日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018⑤


アンドレイ・パヴロヴィチ・キリレンコ(ロシア語: Андрей Павлович Кириленко, ラテン文字転写: Andrei Pavlovich Kirilenko, ユリウス暦1906年8月26日(グレゴリオ暦9月8日) - 1990年5月12日)は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人[3]。ソ連共産党政治局員兼書記。Andrei Pavlovich Kirilenko (Rusia: Андре́й Па́влович Кириле́нко; IPA: [ɐnˈdrʲej ˈpavləvʲɪtɕ kʲɪrʲɪˈlʲɛnkə]; 8 September [K.J.: 26 Agustus] 1906 – 12 Mei 1990) adalah seorang negarawan Soviet dari permulaan sampai akhir Perang Dingin. Pada 1906, Kirilenko lahir di Alexeyevka, Oblast Belgorod dari sebuah keluarga kelas buruh asal Ukraina.
キリレンコの失脚
一方、クラコフが健在のときから、ブレジネフ後に一挙に若輩の彼が書記長に成り上がることはあり得ず、ブレジネフと同年齢(厳密には3ヶ月年長)ながら、頑健な政治局の長老、アンドレイ・キリレンコ書記がまず暫定書記長になるだろうという見方も根強くあった。
前にもふれたように、ブレジネフは、青・壮年時代にウクライナ・ドニェプル川流域の諸州をはじめ、モルダヴィア・カザフ両共和国で書記や第一書記として働いた。そのときの同僚や後輩たちを、気心の知れた腹心としてブレジネフは重用した。書記長ブレジネフの権力を下から支えてきたのはこの人脈である。それはドニェプル、モルダヴィア、カザフの各派に分かれる。
とりわけブレジネフは、郷里のドニェプロペトロフスク州や隣接するザポロージェ州などドニェプル川沿いの地方で戦前、戦後合わせて約15年も働いた。中央政界に進出してからもブレジネフは、多感な青・壮年時代にドニェプル川のほとりで苦労をともにした同僚、後輩を忘れず、なにくれと面倒をみ、引き立ててきた。
書記長になって人事権を握ってからは、機会あるごとに気心の知れたドニェプル地方出身の古い友人たちを推挽して、党や政府・治安機関の要所要所に送り込んで、自分の権力基盤を固めた。党内に巨大な派閥が形成され、“ドニェプロペトロフツィ”(ドニェプロペトロフスク人)と呼ばれて、わが世の春をうたったのである。
キリレンコは戦後、ブレジネフがザポロージェ州党第一書記だったとき、その下で第二書記を務め、その後、モルダヴィア共和国第一書記に転出したブレジネフのあとを襲って、ドニェプロペトロフスク州第一書記にもなった。ブレジネフの古くからの盟友であり、ドニェプル派のトップに立つ人物。1962年政治局員、68年書記になり、党の人事行政や国家機関の監督、重工業の指導などの分野を担当するとともに、書記長の代理をも務めてきた。1968年7月、チェコスロヴァキア情勢が緊迫し、ソ連・チェコスロヴァキア国境の町、チェルナで両国首脳会談が開かれて、ソ連の党政治局員のほとんど全員が参加したが、ブレジネフからモスクワの留守を頼まれたのがキリレンコだった(政府からはポリャンスキー第一副首相が残留した)。ブレジネフの信任の厚さがうかがえたのである。
ところが、79年ごろからブレジネフとキリレンコの“不仲説”が流れはじめた。公開の場所などで、ブレジネフのキリレンコに対する態度に、なにかよそよそしさがみられるといわれ出したのである。同年4月、党中央委総会で、軍需工業担当のヤコフ・リャボフ書記(51)が、前年12月に死んだヴィクトル・レベデフの後任の形で、国家計画委員会(ゴスプラン)の第一副議長に左遷された。リャボフは、キリレンコがウラル地方の工業中心地スヴェルドロフスク市党第一書記などを務め、71年に同州第一書記にすすんだ人物。76年に書記になってからも、重工業全般を担当しているキリレンコの指導下にあったとみられ、キリレンコ直系と目されていた。リャボフの降格は、キリレンコの権力基盤を少なからず掘りくずしたものとされた。
続いて5月1日、赤の広場でのメーデー・パレードの写真から、キリレンコの姿が消えてなくなるという珍事が起きた。その日のモスクワの夕刊紙『ヴェチェルニャヤ・モスクワ』の第一面に掲載された、レーニン廟上のクレムリン要人の写真は、ブレジネフから向かって右へコスイギン首相、スースロフ書記、グリシン・モスクワ市党第一書記・・・の順になっていた。政治局の序列通り、スースロフの次に立っていたキリレンコが削除されているのだ。翌2日付の同じくモスクワの朝刊紙『モスコフスカヤ・プラウダ』や、そのほかの中央紙の写真にはすべて、スースロフとグリシンの間にキリレンコが復活していた。1日の『ヴェチェルニャヤ・モスクワ』の写真は明らかにキリレンコを除いて合成されたものだった。『ニューズウィーク』誌は、この"事件“をブレジネフ後継をまぐる隠微な権力闘争の一環とみて「疑いもなくキリレンコを傷つけたもので、ブレジネフまたはその側近が、後継をねらうキリレンコに見舞った平手打ち」と解釈した。
ソ連当局筋は、この出来事は単なる技術上のミスだと説明した。つまりタス通信が配信した第3枚組の写真を、はり合わせて1枚に合成するさい、誤ってキリレンコを切り落としたのだというのである。そして責任者は「4度」もキリレンコに電話をかけて謝ったという。だが、新聞社内で何段階ものチェックがあり、さらに当局による事前検閲まで行われているソ連の新聞の、しかも第1面トップ、責任者は処分されなかったという。「ブレジネフが1枚かんでいるからだ」という説がなされた。
さらに6月18日、ウィーンの米ソ首脳会談からブレジネフがモスクワ空港に帰着したとき、実況を放映したモスクワ・テレビは、出迎えのコスイギン、スースロフがブレジネフと抱擁し、ほほずりをしたあと、キリレンコがブレジネフに近づいた途端に、実況を打ち切ってアナウンサーの解説に切りかえた。ブレジネフは抱擁とキスを避けて、冷やかに握手だけですませたのか、あるいは握手すらしなかったのか。
しかし、11月6日、クレムリン大宮殿で開かれた10月革命62周年記念式典で、キリレンコは報告者に選ばれ、「10月の旗は平和と創造の旗」と題して演説し、依然として党中央の主流にいることを示した。同時にキリレンコは、報告の冒頭で第23回、第24回、第25回の各党大会の政治路線が、10月革命の事業を継承し、発展させたものであることを指摘し、ブレジネフの外交路線、党の内外政策の策定、科学的共産主義の理論と実践にきわめて貴重な貢献をしていると述べ、「ソ連国民、全進歩的人民は、ブレジネフ同志の中に、不屈のマルクス・レーニン主義者、国際共産主義・労働運動の卓越した活動家、平和と共産主義の理念の勝利のために闘う熱烈な闘士を見ている」と、ボスに最大級の賛辞を捧げた。ブレジネフへの変わらぬ“忠誠”を示したともいえるだろう。
82年に入ると、キリレンコは3月下旬からメーデーまで公式行事に全く姿を見せず、心臓発作で入院したともいわれた。この年の革命記念日を前にモスクワの街頭に掲げられた恒例の政治局員の肖像画のなかにも、キリレンコのものは見られなかった。革命記念式典にも欠席した。長期にわたって動静不明だったキリレンコがひょっこり現われたのは11月12日、ブレジネフの告別式のときだった。このときキリレンコは、全ソ労組会館で故ブレジネフの柩に弔意を表すクレムリン指導者から離れて立ち、もはや政治局員ではないかのような様子だったという。中央委員、政治局員らの告別が終わったあと、キリレンコは柩に向かい、柩のかたわらで遺族たちと言葉をかわしたと伝えられた。
11月22日、アンドロポフ政権下初の定例党中央委総会で、「健康上の理由および本人の申し出により」キリレンコは正式に政治局員を解任され、政治生命を絶たれた。
永年にわたってブレジネフの女房役を務め、一時は後継書記長候補とも目されたキリレンコが、なぜ晩節を汚したのか。西側では、1970年代半ばからブレジネフの健康の衰えがめだつにつれて、クレムリン内の暗闘が激化してきたが、暫定書記長としては最有力と自他ともに許したキリレンコが野心をあらわにして、ブレジネフの不興を買ったという見方が行われた。また70年代半ばからは、ブレジネフの補佐役としてチェルネンコ政治局員・書記の抬頭がめざましく、キリレンコの職務と競合することが多くなり、両者の間でブレジネフの寵がより若いチェルネンコに移ったとする説もあった。さらに50歳台前半の科学者であるキリレンコの子息が、82年秋、ソ連のある代表団の一員として海外旅行中に亡命し、英国に落ち着いたことが失脚の直接原因になったという情報も流れた。
いずれにせよ、クラコフについでキリレンコもブレジネフ後継競争から脱落した。その後に登場したのがチェルネンコである。


コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ(ロシア語: Константин Устинович Черненко、ラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko、1911年9月24日(グレゴリオ暦)/9月11日(ユリウス暦) - 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第7代最高指導者、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長。Konstantin Ustinovich Chernenko (1911 til 1985) esis politikisto, chefo di Sovietia de 11 di aprilo 1984 til lua morto.
抬頭するチェルネンコ
チェルネンコは1911年9月24日、クラスノヤルスク地方の農家に生まれた。ウクライナ風の名前だが、ロシア人である。1931年に入党し、党中央委付属の高級党オルグ学校を45年に、モルダヴィア共和国の首都キンニョフの教育大学を53年に卒業した。早くからコムソモール(共産主義青年同盟)や党の活動に加わり、1929年には若干18歳で地区コムソモール委員会の專伝・扇動部長になった。
その後、国境警備隊の1支隊の党組織書記、クラスノヤルスク地方党委の部長代理を経て、戦争中の41-43年は、クラスノヤルスク地方党委書記。戦後、ペンザ州党委書記のあと、48年からモルダヴィア共産党中央委の宣伝・扇動部長に就任した。ここで彼の人生は幸運にめぐまれる。50年にブレジネフがモルダヴィアの党第一書記として来任し、その知遇を受けたことになるからである。もともとモルダヴィアは、ロシアとルーマニアが領有権を争ってきたところで、モルダヴィア共和国が社会主義国として成立し、ソ連邦に加盟したのは1940年である。住民の3分の2をルーマニア系が占めるこの国は、ソ連が戦争中に獲得した新しい領土であり、クレムリンとしては、その早急な“ソビエト化”を迫られていた。
ドニェプロペトロフスク州党委の第一書記からモルダヴィア党中央委の第一書記に登用されたブレジネフにとって、ここでのイデオロギー的教化工作、つまり、宣伝・扇動活動はその主要な任務の1つであった。チェルネンコは誠実にその職責を果たし、その期待に応えたのである。
ブレジネフはその後、カザフ党第一書記などをこなしてモスクワに戻り、56年に幹部会員候補(政治局員候補)・書記になると、すぐにチェルネンコを呼び寄せて中央委宣伝部の大衆扇動活動課長にした。60年にブレジネフが最高会議幹部会議長に転じると、チェルネンコも同幹部会書記局長としてボスに従った。
さらに64年10月、ブレジネフが第一書記に選ばれるや、チェルネンコは翌年すぐに党中央委総務部長に発令されて、ブレジネフの職務全般の補佐役となったのである。ブレジネフの信頼がいかに厚いかがうかがえた。党中央委総務部は、ソ連の権力中枢のなかの中枢である。前にもふれたように政治局の決裁にゆだねられる重要案件は、書記局によってお膳立てされるが、その起案をするのは総務部である。そして政治局員を兼ねる書記(上級書記と呼ばれる)を含む書記たちのサインを総務部が集めた上で、起案書は政治局に送られる。
各書記の考え方や立場を熟知している総務部長は、時と場合によっては「起案の決定を保留したり、流産させることもできる」(ミハイル・ヴォスレンスキー『ノーメンクラツーラ』)といわれる。総務部は政治局と書記局を結ぶカナメに位置しているわけだ。
*ノーメンクラトゥーラ(ロシア語: номенклату́ра モスクワ方言: ナメンクラトゥーラ)とは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉[1]。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」[2]とも呼ばれる。.
この重要なポストを保持しながら、チェルネンコは66年中央委員候補、71年中央委員、76年書記、77年政治局員候補、78年政治局員と尻上がりに昇格する。ブレジネフの健康が下降するのに反比例して、チェルネンコの地位が上昇してきたのが注目された。
1975年の全欧安保会議(ヘルシンキ)や79年の米ソ首脳会談(ウィーン)の際、書記長に同行したし、ブレジネフ時代に慣例になった夏のクリミアでの書記長と東欧諸国首脳との個別会談にも、政治局からただ1人チェルネンコ(たまにグロムイコ外相も)が陪席するのが例となった。ブレジネフは1966年、ベテラン外交官のアレクサンドル=ゲントフを書記長補佐官に任命して以来、数人の補佐官、報道官を選んで、クレムリンに個人的な官房を形成したが、チェルネンコはさしずめ、この“ブレジネフ官房”の官房長官といった役どころをも兼ねるに至った。
かつてキリレンコの担当といわれた国家機関全般に対する統制・監督や党組織・党活動の指導と政治局の会議はキリレンコが司会していたが、それもチェルネンコに変わったと西側の報道は伝えた。さらに70年代の終わりごろから、チェルネンコがソ連共産党を代表するような形で、内外政策全般をPRする論文やパンフレットを発表することが多くなってきた。79年2月にはノーボスチ通信社が世界各国で出しているPR誌『今日のソ連邦』(Soviet Union Today)に、「ソ連共産党第25回大会から3年」と題した論文を載せ、緊張緩和の一層の深化を目ざした25回党大会を、通例の大会よりも重要な「特別の大会」として意義づけ、大会の諸決定が首尾よく実現されるであろうなどと強調した。
*RIAノーボスチ (リアノーボスチ、РИА Новости, RIA Novosti) は、かつて存在したロシアの国有通信社で、現在はロシアの今日のロシア国内向けブランド[1]。ソビエト連邦時代のソビエト情報局をルーツとし、1961年に「ノーボスチ」の名称を使用するようになった。ソ連崩壊前後から合併や改称を経て「RIAノーボスチ」となったが、2013年に「ロシアの今日」に発展的に解消した。 
同じ年にチェルネンコの執筆による“The CPSU exists for the people and serves the people”(CPSUはソ連共産党の略称)というノーボスチ の英文パンフレットが全世界にばら撒かれた。81年12月には「ソビエト国民の前衛―ソ連共産党」というタイトルの論文が前記『今日のソ連邦』で紹介された。さらに82年、チェルネンコは党の理論的機関誌『コムニスト』にレーニン生誕112周年記念論文を寄せ、レーニン主義の立場から思想的・組織的な多元主義(プルラリズム)を厳しく批判して、暗に思想の自由、複数政党制をとなえるユーロコミュニズムを攻撃した。
*ユーロコミュニズム(Eurocommunism)は、中ソ対立などにより国際共産主義運動が多様化する中で1970年代に西ヨーロッパ(主にフランス、イタリア、スペイン)の共産党で趨勢となった共産主義の一潮流。暴力革命路線の放棄、プロレタリア独裁論の破棄、党内の民主集中制と分派禁止規定を廃止した[1]。
82年1月25日、党の長老スースロフ政治局員・書記が死亡したが、その葬儀をめぐってチェルネンコの序列が党のナンバー2であることが確認された。スースロフの棺のそばに侍立した順序や埋葬のさいの政治局員の並び方は、ブレジネフ、チーホノフ、チェルネンコまたはブレジネフ、チェルネンコ、チーホノフの順番だった。
チーホノフが首相であり、政府代表であるとすれば、チェルネンコの序列は党内第2ということになる。先輩のキリレンコは、常にこのビッグ3から一段低い序列に甘んじていたのである。このあとチェルネンコは、2月、西側の有力共産党であるフランス共産党第24回大会にソ連共産党代表団を率いて出席し、3月にはイエンセン議長を団長とするデンマーク共産党代表団やオブレア第一副首相をはじめとするルーマニア党・政府代表団を、ソ連側の代表として応接している。この間、内政面でも3月5日、労組大会を直前にしてシバエフ議長を突然解任した全ソ労組中央評議会の総会に臨席して睨みをきかせた。
これらの点からみて、82年の半ばごろまでチェルネンコが当時書記長後継レースの先頭にいたことは、ほぼ間違いのないところだ。


追い上げるアンドロポフ
しかし、82年はじめごろから、アンドロポフ政治局員・KGB議長の挑戦がはじまる。ブレジネフの身辺にまで汚職追及の手が伸びたことは前章で述べた。しかも、その事実がまたたく間にモスクワ市内に知れ渡り、外国にまで大きく報道された背景には、KGBの意図的な漏洩(リーク)があったことは間違いない。汚職摘発キャンペーンは、書記長自身だけでなく、その周辺で永年にわたって特権的地位にあぐらをかいてきたグループーチェルネンコも当然そのなかにふくまれるーに強烈な衝撃を与えたであろう。
このキャンペーンの仕掛け人とみられたのが、当時のKBG長官アンドロポフだったのは当然だ。当時、アンドロポフは「ブレジネフの追い落としは難しいとしても、ブレジネフの取り巻きから後継者が出るのを阻止しようとねらっている」(英『オブザーバー』紙)と言われた。
続いて3月、ウズベク共和国訪問の旅からモスクワに帰ったブレジネフは、したたかに体調を崩して、すぐに入院を余儀なくされたとき“死亡説”が広まったが、これも、アンドロポフ指揮下のKGBが、うわさを撒き散らしてブレジネフ退陣を促そうとしたものだといわれた。
こうしてブレジネフ指導部に不気味な揺さぶりをかけたあと、アンドロポフは4月22日のレーニン生誕記念集会という晴れの舞台で演説する。彼がこの記念日の演説をするのは3回目で、ブレジネフも2回、チェルネンコは1回しか行っていない。しかもアンドロポフはその演説の中で、自分が有能な党と国家の活動家、軍の支持者であるとともに平和の闘士でもあることを巧みにほのめかしたのだ。
このあと、5月の党中央委総会で、アンドロポフはKBG長官15年のあと、2度目の書記局入りを果たすのである。
ブレジネフ書記長の余命いくばくもないとにらんだアンドロポフが、1月のスースロフ死去で空いた書記のポストを自ら要求し、後継書記長への足場を築いたものといわれた。アンドロポフは76年9月、ソ連防空軍のパイロット、ベレンコ中尉がミグ25戦闘機で函館に強行着陸した直後、上級大将に任命され、軍の網紀引き締めに乗り出していたが、1度も上級大将の軍服を着用しなかった。将来の書記長たるべく、軍服姿がマイナス・イメージを与えることを避けたようだ。この同じ5月中央委総会で、「1990年までの食糧計画」が採択された。停滞久しいソ連農業に活を入れ、食糧の自給体制を整えて、西側からの穀物の大量輸入をセーブしようという計画である。
しかし、内容的にはすでに65年3月の中央委総会で採択され、その後のブレジネフ農政の基本になった「農業のいっそうの発展に関する緊急措置」の増補改訂版といったもので、新味に乏しい。この計画をめぐって、5月総会の席上と、その後の党、政府関係の会議で、チェルネンコをはじめ、クナーエフ・カザフ党第一書記、キリレンコ書記、チーホノフ首相ら各政治局員、クズネツォフ最高会議幹部会第一副議長(政治局員候補)らブレジネフ人脈に連なる要人が、積極的に「食糧計画」について発言しているのに対し、アンドロポフはきわめて冷淡な態度を取り、ほとんどこの計画に言及しなかった。

*ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、冷戦時代の1976年9月6日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコ(Виктор Иванович Беленко (род. 15 февраля 1947, Нальчик))が、MiG-25(ミグ25МиГ-25П)迎撃戦闘機で日本の函館空港に強行着陸し、亡命を求めた事件である[1]。ミグ25事件とも呼ばれる。
これら一連のアンドロポフの言動をみると、彼はブレジネフ末期からすでに、ブレジネフの施政に批判的であり、その退場を待ってソ連の政治に新風を送ることを期していたものと思われる。

アンドロポフの勢力増大
政治局員と書記を兼ね、大物スースロフの後を継いで、通常党内のナンバー2に割り当てらえるチーフ・イデオローグ(理論部門の最高責任者)の座についたアンドロポフの勢力は増大した。チェルネンコもこのポストを狙ったと思われるが、彼の政治局入りは他のメンバーよりもかなり遅く、そのためブレジネフ人脈に属するカザフ派のクナーエフ・カザフ第一書記やドニェプル派のシチェルビツキー・ウクライナ第一書記らさえ、後輩の地位に立つことに難色を示したといわれる。ゴルバチョフ、グロムイコ、ウスチーノフらもまた、チェルネンコ選任に反対したようだ。「彼らは全員、ブレジネフには忠実だったものの、その忠誠はブレジネフの腹心にまで及ばなかったのだ」-反体制派といわれるソ連の歴史家、ジョレス・メドヴェージェフはこう書いている。ブレジネフもあえてチェルネンコを押し付けるだけの力をもっていなかったのである。
*ジョレス・アレクサンドロヴィチ・メドヴェージェフ(ロシア語: Жоре́с Алекса́ндрович Медве́дев 、英語: Zhores Aleksandrovich Medvedev、1925年11月14日 - 2018年11月15日)は、ロシアの生物学者、歴史家。双子の弟は歴史家のロイ・メドヴェージェフ[1]。
*ロイ・アレクサンドロヴィチ・メドヴェージェフ(ラテン文字表記の例:Roy Aleksandrovich Medvedev, ロシア語:Рой Александрович Медведев、1925年11月14日-)は、ジョージア・トビリシ生まれの歴史学者。1972年に英語で出版した『共産主義とは何か』(原題:歴史の審判 Let History Judge、以下邦題を使用)で、スターリニズムに反対する歴史を書いた作家としてその名を知られる。ロシアで著名となり、ミハイル・ゴルバチョフ、ボリス・エリツィンの顧問を務めた。
アンドロポフはKGBを去ったが、後任にはウクライナの反体制派一掃に辣腕を振るったヴィタリー・フェドルチュークを推薦して新長官にし、十分に影響力を残していた。82年の夏、ブレジネフが休暇中に、アンドロポフはKGBを使って、2人の州党委書記を汚職のかどで追放した。1人はクイブイシェフ州のE・V・ルサコフ。中央委書記で社会主義諸国党部長、書記長補佐官を兼ねるK・V・ルサコフの弟である。もう1人はクラスノダール地方のS・F・メドゥノフ、ブレジネフの古い個人的友人である。
ルサコフは、クイブイシェフ州のカマ自動車工場で作られる乗車用ジグリ(国内向け)、ラーダ(輸出向け)の販売をめぐる不法行為で検挙された。メドゥノフは、ブレジネフをはじめとするクレムリン要人たちが別荘に滞在する間、万全のサービスを提供して彼らに深く取り入っていた。8月にメドゥノフの追放が報道されたとき、モスクワの事情通はブレジネフ自身が危うくなったと感じた。彼にはもはや“身内”をかばい切る力がなかったのだ。メドゥノフは後に83年6月の党中央委総会で、「職務上の誤り」のかどで中央委員からも解任された。

アンドロポフの政権奪取
上昇気流に乗るアンドロポフは、1982年9月に入って、バクラミヤン元帥の葬儀やブレジネフのバクー旅行の送迎、10月上旬のチュオン・チン・ベトナム党政治局員・国家評議会議長の訪ソの際に姿を見せず、心臓発作に見舞われたといううわさが流れた。しかし、10月27日の軍指導者会議(前述)には出席し、11月5日からの革命記念日の諸行事にも姿をみせた。まるで、5日後のブレジネフ死去を待ち受けたかのようなタイミングのよさだった。アンドロポフは、ブレジネフの死の直後に開かれた党政治局会議で後継書記長への指名を獲得し、続いて党中央委臨時総会で書記長選出を承認された。
*チュオン・チン(ベトナム語: Trường Chinh / 長征、1907年2月9日 - 1988年9月30日)は、ベトナムの政治家。ベトナム共産党の理論家であり、党書記長を務めた。また、ベトナム社会主義共和国国会議長や国家評議会議長(国家元首に相当)などの要職を歴任した。쯔엉찐 (Trường Chinh 長征 장정, 본명: 당쑤언쿠(Đặng Xuân Khu), 1907년 2월 9일 ~ 1988년 9월 30일) 은 베트남의 독립운동가, 공산주의 정치인이자 이론가이다. 북베트남 제1당서기장 (1941년~1956년), 북베트남 부총리, 국회 상임위원회 주석, 국가 회동 주석, 베트남 공산당 서기장 (1986년) 등의 요직을 지냈다.
政治局の票決は僅小差
米紙『ロサンゼルス・タイムズ』は、『プラウダ』政治記者などから得た情報として、ブレジネフ死去の直後に開かれた党政治局の模様を伝えた。それによると、チェルネンコが「経験豊かで有能、ブレジネフ氏の内外政策に忠実な人物」として、後継書記長に、ブレジネフ人脈に連なるチーホノフ首相を推す動議を出したという。チーホノフが77歳という老齢を理由に辞退して、逆に71歳のチェルネンコを推薦したとき、ウスチーノフ国防相が静かだが押さえつけるような態度で2人のやりとりを遮り、「これ以上議論の必要はない。自分やぺリシェ(党統制委議長)をふくむ政治局員がすでにアンドロポフを新書記長に推すことで合意済みだ」と発言して大勢を決したと書いている。さらに1部の西側報道は、11月11日の政治局会議は、当日モスクワにいた7人の政治局員だけで開かれ、ウスチーノフ、グロムイコ(外相)、グリシン(モスクワ市党第一書記)がアンドロポフを支持し、チーホノフ、ゴルバチョフ(書記)がチェルネンコを推して、4対3の1票差で決まったとしている。
背景に軍の支援
もともと軍は、自己に対する“お目付け役”であり、かつては多数の高級軍人を逮捕したKGBにはよい感情をもっていないといわれる。それは当然であろう。しかし、アンドロポフは、ブレジネフ主導の緊張緩和外交が華々しく展開された1970年代初めから、一貫して「緊張緩和には危険が伴う」「緊張緩和がすすめばすすむほど、イデオロギー闘争は激化する」と公然と演説してきた。その主張は、『赤い星』の論調と共鳴するものがあった。
また、アンドロポフはKGB議長、上級大将として、ウスチーノフ国防相とともにソ連軍の最高指導機関である国防会議のメンバーだった。ひとしく国家の安全保障の責任者として、両者の立場には共通点があったことも事実である。
さらにアンドロポフは、軍の制服組のトップであるオガルコフ第一国防次官・参謀総長(当時)の“戦友”でもあった。アンドロポフは1940年から44年まで、カレロ・フィン共和国(現在のカレリア自治共和国)の共産主義青年同盟(コムソモール)第一書記を務めたが、第二次大戦の初期、両共和国一帯で「パルチザン活動に積極的に参加した」(タス通信)という。オガルコフも同じ時期、同じ場所で正規軍の工兵将校として、パルチザン部隊と連携しつつ戦っていたといわれる。
こうして、国防相、参謀総長と結びつきの深いアンドロポフはまた、軍事力重視論者でもある。ブレジネフの葬儀の際の82年11月15日の演説で、アンドロポフはソ連の経済力と国防力の強化の必要を2つ並べて指摘し、とくに「複雑な国際情勢の下で、祖国の緊要な利益をゆるぎなく守り、高い警戒心を維持し、あらゆる侵略の企てに壊滅的反撃を加える態勢を維持する」ことを強調した。さらに同月22日の党中央委総会では、より明確に、「政治局は陸海軍に必要なすべてのものを与えることを義務と考えてきたし、とくに現在の国際情勢下ではそう考えている」と述べた。軍部がアンドロポフ登場を待望し、その実現に満足したのは当然と思われる。
一方、ライバルのチェルネンコは、1965年以来の党中央委総務部長、76年以来の書記、78年以来の政治局員として党組織には大きな影響力を培っていたが、軍部には直接の足がかりをもっていなかった。ただ国家機関全般を党の立場から監督する責任者として、党中央委行政機関部を通じて、軍を一般的に監督する立場にあったにすぎない。1968年以来、行政機関部長を務めるニコライ・サヴィンキンはレーニン記念軍政治大学を卒業し、ソ連軍の旅団政治部長や方面軍政治部長代理を歴任した政治将校の出身。軍内では国防相、第一国防次官の次、国防次官の上位にランクされる地位にある。チェルネンコは職責上、このサヴィンキンの提携では、アンドロポフとウスチーノフ、オガルコフの同盟にとうてい対抗できなかったであろう。

政変の直後、『ガーディアン』と『タイムズ』は、82年3月にブレジネフの健康が悪化したのを契機に、アンドロポフ、チェルネンコが共に「ブレジネフ後」を意識し、アンドロポフはウスチーノフ国防相を頂点とする軍首脳と組み、「KGBの現役首脳は、党の最高位につけない」というジンクスを考慮して、5月にKGB議長のポストを去って、ブレジネフ退場に備えていたと分析した。さらに『タイムズ』は「いざ騒ぎが起こったとき、2人の相違は歴然。アンドロポフは軍を握っていたのに、チェルネンコは「裸」だった」とコメントしたのである。
チェルネンコにはまた、アンドロポフ程度の軍歴もない。戦時中も後方でクラスノヤルスク地方の党書記などを務めていた。さらにアンドロポフ書記長を選出した党中央委臨時総会でチェルネンコは、推薦演説を行ったが、党の目標として「国民の幸福と世界平和の維持」をあげ、すでに策定されている社会・経済計画を基礎として、国防力が強化されることを強調した。これは、軍事費の支出にも一定の枠があることを示唆したものと受け取られた。何の前提条件もつけずに群に、「必要なすべてのものを与える」という前記アンドロポフ演説の姿勢とは、微妙に異なっていた。このへんにも、チェルネンコがブレジネフの有力後継候補と目されながら、巨大な実力集団である軍の支持の取りつけに失敗し、アンドロポフとの権力闘争に敗れた理由があると推測された。軍の支持は、ウスチーノフ国防相そのほかの軍高官の発言や国防省機関紙『赤い星』の論調、その後の“論功行賞”的な人事によっても裏付けられた。
タス通信によると、軍を代表するウスチーノフ政治局員・国防相は、アンドロポフ選出の当日、敵ブレジネフ追悼の軍幹部集会ではやばやと「ソ連軍は一層、ソ連共産党と党中央委員会の周囲に結集し、団結を固めている」と演説した。アンドロポフ新書記長の名前はあげなかったものの、新しい党指導部への支持を表明したものにほかならない。さらに11月19日、国防省機関紙『赤い星』は、「ロケット軍・砲兵の日」に因んだピョートル・ゴルチャコフ戦略ロケット軍政治局長(大将)の論文のなかで、「ソ連陸海軍はアンドロポフ書記長選出という共産党中央委臨時総会の決定を、深い満足をもって迎えた」と指摘していた。アンドロポフが軍の完全な支持を得ていることの確証ともいえるものである。さらにまた『赤い星』は同月21日、社説で「陸海軍将兵はすべてのソ連国民同様、共産党中央委臨時総会の決定、アンドロポフ同志の全員一致による書記長選出に熱烈に賛成する」と述べた。先のゴルバチョフ論文よりも強い表現で、新書記長に対する軍の支持を公式かつ明確に示したものといってよい。

新政権発足後4ヶ月余り、83年3月にアフロメイエフ・ソ連軍参謀総長第一代理、クルコトキン国防次官・後方総本部長、ペトロフ国防次官・地上軍総司令官がソ連邦元帥にトルブコ・戦略ロケット軍総司令官が砲兵上級元帥にそれぞれ昇進した。3人もの連邦元帥が1度に誕生したのは異例のことである。ブレジネフ時代18年間にソ連邦元帥に任ぜられたのは6人で、しかもそのうち2人はブレジネフ自身とウスチーノフ国防相という‘政治的軍人’である。この人事が、アンドロポフ書記長実現のために軍が果たした役割に対する報償であることは間違いあるまい。
ソ連軍部とそれを支える重工業・軍需産業は表裏一体となって、巨大な軍産複合体を形成している。党中央委員の約30%が軍産複合体をバックにしており、70余の政府各省のうち12が軍需工業関係の省と言われる。長年第一副首相、党書記として重工業・軍需産業の育成に携わってきたウスチーノフ国防相は、まさにこの軍産複合体の代表である。その支持を受けたアンドロポフの立場は強力であった。
KGB,外務省も
一方、アンドロポフは、長いKGB長官在任中を通じて、“国家の中の国家”と呼ばれるこの協力な治安・情報・謀略機関を完全に掌握していたと見てよい。
ブレジネフの晩年に汚職一掃、網紀粛正を大義名分に、書記長の権威をもゆさぶったアンドロポフ指揮下のKGBの力は、並みいる政治局員の心胆を寒からしめたであろう。アンドロポフには抗し得ないという心理状態が他の政治局員の間にひろがっていたとしても不思議ではない。アンドロポフが政権に就いた11月、すぐに元KGB出身のアリエフ・アゼルバイジャン党第一書記を政治局員に登用し、第一副首相としてソ連経済、とりわけ交通・運輸の建て直しの責任者にすえたことは、新書記長がKGBに依拠するところが大きいことを示した。
グロムイコを頂点とする外務省も、アンドロポフを支持したようだ。11月、グロムイコが外相兼任のまま第一副首相に昇格したのは、論功行賞であったろう。
イデオロギー部門も
さらにアンドロポフは、イデオロギー部門での職歴が長かった。1940年代には、フィンランドから割譲された新領土、カレロ・フィン共和国の共産主義青年同盟(コムソモール)第一書記、次いで、党第二書記として、同共和国の”ソビエト化“に務めた。57年から67年までは党中央委社会主義諸国党部長として、友邦隣国の党との連絡・調整に当たり、中ソ・イデオロギー論争にも一役買った。82年5月、スースロフ書記の後任になってからは、国際共産主義運動を含むイデオロギー問題全般を担当していた。国内のマスコミ・文化問題担当のジミャーニン書記をはじめ党中央委の国際部、社会主義諸国党部、文化部、宣伝部、学術・教育機関部、国際情報部などが、アンドロポフの直接監督下に置かれていたとみられる。
その上、科学アカデミーに属していた米国・カナダ研究所や極東研究所などの学術研究問題や、検閲、郵便監視などの多数の機関が、アンドロポフのKGB長官時代にすでに、その指導、監督下に組み込まれていたという。アンドロポフは、ソ連で少なからぬ権威と役割をもつイデオロギー部門にも足場を作っていたわけである。
これら軍、KGB、外務省、イデオロギー部門を1つにくくる共通項は、ソ連の安全保障に対する関心である。軍事面、治安面、外交面、イデオロギー面でそれぞれソ連国家の安全を保障するのが、これら4グループの任務である。その点、アンドロポフ政権は“国家安全保障グループ”の後押しによって実現したといえるであろう。


サマンサ・リード・スミス (英語: Samantha Reed Smith(メイン州État du MaineホールトンHoulton出身=カナダ・ニューブロンズウィック州Nouveau-Brunswickとの国境に近い小さな町)Сама́нта Рид Смит、1972年6月29日 - 1985年8月25日)は米ソ冷戦下、アメリカ史上最年少の親善大使となり有名になった少女である。1982年、当時、ソビエト連邦共産党書記長に就任したばかりのユーリ・アンドロポフに手紙を親展したところ、アンドロポフ本人からソ連への招待を含む個人的な返信を受領し、彼女はこれを受託した。米ソ両国において親善大使としてマスコミから注目を浴び、さらに日本での平和活動を通じ「史上最年少大使」として有名になった[1]。 また、サマンサは自らの体験をもとに著書を執筆し、連続テレビシリーズ「ライム・ストリートLime Street」に出演した。13歳の時、バー・ハーバー(メイン州北部にある景勝地)航空1808便の墜落事故Bar Harbor Airlines Flight 1808によって死去した。Samantha Smith [saMENta smis] (29-a de junio 1972 — 25-a de aŭgusto 1985) estis usona mezlernejanino el la subŝtato Majno, kiu iĝis tutmonde konata pro la letero, kiun ŝi skribis al la ĝenerala sekretario de la Komunista Partio de Sovetunio Jurij Andropov en la tempo, kiam la Malvarma milito estis en sia plejo

新政権の門出
前にふれた11月の中央委臨時総会では、まずアンドロポフ政治局員・書記(ブレジネフの葬儀委員長)が、ブレジネフ書記長の死去を追悼するとともに、新書記長選出の問題を議題として提起した。これに対し、チェルネンコ政治局員・書記が「政治局の委任により」アンドロポフを新書記長に推薦する演説を行い、「全会一致」でアンドロポフが選出された。
チェルネンコの注文
中央委臨時総会の開会に当たってアンドロポフは、最大限にブレジネフの功績をたたえるとともに、「ブレジネフの指導のもとに策定されたわが党とソビエト国家の内外路線の首尾一貫した推進は、われわれの最も重要な義務である」と述べて、新書記長の選出を要請した。まずは無難、低姿勢の滑り出しだった。ところが、このあとのチェルネンコの推薦演説には、意味深長なものがあった。いろいろと新書記長に“注文”を突きつけているのである。こういう一節があった。
「政治局全員は、アンドロポフがブレジネフ的指導様式を十分に理解し、国民の利益に対するブレジネフ的配慮、幹部に対するブレジネフ的対処法、侵略に全力で抵抗し、平和を守り強化する決意をよく理解している」(傍点筆者)
ここでチェルネンコは何度も「ブレジネフ的」という言葉を使って、新書記長の取るべき基本的態度をワクにはめようとしている。とりわけ「幹部に対するブレジネフ的対処法」などというのは、今後の人事に当たってブレジネフ人脈を尊重するよう要求したものとすらみられた。書記長のポストこそ譲ったが、チェルネンコはブレジネフ人脈を背景に、発言力を確保しようとしたようである。

さらにチェルネンコは、こうもいって、アンドロポフに釘を差している。
「党内の活動を集団的に進めることが、今や2倍にも、3倍にも重要になってきた。党のすべての組織における調和のとれた、共同の活動は、共産主義建設と国際舞台での我々の活動におけるいっそうの成果を保証しよう」
これは明らかに集団指導制を要求し、アンドロポフの個人的権力に歯止めをかけようとしたものだ。チェルネンコは、前に述べたように1976年に書記、78年に政治局員になったばかりで、書記局・政治局内では新参者に属する。その彼が、すでに62年から67年まで書記の経験を持ち、73年には政治局入りした先輩アンドロポフに党内運営についてワクをはめようとしたのである。
敗者の抵抗?
このようなチェルネンコの、いわば“条件付き”の推薦演説には、82年春ごろまでブレジネフ後継者として自ら許していたチェルネンコと、その支持者たちの複雑な気持ちがにじんでいるようだ。敗者の精いっぱいの抵抗ともみえた。
ブレジネフが後継者としてチェルネンコを考えていたことは、82年1月号の文芸雑誌『ノーヴィ・ミール』に掲載されたその回想録からも裏付けられる。この回想録はすでに発表された4部作に続く第5部であり、モルダヴィア共和国第一書記時代の思い出、宇宙開発とのかかわり合い、さらにソ連社会における共産主義者の役割を述べた3つの章からなる。このなかでブレジネフは、多くの党指導者の人物評を試みているが、もっとも高い評価を与えられたのがチェルネンコだった。ブレジネフがモルダヴィアで働いた1950年代のはじめには、第二次大戦中に創設されたばかりのこの共和国ではまだ民族主義路線が残っていて、ソビエト化が十分達成されていなかった。当時を振り返って、ブレジネフはこう書いている。
「ここでは、人々は取得し、正しい組織的形態を見いだす能力を発揮しなければならなかった。何よりも肝心なのは、自分自身が確信を持ち、同志たちに思いやりがあり、自分に厳しい働き手であることだった。これに関連して、モルダヴィア党中央委員会のチェルネンコ扇動・宣伝部長がこれらすべての党員としての資質を備えていたことを、私は指摘したい。若く、熱情に燃える共産党員である彼は、モルダヴィアで働く以前から党で大きな経験を積み、ゆだねられた仕事に全力をそそいだ。後にチェルネンコ同志は、党と議会でいくつもの重要な地位を占め、どこにおいても自分の才能と経験を示した。チェルネンコ同志は党中央委員会政治局員兼書記である」。一方、アンドロポフについては、簡単にこう述べられていた。
「永年の党活動で結び付けられたアンドロポフ同志について少し述べたい。彼の党員としての謙虚さ、人間性、すぐれた実務的資質を、私は高く評価する。彼はコムソモール(共産青年同盟)と共産党の活動で大きく、栄光ある道を歩んできた。私はこのような人々を大変評価している」。
ブレジネフがチェルネンコの方により親近感を抱き、人物としてもより高く評価して、後継者にふさわしいことを示唆したともみられた。またアンドロポフについて述べた個所は、前後の文脈とのつながりがいくらか不自然であるため、後から原稿に加筆したのではないか、とみる人もいたという。この回想記は編集、印刷などの都合でブレジネフの死後に発表されたのだろうが、もし生前に公表されていたら、チェルネンコの地歩を大いに強めたであろう。
こうしてチェルネンコの推薦演説には、ブレジネフ晩年にアンドロポフとの権力闘争に破れた彼が、辛うじて自分に残されたものを必死に守ろうとする姿勢がうかがえたのである。

現状打破をめざして
ブレジネフ前書記長の敷いた路線を忠実に踏襲することをうたって発足したアンドロポフだったが、急速に内政、外交ともに個性を発揮してきた。
まずめだったのは、長期低迷に陥っている経済再建のための労働規律の確立、経済指導者の責任追及の動きである。さらにその背景にある社会一般の秩序萎乱や腐敗、汚職に対する取り締まりの強化が注目された。それと表裏一体をなす人事の刷新も急速にすすんだ。しかも一面では、経済の活性化をはかるために、経済管理システムの大胆な分権化、自由化も模索されはじめた。対外政策では、アフガニスタン事件でゆらいだ東西デタントの再構築というブレジネフ末期の基本目標を継承したが、より巧妙、かつ敏速に硬軟両様の外交術策を使い分けて、西側をソ連ペースに巻き込もうと試みた。米ソ核戦力交渉での相つぐ新提案や米欧分断の試み、対中関係改善という“中国カード”をちらつかせての米国、日本ゆさぶりなど、あくまで外交的攻勢を取ろうとする努力がめだった。秘密警察の長官を15年も務めて、国内・国外の情報に精通し、謀略工作の経験も豊かなアンドロポフの内外政策が、ブレジネフ路線の単なる継承でないことはすぐに明らかとなった。
経済再建へ
アンドロポフの緊急の課題は、何といってもソ連経済の建て直しだった。ソ連経済の停滞がいわれて久しい。工業の前年比伸び率の低落傾向は、1970年代に入ってから恒常化した。70年代前半には7%前後だったが後半には4%内外に落ちた。さらに80年には3・6%、81年3・4%、82年にはついに2・8%に落ち込み、目標の4・7%に遠く及ばず、戦後最低を記録した。支出国民所得(西側でいう国民総生産にほぼ相当)の伸び率もほぼ同様に推移し、82年は目標の3%に対して2・6%にとどまった。ソ連の公表されない物価上昇を計算に入れると、実質伸び率はゼロに近いという西側専門家の意見も現れた。また工業の労働生産性の伸び率も82年は2・1%にずぎず、第11次5ヵ年計画(1981-85年)の目標である年平均4・2-4・6%を大きく下回った。
一方、82年の農業は全体で4%の伸びを示したが、肝心の穀物生産は81年同様、具体的数値が公表されず、「著しくふえた」と発表されただけ、しかも81年が大凶作(西側推定では1億5000万トン台)だったことも考慮に入れると、目標の2億900万トンははるかに及ばず、1億8000万トン前後だったのではないかとみられた。これで4年連続の不作となり、5ヵ年計画が目標とする年平均2億3800万―2億4300万トンの達成はほぼ不可能となった。78年に史上最高の2億3500万トンを記録して以来、ソ連の穀物生産は2億トンを超えたことがないという深刻な事態になった。
このような憂慮すべき経済の実態をふまえて、82年11月22の党中央委定例総会で初の施政方針演説を行ったアンドロポフは、「5ヵ年計画の最初の2年間に、一連の最重要指標について計画課題が未遂行に終わったという事実に、声を大にして諸君の注意を喚起したい」と強調し、歯に衣着せず、つぎのように述べたのである。
「経済は経済的であらねばならぬというレオニード・イリイチ(ブレジネフ)の名文句を好んで引用ながら、実際にはこの課題の解決のためにほとんど何もしていないといった経済指導者も、まだ少なくない。・・・いい加減な仕事、無為、無責任は、働き手の物質的報酬にも、職務上の地位にも、道徳的権威にも、もっとも直接的でとりかえしのつかぬ形ではね返るようにしなければならない」。
つまり、やる気がなく無能な経営幹部は容赦なく解任、降格し、社会的批判をも加えるというきびしい宣告である。泣く子も黙るKGBの前長官の発言だけにすご味があった。
規律と秩序の強化
(中略)11月の総会でのアンドロポフ演説のあと12月6日、党機関紙『プラウダ』は社説で、しかるべき能力がないにもかかわらず、「安楽椅子から安楽椅子へと渡り歩いている」党、企業、コルホーズなどの一部幹部をきびしく批判し、ぬるま湯につかっているこうした幹部の更迭の必要性を強調した。さらに政府機関紙「イズベスチヤ」や、社会問題をよく扱う作家同盟機関紙『文学新聞』など有力紙がこぞって「規律萎乱者を許すな」「高度の責任感を」「労働時間には労働を」といった論説をかかげてキャンペーンをくりひろげた。とくに12月11日付のソ連各紙は、党政治局会議で党中央委や最高会議幹部会に寄せられた市民の投書が検討されたことを伝えた。投書では個人や党中央委や最高会議幹部会に寄せられた市民の投書が検討されたことを伝えた。投書では個人や企業、官庁の経済的不正や規律違反に関する多くの具体的事業が指摘され、政治局は検察庁と内務省に取り締まりの強化を指示したと発表された。“内部告発”のすすめである。83年に入って1月9日の『プラウダ』は、レクンコフ検事総長の長大な論文「手心を加えず」に載せて、法秩序の強化、社会規律の確立を呼びかけた。
このような空気のなかで、1月31日にはアンドロポフが自らモスクワのオルジョニキッゼ工作機械工場を抜き打ち視察し、労働者たちのなかに入って、職場規律の確立を訴え、「規律の確立には投資は不要で、しかも効果は絶大だ。無断欠勤者、不良品ばかりつくる人間は社会全体に損害を与えている」と語りかけた。書記長の並々ならぬ意気込みが感じられたのである。
*グリゴリー・コンスタンティノヴィチ・オルジョニキーゼ(グルジア語: გრიგოლ (სერგო) ორჯონიკიძე[1], ロシア語: Григорий Константинович Орджоникидзе[2], 1886年10月24日 - 1937年2月18日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党政治局員で、スターリンとは革命時代からの親友であり、オルジョニキーゼ、スターリン、ミコヤンは、「カフカース派」と呼ばれるグループを構成していた。スターリンが最高指導者になった後もスターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物。「セルゴ」の名で活動していたため、一般には「セルゴ・オルジョニキーゼ」(Sergo Ordzhonikidze)の名で知られている。生涯=グルジア西部のハラガウリで生まれ、1903年から過激グループに関わるようになり、そしてティフリスのミハイロフ病院医療学校を医師として卒業した後に、武器の運び屋として逮捕された。彼は釈放されるとドイツに向かったが、1907年にはロシアに帰国して、バクーに移住し、そこにおいて彼はスターリン等とともに活動した。セルゴは ボルシェビキ党の任務としてイラン立憲革命に参加し、しばらくの間(1909年頃)はテヘランに滞在した。彼はロシア社会民主労働党の党員であるとして逮捕され、シベリアに追放されたが、3年後にはどうにか脱出した。1912年4月、彼はスターリンとともにサンクトペテルブルクに帰還したが、再び逮捕され、3年間の重労働の刑を科せられた・・・1921年、彼はグルジア民主共和国に対する赤軍の侵攻 (Red Army invasion of Georgia) を指導し、グルジア社会主義ソビエト共和国の樹立に役割を果たした。その後、彼はロシア共和国からグルジアの自治を求める動きを弾圧し、これにより、1922年のグルジア問題に関わる主要人物の一人となった。
1926年、オルジョニキーゼは政治局員に選出されたが、しかし1936年までに、スターリンは彼の忠誠を疑問視するようになっていた。オルジョニキーゼはその演説をする前に、遺体で発見された。彼の死は自殺であると判定された。フルシチョフの回想録によれば、 オルジョニキーゼは自殺の前夜、アナスタス・ミコヤン(カフカース・グループの仲間)に対し、「スターリンが党に対して行っていることを許せないが、もうこれ以上それと闘う力を持たない」と打ち明けていた[3]。ソ連時代、ウラジカフカスのように、いくつかの都市が、彼にちなんで「オルジョニキーゼ」と改名された。

①自殺したオルジョニキーゼ(元同僚のジョージア人によれば、スターリンによる「自決勧告」が真相らしいAccording to my former Georgian colleague, Stalin's "advisory to self-suicide" seems to be true→「きみはすばらしい男だった。歴史にもそう残る。だから安心して死んでくれYou were a wonderful man. It remains so in history. So feel free to die」自分の側近が粛清されたことに抗議した様子Appearance of protesting that his aides were purged)の遺体が横たわるベッドを取り囲む首脳たちの写真を思い出す②中央にスターリン(悲しそうな表情で一歩踏み出したような姿勢)連なる左から(皆、険しく神妙な面持ち)未亡人・モロトフ・エジョフ・ジダーノフ・カガノヴィッチ・ミコヤン・ヴォロシーロフ Страницы истории: Правительственное ...liveinternet.ru

アリエフの登用
一連の引き締め政策を貫徹するための人事の刷新が、予想外の早さですすんだ。11月の党中央委総会と最高会議では、ブレジネフ、スースロフ(81年1月死去)両政治局員の補充や、ブレジネフが兼ねていた最高会議幹部会議長の後任選出など、権力のバランスの変動をもたらすような人事は見送られたが、トップクラスでは、アリエフ・アゼルバイジャン党第一書記・政治局員候補(59)の政治局員昇進と第一副首相が決まった。アリエフは生粋の秘密警察官で、アゼルバイジャン共和国のKGB議長から69年に党第一書記に登用され、同共和国内の汚職追放で功績を挙げ、76年に政治局員候補にすすんだ人物。第一副首相に就任するや12月13日の交通省職員拡大会議に臨席し、鉄道輸送における「重大な欠陥の原因」についての討議と事態改善のための対策の協議に目を光らせた。国民経済のカナメとなる重要物資の円滑な輸送を保障するべき交通省は、11月総会で、アンドロポフからとくに名前を挙げて、業績不振を批判されていたものである。アリエフは1月7日には労働・生産規律強化のための連邦・ロシア共和国省庁代表者会議にも出席し、以後、経済面での引き締め政策の立役者となった。
また11月の最高会議では、アンドロポフが最高会議幹部会員に選出された。ブレジネフの後継者として当惑アンドロポフが幹部会員議長を兼ねるのではないかとみられていたが、これでソ連には国家元首のポストが空白になるという事態になった。アンドロポフがライバルのチェルネンコを幹部会議長に祭り上げようとして果たさなかったという見方も出た。ともかく、この時点ではアンドロポフがまだ権力を固め切っていなかったとはいえるだろう。

*ヘイダル・アリルザ=オグル・アリエフ(アゼルバイジャン語: Heydər Əlirza oğlu Əliyev, ゲイダル・アリエフ ロシア語: Гейдар Алиев, 1923年3月10日 - 2003年12月12日)は、アゼルバイジャン共和国の第3代大統領(在任1993年6月 - 2003年10月)。ソビエト連邦のアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国時代から30年以上にわたってアゼルバイジャン政界を主導し、大統領としても安定した政治を実現してきたが、その権威主義的な強権政治は、アリエフ一族によるアゼルバイジャン社会経済の支配体制と腐敗政治という負の側面をも残した。妻のザリファ・アズィズ=クズ・アリエヴァ(Zərifə Əziz kızı Əliyeva)との間に一男一女があり、2003年10月15日に行われた大統領選挙で当選したイルハム・アリエフは長男である。Heydər Əlirza oğlu Əliyev (d.10 may 1923, Naxçıvan, ZSFSR,[5] SSRİ — ö. 12 dekabr 2003, Klivlend, Ohayo, ABŞ) — Azərbaycanın görkəmli siyasi və dövlət xadimi,[6] Azərbaycan Respublikasının üçüncü Prezidenti (1993-2003), "Ulu öndər"[7] və "Azərbaycan xalqının ümummilli lideri"[8]

政府、マスコミ人事の刷新
83年1月、最高会議幹部会はシチェロコフ内相を解任し、フェドルチュークKGB議長を後任に発令するとともに、同氏を大将から上級大将に昇進させた。シチェロコフはブレジネフの古い友人で、16年間も内相の地位にあった。この間、内相の管轄下で経済事犯をはじめ一般犯罪を取り締まる民警は、収賄や情実による事件処理の風潮に染まり、内務省はソ連でもっとも腐敗した役所と陰口をたたかれていた。新人事は、まず内務省自体を粛清し、民警をきたえ直して経済事犯一掃に立ち向かわせようとしたものである。フェドルチューク新内相の出現とともに、ブレジネフの娘で素行のかんばしくないガリーナの夫、チェルバーノフ第一内務次官ははやばやと極北ムルマンスク州の内務部長に飛ばされたという。
*ニコライ・アニシモヴィッチ・シチョーロコフ(ロシア語: Николай Анисимович Щелоков、1910年11月26日 - 1984年12月13日)は、ソビエト連邦の政治家。上級大将(剥奪)。16年間(1966年~1982年)に渡って、ソ連公共秩序警備相(内務相)を務めたが、汚職により失脚した。1966年からソ連公共秩序警備相(内務相)。1966年からソ連共産党中央委員会委員候補、1968年4月から中央委員。第4期~第9期ソ連最高会議代議員・・・レオニード・ブレジネフ書記長の死後、シチョーロコフは汚職事件の捜査と関連して1982年12月に内務相を罷免された。新たに内務相となったヴィタリー・フェドルチュクは、シチョーロコフ時代の内務省の活動を点検し、多数の職権濫用の事例を発見した。1984年2月19日、シチョーロコフの妻、スヴェトラーナが自殺した。6月、シチョーロコフは党中央委員会から外され、11月、上級大将の階級を剥奪された。12月7日、党から除籍され、戦闘関連の勲章と社会主義労働英雄の称号を除く全ての勲章が剥奪された。6日後、シチョーロコフは自殺した。
*ヴィタリー・ワシリエヴィッチ・フェドルチュク(Виталий Федорчук、Vitaly Vasilyevich Fyodorchuk、1918年12月17日 - 2008年2月29日)は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人。第5代ソ連国家保安委員会(KGB)議長、ソ連内務大臣(在任期間:1982年から1986年)を歴任した。上級大将。来歴・人物[編集]=ジトミール州ルージンスキー地区オグネフカ村の農家に生まれる。1939年、内務人民委員部(NKVD)に入る。1940年、ソ連共産党に入党。1970年、ウクライナKGB議長に就任。ウクライナ民族主義者に対する抑圧やバプティスト派、東方帰一教会派などキリスト教諸派に対する弾圧など反体制側に対する強硬な弾圧者として知られた。1982年5月、ユーリ・アンドロポフの後任としてソ連国家保安委員会議長に就任する。同年11月、KGB議長に任命されて、わずか6ヶ月で内務大臣に転出する。この人事は、当時のクレムリノロジスト(ソ連政治のアナリスト)によってさまざまな観測がなされたが、その当時から降格ではなく、ソ連共産党書記長となったアンドロポフによって内務省内のブレジネフ派の一掃を図るものと見なされた。1986年ゴルバチョフによって内相の任を解かれ、ソ連国防省監察総監部会に入る。ソ連崩壊後、読売新聞のインタビューを受けている。年金生活をしていたが、2008年死去。

アンドロポフに公然と批判された輸送部門の責任者、パブロフスキー交通相が82年11月末に解任させられたのを皮切りに、ヒートロフ農村建設相、ストルーエフ商業相、マケーエフ副首相(軽工業担当)、フロレンチェフ・ロシア共和国農相ら老朽、ないし無能と目された経済関係の閣僚が相ついで罷免され、それぞれ有望な若手が後を継いだ。
11月総会で、国家計画委員会(ゴスプラン)第一副議長だった重工業の専門家、ルイシコフ(53)が書記に登用され、新設された党中央委経済部長に就任した。その第一代理として、往来計画・財政機関部長だったゴスチェフが任命されたことも判明した。1月死去したキセリョフ・白ロシア共産党第一書記の後任には、政治家としては無名の同共和国ゴスプラン副議長、スリュンコフ(52)が抜擢された。総じて若手テクノクラートの進出がめだった。
83年5月には党中央委農業部の農業・食品工業部への改組と、同じく軽工業・食品工業部の軽工業・国民経済部への改組も行われた。規律引き締めキャンペーンを推進するべき宣伝、マスコミ部門の人事も動いた。ブレジネフ個人崇拝を煽ってきたチャジェリニコフ党中央委專伝部長が更迭され、有能の評判の高いストカリン出版・印刷国家委員会議長(61)が後を継いだ。老齢のアレクセーエフ・イズベスチヤ編集長(70)に代わって、トルクーノフ・ノーボスチ通信社長(63)が2度目のイズベスチヤ編集長を務めることになった。
人事の刷新はこの後も続き、アンドロポフは、1984年2月まで書記長在位15ヶ月の間に、州第一書記級34人、党中央委部長級23人のうち7人(パヴロフ事務局長をふくむ)、閣僚約100人のうち21人と次官約60人を更迭した。人事面でブレジネフ色はかなり薄れた。
*イズベスチア(ロシア語: Известия、ラテン文字転写の例: Izvestia、カナ表記の例: イズヴェスチヤ[1]、イズベスチヤ[2])とは、ソビエト連邦およびロシア連邦の日刊紙である。ソ連崩壊後[編集]=ソ連の崩壊後は、プラウダが軟派な路線に傾きつつあるのに対して、ウラジーミル・プーチン大統領について批判的な最後の主要な新聞であったが、2005年6月3日に政府によって保有されていた企業であるガスプロムによって買収された。2005年の時点で、イズベスチアの発行部数は24万967部であった。2011年4月、経営陣が一新され、6月にはモスクワ市中心部にあった社屋が老朽化を理由に市内北西部に移転され、6月7日付からタブロイド判に近いコンパクトな紙面に変更されている。併せて、スタッフの6割を解雇する方針が表明された[3]。
6月総会の小幅人事
83年6月14,15の両日、イデオロギー問題に関する党中央委総会が開かれた。チェルネンコ政治局員・書記が「党のイデオロギー活動、大衆政治活動の緊要な諸問題」と題して長大な報告を行い、健在ぶりを示した。アンドロポフは簡潔な結語演説で、党網領の改定とイデオロギー活動の強化を結びつけて論じた。とくに「発達した社会主義」の全面的改善に向けて、社会主義体制の科学技術の成果を結合すべきことを強調した。
最終日に発表された人事は案外に小幅だった。ブレジネフ時代の24,25,26の各大会の際には、政治局員は14-16人が選出されたが、26回大会以降、スースロフ、ブレジネフ、キリレンコ、ペリシェ(83年5月29日死亡)各政治局員が死去または引退して11人に減っているにも拘らず、政治局員の補充はなかった。

この総会では、ロマノフ政治局員・レニングラード州第一書記が中央委書記に、ソロメンツェフ政治局員候補・ロシア共和国首相が党統制委員会議長に、ウォロトニコフ中央委員、クラスノダール地方第一書記が政治局員候補にそれぞれ選出された。アフロメイエフ・ソ連軍参謀総長第一代理ら5人の中央委員候補が中央委員に昇格した(前回の中央委総会以来、6人の中央委員が引退していた)。一方、前にふれたメドゥノフ前クラスノダール地方第一書記とシチェロコフ前内相が「職務上の誤り」のため中央委員を解かれた(シチェロコフは在職中、その地位を利用して汚職、蓄財し、83年12月以来消息不明とされていた)。
トップ人事が行われなかった理由としては、つぎのようなものが挙げられた。
① 補充によってアンドロポフ派と旧ブレジネフ=チェルネンコ派との間の勢力バランスが崩れるおそれがあった。
② アンドロポフがまだ自前の人事を行う力をもたず、党中央と地方組織になお根強く残る対抗勢力との衝突を避けた。
③ 内外の難局を政治局が一致団結して乗り切るべく、アンドロポフ、チェルネンコ両派の間で妥協ができた。
この総会人事では、ロマノフが政治局員兼書記としてアンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフと並び、ポスト・アンドロポフの書記長候補者の1人に加わったことが注目された。
アンドロポフ、国家元首に、総会翌日の最高会議で、アンドロポフは国家元首たる最高鍵幹部会議長に選出された。この人事の採択にあたって、またまたチェルネンコ政治局員・書記が推薦演説を行った。彼は、この人事がすでに党中央委総会で満場一致で採択されていることを明らかにした上で、「内外政策における共産党の指導的、暫導的役割の増大が、党と国家の権威の不可分性を証明し、党と国民の理性と意思の統一を十分に示している」と述べ、さらに、アンドロポフ書記長について、その活動ぶり、実務的、人間的資質、経験と政治的英知によって「党と国民を挙げての尊敬、信頼、共感を抱いているレーニン的タイプの優れた指導者」とほめ上げた。前年11月の書記長への推薦演説で強調された集団指導体制やブレジネフに関する言及は全くなかった。すでに潮流が変わったことを、チェルネンコは感じ取っていたのであろうか。
党組織にメス
チェルネンコは新政権下でもイデオロギー担当としてナンバー2の位置を保った。新政権が発足して約10ヶ月たった83年8月4日、政治局は定例会議で、同年末から84年はじめにかけて全国の地方党組織の幹部をいっせいに改選することを決めた。これはアンドロポフが、ライバルであるチェルネンコの支持基盤である地方党幹部の全面的粛清と刷新に乗り出したことを示していた。アンドロポフは、ようやく自己の権力に自信をもち、ライバルの牙城に総攻撃をかけることを決意したのである。
この決定について『プラウダ』は「政治局は初級・地区・市・管区・州・地方党組織の報告と選挙の実施問題を検討し、この問題について詳しい決定を採択した」と報じた。ここにいう初級党組織とは、かつて“細胞”と呼ばれていた党の基礎組織であり、3人以上の党員がいる職場や村落を単位としてつくられる。その上に地区から地方(道と訳される場合もある)に至る地域の党組織がピラミッド型に積み上げられているわけだ。また「報告と選挙」というのは、各級党組織の集会で書記(ないし第一書記)が組織の活動状況をメンバーに報告し、それを聴収して審議したメンバーが執行部(つまり各級党委員長、ただし小さな初級党組織では書記と書記代理のみ)を改めて選出することを指す。
政治局決定は続けて、このような報告・選挙のための集会が83年末から84年はじめにかけて実施されるとし、「この重要な政治的行事の首尾よい遂行」が、「党隊列の一層の強化」や「国内の社会・経済プロセスに対する党指導の方法と形態の改善、党の指導的役割の向上」を保証しなければならないと述べた。抽象的な表現ながら、アンドロポフが地方党組織をしっかりと掌握し、ブレジネフ晩年にみられたような党活動の沈滞や事なかれ主義を一掃し、党の活力を回復しようとしていることが読み取れた。

また政治局の決定は、報告・選挙キャンペーンの過程では各級党組織の所管区域内で達成された活動の結果を「深く自己批判的に」分析することを求めていた。成果を上げられなかった党幹部は自ら責任を取れと示唆したのである。ソ連共産党は党員1748万(26回党大会、ブレジネフ報告)を擁し、初級党組織41万4000、職場党組織45万7000を数え、地区から地区に至る党組織は合計4540に上る。アンドロポフは83年末からの報告・選挙キャンペーンで、このように膨大な党の地方組織を丸ごと支配下に収めようとしたのである。
チェルネンコの権力基盤は、もっぱら党組織にあった。ブレジネフのもとで、1965年以来の党中央委総務部長、76年以来の党組織担当書記、78年以来の“書記長代理格”の政治局員として、チェルネンコが党内、とくに地方党組織内に培った人脈は広く深い。党の権力の中枢は中央委員会だが、第6回党大会(1981年)選出の319人のうち、党専従者(アパラチキと呼ばれる)は137人で、全体の43%を占める最大のグループだった。これに対してアンドロポフ派とみられる軍人、外交官、KGB幹部らは合わせて37人、12%にすぎない。書記長のポストは逸したものの、党内におけるチェルネンコの勢力はなお隠然たるものがあった。
このためアンドロポフは、書記長就任以来、党内におけるブレジネフ=チェルネンコ系の幹部の更迭をかなりなピッチですすめてきた。中央委では宣伝部長と同次長、国際情報第一次長が更迭された。計画・財政機関部の経済部への改組に伴う人事異動も行われた。共産主義青年同盟(コムソモール)第一書記も交代した。しかし、それらはいずれもお膝元のモスクワでの動きだった。中央委員会での党アパラチキの過半数(選出時83人)を占める地方党幹部(市、州・地方などの第一、第二書記)の人事は、ほとんど手つかずのままだった。ブレジネフの“別荘管理人”として故人と腐れ縁の深かったメドゥノフ・クラスノダール地方第一書記が、前述の通り、83年6月の中央委総会で「職務上の誤り」を理由に中央委員を解任されたほかは、欠員補充に伴う人事があっただけである。地方党組織の改選はいよいよ、それまで“聖域”だったチェルネンコの権力の土台を根元からゆさぶろうという作戦だ。
そのいわば“統一地方選挙”に備えて、アンドロポフはすでに“必勝の手”を打っていた。1つは4月にカビノトフ書記を、地方人事を主管する党中央委組織・党活動部長からはずしたことである。もう1つは7月に、チェルネンコを同じく総務部長の兼職から解いたことである。2人はともに1965年にそれぞれ部長になり、互いにタイアップしながら党内にブレジネフ人脈を築き上げた間柄だ。アンドロポフはこの2人の人事の実務から切り離しておいて、その上で“地方選挙”を通じてアンドロポフ派を大量に地方幹部として進出させようともくろんだのである。同年秋から84年1月にわたった下部党組織のアパラチキの一斉改選では、州・地方党委の第一書記157人のうち、前にもふれたように34人、それ以下の各級アパラチキの約30%が更新された。

政治局を改造
“地方選挙”で成果を上げたアンドロポフは、その年の暮れ、12月26,27の両日、84年度の経済発展計画」同国家予算を審議するため開かれた党中央委総会でいよいよ政治局人事に手を付けた。この総会でソロメンツェフ党統制委議長とウォロトニコフ・ロシア共和国首相が政治局員候補から正局員に、チェブリコフKGB議長が中央委員から政治局員候補にそれぞれ昇格した。またリガチョフ中央委組織・党活動部長が書記に選出された。
ソロメツェフは、1913年生まれ、カザフ共和国カラガンダ州やロストフ州第一書記を務めた後、1968年、党中央委書記・重工業部長に抜擢された。71年から政治局員候補ロシア・共和国首相、83年6月の中央委総会で故ベリシェ政治局員の職務を継承していた。堂々たる経歴の割に昇進が遅れたのは、フルシチョフ時代ブレジネフとライバル関係にあった故コズロフ政治局員・書記の系列にあったからだといわれる。
ウォロトニコフは1926年生まれの若手、クイブイシェフ州党委書記、同州ソビエト執行委議長、ヴォロネジ州第一書記、ロシア共和国第一副首相と順調に昇進してきたが、ブレジネフ晩年の79年、突然キューバ大使に飛ばされた。82年夏、クラスノダール地方第一書記の前出メドゥノフがKGBに検挙されたあと、同地方第一書記として帰国し、83年6月、政治局員候補に昇格してロシア共和国首相になった。アンドロポフ直系といってよい人物。
チェブリコフは1923年生まれで、ブレジネフの郷里ドニェプロペトロフスクの冶金大学を卒業し、同市党第一書記、同州党委第二書記を経て、67年、KGB要員管理局長、68年、KGB副議長、82年4月に同第一副議長、同年12月に同議長、上級大将になった。その出身からドニェプル派ともみられるが、ブレジネフ(1906年生まれ)とは年も離れており、一緒に働いた経験はない。67年にドニェプロペトロフスクから彼をKGBに呼び入れたのは、当時のアンドロポフ議長であり、むしろアンドロポフ系とみてよいであろう。この人事で政治局内のKGB関係者は、書記長、アリエフ第一副首相とともに3人になった。
またリガチョフは1920年生まれ、ノボシビルスクのコムソモール、ソビエト、党機関で働いた後、同州党第一書記になった。アンドロポフが党中央委社会主義諸国党部長をしていたころ、61年から65年にかけて党中央委に勤務し、緊密な関係を作ったという。その後トムスク州第一書記を経て83年4月、カビノトフに代わって中央委組織・党活動部長に登用され、同年秋から全国いっせいに行われた前記“地方選挙”キャンペーンを担当し、アンドロポフの基盤固めに貢献した。
中央委総会に続いて28,29の両日開かれた最高会議で明らかになった主な政治局員の序列は、書記長アンドロポフ(欠席)を除いて、つぎの通りであった。チーホノフ、チェルネンコ、グロムイコ、ウスチノフ、ゴルバチョフ、グリシン、ロマノフ、ウォロトニコフ(以下不詳)。この中ではゴルバチョフ書記の第5位への躍進ぶりがきわ立った。同書記は82年11月の最高会議で第12位、83年6月には第10位だったのだ。
アンドロポフは就任以来、これで3回目の中央委総会人事を通じて、着実に党内基盤を強化してきた。その結果、政治局員13人中4人(アリエフ、ロマノフ、ウォロトニコフ、ソロメンツェフ)がアンドロポフによって登用された人物で占められた。これに郷党の後輩、ゴルバチョフと自分自身を加えれば6人になった。また書記局内では、82年11月の定例総会で書記、その後中央委経済部長を兼ねたルイシコフ、ロマノフ(83年6月)にリガチョフを加えて3人がアンドロポフによる抜擢ということになり、ゴルバチョフと自分を合わせて11人中5人を自派で制することになった。アンドロポフはようやく党内基盤を固めたかにみえた(表6参照)。


*ヴィタリー・イワノヴィチ・ウォロトニコフ(ヴォロトニコフ、ボロトニコフ、ロシア語: Виталий Иванович Воротников、ラテン文字転写の例:Vitaly Ivanovich Vorotnikov, 1926年1月20日 - 2012年2月20日)は、ソビエト連邦の政治家。ロシア人。ミハイル・ゴルバチョフ時代初期にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国閣僚会議議長(首相)を務めた・・・1984年アンドロポフ死後もその地位を保ち、1985年、コンスタンティン・チェルネンコ書記長死後の政治局会議では、ゴルバチョフを支持した。ゴルバチョフ時代は一貫して保守派に近い穏健改革派の位置を維持した。ゴルバチョフの始めたペレストロイカが大規模な政治改革を伴うようになり、共産党と国家の一元化の観点から、ソ連を構成する各民族共和国の共産党指導者(党第一書記)は、最高会議幹部会議長を兼務することとなった。1988年ウォロトニコフもロシア共和国最高会議幹部会議長に就任した。旧来の最高会議を改組して人民代議員大会が創設されることになり、1990年選挙が実施、急進改革派のボリス・エリツィンが最高会議議長に就任し、政治的に失権した。2012年2月20日、モスクワで死去[1]。86歳没。

*ヴィクトル・ミハイロヴィチ・チェブリコフ(Виктор Михайлович Чебриков、Viktor Mikhailovich Chebrikov、1923年4月23日 - 1999年7月1日)は、ソビエト連邦の政治家。第6代ソ連国家保安委員会(KGB)議長。上級大将。ドニエプロペトロフスク出身。1944年から全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)党員。1950年ドニエプロペトロフスク冶金大学を卒業。ドニエプロペトロフスク市党第一書記、ドニエプロペトロフスク州党委員会第二書記を経て、1967年からKGBに勤務、要員管理局長に就任する。1968年ソ連KGB副議長。1981年セミョーン・ツヴィグン第一副議長、ツイネフ副議長とともにソ連共産党中央委員に選出される。1982年1月~12月ソ連KGB第一副議長。1982年12月から、ソ連KGB議長、上級大将となる。1983年党政治局員候補に選出。1985年~1989年党政治局員。レオニード・ブレジネフと同郷であったため、ドニエプル派との観測もされたが、1967年にKGBにチェブリコフを誘ったのが当時議長であったユーリ・アンドロポフであったことから、アンドロポフによる治安部門強化を意図した人事であったとされる。1988年から1989年、ソ連共産党中央委員会書記。

*サマーラ(ロシア語: Самара, Samara, サマラとも)は、ヴォルガ川東岸にあるロシア連邦の都市。1935年から1990年まではソ連共産党政治局員・副首相・ゴスプラン議長等を歴任した革命家ヴァレリヤン・クイビシェフに因んでクイビシェフ(Куйбышев, Kuybyshev)と呼ばれていた・・・独ソ戦時、クイビシェフはモスクワがドイツ軍に占領された場合のソ連の臨時首都候補に選ばれた。1941年10月にはソ連共産党幹部、政府機関、各国からの外交官、文化人などがスタッフとともにクイビシェフへ避難した[1]。ヨシフ・スターリンのための掩蔽壕も建設されたが、これが使用されることはなかった。クイビシェフは、ソ連有数の産業都市として赤軍の武器製造に大きな役割を果たした。独ソ戦の開始直後にはクイビシェフは戦闘機、火器、弾薬を前線に供給した。1941年11月7日の十月革命記念日にはクイビシェフの中心の広場で大パレードが挙行された。1942年3月5日、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」が、サムイル・サモスード指揮、ボリショイ劇場オーケストラの演奏で、クイビシェフ市のオペラ・バレエ劇場で初演されている。市の健康センター、および病院のほとんどは前線から送られてくる兵士のための病院と化し、ポーランド人部隊やチェコスロバキア人部隊がヴォルガの軍管区で結成された。クイビシェフ市民の多くも兵士となり前線へ出て行った。1943年夏までクイビシェフはソ連の臨時首都となっていたが、モスクワへのドイツ軍の脅威がなくなったため、同年首都機能はすべてモスクワへ戻されている。


1984年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上 1、チェルネンコ書記長(最高会議幹部会議長兼任)2、ソロコフ国防相代行(ウスチノフ国防相は病床=12月20日に死去(享年76歳)後任はソロコフが就任)3、チーホノフ首相 4、グロムイコ外相 5、グリシン政治局員 6、ゴルバチョフ政治局員 7、ロマノフ政治局員


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