日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2017④


凋落する権威
1982年が明けるとともに、ブレジネフはにわかに凋落の色が濃くなった。


Семён Кузьми́ч Цвигу́н (28 сентября 1917 — 19 января 1982) — советский государственный деятель, первый заместитель председателя КГБ СССР (1967—1982).谢苗·库兹米奇·茨维贡Semyon Kuzmich Tsvigun(俄語:Семен Кузьмич Цвигун,1917年9月15日-1982年1月19日),乌克兰族,苏联党务活动家,作家,克格勃第一副主席(1967-1982年在位)。[1]1978年大将军衔。
KGB副議長の怪死
82年1月19日、高名なチェキスト(秘密警察官)、セミヨン・クジミッチ・ツヴィグン上級大将(64)が死んだ。党中央委員・国家保安委員会(KGB)第一副議長だった。党政治局員・KGB議長のアンドロポフにつぐ秘密警察の最高幹部で、ソ連の国内治安とブレジネフの身辺警護の責任者だ。ツヴィグンとブレジネフの結びつきは古い。1950年代のはじめ、ブレジネフがモルダヴィア党第一書記だったとき、ツヴィグンを同共和国のKGB次官に起用して以来である。
その後、ツヴィグンはタジク、アゼルバイジャン両共和国のKGB議長を経て、ブレジネフが書記長になって間もない1967年に、連邦のKGB第一副議長に登用された。前年春の第26回党大会で中央委員に選ばれたばかりである。しかも、ツヴィグンはブレジネフの妹と結婚しており、書記長の義弟に当たる。ブレジネフの腹心のなかでも、もっともブレジネフに近い要人だったのだ。
ところが、その死をめぐって謎が生じた。1月21日付の党機関紙『プラウダ』に載った公式追悼文の末尾に、ブレジネフの署名がなかったからだ。ソ連では、党の中央委員候補、政府の閣僚、軍の大将クラス以上の人物が死亡したときには、『プラウダ』にブレジネフを筆頭とするクレムリンの要人たちの署名入りの追悼文が掲載されるのが通例である。
ツヴィグンの場合は、署名はアンドロポフKGB議長からはじまっていた。明らかに異常である。このことは、2月10日に死んだモスクワ軍管区の軍事会議議員・政治本部長、コンスタンチン・ステパノヴィッチ(75)の追悼文にブレジネフが署名しているのと比べるとはっきりする。グルシェヴォイは中央委員候補であり、大将にすぎない。ランクが一段上で、姻戚関係にもあるツヴィグンがブレジネフによって無視されたということになる。
しかも、ツヴィグンの追悼文はグルシェヴォイに比べてめだって短く、署名者の数も少ない。そっけない扱いだ。そのうえ、ツヴィグンが葬られたのは、名誉あるクレムリンの壁ではもとよりなく、格式が一段下のノヴォデヴィチ修道院の構内だった。それも要人用のゆったりした特別墓地ではなく、小さな墓がひしめき合う共同墓地だった。
何かおかしい。『プラウダ』は「長い間の重い病気のすえ」死亡したと書いたが、モスクワの「信頼できる消息筋」(複数)は自殺だと述べた(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙ほか)。これらの消息筋によると、ツヴィグンは、権力のトップにかかわる汚職事件を、KGBの内部でもみ消そうとして失敗し、毒をあおったのだという。ツヴィグンが、ブレジネフの後ろ盾であるスースロフ政治局員・書記(1月25日死亡―後述)と激しく議論し、スースロフが「君はもう、ピストル自殺でもするほかはない」といい捨てたあと、死を選んだともいう。
ただ、KGBや内務省が2年ほど前から力を入れてきている汚職摘発が、ツヴィグンとそれに続くスースロフの死後、それまでの商店の会計係やせいぜい工場長のレベルから一挙にエスカレートして、ブレジネフの間近に迫ったことは事実である。


Гали́на Леони́довна Бре́жнева (18 апреля 1929, Свердловск, СССР — 29 июня 1998, Добрыниха, Московская область, Россия) — дочь Генерального секретаря ЦК КПСС Леонида Ильича Брежнева. Приобрела негласную скандальную известность благодаря своему эксцентричному и своенравному характеру, что не освещалось в СМИ, но активно обсуждалось в обществе.Galina Leonidovna Brezhneva (Russian: Галина Леонидовна Брежнева; 18 April 1929 – 30 June 1998) was the daughter of Soviet politician and longtime General Secretary Leonid Brezhnev and Viktoria Brezhneva.
身辺に迫る汚職追及 
1月29日、“ジプシーのボリス”と愛称され、ボリショイ劇場の舞台にも立つ著名な民族舞踊ダンサー、ボリス・ツビゴフがKGBに逮捕された。ダイヤと外貨のヤミ取引の容疑である。ツビゴフは、その名声で稼いだ富とダンディーぶりでも有名な人物。彼がブレジネフの娘ガリーナ(53)-チュルバノフ第一内務次官(当時)の夫人=のごく親しい男友達の1人であることを知らぬ者はなかった。そのツビコフの逮捕は、スースロフの葬儀の当日に行われた。上層部からの逮捕差し止めを避けるため、KGBがこの日を選んだといわれた。
1週間後、国立サーカス公団総裁のアナトーリー・コレヴァトフが内務省によって逮捕された。同総裁の自宅から、100万ドル以上に相当するダイヤのコレクションと、30万ドルの外貨が押収されたという。サーカス公団のメンバーの海外公演を許可することに、リベートとして貢がせていたらしい。サーカスとブレジネフ一家のつながりは深い。書記長自身、少年時代からサーカスのファンで、故郷ドニェプロペトロフスク州の元サーカス団長とは晩年まで親しく付き合ったといわれる(J・ドーンバーグ『ブレジネフー権力の顔』)。
とりわけ娘のガリーナは、ボリショイ・サーカスのスターと結婚していたこともあるといわれるほどのサーカス好き。コレヴァトフ総裁とブレジネフ一家との関係の深さもよく知られていたようだ。さらに当時、モスクワでしつこく流れていたうわさでは、ブレジネフの子息で、外国貿易省の第一次官のユーリー・ブレジネフが、2月末、KGBで査問を受けたという。ブレジネフ自身は“治外法権”だとしても、娘の親友や家族ぐるみの交際が想像される人物、さらに息子にまで汚職追及の手が伸びたといわれたことは重大だ。少なくとも書記長の人格的権威を少なからず傷つけたことは否定できない。


Ю́рий Леони́дович Бре́жнев (31 марта 1933, Каменское, Днепропетровская область — 3 августа 2013[1], Москва) — советский государственный и партийный деятель, сын Генерального секретаря ЦК КПСС Леонида Ильича Брежнева.Yuri Leonidovich Brezhnev (Russian: Юрий Леонидович Брежнев; 31 March 1933 – 3 August 2013) was the son of Soviet politician and longtime General Secretary Leonid Brezhnev and Viktoria Denisova.

ミハイル・アンドレーエヴィチ・スースロフ(ロシア語: Михаил Андреевич Суслов, ラテン文字転写: Mikhail Andreevich Suslov、1902年11月21日 - 1982年1月25日)は、ソビエト連邦の政治家。フルシチョフ、ブレジネフ時代のソ連共産党イデオロギー担当書記。クレムリンに君臨し、その黒幕的な役割から、「灰色の枢機卿」、「陰の実力者」の異名をとった。米哈伊尔·安德烈耶维奇·苏斯洛夫(俄語:Михаил Андреевич Суслов,1902年11月7日-1982年1月26日),苏联政治家,长期担任苏联共产党中央政治局委员和中央书记处书记,苏联共产党中央委员会国际部部长。在最高权力核心担任要职,负责苏联意识形态工作。
相ついで盟友去る
ツヴィグンが怪死した6日後の1月25日、スースロフ政治局員・書記が心臓病で79歳の生涯を閉じた。モスクワでは、ツビコフやコレヴァトフの逮捕は「スースロフの生前には考えられもしなかった」との声が出た。そして、これらの逮捕の情報が公式発表もないのに広く流れること自体、「クレムリン内部にブレジネフに敵対する勢力があることを示しており、スースロフ死後、この勢力はより勢いづいている」という観測が生まれた(ロイター、UPI)
マルクス・レーニン主義理論の権威であるとともに、永年のクレムリンを舞台に権力闘争できたえ抜かれたスースロフは、ブレジネフ体制の”守り神“だった。かつて書記長のポストをうかがおうとしたシェレーピン書記や、最高会議幹部会議長の職をブレジネフに譲るのをしぶったポトゴルヌイ政治局員を、横合いから斬って捨てたのがスースロフだ。今後もブレジネフにしぶきがかかりそうな汚職摘発を、事前に食い止めるべく、ツヴィグンをきびしく督励したであろう。ツヴィグンが期待を裏切ったとしても、スースロフは次に打つ手を考えていたに違いない。
「ブレジネフ書記長はスースロフ氏の死に接し、精神的に強い衝撃を受けており、どっと疲れがでたようにみえる。葬儀のときにも立ち続けることができず、何度も坐り込んでしまった」-2月1日、モスクワからの外電は、消息筋の話として、こう報じた。
遺体がレーニン廟の背後、スターリンの墓の左隣に葬られたことは、彼が“レーニンの弟子”の列に加えられたことを意味する。クレムリンからかなり離れたノヴォデヴィチ修道院に埋葬されたフルシチョフ党第一書記はもとより、クレムリンの城壁に遺骨を埋め込まれたコスイギン首相よりも、一段と高い礼遇を与えられたのである。だれの目にも明らかなこの扱いの違いは、スースロフの存在がクレムリンのなかで、いかに大きな比重を占めていたかを示している。それだけに、スースロフの“退場”がブレジネフに与えた衝撃は、限りなく大きかったであろう。
ツヴィグン、スースロフに続いて、ブレジネフが失ったのが、前にもふれたグルシェヴォイ将軍だ。ブレジネフとは、前後して故郷のドニェプロジェルジンスク冶金大学で学び、その後、ドニェプルぺロフスク州内の党機関で、ともに書記として働いた仲である。第二次大戦の突発とともに、政治将校の道をすすみ、ブレジネフが書記長になると間もなく、首都モスクワを管轄するモスクワ軍管区の政治本部長に据えられた。

軍は、時として権力闘争に大きな役割を演じる。1953年のベリヤ副首相・内相の逮捕、粛清を執行したのは高級軍人だったし、64年のフルシチョフ解任の際にも、軍はその飛行機や逓信手段を動員して、反フルシチョフ勢力の結集に貢献した。
ブレジネフは青年時代から気ごころを知り尽くした盟友グルシェヴォイに、モスクワ軍管区の忠誠を保証させていたのである。頼りにしていた大物スースロフに続いて、忠実なる昔なじみを失ったブレジネフの悲しみは深い。将軍の葬儀でブレジネフは、人前もかまわず、取り乱して泣いたのだった。


1982年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
1、ウスチノフ国防相 2、ブレジネフ書記長3日後の10日に急死 3、チーホノフ首相 4、チェルネンコ政治局員 5、アンドロポフ国家保安委員会(KGB)議長 6、グリシン政治局員 7、グロムイコ外相 8、ロマノフ政治局員 9、ゴルバチョフ政治局員 10、ソロメンツェフ(政治局員候補)ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国閣僚会議議長(首相)
識別の対象に
3月に入ると、レニングラードの文芸雑誌がブレジネフを痛烈にあてこすった作品を掲載したことが話題になった。『アウローラ』誌の前年12月号に発表されたもので、発売当時はほとんど注目されなかったが、その後、同誌がひそかに回収され、コリシン編集長が解任されたことから依然、注目を集めた。問題の作品はヴィクトル・ゴリャフキンと署名のある「誕生日の祝辞」と題した1ページの小品。功成り名遂げた老作家の誕生日に際して親しい仲間が讃辞をこめて祝辞を述べる諧謔をこめて祝辞を述べるというスタイルをとっているが、レーニン文学賞に輝く“老文豪”ブレジネフを諷刺していたのではないかと誰もが感じた。この小品にはこんな言葉がちりばめられていた。
「このすばらしい作家が存命中だとは考えにくい。あんなに多くの本を書いた人なのだから、だれだって、あれだけの本を書いたらもうとっくに墓場に横たわっているだろう。だが、この人は、本当に並の人間ではない。彼は生き、われわれの驚くべきことに、死ぬことなど考えもしない。多くの人が、彼が故人だと思う。それほど彼の才能に対する驚嘆は大きい。バルザック、ドストエフスキー、トルストイだって、他の偉大な古典作家たちと同じように、とうにあの世にいるではないか。彼のいるべき場所はあの世の、彼らのわきにある・・・」
「一昨日、私は彼が死んだと聞いた。・・・本心をいうと、わが親友にして同志である彼のために喜びと誇りを感じた・・・」「喜ぶのは早かった。しかし、われわれは長く待つことはないだろう。彼はわれわれを失望させはしない・・・」
この小品は12月号の75ページに掲載された。12月にブレジネフは75歳の誕生日を祝ったのである。共産党書記長が文芸誌にからかわれたようにみえた。
不吉なウズベク旅行
ブレジネフは3月になって、ヤルゼルスキー・ポーランド党第一書記、コイビスト・フィンランド首相と会談したあと、22日から4日間、ウズベク共和国へのレーニン勲章授与のためタシケントを訪れた。24日にその授与式で、約1時間にわたって対中関係の改善を呼びかける演説を行った後、25日、同共和国党中央委で再度演説してモスクワに帰った。24日の演説を伝えたテレビの画面では、演説の後半からブレジネフの表情に明らかに疲労困憊の色がうかがえた。25日のモスクワ帰着の模様をテレビは映像抜きで報じた。ブレジネフはこのとき、担架で飛行機を降り、そのまま救急車で病院に運び込まれた。
マウノ・ヘンリク・コイヴィスト(フィンランド語: Mauno Henrik Koivisto、1923年11月25日 - 2017年5月12日)は、フィンランドの政治家。同国大統領(第9代)、また2度にわたり首相(第46・55代)を務めた。
一説によると、ウズベクでブレジネフが工場を訪問し、労働者の前で演説中、「おいぼれ、ひっ込め」と野次が飛んだ。また工場内の視察中に突然、建物の1部が崩れ落ち、書記長は危うく下敷きを免れたが、側近の1人が重傷を負ったともいわれる。これらの相つぐハプニングで、ブレジネフは大きなショックを受け、心臓の調子を悪くしたのだという。

重態説流れる
これらの演説の真偽はともかく、29日から予定されていた南イエメン大統領の訪ソが、27日に突然延期になった。書記長の主治医である全ソ心臓病学センター総長エフゲーニ・チャゾフ教授は、自身の病気を理由に、30日に予定されていた英国訪問を取り止めた。公式発表はないものの、“ソ連筋”も書記長の春の“通常の休暇”を確認し、ある者は入院をも認めた。さきの旅行中に心臓発作を起こしたためとも、足に血行障害がみられたためともいわれた。1部では重態説がささやかれ、5月後半にも辞任するという見方(米誌『ニューズウィーク』)さえ出た。
4週間後、ブレジネフは4月22日のレーニン生誕112周年記念集会や、メーデーの赤の広場のパレードに姿を見せたものの、その足どりはおぼつかなく、顔にはむくみがみられた。そして7月3日には早ばやと夏の“通常の休暇”に入った。静養先のクリミアでは、恒例の同盟諸国首脳との個別会談を行ったが、チェコスロヴァキア、東独、ポーランド、モンゴルの首脳とだけで、例年より会談の数が減った。
失態のバクー訪問
8月31日にモスクワに戻ったブレジネフは、9月になってデクエヤル国連事務総長、ガンジー・インド首相との会談や女性宇宙飛行士スヴェトラーナ・サヴァツカヤらへのレーニン勲章授与式、バグラミヤン元帥の葬儀などをこなした後、同月24日から27日まで、アゼルバイジャン共和国へのレーニン勲章授与のためバクーを訪れた。
26日、勲章授与式でブレジネフは演説の原稿を取り違え、途中ではじめからやり直すという失態をみせた。全国向けテレビで同時放映されたこの演説の開始3分後、演壇後方のヒナ壇にいたアレクサンドロフ=アゲントフ補佐官がつかつかと書記長に近づき、別の現行を手渡した。書記長が読んでいる原稿は予定されたものとは違っていたのだ。テレビ・カメラはすぐに反転して聴衆の方に向けられた。ブレジネフの言葉がもつれ出し、声が次第に小さくなって全く途切れると、会場内にざわめきが起こった。この間約1分。演壇のブレジネフが何をしているのか全く分からない。ざわめきが収まるとブレジネフは、開口一番、「同志諸君、私の責任ではないんだが、はじめからやり直さなければならない」。どっと笑いと拍手が起こった。ブレジネフは改めて手渡された原稿を読みはじめた。
このハプニングは、アゼルバイジャン人の聴衆から東洋的な寛容さで、むしろ温かく迎えられたのだが、ブレジネフの演説が補佐官の準備した原稿の棒読みにすぎないという楽屋裏をさらけ出した。ヒナ壇に並んだお歴々のなかには失った風の人物も目についたという。やり直しの演説でブレジネフは、アリエフ・アゼルバイジャン党第一書記ら現地指導部の業績を称賛し、国際問題ではデタントの深化と拡大や中国との関係改善を呼びかけて、なんとか約40分をつとめた。だが、途中と最後の部分でいいよどみ、アリエフ第一書記は気が気でない様子だったと西側の新聞は伝えた。
イワン・フリストフォーロヴィチ・バグラミャン(ロシア語: Иван Христофорович Баграмян, アルメニア語: Հովհաննես խաչատուրի Բաղրամյան;1897年12月2日 - 1982年9月21日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。ロシアでは「イワン・フリストフォーロヴィチ・バグラミャン」と名乗ったが、アルメニア人としての本名は「ホヴハネス・ハチャトゥリ・バグラミャン」(Հովհաննես Խաչատուրի Բաղրամյան, Оване́с Хачату́рович Баргамян)である。


急死
バクーから帰ってすぐ、ブレジネフはカイソン・ラオス人民革命党書記長・首相Kaysone Phomvihaneと会談したあと、10月にはソ連軍指導者会議で演説し、11月には革命65周年記念式典の行事をこなした。これらがブレジネフの最後の政治活動になった。
異例のソ連軍指導者会議
10月27日、クレムリンでソ連軍の各軍管区、艦隊、在外軍の指揮官、政治部長、参謀長、国防省諸機関の指導者を集めた大がかりな会議が開かれた。ブレジネフはこの会議で、欧州での新型中距離ミサイル配備準備など米国が軍事的に対ソ攻勢をかけている情勢下で、中国との関係改善の重要性を指摘するとともに、米国の出方にも拘らず、ソ連が「緊張緩和と国家安全の強化」の政策を推進してゆくことを強調した。永年にわたって軍事的に対峙してきた中国との関係を、党指導部が1982年はじめからしきりに改善しようと試みていることの意義を説明し、一方、81年11月からジュネーヴではじまった欧州中距離核戦力(INF)制限交渉など対米関係調整のための党の努力に理解を求めたものとみられた。
注目されるのは、ブレジネフが演説の冒頭で、「軍指導者諸君と会見するというウスチノフ同志の提案」を受け入れたと述べ、しめくくりの部分で、軍の課題の遂行の総指揮をとっているウスチノフを「党に忠実な息子、政治局員、わが戦友」とほめ上げていることである。つまり、ブレジネフはウスチノフによってこの会議に引っ張り出され、「ウスチノフをよろしく頼む」と軍幹部に懇請した形なのである。国防相に就任以来、金や資材、燃料、弾薬などの節約をきびしく軍に要求してけむたがられ、しかも軍紀の弛緩や兵員の士気の低下などに当面したウスチノフが、ブレジネフを利用してその地位のテコ入れをはかったものとする見方もあった。いずれにしても、このような大がかりな会議を書記長が自らのイニシャチブで招集したのでなく、お膳立てされた会議に呼び出されたことは、その権威を疑わせるものであった。

最後の革命記念日 
11月5日夕、クレムリン大会宮殿で革命65周年記念式典が催され、グリシン政治局員・モスクワ市党第一書記が「10月革命の事業を引き継いで」と題して報告した。ブレジネフも他の政治局員たちとともに列席した。翌々7日には赤の広場で、恒例の軍事パレードと勤労者代表のデモ行進がくりひろげられた。寒風のなかブレジネフは、2時間もレーニン廟の上で観閲した。この日、ブレジネフは観閲台の中央に立つと、サービス係らしい男性からコップを受け取って口に運んだ。しばらく軍事パレードを見守ったあと、ブレジネフ書記長は隣のチーホノフ首相に「ちょっと休むよ」とでも断った様子で、数歩、後ろにさがり、腰を下ろすところがテレビに放映されたという。
その日の夕方、クレムリン大会宮殿で開かれた祝賀レセプションで、ブレジネフは簡潔なスピーチを行い、「われわれは軍事的冒険の愛好者が決してソ連に不意打ちを食わせることのないよう、また潜在的侵略者が壊滅的報復打撃を避けられないことを認識するよう必要なすべてのことをするだろう」と、米国の対ソ強硬路線に警告した。これら一連の活動ぶりから、ブレジネフの健康は小康状態がみられた。
孤独な急死
その3日後、11月10日の午前8時30分、ブレジネフは急死した。持病として動脈硬化症、心筋障害などがあり、直接には「心臓の急激な停止」によるものと公表された。モスクワ市民の間に流れた話として西側通信社が伝えたところでは、ブレジネフは自宅の書斎で、家族のだれにもみとられることなく孤独な死を遂げたという。10日の朝、ブレジネフがなかなか朝食をとりに出て来ないので、家人の1人が書斎をのぞきにいったところ、書記長は自分の机の上に倒れかかるようにして死んでいたというのである。
18年間にわたったブレジネフ時代は、こうしてあっけなく幕を閉じたのである。



ブレジネフ後継争い
ブレジネフの死去発表の2時間後、ユーリー・ウラジミール・アンドロポフ政治局員・書記の葬儀委員長選任が公表され、翌々日の1982年11月12日午前に開かれた党中央委臨時総会で、アンドロポフが書記長に選出された。すでに68歳で、ソ連党史上最高齢の書記長である(因みにレーニンは33歳、スターリンは43歳、マレンコフは51歳、フルシチョフは59歳、ブレジネフは57歳で党首になっている)。ブレジネフは、その治政の後半、ほぼ10年間は健康の不調に悩まされていただけに、後継問題が早くからささやかれ、クレムリン内部で暗黙のうちに権力闘争がくりひろげられていた。
クラコフの躍進
1970年代後半に入って、ブレジネフ後継の有力候補として、フョ-ドル・クラコフ政治局員・書記が注目された。1965年9月、ブレジネフのライバルであるポドゴルヌイ系のチトフ書記と入れ替わりの形で書記局入りしたクラコフは、ブレジネフ農政の推進者となった。1918年にロシア共和国のクールスク農業大学を卒業して農業専門家になった。この間、タンボフ州やペンザ州の農業技師として働き、55年ロシア共和国農業次官、60年同共和国穀物生産相。同年、スタヴロポリ地方党委第一書記に転出したが、65年党中央委書記兼農業部長に引き抜かれた。61年から党中央委員、71年の第24回党大会では二階級特進して政治局員に選ばれ、フルシチョフ時代に一時、農業専門から離されたが、ブレジネフ指導部の登場とともに、党の中枢で農政に当たることになったわけだ。
当時、政治局には、ほかにポリャンスキー第一副首相、ヴォロノフ・ロシア共和国首相という農政の大家がいたが、ポリャンスキーは1973年2月、農相に降格され、さらに76年3月の第25回大会では政治局員を解任され、ついで駐日大使、駐ノルウェー大使に左遷された。ヴォロノフも73年4月政治局員を解かれて引退したので、クラコフはブレジネフ自身を除けば、クレムリンの農政の最高責任者になったことになる。
そしてブレジネフは、第24回大会でクラコフを政治局員に格上げしてから、努めて専門の農業以外の仕事も与え”帝王学“を学ばせた。クラコフはブルガリアやモンゴルの党大会にソ連代表団を率いて出席したり、訪ソする外国要人と会見することも多くなった。76年11月5日、クレムリン大会宮殿で開かれたロシア革命59周年記念前夜祭では、党中央委を代表して報告を行った。この日の報告は、ロシア革命の世界史的意義から説き起こし、現段階におけるソ連共産党の課題と活動のスタイルに及ぶスケールの大きい内容であった。明日の書記長にふさわしい報告と、大方の評価を得た。約1時間に及んだこの報国はまた、堂々たる体格とサビのきいた声、めりはりのある語り口に加えて、聴衆の拍手を呼ぶ名文句をちりばめた草稿内容の点でも注目された、と外電は伝えた。雄弁とはいいかねるブレジネフと対照的なクラコフは、この日の報告で、気鋭の政治家として個人的な魅力も発揮したようである。
この前後からクラコフは、外国首脳の送迎の際、ブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイ、スースロフら政治局の長老組のすぐわきに並んで立つことが多くなってきた。1975年4月12日、クレムリン大会宮殿で開かれたレーニン生誕105周年記念集会では、クラコフはブレジネフの右手2番目という上席に坐った。ヒナ壇中央のブレジネフの右がポドゴルヌイ、そのさらに右隣という晴れがましい場所をクラコフが占めたのである。その後ポドゴルヌイの最高会議幹部会議長解任、ブレジネフ選出を決めた77年6月16日の最高会議は、党指導者の新しい序列を示すものとして注目されたが、この席でクラコフは第5位を占めた。最高会議役員席のすぐ後ろにある党指導者席の最前列には、ブレジネフから向かって左にコスイギン、スースロフ、キリレンコ、クラコフの順で並び、この5人が新しいトップグループであることが示唆された。これまでの政治局の序列はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイ(この2人は入れ替わる場合もある)、スースロフ、キリレンコの順で、6番目は一定していなかった。この最高会議で、ポドゴルヌイが抜けたあとを順ぐりに詰めて、5番目にクラコフが昇格した形である。クラコフは、政治局長老組を別にすれば第1人者であることを印象づけたのである(因みに、このとき第2列にはマズロフ、グリシン、ぺリシェの3人、第3列にはグロムイコ、アンドロポフ、ウスチーノフ、ロマノフ、ポノマリョフ<政治局員候補>が席を占めていた。当時の政治局での大体の序列を示すものとみてよいであろう)。
クラコフはブレジネフより1世代、12歳年少だ。スターリンがレーニンより9歳、フルシチョフがスターリンより15歳、ブレジネフがフルシチョフより12歳、それぞれ年下であることを考えると、クラコフは年齢的にブレジネフの後継者として恰好の地位にいたし、そのきわ立った昇進ぶりからも、長老組をのぞいて政治局の序列のトップを占めたことからも、ほぼ間違いなく“プリンス”であろうと思われた。
“プリンス”の急死
その彼が78年7月17日に急死したのである。60歳だった。その3日前の14日には、モスクワ・ソコーリニキ公園で開かれた「食品製造・流通設備国際見本市」を、他のクレムリン要人とともに熱心に視察したばかり。まさに“急死”だった。西側の1部では“怪死”説まで流れた。ブレジネフはしかし、黒海沿岸で休養中を理由に、クラコフの葬儀に顔を見せなかった。そうすることによって、彼が“プリンス”などではなかったことを、国民に印象つけようとしたのかも知れない。あけっぴろげで少々口の軽いフルシチョフはかつて「自分の後継者はコズロフかブレジネフだ」ともらしたことがある。慎重なブレジネフは、後継者問題にしてあからさまに口にしなかったのだ。

フョードル・ダヴィドヴィチ・クラコフ(ロシア語: Фёдор Давыдович Кулаков、ラテン文字転写の例:Fyodor Davydovich Kulakov、1918年2月4日 - 1978年7月17日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党政治局員兼書記(農業担当)急死=一時は「クレムリンのプリンス」としてブレジネフの有力な後継候補としてソ連内外の耳目を集めたクラコフは、1978年7月17日、60歳で急死した。死の3日前にモスクワで開催された国際見本市を視察したばかりだったため、その死には疑問も多く、自殺説もある。ミハイル・ゴルバチョフによると、政治局のメンバーはクラコフの訃報に接しても休暇を取りやめたり中断したりするようなことは無かったという。政治局員及び政治局員候補は、同じく政治局のメンバーが没した際には葬儀に出席することが義務付けられていたが、ブレジネフ=チェルネンコ閥の政治家は誰一人として出席しなかった。対照的に、キリレンコ=アンドロポフ閥の政治家は、アンドレイ・グロムイコやドミトリー・ウスチノフなど多くが参列し、葬儀委員長はキリレンコが務めた。遺骨はソ連国歌の演奏の中、クレムリンの壁に葬られた。Fjodor Dawydowitsch Kulakow (russisch Фёдор Давыдович Кулаков; * 4. Februar 1918 in Fitisch, heute Rajon Lgow in der Oblast Kursk[1]; † 17. Juli 1978 in Moskau) war ein sowjetischer Politiker.

ボリス・ニコライエヴィチ・ポノマリョフ (ロシア語: Бори́с Никола́евич Пономарёв、1905年1月17日 - 1995年12月21日)は、ソビエト連邦の政治家[2]、歴史家、理論家である。国際共産主義運動やソビエト連邦共産党史の分野で大きな役割を果たした[2]。Boris Nikolajewitsch Ponomarjow (russisch Борис Николаевич Пономарёв; auch als Ponomarew zitiert; * 4. Januarjul./ 17. Januar 1905greg. in Saraisk; † 21. Dezember 1995 in Moskau) war ein sowjetischer Historiker und Politiker.




























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