開). Das Filmdrama basiert auf der wahren Geschichte des „Schindlers von China“(”中国のシンドラー”), John Rabe, der 1937 in der chinesischen Hauptstadt Nanjing über 250.000(1937年、南京で犠牲になった25万人の中国人) Menschen gerettet hat. Der für 18 Millionen Euro(1800万ユーロ) produzierte Film (映画製作(撮影)wurde auf der Berlinale 2009(2009年のベルリン) uraufgeführt und lief 2009 mit geringem Erfolg in den Kinos(2009年の映画祭で受賞?).&↑のドラマ「クイズ・ショー」(笑)→(となるとあの「総会屋」ドラマ(「ナンセンス」(+「・・・おじいちゃあ~んん!!(嘲笑)」)~♪オレオレオレオレ今がチャンス~♪山崎努(「古いっていいやがった(涙)」)竹下恵子・清水美沙(映画「四股ふんじゃった」(「きみは一体学校(大学)に何しに来ているの?」(仏語教授役柄本氏(フランス語うまかったですよ!!(感心)⇒自称「フランス人」ポール・ボネ(藤島泰輔)氏及び仏文学専門よしりん企画社長は?竹中直人(映画「スパイゾルゲ」=東条英機(大将=首相)役)・本木雅弘(尾崎秀実)+無関係ながら「おこげ」(Okoge (おこげ Fag Hag) is a gay-themed Japanese film written and directed by Takehiro Nakajima, released in 1992. It is also a common slang term.これ「英字幕つき」(テレビで何回も再放送(~_^;でみた+上のドラマ「ひとさらい」)「なああ~にすんのよお~!!」(お母さん田中女史に首を締め上げられる)でもあの小肥り刈上げオカマおっさん「妻の弥生で~すっ!」(ゲゲッ?)、誘拐犯として出演?)⇒北米で話題(特に日系人の間で)になってました(笑)誉の平安閣?結婚式「歌を歌わせていただきます」(仲人)~♪??ニコニコ~♪新郎役尾美としのり氏~♪仲間仲間なかま~♪(教育テレビ→時計が止まってて(ゆうゆうとマンガを読んでた)「メシも食わずに」映画鑑賞に赴くはめ(笑)(+映画「転校生」&ドラマ「転校少女Y」(笑)=渡辺謙(熱血教師(「カーディーラーの横山で~すっ」=バレー部監督(コーチ)・高部知子(「積み木くずし」ニャンニャン事件後(著書「告白ハンパしちゃってごめん」(読みましたよ(笑))、復帰第一作)「誰よりもママを愛す」(小林聡美女史「やっぱり、一夫ちゃんだっ」「なにしてきたのっ?!」(ギフト)横に往年の「大塚くん」+「西尾くん」は「名探偵コナン」(笑))=小学校「道徳」時間に白黒テレビでみさせられた(苦笑)「やめてくださあ~~いっ~!!」新婦が泣き崩れる・・・ 根岸季衣女史「やったわね~・・・」(激怒→映画「野獣死すべし」ドラマ「煙が目にしみる」(笑)+「北の国から」(遺言)無責任~♪言い訳Maybe~♪白板(家十八番?)お兄さん「借金ふみたおし」の被害者(苦笑))&~♪そうさ100%勇気!もう頑張るしかないさ~♪(アニメ「忍たま乱太郎」OP「勇気100%」=光GENJI、93年)ドラマ「太郎鯉?」(故緒方拳氏(床屋さん役)と共演=これもモントリオール時代(少ない日系の誰かから借りたビデオ)きりないっスね(再笑)・飯島直子(さん(地元横浜=桜木町?(なつかしい(涙)ドラマ「人生は上々だ」+「HERO」応援してました(照)☆湘南(江ノ島?)で暴走族「ピエロ」にナンパされたんスよね(爆笑)もおなじく)。いま思い出した(苦笑)も含め「パーマネントブルー・真夏の恋」(1976年9月23日(木)公開 瀬戸内海に面した四国の港町を舞台に、過激派女子大生とひとりの受験生の間に芽生えた愛が壊れるまでを描く純愛篇。脚本は「凍河 とうが」の石森史郎と「さらば夏の光よ」のジェームス三木の共同、監督は「忍術猿飛佐肋」の山根成之、撮影は「凍河 とうが」の坂本典隆がそれぞれ担当。1977年?(確かこれも「平日の午後」再放送だった(苦笑)+小学生でした(照)=あの「洞窟内」での場面は度肝を抜かれました(「愛してるわ、心から」(秋吉女史)タバコばっかり吸ってた坊ちゃん(笑)「あっ、あんたがわしを?」(*__*;+(佐藤 佑介(さとう ゆうすけ、1959年7月3日 - 2009年9月22日[要出典])は、日本の俳優=故人になっていたとは知らなかった→追悼&慰霊(涙)島から(生活物資調達及び食料補給)帰ったら待ち構えてた?駐在(巡査)さんにとっつかまって交番の机に「手錠」(;__;その間に「逮捕」「拘束」(涙)ひたすら懐かしいだけ☆)最後(の別れ=秋吉女史は「警察」に連行され海上。どんどん遠ざかっていく。間に合わなかった坊ちゃんは島から眺めながら船(秋吉女史が綴ったスプレー書き「パーマネント・ブルー」がどんどん焼けていく)を(炎上?)燃やす)悲しかった(涙)次々「記憶」がよみがえってばかり(苦笑)&これまた何十年ぶり(苦笑)Bonne Chance!! Nov/24/2017PS:きりのない、脱線。失礼しました(注):「この有様はまるでこの世のものとは思われぬ凄まじさじゃないか、まるで地獄の世界だッ。不倶戴天とは正にこんな時に使うことばだッ。今さら云ってもしょうがないが、とにかく、小峠で、永井君の具申通り一旦原隊に引返していればよかった。正に千載一遇の好機を逃したよ」(興津大尉)「残念だけど仕方ない」(倉石大尉)「・・・もうここまできたら、無駄な議論をするよりは、成功第一主義に徹するべきだ。それが賢明であり得策だ」(興津大尉)「成功第一主義に徹するべきだとのお言葉で御座いますが、興津大尉殿には成功の公算がおありで御座いますか」(中野中尉(小説「映画」中橋中尉)「うん、それを今、たった今考えておったところだ。しかし、むつかしい。雪にはほとんど縁のない、熊本出身の俺には本当にむずかしい。雪上の作戦はとにかく俺は苦手だ」(第一露営地の雪濠内での雑談)。『八甲田山死の彷徨』(はっこうださんしのほうこう)は、世界山岳史上最大とも言われる犠牲者が発生した、青森県八甲田山における山岳遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材として新田次郎が執筆した山岳小説である。1971年(昭和46年)9月、新潮社より書き下ろしで刊行された。1978年(昭和53年)2月、新潮文庫版が刊行された。1977年(昭和52年)、『八甲田山』のタイトルで映画化された(高倉健、三國連太郎、北大路欣也主演)。実際の事件との相違[編集]この作品はノンフィクション小説として扱われることも多いが、際には、事実を題材としながらも作者自身の解釈や創作が加えられたフィクションである。作品中では青森第5連隊と弘前第31連隊が共通の目的の下に協調して雪中行軍を計画したように描かれているが、これは事実ではない。実際には双方の計画は個別に立案されたもので、実施期日が偶然一致したにすぎない。また、作中で描かれる双方の指揮官の交流も新田の創作であり、両隊になんらかの情報交換があったか否かについては、現在残されている資料からは確認できない。人物描写の都合上メインとなる神田大尉(史実の神成文吉大尉)と山田少佐(史実の山口鋠少佐)の描写も、神田大尉寄りにかなり脚色されている。本事件については、新田の小説に先行して、青森県の地元紙記者だった小笠原孤酒が長年にわたる資料収集や第5連隊の生還者(小原元伍長)への聞き取り調査などに基づいてまとめた書籍『吹雪の惨劇』が存在した。こちらは『八甲田山死の彷徨』とは違い、ノンフィクションを志向している。ただし、出版社を通さない私家本であるため、『八甲田山死の彷徨』に比べ知名度は低い。これを知って取材を申し入れた新田に対し、小笠原は資料提供や現地案内など多くの助力を提供した。新田もあとがきで小笠原に対する謝辞を記している。一方で、新田が作品中で遭難に至った青森第5連隊の行軍計画を「人体実験」と表現した点について、小笠原は大きなショックを受け、作品そのものについては否定的な評価を残している。小笠原の足跡などを記した書籍『八甲田死の雪中行軍真実を追う』(三上悦雄、河北新報出版センター)も存在する。The Hakkōda Mountains incident (八甲田雪中行軍遭難事件 Hakkōda Settchū Kōgun Sōnan Jiken) occurred on January 23, 1902(1902年1月23日に起った(発生), when a group of Imperial Japanese Army soldiers became lost in a blizzard on the Hakkōda Mountains in Aomori Prefecture in northern Honshu, Japan(日本本州の北部にある青森県八甲田山中において猛吹雪の中、大日本帝国陸軍の兵士たちが遭難), en route to Tashiro Hot Spring located in the Hakkōda Mountains(八甲田山系内の田代温泉を目指した経路(道程). The 199 deaths during a single ascent make it the world's largest mountaineering disaster in the modern history of mountain climbing(単一としては世界の山岳史上(近代登山(登頂)史)最大(空前)の惨事=199人が死亡). The Imperial Japanese Army's 8th Division's Fifth Infantry Regiment was stationed in the city of Aomori(青森に拠点を置く(駐屯する)大日本帝国陸軍第8師団に属する歩兵第5聯隊). The Imperial Japanese Army deemed it necessary to secure a route through the Hakkōda Mountains in the event that roads and railways were destroyed by shelling of the Aomori coastline by the Imperial Russian Navy during wintertime(冬季に青森沿岸がロシア帝国海軍による艦砲射撃で道路および鉄道線路が破壊された場合。代る道筋が必要とされた). Training in movement during winter conditions(冬季における演習) was also deemed necessary in light of a potential war with Russia(開戦の潜在(可能)性がある対ロシア戦争において必要だと思われた), so a wintertime crossing of the Hakkōda Mountains was planned(それが故、冬季八甲田山系踏破が計画(図案)された).The 210-man unit that made the march into the Hakkōda Mountains in the snow was selected from the 3,000-man Fifth Infantry Regiment(歩兵第5聯隊3000名の中から選ばれた210名が八甲田山雪中行軍に参加), but consisted of many men who originated from a region with little snow(しかし、多くの隊員が雪が少ない地域出身) and(さらに) lacked experience in climbing snowy mountains(雪山登山の経験を欠いていた). The unit set out from Aomori at 6:55 AM on January 23, 1902(1902年1月23日午前6時55分、雪中行軍は青森(屯営)から出発). Their objective was Tashiro Hot Spring located 20 kilometres (彼らの目的地は20キロ離れた八甲田山系内の田代温泉=12 mi=12マイル) away in the Hakkōda Mountains.At 4:00 PM, the unit reached the summit of Umatateba (午後4時、一行は最標高(732メートル)の馬立場に到着=732m / 2,402 ft(2400フィート), which was only four kilometers from the first day's objective, Tashiro Hot Spring,(初日の宿泊地田代温泉から僅か4キロの地点) but the weather changed suddenly(ながらも天候は突然悪化), and (加えて)they were struck by a severe blizzard(行軍隊は猛吹雪に阻まれた). In the midst of the deep snow and blizzard(豪雪と猛吹雪の中), the soldiers wandered the northeast slope of the Hakkōda Mountains for several days(兵士たちは北東に傾斜する八甲田山系を数日に渡って彷徨), with 193 of the 210 men freezing to death en route(道上で210名のうち、193名が凍死), and(加えて) a further six died within two months after rescue(救出後2ヶ月足らずでさらに6名が死亡). Eight out of 11 survivors had to have limbs amputated due to serious frostbites(ひどい凍傷により11名の生存者中、8名が手足を切断). The unit missed the expected return date on January 24th(行軍隊は帰営予定日の1月24日に戻らなかった), but the regimental HQ at Aomori remained optimistic until January 26(しかし1月26日まで青森聯隊の本部は楽観的だった), when a 60-man rescue party to track(60名の救助隊が組織) and(及び) find the missing men was dispatched(行方不明の将兵たち捜索のため派遣された). On January 27(1月27日), the fifth day since their departure(出発後5日目), Corporal Fusanosuke Goto(後藤房之助伍長), standing buried in the snow(が雪に埋まり直立していた), became the first survivor discovered by the rescue party(最初に救助隊が発見した生存者). The disaster which struck the unit marching through the Hakkōda Mountains was established based on Corporal Goto's testimony(惨劇は聯隊を震撼させ、後藤伍長の証言をもとに八甲田山に向け捜索隊が編成された).

↑福島泰蔵大尉

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